当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第二十聯隊

京都府福知山市に所在する陸上自衛隊・福知山駐屯地は歩兵第二十聯隊の兵営跡にあります。
兵営では後に歩兵第百二十聯隊歩兵第百三十五聯隊が編成され、その後中部軍教育隊が移転してきます。
A営門(移設)(福知山)
▲陸上自衛隊・福知山駐屯地内に遺る
  営門門柱(移設)と将校集会所

【探索日時】
平成19年10月25日、同23年12月4日





歩兵第二十聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
福知山(大正9)(福知山)
▲大正9年頃の地図(大正9年測量 大日本帝國陸地測量部)
 ※赤塗部分が陸軍施設

福知山(22.11.3)(福知山)
▲昭和22(1947)年11月3日の福知山市周辺の空撮(NI-53-14-13)

福知山現在の地図(福知山)
▲現在の地図に施設を転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
①歩兵第二十聯隊
②旧歩兵第二十旅團司令部

③福知山陸軍病院
④福知山聯隊區司令部(西側)・福知山憲兵分隊(東側)
⑤福知山陸軍練兵場
⑥第四師團演習廠舎(旧工兵第十大隊)
⑦福知山陸軍墓地
名称については一般的な昭和16(1941)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構など、上掲地図参照)
歩兵第二十聯隊
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、特にロシアの軍備は脅威的な事から我が国は安全保障の観点から軍備増強を決定します。
参謀次長・川上操六中将の発案のもと、陸軍省は第九回帝國議會(明治28年12月28日~明治29年3月28日)において6個師團、2個騎兵・砲兵旅團の増設を上程し、議決されます。
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成、歩兵第二十聯隊の移駐、及び工兵第十大隊の新設と天田郡曽我井村(現、福知山市)への兵営設置が決定、27町歩6反の土地(全用地47町)が献納され、“師團設置”の流言により地価が暴騰するなか、柳島郡長以下地元有力者の尽力で坪70銭(通常30銭)で残りの用地を買収します。

7月17日、野田豁通陸軍監督長が福知山を訪問、18・19日、曽我井村(現、福知山市)の新設兵営用地を視察、8月19日、臨時陸軍建築部大阪支部福知山出張所が開設され、棟梁・松村雄吉氏(後、初代松村組社長)以下により兵営の建築が着工、明治31(1898)年4月18日、歩兵営は福知山出張所より第四師團監督部に引き渡されます。

8月30日、大阪より歩兵第二十聯隊が地域住民の歓呼のなか移駐して来ます。
明治37(1904)年4月16日、明治三十七八年戰役(日露戦争)において歩兵第二十聯隊補充大隊、昭和9(1934)年3月17日、滿洲駐箚、昭和12(1937)年8月24日、支那事變において同聯隊留守隊、昭和13(1938)年5月24日、留守隊において歩兵第百二十聯隊が編成され中支に出征、昭和16(1941)年11月23日、歩兵第二十聯隊がフィリピンに出征後は歩兵第百三十五聯隊が移駐、昭和18(1943)年7月5日、歩兵第百三十五聯隊が名古屋に移駐後、中部軍教育隊が和歌山から移駐、昭和20(1945)年2月1日、中部軍管區教育隊に改称し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始、兵営は米第98歩兵師団により接収されますが、軍需品の処理が終了するとともに大蔵省に返還され、発足間もない国鉄の鉄道教習所が開設されます(時期不明)。

昭和25(1950)年6月25日、朝鮮戦争の勃発に伴い警察予備隊の創設が発表されると福知山市が誘致運動を開始、同年11月、誘致が決定し、12月、警察予備隊福知山駐屯部隊が編成、昭和27(1952)年、保安隊、同29(1954)年、自衛隊に改編、現在も第7普通科連隊が駐屯し、我が国の平和を護っています。

戦後、兵営敷地は南側の稜線付近にあった境界が裾野付近まで拡大、北西の一角は大きく民有地に転換された様です。


ア 将校集会所
現在は駐屯地資料館「垣将集館」となっています。
明治31(1898)年、招聘した英国人技師の設計により建築されたと言われています。
外壁は土瓦の下地に石灰砂・にがりを混ぜたモルタル塗りの耐火構造になっています。
ア 将校集会所(垣将集館-史料館) 北西から(福知山)
▲将校集会所(垣将集館)

ア 将校集会所(垣将集館-史料館) 西から(福知山)
▲写真のように殆ど全ての窓・扉が閉鎖されています。

ア 将校集会所(垣将集館-史料館) 北側入口(福知山)
▲北側入口
 改修はされているものの、庇は木製で原型に近いと思われます。

ア 将校集会所(垣将集館-史料館) 南側入口(福知山)
▲南側入口
 木製扉が付いていますが、当時の物か不明です。

内部(福知山)
▲将校集会所内部
 内装もかなり改築されていますが、間取りは当時のままで扉跡が残ります。

昭和41(1966)年6月25日、第10代駐屯地司令(宗重彦1等陸佐)をはじめ、歩兵第二十聯隊有志会などの協力により資料館「垣将集館」として設立されました。
館内には、歩兵第二十・百二十聯隊を中心とした史資料、福知山地方を中心とした丹波・丹後の郷土に関する史料、そして自衛隊に関する史料等約1,500点が展示されています。
資料館展示(福知山)
▲展示品

名前の「垣将集館」は歩兵第二十聯隊の通称号「垣第六五五五部隊」の「垣」と「将校集会所」の「将」「集」から採ったものと思われます。

将校集会所(資料館)の北側には防火水槽がありますが、殆ど埋まっています。
防火水槽 ア北側(福知山)
▲同型の防火水槽が近隣の旧工兵第十聯隊(第四師團演習廠舎)にも遺っています。


イ 演武場
将校集会所(資料館)の北側、一段低い場所にあります。
陸軍時代は将校の剣道訓練場として建設され、現在は第7普通科連隊音楽隊の控室となっています。
イ 演武場(7普連音楽隊控室) 南西から(福知山)
▲演武場 南西から
 下見板張りの外観は当時のままと思われます。

イ 演武場(7普連音楽隊控室) 北西から(福知山)
▲北西から


ウ 倉庫
当時の建物の様ですが、詳細は不明です。
『歩兵第20聯隊配置図』(資料館展示)によると「倉庫」となっています。
ウ 倉庫 北西から(福知山)
▲北西から

ウ 倉庫 東から(福知山)
▲東側の出入口には庇が付いていた跡があります。


エ 機関銃廠
当時の建物の様ですが、詳細は不明です。
『歩兵第20聯隊配置図』(資料館展示)によると「機関銃廠」となっています。
エ 機関銃厰(レンジャー舎) 南西から(福知山)
▲南西から

自衛隊発足時?(福知山)
▲昭和30年頃、自衛隊発足間もない頃の兵営跡(北東上空から撮影)
 写真左端中央に、この建物が写っています。


オ 建物
当時の建物の様ですが、詳細は不明です。
オ 建物(両脇の2棟)北から-戦後の物?(福知山)
▲両脇の2棟が外観からして当時の物か?と思われます。


カ 軍属宿舎
当時の建物の様ですが、詳細は不明です。
『歩兵第20聯隊配置図』(資料館展示)によると「軍属宿舎」となっています。
現在は自衛隊の敷地外で民家になっています。
カ 軍属宿舎(民家) 北から(福知山)
▲外廊下など当時の特徴を良く残していると思われます。

カ 軍属宿舎(民家) 南東から(福知山)
▲将校集会所付近からの外観

たまたまゴミ出しに出てこられた住人の方の許可を取り撮影・掲載しています。


A 営門門柱・歩哨舎(移設)
営門、歩哨舎ともに資料館の入口として移設されています。
門札は戦後に複製された物の様です。
A営門(移設)(福知山)
▲移設された営門門柱
 この営門右側に歩哨舎が移設されています。

営門(福知山)
▲当時の歩兵第二十聯隊営門

現在の正門(福知山)
▲現在の営門付近

A 歩哨舎(福知山)
▲営門とともに将校集会所前に移設された歩哨舎
 同じ第十六師團隷下の歩兵第三十三聯隊跡、輜重兵第十六聯隊跡に遺る歩哨舎と同型の六角柱型をしています。

⑩哨舎 西
▲(参考)歩兵第三十三聯隊(津市久居)

ニ南門門柱、哨舎、陸軍省所轄地(移転) (2)
▲(参考)輜重兵第十六聯隊(京都市伏見区)

A 歩哨舎 削れた踏み石(福知山)
▲分かり難いですが、歩哨が立っていた踏み石は「気をつけ」の足の跡が残ります。


B 陸軍省所轄地(移設)
この場所が当時の境界では無い事から、移設された物の様です。
B「陸軍省所轄地」(移設) (3)(福知山)
▲表面は「陸軍省所」以降は土に埋まっています。

B「陸軍省所轄地」(移設)(福知山)
▲裏面は分かり難いですが、「明治三十三年一月」の刻字があります。

先端が三角に成形され、裏面に境界が引かれた?「明治三十三年一月」と刻字された珍しい石標です。
ただ、兵営は明治31年に完成しているので、石標はその後に建てられたのでしょうか?


C 陸軍省所轄地
当時の境界はこの石標のある丘の稜線にありました。
C 陸軍省所轄地(福知山)
▲境界石標「陸軍省所轄地」


D 陸境二六号ノ一九
将校集会所(資料館)の裏に転がっています。
D「陸境二六号ノ一九」(福知山)
▲境界石標

元々どこにあった石標かは不明です。
似た様な石標が射撃場に在りますが、かなり遠いのでワザワザ持って来たとは考えにくく謎です。


E 防空壕
駐屯地裏門から将校集会所(資料館)に登る細い道沿いに4ヶ所開口しています。
入口は殆ど埋没していますが、3ヶ所は中が辛うじて見えます。
E 防空壕 ①(手前)と②(奥)(福知山)
▲殆ど埋まった防空壕

E 防空壕 ②(福知山)
▲防空壕内部

入ってすぐに左右に分かれている様です。


F 極楽坂
兵営は丘の上に在り、営門の両側は長い坂になっています。
北側の坂は福知山市の繁華街に向う事から、将兵達に「極楽坂」と呼ばれました。
極楽坂(福知山)


G 地獄坂
一方、南側の坂は練兵場に向う事から「地獄坂」と呼ばれていました。
地獄坂(福知山)


起伏の激しい地形で日夜訓練に励んだ歩兵第二十聯隊は「健脚聯隊」として名を馳せました。


あ 「留魂」碑
昭和48(1973)年12月8日、福知山駐屯部隊・自衛隊協力会により建立されました。
留魂の碑(福知山)

「明治早創以来身を以て国防に任じたる幾多先輩の霊此処に眠る。
我等現代の防人、伝統を受け継ぎ此の地に武を練る。
何れの日か肉体の土に化するのとき、雄魂此所に相集い以て先人の英霊に答えん。」
と記されています。


い 鎮國之碑
平成3(1991)年7月6日、自衛隊関連諸団体により建立されました。
い 「鎮國之碑」(福知山)

鎮國之碑の建つ高台は元々聯隊将兵の守護である鎭國神社がありました。
停戦により、兵営を接収した米軍の指示で兵営東の「一宮(いっきゅう)神社」境内に遷座(鎮神社?)されました。
鎭國神社(福知山)
▲鎭國神社

狛犬(福知山)
▲鎭國神社にあった狛犬(資料館展示)
 歩二十第22代聯隊長・山田勝康中将が旅順要塞司令官として赴任した際、日露戦役時に歩二十が激戦した析木城付近の廃廟で発見、現地人と交渉し購入した物です。

一宮神社境内には嵐歩兵第百二十聯隊之碑が建立されています。
嵐歩兵第百二十聯隊之碑(一宮神社)(福知山)

鎮國之碑の東側にコンクリート製の構造物がありますが、時代や用途は不明です。
コンクリート製構造物 「鎮國之碑」東側(福知山)
▲六角形の台座に六角形の穴が開いています。

兵営最高峰のこの辺りに鎭國神社の社殿があった事から、神社関連の遺構でしょうか?


う 「歩兵第二十聯隊之跡」碑
昭和41(1966)年9月23日、歩兵第二十聯隊記念碑建設委員会により建立されました。
揮毫は歩兵第二十聯隊に在営した磯谷廉介中将によるものです。
う「歩兵第二十聯隊之跡」碑(正門横)(福知山)


旧歩兵第二十旅團司令部
明治30(1897)年9月28日、歩兵第二十(大阪)・第三十九聯隊(姫路)を隷下に編成、大阪東区馬場町に司令部を設置します。
明治31(1898)年8月3日、歩兵第二十聯隊の福知山転営に伴い、同じく福知山の兵営内に移転し31日、開庁します。
9月22日、②の場所に移転します。
昭和16(1941)年4月、第十六師團の3単位師團への移行に伴い廃止され、跡地は歩兵営になります。

現在は駐屯地の敷地外で、近年の山陰道整備工事により何も遺っていません。


衛戍・編成・補充部隊
歩兵第二十聯隊(垣六五五五、中部第六十三部隊)
明治17(1884)年6月10日、大坂城二之丸(京橋口)の第三營において歩兵第十聯隊(姫路)を基幹として第一大隊が編成(寺内清祐少佐)、明治18(1885)年5月2日、第二大隊が編成され、5月26日、聯隊長・河野通行歩兵中佐が着任します。
6月10日、大坂城内に聯隊本部を開設、11日、大阪鎭臺隷下の歩兵第八旅團(岡澤精少将、姫路)に編入され、7月21日、宮中において軍旗を拝受、明治20(1887)年3月24日、城外東区法円坂町の新兵営に移駐し、5月17日、第三大隊が編成され聯隊は編成完結します。
歩兵第二十聯隊 軍旗(福知山)
▲歩兵第二十聯隊 軍旗

明治21(1888)年5月14日、大阪鎭臺は第四師團に改編されます。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、11月26日、聯隊に動員下令、12月2日、動員完結、明治28(1895)年4月1日、第四師團は征清大總督府(小松宮彰仁親王大将)隷下の第二軍(大山巌大将)戦闘序列に編入され兵営を出発、4月12日、宇品を出航し、22日、滿洲柳樹屯に上陸し杓子窩、5月14日、宋家屯・陳家屯付近に屯営しますが、仮条約締結のため戦闘に加わる事無く第十師團は第二軍戦闘序列を解かれ占領地總督(佐久間左馬太少将)の指揮下に編入され、29日、第五師團と交替し第一大隊は営口、6月8日、第二・第三大隊は海城に移駐、遼東半島各地の警備に就き、明治29(1896)年1月26日、1月26日、柳樹屯より乗船、29日、大阪に帰還します。

明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し軍備増強を実施、明治30(1897)年9月28日、聯隊は新設の第十師團(伏見宮貞愛親王中将、姫路)隷下の新設歩兵第二十旅團(福知山)に編入され、明治31(1898)年8月30日、京都府天田郡福知山町(現、京都府福知山市)の兵営に移駐します。

明治32(1899)年6月20日、堤中尉以下215名が台湾守備に抽出(明治34年7月27日、復帰)、明治34(1901)年6月15日、住田大尉以下169名が北清駐屯歩兵第五大隊要員として抽出(明治35年12月4日、復帰)、7月3日、有岡中尉以下223名が台湾守備に抽出、11月13日、明治32年兵40名が清國駐屯軍の補充員として天津に出発します。

明治37(1904)年2月7日、第三大隊は舞鶴要塞、小浜湾・宮津湾の海岸監視哨に派遣されます。
2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、聯隊に動員下令、27日、動員完結、5月5日、福知山を出発し、5月19日、第十師團とともに清國盛京省南尖澳(遼東半島)に上陸、師團は獨立第十師團として第一・第二軍の中間に作戦し、両軍に策応体制を採り、聯隊は師團前衛として大狐山を攻略します。

20日、曲家屯付近において敵騎兵130を撃破、6月4日、溝蓮河において敵騎兵500・火砲6門に遭遇し激戦となるも敵は夜半に撤退、9日、岫巌を攻略、25日、遼陽に向かう要所・分水嶺付近に進撃し、27日、周辺の敵陣を攻略、第十師團は23日に編成された滿洲軍(大山巌大将)隷下の第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に入り、7月22日、盤嶺付近の敵陣を激戦ののち攻略、24日、敵1個連隊・火砲4門が占領する石頭塞を攻略、30日、析木城の戦いでは聯隊は師團予備となり僚隊を援護、31日、析木城を攻略します。

8月26日、遼陽に向かう要所・鞍山站突破のため聯隊は師團前衛としてタイピンゴウ高地を進撃し激戦ののち、27日、高地を攻略しますが、敵情視察中の聯隊長・桂中佐が敵至近弾により重傷を負い、同日、第二野戦病院において散華してしまいます(後任、八木下純中佐)。
歴代聯隊長(福知山)
▲第10代聯隊長・桂真澄中佐(明治35年8月22日、着任)

30日、ウイジャゴウに進撃し敵1個連隊・火砲8門と遭遇、激戦を展開しますが攻撃は遅滞、旅團命令により転進ののち包囲作戦により、9月1日、敵は撤退します。
9月3日、軍第一線として遼陽城南門に攻撃を開始、ユイファンミャオ堡塁からの機関銃掃射を受け死傷者が増加、八木下聯隊長も重傷を受けてしまいます(第九中隊長・江上喜三郎大尉が代理)。
聯隊は旅團命令により迂回しコファニヤオ堡塁を攻略、前進し遼陽城を攻略(一番乗り)し、6日、勅語を賜り、10月29日、野津大将より感状を授与されます。

10月10日、遼陽會戰後、敵は南下の兆しを見せたため機先を制し三塊石山の夜襲戦を敢行、聯隊は第一線の歩三十九(姫路)に続行し第二線となり激戦ののち攻略します。
12月31日、沙河対陣に参加、陣地構築を実施、明治38(1905)年2月25日、奉天會戰開戦、28日、第十師團は第四軍右翼隊として進撃を開始、3月2日、聯隊は萬宝山陣地に攻撃を開始し、8日、激戦ののち占領、師團とともに敗走する敵の抵抗を排除しつつ追撃、20日、新屯に進撃、敵の南下に備え築城を実施します。
9月1日、講和条約が締結され、16日、両軍は停戦、聯隊は火蘭屯付近に屯営ののち、明治39(1906)年1月18日、火蘭屯を出発、26日、柳樹屯を出航し、29日、神戸和田岬に上陸、2月2日、福知山に凱旋し、4日、復員完結します。

明治40(1907)年、第十師團は第十六師團(山中信儀中将、京都)に代わり滿洲駐箚が決定、10月11日、聯隊本部・第一大隊は福知山を出発、關東都督(大島義昌大将)の指揮下に入り旅順の警備にあたり、明治42(1909)年10月、福知山に帰還します。

大正3(1914)年11月11~13日、大阪で行われた大演習に参加、大正8(1919)年11月11~14日、大阪・兵庫東部で行われた大演習に参加します。

大正9(1920)年4月3日、歩兵第八十聯隊(朝鮮)編成要員として二等卒215名、4日、福富大尉以下156名、9日、鈴木大尉以下156名、大正10(1921)年10月24日、歩兵第七十六聯隊(朝鮮)編成要員として43名を転出させます。

大正14(1925)年3月7日、軍令陸甲第一號により歩兵第二十聯隊は第十六師團(山田良之助中将、京都)に隷属転移します。

昭和4(1929)年4月、第十六師團とともに滿洲駐箚(第三大隊は残置)に出発、6月、福知山に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発します。

昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)の滿洲派遣が決定、4月6日、聯隊に動員下令、9日、第十一中隊の一部が先発隊(恩地秀雄大尉以下13名)として出発、21日、聯隊主力は福知山を出発、28日、新京・吉林に到着し第十六師團とともに關東軍の指揮下に入ります。
聯隊は新京に本部(桑名照貳大佐)を設置(後、奉安)、第三大隊(山田太作少佐)は首都防衛にあたり(のち間島省の警備)、6月16日、第一大隊(村田宗太郎少佐)が拉濱線沿線の匪賊討伐、9月4日、第一大隊が京図線・侗寧線・拉濱線の警備、第二大隊(村川正一少佐)が間島付近の匪賊討伐・延吉付近の警備など各大隊単位で匪賊討伐、警備、治安工作等にあたり、昭和11(1936)年4月、任務を終了し奉安を出発、6月19日、福知山に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発に伴い、8月24日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾寿造中将)戦闘序列に編入、9月6日、聯隊は福知山を出発、8日、大和丸に乗船し大阪港を出航、14日、塘沽に上陸し、15日、貨物列車で濁流鎮に移動し子牙河に沿って泥濘悪路を天津に進み、9月21日、第二軍の子牙河作戰において東賈庄の戦闘を経て、22日、大城鎮を攻略、24日、北曹付近の敵陣を攻略、11月2日、獻城に入城し敗走する国府軍を追撃し、4日、第八中隊(四方健一中尉)は衡水城を攻略、21日、聯隊主力は内章に進撃、正定・石荘の敵4個師を南方に潰走させます。

11月2日、内章を出発、10日、大連に移動、12日、第十六師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列となり、13日、大連を出航、18日、中支長江岸滸浦鎮に上陸し、第一大隊を前衛とし支那国民党政府の首都・南京に向かって進撃を開始、22日、無錫の敵堅陣に攻撃を開始、26日、多大な損害を受けながらも攻略、29日、常州を攻略し江南運河に沿って敗敵を追撃、12月2日、丹陽の敵陣を攻略、6日、大華山脈の南京防衛の第一線陣地に進撃、9日、南京東方の梅塘西側高地に於いて国府軍の抵抗を排除し、大華山脈を踏破し南京郊外蒼波門付近に前進します。

10日、中支那方面軍司令官・松井石根大将は首都保衛軍司令官・唐生智に降伏勧告を行いますが、期限までに回答はなく、0300、攻撃命令が下り、聯隊は南京城中山門に通じる道路沿いの敵陣に攻撃を開始、13日0440、第八中隊(四方健一中尉)は敵の激烈な攻撃を突破し中山門を攻略、同日、唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、我が軍は南京城を攻略し、17日、入城式を実施、聯隊は周辺の残敵掃討、警備にあたります。

12月23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、聯隊は北支転進のため南京を出発、途中海路にて28日、大連に上陸し星雲台の廠舎に入ります。
3月18日、北支那方面軍の北支戡定戦に参加、第三大隊は彰徳を出発し劉如明率いる匪賊を討伐に向かい、19日、白道口、4月6日、陳塞において撃滅します。
4月20日、徐州會戰に参加、25日、天津を経て津浦線を南下、29日、獅子山二百五十高地の敵陣を攻略、5月16日、聯隊は第十六師團前衛となり、18日、徐州守備の要地・大狐山の敵陣を攻略、19日、徐州包囲に参加するも蒋介石軍は我が軍の間隙を突いて撤退してしまいます。
聯隊は敗敵を追撃し、26日、碭山を苦戦ののち攻略、6月3日、杞県城を攻略、敵は我が追撃を阻止すべく黄河を決壊させたため、7月4日、開封に入城、第十六師團(藤江恵輔中将)の第二軍戦闘序列編入に伴い、15日、漢口に転進となり徐州を出発、8月23日、盧州に到着し武漢作戰に参加、聯隊は予備隊として大安-桃鎮-舒城-大観-桐城の数10kmに渡る長大な側面兵站線を確保し、襲撃して来る敵勢を討伐、10月17日、商城に集結し大別山付近の蒋介石軍を撃滅しつつ踏破し、30日、花園を経て河口鎮付近、次いで京漢線以西地区湯池付近の警備にあたります。
12月、第十六師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。

昭和14(1939)年1月16日、李品仙率いる蒋介石軍2個師の拠る京山城を攻略、2月27日、第十六師團の安陸作戰に参加、3月1日、激戦ののち孫家橋を、2日、官橋舗を攻略、敗走する敵を追撃し西進、5日、安陸城を攻略し北上、6月6日、長寿店に達します。

4月29日、第十一軍(岡村寧次中将)の襄東會戦に参加、5月8日、第一次作戦目標の張家集を無血占領、楊家の戦闘、10日、双河鎮の戦闘、11日、沙河舗付近の戦闘で蒋介石軍を撃滅し賈楼に達し作戦を終了、21日、徳安に移駐し警備にあたります。

7月11日、第十六師團の復員が下令、14日、第十六師團隷下部隊は岡村寧次中将から感状を授与され、月末、徳安を出発し漢口に集結、8月20日、福知山に凱旋し復員します。

当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航します。
昭和16(1941)年9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。
9月16日、第十六師團に臨時編成が下令、11月5日、政府は新『帝國國策遂行要綱』を策定し、和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、6日、第十六師團は比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入されます。
10日、歩兵第二十聯隊に動員下令、夏服が支給され、23日、福知山を出発、24日、大阪港を輸送船3隻に分乗して出航し、奄美大島付近で第十四軍隷下部隊の輸送船21隻と合流します。

12月8日、米英に対し宣戦布告、大東亜戰争が開戦します。

24日0130、第二大隊(恒廣成良中佐、「廣部隊」)はフィリピン・ルソン島ラモン湾マウバン付近、0230、聯隊は第十六師團主力とともに同アチモナン東方地区、第一大隊(木村三雄中佐、「村部隊」)は同シャイン付近に奇襲上陸、米比軍の反撃を排除しつつ進撃し、24日、聯隊はタヤバス山系を突破、25日、パグヒラオを攻略、サンバロック(廣部隊)、カラワグ(村部隊)、26日、ルセナ、27日、チアオング、30日、リバ、パグサンハン(廣部隊)を攻略、昭和17(1942)年1月1日、村部隊はマニラ市街地に突入(一番乗り)、2日、第十四軍はマニラを攻略しました。

しかし、マニラ、タルラックの米比軍は作戦通りバターン半島に撤退、大本營、南方軍はマニラ陥落を受け今後は残敵掃討と判断、第十四軍隷下にあった第四十八師團(土橋勇逸中将、台湾)を蘭印攻略、第五飛行集團をビルマ攻略に転用します。

9日、第六十五旅團(奈良晃中将、第九聯隊を配属)はバターン半島ナチブ山周辺の米比軍に攻撃を開始しますが、敵の頑強な陣地に阻まれ進展せず、13日、第十四軍は第十六師團に第六十五旅團への2個大隊の増援を下命します。

15日、聯隊(第一大隊欠)は木村支隊(歩兵第十六歩兵團長・木村直樹少将)に編入されマニラを出発、16日、オロンガポに集結、18日、モロンに到着、19日、歩兵第百二十二聯隊(松山)が攻撃中のモロン南方の敵前進陣地に攻撃を開始するも、頑強な抵抗を受け前進は遅滞、そのため支隊はナチブ山を迂回しバガックと東海岸との連絡を遮断するため第七中隊(難波喜太郎大尉)を派遣(29日、マルチカに進出、31日、第六十五旅團と連絡)、21日、モロン南方の敵前進陣地を攻略し、バガック付近に進撃しますが、またも強力な敵の反撃により攻撃は遅滞します。

22日、木村少将はバガック周辺の敵陣後方に舟艇機動により奇襲上陸し敵を包囲殲滅するため上陸部隊を編成、23日夜半、第二大隊(240名)と第五中隊(横場孝介中尉、90名)はマヤガオ岬を大発で出発、24日未明、第二大隊はカイボボ岬付近に上陸しますが、激しい潮流と視界不良により実際は5km南の敵集結地近辺のキナウアン岬に上陸、25日、戦車を伴う敵の激烈な攻撃を受け損害が増加、第五中隊は途中舟艇の故障により大隊を見失い大隊よりさらに9km南のロンゴスカワヤン付近の海岸に上陸、敵の陸海からの攻撃を受け玉砕してしまいます。

24日、木村少将は第二大隊へ補給のため歩兵・砲兵1個小隊・軍需品を舟艇により派遣しますが、敵の砲火に妨げられ一部しか揚陸できませんでした。

25日、第十四軍は第十六師團にバターン半島攻略を下令します。
同日、第二大隊救援のため、第一中隊(小林高一大尉、170名)がオロンガポより出発、27日未明、カナス岬に上陸し第二大隊との連絡に努めますが戦車を伴う敵部隊に包囲され苦戦に陥ってしまいます。

29日、木村支隊主力とともに聯隊(聯隊長・吉岡頼勝大佐、第三大隊基幹、930名)はバガック南側から攻撃を開始、激戦ののち敵陣を突破しバガック-バランガ道に進撃します。

27日、軍直轄でマニラ防衛にあたっていた第一大隊(480名)は聯隊に復帰しオロンガポに集結、2月2日、第二大隊、第一中隊救援のため、適砲撃下カナス岬に上陸し第一中隊と合流、さらに第二大隊と連絡のため南下を試みるも敵戦車に阻まれ進撃は遅滞、損害増加のため南下を断念、7日、大隊の苦戦を受信した師團は転進を下令、大隊は北上を開始、11日、第一大隊長・木村中佐、第二中隊長・西岡市太郎中尉、機関銃中隊長・公手太大尉が敵陣に切込み散華、16日(8日とも)、恒廣中佐以下、第二大隊が敵陣に総攻撃を敢行し玉砕、21日、第一大隊は敵の包囲を突破しますが、脱出に成功したのは僅か14名のみでした。

1月29日、バガック-バランガ道南方丘陵地帯の敵主陣地を攻略した聯隊主力(第三大隊基幹)は、30日、ツォール川付近に進撃しますが、バターン半島防衛の主抵抗陣地確保のため配備された米比軍1個師団7,000名と遭遇、敵により啓開した突破口が閉じられ、聯隊は15日に渡り激戦を展開します。
数で劣る聯隊は敵の重囲に陥り損害は増加、11日、師團は聯隊に転進を下令、13日、第三大隊長・中西中佐が散華、食料弾薬も欠乏し玉砕寸前で歩兵第九聯隊(京都)、同三十三聯隊(津)の来援により、2月15日、脱出に成功し師團司令部に転進しますが、聯隊はマニラ攻略戦で74名、バターン攻略戦で1,469名を失い、223名となってしまいます。

3月8日、サイサイン河付近に屯営する聯隊に補充兵1,800名が内地から到着し戦力を回復し、訓練にあたります。

4月3日、第十四軍は大本營からの増援を受け第二次バターン攻撃を開始、第十六師團は敵第一線陣地攻略の第六十五旅團・増援の第四師團(北野憲造中将、大阪)に続き、損害が出るであろう第一線部隊に代わり第二線陣地攻略を担当しますが、敵は1月の籠城で食料・弾薬欠乏に加えマラリヤの蔓延で士気が低下、第一線部隊は難なく敵陣を突破したため、第十六師團は予定を変更し戦果拡大にあたります。
9日夜、第十六師團は第四師團に続きリマイ山西麓からバターン南端のマリベレスを突破し、さらにキナウアン岬に突入、遂に米比軍指揮官キング少将を降伏させます。
続いて、5月7日、第四師團らによってコレヒドール島も陥落し、比島作戰は終了、聯隊は米比軍俘虜の後送にあたったのち、7月、聯隊本部はルソン島中部のルセナ、第一大隊(斎藤敏夫少佐)はマニラ東方のアンチブロ、第二大隊(常岡昇少佐)は北カマリネス州ダエトに移駐し警備・匪賊討伐に従事します。

昭和18(1943)年1月、第三大隊(吉山中佐)はネグロス島に派遣され、同島の警備・匪賊討伐にあたります。

フィリピンは米国植民地時代より共産匪賊が跋扈、米軍は降伏直前に親米匪賊、米軍指揮の匪賊に徹底抗戦を命令したため各地に米式装備の協力な匪賊集団が拠点を構え、現地華僑を通じ支那共産党の指示を受けた共産匪賊も加わりその総数は約5,000と言われ、我が軍にとり看過できない物でした。

11月、レイテ島の完全占領を下令され、聯隊はビサヤ諸島警備の任にあった獨立混成第三十三旅團(見城五八郎少将)の指揮下に入り、先遣隊として第一大隊(泉長夫少佐)をレイテ島南部マリトボックに、続いて第二中隊(矢尾善吉大尉)をレイテ島西部のヒロンゴス、第三中隊(中村明夫大尉)をアナワンに、機関銃中隊(岡田誠太大尉)をマーシンに派遣、12月2日、主力はタクロバンに上陸し、付近の警備・匪賊討伐にあたります。

昭和19(1944)年4月5日、第十四軍(黒田重徳中将)は第十六師團(牧野四郎中将)にレイテ島進出を下令、13日、第三大隊(河田信太郎少佐)がネグロス島から聯隊に復帰、聯隊(鉾田慶次郎大佐)はドラグ付近に集結し第十六師團に復帰、本部をドラグ西南のサンタアンナに、第二大隊(難波喜太郎少佐)はドラグ-サンタアンナ中間のマホルラック、タラゴナ、ラバス等に、第三大隊は敵上陸正面が予測されるドラグに、第一大隊(泉長夫少佐)は師團予備としてダガミに配置し米軍上陸に備え陣地構築を開始します。

5月、大本營は比島航空要塞化により海軍に協力する第十一號作戰を発令、聯隊は防御陣地構築に加え飛行場設定も実施、民心を掌握していたため2,000名の現地人が協力奉仕します。

7月、第十四軍は第十四方面軍(黒田重徳中将、9月26日から山下奉文大将)に昇格、隷下に第三十五軍(鈴木宗作中将、セブ)が新設され、第十六師團は第三十五軍隷下に編入されます。

10月17日、米軍(D.マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、大本營は米軍の本格的進攻と判断し、10月19日0000、「捷一號作戰」を発動します。

19日、第十六師團は敵の上陸はレイテ島南東のダガミ方面に主力、アブヨクに副次と予測していましたが、敵は島北東のタクロバン方面・ダガミ方面の2方面に上陸を指向してきます。
牧野師團長は師團予備の第一大隊をタクロバン飛行場を確保すべくパロに派遣するなど、対上陸配置を行います。

10月20日、米軍は艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁し上陸を開始します。

0600、レイテ湾口の米軍は6隻の戦艦を中心に艦砲射撃を開始、続いて敵艦載機がカトモン山(ドラグ北方)-ドラグ間を空襲、1000、艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と同第1騎兵師団(マッジ少将)がレイテ島タクロバンに、第24軍団第7師団(アーノルド少将)と同第96師団(ブラッドレー少将)がドラグに上陸(約60,000名)を開始します。

敵上陸正面のドラグに布陣した第二大隊陣地は敵艦砲射撃による損害は1割り程度と他方面に比べ軽微であり、バナナ林に縦横に築城した連絡壕に拠って、左翼に第五中隊(岡崎大尉)・第六中隊(井上直樹大尉)、右翼に大隊主力を配し、後方に分散配置された野砲兵第二十二聯隊第二大隊の援護を受け敵382連隊第3大隊、同32連隊第3大隊の侵攻を拒止、三十七粍砲によりM4戦車3両、M8自走榴弾砲を撃破し敵上陸部隊を押し返すなど戦果を挙げます。
しかし、20倍の敵上陸部隊はブラウエン飛行場群に向け侵攻を開始、大隊は次第に包囲され敵中に孤立、戦車に対する肉薄攻撃、斬込みを実施するも損害が増加、22日、重傷を負った大隊長・河田少佐は自決し大隊は玉砕、生存者は師團命令によりホリタの第二線陣地に転進します。

聯隊本部はドラグ西南のサンタアンナから第二線陣地のホリタに転進、ドラグから続く縦深陣地に拠って敵第7師団の拒止にあたりますが、22日、敵は第767戦車大隊(戦車40両)に加え予備の第17連隊を投入しドラグ飛行場を制圧、ブラウエン飛行場群に急迫してきます。
23日1000、ホリタの聯隊本部に敵戦車が侵攻、本部後方高地の聯隊砲中隊(右川武雄大尉)・速射砲中隊(佐藤昌明中尉)が迎撃し先頭の敵戦車を擱座炎上させますが、観測ヘリに支援された敵戦車の激烈な砲撃を受け甚大な損害を受けた鉾田聯隊長は副官・前川利道大尉に軍旗を託し転進させ、残存将兵を率いて敵戦車群の拒止にあたりますが敵弾を受け散華してしまいます。
鉾田慶次郎大佐(福知山)
▲第34第聯隊長・鉾田慶次郎大佐(昭和19年3月、着任)
 第十六師團長・牧野四郎中将とは陸士同期(26期)で、温厚な性格で部下の信頼も厚かったと伝えられます。

23日、敵はタクロバン、カトモン山(歩九主力陣地)西側に到達、24日、戦車約40両を先頭に敵第7師団がブラウエン地区へ侵入してきます。

第二大隊は敵上陸に伴い急遽、ドラグ南方のリサール方面の敵侵攻正面に機動します。
鉾田大佐散華の後、第二大隊長・難波喜太郎少佐が聯隊長代理となり聯隊を指揮、大隊は軍旗・第三大隊・聯隊本部の生存者を収容、戦車を伴いブラウエン飛行場群に急迫する敵32連隊の侵攻路に爆弾を埋設し急増の地雷原を構築、周囲に築城してあった堡塁に拠り応戦、3日間に渡り敵の侵攻を拒止しますが、26日、敵の圧倒的な火力に大隊は大損害を受け生存者は師團命令によりダガミに転進、ブラウエン飛行場群を失陥してしまいます。
27日、頭部を負傷しマラリアに罹患していた大隊長・難波喜太郎少佐が自決、聯隊副官(第九中隊長)・田中彦寛大尉が後任として軍旗を奉じ生存者約400名を率い師團司令部を追及します。
同日、師團司令部から後任歩二十聯隊長として師團高級副官・角田勇中佐が発令されますが、赴任途中で敵の砲撃を受け散華してしまいます。

パロに派遣された第一大隊は同方面の歩三十三第一大隊及び同第九中隊と協力し敵第24師団の侵攻を拒止、20日、21日と連日、迫撃砲・重機関銃により夜襲を決行し戦果を挙げますが大隊も損害が増加、大腿部に敵弾を受けた大隊長・泉少佐は自決、半数以上の兵を失い、22日、遂にパロを失陥してしまい歩三十三聯隊長・鈴木辰之助大佐が散華、大隊は機関銃中隊長・岡田誠太大尉に率いられパロの敵陣に夜襲を決行、食料・弾薬を炎上させ、生存者はダガミに向けて転進します。

第一線・第二線陣地を失った師團は脊梁山地東麓のハロ-ダガミ-ブラウエンの線で防衛線を展開する一方、各地で夜襲を決行しますが戦果は挙がらず、30日、敵第7師団第17連隊・第24師団第19連隊がダガミに侵攻、第十六師團司令部は脊梁山地に転進、同日、歩三十三が玉砕、11月、工十六が玉砕、この頃には第十六師團の防御線は寸断されてしまいます。

米軍は断続的に戦力を増強、、一方我が軍は10月31日、第一師團(片岡薫中将)が無傷でオルモック湾に上陸します。
その後も我が軍の増援は行われ兵力は最大75,000名に達しますが、敵制空権下の輸送により海上で兵力、物資が大損害を受け戦力的には低下していきました。
兵力、物資の安全補給のため地上部隊は敵飛行場への攻撃が必要となり、11月26日、台湾高砂族により編成された薫空挺隊の突入、さらに12月5日、空挺部隊による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團残存部隊(11月末時点総兵力2,030、内歩兵1,400)は歩兵第九聯隊長・神谷保孝大佐の指揮下、敵占領下のブラウエン北飛行場に対し攻撃(和號作戰)を実施、飛行場制圧に成功しますが、敵の逆襲を受け歩九・神谷聯隊長が散華、12月11日、米軍が西海岸のオルモックに上陸したことから作戰は中止、我が軍はパロンポン方面へ転進します。

12月12日、田中彦寛大尉以下5名がヤロ高地の師團司令部を追及しますが、これ以上軍旗を安全に捧持するのは困難と判断し軍旗を奉焼、全員自決し聯隊は最期を迎えます。

※詳細な聯隊の最期は不明のため、『福知山聯隊史』、「歩兵第二十聯隊之跡」碑の記述を参考にしました。


歩兵第百二十聯隊(嵐六二一二、中部第六十三部隊)
昭和13(1938)年5月15日、留守第十六師團(中岡弥高予備役中将)に動員下令(第六動員)、18日、歩兵第二十聯隊留守隊(志摩源吉中佐)に編成下令、聯隊本部以下市内の民家に分宿し、23日、宮中において軍旗を拝受、24日、編成完結します。
歩百二十 軍旗(福知山)
▲歩兵第百二十聯隊 軍旗

27日、聯隊は動員完結した第百十六師團(清水喜重予備役中将)隷下の歩兵第百十九旅團(石原常太郎予備役少将)に編入、31日、長田野陸軍演習廠舎に移駐し訓練を実施します。

5月20日、第百十六師團は大陸命第百七號により中支派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入、武漢作戰への派遣が決定しており、18日、長田野を出発、19日、天洋丸、たこま丸、亞丁丸に分乗し大阪港を出航、23日、上海に上陸します。
30日、江蘇省呉興県湖州に移駐し第六師團と交替し警備・匪賊討伐にあたり、8月31日、杭州に集結に列車により、9月3日、南京に移駐、25日、廬山に集結、30日、第百十六師團は第十一軍(岡村寧次中将)指揮下に編入、第百十六師團により編成された石原支隊(第百十九旅團長・石原常太郎少将)に聯隊から第二・第三大隊が編入(第一大隊望澤付近の警備)され、10月2日、武漢作戰に参加、田家鎭に上陸、8日、蔪(キ)春城を攻略、13日、黄白城付近で敵の大部隊と交戦、26日、漢口付近に進撃しますが敵が退却したため、28日、漢口に入城します。

作戦終了後、30日、漢陽付近の警備(第二大隊は漢川)にあたり、11月5日、支隊は師團に復帰、28日、安徽省銅陵県銅陵付近の警備にあたり、12月8日、青陽付近の戦闘を有利に進め、13日、木鎭を攻略、23日、田裡屯付近の警備にあたります。

昭和14(1939)年1月15日、盤柳樹付近、2月2日、安徽省安慶付近、3月1日、南昌作戰参加のため江西省湖口に移駐、12日、兵站線確保のため海軍の舟艇により鄱陽湖東岸付近に敵前上陸を敢行、14日、敗敵を追撃し劉孫橋付近に達し、4月12日、安慶に帰還します。
9月30日、練潭鎮付近で敵百七十六師の集結部隊を攻撃に向かいますが、頑強な抵抗に遭い転進、12月21日、貴池作戰に参加します。
昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍が廃止、第百十六師團は支那派遣軍戦闘序列第十三軍(西尾寿造大将)に編入されます。

昭和15(1940)年4月19日、春季皖南作戦に参加、5月15日、湖東作戦(ら號作戰)に参加、第百九聯隊警備地区前面の敵第百四十四師、百四十五師を第百十九旅團とともに撃滅、10月15日、潜山並に三橋鎭作戰に参加、19日、敵百七十六師・敵諜報員の拠点である潜山を攻撃し支那軍を撃破、11月22日、北方潯陽作戰に参加、江南秋浦地区の敵第百四十七師の拠点・張候鎮・莫公鎮、敵本拠・吏郡口を攻撃、覆滅します。

昭和16(1941)年1月15日、安徽省東流県東流付近の警備にあたり、5月10日、石門街作戰に参加、15日、敵第百四十七師の本拠・石門街を攻略し、敵を堯水左岸地区に撃破、師團命令により東流(聯隊本部:東流、第一大隊:安慶、第二・三大隊:長江南岸)に復帰し警備にあたり、支那軍の討伐にあたります。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年4月30、米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け大本營は、浙江省方面の敵航空基地撃滅を下令(浙カン作戰、せ號作戰)、聯隊は臨時重火器大隊(第一大隊長・中村重雄少佐、大隊本部、第四中隊、歩兵砲中隊、聯隊砲小隊)を編成し参加、5月10日、杭州富陽地区に集結、建徳、蘭谿、衡州を豪雨と補給に苦闘しながら進撃、6月7日、衡州の警備にあたり敵飛行場を破壊、9月30日、作戦を終了し南京、安慶の守備に就き、12月21日、大別山作戰に参加、昭和18(1943)年1月2日、練潭鎮で敵1個大隊を撃破、3日、桐城南方で支那軍の激烈な抵抗に遭いますが、激戦ののち撃破、5日、桐城に入城し安慶に帰還します。

昭和18(1943)年6月10日、第三大隊は第六十師團の指揮下に編入され、江蘇省南通県で清郷工作(対匪賊の住民宣撫工作)にあたります。
29日、『昭和十八年軍令陸甲第三十六號』により在支部隊の編成が改正され、聯隊は乙編成から甲編成(兵員4,218名、馬匹752頭、3個大隊、歩兵砲・通信・速射砲各中隊、乗馬小隊)に改編されます(7月10日、編成完結)。
9月中旬、聯隊は第二大隊を安慶の警備に残置し横溝に集結、10月18日、師團とともに第十一軍(横山勇中将)の常徳殲滅作戰(よ號作戰)に参加、11月2日、安郷付近に進撃し敵第四十四軍を撃退、17日、青化駅付近、20日、阮川付近、24日、常徳城西方において支那軍と激戦ののち、12月3日、常徳城を攻略、9日、反転命令が下命され、1月11日、沙市南方に集結、武昌南方の紙坊、五里界、土地塘付近に集結し警備、訓練にあたります。

昭和19(1944)年2月10日、第百十六師團は第十一軍の戦闘序列に編入されます。

5月21日、岳州北方の罷車湾に集結、一號作戰(大陸打通作戰)第二段のト號作戰(湘桂作戰)に参加、洞庭湖西岸・汨水以北の敵を撃滅するため、27日、童城橋付近で新檣河を渡河、30日、汨水を渡河し河畔において敵と交戦、6月3日、長沙西方の蒋家沖に進撃、13日、瀏陽河南岸の敵を撃破、15日、雷鼓山付近の敵を撃破、17日、株州を激戦ののち攻略、18日、第五十八師團が長沙を攻略、21日、衡陽の攻略に出発、30日から衡陽の攻撃を開始しますが、空襲と地形を生かした支那第十軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、7月14日、タコ山の敵陣を攻撃中に聯隊長・和爾基隆大佐が敵弾を頭部に受け散華(24日、児玉忠雄大佐着任)、激戦ののち8月8日、ついに第十軍を降伏させ衝陽を攻略、聯隊は敵制空権を離れ衝陽西北渣江で戦力を回復、警備・訓練にあたり、21日、宝慶作戰に参加、残敵殲滅のため南西に進撃を開始、9月4日、庫宗橋に進撃するも敵は撤退していたため、水東江に第七・金襴寺に第十・庫宗橋に第九中隊を警備に配置、聯隊主力は第二十七師團の指揮下(1月4日から第六十八師團指揮下に)に入り、9月20日、収県・安仁・緑田の警備にあたります。
和爾基隆大佐(歩百二十聯隊長)(福知山)
▲第2代聯隊長・和爾基隆大佐(昭和16年10月18日、着任)

12月1日、第百十六師團は第二十軍(坂西一良中将)の戦闘序列に編入されます。

昭和20(1945)年3月10日、聯隊は宝慶南方の九公橋に集結、4月10日、野砲百二十二第二大隊を指揮下に編入、13日、支那派遣軍の湘西作戰(芷江作戰)に参加、芷江の敵前進基地覆滅のため第二十軍の中核となる第百十六師團左縦隊として(シ資)水を出発、支那軍を石下江などで撃破しつつ西進、23日、高沙市を攻略し洞口付近に進撃、25日、支那軍陣地のある雪峯山系会龍山・月塘山の敵陣を突破しますが、29日、段状に連なる敵陣・濃密な火網に苦戦、第二十軍の進撃は雪峯山系で遅滞してしまいます。
支那軍は航空機による空襲に加え、米式装備の新編第六軍を芷江に空輸し防御を強化、支那派遣軍は敵の戦力集中速度の増大などを勘案し、5月6日、第二十軍に反転を下命、7日、聯隊は洞口付近に転進、12日、洞口において第百十六師團の撤退援護を実施、16日、我が軍の背後に回った敵を岩山で撃破、追撃してくる支那軍と交戦しつつ東進し、6月2日、師團の殿軍を務めた第九中隊が楓林舗付近で聯隊に復帰、10日、宝慶に到着、支那軍の攻勢に備え洞田舗付近に湖南要塞を築城します。

8月16日、停戦の大詔を拝受し、17日、戦闘行動を停止、21日、宝慶北方の馬家塘付近に支那軍が来襲し激戦となり10名の死傷者が出ます。
23日、拓木田の聯隊本部において軍旗を奉焼、25日、復員下令、10月1日、岳州南方洞庭湖畔の鹿角付近に集結、5日、武装解除、12月8日、聯隊合同慰霊祭を斎行、昭和21(1946)年4月23日、内地に向け鹿角出発、6月26日、4隊に別れ上海を出港、7月上旬、横須賀、仙崎に上陸し復員完結、8月2日、聯隊本部は、福岡県二日市町の復員本部において残務処理ののち復員完結しました。


歩兵第百三十五聯隊(誉一一九三四、東海第五部隊)
昭和16(1941)年10月1日、歩兵第二十聯隊を基幹とし編成(松山宗右衛門大佐)、5日、宮中において軍旗を拝受、11月10日、歩兵第二十聯隊に動員が下令されたため、近隣の第四師團廠舎(旧工兵第十大隊兵営)に移転、23日、歩兵第二十聯隊が比島攻略に出征、24日、再度福知山の兵営に移転し教育訓練を実施します。

昭和18(1943)年5月14日、『軍令陸甲第四十五號』により本土防空・防衛のため新設された第四十三師團(賀陽宮恒憲王中将、名古屋)に編入され、7月5日、歩兵第六聯隊補充隊跡(名古屋)に移駐します。

昭和19(1944)年4月7日、動員完結(鈴木栄助大佐)、5月7日、4,045名の聯隊は名古屋城内の兵営を出発、列車により横浜に移動、14日、第四十三師團(斎藤義次中将)とともに東松八號船團(能登丸、東山丸、さんとす丸)により海軍第三護衛船團司令部(鶴岡信道少将)の護衛のもと館山湾を出航、19日、サイパンに上陸、24日、大宮島(グアム島)に転進する歩兵第十八聯隊(大橋彦四郎大佐、豊橋)より北地区の防衛を引継ぎ、米軍上陸に備え陣地構築を開始します。
29日、第一大隊(和泉文三大尉、8月3日、玉砕)がテニアン島に派遣され、歩兵第五十聯隊(緒方敬志大佐、松本)の指揮下に編入されます。

6月11日、米艦載機190機来襲、港湾施設、軍司令部、アスリート(島南)・オレアイ(島西)・バナデル(島北)飛行場が空襲を受けます。
12日、敵大小空母14隻が接近、マリアナ諸島各島が米艦載機延べ1,400機により空襲を受けます。
13日、米艦載機による空襲後、戦艦8・巡洋艦2・駆遂艦22による艦砲射撃を受け、水際陣地、砲台、高射砲、建物、飛行場、ガラパン市街地が破壊され、夜間の駆遂艦による撹乱射撃により通信網が寸断され、命令伝達は伝令のみになってしまいます。
14日、米艦載機による空襲後、戦艦8・重巡6・軽巡5による艦砲射撃が続きます。

15日0445から0600、全艦一斉の艦砲射撃の後、0715、陸揚船34隻、輸送船14隻から発進した水陸両用車700隻に分乗した敵第2・第4海兵師団が艦載機による空襲、艦砲射撃に支援され、チャランカノア(第2海兵師団)、オレアイ海岸(第4海兵師団)に上陸を開始、タナパグに接近します。

チャランカノアに布陣した獨歩第三百十六大隊、獨混第四十七旅團砲兵隊、高射砲第二十五聯隊、オレアイに布陣した歩兵第百三十六聯隊、島西南端アギーガン岬に布陣した獨歩第三百十六大隊、山砲兵第三聯隊は敵の激烈な砲爆撃に陣地を破壊されながらも勇戦敢闘、敵上陸部隊を恐慌状態に陥れますが各地で甚大な損害を受けてしまいます。
同日夜 第一線部隊は夜襲を敢行しますが、日中の激戦と通信網の寸断により部隊の連携が取れず、局地逆襲となってしまいました。

予想外のタナパグへの上陸に井桁敬治少将(サイパン島守備の第三十一軍参謀長)は歩百三十五を急遽、転進させます。

16日0200、井桁少将は敵橋頭堡に対し夜襲を下令しますが、敵戦車・艦砲射撃による逆襲を受け転進、師團予備の2個大隊、海軍横須賀第一陸戰隊が玉砕してしまいます。
同日、聯隊は敵侵攻が予測されるタポチョ山南に転進、布陣します。

17日1700、聯隊は歩十八第一大隊、歩四十第三大隊、歩百三十六、戰車第九聯隊、海軍横須賀第一陸戰隊等とともに夜襲を決行する予定でしたが、伝達の不備により集結が大幅に遅れたため参加できず、18日0230、聯隊を除いた他隊は再び夜襲を決行するも、またもや頑強な敵陣にはばまれ転進、ヒナシス丘陵地帯を失陥し甚大な損害が出てしまいます。

18日、アスリート飛行場を失陥、陸海合同司令部は戦線を整理し防御に適したタポチョ山嶺まで転進、ほぼ無傷の聯隊はタポチョ山西(第二大隊・永田勲大尉)・南麓(第三大隊・野田義宏大尉)に布陣、新たに防御線を敷き、連日敵部隊の拒止にあたります。

19日、マリアナ諸島方面の敵艦隊撃滅を企図し海軍は「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)を発動しますが、米機動部隊と潜水艦のため空母3隻・艦載機378機を損失し制空権を失陥、24日、大本營は連日サイパン島確保の方策を連日検討するも、現状での打開は不可能として遂にサイパン島確保を断念します。

22日、タポチョ山の我が防衛線に対し敵の総攻撃が開始され、23日、西麓二百三十の第二大隊と歩五十第一大隊、南麓二百八十六高地の第三大隊と歩百三十六は肉薄攻撃、切込みにより敵の侵攻を拒止しますが、夕刻、遂に突破され第二大隊長・永田勲大尉は散華、第三大隊長・野田義宏大尉は足に重傷を負い、24日、自決してしまいます。

25日、敵は聯隊本部(180名)の守備するタポチョ山頂に侵攻、陸海合同司令部は最終防御線である島北部に転進を下命、26日、聯隊は敵の激烈な追撃を受けながら転進を開始しますが、錯綜する戦線で軍旗が行方不明になってしまいます。
27日、タポチョ山頂が陥落、29日、陸海合同司令部は戦闘指揮所を地獄谷へ移動し、兵力を再編成し最後の防衛線を構築します。

7月1日、聯隊旗手が重傷を負いながらも洞窟に捧持していた軍旗を救出しますが、後退中に聯隊長・鈴木榮助大佐が散華してしまいます。

陸海合同司令部は夜間、挺身奇襲攻撃を敢行し局地的に相当の戦果を挙げますが、兵力差は歴然で戦局の大勢に影響を与えるまでには至りませんでした。

7月3日、中心街ガラパンが占領されます。
5日、陸海合同司令部は占領されたガラパンへの最後の総攻撃を決定し、1530、大本營に訣別電を打電、地獄谷において第四十三師團隷下の歩兵第百十八、歩兵第百三十五聯隊の軍旗が奉焼されます(歩兵第百三十六聯隊の軍旗は4日、転進中に敵と遭遇戦となり奉焼)。
6日、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将、第四十三師團長・斎藤義次中将、第三十一軍参謀長・井桁敬二少将、艦隊参謀長・矢野英雄少将が古式に則り自決、また第六艦隊司令長官・高木武雄中将、第五根拠地隊司令官・辻村武久少将、辻北部支庁長なども自決します。
7日0300、聯隊の生存者は第四十三師團参謀長・鈴木卓爾大佐、参謀・吉田正治中佐、参謀・平櫛孝少佐の3名の指揮の下、残存兵力約3,000とともに総攻撃を実施、0510、敵哨戒線を突破し敵を大混乱に陥れるも玉砕してしまいました。


中部軍教育隊中部軍管區教育隊(中部第百九十七部隊)
昭和15(1940)年7月10日、和歌山において編成、昭和18(1943)年7月5日、歩兵第百三十五聯隊が名古屋に移駐後、福知山に移転、昭和2(1945)年2月1日、中部軍管區教育隊に改称、8月15日、停戦を迎え、9月2日、復員完結します。

軍教育隊は現役の下士官候補者の教育機関で、昭和19(1944)年から甲種幹部候補生教育機関となりました。


聯隊以下の編成・補充部隊
第十六師團 第三陸上輸卒隊(昭和12年9月15日、動員)
  〃   第四陸上輸卒隊(    〃     )
  〃   第五陸上輸卒隊(    〃     )

  〃   第二水上輸卒隊(    〃     )
  〃   第三水上輸卒隊(    〃     )

獨立歩兵第十八大隊(昭和13年1月、編成完結)

歩兵第五十一聯隊 第一大隊(祭七三七〇/昭和13年4月27日、編成完結)

陸上勤務 第九十三中隊(森八二二三/昭和16年7月18日、編成完結)
 〃   第九十四中隊(森八二二四/     〃      )


主要参考文献
福知山駐屯地 公式サイト

福知山駐屯地 垣将集館(資料館) 展示資料

『福知山聯隊史』(昭和50年4月 福知山聯隊史刊行会)

『血涙の記録 嵐歩兵第百二十聯隊史』(昭和52年12月 嵐一二〇友の会)

『大日本帝國陸地測量部地形図 44 福知山及篠山近傍』

国土地理院 昭和22(1947)年11月3日 福知山市周辺空撮(NI-53-14-13)

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お~

懐かしい 福知山駐屯地♪ と 言っても 7連の方々が検閲中に私の居た中隊が留守番兼警衛勤務で何日か泊まりしただけですが 物珍しげに駐屯地内を散策したのは覚えてますが 建屋とか全く覚えてません 笑 営門の柱は あのときはまだ昔の門柱だったはず(*_*) ここも昔ながらの建物が無くなりつつあるのでしょうか…

そうですか!

ひろしさん、こんにちは。
現在の福知山駐屯地内の陸軍遺構は記事で紹介した物くらいだと思われますが、ひろしさんが行かれた時期であれば覆練兵場(雨天時の体育館)や2階建の糧食庫など大型建物が遺っていたと思われます。
私が福知山に最初に訪れた4年前には既に破壊されてしまってましたが・・・残念
今ある建物は何とか残していって欲しいですね。

営門は陸軍時代の間隔では狭いのかして、殆どの陸軍兵営を転用した陸自の駐屯地で撤去されていますね。
信太山も4本あった門柱のうち内側2本は撤去され、外側の2本しかありません。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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