東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
大阪府枚方(ひらかた)市に東京第二陸軍造兵廠 香里製造所がありました。

▲製造所跡に唯一遺る「第二工場 収函室」(現、病院)
【探索日時】
平成21(2009)年12月23日・27日、平成22(2010)年1月2日、
平成27(2015)年1月16日・20日、令和元(2019)年12月12日
令和4(2022)年2月21日
【更新情報】
平成27(2015)年6月8日・・・大幅改訂
令和元(2019)年12月16日・・・遺構(境界石標)追加
令和4(2022)年5月2日・・・遺構(境界石標)追加

▲製造所跡に唯一遺る「第二工場 収函室」(現、病院)
【探索日時】
平成21(2009)年12月23日・27日、平成22(2010)年1月2日、
平成27(2015)年1月16日・20日、令和元(2019)年12月12日
令和4(2022)年2月21日
【更新情報】
平成27(2015)年6月8日・・・大幅改訂
令和元(2019)年12月16日・・・遺構(境界石標)追加
令和4(2022)年5月2日・・・遺構(境界石標)追加
<東京第二陸軍造兵廠 香里製造所の概要>
各種火薬の乾燥、成形、砲爆弾への圧搾、填実、熔填作業を行っていました。
敷地面積:423,421坪(1,400,000㎡)※借上地170,000坪(56,000㎡)含む
建物面積:14,382坪(48,000㎡) 木造、鉄筋326棟
従業員(停戦時):3,052名
製造品目
◯黄色薬(ピクリン酸)・・・乾燥、圧搾・成形
用途:伝火薬筒、砲弾、爆弾
◯硝宇薬(ヘキゾゲン)・・・熔填
伝火薬筒、安瓦薬原料
◯茶褐薬(TNT)・・・乾燥
淡黄薬・硝斗薬原料
◯平寧薬・・・乾燥
淡黄薬原料
◯安瓦薬(混合火薬)・・・合成、填実
砲弾、爆弾
◯淡黄薬(混合火薬)・・・熔填
形爆薬、小爆弾
◯硝斗薬(混合火薬)・・・化成、填実?

▲施設配置
① 東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
② 側線
③ 官舎
④ 高田寮( 〃 )
⑤ 桑ヶ谷寮(工員寮)
⑥ 川越寮( 〃 )
⑦ 菅公寮( 〃 )
<遺構について>
① 東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
上記の様に往時は300余棟の建物がありましたが、昭和31(1956)年からの大規模団地建設、住宅地の造成により建物は移築も含め3棟が遺る程度です。
▲現在遺る建物、基礎
A 収函室
当時のまま遺る唯一の建物で、現在は保坂小児クリニック・枚方病児保育室になっています。
この一帯は「第二工場」と呼称されており、安瓦薬の生産工程が組まれていました。

▲正面側

▲側面
木製窓枠は当時の物かも知れません

▲裏側
正面と同じ形状です
B 仕上室
香里団地造成に伴い「こもれび生活館(公設市場)」として使用されていましたが、残念ながら平成24(2012)年8月に破壊されてしまいました。
元々は鉄筋平屋建でしたが、公設市場化に伴い東側に建物が増築されていました。

▲正面側

▲側面
外観はかなり改装されています

▲2階建の増築部(緑色の建物)は戦後の物

▲半地下倉庫
仕上室の北側斜面にあり、資料によると第二工場周辺には資材を格納した半地下倉庫が数棟あった様です
C 安瓦藥化成・混和填実室
香里団地造成に伴い公団営業所、派出所に転用、近年まで枚方市役所香里ヶ丘支所として使用されていましたが、残念ながら平成19(2007)年、破壊されてしまいました。
香里製造所唯一の鉄筋3階建でした。

▲南西から

▲陸軍時代の安瓦薬化成・混和填実室
D 第三汽罐場 煙突
枚方市水道局妙見山配水場内に遺されています。
宇治製造所から搬入された湿った黄色薬を乾燥させるための汽罐場の煙突で、高さ19.92m、直径2mあります。
昭和59(1984)年、保存が決定、平成22(2010)年、耐震工事、及び付属品(はしご、偽装用の金具)の交換が行われました。
毎年、4月初旬に見学会が開催され、間近で見る事ができます。

▲修復工事前の煙突
周囲の棒は大木に偽装するために木の枝を取り付けるための支柱です
はしごや擬装用の棒が所々外れています

▲修復工事後の煙突
味がなくなったと言うか、綺麗すぎる様な・・・

▲煙突頂部

▲煙道
煙道口は鉄柵で塞がれていますが、配水場外周の道路から見えます
下記の遺構はa 香里ヶ丘南公園に遺ります。
公園一帯には診療所・医務室がありました。
▲香里ヶ丘南公園の遺構配置
ア 診療所基礎
公園の広場に辛うじて基礎と雨樋の雨受けが遺されています。

▲広場西側の基礎と雨受け

▲広場東側の四角いコンクリート基礎
イ 基礎
広場から奥の斜面を少し入った所の有ります。
守衛所基礎と言われていますが診療所の奥に守衛所があるはずも無く、倉庫か便所の基礎では無いでしょうか?

ウ 貯水槽
広場の奥の斜面の頂上付近にあります。
破損していますが、幅5×奥行2.5mあります。

エ 門柱
公園の奥の斜面にあります。
この辺りには⑭官舎地区から医務室(診療所の西側)の裏手に出る通路があり、その通路の通用門(片開き)と思われます。
香里製造所内に遺る唯一の門柱と思われます。

▲製造所内から

▲官舎側から

▲蝶番が遺りますが上の部分にしかありません
※こちらの門柱はA6M7-63様に御教示頂きました。
遺構は何も遺されていませんが、この香里ヶ丘南公園と香里小学校の間の道路上に香里製造所の正門がありました。

▲現在の正門跡付近
-境界石標-
建物、基礎は上記の様に数える程度ですが、外周には境界石標が多数遺ります。
▲アルファベット小文字の点枠線が探索した箇所
下記の遺構はg 観音山公園に遺ります。
▲観音山公園の遺構
エ 蒸気管
西側の階段脇にあります。
配置図にはこの場所に施設が無く、何の管か不明です。

▲材質はコンクリート製で金属の接続金具が遺ります
オ 蒸気管
広場に埋もれています。
エの蒸気管に続いていると思われますが、詳細は不明です。

▲土中に埋もれているため、上記エより状態が良いです
カ 愛宕社 参道
団地の斜面にコンクリート階段と排水溝が遺ります。
F’には構内神社である愛宕社が祭祀されていました。

▲コンクリート階段と排水溝
F 愛宕社
火伏神としてカグツチノミコトを祭祀しています。
昭和17(1942)年3月1日、香里製造所独立に伴い、4月16日、香里製造所、及び枚方町幹部臨席のもと愛宕神社藤本社司により御分霊、17日、枚方町の氏神・春日神社へ一時奉安の後、香里製造所内へ遷座され御鎮座祭を斎行、18日、御分霊奉祝祭が斎行されます。
昭和21(1946)年、米軍から破壊命令が出ますが、茄子作地区の住民により夜中に密かに春日神社に遷座されたそうです。

▲全景

▲本殿
※愛宕社関係の情報はブログ「香里ヶ丘歴史民族資料館」管理人・古川様より御教示頂きました。
E 建物
現在、枚方市立図書館茄子作分室として移築、使用されています。
元々の用途、詳細は不明ですが2棟の建物を移築に際し1棟に改造した様です。

▲全景

▲道路から
-境界石標-
建物関係の遺構は殆ど遺されていませんが、外周にかなりの境界石標が遺されていますが、住宅地の際どい場所にある物が多く探索には注意が必要です。
当地の石標は全て正面に「陸軍用地」、側面・裏面に漢数字の通し番号、頂部に方向表示が刻字されています。
資料によると「製造所の境界は防諜上、稜線の2m程下った場所に設置」とありますが、踏査するとそうでも無いようです。
※図中▲:境界石標の向き、緑点線:フェンス境界線、赤線:製造所境界線
b・d 北端
製造所北側外郭の住宅地に完存7、埋没5、抜け1本が遺ります。
▲境界石標の配置

▲82

70・・・民家の擁壁に埋まっています。
71・・・団地外周のフェンス外にあり、殆ど埋まっています。
72・・・ 〃 住宅の段差に埋まっています。
73・・・民家と民家の際にあり、殆ど埋まっています。
74・・・民家の外周にあります。 一一〇の刻字があります。
75・・・ 〃 。 一一一 〃。
76・・・ 〃 。 ブロックに埋まり数字が見えません。
77・・・ 〃 。 三六一の刻字があります。
78・・・抜けています。 三六三 〃 。
79・・・斜面上にあります。 三六四 〃 。
80・・・民家の際にあります。 一一五 〃 。
81・・・民家の擁壁に埋まっています。
82・・・民家裏の斜面上にあります。 一二三 〃 。
通し番号が飛ぶ事から77~79までの部分は後から拡張した様です。
e 北端
寺の外周に完存4本が遺ります。
▲境界石標の配置

90・・・寺の敷地内にあり、不在のため見れませんでした。一四〇と思われます。
91・・・寺の敷地際にあります。 一四一の刻字があります。
92・・・フェンス際にあります。 一四二の刻字があります。
93・・・斜面にあり方向表示が狂っている事から樹木の成長で向きが変わっている様です。
f 南端
住宅の境界として遺ります。
▲境界石標の配置

100・・・アパート外周に遺ります。 埋まっており頂部しか見えません。
101・・・民家の外周に遺ります。 材質、大きさから境界石標と思われますが、刻字が全て削られています。
102・・・ 〃 。
103・・・ 〃 。
101~103は戦後、住宅地の境界標に転用する際に刻字を全て削った様です。
g 観音山公園
製造所南側外郭の観音山公園に完存6、埋没1、欠損3本が遺ります。
▲境界石標の配置

▲47

40・・・公園の斜面にあり、欠損しており刻字は不明です。
41・・・ 〃 。
42・・・ 〃 。
43・・・公園外周フェンスの外側にあります。 二四八の刻字があります。
44・・・ 〃 。 フェンスの支柱が乗ります。 二四九 〃 。
45・・・ 〃 。 雑草に埋もれており、民家が接近し過ぎて確認できません。 周辺の番号から二四九と思われます。
46・・・ 〃 。 二五〇と思われます。
47・・・ 〃 。 二五二の刻字があります。
48・・・ 〃 。 二五三 〃 。
49・・・ 〃 。 公園外周フェンスの外側にあり殆ど埋没しており刻字は不明です。
h 香里ヶ丘東公園
製造所南側外郭の香里ヶ丘東公園に完存3、埋没2、欠損4本が遺されています。
▲境界石標の配置

50・・・公園外周フェンスの際にあり、殆ど埋没しており刻字は不明です。
51・・・公園の南側斜面にあり、欠損しており刻字は不明です。
52・・・ 〃 。 二八三の刻字があります。
53・・・公園の南側斜面にあり、「用地」以上が欠損しており、その他の刻字は不明です。
54・・・公園の南側斜面にあり、欠損しており刻字は不明です。
55・・・公園外周フェンスの際にあり、「陸軍」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
56・・・公園の斜面にあり、「陸軍」以下が埋没しています。 数字の刻字がありますが不明瞭です。
57・・・〃公園外周フェンスの際にあり、「陸軍」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
58・・・〃公園外周フェンスの際にあり、「陸軍用」以下が埋没しており、その他の刻字は不明です。
55・56は石標配置図には無い様で頂部が削られている事から現境界として転用された物かも知れません。
また57・58も頂部の方向表示が改編されている事から戦後の転用の様です。
i 桜公園周辺
▲境界石標の配置

5・・・駐車場外側の斜面下、北側建物との境にあります。埋まっており頂部しか見えません。
20・・・公園北側の入口脇にあります。 二五の刻字があります。
21・・・公園と北側の駐車場との境にあります。 二六 〃 。
22・・・ 〃 。 二七 〃 。
23・・・公園から北側の斜面を下った民家との境にあります。 二八 〃 。
24・・・ 〃 。 三二 〃 。
25・・・公園から北側の斜面を下った竹ヤブとの境にあります。 三三 〃 。
26・・・公園から北側の斜面を3m程下った場所にあります。 三五 〃 。
27・・・ 〃 。 三六 〃 。
28・・・ 〃 。 三八 〃 。
29・・・ 〃 。正面の「陸軍用地」が内側を向いており、移設された様です。 三七 〃 。
30・・・道路脇にあります。 三九 〃 。
31・・・ 〃 。 四〇 〃 。
32・・・国有住宅の敷地内にあり、抜けています。 四一 〃 。
33・・・ 〃 、欠損しているため刻字は不明です。 四二と思われます。
34・・・民家と民家の間にある丘の稜線上にあります。 四四 〃 。
35・・・ 〃 。 四五 〃 。
36・・・ 〃 。 四六 〃 。
37・・・ 〃 。 四七 〃 。
38・・・ 〃 。 四八 〃 。
39・・・ 〃 。 四九 〃 。
j 桑ケ谷公園
製造所北東側外郭の桑ケ谷公園に境界石標(完存10本)が遺されています。
他の境界石標は刻字されている番号が東から西に進みますが、当公園の境界石標は西から東に進みます。
昭和17(1942)年4月1日時点の配置図を見ると同公園一帯は未だ陸軍用地では無い事から、その後に買収された敷地のため石標の番号が大きく、且つ並びも逆の様です。
▲境界石標の配置

▲66

60・・・桑ケ谷公園外周のフェンス外にあります。 四四〇の刻字があります。
61・・・ 〃 。 四四一の刻字があります。
62・・・ 〃 。 四四二 〃 。
63・・・ 〃 。 四四三 〃 。
64・・・ 〃 。 四四五 〃 。
65・・・ 〃 。 数字の刻字がありません。
66・・・ 〃 。 四四七の刻字があります。
67・・・ 〃 。 四四八 〃 。
68・・・ 〃 。 四四九 〃 。
69・・・ 〃 。 四五〇 〃 。
70・・・ 〃 。 四五一 〃 。
k 製造所東端
桑ケ谷公園から続く民家外周に境界石標(完存7本)が遺されています。
▲境界石標の配置

▲113

110・・・民家下の路地に遺ります。 四六五の刻字があります。
111・・・民家の際に遺ります。 四六七 〃 。
112・・・ 〃 。 四七〇 〃 。
113・・・ 〃 。 四七一 〃 。
114・・・ 〃 。 四七二 〃 。
115・・・ 〃 。 四七三 〃 。
116・・・ 〃 。 四七四 〃 。
l 製造所東端
1 陸軍用(地)
道路の脇に遺りますが、4文字目以降が埋まっています(おそらく「地」)。
この場所は本来の境界からかなり離れ、方向も本来外向きの石標が内側を向いている事から、移設された物かも知れません。
▲境界石標の配置

m 製造所東端
▲境界石標の配置
2 境界石標?
欠損?しており本来土中にある部分しか遺っていません。

※境界石標は過去3度探索し48本を見付けましたが、令和元(2019)年12月、こちらもブログ「香里ヶ丘歴史民族資料館」管理人・古川様より全境界石標の配置図の提供、及び探索結果を頂き再々々探索し31本を発見できました。
上記以外にも相当数が遺っていると思われますが、香里製造所跡地は住宅地に造成されており探索できる場所は限られており全数調査は困難です。
あ 第三借上地
昭和19(1944)年7月、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか製造所南側に隣接する丘陵と谷地約170,000坪を賃借し地下格納壕を掘削しました。
停戦後、借地は変換され現在は全域が住宅地になり、遺構は何も遺されていません。
い 分散倉庫借上地
第三借上地同様、空襲に備え物資、茄子作、村野、寝屋の農家倉庫などを間借りし、資材、火薬類の分散保管を実施しました。
② 側線
昭和14(1939)年7月15日の開設時、物資の輸送は主に自動貨車で行われていましたが、昭和16(1941)年9月21日、鐡道省線星田(ほしだ)駅から製造所の積卸場まで軍用側線が敷設され鉄道輸送が開始されます。
大東亜戦争停戦に伴い資材の搬出に使用された後、昭和23(1948)年10月頃、撤去、昭和45(1970)年頃まで路盤盛土、鉄橋などが遺されていた様ですが、現在は全て撤去され僅かに境界石標が遺ります。
▲側線跡と境界石標

▲側線分岐部付近
側線は省線(現、JR)星田駅北側付近で分岐

▲側線跡の道路(中央)とJR片町線(右)
現在は高架化されていますが、当時は地上を走っていました。
側線は暫く省線と並走

▲250m程で北側に逸れて行きます。

▲逸れた地点から4km程で製造所に到着
当時は正面のマンション付近に110mの積卸場がありました
側線は道路に転用、拡幅された際に境界石標も僅かな物を除き殆ど抜かれてしまいました。
10 陸軍用地 九
水田の畦道際に遺り、背面に「九」の刻字があります。

11 陸軍用地 一〇
植木畑の際に遺ります。

12 陸軍用地 五六
用水路に遺ります。

13 陸軍用地 二二?
遊歩道の入口に遺りますが、若干埋まっており数字の最後が読めません。

14 陸軍用地 二二三
遊歩道の入口に遺り、上記13の背後にあります。

15 陸軍用地 七〇
道路工事の際に抜かれ、道端に転がっています。

この境界石標と道路(側線跡)を挟んだ北側の農機具小屋に境界石標の様な石材が立てかけられていますが、確認したところただの石材でした。
16 陸軍用地
畑の畦道に遺りますが、殆ど埋まっており番号は読めませんでした。

謎のコンクリート柱
13、14の境界石標のすぐ近くに立っています。
頂部にボルトが付いていますが、側線に関係ある物か不明です。

<東京第二陸軍造兵廠 香里製造所 略歴>
明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、火薬需要の急増に対し陸軍省は東京砲兵工廠板橋火藥製造所(東京)、同目黒火藥製造所(東京)、同岩鼻火藥製造所(群馬)に加え、京都府宇治郡宇治村五ヶ庄に火薬製造所の新設を決定し、11月1日、大阪砲兵工廠 宇治火藥「假」製造所を開設します。
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月、陸軍平時編制を制定し、第七から第十二師團の編成を決定します。
同時に各部隊に砲弾・弾薬を円滑に補給するため陸軍省は板橋、岩鼻、目黒火藥製造所を拡張・整備するとともに、宇治火藥製造所の建設・整備を進め、4月14日、正式に開設します。
昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発します。
8月16日、宇治火藥製造所において黄色薬熔融作業中に爆発事故が発生、8名死亡、4名重傷、14名軽傷、家屋142戸全壊、139戸半壊、700戸小壊の被害が出てしまいます。
陸軍省は支那事変による火薬需要に対応し、宇治火藥製造所の爆発事故から、事故防止を計るべく火薬の化成、及び成形作業を分離すべく、宇治火藥製造所は拡張の余地が無く、設備も老朽化していた事から新たに分工場の設立準備を進め、昭和13(1938)年8月頃、飛行機による偵察で、緩やかな起伏が連なる丘に沿って谷が伸びる地形が天然の土塁として機能し、また周辺に住宅地が無く、且つ交通の便が良い枚方町南部に広がる香里丘陵を候補地に選定します。
昭和14(1939)年1月、陸軍省は香里丘陵に分工場建設を正式決定、川越尋常小學校(昭和34年、廃校)に地権者を招集、事情・用地買収の説明を実施の後、枚方町大字茄子作、山之上、村野、中振にまたがる工場用地を買収、西山夘三中尉(京都帝國大學大学院生)が基本設計を担当、西側から順次建設を開始します。
7月15日、陸軍火工廠宇治火藥製造所 香里工場(今力衞大尉)の開設式が挙行され、12月、黄色薬圧搾工場(第一工場)の操業を開始します。
昭和15(1940)年4月1日に、『陸軍兵器廠令』(勅令第二百九號)により陸軍造兵廠は陸軍兵器廠と統合され、陸軍火工廠管下の各火薬製造所は東京第二陸軍造兵廠の管下となり、東京第二陸軍造兵廠宇治製造所 香里工場に改称します。
昭和16(1941)年初旬、黄色薬熔填、茶褐薬乾燥作業を開始、9月、鐡道省線星田(ほしだ)駅から製造所まで軍用側線を敷設、鉄道輸送を開始します。
10月1日、宇治製造所から独立、香里製造所として開設予定でしたが、6月下旬から連日の大雨により各地で浸水被害が発災、独立は延期されます。
12月8日、大東亜戦争が勃発します。
昭和17(1942)年3月1日、宇治製造所から独立し、東京第二陸軍造兵廠 香里製造所(小野秀夫中佐)に昇格します。
同年、安瓦薬の合成、填実工場(第二工場)の操業を開始します。
香里製造所の組織は、事務所(庶務、工務、検査、會計、倉庫、醫務各掛)、各工場からなり、正門外側に軍人・軍属官舎、正門内側に女子寮、構内西端に工員寮の桑ヶ谷寮、川越(かわごし)寮、構外西側に菅公寮、喜山寮、少し離れた南側に官舎・工員寮の高田寮が開設されました。
4月18日、愛宕神社より、愛宕社(製造所内神社、現在は春日神社内に遷座)が分霊され、製造所の火伏神として遷座します。
昭和17(1942)年以降、火薬需要の増大、工員不足から『國民勤勞報國協力令』(昭和16年11月22日、勅令第九百九十五號)、『昭和十八年度國民動員實施計畫』(昭和18年5月3日、閣議決定)、『女子勤勞動員ノ.促進ニ關スル件』((昭和18年9月13日、次官会議)、『緊急學徒勤勞動員方策要項』(昭和19年1月8日、閣議決定)、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』(昭和19年3月7日、閣議決定)、『學徒勤勞令』(昭和19年8月23日、勅令第五百十八號)、『女子挺身勤勞令』(昭和19年8月23日、勅令第五百十九號)等に基づき、女子挺身隊、及び四條畷中學(現、大阪府立四條畷高校)、大阪市立中學(現、大阪市立高校)、泉尾高等女學校(現、大阪府立泉尾高校)、市岡高女(現、大阪府立港高校)、私立明浄高女(現、明浄学院高校)、交野國民學校(現、交野市立交野小)等の學校報國隊が生産に加わります。
昭和19(1944)年7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、留守第四師團経理部は香里製造所南側に隣接する丘陵と谷地約170,000坪を賃借し地下格納壕を掘削、 また茄子作、村野、寝屋の農家倉庫などを間借りし、資材、火薬類の分散保管を開始します。
7月19日、製造所長・津留田之敬中佐が着任します。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦に伴い香里製造所は操業を停止、報國隊・女子挺身隊・応徴士に賃金、退職金を支給し勤務解除、11月10日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)により東京第二陸軍造兵廠は復帰、東京第二陸軍造兵廠殘務整理部が新編され、香里製造所は同部香里出張所となり復員官70名が残務処理に当たります。
昭和20年8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により香里製造所の用地、建物、生産設備、資材等は内務省(大阪府)を通じ大蔵省への移管が決定しますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始、10月、香里製造所は米軍に接収され半洞窟式火薬庫20数棟が爆破、爆弾・火薬の廃棄が行われた後、大蔵省に返還、大阪財務局の管理下に置かれます。
10月16日、枚方町は香里製造所用地、建物等の払い下げを申請します。
11月16日、連合国賠償委員会のエドウィン・ポーレーによる「ポーレー中間報告」(報復的な意味合いが極めて強く、我が国の生活水準を東南アジア諸国と同一程度に抑え込む提案)により、昭和21(1946)年1月20日、連合国軍最高司令官総司令部は『日本の航空機工場、工廠及び研究所の管理、統制、保守に関する覚書』(SCAPIN629)を発令、4月、香里製造所の製造機械類は賠償指定物件(全国の工廠、民間航空機工場389ヶ所が対象)に指定され、管理のため製造所内に大蔵省大阪財務局枚方出張所香里分室が設置されます。
4月1日、本部事務所、診療所など6棟を転用し香里國民學校 (現、枚方市立香里小学校)が新設、工場跡は田辺鉄工所、丸福鉄工所、工員寮跡は戦災者住宅などに転用されましたが大部分は放置されていました。
昭和22(1947)年4月、GHQは中間賠償計画の3割即時取立を指令、6月、賠償実施要領を発表、7月22日、撤去準備を指令、10月、米軍監督下に賠償対象の可動状態にあった工作機器の梱包が行われ、逐次中華民国、東南アジアなどに出荷されますが、昭和23(1948)年2月26日、海外調査団長クリフォード・ストライクは「第二次ストライク報告書」により我が国の復興に必要な設備の撤去を否定、昭和24(1949)年5月12日、極東委員会米国代表フランク・マッコイ少将は「これ以上の生産設備撤去は日本の自立を阻害する」(マッコイ声明)として中間賠償の取立て中止を発表、香里製造所の賠償指定が解除され大蔵省に返還されます。
昭和25(1950)年6月25日、ソ連の後援を得た北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争が勃発、特需を受けた民間企業が香里製造所の生産設備に着目、大蔵省に払下げ申請を行いますが住民の反対で断念します。
昭和28(1953)年、枚方市は政府に対し、香里製造所跡地の大規模住宅地としての開発案を提示、昭和30(1955)年7月25日、日本住宅公団が設立され、昭和31(1956)年4月9日、建設省から『枚方都市計画香里土地区画整理事業』が告示されます。
10月、第一工区の造成が開始され、昭和42(1967)年にかけ段階的に造成、製造所跡地の全域に大規模な団地が建設され現在に至ります。
<主要参考文献>
『大阪文化財研究30 「香里団地以前」』 (平成18年11月 森井貞雄 大阪文化財センター)
『いま、よみがえる枚方の20世紀 発掘・復元・検証』 (平成23年1月 大阪府文化財センター)
『大阪春秋126号 旧東京第二陸軍造兵廠 香里製造所の建築』(平成19年 酒井一光 新風書房)
『枚方市史 4』(昭和55年 枚方市史編纂委員会)
『枚方市平和(戦争遺跡)ガイド』(平成27年3月 枚方市人権政策室)
Webサイト
枚方市役所 市長公室 人権政策室
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