当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

熊本陸軍幼年學校

熊本市清水には熊本陸軍幼年學校(清水臺)がありました。
熊本陸軍幼年學校 正門門柱(「防衛館」入口に移設、金具等は無い)(熊本陸軍遺構)
▲移設された校門門柱(袖門)

【探索日時】
平成23年10月13日

【更新情報】
平成24年10月11日:本田睦雄様(熊幼四十六期)のご指摘・ご指導により加筆訂正
平成24年11月12日:H.N.虎様のご指摘により加筆






熊本陸軍幼年學校の敷地は現在、全域が陸上自衛隊・北熊本駐屯地の一部となっています。
熊本陸軍幼年學校 熊幼220417(熊本陸軍遺構)
▲昭和22(1947)年4月17日の熊本陸軍幼年學校跡地(米軍キャンプ・ウッド)周辺の空撮
 (国土地理院NI-52-11-7
 ※白抜部分が熊本陸軍幼年學校跡(黄色部分は米軍が拡張したキャンプ・ウッド)

熊本陸軍幼年學校 熊幼(現在)(熊本陸軍遺構)
▲現在の地図に施設を転写したもの

熊幼(昭和19)
▲昭和19(1944)年頃の敷地配置(『熊本陸軍幼年学校48期の記録』より)


遺構について※青字は地図にリンクしています
各遺構は北熊本駐屯地の強力な支援のもと熊本在住の熊幼会有志が心の拠所として管理保全されており、非常に綺麗な状態で維持保存されています。
また、熊本陸軍幼年学校由来、奉斎殿(雄健神社)、遥拝所、展覧台、米軍占領時の教会尖塔には日本語・英語併記のステンレス製エッチング加工の詳細な説明板、他の遺構にも簡単な説明板が建てられ分かりやすく整備されています。
熊本陸軍幼年學校 天覧台 由来 (2)(熊本陸軍遺構)
▲天覧台に設置された説明板

熊本陸軍幼年學校関連の遺構については本田睦雄様(熊幼四十六期)のご指摘・ご指導を頂き、また貴重な資料を提供していただきました。
この場を借りて篤く御礼申し上げます。


A 雄健(おたけび)神社
現在は「奉斎殿」として元生徒の方々の「心の故郷」として、自衛隊により大切に保存管理されています。
熊本陸軍幼年學校 奉斎殿(熊本陸軍遺構)
▲拝殿
 鳥居は戦後建てられた物のようです。
 本田様ご指摘により鳥居は停戦時に米軍により撤去されてしまいますが、平成20(2008)年3月に復元したそうです。
※以下、本田様ご指摘箇所は紫色で記述します。

熊本陸軍幼年學校 奉斎殿 鳥居から熊本城が見える (2)(熊本陸軍遺構)
▲拝殿からは熊本城が見えるようになっています。
 生憎訪問した日は曇り空で薄っすら見える程度でした。

昭和15(1940)年7月10日、清水臺の新校舎完成に際し菊池神社・加藤神社の霊位を分祀・奉斎しますが、昭和20(1945)年8月15日、『大東亜戰争終結ノ詔書』を拝し進駐軍に汚されるのを防ぐため、28日、霊位は奉焼されます。

10月5日の米軍接収に先立ち事前調査に訪れた米軍将校に対し、校長・加藤年男大佐は予め校内を整理整頓させておき、詳細な引渡目録を渡し案内します。
その整然とした引渡しに感心した米軍将校に希望を聞かれ、加藤大佐は「雄健神社、遥拝所、天覧臺は学校にとって聖地として来たところのため、是非保存してもらいたし」と依頼、米軍も了承し接収解除まで大切に保存されました。
昭和32(1957)年、米軍の接収解除とともに御神体は復元(H.N.虎様ご教示)、社殿は自衛隊に引き継がれ熊幼会で昭和62(1987)年・平成8(1996)年に小修理、平成13(2002)年8月に大修理が行われ現在に至ります。

加藤年男大佐(熊幼最後の校長)
▲加藤年男大佐


B 大講堂(移築・改築)
北熊本駐屯地の南門正面に大講堂が移築、改装され遺されています
Googleストリートビューの画像

大きな地図で見る
▲正面の青色三角屋根の建物が大講堂

陸自第8師団の公式サイトには「大講堂が移設され現在も使用中」と掲載されていたので、見学の際に広報の方に伺ったところ「聞いたこと無いです。現在、大講堂と言われているのはこの第8音楽隊の練習場ですが・・・」との事です。
練習場は外観は屋根の高い古い形状でしたが、外壁は鋼板貼で近代の建物に見えたのと、大型の現存建物であれば周知されているものと思い写真を撮りませんでした。
先日、指摘され「あぁやっぱり!」と後悔しています。


ア 校門跡
南側の土堤、土留の石組みが残されています。
熊本陸軍幼年學校 正門跡(南側の石組現存) 北西から(熊本陸軍遺構)
門柱は昭和43(1968)年12月、駐屯地隊舎建替えの際、ウの位置に移設されました。

熊本陸軍幼年學校 熊幼校門(熊本陸軍遺構)
▲幼年學校当時の校門付近

熊本陸軍幼年學校 正門跡(南側の石組現存) 西から(熊本陸軍遺構)
▲現在の校門跡付近


イ 東門
門柱と土留、南北の土堤が残されています。
熊本陸軍幼年學校 東門門柱 南東から(熊本陸軍遺構)
▲校外側から撮影
 裏側(校内側)には蝶番と吊り金具が残されています。


ウ 校門門柱(移設)
熊本陸軍幼年學校 正門門柱(「防衛館」入口に移設、金具等は無い)(熊本陸軍遺構)
元々は上記のアの位置にありました。
現在は防衛館(資料館)の門柱として使用されています。

上掲の当時の写真を見て頂ければ分かりますが、本体の目地の形状から両脇の袖門である事が分かります。

熊本陸軍幼年學校 正門門柱(「防衛館」入口に移設、金具等は無い) (4)(熊本陸軍遺構)
▲門札は「熊本陸軍幼年“学”校」と新字体で書かれているため、戦後造られた物のようです。


エ 天覧臺
熊本陸軍幼年學校 天覧台 南東から (2)(熊本陸軍遺構)
▲天覧臺と階段

熊本陸軍幼年學校 天覧台 頂部(熊本陸軍遺構)
▲天覧臺上の立ち位置

昭和15(1940)年3月27日、熊本陸軍幼年学校の清水臺新校舎完成・移転に際し、職員・生徒の奉仕により築造されました。
昭和17(1942)年1月10日、李垠王中将、3月13日、梨本宮守正殿下の御台臨、10月12日、昭和天皇の侍従武官の来校の際、この台上より生徒の練武状況を視察され、また陛下の行幸を祈念し何時しか「天覧臺」と称されるようになりました。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亜戰争終結ノ詔書』を拝し、28日、当台上において御真影、勅諭、勅語、雄健神社及び武道場の御神体、記念堂の同窓英霊遺品、本部庁舎玄関上の菊の御紋が職員・生徒一同の国歌、海行かば斉唱の中奉焼されました。

熊本陸軍幼年學校 天覧台からの景色 パノラマ写真 パノラマ写真(熊本陸軍遺構)
▲天覧台からの景色
 現在の運動場は当時も運動場でした。

熊本陸軍幼年學校 全景(熊本陸軍遺構)
▲上掲写真右側部分にあった本部庁舎(手前/白建物付近)と現在も移築現存の大講堂(奥/鉄塔付近)


防衛館の前庭には以下の遺構が移設されています。
オ 熊本城籠城戦死者の碑(移設)
元々は熊本城内にありました(詳細な場所は不明)が、熊本城改修の際に市教育委員会により北熊本駐屯地に寄贈されました。
熊本陸軍幼年學校 熊本城籠城戦死者の碑(移設)(熊本陸軍遺構)
縮小写真では全く読めませんが、碑面には「熊本籠城間死傷者七百七十三名其内戦死者二百八十名氏名左ノ如シ」と記され、戦死日順に氏名が刻まれています。

カ 「陸軍所轄地」石標(移設)
熊本陸軍幼年學校 2陸軍省所轄地 石標(移設)(熊本陸軍遺構)
清水台の熊本陸軍幼年學校周辺に建てられていた境界石標の1本です。
コンクリート製の石標で、「2」の刻字があります。

キ 歩哨舎(移設)
熊本陸軍幼年學校 歩兵第十三聯隊営門の哨舎(移設) (2)(熊本陸軍遺構)
歩兵第十三聯隊兵営の営門にあった物だそうです。
コンクリート製基礎に木造の本体、トタンの屋根が乗っています。
材質が材質なので、かなり劣化しています。


その他にも前庭には銘入りの石板(「整◯厳明」と刻まれていますが、◯部分は不明)、灯籠、手水蜂が置かれていますが、全て来歴は不明です。
熊本陸軍幼年學校 整●厳明(熊本陸軍遺構)
▲「整◯厳明」石板

熊本陸軍幼年學校 手水鉢(熊本陸軍遺構)
▲手水鉢

熊本陸軍幼年學校 灯篭①(熊本陸軍遺構)
▲灯篭

熊本陸軍幼年學校 灯篭②(熊本陸軍遺構)
▲灯篭

◯駐屯地資料館 「防衛館」 【公式サイト】
年中無休 9:00~17:00
事前連絡不要、入館無料
こちらの防衛館は古代から現在に至るまでの熊本の軍事面が詳細に解説されています。
特に明治維新以降の陸軍の史料は膨大で、かつ幼年學校の史料は別室を設けて詳述されています。
陸軍関連(熊本陸軍遺構)
▲陸軍関連展示

熊幼 関連(熊本陸軍遺構)
▲熊幼関連展示

自衛隊(熊本陸軍遺構)
▲自衛隊関連展示

防衛館以外にも隊舎内に「野砲兵第六聯隊展示室」がありますが、こちらは原則「非公開」です。


ク 遥拝臺
熊幼生徒は毎朝、雄健神社に参拝ののち、この遥拝臺において先ず皇居を遥拝し『軍人勅諭』を奉読した後、故郷の方位に向かい父母に拝礼し精神修養した聖地です。
熊本陸軍幼年學校 遥拝台 方位盤 (2)(熊本陸軍遺構)
▲下掲写真の中央に見えるキノコ型の方位盤

熊本陸軍幼年學校 遥拝台門柱(熊本陸軍遺構)
▲遥拝臺にある門柱
 蝶番と門扉の欠片が残っています。
 当時、遥拝臺にこの門柱は無く、戦後どこからか移設した物のようです

熊本陸軍幼年學校 遥拝台脇の石標(文字不明)(熊本陸軍遺構)
▲遥拝台脇にある石柱(何も刻まれていません)


雄健神社の前庭には以下の石碑類が建立、移設されています。
ケ 手水鉢の礎石(移設)
熊本陸軍幼年學校 手水石(熊本陸軍遺構)
元々は野砲兵第六聯隊の将校集会所の前庭にあった物のようで、戦後、下馬天神社内に移設されていたものを砲六会会長が寄贈したそうです。
加藤清正が朝鮮出兵時に持ち帰った物と伝わりますが、詳細は不明です。

コ 支那事變出征記念碑(移設)
熊本陸軍幼年學校 支那事變出征記念 碑(野砲百六聯隊)(熊本陸軍遺構)
野砲兵第百六聯隊の記念碑です。
こちらも元々は野砲兵第六聯隊の兵営にあり、戦後、兵営南側の公園に放置されていたものを第8普通科連隊の方が発見し移設した物です。

サ 高千穂丸殉難者追悼碑
  四十八期入校、四十五期・四十六期卒業、四十七期在校記念 碑
  熊本陸軍幼年学校跡 碑

熊本陸軍幼年學校 高千穂丸殉難者追悼碑(熊本陸軍遺構)
▲高千穂丸殉難者追悼碑
「高千穂丸殉難者追悼碑」は第四十五期生一同により建立されました。

高千穂丸は大阪商船所属の貨客船で昭和18(1943)年3月18日、神戸(門司経由)から台湾基隆に向かう途中、19日、基隆沖で米潜キングフィッシュの雷撃を受け魚雷2本が命中し沈没、船客913名・乗組員他176名中844名が死亡しました。
熊幼と高千穂丸沈没の関連は不明ですが、沈没に際し乗客救出に奔走し散華された奥実盛大佐、吉利康夫中佐が熊幼関係者だったのでしょうか?
高千穂丸には学年末の休暇を利用し、台湾の実家に帰省する陸軍幼年學校生徒10名(東幼2、廣幼3、熊幼5名)が乗船していました。
高千穂丸が被雷沈没後、生存者は海上に投げ出されて漂流していましたが、一部は転覆した救命艇2隻を起こし乗り込みます。
幼年學校生徒は衰弱する船客を歌って励まし、近づく救命艇に船客を優先的に乗艇させるなどしましたが次第に力尽き次々と波間に没していきました。
乗船していた陸軍幼年學校生徒10名のうち7名が散華、怪我のため救命艇に救助された3名のみが生還しました。
散華した松浦伸輔生徒(熊幼四十五期)は出発前に「一、戦ヒテ死スルヲ得ズ徒ニ休暇中事故トシテ死スルハ天皇陛下ニ対シ奉リ誠ニ申訳ナシ」と遺書を遺していました
(本田様提供の資料より)。

熊本陸軍幼年學校 四十八期入校、四十五期・四十六期卒業、四十七期在校記念(左より)(熊本陸軍遺構)
▲四十八期入校、四十五期・四十六期卒業、四十七期在校記念(左より)
 序列を重んじる軍において順不同のため、戦後、点在した記念碑を集約したと思われます。
 また、在校記念碑は戦後に造られた物と思われます。

熊本陸軍幼年學校 熊幼跡碑(熊本陸軍遺構)
▲熊本陸軍幼年学校跡碑


シ 歩兵第十三聯隊機関銃隊慰霊碑(移設)
熊本陸軍幼年學校 歩兵第十三聯隊機関銃中隊 慰霊碑(移設)(熊本陸軍遺構)
昭和7(1932)年12月15日、歩兵第十三聯隊は満洲に出動、匪賊の討伐に従事した後、熱河地方の治安回復のため満洲國と關東軍の熱河作戰、続く長城作戰に参加し国府軍と交戦、塘沽停戦協定が締結され滿洲事變が終結、昭和8(1933)年10月1日、熊本に凱旋します。
満洲駐箚中に散華された2名の英霊を祀るため歩兵第十三聯隊兵営の一角に建立されました。

戦後、無名の碑として埋もれて行くのを憂慮し十三会(歩十三戦友会)の申し出により、第5代第42普通科連隊長・林一佐の発起により昭和46年9月24日、現在地に移設されました。


あ 七糎野砲
七糎野砲(熊本陸軍遺構)
明治18(1885)年から大阪砲兵工廠(のち大阪陸軍造兵廠)で量産された野砲であり、明治二十七八年戰役(日清戦争)では七糎山砲とともに我軍唯一の野戦砲として活躍しました。
その後、火砲の発達とともに殆ど姿を消しましたが、当砲は停戦時熊本城内の熊本師管區兵器部倉庫(旧第六師團兵器部)に保管されていた物を記念砲として展示しています。

い 九四式三十七粍砲
九四式三十七粍砲(熊本陸軍遺構)
昭和11(1936)年2月13日、制式採用された、我が国初の速射砲(対戦車砲)です。
昭和11年=紀元2596年であり、本来なら九六式となるのですが、本砲が制式採用されるであろう時期の昭和9(紀元2594)年を見越して予め仮に命名されていたためです。
当砲は昭和17(1942)年、名古屋陸軍造兵廠で製造された砲のようです。


熊本陸軍幼年學校が輩出した有名軍人
梅津美治郎 大将(一期) 大分県中津市出身
梅津美治郎 (2)
明治15(1882)年1月4日~昭和24(1949)年1月8日 法務死
陸士(15期)、陸大(23期首席)、歩兵第三聯隊長、歩兵第一旅團長、支那駐屯軍司令官、第二師團長、陸軍次官、第一軍司令官、關東軍司令官兼特命全権大使、關東軍総司令官、参謀総長。
昭和20(1945)年9月2日、大本營全権として降伏文書調印式に出席。通称「無言の将軍」。

牛島滿 大将(五期) 鹿児島県鹿児島市出身
牛島満
明治20(1887)年7月31日~昭和20(1945)年6月23日 自決
陸士(20期)、陸大(28期)、シベリア派遣軍野戦交通部参謀、陸軍歩兵學校教官、下關要塞参謀、陸軍戸山學校教育部長、歩兵第三十六旅團長、陸軍豫科士官學校校長兼陸軍戸山學校校長、陸軍士官學校校長、第三十二軍司令官。
沖縄戦において我に倍する敵上陸部隊を迎撃、困難な状況下最後まで軍を掌握し軍官民一体となり戦闘を継続した名将、昭和20(1945)年6月23日、摩文仁の司令部壕上において自決。
辞世「矢弾盡き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇國護らん」
  「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇國の春に 甦らなむ」

飯田祥二郎 中将(五期) 山口県出身
飯田祥二郎
明治21(1888)年8月8日~昭和55(1980)年1月23日
陸士(20期)、陸大(27期)、陸軍歩兵學校教官、第四師團参謀、近衞歩兵第四聯隊長、陸軍省兵務局長、第一軍参謀長、臺灣混成旅團長、近衛師團長、第二十五軍司令官、第十五軍司令官、中部軍司令官、第三十軍司令官、シベリア抑留を経て復員。
開戦劈頭の泰国進駐、ビルマ攻略を指揮、英軍により監禁されていたビルマ独立運動の闘士バー・モウ博士を救出しビルマ独立の基礎を造る。

牟田口廉也 中将(七期) 佐賀県出身
牟田口廉也2
明治21(1888)年10月7日~昭和41(1966)年8月2日
陸士(22期)、陸大(29期)、参謀本部総務部庶務課長、支那駐屯歩兵第一聯隊長、第十八師團長、第十五軍司令官。
昭和19(1944)年3月8日、援蒋ルート遮断、インド脱落を目指したウ號作戰(インパール作戦)を指揮。

武藤章 中将(十期) 熊本県白水村出身
武藤章
明治25(1892)年12月15日~昭和23(1948)年12月23日 法務死
陸士(25期)、陸大(32期)、参謀本部作戦課長、中支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、近衞第二師團長、第十四方面軍参謀長、昭和殉難者。
昭和19(1944)年、第十四方面軍参謀長として山下奉文大将を補佐し比島での持久戦を戦い抜く。
戦後、連合軍による極東国際軍事裁判においてA級戦犯の汚名を着せられ、昭和23(1948)年12月23日、絞首刑に処せられた。
辞世「霜の夜を 思い切ったる 門出かな」
  「散る紅葉 吹かるるままの 行方哉」

牧野四郎 中将(十一期) 鹿児島県日置郡東市来町出身
牧野四郎
明治28(1893)年4月18日~昭和20(1945)年8月10日 自決
陸士(26期)、陸大(34期)、臺灣澎湖島要塞参謀兼馬公要港部参謀、陸軍士官學校教官、陸軍士官學校教授部長、歩兵第二十九聯隊長、第五軍参謀長、陸軍豫科士官學校教授部長、陸軍豫科士官學校長、第十六師團長。
昭和19(1944)年10月20日、レイテ島において3倍の敵上陸部隊を迎撃、昭和20(1945)年8月10日、師團壊滅の責任を取り自決。

長勇 中将(十三期) 福岡県出身
長勇
明治30(1895)年1月19日~昭和20(1945)年6月23日 自決
陸士(28期)、陸大(40期)、第十六師團留守参謀、参謀本部員(支那課)兼陸大教官、参謀本部付仰付(漢口武官)、上海派遣軍参謀兼中支那方面軍参謀、歩兵第七十四聯隊長、第二十六師團参謀長、印度支那派遣軍参謀長、第二十五軍参謀副長、第十歩兵團長、第三十二軍参謀長。
沖縄戦においてクセのある参謀達をまとめ熊幼先輩でもある牛島滿大将を補佐、昭和20(1945)年6月23日、摩文仁の司令部壕上において牛島軍司令官とともに自決。豪快な性格でも知られる。
辞世「大君の 盾となる身の感激は 唯ありがたの 涙なりけり」
  「待敵来攻南西地 飛機滿天艦圧海 敢斗十旬一瞬夢 萬骨朽果走天外」


熊本陸軍幼年學校 略歴
明治29(1896)年5月、国防のため軍備増強の必要性から『陸軍中央幼年學校条例』、『陸軍地方幼年學校条例』が制定、優秀な人材を育成するため東京に「陸軍中央幼年學校」、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に各陸軍地方幼年學校の設立が決定します。

明治30(1897)年6月9日、熊本城棒庵坂上(加藤神社辺りか?)に熊本陸軍地方幼年學校の仮校舎が開設、9月1日、第一期生徒50名が入校します。
生徒は13-14歳で入学し、1日の日課は0600起床から2130消灯までで、午前中4部・午後1部の教授(座学)、午後2部の訓育(軍事教練・武技)各50分の授業が3年間行われました。

12月4日、参謀総長・元帥陸軍大将・小松宮彰仁親王殿下が御来校されます。

明治31(1898)年5月9日、熊本城監物台(現、植物園)に新校舎が完成、移転します。

明治33(1900)12月22日、皇太子殿下(のちの大正帝)が行啓されます。

明治37(1904)5月26日、海軍中将・有栖川宮威仁親王殿下が御来校されます。

明治41(1908)年12月8日、侍従武官により聖旨が伝達され、拝受します。
明治帝より賜りたる聖旨
陸軍幼年學校生徒ハ将来國軍ノ楨かん(テイカン、カンは幹の造りの干が木)トナルヘキモノナリ故ニ其ノ志操堅確品性高潔學術優秀ナルヲ要ス之ヲ以テ幼年學校生徒ノ性格竝教育ニ就キテハ 陛下ノ常ニ御心ヲ留メサセラルルトコロナリ

明治42(1909)年3月11日、陸軍中将・閑院宮載仁親王殿下が御来校されます。

明治44(1911)年5月20日、軍事参議官・陸軍大将・伏見宮貞愛親王殿下が御来校されます。

大正9(1920)年、『陸軍幼年學校令』が制定され、8月10日、陸軍中央幼年學校本科(明治36年6月29日、陸軍中央幼年學校から改称)を陸軍士官學校予科に、陸軍中央幼年學校予科(同、東京陸軍地方幼年學校から改称)を東京陸軍幼年學校に、各陸軍地方幼年學校を各陸軍幼年學校と改称、熊本陸軍地方幼年學校は熊本陸軍幼年學校と改称されます。

大正14(1925)年2月24日、秩父宮雍仁親王殿下が御来校されます。

大正11(1922)年、世界的な軍縮傾向により、大阪、大正12(1923)年、名古屋、大正13(1924)年、仙臺、大正14(1925)年、廣島、そして大正15(1926)年、熊本陸軍幼年學校の廃校が決定、昭和2(1927)年3月31日、熊本陸軍幼年學校は二十八期生の卒業をもって廃校されました(在校中の二十九期生は三年生になる直前に廣幼に転校し卒業)。

昭和11(1936)年、廣島、昭和12(1937)年、仙臺に続き、昭和14(1939)年4月1日、熊本陸軍幼年學校は熊本城二之丸の熊本陸軍教導學校内で復校、四十三期生150名が入校します(三十~四十二期は欠)。
熊本陸軍幼年學校 熊幼 関連 (34)(熊本陸軍遺構)
▲熊本陸軍幼年學校 本部庁舎

昭和14(1939)年6月18日、軍事参議官・陸軍中将・朝香宮鳩彦王殿下が御来校されます。

昭和15(1940)年3月27日、清水臺に新校舎が完成し移転、7月13日、新校舎落成式が挙行されます。

昭和17(1942)年1月30日、李垠王中将、3月13日、梨本宮守正殿下が御来校、10月12日、昭和天皇の侍従武官により聖旨が伝達され、拝受します。

昭和20(1945)8月15日、職員・生徒(四十七・四十八・四十九期生)は『大東亜戦争終結ノ詔書』の玉音放送を拝聴、28日、『復員令』などが伝達され、31日、復員完了、熊本陸軍幼年學校は廃校されます。

本校は監物台二十九期、清水台四十三から四十九期、合計2,828名が学び優秀な帝國陸軍軍人を輩出しました。

10月5日、米海兵第2師団第8連隊により接収され、「キャンプ・ウッド」と改称、敷地が東西に拡張されます。
昭和31(1956)年10月、米軍より返還され、12月、北熊本駐屯地が開設、第8混成団の一部が駐屯を開始します。
昭和37(1962)年8月、第8混成団は第8師団改編され現在に至ります。

主要参考文献
『熊本陸軍幼年学校 説明』(平成23年3月 本田睦雄)

『熊本陸軍幼年学校48期の記録』(平成15年 深瀬和己)

『ようこそ 北熊本駐屯地へ』(北熊本駐屯地 パンフレット)

・北熊本駐屯地「防衛館」展示資・史料

・国土地理院 昭和22(1947)年4月17日空撮(NI-52-11-7

・Yahoo!地図
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まとめtyaiました【熊本陸軍幼年學校】

熊本市清水には熊本陸軍幼年學校(清水臺)がありました。▲移設された校門門柱(袖門)

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No Title

懐かしいです。
幼稚園は柵の隣にあり、兎谷側の道は通学路でした。
防衛館の、写真にもある64式は空自ではまだ現役ですね。
雄武神社というのは知りませんでした、非常に勉強になります。

Re: No Title

菊陽さん、こんにちは。

防衛館は予約無しに見学できますので、帰省のおりには雄建神社ともどもぜひお立ち寄り下さい。
ただ、雄建神社の御神体は定戦時に奉焼されてしまったのですが、その後はどうなっているのでしょうか?
社だけなのか、再度お迎えしたのか、どうなんでしょう?

No Title

昭和32年米軍から返還されて直ぐ雄健神社のご神体は復元されました。

Re: No Title

虎様、初めましてこんばんは。
貴重な情報、ありがとう御座います。
現在の雄健神社のご神体が何なのか多少気になっていたので、その疑問が氷解しました。
早速追記させて頂きます。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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