当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

熊本陸軍飛行場(三菱重工業㈱熊本航空機製作所 試験飛行場)

熊本市健軍(現、熊本市東区)には大東亜戰争中、陸軍により設置された「三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(第九製作所)」がありました。
熊本航空機製作所の北側には、完成した飛行機を試験する飛行場が付属していましたが、逼迫する戦局により昭和20(1945)年3月、陸軍の作戦飛行場に転用され「熊本陸軍飛行場」となります。
熊本陸軍飛行場 掩体壕 南上から(熊本陸軍遺構)
▲熊本陸軍飛行場 掩体壕






「熊本陸軍飛行場」は現在一般的に「健軍飛行場」や「熊本健軍飛行場」の名で知られています。
『戦史叢書』や同書所用の史料では「熊本(陸軍飛行場)」となっている事が多いようです。

熊本陸軍飛行場の場所
熊本陸軍飛行場(米軍偵察20.3.7)(熊本陸軍遺構)
▲熊本陸軍飛行場 全景
 米軍の偵察写真より(昭和20年3月7日)

熊本航空機製作所(現在)(熊本陸軍遺構)
▲三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所を現在の地図に転写
①三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所

熊本陸軍飛行場(熊本航空機製作所 試験飛行場)
滑走路(赤線)
誘導路掩体壕(オレンジ線・緑色)
特別地域指定線(緑線)
滑走路拡張部分?(青点線)
⑦大日本航空 熊本航空訓練所

⑧三菱熊本青年學校
⑨健菱園(工員社宅)
⑩寮(青年學校生徒、独身工員、徴用工)
⑪秋津寮(女子工員、女子挺身隊)
⑫水菱園(工員社宅)
⑬三菱病院(未完成)
⑭前菱園(工員社宅)
⑮江津荘(出張者宿泊所、のち本部事務所)
⑯側線
※工場地区東側に熊本師管區高射砲隊が配備されていた様ですが、詳細な場所は不明です。


要目
・用地:3,306,000㎡(100万坪)
・建物:不明
・滑走路:120,000㎡(砂利敷1,500×80m1本、拡張中?)
・誘導路:不明
・掩体壕:不明


飛行場の概要
熊本陸軍飛行場は元々、三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(昭和20年2月から「第九製作所」)の試験飛行場として、昭和17(1942)年6月15日から西松組が担当し、労務者が中心となり近隣の婦人會、學校報國隊の協力のもと設定が開始され、昭和18(1943)年12月に完成します。

昭和20(1945)年3月8日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下の飛行第六十戰隊(渥美光中佐、四式重爆)が進出、陸軍の作戦飛行場に転用され「熊本陸軍飛行場」となります。

停戦後、米軍に接収され連絡飛行場として使用された後、昭和31(1956)年から空港の造成・建設が開始され、昭和35(1960)年、「熊本空港」(滑走路1,200x30m)として開港します。
昭和46(1971)年、菊陽町に新「熊本空港」(滑走路2,500x45m)が開港し、旧熊本空港は閉港、跡地は熊本県に移管され現在に至ります。

現在は住宅地、病院、学校等になっています。

戦時中は滑走路北側に司令部、兵舎、格納庫、戦闘指揮所、飛行場北東側に掩体壕等が築造、滑走路西端には三菱重工業㈱の整備工場、飛行場区域南東端には大日本航空 熊本航空訓練所、大刀洗陸軍飛行學校 熊本教育隊が設置されていましたが詳細は不明です。

※上掲地図中の「④誘導路・掩体壕」は米軍偵察機による空撮・空図から推測、「⑥滑走路拡張部分?」も同史料、及び参考文献掲載の証言(陸軍転用後も滑走路整備、帯山方面の掩体壕予定地視察)から推測です。


遺構について
B 掩体壕
東区長嶺西2丁目の住宅地に土製の無蓋掩体壕が遺されています。
熊本陸軍飛行場 掩体壕 南上から(熊本陸軍遺構)
▲南側マンションから見た掩体壕

外見は馬蹄型をしており、外寸は巾36x奥行37m、内寸は巾21x奥行30mの大きさがあります。
土塁はかなり崩れていますが、掩体壕としての形状を留めています。

崩れているのを考慮しても、内寸巾が九七式重爆(全幅22.5m、全長16m)、四式重爆(全幅22.5m、全長18.7m)よりもギリギリ狭いので、小型機を複数格納する為の物だったのでしょうか?
熊本陸軍飛行場 掩体壕 南西から(熊本陸軍遺構)
▲側面から見た掩体壕

熊本陸軍飛行場 掩体壕 保存看板(熊本陸軍遺構)
▲掩体壕の周囲にある看板

地権者の方が非常に理解のある方のようで、「史跡」として保存されているようです。
土製の無蓋掩体壕という壊されやすい遺構であり、且つ住宅地の真ん中に位置する悪条件にも拘らず、お陰様で奇跡的に遺されています。
軍跡好きにはありがたい事です(;ω;)
余りにも有名な義號部隊(義烈空挺隊・第三獨立飛行隊)が出撃した熊本陸軍飛行場の唯一の遺構として、保存していって欲しいものです。

この掩体壕は南側のマンションの階段から全容が見学できますが、住民の方の迷惑にならないようにわきまえましょう。

こちらのブログによると残念ながら平成25(2013)年頃、破壊されてしまった様です。

なお近年まで、この掩体壕の北側50m程の場所にも同型の無蓋掩体壕が半壊状態で遺っていたそうですが、残念ながら宅地開発により破壊されてしまったようです。


滑走路
滑走路跡は区画がそのまま遺されています。
熊本陸軍飛行場 滑走路跡 南東から(熊本陸軍遺構)
▲滑走路跡(道路の右側部分)


い 第九号輸送艦之碑
飛行場とは全く関係ありませんが、掩体壕の近くに建立されています。
第九号輸送艦之碑(熊本陸軍遺構)
第九號輸送艦は第一號型(一般に「一等輸送艦」)の輸送艦で、昭和19(1944)年9月20日に完成、制海権のない比島海域での輸送作戦(多號作戰)、横須賀~父島間の輸送に十数回従事、呉で停戦を迎えた隠れた武勲艦です。
この碑は第九号輸送艦戦友会により昭和58(1983)年1月に建立されました。

※読者の方からの情報によると平成28(2016)年4月14日に発災した熊本地震により倒壊、撤去されてしまった様です。


展開部隊
飛行第六十戰隊(威→靖二三七八)
昭和12(1937)年7月11日、飛行第七聯隊(浜松)に動員準備が下令、15日、『臨参命第五十八號』により同聯隊内において飛行第六大隊(島田隆一大佐、2個中隊、九三重爆x12)と獨立飛行第三中隊(島谷亨大尉、九三重爆x9)が編成されます。

大隊は臨時航空兵團司令部(徳川好敏少将、昭和13年4月より航空兵團に改称)隷下の第一飛行團(嵯峨徹二少将)に配属となり、19日、浜松を出発、大刀洗陸軍飛行場を経由し悪天候の中(第一中隊の1機が京城付近に不時着し柴田進中尉が散華)、23日、満洲國錦州に集結、27日、天津飛行場へ前進します。
28・30日、南苑飛行場及び周辺の敵兵営を爆撃、8月23日、天津飛行場から南苑飛行場に前進し第一軍(香月清司中将)・第二軍(西尾寿造中将)の支援のため、8月12~30日、南口、張家口、大同、馬廠、柴溝堡、王口鎮、小王庄、滄州の敵陣地、兵営、停車場を爆撃します。
9月10~21日、河北攻略中の地上部隊の支援として馬廠、人和鎮、石家荘、保定などの敵陣地、鉄道、駅、軍司令部などを爆撃します。

9月下旬、頻出する支那空軍機の拠点制圧のため陽高飛行場に移動、10月1日、太原の飛行場を爆撃、8日~11月8日、太原攻略作戰・黄河左岸地区掃討作戰支援のため保定飛行場に移動し順徳、楡次、忻口鎮、葦沢関、汾陽、平定、忻口鎮、太原の敵陣地、兵営、鉄道、駅、飛行場、火薬工廠などを爆撃、11月8日、太原城西門を爆撃破壊し友軍の城内突入を助けます。

11月11・12日、洛陽、西安を爆撃、12月8日、済南攻略の第百八師團(下元熊弥中将、弘前)を支援するため石家荘飛行場に移動し、范県、曲陽、林県の敵軍を爆撃します。
12月、山東作戰に参加、12月24~27日、刀家荘、炒米店、東平、泰安の敵軍、駅などを爆撃します。

大隊は12月から翌年6月にかけ九七重爆(12機)に機種変更します。

12月中旬、彰徳飛行場に移動、昭和13(1938)年6月7日まで地上部隊の済南攻撃を支援すべく臨汾、徐州、帰徳、洛陽、遼県、沁源、西安の敵飛行場を爆撃、続いて徐州作戰支援(3月18日から)のため山東省黄河右岸の台児荘、西安、磊口、帰徳、蘭封、林県の敵軍、飛行場などを爆撃、21日、蘭封飛行場に移動、国府軍が敗走の際に黄河を決壊させたため孤立した友軍に補給支援を実施し、潼関、信陽の停車場などを爆撃します。

8月1日、彰徳に移動し飛行第六十戰隊(中薗盛孝大佐:昭和13年3月から)と第九十六飛行場大隊に編成改制(空地分離)され、2日、戰隊は航空兵團司令部隷下の第四飛行團(藤田朋少将)に配属されます。

5日、西安、豊楽鎮の敵軍、飛行場を爆撃、8月下旬、南苑飛行場で訓練に従事の後、漢口作戰に参加の第十一軍(岡村寧次中将)を支援のため第四飛行團に編入され安慶飛行場へ前進、広済、田家鎮を爆撃、9月4日~10月8日、二套口飛行場に移動し徳安、英山、葉家集、信陽、田家鎮、武漢、確山、南昌等の敵軍、陣地、飛行場、駅などを爆撃します。
11日、安慶飛行場に移動し第百六師團(松浦淳六郎中将、熊本)を支援し楊家山付近の敵軍を爆撃、12日~24日、国府軍が衡陽に撤退し始めたため、撤退を阻止するため甘木関、新州、咸寧などの敵軍、停車場などの爆撃を実施します。
27日、中支那派遣軍により武漢は攻略されますが、引き続き衡陽攻略支援のため、31日~11月9日、南昌、荊州、衡陽の敵軍、飛行場を爆撃します。

9月25日の爆撃に対し第十六師團長・藤江恵輔中将から、10月15日の爆撃に対し第百六師團長・松浦淳六郎中将から、それぞれ感謝の電報を受け取ります。

12月26日、重慶に撤退した蒋介石軍を制圧するため戰隊は第一飛行團に編入され漢口飛行場に前進、重慶爆撃に出撃(第一次奥地進攻)しますが密雲に阻まれ帰投、29日、再出撃するもまたも密雲に阻まれたため常徳を爆撃、昭和14(1939)年1月7・10・15日、重慶の敵軍事施設を爆撃します。

2月初旬、重慶上空の天候不順が続いたため、ソ連からの補給の中心地である蘭州を攻撃すべく運城飛行場へ移動、6~3月15日、作戦目的秘匿のため陽動として洛陽、潼関、西安の敵軍事施設、兵営、飛行場を爆撃しながら、蘭州東飛行場を3度に渡り爆撃、さらに支那奥地の平涼、永昌を爆撃します。
飛行第六十戰隊(熊本陸軍遺構)
▲運城飛行場を出撃する飛行第六十戰隊の九七重爆

戰隊は第十一軍の襄東作戰支援のため漢口飛行場に移動、3月18日~5月26日、宣城、襄陽、棗陽、宜昌、南鄭等の敵軍事施設、飛行場を爆撃します。

5月、航空兵團司令官・江橋英次郎中将より部隊感状が授与されます。

6月10日、第二期粛清作戰支援のため南苑飛行場に移動し、飛行第九十八戰隊の第三中隊12機を編入、36機編制(3個中隊、保有機61機、定員662名)に改編、9月下旬まで済源、五原、延安、寧夏、西安の敵飛行場を爆撃します。

9月1日、航空兵團の満洲移駐による在支航空戦力の再編に伴い、戰隊は第三飛行集團(木下敏少将、北京)の隷下となります。

10月6日、支那奥地進攻(第二次)のため運城飛行場へ移動、10日~30日、西安、渭南、延安、南鄭、宝鶏、郃陽、洛陽等の敵飛行場、駅等を爆撃します。

31日、南苑飛行場に移動しますが、12月26日、海軍(第一・第二聯合航空隊、九六陸攻63機)と合同での支那奥地進攻(第三次)のため運城飛行場へ移動、26・27・28日、蘭州を爆撃(百號作戰)します。

昭和15(1940)年1月8日、南苑飛行場に移動し、2月中旬まで北支・内蒙古の敵軍事施設を爆撃、3月20日から洛陽の敵軍事施設を爆撃します。

4月3日、南京飛行場に移動、汪兆銘政権発足の祝賀も兼ねて4~8日、広信周辺の敵軍事施設を爆撃、南苑飛行場に移動し、五原、張坊の敵軍事施設を爆撃します。

4月中旬、第十一軍の宜昌作戰支援のため漢口飛行場に移動、5月1日~6日、興安、転斗湾、襄陽、比源、南陽等の敵飛行場、友軍渡河点の爆撃を実施します。
5月8日、南苑飛行場へ移動、17日、運城飛行場に移動し、19・20日、西安、南鄭の敵飛行場の爆撃を実施します。
24日、南苑飛行場へ移動し作戦準備(武装の改修)を行い、再び海軍(第十三・第十五・鹿屋・高雄航空隊、九六陸攻36機)と合同での支那奥地進攻(第四次)のため、6月3日、運城飛行場に移動、6日~9月3日、重慶、梁山、北碚、合川、成都、壁山、南充、宝鶏等の敵軍事施設、飛行場、工廠等を爆撃した後、南苑飛行場へ移動します。

6月17日、フランスがドイツに降伏したのに伴い、大本營は北部仏印に進駐し援将ルート遮断を企図、第三飛行集團は進駐を実施する南支那方面軍(安藤利吉中将) の指揮下に入ります。

18日、北部仏印進駐のため南苑飛行場を出発し海南島海口飛行場に集結、海南島の敵陣地塔を爆撃し待機しますが、戰隊の北部仏印進駐は実施されなかったため、広東の天河飛行場に移動します。

援蒋ルート監視のため占領していた南寧と欽県は、北部仏印進駐により戦略的価値が薄れ、同地の地上部隊が転進するのにあたり、転進援護のため戰隊は海口飛行場に移動、11月12~18日、霊山城の敵司令部を始め海南島、広東、霊山城、欽寧、雅子踊、平銀の敵軍事施設、陣地等を爆撃の後、12月1日、南苑飛行場へ帰還(第三飛行集團隷下の第一飛行團(秋山豊次少将)に配属)します。

12月10日、支那派遣軍總司令官・西尾寿造大将より戰隊を含む第三飛行集團隷下部隊に感状が授与されます。

昭和16(1941)年1月、戰隊は27機編成(3個中隊)に改編されます。
2月20日、援蒋ルート(印緬の新ルート)遮断のため前進が下令、28日、南苑飛行場を出発し、3月14日、広東飛行場に集結、3月下旬、ジャラム飛行場、次いでハノイ飛行場に前進、悪天候に悩まされますが、31日~5月21日、援蒋ルートの要地・昆明及びメコン川の功果橋、周辺の龍川、蒙自、阿迷、谿街、箇旧の敵軍事施設、軍倉庫等の爆撃を実施します。

8月1日、海軍(九六・一式陸攻180機)と合同での支那奥地進攻(第五次)のため、台湾・嘉義を経由し運城飛行場に移動、8月4~30日、延安、天水、宝鶏、西安、重慶、白流井の敵軍事施設、軍需物資、製塩所等を爆撃します(百二號作戰)。
飛行第六十戰隊 (3)(熊本陸軍遺構)
▲中支上空を飛行する飛行第六十戰隊の九七重爆

31日、9月1日、武昌飛行場に移動し重慶・大波口製鉄所を爆撃、7日、支那奥地進攻は終了し、戰隊は南方への起用が決定し、各務原陸軍飛行場に移動、九七重爆Ⅱ型に機種改編(40機)ののち、濱松陸軍飛行場に帰還します。

11月6日、第三飛行集團(菅原道大中将)は南方作戦全般を支援するため、南方軍(寺内寿一大将)戦闘序列に編入されます。

14日、濱松陸軍飛行場を出発、新田原-嘉義-海口を経由し、15日、プノンペン飛行場に集結(途中2機喪失)、第三飛行集團隷下の第七飛行團(山本健児少将)に配属され、12月6日、作戦・攻撃要領を受領します。

12月8日、大東亜戰争開戦に合わせ馬来攻略任務の第二十五軍(山下奉文中将)を支援のため、飛行第十二・六十四戰隊とともにペナン島(馬来)に向かいますが悪天候のため北上してアロルスター飛行場を爆撃し敵機・燃料を炎上させ、9~14日、ペナン島ジョージタウン、アエルタワル(馬来)、25日、飛行第十二・六十四戰隊とともにラングーン(ビルマ)のミンガラドン飛行場、港湾施設、輸送船を爆撃します。

30日、シンガポール攻略支援のためタナメラ飛行場に移動しますが、飛行場が不備のため、プノンペン飛行場に戻り、昭和17(1942)年1月10日、改めてアエルタワル飛行場(北部マレー)に前進(2月4日からクルアン飛行場に前進)、12日~2月13日、飛行第五十九・六十四戰隊とともにシンガポールの英軍軍事施設、テンガ・セレター両飛行場、センバワン軍港・油槽群、パンジャン・マンダイ両陣地、ブラカンマチ要塞を爆撃します。
飛行第六十戰隊 (5)(熊本陸軍遺構)
▲黒煙を上げるシンガポール上空を飛行する飛行第六十戰隊の九七重爆

15日、第二十五軍がシンガポールを攻略したのにともない、戰隊は比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)を支援のため、3月16日、サイゴンからクラーク飛行場(フィリピン)に前進、3月24日~5月6日、飛行第六十二戰隊(4月3日まで)とともにリマイ、コレヒドール、カブカーベン、マリベレス、パニキアンの米比軍陣地、高射砲陣地、要塞を爆撃します。
5月7日、第十四軍がフィリピンを攻略したのにともない、戰隊は本間雅晴中将より感状を授与され、26日、クラーク飛行場を出発、台湾・嘉義を経由し、22日、浜松に復帰、7月初旬、普済寺(浜松市)において支那事變以来の英霊追悼会を挙行します。
飛行第六十戰隊 (6)(熊本陸軍遺構)
▲コレヒドールに向かう飛行第六十戰隊の九七重爆

比島攻略中の3月20日、航空兵團司令部(鈴木率道中将、新京)隷下の第八飛行團(田副登少将)編入が決定、作戦終了とともに内地に帰還、7月6日、濱松陸軍飛行場を出発、満洲國拉林飛行場に移動、訓練にあたります。

昭和18(1943)年1月31日、南方の戦局に対応するため、第八飛行團(隈部正美大佐)は第三航空軍(菅原道大中将)に編入され、2月、戰隊は拉林飛行場を出発、南苑-南京-嘉義を経由し、馬来西岸のウエルタワル飛行場(馬来西岸)に移動します。

支那における米陸軍飛行隊が次第に増強されつつある状況に、支那奥地進攻、及び敵飛行場破壊のため一時的に第八飛行團は第三飛行師團長・(中薗盛孝中将)の指揮下に配属され、支那戦線に投入される事が決定、戰隊は6月25日、ウエルタワル飛行場を出発、7月22日、武昌に移動、23日~8月初旬まで衡陽、零陵、桂林の敵飛行場、停車場等を爆撃します。
9月8日、トゥーラン飛行場(仏印)、19日、ハノイ飛行場に移動(12月18日、ビルマ・ロイレン飛行場に前進)し、20日~12月22日、昆明、桂林の敵飛行場を爆撃します。
第八飛行團は、12月28日、パレンバン・バンカランプランタン精油地帯防衛のため編成された第九飛行師團(鳥田隆一中将)隷下となり、メダン飛行場(インドネシア)に移動します。

昭和19(1944)年1月31日、ニューギニアで苦戦する第四航空軍(寺本熊市中将)支援するため、戰隊は第六飛行師團長・板花義一中将の区処下におかれ飛行第三十三戰隊とともに、2月11日、メダン飛行場を出発、昭南島(シンガポール)、18日、ハルマヘラ島ガレラ(インドネシア)を経由し東部ニューギニア・ホーランジアのブーツ東飛行場に前進、29日、米軍のアドミラル諸島上陸を受け、3月1~3日、アドミラル諸島、ロスネグロス島の米軍上陸地点を爆撃、以降、中隊単位でウェワク、ブーツの哨戒にあたります。
4月上旬、飛行第六十一戰隊と交替しワクデ飛行場に前進、10日、ビアク島の新設飛行場に移動、15日、第四航空軍・第六飛行師團両司令部をメナドに輸送します。
22日、米軍のホーランディア上陸を受け、23日、敵自動車部隊を銃爆撃し弾薬庫・ガソリン集積所を爆破、24日、戰隊は比島ミンダナオ島ダバオへ後退します。

6月30日、戰隊は第一航空軍(李王垠中将、東京)直轄となり、7月7日、マバラカット-嘉義を経由し、水戸陸軍飛行場(茨城)、次いで宇都宮陸軍飛行場(栃木)において戦力を回復します。

8月17日、支那派遣軍(畑俊六大将)の一號作戰後段(湘桂作戰)を支援する第五航空軍(下山琢磨中将)増強のため(1月の期限付きで一時的に指揮下に入る)、宇都宮陸軍飛行場を出発、24日、南京飛行場に移動(9月8日から運城飛行場)、30日~10月8日、遂川、建昌、重慶、西安、成都の敵飛行場、軍需物資等を爆撃します。

10月11日、児玉陸軍飛行場(埼玉)に帰還、第一航空軍に復帰します。
16日、相模陸軍飛行場(神奈川)から比島サンマリセリノ飛行場へ飛行第二十二戰隊(四式戦)の地上勤務者空輸のため、同戰隊とともに出発、大刀洗-上海-屏東を経由、23日、サンマリセリノ飛行場・リンガエン湾上空においてF6Fの襲撃を受け、12機中8機を、12月5日、クラーク飛行場へ物資空輸のため出発しますが、友軍の高射砲の誤射により12機中3機を失ってしまいます。
12月上旬より、児玉陸軍飛行場において四式重爆に機種改編を開始します。

12月26日、戰隊は本土防衛を担当する第六航空軍(菅原道大中将)の隷下に入ります。

昭和20(1945)年2月4~12日、立川陸軍飛行場(東京)から単機単位で硫黄島へ軍需物資を空輸、17・19日、児玉陸軍飛行場から硫黄島周辺の敵艦船を雷撃、各1隻(艦種不明)ずつ撃沈します。

3月8日、三菱重工業㈱ 第九製作所の試験飛行場(熊本陸軍飛行場)に移動、大刀洗陸軍飛行場(後、隈庄陸軍飛行場に移動)に移動した飛行第百十戰隊とともに、28~7月5日、沖縄周辺の敵艦船、沖縄本島中・北陸軍飛行場の敵上陸部隊に対し雷・爆撃を実施、また第三十二軍(牛島満大将)将兵に対し物資の投下を実施します。

※昭和20(1945)年7月以降の戦歴については参考資料により若干の相違が見られます。
 以下に両方を記述します。

『続 陸軍航空の鎮魂』より
7月、九州地方の空襲激化に伴い、戰隊の空中勤務者は本隊を離れ機材とともに大連の三十里堡飛行場に移動、沖縄攻撃時は熊本に前進し爆装、出撃する体制を採ります。

15日、『大東亜戰争終結ノ詔書』の玉音放送を拝し、16日、三十里堡飛行場では角田功大尉が四式重爆7機に攻撃隊隊員240名を収容し離陸、同日、熊本陸軍飛行場に帰還し停戦を迎えます。

『日本陸軍重爆隊』より
7月、戰隊は錬成隊を大連の三十里堡飛行場に分離移駐させ、訓練を実施します。

8月13日、飛行第六十・百十戰隊合同の第百七十(六十と百十を足した数)爆撃隊を編成、15日、『大東亜戰争終結ノ詔書』の玉音放送を拝し、16日、鈴木章大尉は四式重爆6機により三十里堡飛行場に移動、錬成隊を収容し無事、熊本陸軍飛行場に帰還し停戦を迎えます。
四式重爆(第百七十爆撃隊-熊本)
▲熊本陸軍飛行場における第百七十爆撃隊の四式重爆

熊本航空機製作所 熊本陸軍飛行場(熊本陸軍遺構)
▲停戦直後の熊本陸軍飛行場(飛行第六十戰隊・第百七十爆撃隊の四式重爆)


義號部隊
第一挺進聯隊(帥九九四五)第四中隊神兵皇隊]のち[義烈空挺隊
第三獨立飛行隊(帥一九〇三〇)
第三獨立飛行隊は昭和19(1944)年10月31日、鉾田教導飛行師團(高品明少将、茨城)においてサイパン島アスリート飛行場攻撃のため編成(諏訪部忠一大尉、百式司令部偵察機)、教導航空軍(菅原道大中将)隷下となりますが、地上勤務者が少なく機体整備に支障が出るため、鉾田教導飛行師團長・高品明少将の指揮下に入ります。
11月初旬、一部がサイパン島アスリート飛行場攻撃に参加、同月、濱松陸軍飛行場に移動し九七重爆に機種改編します。

教導航空軍は損害の甚大な空襲から空挺部隊を降下させ、一挙に飛行場施設・敵機を壊滅させる作戦を立案しますが、空挺部隊降下後に輸送機が帰投する事の困難が予測されたため、サイパン島アスリート飛行場に強行着陸による攻撃計画に改案します。

第三獨立飛行隊は九七重爆の夜間航法・B-29破壊・B-29鹵獲後の操縦訓練を開始します。

27日、教導航空軍は陸軍挺進練習部に対し強行着陸要員1個中隊の差出を命じ、第一挺進聯隊(山田秀男中佐、唐瀬原)から第四中隊(奥山道郎大尉)基幹の部隊が抽出され「神兵皇隊」と命名され、12月5日、陸軍航空士官學校(埼玉)に移動しB-29の破壊訓練を開始します(同地において陸軍中野學校、及び同校二股分校の卒業生、出身者10名が合流)。

12月中旬、飛行隊は豊岡陸軍飛行場(陸軍航空士官學校に隣接)に移動、神兵皇隊と合流、17日、神兵皇隊は「義烈空挺隊」と改称し、24日のサイパン島攻撃が企図されますが、22日、サイパン島の中継地である硫黄島の飛行場(北、千鳥、元山)が敵機の空襲により使用不能になってしまった事に加え、第三獨立飛行隊の錬度に不安があったため出撃は1月後の1月18日に延期されます。

昭和20(1945)年1月13日、義烈空挺隊・第三獨立飛行隊は濱松陸軍飛行場に移動、17日、軍装検査が行われ待機しますが、切迫する戦局に大本營が教導航空軍にサイパン島攻撃より硫黄島への緊急戦備品空輸を指令したため出撃は再度延期、27日、大本營によりサイパン島攻撃は中止(『陸軍航空の鎮魂』では2月1日に中止)され、義烈空挺隊は唐瀬原に帰還し、飛行隊は濱松陸軍飛行場において時期作戦に備え再び訓練を開始します。

2月19日、米軍が硫黄島に上陸を開始、大本營は義烈空挺隊による硫黄島攻撃を企図、3月初旬、義烈空挺隊・飛行隊は西筑波陸軍飛行場(茨城)に集結、3月19・20日の硫黄島攻撃に備えますが、3日17日、硫黄島守備隊(栗林忠道大将)は総攻撃を決行し玉砕(実際は26日)してしまったため、21日、またも出撃は延期され、それぞれ唐瀬原、濱松陸軍飛行場に帰還し時期作戦に備え再び訓練を開始します。

3月31日、第三獨立飛行隊・第一挺進團司令部(第一挺進聯隊が隷属)は航空總軍(河邊正三大将)の隷下となります。

4月1日、沖縄本島に米軍が上陸を開始、大本營は特別攻撃隊を主力とした航空攻撃(陸軍:「第一次~第十一次 航空總攻撃」、海軍:「菊水一~十號作戰」)を実施します。
米軍は上陸初日に我が沖縄本島中・北両陸軍飛行場を制圧し運用を開始、レーダーピケット艦を配した早期警戒体制による効果的な防空体制を構築したため、我が航空部隊は甚大な損害が出てしまいます。

5月2日、義烈空挺隊・第三獨立飛行隊は第六航空軍(菅原道大中将)に編入され、我が航空部隊の障害の一因である沖縄本島中・北両陸軍飛行場の敵航空戦力を殲滅、飛行場制圧を期して陸海軍航空部隊の総攻撃を実施する『義號作戰』が立案され、3日、菅原中将から奥山大尉に作戦計画が伝達されます。

8日、義烈空挺隊が唐瀬原から、19日、第三獨立飛行隊が浜松から熊本陸軍飛行場に前進(両部隊は「義號部隊」と呼称、義烈空挺隊長・奥山道郎大尉以下136名、第三獨立飛行隊長・諏訪部忠一大尉以下32名)、18日、大本營により義號作戰が認可されます。
19日、菅原中将は奥山大尉、諏訪部大尉、飛行第六十戰隊長・渥美光少佐、飛行第百十戰隊長・草刈武男少佐を招聘し作戦内容を伝達・協議、20日、作戦を全幕僚に伝達し義號部隊の出撃が決定され、22日の陸軍の第八次航空總攻撃・海軍の菊水七號作戰に編入して実行のため出撃に備えます。

21日、直前の天候判断により出撃は23日に延期されます。

23日、起床後に軍装検査を実施、1600、夕食を採り、1700、義號部隊は格納庫前に集合、第六航空軍司令官・菅原中将に申告を行い、中将からの壮行の訓示に続き中将の音頭で乾杯、及び万歳三唱が行われましたが、沖縄上空の天候不良のため第五航空艦隊司令部(宇垣纏中将、鹿屋)が菊水七號作戰を1日延期する電話連絡が入ったため、義號部隊の出撃は再度翌日に延期となります。

24日、飛行第六十・百十戰隊の四式重爆各6機が熊本・隈庄両陸軍飛行場から発進、沖縄本島中・北両陸軍飛行場を爆撃(六十戰隊2機、百十戰隊1機が未帰還)、義號部隊出撃が下令されます。

前日と同様に別盃、及び万歳三唱が行われ、1700、搬出、各々は故郷に向かって最後の別れを行い、1810、搭乗、1840、奥山大尉搭乗・諏訪部大尉操縦の隊長機を先頭に、義號部隊の九七重爆12機(1機はエンジン不調で遅れる)が発進します。
「故国への訣別」山口圭一(熊幼会)~義烈空挺隊(熊本陸軍遺構)
▲『故国への訣別』(熊幼会・山口圭一画 陸自健軍駐屯地所蔵)

義烈空挺隊 (2)(熊本陸軍遺構)
▲それぞれの乗機に向かう隊員

義烈空挺隊(熊本陸軍遺構)
▲搭乗前に各々の故郷を遥拝し別れを告げる隊員

義烈空挺隊 (3)(熊本陸軍遺構)
▲搭乗前に握手を交わす奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)、周囲は隊長機の搭乗員
 従軍記者の要望で握手を交わすも上手く撮影できず、2度めの握手を交わした際の写真。
 奥山大尉の「千両役者は忙しいな」の言葉に諏訪部大尉を始め周囲の隊員から笑いが興ります。

義烈空挺隊 (4)(熊本陸軍遺構)
▲出撃直前、見送る人々に笑顔で手を振る奥山大尉(右)と日の丸を振る諏訪部大尉(左)

1855、三角港上空を通過し南西諸島西側に沿って南下、1900、義號部隊に続き誘導の飛行第六十戰隊の四式重爆(杉森英男大尉)、隈庄から戦果確認の飛行第百十戰隊(草刈少佐)の四式重爆が発進、義號部隊に合流、沖縄を目指します。

2110、伊江島付近で変針し一~八番機は沖縄本島北陸軍飛行場へ、九~十二番機は同中飛行場に向かいます(うち4機55名は被弾・故障などで帰投)。

2200頃、飛行第六十戰隊・杉森機は「照明弾二発投下」「我自爆ス」を発信、続いて2211、義號部隊が「タダ今突入」の無電を発信し、熾烈な対空砲火を突破した6156號機(陸軍中野學校二股分校第一期生・棟方哲三少尉以下14名)が沖縄本島北陸軍飛行場の強行着陸に成功、2225、飛行第百十戰隊・草刈機は「諏訪部隊、着陸成功」を発信(その後、着陸成功の意の赤信号灯が北飛行場4、中飛行場2個の確認を報告)、義號部隊員は米軍機33機を破壊・損傷、燃料集積所2ヶ所を爆砕炎上(70,000ガロン焼失)させたのち玉砕、飛行場を25日0800まで(完全復旧は27日)使用不能にする大戦果を挙げます。
「北飛行場強行着陸」山口圭一(熊幼会)~義烈空挺隊(熊本陸軍遺構)
▲義烈空挺隊の活躍を描いた『北飛行場強行着陸』(熊幼会・山口圭一画 陸自健軍駐屯地所蔵)

義烈空挺隊 (5)(熊本陸軍遺構)
▲沖縄本島北陸軍飛行場の強行着陸に成功した6156號機

義烈空挺隊玉砕地付近(熊本陸軍遺構)
▲義號部隊が突入した沖縄本島北陸軍飛行場跡
 現在は滑走路跡が道路、畑になっています。

25日0055頃、敢闘を続けていた最後の1名が残波岬付近で散華、作戰は終結します(米軍側記録から、着陸成功は北陸軍飛行場の1機で4機が対空砲火により地上に墜落、中陸軍飛行場は報告が無い事から全機海上に撃墜と推測)。

同日、第六航空軍は第八次航空總攻撃、第五航空艦隊は菊水七號作戰を発動、陸軍特別攻撃隊100機、海軍同80機、陸軍重爆22機、海軍爆戦24機、同雷撃30機、同中攻4機、神雷部隊10機の合計282機を作戦に投入しますが、悪天候により出撃は減じ、陸軍特攻隊78機、海軍特攻隊27機、陸軍重爆21機(海軍通常攻撃は不明)が沖縄周辺海域の敵艦船群に突入します。

27日、義號部隊(奥山道郎大尉以下88名・諏訪部忠一大尉以下24名の合計112名)は聯合艦隊司令長官・豐田副武大将より全軍布告の感状が授与され二階級特進し、また、未帰還の飛行第六十戰隊・杉森英男大尉以下7名も同様に特攻散華と認定され全軍布告の感状が授与され二階級特進しました。

散れや散れ 阿波岐ヶ原の若櫻 散るこそ汝の生命なりけり(奥山隊長が昭和20年5月8日、唐瀬原から熊本に前進の際に詠んだ辞世の1つ)

※「義烈空挺隊」については陸上自衛隊・健軍駐屯地(熊本)資料館に多数の写真と顕彰碑、同久居駐屯地(三重)資料館に奥山大尉(散華後大佐、三重県津市出身)の遺髪・手紙・写真など貴重な御遺品が展示されています。
両駐屯地を訪ねた際は是非見学し、偉大な英霊の遺徳を偲んでみてください。


義烈空挺隊玉砕之地 碑(沖縄県読谷村)
義烈空挺隊玉砕之地の塔(熊本陸軍遺構)
▲6156號機が強行着陸した付近に建つ「義烈空挺隊玉砕之地」碑
 6156號機はこの碑の向かって右側後方から突入し、真横位で停止したようです。

「義烈空挺隊玉砕之地」碑には平成19年11月に訪問しましたが、現在この碑のあった場所には読谷中学が建っているようです。
ネットで検索すると碑は学校建設に伴い、付近にある掩体壕の脇に移設されてしまったようです。
この碑が有った場所は6156號機が強行着陸した場所と殆どズレが無いようなので、移設してしまっては意味がありません。
現在の沖縄という土地柄を考えれば言わずもがなですが・・・

また、付近の掩体壕も平成19年11月の時点では3基(1基は牛舎、2基は放置)が殆ど破損もなく完存していましたが、現在1基しか遺されていないようです。
この掩体壕についてはまた後日(何時になるか分かりませんが・・・)、ご紹介します。

「義烈」碑(沖縄県糸満市)
義烈空挺隊慰霊碑(熊本陸軍遺構)
▲摩文仁にある「義烈」碑
 「義烈」の文字は奥山大尉の絶筆を拡大したもの、碑本体は義烈空挺隊が出撃した熊本陸軍飛行場の西にある金峰山の石です。

義烈空挺隊奥山道郎隊長「挺進殉国」(熊本陸軍遺構)
▲同上「義烈」碑の裏には同じく奥山大尉揮毫の「挺身殉國」の文字

義烈空挺隊之碑(陸上自衛隊 健軍駐屯地内)
義烈空挺隊之碑(熊本陸軍遺構)


第三十戰闘飛行集團司令部(威一九〇二五)
昭和19(1944)年10月11日、『大陸命第千百五十號』により明野教導飛行師團(青木武三少将)に編合下令、 13日、編成完結(青木武三少将)し第四航空軍(冨永恭次中将)戰闘序列に編入されます。
隷下部隊
第十二飛行團司令部
 飛行第一戰隊
 飛行第十一戰隊
 飛行第二十二戰隊
第十六飛行團司令部
 飛行第五十一戰隊
 飛行第五十二戰隊
飛行第二百戰隊
定数は戦闘機294機でした。

10月13日、司令部は「捷一號作戰」参加のため飛行第二百戰隊(高橋武中佐、四式戦80機、明野)とともに新田原陸軍飛行場-沖縄-台中-比島ポーラックを経由して、18日、比島ネグロス島サラビヤ飛行場に前進、20日、米軍がレイテ島に上陸を開始したのに際し、第二飛行師團(木下勇中将)の指揮下、第九飛行團(飛行第二十四・二十六・第二百四戰隊)・第二十二飛行團(飛行第五十一・第五十二戰隊)を編入し、24・25日、海軍のレイテ湾突入に呼応した航空総攻撃に参加、以降の制空戦の戦闘機飛行戦隊の指揮(11月21日、第二十一飛行團の飛行第七十二・七十三戰隊を指揮下に編入)を担当しますが、連日の航空戦で戦力は逐次損耗してしまいます。
12月17日、隷下・指揮下飛行戦隊において特別攻撃隊「精華隊」を編成、同日、松本一重伍長機がミンドロ島付近、20日、久永軍曹機・村山軍曹機がサンホセ付近、25日、酒井少尉機がリンガエン湾の敵艦船群に突入散華します。

昭和20(1945)年1月5日、青木少将は隷下・指揮下飛行戦隊(8日、飛行第三十一戰隊を指揮下に編入)に全機特攻待機を下令、第一・十一・七十一・七十二・七十三・二百戰隊(全戰隊は四式戦装備)から抽出、 10日、米軍のリンガエン湾上陸に対し高橋金吾少尉以下4名、12日、21名、13日、2名が敵上陸船団に突入散華します。

1月12日、機材払底のため集團隷下・指揮下飛行戦隊空中勤務者はマバラカットから自動車悌団によりルソン島北部エチャゲへ後退、30日、一部をエチアゲ、アパリ、ツゲガラオに派遣、2月、台湾に移駐、16日、編合を解かれます。

2月24日、編合下令、 所澤陸軍飛行場に司令部(青木武三少将)を設置し、第六航空軍(菅原道大中将、福岡)隷下に入ります。
隷下部隊
第十六飛行團司令部
 飛行第五十一戰隊(下館、四式戦)
 飛行第五十二戰隊(下館、四式戦)
飛行第六十二戰隊(西筑波、四式重爆)

3月18日、飛行第五十一・五十二戰隊は敵艦載機邀撃戦を始め、6月10日の房総上空邀撃戦まで主に関東方面の防空を実施、飛行第六十二戰隊は3月14日、ト號部隊(特別攻撃隊)に指定され、19日、出撃するも会敵できずに帰還(4機中2機未帰還)します。

昭和20(1945)年4月8日、集團は航空總軍(河邊正三大将、東京)戦闘序列に編入され、 編合改変されます。
隷下部隊
第十六飛行團司令部
 飛行第五十一戰隊(下館、四式戦)
 飛行第五十二戰隊(下館、四式戦)
飛行第四十七戰隊(成増、四式戦)
飛行第五十九戰隊(知覧、四式戦)
飛行第二百四十四戰隊(調布、三式戦)
第十七獨立飛行隊(調布、百偵Ⅲ乙)
飛行第六十二戰隊(西筑波、四式重爆)
第百八十二獨立整備隊(四式戦専門)
集團隷下、飛行第五十一・五十二戰隊は戦力温存、四十七戰隊は都城西に二百四十四戰隊は知覧に十七獨飛は熊本に前進し、五十九戰隊とともに特攻機援護、六十二戰隊は4月13日、鹿屋航空基地に前進し17日、5月25日、「櫻彈」・「ト號機」により沖縄周辺の敵艦船群に突入します。

7月5日、集團は司令部を熊本市花崗山の旅館蓬莱閣に前進、第六航空軍指揮下となり飛行第五十一・五十二戰隊は特攻機援護のため熊本前進準備中、四十七戰隊は小月・二百四十四戰隊は八日市・五十九戰隊は芦屋において防空戦闘・戦力温存、六十二戰隊は西筑波に帰還、十七獨飛は7月15日、調布において復帰するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第十七獨立飛行隊(帥三四二一四)
昭和19(1944)年3月31日、調布陸軍飛行場において編成(北川禎佐大尉、百偵)、第十飛行師團(吉田喜八郎少将)隷下となり、東部軍管區における防空に従事します。

9月15日、第十七獨立飛行隊に改編(川村良吉少佐)、11月1・5・7日、関東に侵入したF-13偵察機邀撃戦、24日、B-29、94機(目標:中島飛行機武蔵野製作所〉を僚隊とともに邀撃し、2機撃墜、11機撃破します。

昭和20(1945)年2月6日、 第十飛行師團は第六航空軍(菅原道大中将)戦闘序列に編入されます。
2月16・17日、関東地区に侵入した敵艦載機を僚隊とともに邀撃、約100機を撃墜しますが、我が軍も約50機の損害が出てしまいます。

4月8日、航空總軍(河邊正三大将)戦闘序列の第三十戰闘飛行集團司令部に編入され、 熊本陸軍飛行場に前進、特別攻撃隊の援護にあたります。

7月5日、調布陸軍飛行場に移動し、復帰します。


第百七十四飛行場大隊(靖一八九四六)
昭和19(1944)年8月20日、熊本陸軍飛行場において編成(小野崎生三少佐)、第六航空軍(菅原道大中将)戦闘序列の第十二飛行師團(三好康之少将)隷下第四十一航空地區司令部に編入され知覧陸軍飛行場に前進し、特別攻撃隊(九七戦166、一式戦120、三式戦49、九八直協38、九九襲24、二式双発襲16機、合計413機)の補給に任じます。

7月下旬、熊本陸軍飛行場に移動し飛行第六十戰隊等の出撃を支援、8月15日、停戦を迎えます。


待機特別攻撃隊
第百九十五振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團において編成(藤山展法中尉以下6名、四式戦)、第二十戰闘飛行集團(青木武三中将)隷下となり北伊勢陸軍飛行場に移動します。
7月27日、第六航空軍隷下となり熊本陸軍飛行場に前進、8月15日、待命中に停戦を迎えます。


第百九十六振武隊
昭和20(1945)年5月、明野教導飛行師團において編成(野上五夫中尉以下6名、四式戦)、第二十戰闘飛行集團(青木武三中将)隷下となり北伊勢陸軍飛行場に移動します。
7月27日、第六航空軍隷下となり熊本陸軍飛行場に前進、8月15日、待命中に停戦を迎えます。


主要参考文献
陸上自衛隊 健軍駐屯地資料館 展示資料・冊子

同     久居駐屯地資料館 展示資料

『熊本の戦争遺跡』(平成22年12月 創想舎)

『陸軍航空の鎮魂』(昭和53年5月 航空碑奉賛会)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』(平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)

『日本陸軍重爆隊』(昭和57年6月 伊澤保穂著 徳間書店)

『日本陸軍戦闘機隊』(昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)

『陸軍特別攻撃隊』(平成7年7月 モデルアート社)

『神風特別攻撃隊』(平成7年11月 モデルアート社)

国土地理院 空中写真(NI-52-11-4)

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花岡山の逢来閣後

第三十戰闘飛行集團司令部が昭和20年7月5日に進出した花岡山の逢来閣(この進出についてどの本に載っていたか教えていただければ幸いです)ですが、今では裏が宅地化で削られてしまってますが、建物と庭の一部が廃墟として残っています。

Re: 花岡山の逢来閣後

はじめまして、こんばんは。

情報有り難うございます。
逢来閣は絵葉書で見た事はあったのですが、廃墟とは言え未だ遺っているのですね!
場所が全く分からなかったので、行きませんでした。

因みに出典は熊本市作成の「一般戦災ホームページ」の「熊本市における戦災の状況(熊本県)」と言うページです。
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_05.html

No Title

情報ありがとうございます。自分もあの総務省のページの一行から逢来閣を調べ始めました。熊本の者も第六師団や健軍の飛行場について調べた人はいますが第30については殆ど不明のまんまです。

Re: No Title

こんにちは。
あれから所蔵する陸軍航空系の書籍をあたってみましたが、集團司令部を逢来閣に置いた記事は見当たりませんでした。
隷下戦隊の資料は多数あるのですが、集團に関しては非常に少ないですね。

No title

熊本からです。
「第九号輸送艦之碑」ですが、同所に今は何も残っていません。熊本地震で倒壊したのだろうと思います。Googleストリートビューも、撤去後の画像に更新されてます。熊本地震で墓石が多く倒れたように、忠魂碑も多くが倒れました。

Re: No title

初めまして、こんばんは。

大変な状況の中、現地からの貴重な情報、ありがとうございます。
震災からしばらくして熊本県内の全軍跡の破損状況が数字で発表されていましたが、具体的な内容は何も書かれていなかったので助かります。
御教示頂いたとおりストリートビューで確認しましたが、確かに破損していますね。
戦後の石碑類はまた再建、補習すれば再建は可能ですが、野砲兵第六聯隊の門柱撤去は唯一とも言える遺構だっただけに残念です。
どこかに保管されて、再建されれば良いのですが。

三菱の社宅もそう言う状況ですか。
当時は時間の関係で社宅までは回れなかったので、残念です。

遺構の滅失は残念ですが、まずは震災の復興を優先して頂き、その後にでも徐々に再建して頂きたいですね。

この度は貴重な情報、ありがとうございました。
記事内容に加筆しておきます。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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