当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

工兵第六聯隊

熊本市大江には工兵第六聯隊の兵営がありました。

工兵六 ハ「永之和楽」碑(熊本陸軍遺構)
▲「永之和楽」碑






熊本城周辺の陸軍部隊配置
昭和6年頃の地図★拡大(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國測量部)
▲昭和6年頃の地図(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國陸地測量部)

昭和22(1947)年11月1日の大江村周辺の空撮
▲昭和22(1947)年11月1日の大江村周辺の空撮

熊本 第六師團(大江) 遺構
▲現在の地図に施設を転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
①野砲兵第六聯隊
②騎兵第六聯隊
③歩兵第十三聯隊
工兵第六聯隊
⑤渡鹿(とろく)陸軍練兵場

※名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構など、上掲地図参照)
工兵第六聯隊
明治9(1876)年4月17日、工兵第六小隊として新編され、熊本城東側の千葉城の兵営に入ります。
明治21(1888)年5月31日、大隊に改編、明治22(1889)年6月13日、大江村の新設兵営に移転します。
昭和11(1936)年、聯隊に改編されます。
昭和12(1937)年8月1日、工兵第六聯隊が支那事變に出征後は工兵第六聯隊留守隊(のち補充隊、西部第二十二部隊)、熊本師管區工兵補充隊(西部第六十五部隊)の兵営となり停戦を迎えます。

戦後、兵営は米軍の接収を経て、西側は熊本県が県立女子大用地として取得していましたが、南の歩兵第十三聯隊兵営跡の一角にあった熊本無線電信講習所(のち熊本電波工業高専、現、熊本高専)に提供され、昭和26(1951)年、校舎が新築(工兵営の西半分)されます。
昭和48(1973)年、熊本電波工業高専が合志市に移転後、校舎は取り壊され熊本大学大江総合運動場に、東側は熊本県警察学校なり現在にいたります。


ヌ 「皇太子殿下御野立所之跡」碑
工兵六 ヌ皇太子殿下御野立所之跡 碑(熊本陸軍遺構)

工兵六 ヌ皇太子殿下御野立所之跡 碑 (2)(熊本陸軍遺構)
▲離れて見た碑。クスノキと一体化しています。

熊本県警察学校の正門を入った右側のクスノキのたもとにあります。

建立されて92年の間にクスノキが成長し、巻き込まれています。
左面に辛うじて建立された日付の「大正九年四月一日」の刻字が読めます。

昭和天皇(当時、皇太子殿下)が渡鹿陸軍練兵場で行われた近隣部隊の演習を御視察された際、工兵第六大隊兵営において御休息されたのを記念して、大正9(1920)年4月1日に建立されました。


ネ 「至誠」碑
  「工兵第六聯隊跡」碑

工兵第六聯隊 至誠 碑(熊本陸軍遺構)

警察学校正門を入った左側、守衛室の奥にあります。

「至誠」碑は昭和7(1932)年1月4日、軍人勅諭下賜50周年を記念し建立されました。
揮毫は当時の大隊長・細田四郎工兵大佐です。
ちなみに裏面に同碑の建設委員と彫刻者の刻字があり、刻字も同大隊在営者によって行われた事が分かります。
さすが工兵隊と言ったところでしょうか。

「至誠」碑の脇には工兵第六聯隊の創立100年を記念し、昭和51(1976)年4月17日に工六会(工兵第六聯隊戦友会)により建立された「工兵第六聯隊跡」碑があります。

※以上2点は熊本県警察学校の敷地内にあるため、見学の際は必ず玄関にある受付で許可を得て下さい。


ノ 営門門柱?
工兵六 ノ営門門柱?(移設)(熊本陸軍遺構)

熊本大学大江総合運動場の入口に残されています。

昭和26(1951)年、熊本無線電信講習所の校舎が新築された際、元の位置(現、警察学校正門)から移築されたと言われています。
当時の写真と比べると、形状は似ているのですが、外観は全く異なります。
移設された際に表面に石板が貼られ、上部に飾りの笠石が乗せられたようですが、詳細は不明です。
工兵六 営門『工兵第六聯隊史』(熊本陸軍遺構)
▲工兵第六聯隊営門

工兵六 営門跡(熊本陸軍遺構)
▲現在の営門跡付近(警察学校正門


ハ 「永之和楽」碑
工兵六 ハ「永之和楽」碑(熊本陸軍遺構)

熊本大学大江総合運動場の裏口付近に残されています。

昭和7(1932)年に建立されました。
揮毫は「至誠」碑と同様、当時の大隊長・細田四郎工兵大佐です。
寡聞浅学なため刻字が読めなかったので、ネットで草書フォントを探して「永之和楽」と解析しましたが、間違っていたらご指摘願います。


工兵六 北東の石垣(熊本陸軍遺構)
▲兵営跡北側に残る石積
 明治中期頃まで多用された布積の石積ですが、当時の物かは不明です。


衛戍、編成聯隊
工兵第六聯隊(明九〇二五、西部第二十二部隊)
明治9(1876)年4月17日、工兵第六小隊として新編され、熊本鎭臺隷下となり熊本城東側の千葉城の兵営に入ります。
明治10(1877)年2月15日、西南の役が発生、22日、熊本城は薩軍の強襲を受けます。
小隊は熊本鎭臺司令長官・谷干城少将とともに籠城、薩軍13,000余名の攻囲を50余日間に渡って耐え抜き、地雷の敷設、熊本城の防御・修理工事に従事します。

明治21(1888)年5月31日、大隊に改編、明治22(1889)年6月13日、大江村の新設兵営に移転します。

明治27(1894)年、7月24日、第六師團に動員下令、8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発します。
大隊は第六師團(明治21年5月12日、熊本鎭臺から第六師團に改称)隷下の混成第十二旅團に編入され、師團先遣隊として第一師團とともに10月24日、遼東半島花園口に上陸、11月6日、金州城、22日、旅順攻略戦に参加します。
15日、大連湾に上陸した師團に復帰、22日、大連を出発し、23日、山東省栄城湾龍睡洞に上陸し、1月30日、聯合艦隊の援護射撃の元、清国北洋艦隊の要所・威海衛攻略、2月2日、北岸要塞、劉君島、日島攻略戦に参加します。
4月17日、下関において両国の講和条約が締結され、6月、師團とともに熊本に凱旋し復員します。

明治30(1897)年11月10日から13日、明治天皇御統監のもと筑後平野で行われた特別大演習に参加します。

明治35(1902)年11月10日から14日、明治天皇御統監のもと熊本地区において実施された特別大演習に参加します。

明治37(1904)年2月10日、ロシアの強硬な南下政策により、我が国の安全保障を確保すべく明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発します。
5月19日、第六師團に動員下令、27日、動員完結、6月10日、大隊は師團とともに熊本を出発し、13・14日、長崎を出航、17・18日、遼東半島塩大墺に上陸、馬家屯に集結します。

6月21日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入(大隊は第二中隊を第三軍に派遣)され第三・第四師團とともに北上を開始、7月10日、蓋平の戦闘、23日、大石橋付近の戦闘、31日、海城付近の戦闘、8月27日、鞍山付近の戦闘に参加、ロシア軍を撃破します。
8月30日、遼陽會戰、9月1日、首山堡攻撃、4日、遼陽城攻略戦、10月8日、沙河會戰、11日、台子、楊家湾攻略戦、続く沙河対陣に参加します。

第二中隊は第三軍(乃木希典大将)に派遣され、第九師團(大島久直中将、金沢)の指揮下に入り、11月中旬、第三回旅順要塞攻撃の二龍山堡塁、盤龍山堡塁、二〇三高地攻撃に参加、塹壕掘削に従事します。

明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に参加します。
25日、師團は第四軍(野津道貫大将)の戦闘序列に入り、5月21日、昌図付近に前進し守備に就きます。
5月27日、聯合艦隊が日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊を殲滅します。
9月1日、日露両国が休戦議定書に調印、14日、日露講和条約(ポーツマス条約)が締結、明治39(1906)年3月3日、熊本に凱旋、復員します。

大正3(1914)年8月23日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)参戦により、第十八師團を基幹に編制された獨立第十八師團(神尾光臣中将、久留米)に1個中隊が編入され、青島攻略に参加します。

大正12(1923)年4月13日、滿州駐箚のため大隊は一部を留守隊として熊本に残置し第六師團とともに熊本を出発、16日、龍樹屯に上陸し警備にあたり、大正14(1925)年5月、熊本に帰還します。

昭和3(1928)年4月19日、国民党革命軍(国府軍:蒋介石)による奉天軍閥(張作霖)の北伐が開始されたため、居留民と我が国の権益保護のため第六師團は山東省に派遣(第二次山東出兵)、大隊からは1個中隊が出征します。

26日、中隊は師團とともに済南に到着し、20日に到着した支那駐屯軍臨時済南派遣隊(3個中隊)と合流、居留民保護にあたりますが、5月3日、国府軍による日本人虐殺陵辱・商店略奪(略奪被害戸数136、被害人員約400:済南事件)をきっかけに我が軍と国府軍と交戦、中隊は城門破壊などを実施し国府軍の攻撃を拒止、11日、我が軍は済南城を占領し、国府軍の武装解除にあたります(昭和4年3月28日、日支間の協定締結)。
8月16日、師團は済南の守備を第三師團と交替し、26日、済南を出発、9月10日、熊本に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発します。

11月12~14日、昭和天皇御統監のもと、熊本で挙行された陸軍特別大演習に参加します。

昭和7(1932)年12月7日、第六師團に動員下令、16日、大隊からは1個中隊が師團とともに熊本を出発、17日、釜山に上陸、20日、奉天に到着、吉林周辺の警備にあたります。

昭和8(1933)年2月17日、師團とともに満洲國と關東軍の熱河作戰に参加、3月5日、赤峰に達し、開城攻略戦、4月10日、長城線攻略戦に参加します。

4月11日、国府軍は直隷地区に20万の兵を集結、さらに長城線を超え北上を開始したため、關東軍は灤(らん)東作戰を発動、中隊は師團とともに国府軍を冷口方面の長城を越えて灤河右岸まで撤退させ、19日、長城線に帰還します。
しかし、国府軍は帰還する我が軍を追尾して灤東地区まで侵入して来たため、5月3日、關東軍は關内作戰を発動、8日、中隊は師團の進撃路を啓開しつつ再び進撃を開始、12日、灤河を渡河作戰を支援、23日、薊運河-懐柔-密雲の線に進撃します。
25日、国府軍が停戦を求めたため、關東軍は作戦行動を停止し、31日、塘沽停戦協定が締結されます。
9月10日、内地帰還の命を受け、10月14日、熊本に凱旋します。

昭和11(1936)年、聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、27日、第六師團に動員下令、31日、動員完結、8月1日、聯隊は師團とともに熊本を出発、同日、門司港を出航、釜山に上陸し、13日、北京東南の側黄村に集結し警備にあたります。

9月14日、保定作戰の参加、師團主力の永定河渡河作戰を実施、牛駄鎮、新城、徐州と進撃し、24日、保定城攻略戦に参加します。
10月1日、京漢鉄道を南下、10日、滬河渡河作戰を実施、同日、石家荘攻略戦に参加、趙県城に集結します。

15日、石家荘周辺に集結、昭和13(1938)年1月19日、石家荘周辺を出発、25日、天津塘沽に集結、26日、第六師團は中支那方面軍戦闘序列の第十軍(柳川平助中将)の隷下となり、塘沽を出航、南鮮の八口浦に集結、11月5日、杭州湾海月奄付近に奇襲上陸します。
聯隊は師團進撃路のクリークを啓開しながら進撃し、松江付近で国府軍追撃戦、15日、崑山攻略戦に参加します。

12月1日、中支那方面軍は国府軍の首都・南京城攻略を下令、師團とともに嘉善・嘉門付近を出発、強行軍を続け、7日、緑口鎮に進出、将軍山、牛首付近で国府軍と交戦、11日、南京城外の国府軍の拠点・雨花台を攻略戦に参加、12日、南京城中華門攻略に参加、13日、野砲六の砲撃により城壁の一角が崩壊、遂に中華門城壁一帯を攻略します。

13日未明、支那軍の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し南京城北側の下関を目指し潰走、午前5時、第九師團歩三十六(脇坂次郎大佐、鯖江)が光華門付近を完全に占領、南京城を攻略します。

聯隊は中華門外三里店付近に野営の後、15日、蕪湖に移駐し周辺の警備にあたります。

昭和13(1938)年6月、師團とともに武漢作戰の初期作戦である安慶作戰に参加しますが、マラリアが発生し戦力が消耗してしまいます。
7月4日、師團は新設された第十一軍(岡村寧次中将)隷下となります。
10月17日、師團は進撃を開始、敗走する敵を追撃し多量の兵器を鹵獲、25日、遂に漢口の一角に突入(一番乗り)、26日、漢口市街地を攻略、中支那派遣軍の武漢攻略に貢献します。

武漢攻略後、聯隊は武昌周辺の警備に就き、昭和14(1939)年2月、師團の武寧作戰に参加します。
3月下旬、岳州地区の警備に就き、9月23日、国府軍第九戦区軍殲滅のため第十一軍の贛湘會戰に参加します。

昭和15(1940)年9月6日、第十一軍の第一次長沙作戰に向け側背面の脅威を排除するため、師團の大雲山周辺の討伐、9月18日、第一次長沙作戰に参加、28日、第四師團により長沙は攻略されます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

24日、師團は第十一軍の第二次長沙作戰に参加、聯隊は新牆河渡河作戰、次いで26日、汨水を渡河作戰を実施、昭和17(1942)年1月1日、第三師團は長沙城に攻撃を開始しますが重慶軍の頑強な抵抗に攻撃は遅滞、3日、第六師團も攻撃に加わりますが重慶軍約30個師が包囲にかかったため、4日、攻撃を中止して反転を開始します。
聯隊は瀏陽河において第三師團の渡河を支援、影珠山付近では重慶軍の追撃・攻囲を受け苦戦しながらも強行突破し、11日、福臨舗付近に集結します。
聯隊は中支に広がる水流・湿地帯を啓開・渡河支援を実施、師團の作戦行動を容易にしました。

8月、ソロモン海域でガダルカナル島を巡る戦闘が生起、9月、第六師團は南方戦線強化のためソロモン方面への転出が決定し、武漢に集結します。
11月16日、ソロモン・ニューギニア方面の深刻な戦局を打開するため第八方面軍(今村均中将)が新設、師團は第八方面軍直轄として戦闘序列が令され、ガダルカナル島へ進出のため上海付近に集結、25日、ソロモン方面の作戦を担当する第八方面軍隷下の第十七軍(百武晴吉中将)戦闘序列に編入、12月20日、六號輸送船團11隻に分乗し上海を出航、昭和18(1943)年1月1日~3日、パラオを、1月上旬、トラックに上陸しガダルカナル島への輸送を待ちます。

12月31日、我が軍のガダルカナル島からの撤退が決定したため、第六師團は北部ソロモンの防衛強化のため、1月19~24日、六號輸送船團に分乗し逐次ブーゲンビル島を目指しますが、途中敵潜の雷撃により輸送船3隻が沈没し僚隊の多くの将兵・弾薬・資材を失うなか、ブーゲンビル島南部のブインに集結します。

聯隊はブインに集結後、師團の作戦方針に従いタイタイに司令部と1個中隊、モシゲタ、キエタ、ショートランド島にそれぞれ1個中隊を配置し米軍の上陸に備え陣地構築を行います。

11月1日、米第1海兵軍団がブーゲンビル島西部タロキナ付近に夜明けとともに上陸を開始、歩二十三第一大隊第二中隊(堀之内正義中尉、聯隊砲1、無線1個分隊配備)は水際で反撃、敵上陸用舟艇数隻を撃破し一時大混乱に陥れますが、圧倒的な兵力差に0700、玉砕してしまいます。
師團長・神田正種中将は歩二十三聯隊長・濱之上俊秋大佐に反撃を命じます(第一次タロキナ攻撃)が、敵迫撃砲の集中砲火に第一線の重火器は破壊され損害が増加、濱之上聯隊長は敵砲撃射程外に集結し再興を期しますが第八方面軍命令により作戦は中止されます。

昭和19(1944)年2月11日、第十七軍により第二次タロキナ作戦の命令が下令されます。
3月8日、聯隊は第六師團により編成されたは3部隊に鉄条網啓開・掩壕爆砕の為それぞれ編入、さらに攻撃部隊の飛行場制圧・敵撃滅後の捕捉殲滅部隊としてタロキナ逆上陸を企図し2個小隊が攻撃に参加します。
しかし、敵の航空機・戦車・迫撃砲による弾幕阻止射撃・逆襲に阻まれ攻撃は遅滞、25日、遂に攻撃は中止され甚大な損害(9,548名で作戦に参加した師團は2,398名が散華、3,066名が負傷、聯隊は560名で参加、180名が散華、100名が負傷、現員280名)が出てしまいます。

3月27日、第十七軍により時期態勢移行の新配置が定められ、越澤支隊(騎兵六基幹、越澤六郎大佐)が撤退援護にあたる中、聯隊は第六歩兵團司令部(岩佐俊少将)、輜重六とともにタイタイに配置、爾後孤立したブーゲンビル島で自戦自活体制に入ります。

11月22日、ブーゲンビル島の米第14軍はフィリピン方面へ転出し、豪第2軍団(スタン・S・サビジ中将)に交替します。
25日、豪第2軍団第3師団第29歩兵旅団が南下を開始、歩十三、野砲六の反撃で敵の侵攻を拒止しますが、敵部隊の増援に苦戦、2月25日、歩十三は遂にモシゲタを放棄しプリアカ河左岸に後退します。
3月20日、第六師團はオソに集結、豪軍を拒止するためプリアカ作戦を発動します。

28日、急造の歩兵部隊となった野砲六が豪軍前進陣地のパインを急襲し攻略、29日、歩二十三がバラバラを攻略、聯隊は(聯隊長・岩中廣知大佐以下3個中隊150名)歩二十三に続行し西進、バラバラから南下しトコ方面の豪第25大隊後方から挺身攻撃を開始、坂口一義曹長以下5名がプリアカ河鉄橋を爆破に成功します。

4月1日未明、豪軍拠点の豪州台を歩十三は東から、歩二十三は西から、野砲六は南から攻撃を開始しますが、天明とともに豪軍の砲撃に阻まれ攻撃は遅滞、一旦後退します。
5日黎明、師團は右翼に歩二十三、左翼に歩十三、師團予備に野砲六を配置、野砲六の準備射撃のもと再び豪州台に攻撃を開始、敵第一線を突破しますが、第二線で頑強な鉄条網と戦車を含む強力な銃砲火に阻まれ攻撃は遅滞、損害は増加し遂に後退します。
師團は豪第7歩兵旅団に大損害を与えますが、我が方も歩二十三聯隊長・河野大佐を含む幹部多数、1,000余名の損害を出してしまい、一時的に敵の侵攻を挫折させたものの作戦の初期目的は達成できず、第十七方面軍主力のあるエレベンタ地区防御陣地完成まで敵の侵攻を拒止するため、ハリハリ河東岸まで防御線を後退させます。
聯隊は野戰重砲兵第四聯隊の歩兵大隊、歩十三聯隊の一部とともに、決戦準備として各拠点の編成構築に当たります。

4月14日、豪軍は第7歩兵旅団に替わった第15歩兵旅団が西進を開始、野砲六第三中隊(三好博中佐)の守備するパイン、トキノトの陣地に侵攻、歩兵化した野砲六は反撃に転じますが戦車と激烈な砲撃に阻まれ玉砕してしまいます。

25日、さらに豪軍は戦車を先頭にボンゴライ河に向け侵攻、聯隊は苦戦する野砲六救援のため歩十三により編成された木下部隊(木下西舟少佐、歩十三140名)に20名を派遣、野重四第二大隊(猿渡榮治少佐)とともにボンゴライ河西岸に渡河、野砲六と合流し巧みに対戦車砲を隠蔽し反撃、敵戦車数両を撃破、豪軍に損害を与えるも豪軍は増援部隊を投入、機動力を生かしボンゴライ河東岸に迂回、木下部隊の後方に侵入したため、5月22日、部隊は遂に後退します。
6月4日、ハリハリ河の歩二十三が戦車を伴う豪軍により突破されてハリハリ河東岸からモビアイ河西岸まで浸透されてしまいます。

第十七軍は豪軍の侵攻をミオ河西岸で拒止、エレベンタ地区における決戦準備を容易にするためミオ作戰を策定、6月26日、師團はシンガロキに司令部を前進、隷下部隊に攻撃を命じ、聯隊は190名で作戦に参加します。

歩十三、歩二十三、野砲六は縦深陣地を構築し、敵戦車を第一目標とし侵攻を続ける豪軍の拒止につとめますが、戦車と敵砲兵の弾幕射撃に徐々に後退します。
6月下旬からの豪雨と挺身攻撃により豪軍の侵攻を拒止するなか、8月16日、停戦を迎えます。


工兵第百六聯隊(通称号なし)
昭和13(1938)年5月15日、工兵第六聯隊留守隊により編成(茶村秀雄中佐)、6月2日、漢口に向け進撃を開始した第六師團の後方連絡線確保のため留守第六師團により編成された第百六師團に隷属します。

6月2日、師團とともに熊本駅を出発し門司に集結、中支に向かい長江を遡上し江南地区の警備にあたりつつ、応急訓練を実施します。

7月4日、師團は第十一軍戦闘序列に編入され、湖東に集結し、7月24日、九江攻略戦、8月4日、大天山攻略戦に参加しますが、作戦地が山岳地帯のうえ道路が無いため輓馬での火砲牽引を断念した野砲兵百六聯隊を歩兵第百六聯隊とともに支援、火砲の一部を臂力搬送で前進させ、金家山攻略戦に参加しますが、国府軍の頑強な抵抗に攻撃は遅滞、9月1日、聯隊長・茶村中佐が散華してしまいます(新聯隊長・岩崎成雄中佐)。
9月20日、師團は徳安攻撃中の第二十七師團の援護を命じられ、25日、馬廻嶺から西進、聯隊は泥濘悪路を啓開しつつ前進するも、28日、補給線が途絶、10月3日、有力な国府軍と遭遇し包囲を受けた師團は雷鳴鼓刘に孤立、さらにマラリヤ・大腸炎が蔓延、第十一軍による空中補給を受けるなか、17日、第二十七師團により救出されます。

31日、第十一軍は師團に第百一師團が攻略した徳安から敗走する支那軍追撃を下命、11月1日、追撃を開始し白槎街に進撃、軍命令により警備にあたり事後の作戦準備を行い、11月下旬、陽新、田家鎮、武穴などに移駐します。

昭和14(1939)年2月中旬、第十一軍の南昌作戦に師團とともに参加します。

聯隊は徳安南方に集結後、3月19日、修水渡河作戰では第十一軍直轄の野戰重砲兵第六旅團長・澄田睞四郎少将の指揮下、重砲から迫撃砲を含む250門の攻撃準備射撃・渡河支援射撃の援護を受け渡河を成功させ、27日、第百一師團が南昌を攻略します。
4月2日、師團の高安城攻略戦に参加します。

中支における中央政権(汪兆銘政権)樹立の政略に寄与すべく、国府軍第九戦区軍を撃滅して蒋介石の抗戦意欲を破砕するため、第十一軍は贛(かん)湘會戰を発動します。

聯隊は師團とともに、9月14日、富館付近に進撃、26日、白沙坪、大埠橋攻略戦に参加、10月4日、石街-沙窩舗の線に進出します。
第十一軍は掃討作戦後、反転を開始し新墻河以北の旧警備地区に転進、10月中旬、師團とともにも旧警備地区の安義地区に復帰します。

11月、第百六師團は内地帰還の内命を受けますが、12月20日、師團は南支の第二十一軍戦闘序列に編入され第三十三師團と警備を交替し南支に移駐、広東・増城周辺の警備に就きます。
昭和15(1940)年2月9日、南支那方面軍が新設、師團はその戦闘序列に編入され、3月4日、汕頭方面での掃討作戦に参加、14日、作戦終了後、昭和15(1940)年3月9日、師團とともに熊本に凱旋し、4月11日、復員完結、17日、第百六師團の廃止に伴い工兵第百六聯隊も廃止されます。

汕頭に残置した人員により獨立混成第十八旅團工兵隊が編成され、昭和17(1942)年2月2日、第五十八師團への改編に伴い、同師團工兵隊に改編され、一號作戰(大陸打通作戦)第二段のト號作戰(湘桂作戰)に参加、全県で停戦を迎えます。


工兵第二十三聯隊(旭一一六七、満洲第百九十七部隊)
昭和13(1938)年4月4日、工兵第六聯隊留守隊により編成、支那事變による占領地の警備・治安維持を実施するため7月11日、編成完結した第二十三師團(小松原道太郎中将)に隷属します。

編成完結後、師團とともに滿洲國興安省海拉爾(ハイラル)に屯営していた騎兵旅團が支那戦線に出征したため、騎兵旅團の交替として海拉爾の警備にあたります。

昭和14(1939)年5月11日、外蒙軍がノモンハン付近で満洲との国境であるハルハ河を渡河し越境、警備にあたっていた満洲國軍騎兵隊と交戦しノモンハン事件が発生します。

聯隊は師團とともに参加、9月16日、停戦協定が締結されますが大損害を受け、聯隊は海拉爾に移駐し戦力の回復を実施、国境警備にあたります。

昭和16(1941)年7月16日、特臨編第三號(第百二次動員)により師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結、対ソ戦を見越した準備に着手しますが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

昭和19(1944)年10月11日、第二十三師團に臨時編成が下令、23日、關東軍戦闘序列を離れ、台湾防衛のため第十軍戦闘序列に編入、逐次台湾へ移動を開始しますが、捷一號作戰準備の発令に伴い第十四方面軍(山下奉文大将)に編入され急遽ルソン島への転進が決定します。

11月14日、師團は特殊船「神州丸」、「吉備津丸」、「あきつ丸」、「摩耶山丸」に分乗しヒ八一船團に加わり伊万里湾を出港します。
15日、済州島付近で敵潜「クイーンフィッシュ」の雷撃を受け「あきつ丸」が轟沈、、17日、敵潜「ピクーダ」の雷撃を受け「摩耶山丸」が轟沈し多くの将兵・物資を失ってしまいます。
12月12日~29日にかけ聯隊はサンフェルナンド、及びマニラに上陸、30日、シソン南方のボボナンに集結します。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸を開始、上陸地点近くのダクバンに布陣していた歩七十二第八中隊(塩月少尉)の1個小隊が包囲されたため切込を敢行し玉砕してしまいます。
1月6日、聯隊は陣地周辺の交通網を破壊し米軍の侵攻に備え、7日、カバルアン丘に集結、15日、第一中隊は歩七十一、第三中隊は師團直轄となります。
2月下旬まで師團隷下部隊は圧倒的兵力の米軍の侵攻に各地で激戦を展開しますが、次第に隷下部隊の陣地は分断・包囲されてしまいます。
2月25日、師團は軍司令部の所在するバギオに続く国道11号に後退し布陣、獨混第五十八旅團とともに挺身切込・肉薄攻撃隊を編成し、米軍の拒止に努めます。
3月10日から4月26日、聯隊主力は歩七十一、一部は歩六十四、歩七十二に配属されます。
4月26日、軍司令部がバギオからカガヤン渓谷に転進、師團も軍司令部を追及しボコドに布陣するにあたり聯隊はアンブクラオ-ポコド間の道路啓開を実施、タボイに布陣し陣地構築に当たる中の9月10日、聯隊長・水野捷海中佐以下約100名が停戦を迎えます。


第二百六師團工兵隊(阿蘇三二四〇九)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により4月2日、熊本師管區工兵補充隊により編成(押川一美少佐)されます。

4月2日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、留守第四十六師團により臨時動員された機動打撃師團である第二百六師團(岩切秀中将)に隷属します。

工兵隊は師團の作戦地である薩摩半島伊集院に進出、作戦準備中に停戦を迎えます。


獨立工兵第七聯隊(備七〇一七)
昭和16(1941)年7月9日、工兵第六聯隊補充隊において編成(小金沢福次郎中佐)、満洲東部の守備を担当する第五軍(波田重一中将)の指揮下に入り渡満、虎頭南方に屯営します。

昭和19(1944)年2月25日、第三十一軍(小畑英良中将、サイパン)戦闘序列となり、サイパン島防衛強化のため、サイパン島進出が決定します。
聯隊は東京に集結(小金沢大佐以下775名)し、4月1日、東松四號船團(輸送船26隻、護衛艦10隻、海軍第二護衛船團司令部-清田孝彦少将指揮)に分乗し、10日、サイパン島に上陸、第二中隊は隣接する大宮島(グアム)に配置され第三十一軍直轄(8月11日、玉砕)となります。
聯隊は敵上陸地点と目されるオレアイ海岸とチャランカノア海岸の南方、ヒナシス台地の東側に配置され米軍上陸に備え、南地区の陣地構築指導、及び実施しますが、資材不足により築城は進展せず、野戦陣地を完成をさせるに留まります。
6月11日、米艦載機1,100機による空襲、13日、戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴う艦隊により艦砲射撃が開始されます。
15日0700、米軍主力の海兵隊が上陸を開始、我が軍は水際陣地攻撃を実施しますが米軍の空海一体の攻撃により大損害を被り、さらに夜襲も照明弾と圧倒的な火力により阻まれ、17日、聯隊長・小金沢大佐が散華してしまいます。
16日、アスリート飛行場が占領され、19日、海軍があ號作戰に敗れ制海権・制空権を完全に喪失、我が軍は戦線を整理し防御に適した中部のタポチョ山嶺まで後退、新たに防御線を敷き、連日敵部隊と激戦を展開します。
しかし、米軍の攻撃を拒止するに至らず、戦線は錯綜、25日、我が残存兵力は6,000名に減少、タポチョ山の線から最終防御線である島北部に後退します。
守備隊は夜間、挺身奇襲攻撃を敢行し局地的に相当の戦果を挙げますが、兵力差は歴然で戦局の大勢に影響を与えるまでには至りませんでした。
29日、第四十三師團長・斎藤義次中将は戦闘指揮所を地獄谷へ移動し、兵力を再編成し最後の防衛線を構築します。
7月3日、5日間の戦闘の後、サイパンの中心街ガラパンが占領されます。
4日、米軍は我が最終陣地に対し攻撃を開始、5日、我が守備隊は占領されたガラパンへの最後の総攻撃を決定し、大本營に訣別電を打電します。
6日、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将、第四十三師團長・斎藤義次中将、第三十一軍参謀長・井桁敬二少将が古式に則り自決、また第五根拠地隊司令官・辻村武久少将、辻北部支庁長なども自決します。
総攻撃を前に各聯隊は軍旗を奉焼、第四十三師團参謀長・鈴木卓爾大佐、参謀・吉田正治中佐、参謀・平櫛孝少佐の3名の指揮の下、7日0300、残存兵力約3,000により最後の攻撃を実施、敵を大混乱に陥れるも玉砕してしまいます。
聯隊は河野武彦中佐以下残存兵力が7日の総攻撃に参加、停戦時の生存者53名が生還します。


主要参考文献
『熊本兵団史 西南の役から第二次世界大戦まで』(昭和51年 熊本日日新聞・熊本兵団史実行委員会)

『日本陸軍兵科連隊』(平成6年11月 新人物往来社)

『太平洋戦争師団戦史』(平成8年5月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『熊本の戦争遺跡』(平成22年12月 創想舎)
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まとめtyaiました【工兵第六聯隊(明九〇二五、西部第二十二部隊)】

熊本市大江には工兵第六聯隊の兵営がありました。▲「永之和楽」碑

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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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