当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(第九製作所)

熊本市健軍(現、熊本市東区)には大東亜戰争中、陸軍により設置された「三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(第九製作所)」がありました。
熊本航空機製作所  建屋 南東から パノラマ写真(熊本陸軍遺構)
▲組立工場






三菱重工業 熊本航空機製作所(第九製作所)の場所
熊本航空機製作所(22.3.13)NI-52-11-4(熊本陸軍遺構)
▲三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所跡全景(昭和22年3月13日)

熊本航空機製作所(現在)(熊本陸軍遺構)
▲三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所を現在の地図に転写
①三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所
②試験飛行場
③滑走路
④誘導路・掩体壕
⑤特別地域指定線
⑥滑走路拡張部分?
⑦大日本航空 熊本航空訓練所
⑧三菱熊本青年學校
⑨健菱園(工員社宅)
⑩寮(青年學校生徒、独身工員、徴用工)
⑪秋津寮(女子工員、女子挺身隊)
⑫水菱園(工員社宅)
⑬三菱病院(未完成)
⑭前菱園(工員社宅)
⑮江津荘(出張者宿泊所、のち本部事務所)
⑯側線
※工場地区東側に熊本師管區高射砲隊が配備されていた様ですが、詳細な場所は不明です。

敷地が斜めになっているのは、工場のどの場所からも阿蘇連峰が望めるようにです。

年度別工場建屋建設計画
▲工場配置図(停戦時には赤・紫・黄色着色部分のみ完成(空襲焼失を含む)、緑部分は未建設)
 南側に隣接して運動場・三菱熊本青年學校・実習工場(西から)がありました。
 
三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(昭和20年2月から「第九製作所」、建設時略称:「カミク」(官設 民営 熊本製作所の略))は、昭和17(1942)年、陸軍航空本部経理部経理局により土地の買収が行われ建設された官設民営の製作所で、現在は工場地区が陸上自衛隊・健軍駐屯地、県営住宅、学校に、試験飛行場地区は住宅地、病院、学校に、社宅地区は住宅地になっています。

施設の概要
当製作所では陸軍 四式重爆撃機「飛龍」(キ六七)の機体を製造、第十六製作所(大垣:発動機製作)から供給されるハ一〇四を組付け、各務原陸軍航空廠に納入していました。
四式重爆(第百七十爆撃隊-熊本)
▲四式重爆撃機「飛龍」(キ六七)
第百七十爆撃隊(飛行第六十・百十戰隊混成)-熊本陸軍飛行場(熊本航空機製作所 試験飛行場)


遺構について
A 組立工場
陸上自衛隊・健軍駐屯地に第一組立工場建屋が残されています。
熊本航空機製作所  建屋 南東から パノラマ写真(熊本陸軍遺構)
▲南東からの第一組立工場
 設立当初の計画では建屋の幅はさらに西側に長い予定だったようです。
 さらに東隣には第二組立工場が設置される予定でした。

四式重爆撃(全幅22.5m、全高5.6m)の最終組立をする工場だけあり、横幅90m×奥行220×高さ12mあります。
熊本航空機製作所  建屋 北から(熊本陸軍遺構)
▲北側の搬入出口 
 引き戸式の扉が付いています。

※高さは73式大型トラック(3.1m)、自販機(1.8m)から算出

健軍駐屯地の見学については毎年春の桜祭り、8月の夏祭、10月の創立記念行事の際の駐屯地開放時、または個別に駐屯地見学を申し込む事で外観のみ見学(運が良ければ内部も見れる?)できます。


C 水菱園 社宅
工員社宅地区に社宅が残されています。
C 社宅(熊本陸軍遺構)
▲社宅の1棟

時間がなかったので踏査はできませんでしたが、この社宅以外にも残存している可能性があります。

また、未確認ながら健菱園にも社宅が残されているようです。

社宅については複数残されているようですが現在も住居として住人の方がおられるので、詳細な場所は伏せておきます。

上記以外にも県内には疎開工場(地下工場)が複数残されていますが、今回は未踏査です。


あ 「義烈空挺隊」碑
義烈空挺隊之碑(熊本陸軍遺構)

昭和20(1945)年5月24日、第三獨立飛行隊(諏訪部忠一大尉以下32名)の九七重爆12機に分乗した義烈空挺隊(挺進第一聯隊より抽出、奥山道郎大尉以下136名)は熊本陸軍飛行場(熊本航空機製作所の試験飛行場)を発進(4機55名が故障・被弾で帰投)、米軍占領下の「沖縄本島北・中両陸軍飛行場に強行着陸を敢行し、米軍と白兵戦を展開しながら駐機してある敵航空機、航空燃料を爆砕・破壊し、飛行場機能を一時的に喪失させる大戦果を挙げた後、全員玉砕します(義號作戰)。

昭和50(1975)年、義烈空挺隊、第三獨立飛行隊の英霊を顕彰するため、全日本空挺同志会熊本県支部により旧熊本空港内に建立されました。

空港跡地の再開発に伴い、現在の健軍駐屯地内に移転され、平成22(2010)年5月24日、出撃65週年に義烈空挺隊、第三獨立飛行隊の全英霊の御芳名を刻字した銘板が取り付けられました。
義烈空挺隊之碑(熊本陸軍遺構)
▲義烈空挺隊、第三獨立飛行隊の全英霊の御芳名

御芳名最後の「水上清孝軍曹」(第三獨立飛行隊)は沖縄本島中陸軍飛行場の攻撃に向かいますが、敵艦の対空砲火により損傷したため引き返し、福岡県大牟田付近に不時着します。
しかし、炎上する機からの脱出に失敗し散華してしまいます。
軍曹の御芳名が階級順では無いのは、この様な経緯からだと思われます。


三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(第九製作所)沿革
明治17(1884)年7月7日、工部省長崎造船局の払い下げを受け、三菱財閥創業者・岩崎弥太郎により長崎造船所が創設されます。
大正6(1917)年11月、三菱合資會社から造船業を引き継いだ三菱造船㈱が三菱財閥二代目・岩崎弥之助により設立されます。

大正9(1920)年5月、潜水艦建造用に購入した名古屋築港が深度が浅く建艦には不向きだったため自動車(直後に自動車は中止し、発動機に転換)・航空機の製造所として転用、三菱内燃機製造㈱が発足、大正10(1921)年3月、三菱内燃機製造㈱ 名古屋工場と改称(10月、名古屋製作所に改称)します。

昭和3(1928)年5月、三菱内燃機製造㈱は三菱航空機㈱と改称します。

昭和9(1934)年4月、三菱造船㈱は三菱重工業㈱に改称、6月、三菱航空機㈱は三菱重工㈱と合併、名古屋製作所は三菱重工業㈱ 名古屋航空機製作所(以下「名航」)と改称します。

昭和16(1941)年9月、陸軍航空本部より三菱重工業㈱に対し「大型機月産50機、航空発動機1,500馬力級月産450機の生産拡充が要求されました。

名航 第二工作部(陸軍機製作)では守屋学治、小山荘之助、田尾真一各技師が中心となり増産計画を考案しますが、名航は増産拡充のため新工場を増設する余地が無かったため、下請工場や協力工場が近辺にあり人的資源が比較的豊富で、且つ広大で空疎な土地があり、敵機の空襲に対し航空機工場が集中していない事から瀬戸内の姫路地区を選定し、陸軍省に申請します。
しかし、陸軍省は姫路案に難色を示し、新たに熊本を提示します。
陸軍省が熊本を提示した理由については、熊本が重工業地帯から遠く戦場に近い場所、熊本出身の軍務局長・武藤章少将が九州の中央でありながら大きな産業が無い故郷を憂慮したため、また、熊本こそ大東亜共栄圏の中心都市という構想を持っていた陸軍航空本部嘱託の森慈秀氏(元熊本県議会議員)の強力な誘致があった、とも言われますが詳細は不明です。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

31日、陸軍航空本部(以下「陸航本」)・名航合同の現地視察が行われ、清水、黒石原、健軍の3候補地の中から、土地の現況、三菱が設計した工場配置図に最も適した健軍に内定し、陸航本により総工費125,000,000円の予算が認可されます。

昭和17(1942)年初旬、市公会堂において、雪沢千代治県知事、山隈康市長、地元議員参列の下、陸航本経理部経理局・松澤主計少佐により集まった地主に対し工場建設の説明と土地買収の要請が行われます。
買収面積は工場が40万坪、試験飛行場が100万坪、寮・社宅が40万坪で、買収の坪当たり単価は宅地:10円(東京校外より若干高め)/畑:2.4~6円/墓地:5円/素地:5円に加え、立木代、耕作物移転費用、墓地移転費用、不動産取得税及登録税、買収謝礼金などが支払われました。

4月1日、名航に熊本航空機製作所(以下「熊航」)建設を担当する第二建設部(大塚敬輔部長)が設置されます。

6月15日午前10時、陸軍航空總監兼航空本部長・土肥原賢二大将、陸軍航空本部総務部長・河邊虎四郎中将、郷古潔・三菱重工業㈱取締役社長、同常務取締役、岡野保次郎・三菱重工業㈱名古屋航空機製作所長を斎主とし、横溝光暉・熊本県知事、村田源蔵・熊本県会議長、平野龍起・熊本市長、佐藤真佐男・熊本市会議長、秋津村村長、広畑村村長を始め、県、市有力者、地元有力者等多数が臨席するなか起工式が挙行されます。
熊本航空機製作所 起工式 三菱重工業 郷古社長(熊本陸軍遺構)
▲玉串を奉奠する郷古潔・三菱重工業㈱取締役社長

9月、名航第二建設部は臨時熊本工場建設事務所と改称、名航内に名古屋事務室を残し熊本に移転します。

工場用地の造成については「大林組」が、飛行場は「西松組」が担当、労務者が中心となり近隣の婦人會、學校報國隊の協力のもと実施(豪軍・新西蘭軍俘虜も加わったとも言われますが不明)、工場・寮・社宅の設計及び工事監督を三菱地所㈱が担当、施工は工場を「竹中工務店」、寮・社宅・厚生施設は「大林組」が担当しました。

続いて10月、農家の作付、収穫を待って三菱が担当した寮・社宅予定地の関係者約500名に対し、譲渡地域、価格、代金支払いなど詳細な説明・協議が行われ、土地買収契約は熊本県民の古来からの滅私奉公の気風もあり円満に締結されます。

この年2月13日、『兵器等製造事業特別助成法』が制定され、民間工場に対し製造設備を軍が出資・貸与し生産を委託する事が可能になり、10月26日、熊航の建設に適用されます。

昭和18(1943)年3月頃から工場建屋が次第に完成し、名航から基幹工員の転勤が段階的に開始されます。
4月、三菱熊本青年學校(工員養成所、校長・片岡金吉副所長)に第一期生生徒1,500名が入校します。
熊本航空機製作所 機械工場 18年8月日(熊本陸軍遺構)
▲建設中の機械工場(昭和18年8月)

熊本航空機製作所 三菱青年學校 第一期入校式(片岡金吉校長)(熊本陸軍遺構)
▲三菱熊本青年學校 第一期生入校式(壇上は校長・片岡金吉副所長)

6月、臨時熊本工場建設事務所は熊本工場建設事務所と改称します。

12月、熊航試験飛行場が完成します。

昭和19(1944)年1月、未完成ながら三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所が開所(大塚敬輔所長)、以降も飛行機生産と工場建設が並行して行われます。
熊本航空機製作所 大塚敬輔 所長(熊本陸軍遺構)
▲大塚敬輔所長
 名航で設計技師として活躍、㈱メッサーシュミット(ドイツ)派遣を経て
 帰国後は管理職に昇進しました。

開所とともに工作機材、収容設備の設置が本格化、また名古屋から転勤の基幹社員を中心に、新規採用工員(熊本で採用・名古屋で訓練/名古屋で採用・名古屋で訓練)、應徴士、青年學校生徒、學校報國隊(済々黌、熊中、熊商、鎮西、九学、尚絅、阿蘇高女、菊池高女、松橋高女、本渡高女の10校)、女子挺身隊を始め応援の軍人等、多数の工員が入所します。

下請・協力会社は光洋鋳機(名古屋、鋳造部品製造)、高羽組(名古屋、機械の移動・設置)、三輪組 (名古屋、工場内雑労務下請)、山口木工 (熊本、木工備品納入) 、東肥航空 (熊本、排気管製管)などが担当しました。

3月、名航からキ-67の解体機材が搬入され、未完成の組立工場において組立・調整が行われ、4月29日、試験飛行場において全従業員注視のなか熊航1号機の進空式・試験飛行が行われます。
熊本航空機製作所 一号機進空式(熊本陸軍遺構)
▲熊航1号機の進空式の様子

4月、名航は福岡の精密機素製作所を買収し熊航に移管、熊航工作部福岡支部(20年1月から「福岡工作部」)が設立します。

同年中旬頃から試験飛行場は南方に向かう陸軍機が、燃料補給を行う中継飛行場として使用されます。

昭和19(1944)年7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、昭和20(1945)年初旬、工場疎開計畫委員會が発足し、県下約30ヶ所の疎開予定先との交渉が開始されます。

2月、防諜上の見地から熊航は第九製作所と改称(以下の文は「熊航」で通します)します。

3月8日、試験飛行場に第六航空軍(菅原道大中将)隷下の飛行第六十戰隊(渥美光中佐、四式重爆)が進出、試験飛行場は陸軍の作戦飛行場に転用され「熊本陸軍飛行場」となります。
戦隊は滑走路北側に司令部、兵舎、格納庫、戦闘指揮所、飛行場北東側に掩体壕等を建設、築造し、28日から沖縄周辺の敵艦船攻撃に出撃します。

18日午前、熊航に米艦載機が初めて来襲。鈑金工場に50㎏爆弾が投弾され屋根、外壁が損傷、2,000t圧延機以下7台の工作機械が被弾し故障、三砂應吾・鈑金工場長ほか5名爆死、13名が負傷してしまいます。
熊本航空機製作所 被災した鈑金工場(熊本陸軍遺構)
▲熊航への初空襲により損壊した鈑金工場

3月27日、B-29、艦載機来襲。爆撃、機銃掃射を受け、1名の死者が出てしまいます。

4月1日、熊本師管區司令部の兵2,000名、自動貨車、戦車、輜重車の他、消防団、五高生徒などの応援により、各工場・倉庫の設備・工作機械・仕掛品・成品などを熊本市内、大津、菊地、木葉、宇土、隈庄、御船地区の遊休民間工場、空学校39ヶ所に第一次疎開を実施、7日、完了します。

さらに第二次疎開として地下・半地下・山間工場12ヶ所の掘削・築造・建設を開始、第一期工事11ヶ所を完成させますが、設備の搬入を実施する前に停戦を迎えます。
(第一次・第二次疎開工場は煩雑になるため、名称・場所は割愛します。)

各疎開工場はそれぞれ近隣ごとに「群」として管理され、生産部品を本工場(工場地区)に残った組立工場に発送、組立工場において疎開工場からの部品、第十六製作所からの発動機、日本樂器製造㈱からのプロペラなどを組付ける総組立を行いました。

4月1日、米軍が沖縄に上陸を開始、沖縄周辺の敵艦船攻撃から帰投した四式重爆の被弾機の修理・整備が増加します。

15日、各疎開工場を正式に指定、18日、開場式が行われます。

29日、B-29、艦載機来襲。事務所棟などに損害が出ます。

5月13日昼間、艦載機F6F、F4U、150機来襲。建物2棟焼失・4棟大破・4棟中破・15棟小破、工作機械9台・操業機械56台が破損、死者8名、負傷者3名が出てしまいます。

7月1日2300、米第73爆撃航空団のB-29、154機来襲(熊本大空襲)、うち60機が熊航に来襲。事務所・圧縮機室ほか4棟損壊、疎開工場6件に損害、工作機械47台・操業機械22台が破損、死者6名、負傷者2名が出てしまいます。
また、社宅38棟・寮13棟半焼、協力工場8件焼失・5件半焼、仕掛品・成品多数が焼失してしまいます。

10日昼間、B-29、艦載機来襲。高架水道が損傷するも、人的・工場の被害はありませんでした。

8月10日、米戦爆連合約210機来襲、本工場、上熊本疎開工場がB24など50機の空襲を受け事務所が焼失してしまいます。

15日、全従業員は『大東亜戦争終結ノ詔書』の玉音放送を拝聴、46号機の完成間近で停戦を迎えます(停戦後に組み上げて完成)。
停戦時の従業員数は18,958名でした。

16日、全従業員は通常通り出勤し、各地の疎開工場から設備・工作機械・仕掛品・成品を本工場に移設し直すとともに、工作機械の修理、工場内整理、部品材料整理等を開始します。

20日、三菱重工業本店より各部所に軍需生産停止命令が示達され(熊航は九州軍需管理部より)、應徴士・學校報國隊・女子挺身隊の勤労が解除・解散、自発退職者の対応を行い、また飛行場に駐機してある小型機は焼却、大型機はプロペラを外し残置します。

9月28日、米軍が熊本に進駐を開始、飛行場に残置してある大型機は爆薬により爆破処分されます。
熊本航空機製作所 破壊される四式重爆(熊本陸軍遺構)
▲米軍に破壊される九七式重爆

2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により『一般命令 第一号』が公布、我が国の軍需生産は禁止され、生産禁止品目が発表、10月10日、我が国の航空機生産・加工が禁止され、11月18日、『航空禁止令』が公布されます。
三菱重工業本店は熊航以下14ヶ所の製造所・工場を閉鎖、 3製造所・工場の合併を進め、臨時航空機工場整理事務所を発足します。
11月、熊航は臨時航空機工場整理事務所 熊本出張所となり、本格的な整理を開始しますが、12月、財閥解体により本店が経営活動に種々の制約を受け、受注、生産はもとより、資金調達まで各事業所の自主的活動に任され自活のため、航空機用のアルミを転用し弁当箱、鍋、バケツ、スコップ、ロッカーなど生活用品の製造を開始します。

昭和21(1946)年1月、航空機関係工場はGHQにより賠償指定を受け、熊航に設置されていた対象官有機械である2000屯圧延機、大型工作機械、変圧器、配電盤など12,000点の保守管理作業を実施します。

昭和24(1949)年5月、アメリカは対日中間賠償取立を中止、9月、産業再建のため、大蔵省管財局の管理下にある賠償対象機械は民間企業に賃貸する事になります。

昭和22(1947)年12月5日、熊航は自社所有機械を旧青年學校東隣の旧実習工場に移設し、熊本機器製作所(広兼美朗所長)と改称し、農機具生産に民需転換します。

昭和24(1949)年9月30日、経営難により三菱所有地の工場地区南側(旧青年學校・運動場・旧実習工場:49,000坪、建坪5,146坪)及び社宅地区(32,942坪、311棟)、工作機械528台を井関農機㈱に、北側の国有地(工場地区)は大蔵省に返還、10月1日、熊本機器製作所は閉鎖され、残務処理のため臨時熊本機器整理事務所(山口正晴所長)が旧青年學校内に置かれます(昭和25年1月11日、西部整理事務所と改称、11月3日、旧健菱園の寮に移転、昭和29年1月15月日、閉鎖)。

10月、井関農機 熊本工場が脱穀機専門工場として生産を開始します。

昭和29(1954)年12月、工場地区北側の一角が大蔵省南九州財務局から防衛庁に移管され「陸上自衛隊 健軍駐屯地(第4特車大隊、同偵察中隊)」が開設されます。

昭和30(1955)年代より、工場地区跡地に公団・公営住宅が建設され始めます。

昭和28(1953)年5月、試験飛行場は『熊本飛行場設置に関する告示』により、昭和31(1956)年から空港の造成・建設が開始され、昭和35(1960)年、「熊本空港」(滑走路1,200x30m)として開港します。

その後、航空旅客需要の増加に対応すべく滑走路を2,000mに延伸する計画がなされますが、用地買収の困難やジェット機就航に伴う騒音問題が憂慮されたため、昭和41(1966)年、飛行調査、気象調査の結果、新熊本空港を高遊原台地に設置することが決定されます。

昭和46(1971)年、菊陽町に「熊本空港」(滑走路2,500x45m)が開港し、旧熊本空港は閉港、跡地は熊本県に移管され現在に至ります。

昭和55(1980)年5月、井関農機 熊本工場は健軍から益城町へ移転、跡地は熊本市に売却され現在に至ります。

主要参考文献
『健軍三菱物語 -熊本は東へ-』(平成元年12月 岡野允俊編 岩野書店)
※同書についてはこちらのサイト半分程度を抜粋・再編集した物を読むことができます。
 ただ、熊航に関しては若干物足りないので、拙文章では原本を参考にしています。

『熊本の戦争遺跡』(平成22年12月 創想舎)

・陸上自衛隊 健軍駐屯地 資料館

・井関農機㈱ 熊本製作所 公式サイト

・国土地理院 空中写真(NI-52-11-4 2枚合成)

・Yahoo!地図
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No Title

恥ずかしながら、熊本で航空機の製造があっていたとは知りませんでした。
ちなみに、航空機の名前は海軍は「電」が多い気がしますが、決まりがあるんでしょうか?今のFなどと同じ、意味を持たせているんでしょうか。

Re: No Title

菊陽さん、こんばんは。

試験飛行場(通称「健軍飛行場」)は有名な義烈空挺隊が出撃した飛行場としてかなり有名なのに比して、熊航は歴史が短かったうえに、戦後すぐに閉鎖されてしまったため余り知られていないのかも知れませんね。

海軍機は陸軍機と違い命名基準がはっきりしており、
甲戦闘機(対戦闘機・水上戦闘機)は「風」(烈風、強風)、
乙戦闘機(対重爆・局地戦闘機)は「電」(雷電、紫電、震電)、
丙戦闘機(夜間戦闘機)は「光」(月光、極光)、
艦攻は「山」(天山)、
艦爆は「星」(彗星、流星)と言うように決まっていました。

現用機の戦闘機を表す「F」に当たるのは、海軍では戦闘機「A」、艦攻「B」、艦偵・陸偵「C」・・・などですね。
陸軍機は計画番号で機体の「キ」-1、2、3と順番に着けています。

No title

熊本から情報提供します。
【水菱園】上の画像の水菱園社宅、熊本地震でも倒壊しませんでした。しかし、平成28年夏の段階で「売物件」になってました。
【前菱園】水前寺地域の前菱園は、2軒長屋の社宅だったようです。長屋の片側(右半分のみ、左半分のみ)が、2か所残っていましたが、熊本地震前の平成28年3月頃にいずれも壊されました。

No title

上記投稿主です。
最後の「水菱園」宿舎の売物件情報です↓↓↓。
http://smtrc.jp/detail/CompareDetails?propertyCode=Bkm150236&pageId=D010

Re: No title

こんばんは。

情報ありがとうございます。
約120坪でこの値段は安いですね!
購入者の方が住宅として住んでくれる事を望みますが、築70年超となると更地にして再利用と言うのが妥当でしょうね。
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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