当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

飛行第三戰隊

滋賀県東近江市に所在した八日市陸軍飛行場に隣接し飛行第三戰隊がありました。
兵営では後に飛行第七大隊が編成され、飛行第三戰隊が転出した後は第百四教育飛行聯隊(のち第四教育飛行隊)が編成、同飛行隊の転出後は飛行第二百四十四戰隊が移駐して来ます。

飛行第三戰隊は跳飛爆撃を修業し初陣のレイテ航空戦に挑みますが、初回の攻撃で1機を除いて全機未帰還となった悲運の航空戰隊として知られます。
八日市 飛行第三戦隊 イ 隊門(移設) 南西から(滋賀)
▲沖原神社境内に移設されている飛行第三戰隊の営門門柱

【探索日時】
平成24年12月27日





八日市陸軍飛行場周辺の施設配置
八日市陸軍飛行場は滋賀縣神崎郡八日市町、同御園村、蒲生郡中野村、同玉緒村(全て現、東近江市)に跨る地域にありました。
八日市陸軍飛行場 八日市陸軍飛行場(部分)着色(滋賀)
▲『大日本帝國陸地測量部地形圖 39 彦根近傍』
  昭和10(1935)年頃の八日市陸軍飛行場周辺

八日市陸軍飛行場 八日市陸軍飛行場(全体図・現在)初期(滋賀)
▲竣工時の範囲
① 八日市陸軍飛行場
② 航空第三大隊
③ 大津衛戍病院八日市分院
④ 警戒線(飛行に支障のある構築物の禁止)
⑤ 大津憲兵分隊八日市分遣所

八日市陸軍飛行場 八日市陸軍飛行場(全体図・現在)最終時(滋賀)
▲最終時の施設を現在の地図に転写
① 八日市陸軍飛行場 (紫:発足当時赤:最終時
② 飛行第三戰隊
③ 八日市偕行社
④ 各務原陸軍航空支廠 八日市分廠
⑤ 陸軍気象部 八日市観測所

⑥ 第八航空教育隊
⑦ 八日市陸軍病院
⑧ 八日市憲兵分遣隊
⑨ 高射砲陣地 ?
⑩ 平林陸軍射撃場
名称は昭和16(1941)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
② 飛行第三戰隊
大正4(1915)年6月、八日市町による飛行学校設立計画とともに、我が国初の民間飛行場である沖野ヶ原飛行場が竣工しますが、技術者の不足、運営資金の欠如から飛行学校設立計画は中止され、飛行場の運用も頓挫します。

大正6(1918)年11月14~17日、滋賀・岐阜県下で行われた特別大演習において沖野ヶ原飛行場が飛行機不時着場に指定されたのを機に八日市町は陸軍省等に飛行場運用の陳情を重ねるなか、大正7(1918)年4月末、陸軍省は航空第三大隊の新設を決定し、滋賀県に用地500,000坪の準備を打診、森正隆知事は関係2郡(神埼、蒲生)、4町村(八日市、御園、中野、玉緒)に用地、及び必要経費の分担を提示します。

5月1日、陸軍省は八日市町に航空第三大隊の設置を内定、大正8(1920)年5月、第十六師團経理部は兵営の不足分用地の買収を開始、大正9(1921)年3月、滋賀県による用地買収が完了し陸軍省に献納され、6月1日、滋賀県庁主催により陸軍、貴族・衆議院議員、県郡市町村関係者500名が参列し地鎮祭が斎行、飛行場の拡張、兵営建設が開始されます。

大正10(1922)年3月、大隊本部、兵舎が竣工、27日、航空第三大隊先発隊25名、11月、全設備の竣工に伴い、7日、大隊主力が地域住民の歓呼のなか各務原より移駐、大正11(1922)年1月11日、航空第三大隊の開隊式が挙行され、4月、沖野ヶ原飛行場を包含した八日市陸軍飛行場が竣工します。
八日市 飛行第三戦隊 飛行第三戰隊兵営(滋賀)
▲飛行第三大隊兵営(西側上空から)

7月28日、航空第三大隊は飛行第三大隊に改称、大正14(1926)年5月1日、飛行第三聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年9月9日、飛行第三聯隊において飛行第七大隊が動員され、支那事変に出征します。

昭和13(1938)年7月1日、兵営内東側に各務原陸軍航空支廠八日市分廠が設置され、8月31日、飛行第三聯隊は飛行第三戰隊に改編されます。

昭和17(1942)年3月中旬、飛行第三戰隊は八戸陸軍飛行場に移駐、4月30日、兵営において第百四教育飛行聯隊が編成され、昭和19(1944)年2月25日、第四教育飛行隊に改編されます。

8月下旬、北伊勢陸軍飛行場から飛行第七十一戰隊が移駐、9月21日、小月陸軍飛行場に移駐します。

昭和20(1945)年3月7日、第四教育飛行隊の空中勤務者が、11日、地上勤務者が兒玉陸軍飛行場(埼玉)に移駐、7月18日、飛行第二百四十四戰隊が小牧陸軍飛行場から移駐、中部・近畿地区の防空にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
8月30日、飛二百四十四の復員式が挙行され、31日、復員完結、同日、戰隊は飛行場監視隊を編成し飛行場管理を開始、事後残務整理及び逐次復員が開始されます。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により陸海軍施設は大蔵省に移管されます。

10月4日、米第136歩兵連隊が大津海軍水上機基地(大津市)に進駐し、滋賀県下の軍事施設に分駐し軍需品の接収を開始、10月末、八日市陸軍飛行場はゴールキー大尉以下の米軍により接収され、昭和21(1946)年2月、飛行機224機、兵器弾薬軍需品が焼却され、被服類は大津に搬送されます。
接収品の処理が終了した八日市陸軍飛行場は接収解除され大蔵省に返還後、居住区は八日市町に払い下げられたと思われますが、経緯は不明です。

本部庁舎、兵舎は八日市、蒲生中学校の校舎、格納庫は高知、下関の魚市場、戦闘指揮所は八日市郵便局分室等として移築、将校集会所に愛知川水利組合、気象観測所は引揚者住宅等に転用、滑走面は農林省に移管され引揚者、空襲罹災者を開拓民として1戸あたり3反まで払下げられ農地として開墾されます。
昭和40(1965)年2月、八日市市の企業誘致により兵営跡地にタキロン化学㈱八日市工場等が進出し現在に至ります。
八日市 飛行第三戦隊 八日市陸軍飛行場(現在)(滋賀)
▲遺構の配置

ア 沖原神社 社殿
大正10(1922)年、初代大隊長・後藤元治砲中佐により皇大神宮(伊勢神宮)から御霊を奉じ、衛戍神社として創建され、昭和2(1927)年、沖原神社と改名します。
大東亜戦争停戦後、荒廃しますが、飛行場跡地に入植した方々により復興されました。
社殿は“陸軍時代の物”と言われていますが、『八日市の歴史』には「沖原神社も拝殿は寺町の天神神社に移され、みこし庫は神田町の河桁御河辺神社へ、みこしは八日市町の皇美麻神社へとそれぞれ移された。」とあり、どうも戦後に再建された物の様です。
八日市 飛行第三戦隊 ア 沖原神社 本殿(滋賀)
▲沖原神社 社殿

以下「あ 慰霊碑」まで沖原神社境内にあります。
手水鉢
大正九年兵 退營記念の刻字があります。
八日市 飛行第三戦隊 ア 沖原神社 手水鉢(滋賀)

灯籠
大正14(1926)年4月3日、奉献されました。
左側は創建者の後藤元治砲大佐、愛知郡高野の上田源左衛門氏、右側は大正9~13年兵の刻字があります。
八日市 飛行第三戦隊 ア 沖原神社 拝殿(滋賀)

敬神尊祖是國基 碑
大正13(1925)年1月26日、摂政皇太子殿下(昭和天皇)の御婚儀を記念し、飛行第三大隊、蒲生・神崎・愛知郡により建立されました。
八日市 飛行第三戦隊 ア 沖原神社拝殿北側の石碑「敬神尊祖是國基」(滋賀)

拝殿内の絵画
敵の対空砲火を突破する飛行第三戰隊の九九双軽、及び戰隊が修業した跳飛爆撃に成功した勇姿が描かれています。
せめて絵の中だけでも、との思いが感じられます。
八日市 飛行第三戦隊 ア 沖原神社拝殿内の九九双軽の絵(滋賀)


イ 営門門柱
沖原神社境内に移設されています。
八日市 飛行第三戦隊 イ 隊門(移設) 北東から(滋賀)
▲当時の写真(下掲)を見ると門柱は3ないし4本あった様ですが、
  移設されたのはその内の2本だけです。

八日市 飛行第三戦隊 イ 隊門(移設) 北西側(滋賀)
▲門柱近影
  煉瓦に飾り石を嵌め込んだ凝った意匠をしています。

八日市 飛行第三戦隊 イ 隊門(移設) 南東側 蝶番(滋賀)
▲門扉の一部が遺されています。


ウ 境界石標
沖原神社境内に移設されています。
元々どこにあった物かは不明です。
八日市 飛行第三戦隊 ウ 「陸」(移設)(滋賀)
▲正面に「陸」、頂部に方向の表示線があります。
  移設の際に地中部分を埋めるのが大変だったのかして
  かなりの部分が露出したままです。


あ 慰霊碑
沖原神社境内にあり、八日市陸軍飛行場に所在した部隊の戦歿、殉職者の追悼、偉勲を顕彰すべく戦友会、地元有志により、昭和56(1981)年10月24日、建立されました。
揮毫は大東亜戦争開戦劈頭に馬来方面の航空作戦を指揮、末期には陸軍航空特攻戦を指揮した事で知られる菅原道大中将です。
八日市 飛行第三戦隊 あ 慰霊碑(滋賀)


い 陸軍飛行第三聨隊跡 碑
滋賀日産の敷地隅にあります。
八日市 飛行第三戦隊 い 「陸軍飛行第三聨隊跡」碑(滋賀)


う 飛行第三聯隊正門跡地 碑
ローソン東近江東沖野三丁目店の駐車場隅にあります。
先に紹介した営門門柱は元々この位置にありました。
八日市 飛行第三戦隊 う 「飛行第三聯隊正門跡地」碑と隊門跡(滋賀)
▲現在の様子

八日市 飛行第三戦隊 飛行第三戰隊営門(滋賀)
▲当時の様子


③ 八日市偕行社
設立時期は不明ですが、昭和16(1941)年2月9日、飛行第三戰隊に隣接し第八航空教育隊が移駐、将校が増加した頃では無いでしょうか?
大東亜戦争停戦に伴い大蔵省に移管されたと思われますが、詳細不明です。
昭和24(1949)年、建物は撤去され神愛高等学校八日市校舎の農場になり、その後、近江鉄道のバス車庫、さらに現在はパチンコ屋、ガソリンスタンが併設されており、遺構は何も遺されていな様です。


④ 各務原陸軍航空支廠 八日市分廠
昭和12(1937)年7月1日、各務原陸軍航空支廠 八日市分廠として設置され、昭和14(1938)年8月1日、陸軍航空廠各務原支廠 八日市分廠と改称、昭和16(1941)年6月1日、各務原陸軍航空支廠 八日市分廠に復称、昭和16(1941)年8月1日、大阪陸軍航空支廠に移管され、昭和17(1942)年10月15日、大阪陸軍航空支廠は大阪陸軍航空廠に改編され、大阪陸軍航空廠 八日市分廠に改称し、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。

八日市分廠はタキロンの工場に包含され、遺構は何も遺されていない様です。


⑤ 陸軍気象部 八日市観測所
昭和13(1938)年4月9日、勅令第二四十號『陸軍氣象部令』が公布、11日、東京府東京市牛込区若松町の陸軍砲工學校内において陸軍氣象部が発足、事務を開始します。
同部は11月から各地に気象観測所の設置を開始しますが、八日市観測所の設置時期は不明です。
昭和19(1944)年5月13日、陸達第三十六號により『氣象部支部業務規定』が定められ、15日より施行され、八日市観測所は新設された陸軍氣象部岐阜支部隷下に編入されます。

現在はマンションなっており、遺構は遺されていない様です。


留魂
京セラ㈱滋賀蒲生工場の正門前にあります。
当時、この長谷野一帯は八日市陸軍飛行場の爆撃演習空域に指定されており、昭和18(1943)年12月27日、演習中に引地尚志、市川兼二両少尉が搭乗の機体が墜落、両少尉は殉職してしまいます。
両少尉を慰霊すべく同月、第九十二期召集尉官、陸士第五十六期生により建立されました。
戦後、碑は草木に埋もれ荒れていましたが、平成14(2002)年8月、周辺整備事業に伴い現在地に移築、整備されました。
八日市 飛行第三戦隊 留魂碑(滋賀)
▲上部のみが当時の物、下部は整備の際に新造された物の様です。


木造建物 (移築)
戦闘指揮所と言われ、近世城郭の走りとなった安土城の北麓、安土匠の里に移築されています。
前述した様に『今、語らなければ 八日市市平和祈念展の記録』によると戦闘指揮所は「八日市郵便局分室として移築され、同室閉鎖のち解体、地元の収集家が購入しますが、入院中に引き取られ焼却された」となっていますが、モラロジー淡海研究所が引き取り移築、同所閉鎖後は施設を引き継いだ安土匠の里により使用されていた様ですが詳細は不明です。
安土匠の里関係者によると八日市陸軍飛行場から移築された建物には間違い無い様ですが、元々何に使用されていたかは不明な様です。
現在は老朽化が進み状態は非常に悪いです。
八日市 飛行第三戦隊 戦闘指揮所 正面(滋賀)
▲正面
  大きさからして戦闘指揮所と言うより兵舎の様です。

八日市 飛行第三戦隊 戦闘指揮所 玄関周り(滋賀)
▲玄関周り
  現在は閉鎖されています。

八日市 飛行第三戦隊 戦闘指揮所 内部(滋賀)
▲内部
  ボロボロで解体は時間の問題かと・・・(゜Д゜;)

八日市 飛行第三戦隊 戦闘指揮所 左側(滋賀)
▲左前から
  歪な形をしています。

八日市 飛行第三戦隊 戦闘指揮所 左側 (2)(滋賀)
▲左側


所在部隊
飛行第三戰隊(中部第九十三部隊、誠一八九六七)
大正7(1918)年5月29日、陸軍省は『大正七年軍備充實要領』、同『細則』を制定し航空第三大隊の新設を決定します。
大正9(1920)年12月1日、航空第一大隊内(各務原)において航空第三大隊第一中隊が編成され事務を開始、大正10(1922)年3月27日、神崎郡御園村の兵営がほぼ完成したため青木中尉以下25名が先発隊として移駐、11月、全設備の竣工に伴い、7日、大隊(後藤元治砲中佐)主力150名が地域住民の歓呼のなか移駐、大正11(1922)年1月11日、航空第三大隊の開隊式が挙行されます。
7月28日、航空第三大隊は飛行第三大隊に改称、大正12(1923)年1月、第二中隊、大正13(1924)年1月、第三中隊が編成され編成完結(戦闘機3個中隊、甲式三型・四型)し、第十六師團(山田良之助中将、京都)隷下に編入されます。

大正14(1926)年5月1日、飛行第三聯隊(林正木中佐)に改編(戦闘機2個中隊、偵察機1個中隊)され、昭和2(1927)年5月7日、軍令陸乙第十號 『陸軍平時編制』改正により戦闘機3個中隊に改編されます。

昭和7(1932)年3月1日、滿洲國建国に伴い關東軍飛行隊の編制が改正される事になり、聯隊(鈴木彦象中佐)から戦闘機1個中隊分(甲式4、九一式4)が抽出され飛行第十一大隊第三中隊に充当、聯隊は偵察3個中隊に改編されます。

昭和11(1936)年5月30日、軍令陸乙第十九號『軍備改變要領』により航空兵團司令部(徳川好敏少将)が編成され、7月29日、軍令陸第十三號『師團司令部条例中改正』により聯隊(東榮治中佐)は第十六師團から第一飛行團司令部(嵯峨徹二少将、岐阜)に隷属転移します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、我が政府は事変収拾のため「北支派兵二關スル政府聲明」を発表、7月11日、軍令陸甲第六號『支那駐屯軍、航空兵團司令部、留守航空兵團司令部臨時動員要領及ビ細則』により、動員令を用いることなく支那駐屯軍、航空兵團司令部は現態勢のままで動員が完結します。

7月15日、留守航空兵團司令部(堀丈夫中将)、臨時航空兵團(徳川好敏少将)が編成、26日、臨時航空兵團は支那駐屯軍(香月清司中将)隷下に編入され、北支展開の準備段階として滿洲に移駐、司令部を新京に設置し隷下飛行部隊を奉天、山海関、大連間の地区に展開しました。

9月1日、聯隊に動第六號(追加動員)動員下令、9日、動員完結、第一・第三中隊を基幹として飛行第七大隊(中手元量大佐、偵察・爆撃)を編成し中支に派遣、第二中隊を基幹として留守飛行第三聯隊を編成し臨時航空兵團の補充にあたります。

昭和13(1938)年6月4日、軍令陸第十號『飛行集團司令部令』に基づき、10日、内地、朝鮮、台湾の航空部隊を統率する留守航空兵團司令部を改編し第一飛行集團(牧野正迪中将、東京)が編成され、8月31日、留守飛行第三聯隊は飛行第三戰隊(東榮次大佐、軽爆1個中隊・練習部1隊)に改編されます。

昭和14(1939)年6月7日、軍令陸甲第十九號『陸軍航空部隊編制』により軽爆1個中隊が練習部(計2隊)及び飛行場大隊に改編、引き続き在滿の飛行第十六・二十七・三十一・四十五戰隊、第十八・九十三・九十七飛行場大隊、在支の飛行第七十五・九十戰隊、第三十五・九十一飛行場大隊の補充を担当します。

昭和15(1940)年7月17日、軍令陸甲第二十五號『陸軍航空部隊編制』により戰隊は第百二教育飛行團司令部(加藤尹義少将、岐阜)に配属され2個軽爆練習中隊を2個教育軽爆中隊に改編し1個軽爆中隊を新編、昭和17年4月に教育軽爆中隊を軽爆中隊に改編し、飛行第二戰隊より司偵1個中隊を編入し樺太への転営が予定され、引き続き飛行第六・十六・二十七・三十一・四十五戰隊、第三十七・四十七・九十三・九十七飛行場大隊の補充を担当します。

昭和17(1942)年3月中旬、戰隊(志方光之大佐)は北辺鎮護のため八戸陸軍飛行場に移駐、6月5日、第五十一教育飛行師團(4月13日、第一飛行集團から改編)から第一航空軍司令部(安田武雄中将、札幌)に隷属転移、獨立第二十飛行團司令部(原田宇一郎少将、樺太落合)編合に編入されます。
6月中旬、戰隊の空中勤務者は九九双軽27機とともに樺太・大谷陸軍飛行場に移駐、13日、地上勤務者は八戸を出発、17日、樺太大泊港に上陸、19日、大谷に集結完了します。
※飛行第三戰隊の分科は「軽爆・偵察」となっていますが、同戰隊の公式史が無いため詳細は不明なもののレイテ決戦時の第三中隊長・難波享一中尉の手記によると八日市を出発したのは「九九双軽3個中隊27機」となっており司偵は編制に無かった様です。

昭和18(1943)年1月9日、軍令陸甲第三號により獨立第二十飛行團司令部は第一飛行師團司令部に改編下令、16日、編成完結、戰隊(鈴木京中佐)は第一飛行師團隷下に新編された第二十飛行團司令部(下田龍榮門少将)に編入されます。

昭和19(1944)年3月から4月、戰隊(木村修一中佐)は占守島・三芳野陸軍飛行場に移駐しますが、6月10日、比島航空戦力増強のため大陸命第千二十三號により第八飛行師團(山本健児少将、台北)が新編、26日、大陸命第千四十一號により第一飛行師團は第二十五飛行團司令部(福澤丈夫中佐)を編成、戰隊(木村修一中佐)は同飛行團に編入され第八飛行師團に隷属転移、三芳野を出発し新田原陸軍飛行場を経由し沖縄本島中陸軍飛行場に移駐し、船団の対潜警戒、及び比島航空戦に備え錬成にあたります。

沖縄において戰隊は跳飛爆撃の巡回教育にあたる航空審査部・竹下福壽少佐、鉾田教導飛行師團・岩本益臣大尉から講習を受け、那覇沖の沈船を標的にした跳飛爆撃の錬成を開始、さらに敵対空砲火を突破すべく日没30分後、及び日の出30分前の5分間に上空からは敵艦が視認できるも艦上からは機影が識別できない天与の一瞬があることを発見、中隊単位での夜間航法・編隊爆撃を訓練し、機動する海軍艦隊を標的にした総合的演習を行うまでに練度が向上します。

10月8日、戰隊は一部を残置(昭和19年10月1日、沖縄残置の渡邊萬一准尉以下76名は飛行第三戰隊沖縄派遣隊を編成、特設第一聯隊(青柳時香中佐)に編入され嘉手納付近の米軍上陸正面の守備にあたるも、昭和20年4月1日、敵上陸とともに包囲され、全員斬り込みを敢行し生存者は本島北部地区を転戦し停戦を迎えます)し台湾・臺中陸軍飛行場に移駐、17日、台湾各地が敵機動部隊の艦載機による空襲を受け、同日、米軍(D.マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、10月18日、大本營は米軍の本格的進攻と判断し、捷一號作戰を発動します。
同日午後、大陸命第千八十一號(7月24日)に基づく大陸指第二千百七十六號(9月22日) により第一次転用部隊に指定されていた戰隊(九九双軽24機)は臺中を出発、クラーク飛行場群に移駐し第三飛行團(長濱秀明大佐)指揮下に編入され、21日、リパ飛行場に前進し、パナイ島への二十粍弾薬緊急輸送にあたります。

22日、第四航空軍(富永恭次中将、バコロド)より第一次航空總攻撃(作戦主任参謀・佐藤勝雄中佐起案)が同中佐、前作戦主任参謀・石川泰知中佐より各隷下・指揮下部隊に下達、リパには石川中佐が来着します。

23日、戰隊と同行し制空にあたる第十二飛行團(川原八郎大佐、飛行第一・十一・二十二戰隊)の四式戦16機、第三飛行團長・長濱大佐、飛三と共同作戦予定(戦力回復中)だった飛七十五戦隊長・土井勤中佐がリパ飛行場に到着し、石川中佐より作戦説明が行われ、戰隊は第一撃:リパ-レイテ湾-タリサイ補給、第二撃:タリサイ-レイテ湾-リパ、第三撃:リパ-レイテ湾-リパを任務とされますが、第一撃攻撃時間は作戦全般の都合により天与の一瞬では無く日の出後の0820に指定され、援護は制空方式(直掩では無く、戦闘機は先発し40分にわたり作戦空域を制空)となります。

24日朝、石川中佐は敵情偵察のため百偵を操縦しシライ飛行場を発進(未帰還)、0600、長濱大佐訓示の後、戰隊長・木村中佐以下90余名(往復攻撃のため整備兵同乗のため)は九九双軽24機に搭乗、発進を開始しますが、戰隊長搭乗の第一中隊長機(飯塚健大尉)が泥穴に嵌り主脚を損傷したため二番機に乗り換え、さらに乗り換え作業中に戰隊航法主任・納所達至中尉がプロペラに接触し負傷、第三中隊長機(難波享一中尉)も発動機不調により後続の加藤高之伍長機と交換する等で発進は20分遅延してしまい、その間に敵機来襲を警戒した第十二飛行團の四式戦16機(川原大佐直卒)は離陸、飛三は雲下を進撃したと誤認し先発してしまいます。

0630、飛三の九九双軽22機はリパ上空で編隊を組み南下を開始しますが、第三中隊長機はまたも発動機不調のため引き返し(中隊長代理・小松國雄中尉)、同じく発動機不調で引き返した佐藤辰次曹長機はリパ上空で敵艦載機に撃墜され散華してしまいます。

0730、第十二飛行團、第十六飛行團(新藤常右衛門中佐、デルカメロン発の飛五十一・五十二)の四式戦20機はレイテ湾に到達し制空にあたりますが敵影は無く、サラビア、マナブラ両飛行場に帰還、0820、第六飛行團(小野門之助大佐、サラビア、バゴロド発の飛六十五・六十六)の九九襲8機がレイテ湾に到達しリバティ船1隻を撃破するも3機を失ってしまいます。
続いて飛行第三戰隊の九九双軽20機がレイテ湾に到達、爆撃高度に降下を開始したところ、敵直掩機15機の襲撃を受けたため雲間に入り離脱を図りますが鈍重・低速な九九双軽は次々に捕捉され、機位を失い引き返した山口軍曹機を除き敵艦到達を目前に戰隊長・木村中佐、第一中隊長・飯塚大尉、第二中隊長・高木茂夫大尉、第三中隊長代理・小松中尉以下19機が未帰還になってしまいます。
八日市 飛行第三戦隊 木村修一中佐(滋賀)
▲第4代・飛行第三戦隊長 木村修一中佐(陸士37)

同日午後、第三中隊長・難波大尉は加藤伍長機を率いリパ飛行場を発進、レイテ湾に達しますが戦果は無く、加藤伍長機は撃墜され、難波機は被弾のため主脚が出ずタリサイ飛行場に胴体着陸し生還します。

機材の全て、戰隊長以下空中勤務者の殆どを失った戰隊は沖縄、台湾から追求してきた3機が第七十五戰隊(土井中佐)指揮下に編入され、11月3日まで夜間少数機により敵輸送船攻撃を実施しますが、4日、敵艦載機の空襲により可動機が払底してしまったため、第八飛行師團(山本健児中将)に復帰し、20日、所澤陸軍飛行場に帰還し戦力回復にあたり、12月上旬、キ一〇二乙(襲撃機)に改編し編成完結します。

昭和20(1945)年2月10日、第九飛行團司令部(柳本榮喜大佐)が第八飛行師團隷下に編入され、戰隊は同團に配属されます。
4月8日、大陸命第千二百九十八號により第一航空軍(安田武雄中将)の編組が解かれ戦闘序列が発令、戰隊は同軍戦闘序列に編入され、6月、能代陸軍飛行場に移駐、7月10日、新編された第二十六飛行團(高品朋少将)に配属され決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
8月20日、整備員も含め決別飛行を実施、24日、全機のプロペラを外し整列、決別式を挙行、25日、復員が下令され、9月1日、復員完結します。


飛行第七大隊
飛行第七十五戰隊
(輝二三七九)
昭和12(1937)年9月1日、飛行第三聯隊に動員下令、9日、第一・第三中隊を基幹として飛行第七大隊(中手元量大佐、偵察・爆撃)が動員され、臨時航空兵團(徳川好敏少将)に編入され、9月中旬、八日市を出発し、天津飛行場に集結、支那駐屯軍(香月清司中将、8月31日、第一軍に改編)の済南攻略、大運河後面攻勢に協力します。

昭和13(1938)年8月1日、北京飛行場において飛行第七十五戰隊(秋山豐次大佐)に改編(軽爆2個中隊)、第三飛行團(菅原道大少将)に配属され第十一軍の漢口作戰、宜昌作戰に協力するとともに敵飛行場爆撃にあたります。

昭和15(1940)年9月、武昌飛行場に移駐、支那派遣軍の浙東作戰、支那奥地進攻(第四次)、百二號作戰(重慶爆撃)に参加し敵軍事施設を爆撃します。

昭和16(1941)年12月1月、武昌を出発、3日、ハノイを経由し、5日、南部仏印・コンポントラッシュ飛行場に前進、第二十五軍(山下奉文中将)のE作戰(馬来作戰:マレー攻略戦)に協力、15日、馬来・スンゲイパタニ飛行場に前進し地上部隊のシンガポール攻略戦を支援します。

昭和17(1942)年2月21日、スマトラ島パレンバン飛行場に移駐、第十六軍(今村均中将)のH作戰(ジャワ攻略作戦)に協力、3月2日、ジャワ島カリジャチ飛行場に前進し蘭軍の籠るバンドン要塞攻略戦を支援、8日、蘭豪米軍の降伏に伴い、18日、バンドン飛行場に移駐します。
昭和18(1943)年11月、セラム島アマハイ飛行場に移駐、ハルマヘラ島-西部ニューギニア沿岸の哨戒及び船団援護にあたります。

昭和19(1944)年3月、西部ニューギニア・ホランジア飛行場に移駐、マダン、ウエワク方面の作戦に参加後、アマハイに帰還し西部ニューギニアの作戦に参加しますが、可動機が払底してしまったため、9月、セレベス島アンペシア飛行場に転進し戦力回復にあたり、10月、ボルネオ島サンダカン飛行場に移駐します。
12月、ルソン島リパ飛行場に前進、レイテ島周辺の敵船団攻撃にあたりますが大損害を受け可動機が払底してしまったため、昭和20(1945)年1月上旬、ツゲガラオ飛行場群に転進集結、1月下旬、台湾に移駐、3月、鉾田陸軍飛行場に集結しキ一〇二乙(襲撃機)に機種改編、4月8日、第一航空軍(安田武雄中将)戦闘序列に編入され、八戸陸軍飛行場に移駐し決號作戰(本土決戦)に備え錬成にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。


中部軍直協飛行隊(中部第百二十六)
獨立飛行第四十三中隊(誠一九一〇八)
昭和17(1942)年8月7日、軍令陸甲第三十一號により編成下令、10日、帯広陸軍飛行場において編成完結(井出寛大尉、九八直協6機)し、第一航空軍(安田武雄中将)隷下、中部軍(藤井洋治中将、大阪)指揮下に編入されます。
14日、帯広を出発、17日、八日市陸軍飛行場(兵舎は旧京都陸軍病院八日市分院)に移駐します。

昭和19(1944)年2月27日、八戸陸軍飛行場に移駐、8月24日、八戸を出発、25日、計根別(北海道)、30日、東雲原陸軍飛行場(得撫島)に移駐、9月25日、東雲原を出発、26日、八戸に帰還します。
10月1日、八戸を出発、8日、恒春陸軍飛行場(台湾南端)に移駐し第八飛行師團(山本健児中将)に隷属転移、台湾及び南西諸島防衛戦に参加します。
30日、軍令陸甲第百三十六號(10月11日)により中部軍直協飛行隊は獨立飛行第四十三中隊(井出寛少佐)に改編、編成改正され、対潜哨戒にあたります。

昭和20(1945)年1月17日、寳安飛行場(南支)に移駐、3月27日、樹林口飛行場に移駐、天一號作戰に参加、飛行第八師團指揮の特攻機誘導にあたります。
5月27日、宜蘭陸軍飛行場(台湾)に移駐、昭和二十年度第一期航空作戦にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第百四教育飛行聯隊(中部第九十四部隊)
第四教育飛行隊(紺五三一)
昭和17(1942)年4月30日、飛行第三戰隊の転出した御園村兵営において編成(椙村隆義中佐、3個軽爆中隊・1個飛行場大隊)、第五十一教育飛行師團(安部定中将、岐阜)隷下の第百二教育飛行團(神谷正男大佐)に配属されます。
聯隊は少年飛行兵 第十二期、同第十三期生に対し九九式襲撃機、一式双発高等練習機による軽爆戦技教育を実施します。
また、台湾へ2回、フィリピンへ1回作戦空輸を実施し、二式複戦6機により八日市臨時防空戰鬭隊を編成し阪神地区の防空にあたります。

昭和19(1944)年2月25日、第百四教育飛行聯隊は第四教育飛行隊に改編、第百一教育飛行團(志方光之少将、岐阜)に配属され、少年飛行兵 第十四期・同十五期、航空士官學校 第五十八期生に対し軽爆戦技基本教育を実施します。

昭和20(1945)年2月13日、軍令陸甲第二十七號により第百二教育飛行團及び熊谷陸軍飛行學校は第五十二航空師團(山中繁茂中将)に改編、第四教育飛行隊は同師團に隷属転移し、3月7日、空中勤務者、11日、地上勤務者が夫々兒玉陸軍飛行場(埼玉)に移駐します。
5月6日、少尉候補生48名・一式双練36機を抽出し第二百九十九~第三百四振武隊を編成、6月27日、第二百九十九、第三百、第三百三、第三百四振武隊は大刀洗陸軍飛行場に前進、第三百一、第三百二振武隊は兒玉において待命中に8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、29日、復員完結します。


飛行第七十一戰隊
※『北伊勢陸軍飛行場』参照


飛行第二百四十四戰隊(帥三四二三一)
昭和16(1941)年7月20日、航空士官學校に関東地区の防空部隊として飛行第百四十四戰隊の編成下令、27日、編成完結(泊重愛少佐、九七式戦闘機19機)、9月、調布陸軍飛行場に移駐し、第十七飛行團(中西良介少将)隷下に編入されます。
12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年4月15日、飛行第百四十四戰隊は飛行第二百四十四戰隊に改称、18日、米空母ホーネットを発艦したB25爆撃機が東京に来襲(ドーリットル空襲)、哨戒・追撃にあたりますが会敵できませんでした。
九七戦では防空能力不足なため、二式単戦1個小隊を追加し宮城防衛の任務にあたり、12月、第三中隊を編成増強、昭和18(1943)年7月、三式戦に機種改変します。

昭和19(1944)年2月、中隊編制から飛行隊編制に改編(通称:つばくろ、とっぷう、みかづき各飛行隊)されます。
3月8日、全般の戦局は次第に逼迫し本土防空部隊の強化が図られ、第十七飛行團は第十飛行師團(吉田喜八郎少将)に改編、戰隊の夜間戦闘可能者も半数に達し練度も向上していましたが、三式戦の発動機不調に苦労します。

6月16日、支那・成都を発進したB29爆撃機75機が北九州に来襲、7月7日、我が国は絶対国防圏の要所・サイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥し敵の本土空襲が迫る一方、内地の防空部隊は相次いでフィリピン航空作戦のため相次いで転用されて行きます。
10月1日、第四飛行隊(そよかぜ)が編成されます。
11月1日、5日、7日、マリアナ諸島を発進したB29が東京に偵察のため来襲、戰隊は1個編隊により邀撃しますが、B29の巡航高度10,000mに達する事ができず攻撃できませんでした。

6日、第十飛行師團に八紘第四特別攻撃隊(護國隊)の編成下令、戰隊から川見勝少尉(沖縄に移動中殉職)、黒石川茂伍長(12月7日、オルモック湾の敵船団に突入し散華)が選抜され、17日、調布を出発します。

7日、師團長・吉田少将は隷下飛行戰隊に対し体当り専門部隊の編成を下令、戰隊では志願者から四宮徹中尉、吉田竹雄軍曹、阿部正、板垣正雄両伍長が選抜され「はがくれ隊」(震天隊、一式戦のち三式戦)と呼称、師團全部で防衛総司令官・東久邇宮稔彦王大将により「震天制空隊」と命名されます。
24日、B29爆撃機110機が中島飛行機㈱武蔵製作所に来襲、戰隊は師團隷下戰隊とともに邀撃し鷲見忠夫曹長が1機撃墜(師團計5機)しますが、副元幸夫軍曹が散華、震天隊は会敵できませんでした。
同日、震天隊の吉田軍曹、阿部伍長に替わり佐藤権之進准尉、中野松美伍長が任命されます。
28日、戦隊長に小林照彦大尉が着任、飛行隊を改編します。
12月3日、B29爆撃機86機が再び武蔵製作所に来襲、6機を撃墜(うち3機は四宮中尉、板垣伍長、中野伍長が体当り撃墜し、全員生還)します。

昭和19(1944)年12月1日、第十飛行師團に第一・第二振武隊(特別攻撃隊)の編成内示、四宮中尉、阿部伍長、角谷隆正少尉、伊藤賀夫少尉(のち結核のため原隊復帰)、井上忠彦少尉、小林龍曹長が選抜され、5日、壮行式の後、相模陸軍飛行場に移駐、飛七十選抜の林格少尉ら6名と第二振武隊(昭和20年2月2日、第十九振武隊として編成完結、4月29日、5月4日、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華)を編成します。
12月5日、震天隊は高山正一少尉、丹下充之少尉、佐藤准尉、遠藤長三伍長に編成替えされます。

12月13日、B29爆撃機70機が名古屋に来襲、戰隊は邀撃にあたり1機を撃破、19日、戰隊は震天隊を残置し、中部地区防空のため濱松陸軍飛行場に移駐し調布との間を機動しつつ、22日、B29爆撃機100機が名古屋に来襲、戰隊は第十一飛行師團(北島熊男大佐、大阪)とともに邀撃にあたり2機を撃墜、1機を撃破、27日、B29爆撃機72機が武蔵製作所に来襲、戰隊は邀撃にあたり2機を撃墜、4機を撃破しますが、畑井清刀伍長が散華、震天隊の吉田曹長もB29を体当りで撃墜した後散華してしまいます。

昭和20(1945)年1月3日、B29爆撃機90機が大阪を経て名古屋に来襲、戰隊は邀撃にあたり5機を撃墜、7機を撃破、戰隊を指揮した武田五郎大尉に東部軍司令官・藤江恵輔大将より表彰状が授与されます。

1月9日、B29爆撃機30機が帝都に来襲、戰隊は邀撃にあたり4機を撃墜、3機を撃破し、高山少尉、丹下少尉が体当りで2機を撃墜しますが、丹下少尉が散華してしまいます。

14日、B29爆撃機60機が名古屋に来襲、戰隊は邀撃にあたり1機を撃墜、4機を撃破、19日、B29爆撃機10機が陽動のため甲府、本隊が阪神地区に来襲、戰隊は邀撃にあたり2機を撃破しますが、内藤健五少尉が殉職(事故?)してしまいます。

23日、B29爆撃機70機が名古屋に来襲、戰隊は邀撃にあたり6機を撃墜、14機を撃破、27日、B29爆撃機70機が帝都に来襲、戰隊は邀撃にあたり6機を撃墜、3機を撃破、戰隊長・小林大尉、服部克己少尉、板垣、中野両軍曹、安藤伍長が体当りで3機を撃墜、田中四郎兵衛准尉は通常攻撃で1機を撃破、体当りで1機を撃墜しますが、服部少尉、高山少尉、安藤伍長が散華してしまいます。
震天隊は佐々木鐵雄少尉、瀬田克己少尉、板垣、中野両軍曹に編成替えされます。

2月10日、B29爆撃機90機が中島飛行機㈱太田製作所に来襲、戰隊は邀撃にあたり6機を撃墜、3機を撃破、梅原三郎伍長は体当りで1機を撃墜しますが散華、15日、B29爆撃機60機が東海地区に来襲、戰隊は邀撃にあたり5機を撃破します。

16日、初めて米艦載機が来襲、戰隊は濱松より出撃し、敵第二波以降5回に渡り迎撃にあたり、7機を撃墜、2機を撃破しますが、8機が未帰還、遠藤軍曹、釘田健一伍長、新垣安雄少尉、鈴木正一伍長が散華してしまいます(第十飛行師團全体で37機未帰還)。

同日夕、防衛総司令官・東久邇宮王大将は決號作戰(本土決戦)に向けた戦力温存を図るべく、飛二百四十四、飛四十七(震天隊を除く)を第六航空軍司令部(菅原道大中将)指揮下に編入、菅原中将は17日の敵艦載機来襲への迎撃を禁じ、同日、戰隊は退避のため那須野陸軍飛行場に移駐します。
19日、B29爆撃機90機が帝都に来襲、対大型機のため戰隊は邀撃にあたり戰隊長・小林大尉が2機を撃墜、他4機を撃破します。
3月10日、第六航空軍の福岡前進に伴い、戰隊は第三十戰闘飛行集團司令部(青木武三少将)指揮下に編入され、震天隊は復帰、戰隊は関東周辺に侵攻が予測される敵機動部隊に備えます。
19日、敵機動部隊接近の報に接し、第十八・十九両振武隊(第一・第二振武隊から改称)を援護し調布を発進、第四十七・五十一・五十二戰隊と合流し進撃しますが、会敵できず帰投します。

4月7日、戰隊は第十飛行師團に復帰、B29爆撃機90機が帝都西部に来襲、戰隊は邀撃にあたり5機を撃墜、4機を撃破、河野敬、古波津里英両少尉は体当りで夫々1機を撃墜しますが、河野少尉、前田滋少尉、松枝友信伍長が散華してしまいます。
この頃からB29にP51戦闘機が随伴して来出し苦戦します。
12日、B29爆撃機・P51戦闘機の連合100機が武蔵製作所に来襲、戰隊は邀撃にあたり1機を撃墜、13日夜間、B29爆撃機170機が帝都に来襲、戰隊は邀撃にあたり7機を撃墜、9機を撃破、15日、B29爆撃機170機が帝都に来襲、戰隊は邀撃にあたり14機を撃墜、7機を撃破します。
19日、P51戦闘機60機が関東地区に来襲、調布も機銃掃射を受け三式戦2、九七戦1機が地上撃破されてしまいます。
24日、B29爆撃機120機が立川に来襲、戰隊は邀撃にあたり4機を撃墜、13機を撃破します。

3月31日、航空總軍司令部(川邊正三大将)が臨時編成、4月8日、第三十戰闘飛行集團司令部は航空總軍戦闘序列に編入、4月15日、戰隊は第三十戰闘飛行集團司令部隷下に編入(5月12日隷属転移)されます。
23日、戰隊は五式戦に機種改変を開始、27日、井出達吉少尉が未修特殊飛行中に殉職、30日、戦爆連合100機が関東地区に来襲、戰隊は邀撃にあたり小川清少尉が散華してしまいます。
3月28日、第三十戰闘飛行集團司令部より戰隊に第百五十九・第百六十・第百六十一・第百六十二・第百六十三・第百六十四振武隊の編成が下令、4月26日、志願者から隊員が選抜され、戰隊の不要になった三式戦が充当されます。

5月12日、戰隊は知覧陸軍飛行場への前進を下命され、15日、第一總軍司令官・元帥杉山元大将より帝都防空戦における戦果を評し感状を授与、17日、調布を36機で出発しますが途中故障機が続出(青沼喜兵衛伍長が殉職)、18日、大刀洗陸軍飛行場、20日、都城西陸軍飛行場を経由し知覧に前進します。
25~27日、連日特攻隊援護にあたりますが、会敵はありませんでした。
6月2日、出撃中止直後にF4U戦闘機が来襲、機銃掃射を受け整備第一中隊の小倉飛光兵長、宮本浩一等兵が散華してしまいます。
3日、戰隊は上空待機しF4Uを邀撃、7機を撃墜しますが、山下巍、本多一夫、松本順二各軍曹が散華してしまいます。
6日、8日、11日、連日特攻隊援護にあたりますが、会敵はありませんでした。
22日、都城西陸軍飛行場より発進する第二十七・第百七十九振武隊の援護に第二飛行隊(竹田五郎大尉)が参加、知覧より離陸直後、北上したF4Fを追撃しますが、淺野二郎曹長、五百森秀一軍曹が散華してしまいます。
7月3日、知覧上空での戦闘訓練中、平井正見伍長が殉職してしまいます。

10日、航空總軍司令官は制號作戰(敵大型機に対する戦力集中邀撃)を発令、戰隊は機動防空戦闘兵力に部署され小牧陸軍飛行場への移駐を下命され知覧を出発、大刀洗、防府を経由し小牧に移駐、さらに八日市陸軍飛行場への移駐を下命され、15・16日、整備隊の一部を残置し八日市に移駐し中部地区の防空を担当する第十一飛行師團(北島熊雄中将、大正)指揮下に編入、移動中の7月15日、熊本上空において北川幸男曹長が敵艦載機の奇襲を受け散華してしまいます。

16日、P51戦闘機100機が東海地区の各飛行場に来襲、第一飛行隊(生野文介大尉)8機が演習名目で邀撃、潮岬南方海上において隊長・生野大尉、戸井巌曹長機が敵50機に包囲されてしまい、2機を撃墜するも戸井曹長が散華してしまいます。
生野大尉は撃墜されるも落下傘で脱出、着地の際に負傷してしまったため、以降の指揮は小原伝大尉が採ります。
事後、第十一飛行師團は制號作戰、決號作戰に備え戰隊の邀撃を禁止しますが、連日国土が敵機に蹂躙される様を看過する事はできず、25日、F6F戦闘機13機の来襲に際し再び演習名目で18機が邀撃、10機を撃墜、3機を撃破しますが、第一飛行隊長代理・小原大尉が敵機と衝突し、生田伸中尉が敵機追撃中に地面に接触し墜落、散華(第一飛行隊長は市川忠一大尉が代理に)してしまいます。
25日の邀撃は軍命違反のため第十一師團司令部より叱責されますが、戰隊の活躍が天聴に達し御嘉賞が下されるに及び不問に付されます。
8月14日、敵大型機接近の報により第二・第三飛行隊が邀撃、第三飛行隊は会敵出来ず帰還しますが、第二飛行隊は哨戒中に生駒山上空でP47戦闘機に奇襲を受け玉懸文彦曹長が散華してしまいます。
15日1200、戰隊隊員は全員整列し『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、30日、復員式を挙行、31日、復員完結、また戰隊幹部を基幹として八日市飛行場監視隊を編成、10月下旬、ゴールキー大尉以下の米軍に飛行場、施設、機材、軍需品等を引渡します。


第六飛行場中隊(隼魁九九三二)
昭和16(1941)年7月13日、飛行第三戰隊に臨時編成下令、18日、編成完結(大西俊太大尉)、19日、八日市を出発、20日、大阪港を出航、25日、大連に上陸、29日、満洲國北安省・嫩江飛行場に展開し、關東軍特種演習に参加、9月30日、嫩江を出発、10月3日、壺虜島を経由、15日、仏印・ハイフォンに上陸、同飛行場に展開します。
昭和17(1942)年8月2日、サイゴンを出発、10日、広東に到着、同飛行場に展開します。
昭和19(1944)年11月25日、広東を出発、海南島に上陸、海口飛行場に展開、昭和20(1945)年3月10日、海口を出発、11日、雷州半島西營に上陸、6月30日、遂渓を出発、7月30日、広東に展開、在地飛行部隊の支援にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第十二飛行場中隊(高九九三五)
昭和16(1941)年7月13日、飛行第三戰隊に臨時編成下令、18日、編成完結(吉川一朗大尉)、19日、八日市を出発、20日、大阪港を出航、25日、大連に上陸、27日、大連を列車にて出発、28日、新京に到着、29日、孫家に到着、8月15日、整備・警備両小隊の各1個分隊を孫家飛行場に派遣、20日、岡崎少尉以下の飛行場勤務隊を孫家に増派、27日、小澤少尉以下の飛行場勤務隊を平房飛行場に派遣します。
9月29日、隊主力は出発、10月2日、錦州省壺虜島に到着、6日、第五飛行場中隊とともに諏訪丸に乗船し、壺虜島を出航、11日、広東黄浦港に入港、13日、同港を出航、16日、仏印ハイフォンに上陸、ハノイ飛行場に展開、11月11日、老開派遣隊(伊藤少尉以下45名)をラオカイ飛行場に派遣します。
13日、主力はハノイを出発、14日、ツーラン飛行場に到着しますが、さらにサイゴンへの移駐を受命し、19日、3梯団に別れツーランを列車にて出発、22日、サイゴン飛行場に集結(25日、老開派遣隊が追求)、さらにプノンペンへの移駐を受命、29日、自動車にてプノンペン飛行場に集結し展開、12月31日、岡崎少尉以下30名をコンポントラッシュに派遣します。

昭和17(1942)年3月27日、中隊長・吉川大尉は飛行機にてドムアン飛行場に、中隊は上野少尉以下70名をプノンペン派遣隊として残置し2梯団に別れ列車、自動車にてプノンペンを出発、30日、ドムアンに集結、展開します。
7月25日、プノンペン派遣隊から小澤中尉以下を抽出、中隊主力からの人員を加えサイゴン飛行場に派遣します。
12月5日、プノンペン派遣隊はサイゴンに移駐、9日、隊主力、西貢派遣隊から伊藤少尉以下15名を抽出、ハノイに派遣します。
昭和18(1943)年10月17日、ハノイ派遣隊は西貢派遣隊に合流、28日、西貢派遣隊はプノンペンに移駐します。
昭和19(1944)年2月11日、八木少尉以下15名をフラテル飛行場に、5月6日、渡邊少尉以下12名をウボンに、12日、八木少尉以下30名をロップリー派遣します。
23日、プノンペン派遣隊は同地を出発、24日、列車にてドムアンに移駐し中隊に復帰、9月7日、渡邊中尉以下30名をペップリーに派遣、17日、ロップリー派遣隊、12月29日、ペップリー派遣隊は中隊に復帰します。
昭和20(1945)年1月23日、梶原少尉以下20名を再びロップリーに派遣、4月11日、ウボン派遣隊、5月8日、ロップリー派遣隊が中隊に復帰、飛行場警備、在地飛行隊の整備・補給にあたるなか、停戦を迎えます。


第三十一飛行場中隊(輝一五三四〇)
昭和18(1943)年11月26日、八日市陸軍飛行場において編成(宮原尚美中尉)、12月27日、宇品港を出航、昭和19(1944)年1月24日、ハルマヘラ島スペイムヒに上陸、29日、スペイムヒを出発、2月2日、アンボイナに上陸、3月20日、アンボイナを出航、26日、ケイ島ズラに上陸、4月8日、ズラ港を出航、トラガン島ドカに上陸、7月26日、ドカを出発、8月1日、ケイ島ラングールに上陸、豪北方面の航空作戦支援にあたるなか、停戦を迎えます。


第三十三飛行場中隊(輝九九三九)
昭和16(1941)年7月17日、八日市陸軍飛行場において編成(馬場平次大尉)、21日、宇品港を出航、25日、大連に上陸、30日、滿洲國海拉爾飛行場に展開、9月27日、海拉爾を出発、10月1日、錦州省壺虜島を出発、11日、サイゴンに上陸、同飛行場に展開します。
昭和17(1942)年1月23日、スマトラ島パレンバン飛行場に展開、25日、タンジュンカラン飛行場に移駐、4月3日、タンジュンカランを出発、5日、再びパレンバンに移駐、11月30日、パレンバンを出発、12月24日、ラバウルに移駐、昭和18(1943)年1月18日、ラバウルを出発、24日、ソロモン諸島ムンダに展開、3月18日、ラバウルに帰還、7月10日、ラバウルを出発、9月27日、ウエワクに到着、同飛行場に展開、在地飛行隊の整備・補給にあたるなか、停戦を迎えます。


第四十八飛行場中隊(威一五三七五)
昭和18(1943)年12月27日、軍令陸甲第百二十號により第百四教育飛行聯隊に編成下令、昭和19(1944)年2月27日、編成完結(森礼三少佐)します。
4月29日、八日市を出発、大阪港を出航し、5月11日、マニラを経由、27日、ネグロス島バコロドに上陸し、6月1日、タリサイ飛行場に展開します。
3月28日、米軍がネグロス島に上陸を開始、中隊はシライ飛行場東方20kmのセンダラガ山地に陣地占領し敵上陸部隊と交戦するなか、停戦を迎えます。


第六十三飛行場中隊(誠一八四七一)
昭和19(1944)年6月17日、八日市陸軍飛行場において編成(神谷力大尉)、7月11日、門司港を出航、21日、台湾基隆に上陸、22日、小港陸軍飛行場に展開します。
昭和20(1945)年2月24日、高雄・旗山陸軍飛行場に展開、天一號作戰の準備を開始、3月28日、宜蘭陸軍飛行場に展開、在地飛行隊の整備・補給にあたるなか、停戦を迎えます。


獨立機關砲第五十六中隊(燕二八二〇〇)
昭和20(1945)年4月28日、迫撃第三聯隊補充隊(鯖江)において編成(内海勝己中尉)、5月6日、第一航空軍隷下に編入され八日市陸軍飛行場に展開、対空防備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、31日、復員完結します。


主要参考文献
『八日市市史 4 近現代』 (昭和62年2月 八日市市史編さん会 八日市市役所)

『八日市の歴史』 (昭和59年 八日市市史編纂委員会 八日市市役所)

『今、語らなければ 八日市市平和祈念展の記録』 (平成17年2月 八日市市平和祈念展開催実行委員会)

『八日市・布引山の戦争遺跡群(旧陸軍八日市飛行場関連遺跡)に関する調査報告書』(平成13年 皇子山を守る会)

『陸軍航空飛行第三戦隊』 (昭和54年 陸軍航空飛行第三戦隊戦友会)

『陸軍飛行第244戦隊史』 (平成7年11月 桜井隆 そうぶん社)

『陸軍航空の鎮魂』 (昭和53年5月 航空碑奉賛会)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『日本陸軍戦闘機隊』(昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)

『陸軍特別攻撃隊』(平成7年7月 モデルアート社)
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Re: 父親が所属していました

Y様
はじめまして、こんにちは。
拙ブログが少しでもお役に立て光栄に思います。
こちらこそ、ありがとうございました。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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