東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
大阪府枚方(ひらかた)市には東京第二陸軍造兵廠 香里製造所がありました。

▲製造所跡に唯一遺る「第二工場 収函室」(現、病院)
【探索日時】
平成21年12月23日・27日、平成22年1月2日、平成27年1月16日・20日
【更新情報】
平成27年6月8日・・・大幅改訂

<枚方市周辺の軍事施設配置>

▲昭和20(1945)年頃の枚方市周辺
※緑文字が当記事の紹介施設
⑫以前は別記事にて解説
⑬東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
⑭東京第二陸軍造兵廠 香里製造所 官舎
⑮ 〃 桑ヶ谷寮(工員寮)
⑯ 〃 川越寮( 〃 )
⑰ 〃 菅公寮( 〃 )
⑱ 〃 喜山寮( 〃 )
⑲ 〃 高田寮( 〃 )
⑳軍用側線
㉑大阪陸軍造兵廠 第五製造所 地下疎開工場
㉒大阪市立興亞拓殖訓練道場
<東京第二陸軍造兵廠 香里製造所の概要>
各種火薬の乾燥、成形、砲爆弾への圧搾、填実、熔填作業を行っていました。
敷地面積:423,421坪(1,400,000㎡)、※借上地170,000坪(56,000㎡)含む
建物面積:14,382坪(48,000㎡) 木造、鉄筋326棟
従業員(停戦時):3,052名
製造品目
◯黄色薬(ピクリン酸)・・・乾燥、圧搾・成形
用途:伝火薬筒、砲弾、爆弾
◯硝宇薬(ヘキゾゲン)・・・熔填
伝火薬筒、安瓦薬原料
◯茶褐薬(TNT)・・・乾燥
淡黄薬・硝斗薬原料
◯平寧薬・・・乾燥
淡黄薬原料
◯安瓦薬(混合火薬)・・・合成、填実
砲弾、爆弾
◯淡黄薬(混合火薬)・・・熔填
形爆薬、小爆弾
◯硝斗薬(混合火薬)・・・化成、填実?
<遺構について>※青字は地図にリンクしています。
① 東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
昭和12(1937)年7月7日、支那事変が勃発、増大する火薬の需要(主に成形・填実作業)に対し、また事故予防の観点から、陸軍省は陸軍火工廠宇治火藥製造所(昭和15年4月1日、東京第二陸軍造兵廠宇治製造所と改称)の新たな分工場の設置を決定、昭和13(1938)年8月、大阪府北河内郡枚方町(現、枚方市)に分工場用地を選定、昭和14(1939)年1月、用地を買収、施設建設を開始、7月15日、陸軍火工廠宇治火藥製造所香里工場が開設されます。
昭和17(1942)年3月1日、宇治製造所から独立し、東京第二陸軍造兵廠香里製造所となります。
昭和19(1944)年、資材、火薬類の分散保管を計るべく、製造所の南側に隣接する丘陵と谷間約17万坪を借地、横穴式格納壕が設置されます。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始します。
10月、製造所は米軍により接収され、半洞窟式火薬庫20数棟が爆破、爆弾・火薬の廃棄が行われます。
昭和21(1946)年1月20日、GHQにより香里製造所の製造機械類は賠償指定物件に指定され、4月、大蔵省大阪財務局も管理下に置かれ、本部事務所、診療所など6棟を転用し香里國民學校 (現、枚方市立香里小学校)が新設、工場跡は民間鉄工所、自転車工場、工員寮跡は戦災者住宅などに転用されましたが大部分は放置されていました。
昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効により賠償指定は解除され旧製造所は返還、昭和28(1953)年、枚方市は政府に対し、香里製造所跡地の大規模住宅地としての開発案を提示、昭和30(1955)年7月25日、日本住宅公団が設立され、昭和31(1956)年4月9日、建設省から『枚方都市計画香里土地区画整理事業』が告示され、10月、第一工区の造成が開始、製造所跡地の全域に大規模な団地が建設され現在に至ります。

▲昭和23(1948)年3月19日の東京第二陸軍造兵廠 香里製造所跡 空撮 (USA-M27-2-66(230319))

▲現在の地図に施設を転写
下記の番号・遺構配置は当地図参照
A 収函室
当時のまま遺る唯一の建物で、現在は「保坂小児クリニック・枚方病児保育室」になっています。
この一帯は「第二工場」と呼称されており、安瓦薬の生産工程が組まれていた様です。

▲収函室 南西から

▲収函室の窓枠は木製で、当時の物かも知れません。
B 仕上室
香里団地造成に伴い「こもれび生活館(公設市場)」として使用されていましたが、残念ながら平成24(2012)年8月に破壊されてしまいました。
元々は鉄筋平屋建でしたが、公設市場化に伴い東側に建物が増築されていました。

▲仕上室 西から

▲仕上室 南東から
外観はかなり改装されていました。

▲中央の2階建の増築部(緑色の建物)は戦後の物です。

▲仕上室の北側斜面にあった半地下倉庫
資料によると第二工場周辺には資材を格納した半地下倉庫が数棟あった様です。
C 安瓦藥化成・混和填実室
香里団地造成に伴い公団営業所、派出所に転用、近年まで枚方市役所香里ヶ丘支所として使用されていましたが、残念ながら平成19(2007)年、破壊されてしまいました。
香里製造所唯一の鉄筋3階建でした。

▲安瓦薬化成・混和填実室 南西から

▲香里製造所時代の安瓦薬化成・混和填実室
D 第三汽罐場 煙突
枚方市水道局妙見山配水場内に遺されています。
宇治製造所から搬入された湿った黄色薬を乾燥させるための汽罐場の煙突で、高さ19.92m、直径2mあります。
昭和59(1984)年、保存が決定、平成22(2010)年、耐震工事、及び付属品(はしご、偽装用の金具)の交換が行われました。
毎年、4月初旬に見学会が開催され、間近で見る事ができます。

▲修復工事前の煙突
大木に偽装するために木の枝を取り付ける棒が多数付いています。
はしごや擬装用の棒が所々外れています。

▲修復工事後の煙突
味がなくなったと言うか、綺麗すぎる様な・・・

▲煙突頂部

▲煙道
煙道口は鉄柵で塞がれていますが、配水場外周の道路から見えます。
1 陸軍用(地)
境界石標が道路の脇に遺りますが、4文字目以降が埋まっています(おそらく「地」)。

2 境界石標?
欠損?していて刻字等がありませんが、他の場所に遺る物と同等の大きさから境界石標では無いかと思います。

a 桜公園
製造所北側外郭の桜公園、及び北に伸びる稜線上に境界石標が遺されています。
資料によると「製造所の境界は防諜上、稜線の2m程下った場所に設けられていた」とされていますが、踏査するとそうでも無いようです。
製造所の境界線は現在の香里ヶ丘地区の境界とほぼ合致し、現在も当時の「陸軍用地」と刻字された境界石標が多数現役で使用されていますが、住宅地の際どい場所にある物が多く、探索には注意が必要です。

▲桜公園付近の境界石標(▲は向き、青点線は境界線、緑実線はフェンス)
刻字は全て「陸軍用地」で側面に通し番号が漢数字で刻字されています。
当公園の境界石標は北側入口付近の駐車場に3、フェンス外側と民家の間の斜面に7、フェンス内側に2本、国有住宅(現在売地)内に2本、谷を下った北側の稜線沿いに6本あります。
以下に詳細を列挙します。

20・・・桜公園北側の入口脇にあります。 二五の刻字があります。
21・・・桜公園と北側の駐車場との境にあります。 二六 〃 。
22・・・ 〃 。 二七 〃 。
23・・・桜公園から北側の斜面を下った民家との境にあります。 二八 〃 。
24・・・ 〃 。 三二 〃 。
25・・・桜公園西側道路から北側の斜面を下った竹ヤブとの境にあります。 三三 〃 。
26・・・桜公園西側道路から北側の斜面を3m程下った場所にあります。 三五 〃 。
27・・・ 〃 。 三六 〃 。
28・・・ 〃 。 三八 〃 。
29・・・ 〃 。正面の「陸軍用地」が内側を向いており、移設された様です。 三七 〃 。
30・・・桜公園西側の道路脇にあります。 三九 〃 。
31・・・ 〃 。 四〇 〃 。
32・・・国有住宅の敷地内にあり、抜けています。 四一 〃 。
33・・・国有住宅の敷地内にあり、欠損しているため刻字は不明です。 「陸軍用地」・「四二」と思われます。
34・・・民家と民家の間にある丘の稜線上にあります。 四四 〃 。
35・・・ 〃 。 四五 〃 。
36・・・ 〃 。 四六 〃 。
37・・・ 〃 。 四七 〃 。
38・・・ 〃 。 四八 〃 。
39・・・ 〃 。 四九 〃 。
b 香里ヶ丘南公園
当時は診療所・医務室がありました。

▲香里ヶ丘南公園周辺の遺構
※赤線で囲った部分は「官舎」ですが、別記事で紹介のため割愛します。
ア 診療所基礎
公園の広場に辛うじて基礎と雨樋の雨受けが遺されています。

▲広場西側の基礎と雨受け

▲広場東側の四角いコンクリート基礎
イ 基礎
広場から奥の斜面を少し入った所の有ります。
守衛所基礎と言われていますが診療所の奥に守衛所があるはずも無く、倉庫か便所の基礎では無いでしょうか?

ウ 貯水槽
広場の奥の斜面の頂上付近にあります。
破損していますが、幅5×奥行2.5mあります。

この香里ヶ丘南公園と香里小学校の間の道路上に香里製造所の正門がありましたが、遺構は何も遺されていません。

▲現在の正門跡付近
d 観音山公園
製造所南側外郭の観音山公園に境界石標(完存2、埋没3、欠損3の計8本)と蒸気管が遺されています。
当公園の境界石標は公園内の物はことごとく欠損、完存の物は全てフェンス外で民家の際にあります。

▲観音山公園周辺の遺構(▲は境界石標の向き、■は欠損、青点線は境界線、緑実線はフェンス)
エ 蒸気管
西側入口の階段のすぐ脇にあります。
配置図を見てもこの辺りには何も施設が無く、何の管か詳細は不明です。

▲材質はコンクリート製で金属の接続金具が遺ります。
オ 蒸気管
広場に埋もれています。
エの蒸気管に続いていると思われますが、詳細は不明です。

▲土中に埋もれているため、上記エより状態が良いです。

▲観音山公園付近の境界石標(位置は上図参照)
40・・・観音山公園の斜面にあり境界石標と思われますが、欠損しており刻字は不明です。
41・・・ 〃 。
42・・・ 〃 。
43・・・観音山公園外周フェンスの外側にあり、民家が接近し過ぎて正面は見れません。 二四八の刻字があります。
44・・・ 〃 。 二四九 〃 。
45・・・観音山公園外周フェンスの外側にあります。 二五二 〃 。
46・・・観音山公園外周フェンスの外側にあり境界石標と思われますが、殆ど埋没しており刻字は不明です。
47・・・ 〃 。
e 香里ヶ丘東公園
製造所南側外郭の香里ヶ丘東公園に境界石標(完存3、埋没2、欠損4の合計9本)が遺されています。

▲香里ヶ丘東公園付近の境界石標(▲は向き、■は欠損・埋没、青点線は境界線、緑実線はフェンス)

50・・・香里ヶ丘東公園外周フェンスの際にあり境界石標と思われますが、殆ど埋没しており刻字は不明です。
51・・・〃公園の南側斜面にあり境界石標と思われますが、欠損しており刻字は不明です。
52・・・〃公園の南側斜面にあります。 二八三の刻字があります。
53・・・〃公園の南側斜面にあり、「用地」以上が欠損しており、その他の刻字は不明です。
54・・・〃公園の南側斜面にあり境界石標と思われますが、欠損しており刻字は不明です。
55・・・〃公園外周フェンスの際にあり、「陸軍」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
56・・・〃公園の斜面にあり、「陸軍」以下が埋没しています。 数字の刻字がありますが不明瞭です。
57・・・〃公園外周フェンスの際にあり、「陸軍」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
58・・・〃公園外周フェンスの際にあり、「陸軍用」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
f 桑ケ谷公園
製造所北東側外郭の桑ケ谷公園に境界石標(完存10本)が遺されています。
他の境界石標は刻字されている番号が東から西に進みますが、当公園の境界石標は西から東に進みます。

▲香里ヶ丘東公園付近の境界石標(▲は向き、青点線は境界線、緑実線はフェンス)

60・・・桑ケ谷公園外周のフェンス外にあります。 四四一の刻字があります。
61・・・ 〃 。 四四二 〃 。
62・・・ 〃 。 四四三 〃 。
63・・・ 〃 。 四四五 〃 。
64・・・ 〃 。 数字の刻字がありません。
65・・・ 〃 。 四四七の刻字があります。
66・・・ 〃 。 四四八 〃 。
67・・・ 〃 。 四四九 〃 。
68・・・ 〃 。 四五〇 〃 。
89・・・ 〃 。 四五一 〃 。
その他、製造所外郭付近に淀見公園、観月公園がありますが、両方とも何も遺されていませんでした。
E 建物
現在、枚方市立図書館茄子作分室として移築、使用されています。
元々は2棟の建物でしたが、移築に際し1棟に改造された様です。

あ 第三借上地
昭和19(1944)年7月、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか製造所南側に隣接する丘陵と谷地約170,000坪を賃借し地下格納壕を掘削しました。
現在は全域が住宅地になり、遺構は何も遺されていません。
い 分散倉庫借上地
第三借上地同様、空襲に備え物資、茄子作、村野、寝屋の農家倉庫などを間借りし、資材、火薬類の分散保管を実施しました。
⑳ 軍用側線
昭和14(1939)年7月15日の開設時、物資の輸送は主に自動貨車で行われていましたが、昭和16(1941)年9月、鐡道省線星田(ほしだ)駅から製造所の積卸場まで軍用側線が敷設され鉄道輸送が開始されます。
大東亜戦争停戦に伴い、昭和23(1948)年頃まで撤去資材の搬出に使用され、昭和45(1970)年頃まで路盤盛土、鉄橋などが遺されていた様ですが、現在は全て撤去され僅かに境界石標が遺ります。

▲側線分岐部付近
側線は省線(現、JR)星田駅北側付近で分岐

▲側線跡の道路(中央)とJR片町線(右)
現在は高架化されていますが、当時は地上を走っていました。
側線は暫く省線と並走

▲250m程で北側に逸れて行きます。

▲逸れた地点から4km程で製造所に到着しました。
当時は正面のマンション付近に110mの積卸場がありました。
側線は撤去され、道路に転用された際に拡幅され境界石標も殆ど抜かれてしまいましたが、僅かに遺されています。
10 陸軍用地 九
水田の畦道際に遺ります。
背面に「九」の刻字があります。

11 陸軍用地 一〇
植木畑の際にあります。
以前は何も無かったのですが、現在はフェンスで囲まれてしまい正面は見えにくくなっています。

12 陸軍用地 五六
用水路に遺ります。
有名な石標で各種文献、サイトで紹介されています。

13 陸軍用地 二二?
遊歩道の入口に遺りますが、若干埋まっており3桁の数字の最後が読めません。

14 陸軍用地 二二三
遊歩道の入口に遺り、上記13の背後にありますが、枯れ枝や落ち葉の捨場になっており埋まっている事が良くあります。

15 陸軍用地 七〇
工事の際に抜かれ、道端に転がっています。

この境界石標と道路(側線跡)を挟んだ北側の農機具小屋に境界石標の様な石材が立てかけられていますが、確認したところただの石材でした。
謎のコンクリート柱
13、14の境界石標のすぐ近くに立っています。
頂部にボルトが付いていますが、側線に関係ある物か不明です。

昭和20(1945)年7月9日1202、P-51戦闘機50機が豊中、吹田、枚方地区に来襲、飛行第五十六戰隊(伊丹)は全力17機(三式戰Ⅱ型)にて邀撃するも中村純一中尉機が撃墜され、側線付近に墜落します(中村中尉は落下傘にて脱出するも、米軍機は翼で落下傘の紐を切断、中尉は付近の田圃にて墜死してしまいます)。
平成17(2005)年3月16日、第二京阪道路建設中に中村機の残骸が出土します。

▲中村中尉機(三式戰Ⅱ型) 発見現場
正面の高架道路が第二京阪道路
下を走る道路が側線跡
現在、側線跡脇に中村中尉の慰霊碑、近隣のいきいきランド交野に中村機の残骸が展示されています。

▲側線跡付近に建立されている中村中尉の慰霊・顕彰碑

▲いきいきランド交野に展示されている「二式二十粍固定機關砲」

▲同「一式十二・七粍固定機關砲」

▲同「ハ四〇發動機」

▲同「プロペラ」

▲同「各種部品」
<東京第二陸軍造兵廠 香里製造所 略歴>
明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、火薬需要の急増に対し陸軍省は東京砲兵工廠板橋火藥製造所(東京)、同目黒火藥製造所(東京)、同岩鼻火藥製造所(群馬)に加え、京都府宇治郡宇治村五ヶ庄に火薬製造所の新設を決定し、11月1日、大阪砲兵工廠 宇治火藥「假」製造所が開設されます。
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月、陸軍平時編制を制定し、第七から第十二師團の編成を決定します。
同時に各部隊に砲弾・弾薬を円滑に補給するため陸軍省は板橋、岩鼻、目黒火藥製造所を拡張・整備するとともに、宇治火藥製造所の建設・整備を進め、4月14日、正式に開設されます。
昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発します。
8月16日、宇治火藥製造所において黄色薬熔融作業中に爆発事故が発生、8名死亡、4名重傷、14名軽傷、家屋142戸全壊、139戸半壊、700戸小壊の被害が出てしまいます。
陸軍省は支那事変による火薬需要に対応し、宇治火藥製造所の爆発事故から、事故防止を計るべく火薬の化成、及び成形作業を分離すべく、宇治火藥製造所は拡張の余地が無く、設備も老朽化していた事から新分工場の設立準備を進めます。
昭和13(1938)年8月頃、飛行機による偵察で、緩やかな起伏が連なる丘に沿って谷が伸びる地形が天然の土塁として機能し、また周辺に住宅地が無く、且つ交通の便が良い枚方町南部に広がる香里丘陵を候補地に選定します。
昭和14(1939)年1月、香里丘陵に新分工場を建設する事が正式決定、川越尋常小學校(昭和34年、廃校)において地権者に事情・用地買収の説明を実施、枚方町大字茄子作、山之上、村野、中振にまたがる工場用地を買収、京都帝國大學大学院から招聘した西山夘三氏に基本設計を依頼、用地西側から順次建設を開始します。
7月15日、陸軍火工廠宇治火藥製造所 香里工場(今力衞大尉)の開設式が挙行され、12月、黄色薬圧搾工場(第一工場)の操業を開始します。
昭和15(1940)年4月1日に、『陸軍兵器廠令』(勅令第二百九號)により陸軍造兵廠は陸軍兵器廠と統合され、陸軍火工廠管下の各火薬製造所は東京第二陸軍造兵廠の管下となり、東京第二陸軍造兵廠宇治製造所 香里工場と改称します。
昭和16(1941)年初旬、黄色薬熔填、茶褐薬乾燥作業が開始され、9月、鐡道省線星田(ほしだ)駅から製造所まで軍用側線が敷設され鉄道輸送が開始されます。
10月1日、宇治製造所から独立、香里製造所として開設予定でしたが、6月下旬から連日の大雨により各地で浸水被害が発災、延期されます。
12月8日、大東亜戦争が勃発します。
昭和17(1942)年3月1日、宇治製造所から独立し、東京第二陸軍造兵廠 香里製造所(小野秀夫中佐)に昇格します。
同年、安瓦薬の合成、填実工場(第二工場)の操業を開始します。
香里製造所の組織は、事務所(庶務、工務、検査、會計、倉庫、醫務各掛)、各工場からなり、正門外側に軍人官舎、正門内側に女子寮、構内西端に工員寮の桑ヶ谷寮、川越(かわごし)寮、構外西側に菅公寮、喜山寮、少し離れた南側に官舎・工員寮の高田寮が開設されました。
4月18日、愛宕神社より、愛宕社(製造所内神社、現在は春日神社内に遷座)が分霊され、製造所の火伏神として遷座します。
昭和17(1942)年以降、火薬需要の増大、工員不足から『國民勤勞報國協力令』(昭和16年11月22日、勅令第九百九十五號)、『昭和十八年度國民動員實施計畫』(昭和18年5月3日、閣議決定)、『女子勤勞動員ノ.促進ニ關スル件』((昭和18年9月13日、次官会議)、『緊急學徒勤勞動員方策要項』(昭和19年1月8日、閣議決定)、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』(昭和19年3月7日、閣議決定)、『學徒勤勞令』(昭和19年8月23日、勅令第五百十八號)、『女子挺身勤勞令』(昭和19年8月23日、勅令第五百十九號)等に基づき、女子挺身隊、及び四條畷中學(現、大阪府立四條畷高校)、大阪市立中學(現、大阪市立高校)、泉尾高等女學校(現、大阪府立泉尾高校)、市岡高女(現、大阪府立港高校)、私立明浄高女(現、明浄学院高校)、交野國民學校(現、交野市立交野小)等の學校報國隊が生産に加わります。
昭和19(1944)年7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、香里製造所南側に隣接する丘陵と谷地約170,000坪を賃借し地下格納壕を掘削、 また茄子作、村野、寝屋の農家倉庫などを間借りし、資材、火薬類の分散保管を開始します。
7月19日、製造所長・津留田之敬中佐が着任します。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦に伴い香里製造所は操業を停止、報國隊・女子挺身隊・応徴士に賃金、退職金を支給し勤務解除、11月10日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)により東京第二陸軍造兵廠は復帰、第一復員省東京第二陸軍造兵廠殘務整理部が新編され、香里製造所は同部香里出張所となり復員官70名が残務処理に当たります。
昭和20年8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により香里製造所の用地、建物、生産設備、資材等は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始、10月、香里製造所は米軍に接収され、半洞窟式火薬庫20数棟が爆破、爆弾・火薬の廃棄が行われます。
10月16日、枚方町は香里製造所用地、建物等の払い下げを申請します。
昭和21(1946)年1月20日、連合国軍最高司令官総司令部は『日本の航空機工場、工廠及び研究所の管理、統制、保守に関する覚書』(SCAPIN629)を発令、香里製造所の製造機械類は賠償指定物件に指定(工廠、民間航空機工場389ヶ所)、4月、香里製造所は賠償指定物件に指定され、管理のため大蔵省大阪財務局枚方出張所香里分室が設置され、米軍監督下に可動状態にあった製造機械、資材は諸外国に搬出されます。
4月1日、本部事務所、診療所など6棟を転用し香里國民學校 (現、枚方市立香里小学校)が新設、工場跡は田辺鉄工所、丸福鉄工所、工員寮跡は戦災者住宅などに転用されましたが大部分は放置されていました。
昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効、賠償指定は解除され旧製造所が返還されると、朝鮮戦争(昭和25年6月25日、勃発)特需を受けた民間企業が払下げ申請を行いますが住民の反対で断念します。
昭和28(1953)年、枚方市は政府に対し、香里製造所跡地の大規模住宅地としての開発案を提示、昭和30(1955)年7月25日、日本住宅公団が設立され、昭和31(1956)年4月9日、建設省から『枚方都市計画香里土地区画整理事業』が告示され、10月、第一工区の造成が開始、製造所跡地の全域に大規模な団地が建設され現在に至ります。
<主要参考文献>
『大阪文化財研究30 「香里団地以前」』 (平成18年11月 森井貞雄 大阪文化財センター)
『いま、よみがえる枚方の20世紀 発掘・復元・検証』 (平成23年1月 大阪府文化財センター)
『大阪春秋126号 旧東京第二陸軍造兵廠 香里製造所の建築』(平成19年 酒井一光 新風書房)
『枚方市史 4』(昭和55年 枚方市史編纂委員会)
『枚方市平和(戦争遺跡)ガイド』(平成27年3月 枚方市人権政策室)
国土地理院(USA-M27-2-66)
・Yahoo!の地図
Webサイト
枚方市役所 市長公室 人権政策室
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【探索日時】
平成21年12月23日・27日、平成22年1月2日、平成27年1月16日・20日
【更新情報】
平成27年6月8日・・・大幅改訂


<枚方市周辺の軍事施設配置>

▲昭和20(1945)年頃の枚方市周辺
※緑文字が当記事の紹介施設
⑫以前は別記事にて解説
⑬東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
⑭東京第二陸軍造兵廠 香里製造所 官舎
⑮ 〃 桑ヶ谷寮(工員寮)
⑯ 〃 川越寮( 〃 )
⑰ 〃 菅公寮( 〃 )
⑱ 〃 喜山寮( 〃 )
⑲ 〃 高田寮( 〃 )
⑳軍用側線
㉑大阪陸軍造兵廠 第五製造所 地下疎開工場
㉒大阪市立興亞拓殖訓練道場
<東京第二陸軍造兵廠 香里製造所の概要>
各種火薬の乾燥、成形、砲爆弾への圧搾、填実、熔填作業を行っていました。
敷地面積:423,421坪(1,400,000㎡)、※借上地170,000坪(56,000㎡)含む
建物面積:14,382坪(48,000㎡) 木造、鉄筋326棟
従業員(停戦時):3,052名
製造品目
◯黄色薬(ピクリン酸)・・・乾燥、圧搾・成形
用途:伝火薬筒、砲弾、爆弾
◯硝宇薬(ヘキゾゲン)・・・熔填
伝火薬筒、安瓦薬原料
◯茶褐薬(TNT)・・・乾燥
淡黄薬・硝斗薬原料
◯平寧薬・・・乾燥
淡黄薬原料
◯安瓦薬(混合火薬)・・・合成、填実
砲弾、爆弾
◯淡黄薬(混合火薬)・・・熔填
形爆薬、小爆弾
◯硝斗薬(混合火薬)・・・化成、填実?
<遺構について>※青字は地図にリンクしています。
① 東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
昭和12(1937)年7月7日、支那事変が勃発、増大する火薬の需要(主に成形・填実作業)に対し、また事故予防の観点から、陸軍省は陸軍火工廠宇治火藥製造所(昭和15年4月1日、東京第二陸軍造兵廠宇治製造所と改称)の新たな分工場の設置を決定、昭和13(1938)年8月、大阪府北河内郡枚方町(現、枚方市)に分工場用地を選定、昭和14(1939)年1月、用地を買収、施設建設を開始、7月15日、陸軍火工廠宇治火藥製造所香里工場が開設されます。
昭和17(1942)年3月1日、宇治製造所から独立し、東京第二陸軍造兵廠香里製造所となります。
昭和19(1944)年、資材、火薬類の分散保管を計るべく、製造所の南側に隣接する丘陵と谷間約17万坪を借地、横穴式格納壕が設置されます。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始します。
10月、製造所は米軍により接収され、半洞窟式火薬庫20数棟が爆破、爆弾・火薬の廃棄が行われます。
昭和21(1946)年1月20日、GHQにより香里製造所の製造機械類は賠償指定物件に指定され、4月、大蔵省大阪財務局も管理下に置かれ、本部事務所、診療所など6棟を転用し香里國民學校 (現、枚方市立香里小学校)が新設、工場跡は民間鉄工所、自転車工場、工員寮跡は戦災者住宅などに転用されましたが大部分は放置されていました。
昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効により賠償指定は解除され旧製造所は返還、昭和28(1953)年、枚方市は政府に対し、香里製造所跡地の大規模住宅地としての開発案を提示、昭和30(1955)年7月25日、日本住宅公団が設立され、昭和31(1956)年4月9日、建設省から『枚方都市計画香里土地区画整理事業』が告示され、10月、第一工区の造成が開始、製造所跡地の全域に大規模な団地が建設され現在に至ります。

▲昭和23(1948)年3月19日の東京第二陸軍造兵廠 香里製造所跡 空撮 (USA-M27-2-66(230319))

▲現在の地図に施設を転写
下記の番号・遺構配置は当地図参照
A 収函室
当時のまま遺る唯一の建物で、現在は「保坂小児クリニック・枚方病児保育室」になっています。
この一帯は「第二工場」と呼称されており、安瓦薬の生産工程が組まれていた様です。

▲収函室 南西から

▲収函室の窓枠は木製で、当時の物かも知れません。
B 仕上室
香里団地造成に伴い「こもれび生活館(公設市場)」として使用されていましたが、残念ながら平成24(2012)年8月に破壊されてしまいました。
元々は鉄筋平屋建でしたが、公設市場化に伴い東側に建物が増築されていました。

▲仕上室 西から

▲仕上室 南東から
外観はかなり改装されていました。

▲中央の2階建の増築部(緑色の建物)は戦後の物です。

▲仕上室の北側斜面にあった半地下倉庫
資料によると第二工場周辺には資材を格納した半地下倉庫が数棟あった様です。
C 安瓦藥化成・混和填実室
香里団地造成に伴い公団営業所、派出所に転用、近年まで枚方市役所香里ヶ丘支所として使用されていましたが、残念ながら平成19(2007)年、破壊されてしまいました。
香里製造所唯一の鉄筋3階建でした。

▲安瓦薬化成・混和填実室 南西から

▲香里製造所時代の安瓦薬化成・混和填実室
D 第三汽罐場 煙突
枚方市水道局妙見山配水場内に遺されています。
宇治製造所から搬入された湿った黄色薬を乾燥させるための汽罐場の煙突で、高さ19.92m、直径2mあります。
昭和59(1984)年、保存が決定、平成22(2010)年、耐震工事、及び付属品(はしご、偽装用の金具)の交換が行われました。
毎年、4月初旬に見学会が開催され、間近で見る事ができます。

▲修復工事前の煙突
大木に偽装するために木の枝を取り付ける棒が多数付いています。
はしごや擬装用の棒が所々外れています。

▲修復工事後の煙突
味がなくなったと言うか、綺麗すぎる様な・・・

▲煙突頂部

▲煙道
煙道口は鉄柵で塞がれていますが、配水場外周の道路から見えます。
1 陸軍用(地)
境界石標が道路の脇に遺りますが、4文字目以降が埋まっています(おそらく「地」)。

2 境界石標?
欠損?していて刻字等がありませんが、他の場所に遺る物と同等の大きさから境界石標では無いかと思います。

a 桜公園
製造所北側外郭の桜公園、及び北に伸びる稜線上に境界石標が遺されています。
資料によると「製造所の境界は防諜上、稜線の2m程下った場所に設けられていた」とされていますが、踏査するとそうでも無いようです。
製造所の境界線は現在の香里ヶ丘地区の境界とほぼ合致し、現在も当時の「陸軍用地」と刻字された境界石標が多数現役で使用されていますが、住宅地の際どい場所にある物が多く、探索には注意が必要です。

▲桜公園付近の境界石標(▲は向き、青点線は境界線、緑実線はフェンス)
刻字は全て「陸軍用地」で側面に通し番号が漢数字で刻字されています。
当公園の境界石標は北側入口付近の駐車場に3、フェンス外側と民家の間の斜面に7、フェンス内側に2本、国有住宅(現在売地)内に2本、谷を下った北側の稜線沿いに6本あります。
以下に詳細を列挙します。

20・・・桜公園北側の入口脇にあります。 二五の刻字があります。
21・・・桜公園と北側の駐車場との境にあります。 二六 〃 。
22・・・ 〃 。 二七 〃 。
23・・・桜公園から北側の斜面を下った民家との境にあります。 二八 〃 。
24・・・ 〃 。 三二 〃 。
25・・・桜公園西側道路から北側の斜面を下った竹ヤブとの境にあります。 三三 〃 。
26・・・桜公園西側道路から北側の斜面を3m程下った場所にあります。 三五 〃 。
27・・・ 〃 。 三六 〃 。
28・・・ 〃 。 三八 〃 。
29・・・ 〃 。正面の「陸軍用地」が内側を向いており、移設された様です。 三七 〃 。
30・・・桜公園西側の道路脇にあります。 三九 〃 。
31・・・ 〃 。 四〇 〃 。
32・・・国有住宅の敷地内にあり、抜けています。 四一 〃 。
33・・・国有住宅の敷地内にあり、欠損しているため刻字は不明です。 「陸軍用地」・「四二」と思われます。
34・・・民家と民家の間にある丘の稜線上にあります。 四四 〃 。
35・・・ 〃 。 四五 〃 。
36・・・ 〃 。 四六 〃 。
37・・・ 〃 。 四七 〃 。
38・・・ 〃 。 四八 〃 。
39・・・ 〃 。 四九 〃 。
b 香里ヶ丘南公園
当時は診療所・医務室がありました。

▲香里ヶ丘南公園周辺の遺構
※赤線で囲った部分は「官舎」ですが、別記事で紹介のため割愛します。
ア 診療所基礎
公園の広場に辛うじて基礎と雨樋の雨受けが遺されています。

▲広場西側の基礎と雨受け

▲広場東側の四角いコンクリート基礎
イ 基礎
広場から奥の斜面を少し入った所の有ります。
守衛所基礎と言われていますが診療所の奥に守衛所があるはずも無く、倉庫か便所の基礎では無いでしょうか?

ウ 貯水槽
広場の奥の斜面の頂上付近にあります。
破損していますが、幅5×奥行2.5mあります。

この香里ヶ丘南公園と香里小学校の間の道路上に香里製造所の正門がありましたが、遺構は何も遺されていません。

▲現在の正門跡付近
d 観音山公園
製造所南側外郭の観音山公園に境界石標(完存2、埋没3、欠損3の計8本)と蒸気管が遺されています。
当公園の境界石標は公園内の物はことごとく欠損、完存の物は全てフェンス外で民家の際にあります。

▲観音山公園周辺の遺構(▲は境界石標の向き、■は欠損、青点線は境界線、緑実線はフェンス)
エ 蒸気管
西側入口の階段のすぐ脇にあります。
配置図を見てもこの辺りには何も施設が無く、何の管か詳細は不明です。

▲材質はコンクリート製で金属の接続金具が遺ります。
オ 蒸気管
広場に埋もれています。
エの蒸気管に続いていると思われますが、詳細は不明です。

▲土中に埋もれているため、上記エより状態が良いです。

▲観音山公園付近の境界石標(位置は上図参照)
40・・・観音山公園の斜面にあり境界石標と思われますが、欠損しており刻字は不明です。
41・・・ 〃 。
42・・・ 〃 。
43・・・観音山公園外周フェンスの外側にあり、民家が接近し過ぎて正面は見れません。 二四八の刻字があります。
44・・・ 〃 。 二四九 〃 。
45・・・観音山公園外周フェンスの外側にあります。 二五二 〃 。
46・・・観音山公園外周フェンスの外側にあり境界石標と思われますが、殆ど埋没しており刻字は不明です。
47・・・ 〃 。
e 香里ヶ丘東公園
製造所南側外郭の香里ヶ丘東公園に境界石標(完存3、埋没2、欠損4の合計9本)が遺されています。

▲香里ヶ丘東公園付近の境界石標(▲は向き、■は欠損・埋没、青点線は境界線、緑実線はフェンス)

50・・・香里ヶ丘東公園外周フェンスの際にあり境界石標と思われますが、殆ど埋没しており刻字は不明です。
51・・・〃公園の南側斜面にあり境界石標と思われますが、欠損しており刻字は不明です。
52・・・〃公園の南側斜面にあります。 二八三の刻字があります。
53・・・〃公園の南側斜面にあり、「用地」以上が欠損しており、その他の刻字は不明です。
54・・・〃公園の南側斜面にあり境界石標と思われますが、欠損しており刻字は不明です。
55・・・〃公園外周フェンスの際にあり、「陸軍」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
56・・・〃公園の斜面にあり、「陸軍」以下が埋没しています。 数字の刻字がありますが不明瞭です。
57・・・〃公園外周フェンスの際にあり、「陸軍」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
58・・・〃公園外周フェンスの際にあり、「陸軍用」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
f 桑ケ谷公園
製造所北東側外郭の桑ケ谷公園に境界石標(完存10本)が遺されています。
他の境界石標は刻字されている番号が東から西に進みますが、当公園の境界石標は西から東に進みます。

▲香里ヶ丘東公園付近の境界石標(▲は向き、青点線は境界線、緑実線はフェンス)

60・・・桑ケ谷公園外周のフェンス外にあります。 四四一の刻字があります。
61・・・ 〃 。 四四二 〃 。
62・・・ 〃 。 四四三 〃 。
63・・・ 〃 。 四四五 〃 。
64・・・ 〃 。 数字の刻字がありません。
65・・・ 〃 。 四四七の刻字があります。
66・・・ 〃 。 四四八 〃 。
67・・・ 〃 。 四四九 〃 。
68・・・ 〃 。 四五〇 〃 。
89・・・ 〃 。 四五一 〃 。
その他、製造所外郭付近に淀見公園、観月公園がありますが、両方とも何も遺されていませんでした。
E 建物
現在、枚方市立図書館茄子作分室として移築、使用されています。
元々は2棟の建物でしたが、移築に際し1棟に改造された様です。

あ 第三借上地
昭和19(1944)年7月、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか製造所南側に隣接する丘陵と谷地約170,000坪を賃借し地下格納壕を掘削しました。
現在は全域が住宅地になり、遺構は何も遺されていません。
い 分散倉庫借上地
第三借上地同様、空襲に備え物資、茄子作、村野、寝屋の農家倉庫などを間借りし、資材、火薬類の分散保管を実施しました。
⑳ 軍用側線
昭和14(1939)年7月15日の開設時、物資の輸送は主に自動貨車で行われていましたが、昭和16(1941)年9月、鐡道省線星田(ほしだ)駅から製造所の積卸場まで軍用側線が敷設され鉄道輸送が開始されます。
大東亜戦争停戦に伴い、昭和23(1948)年頃まで撤去資材の搬出に使用され、昭和45(1970)年頃まで路盤盛土、鉄橋などが遺されていた様ですが、現在は全て撤去され僅かに境界石標が遺ります。

▲側線分岐部付近
側線は省線(現、JR)星田駅北側付近で分岐

▲側線跡の道路(中央)とJR片町線(右)
現在は高架化されていますが、当時は地上を走っていました。
側線は暫く省線と並走

▲250m程で北側に逸れて行きます。

▲逸れた地点から4km程で製造所に到着しました。
当時は正面のマンション付近に110mの積卸場がありました。
側線は撤去され、道路に転用された際に拡幅され境界石標も殆ど抜かれてしまいましたが、僅かに遺されています。
10 陸軍用地 九
水田の畦道際に遺ります。
背面に「九」の刻字があります。

11 陸軍用地 一〇
植木畑の際にあります。
以前は何も無かったのですが、現在はフェンスで囲まれてしまい正面は見えにくくなっています。

12 陸軍用地 五六
用水路に遺ります。
有名な石標で各種文献、サイトで紹介されています。

13 陸軍用地 二二?
遊歩道の入口に遺りますが、若干埋まっており3桁の数字の最後が読めません。

14 陸軍用地 二二三
遊歩道の入口に遺り、上記13の背後にありますが、枯れ枝や落ち葉の捨場になっており埋まっている事が良くあります。

15 陸軍用地 七〇
工事の際に抜かれ、道端に転がっています。

この境界石標と道路(側線跡)を挟んだ北側の農機具小屋に境界石標の様な石材が立てかけられていますが、確認したところただの石材でした。
謎のコンクリート柱
13、14の境界石標のすぐ近くに立っています。
頂部にボルトが付いていますが、側線に関係ある物か不明です。

昭和20(1945)年7月9日1202、P-51戦闘機50機が豊中、吹田、枚方地区に来襲、飛行第五十六戰隊(伊丹)は全力17機(三式戰Ⅱ型)にて邀撃するも中村純一中尉機が撃墜され、側線付近に墜落します(中村中尉は落下傘にて脱出するも、米軍機は翼で落下傘の紐を切断、中尉は付近の田圃にて墜死してしまいます)。
平成17(2005)年3月16日、第二京阪道路建設中に中村機の残骸が出土します。

▲中村中尉機(三式戰Ⅱ型) 発見現場
正面の高架道路が第二京阪道路
下を走る道路が側線跡
現在、側線跡脇に中村中尉の慰霊碑、近隣のいきいきランド交野に中村機の残骸が展示されています。

▲側線跡付近に建立されている中村中尉の慰霊・顕彰碑

▲いきいきランド交野に展示されている「二式二十粍固定機關砲」

▲同「一式十二・七粍固定機關砲」

▲同「ハ四〇發動機」

▲同「プロペラ」

▲同「各種部品」
<東京第二陸軍造兵廠 香里製造所 略歴>
明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、火薬需要の急増に対し陸軍省は東京砲兵工廠板橋火藥製造所(東京)、同目黒火藥製造所(東京)、同岩鼻火藥製造所(群馬)に加え、京都府宇治郡宇治村五ヶ庄に火薬製造所の新設を決定し、11月1日、大阪砲兵工廠 宇治火藥「假」製造所が開設されます。
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月、陸軍平時編制を制定し、第七から第十二師團の編成を決定します。
同時に各部隊に砲弾・弾薬を円滑に補給するため陸軍省は板橋、岩鼻、目黒火藥製造所を拡張・整備するとともに、宇治火藥製造所の建設・整備を進め、4月14日、正式に開設されます。
昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発します。
8月16日、宇治火藥製造所において黄色薬熔融作業中に爆発事故が発生、8名死亡、4名重傷、14名軽傷、家屋142戸全壊、139戸半壊、700戸小壊の被害が出てしまいます。
陸軍省は支那事変による火薬需要に対応し、宇治火藥製造所の爆発事故から、事故防止を計るべく火薬の化成、及び成形作業を分離すべく、宇治火藥製造所は拡張の余地が無く、設備も老朽化していた事から新分工場の設立準備を進めます。
昭和13(1938)年8月頃、飛行機による偵察で、緩やかな起伏が連なる丘に沿って谷が伸びる地形が天然の土塁として機能し、また周辺に住宅地が無く、且つ交通の便が良い枚方町南部に広がる香里丘陵を候補地に選定します。
昭和14(1939)年1月、香里丘陵に新分工場を建設する事が正式決定、川越尋常小學校(昭和34年、廃校)において地権者に事情・用地買収の説明を実施、枚方町大字茄子作、山之上、村野、中振にまたがる工場用地を買収、京都帝國大學大学院から招聘した西山夘三氏に基本設計を依頼、用地西側から順次建設を開始します。
7月15日、陸軍火工廠宇治火藥製造所 香里工場(今力衞大尉)の開設式が挙行され、12月、黄色薬圧搾工場(第一工場)の操業を開始します。
昭和15(1940)年4月1日に、『陸軍兵器廠令』(勅令第二百九號)により陸軍造兵廠は陸軍兵器廠と統合され、陸軍火工廠管下の各火薬製造所は東京第二陸軍造兵廠の管下となり、東京第二陸軍造兵廠宇治製造所 香里工場と改称します。
昭和16(1941)年初旬、黄色薬熔填、茶褐薬乾燥作業が開始され、9月、鐡道省線星田(ほしだ)駅から製造所まで軍用側線が敷設され鉄道輸送が開始されます。
10月1日、宇治製造所から独立、香里製造所として開設予定でしたが、6月下旬から連日の大雨により各地で浸水被害が発災、延期されます。
12月8日、大東亜戦争が勃発します。
昭和17(1942)年3月1日、宇治製造所から独立し、東京第二陸軍造兵廠 香里製造所(小野秀夫中佐)に昇格します。
同年、安瓦薬の合成、填実工場(第二工場)の操業を開始します。
香里製造所の組織は、事務所(庶務、工務、検査、會計、倉庫、醫務各掛)、各工場からなり、正門外側に軍人官舎、正門内側に女子寮、構内西端に工員寮の桑ヶ谷寮、川越(かわごし)寮、構外西側に菅公寮、喜山寮、少し離れた南側に官舎・工員寮の高田寮が開設されました。
4月18日、愛宕神社より、愛宕社(製造所内神社、現在は春日神社内に遷座)が分霊され、製造所の火伏神として遷座します。
昭和17(1942)年以降、火薬需要の増大、工員不足から『國民勤勞報國協力令』(昭和16年11月22日、勅令第九百九十五號)、『昭和十八年度國民動員實施計畫』(昭和18年5月3日、閣議決定)、『女子勤勞動員ノ.促進ニ關スル件』((昭和18年9月13日、次官会議)、『緊急學徒勤勞動員方策要項』(昭和19年1月8日、閣議決定)、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』(昭和19年3月7日、閣議決定)、『學徒勤勞令』(昭和19年8月23日、勅令第五百十八號)、『女子挺身勤勞令』(昭和19年8月23日、勅令第五百十九號)等に基づき、女子挺身隊、及び四條畷中學(現、大阪府立四條畷高校)、大阪市立中學(現、大阪市立高校)、泉尾高等女學校(現、大阪府立泉尾高校)、市岡高女(現、大阪府立港高校)、私立明浄高女(現、明浄学院高校)、交野國民學校(現、交野市立交野小)等の學校報國隊が生産に加わります。
昭和19(1944)年7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、香里製造所南側に隣接する丘陵と谷地約170,000坪を賃借し地下格納壕を掘削、 また茄子作、村野、寝屋の農家倉庫などを間借りし、資材、火薬類の分散保管を開始します。
7月19日、製造所長・津留田之敬中佐が着任します。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦に伴い香里製造所は操業を停止、報國隊・女子挺身隊・応徴士に賃金、退職金を支給し勤務解除、11月10日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)により東京第二陸軍造兵廠は復帰、第一復員省東京第二陸軍造兵廠殘務整理部が新編され、香里製造所は同部香里出張所となり復員官70名が残務処理に当たります。
昭和20年8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により香里製造所の用地、建物、生産設備、資材等は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始、10月、香里製造所は米軍に接収され、半洞窟式火薬庫20数棟が爆破、爆弾・火薬の廃棄が行われます。
10月16日、枚方町は香里製造所用地、建物等の払い下げを申請します。
昭和21(1946)年1月20日、連合国軍最高司令官総司令部は『日本の航空機工場、工廠及び研究所の管理、統制、保守に関する覚書』(SCAPIN629)を発令、香里製造所の製造機械類は賠償指定物件に指定(工廠、民間航空機工場389ヶ所)、4月、香里製造所は賠償指定物件に指定され、管理のため大蔵省大阪財務局枚方出張所香里分室が設置され、米軍監督下に可動状態にあった製造機械、資材は諸外国に搬出されます。
4月1日、本部事務所、診療所など6棟を転用し香里國民學校 (現、枚方市立香里小学校)が新設、工場跡は田辺鉄工所、丸福鉄工所、工員寮跡は戦災者住宅などに転用されましたが大部分は放置されていました。
昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効、賠償指定は解除され旧製造所が返還されると、朝鮮戦争(昭和25年6月25日、勃発)特需を受けた民間企業が払下げ申請を行いますが住民の反対で断念します。
昭和28(1953)年、枚方市は政府に対し、香里製造所跡地の大規模住宅地としての開発案を提示、昭和30(1955)年7月25日、日本住宅公団が設立され、昭和31(1956)年4月9日、建設省から『枚方都市計画香里土地区画整理事業』が告示され、10月、第一工区の造成が開始、製造所跡地の全域に大規模な団地が建設され現在に至ります。
<主要参考文献>
『大阪文化財研究30 「香里団地以前」』 (平成18年11月 森井貞雄 大阪文化財センター)
『いま、よみがえる枚方の20世紀 発掘・復元・検証』 (平成23年1月 大阪府文化財センター)
『大阪春秋126号 旧東京第二陸軍造兵廠 香里製造所の建築』(平成19年 酒井一光 新風書房)
『枚方市史 4』(昭和55年 枚方市史編纂委員会)
『枚方市平和(戦争遺跡)ガイド』(平成27年3月 枚方市人権政策室)
国土地理院(USA-M27-2-66)
・Yahoo!の地図
Webサイト
枚方市役所 市長公室 人権政策室
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