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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

輜重兵第四聯隊

大阪府堺市北区長曽根町に輜重兵第四聯隊がありました。

兵営では後に輜重兵第百四聯隊同第三十四聯隊同第四十四聯隊第百四十四師團輜重隊第二百二十五師團輜重隊などが編成されます。
輜重兵第四聯隊 サ 南門門柱 北西から(堺)
▲金岡公園の駐車場に遺る南門門柱

【探索日時】
平成21年2月26日
平成23年12月14日

【更新情報】
平成24年10月5日:大幅改訂(写真追加、書式変更、「探索記」分離)





輜重兵第四聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
騎兵第四聯隊 騎四、輜重四、第二陸軍病院 国土地理院(230220)(堺)
▲昭和23(1948)年2月20日の長曽根町周辺の空撮(NI-53-15-5
 停戦直後から米軍キャンプとして大幅に改変されているので、余り参考になりません。

騎兵第四聯隊 騎四、輜重四、陸軍病院 騎四、輜重四、陸軍病院(堺)
▲現在の地図に施設を転写したもの
 境界は参考資料、空撮、遺構から判断しましたが、明確な史料が無く一部管理人の想像です。

※緑文字が当記事の紹介施設
① 騎兵第四聯隊(のち捜索第四聯隊)
②輜重兵第四聯隊
③ 馬糧倉庫
④ 大阪陸軍病院 金岡分院
⑤ 金岡陸軍練兵場
⑥ 堺憲兵分隊
名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。

輜重兵第四聯隊 輜重四 見取図 昭和18年頃(堺)
▲在営された方が記憶を元にして書かれた兵営見取図(以下、『見取図』)
 一部訂正しています。


遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構など、上掲地図参照)
輜重兵第四聯隊
昭和4(1929)年4月28日、第四師團経理部は大阪府八上郡金岡村長曽根(現、堺市)の民有地を騎兵・輜重兵聯隊移転用地として買収を開始、昭和5(1930)年5月23日、142,273坪468,242円で買収、兵営の建築を開始します。
昭和9(1934)年3月5日、兵舎が竣工、3月22日、輜重兵第四大隊が大阪市東区法円坂町(現、大阪市中央区大手前)から転営してきます。
昭和11(1936)年5月30日、輜重兵第四聯隊に改編します。
昭和12(1937)年4月、第四師團の滿洲駐箚に伴い輜重兵第四聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和17(1942)年6月12日、輜重兵第四聯隊・同補充隊に復員下令、8月、聯隊は兵営に凱旋します。

昭和18(1943)年10月8日、輜重兵第四聯隊のスマトラ島出征後、輜重兵第四聯隊補充隊が編成、昭和20(1945)年2月28日、輜重兵第四聯隊補充隊に復員下令、大阪師管區輜重兵補充隊(中部第五十五部隊)が編成され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、10月、兵営は米軍に接収され「Camp Kanaoka」と改称、昭和33(1958)年、米軍の撤退に伴い兵営跡は大蔵省に返還、現在は近畿中央胸部疾患センター、市有地になっています。

兵営跡には建物こそ遺されていませんが、門柱・塀・建物基礎等や謎の構造物が遺されています。


ア コンクリート製の庇・塀
輜重兵営(胸部疾患センター)と騎兵営(長尾中学)の境界に、当時の物と思われる塀(兵営跡に遺る遺構の塀と同様の構造)に接続する屋根上の構造物が遺されています。
他所で見た事が無い構造物で詳細は不明です。
輜重兵第四聯隊 ア コンクリート構造物(堺)
▲丁字型をした庇
 塀の両側に庇がでています。

輜重兵第四聯隊 ア コンクリート構造物 (2)(堺)
▲庇部分


イ コンクリート製の庇・塀
上記アと同様の構造物です。
現在はゴミ置き場の屋根に転用されています。
輜重兵第四聯隊 イ コンクリート構造物(堺)


ウ 建物基礎
胸部疾患センターの東側の荒地にコンクリート製の小型建物基礎が遺されていますが、詳細は不明です。
輜重兵第四聯隊 ウ コンクリート構造物 南から(堺)
▲2m四方程の大きさです。


エ 建物基礎
基礎ウの東側にコンクリート製の大型建物基礎が遺されていますが、詳細は不明です。
『見取図』によると「病馬医務室」となっています。
輜重兵第四聯隊 エ 馬医務室基礎(堺)
▲コンクリート製の基礎が広がりますが、雑草と落ち葉で不鮮明です。

輜重兵第四聯隊 エ 馬医務室基礎 (2)(堺)
▲基礎周辺には排水溝や樋受け、鉄の管が見られます。


オ 塀
金岡公園の管理小屋の脇に5m程の塀が遺されています。
輜重兵第四聯隊 オ 塀(堺)
▲この辺りには兵営北側に設置された大阪陸軍糧秣支廠の馬糧倉庫からの搬入口がありました。


カ 営門門柱(移築)
営門の門柱1本(北側の袖門門柱)が歩道に移設されています。
輜重兵第四聯隊 カ 営門(袖門)門柱(移設)(堺)
▲1本だけ遺された営門門柱
 門柱には説明板等は何も無く、知らない方には何なのか全く分かりません。

輜重兵第四聯隊 カ 営門(袖門)門柱(移設)電灯配線(堺)
▲門柱下部には門灯の配線が遺されています。

輜重兵第四聯隊 輜重兵第四聯隊営門(堺)
▲当時の営門付近(撮影時期不明)
 輜重兵第四聯隊の営門は現在の胸部疾患センターの正門より数m北(現在は塀)にありました。


キ 築山
  忠魂碑
  国旗掲揚台

築山は胸部疾患センター正門を入った左側に遺されています。
上掲の昭和23(1948)年2月20日の空撮にも写っており当時の位置のままと思われますが、植樹されていたであろう樹木は無く芝山になっています。
輜重兵第四聯隊 キ 築山(堺)

忠魂碑は築山に建てられています。
昭和40(1965)年3月14日、錦城輜友会会員一同により建立されました。
元々は聯隊本部庁舎前(現在位置の南側20m程の位置)に建立されていましたが、昭和54(1979)年10月1日、庁舎破壊・建替の際に現在地に移設された様です。
輜重兵第四聯隊 キ 忠魂 輜重兵第四聯隊跡(堺)
▲なぜか柵が付けられており、非常に見辛いです。

国旗掲揚台が築山に3本建てられています。
東側(中央)の掲揚柱の基礎に「昭和九年 転營記念 輜重兵第四大隊出身将兵一同」の銘板が付いています。
輜重兵第四聯隊 キ 転営記念国旗掲揚台(堺)


ク 建物基礎
煉瓦躯体にセメント塗りの建物基礎が遺されていますが、詳細は不明です。
『見取図』によると「兵器・被服庫」となっています。
輜重兵第四聯隊 ク 兵器・被服庫 基礎(南側)(堺)

輜重兵第四聯隊 ク 兵器・被服庫 基礎(北側)(堺)
▲上記の基礎と同様と思われる基礎の上端部

輜重兵第四聯隊 ク 兵器・被服庫 付近のマンホール(堺)
▲基礎周辺にあるコンクリート製の潜孔(マンホール)
 同型の潜孔は北東側の大阪第二陸軍病院跡(金岡公園)にも数個ありますが、当時の物かは不明です。


ケ 門柱
非常に凝った造りの門柱が遺されています。
この先は胸部疾患センターの宿舎なので、この様な門柱を造る必要が感じられない事から当時の物と思われますが詳細は不明です。
『見取図』によると、この先は「将校集会所」があり、この凝った門にも納得がいきます。
輜重兵第四聯隊 ケ 門柱(将校集会所?) 南から(堺)


コ 門柱
門柱ケに比べ簡素ですが、同様の造りの門柱があります。
『見取図』によると、この先は「下士官校集会所」がありました。
輜重兵第四聯隊 コ 門柱(下士官集会所・酒保?) 北から(堺)

門柱ケから門柱コに沿って東に行くと、当時の遺構で良く見る台形状のコンクリート製の土留があります。
当時は土塁で区切られ簡単な門があったと思われます。
輜重兵第四聯隊 コ 門柱の東側にある土留(堺)
▲片方しかありません。


サ 東門門柱・塀
金岡公園の駐車場入口西側に東門の門柱1本と塀が遺されています。
こちらの門柱にも説明板等は何も無く、知らない方には何なのか全く分かりません。
輜重兵第四聯隊 サ 南門門柱 北西から(堺)

かつてはこの門柱付近から兵営跡を見ると、兵営南側にあった毛白池を埋め立てた小山が見えました。
現在は整地され痕跡すらありません。
輜重兵第四聯隊 輜重四兵営南側の池の跡(堺)

輜重兵第四聯隊 輜重兵第四 兵営(堺)
▲毛白池と輜重兵第四聯隊兵営(昭和9年頃、当時は大隊)


衛戍・編成部隊
輜重兵第四聯隊(淀四〇八一、中部第三十一部隊)
明治9(1876)年4月、大阪鎭臺隷下に輜重兵第四小隊(60名)が編成され、大坂城二之丸に兵営が設置、明治19(1886)年3月、大隊編成に移行し輜重兵第四小隊を基幹として輜重兵第四大隊第一中隊が編成、明治20(1887)年4月、第二中隊が編成され、輜重兵第四大隊が編成完結(小川光正少佐)、東区大手前之町に転営します。

明治21(1888)年5月14日、大阪鎭臺は第四師團に改編されます。

明治28(1898)年4月、駄馬から徒歩車両に改編(片倉顕矩少佐、本部・3個糧食縦列・馬廠)、第四師團とともに明治二十七八年戰役(日清戦争)に出征しますが、講和条約締結のため戦闘に加わる事無く遼東半島の警備に就き、11月、帰還します。

明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、3月6日、第四師團に動員下令、3月15日、大隊は師團とともに第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され遼東半島の貔子窩付近に上陸、金州の戦い、南山の戦いに参加の後、悪天候に苦戦しながら鉄道沿線沿いを北上し得利寺、熊岳、蓋平、大石橋、海城の戦い、遼陽、沙河、奉天の各會戰に参加、師團の活躍を支え、明治38(1905)年10月、凱旋します。

大正9(1876)年5月24日、旧野砲兵第四聯隊兵営に転営、大正10(1921)年11月19日、旧輜重兵営敷地は内務省を通じ大阪府に売却されます。

昭和9(1934)年3月5日、堺市曾根(現、長曾根町)に新兵営が竣工(敷地3万坪、建物33棟・6千坪、工費72万6千余円)、転営します。

昭和11(1936)年5月30日、輜重兵第四聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年2月、第四師團は第九師團(蓮沼蕃中将、金沢)に変わり滿洲駐箚が内定、4月20日、第四師團の關東軍司令部(植田謙吉大将)戦闘序列編入と滿洲駐箚が決定、4月29日、聯隊は渡滿し三江省佳木斯(チャムス)に屯営し国境警備、匪族討伐に任じます。
7月7日、支那事變が勃発します。

昭和15(1940)年6月26日、第四師團は支那派遣のため臨時動員下令(川上不二夫大佐)、第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入され、7月、聯隊は中支湖北省安陸付近に移駐、同地の警備・治安維持に当たり、11月25日、第十一軍の漢水作戰に参加、漢水西方に進出します。
昭和16(1941)年1月26日、予南作戰、4月9日、大洪山作戰、5月5日、江北作戰、8月27日、第二次長沙作戰に参加します。
11月8日、第四師團は第十一軍戦闘序列を外れ大本営直轄となり上海付近に移動集結します。

昭和17(1942)年2月10日、第四師團は第十四軍(本間雅晴中将)隷下となり、3月6日、聯隊(矢野頼義大佐)はルソン島リンガエン湾に上陸、4月3日、第二次バターン半島攻略戦、5月5日、コレヒドール島攻略戦に参加、マラリアが発生するなか物資の補給を実施、6日正午、マッカーサーの後任ウェインライト中将を降伏させ、6月12日、第四師團に復員が下令されたため、7月、大阪に凱旋します。

昭和18(1943)年9月27日、第四師團に臨時動員が下令され第二十五軍(田辺盛武中将)隷下となり、10月10日、聯隊は一〇五船團に分乗し宇品を出航、15日、臺中北西沖にて敵潜タリビーの雷撃を受け聯隊主力が乗船した志かご丸が沈没、乗船者1,497名中、船員8、兵員41、船砲隊員1名を失う悲運に遭うも11月上旬、スマトラ島ベラワンに上陸、中部西岸のパダンにおいて物資を集積し英印軍の侵攻に備えます。

昭和20(1945)年1月、緬甸方面の戦局悪化に伴い第四師團は第三十九軍(中村明人中将)隷下に編入が決定、2月にかけスマトラを出発、昭南島(シンガポール)を経由し泰国に移動、4月末、バンコクに集結します。

4月~6月、聯隊は師團司令部の所在するランバンを中心にタイ北部に展開、7月、第四師團は第十五軍(片村四八中将)に編入され、敵機の空襲下、英印軍の侵攻に供え準備中の8月17日、停戦を迎えました。


輜重兵第百四聯隊(鳳八九七六、東海第三十五部隊)
昭和13(1938)年6月16日、年次動員計画により輜重兵第四聯隊留守隊の担当で編成(池田耕一中佐、本部・4個輓馬中隊・馬廠)され、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)隷下となります。

編成完結後の7月、大阪を出発し渡滿、直後に張鼓峰事件が勃発したため不測の事態に備え師團とともに大連から琿春(東部ソ滿国境)付近に出動しますが、8月11日、停戦となり大連に帰還します。

9月、第百四師團は新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戰闘序列となり、10月、大連を出港、南支に向かい、10月22日、第十八師團(牛島貞雄中将、久留米)とともにバイアス湾に奇襲上陸し広東攻略戦に参加します。
11月9日、従北作戰に参加、従北付近に屯営し、支那第四戰區軍と交戦しつつ警備と治安維持に従事します。

昭和14(1939)年4月、第百四師團の九江作戰に参加、広東西南デルタ地帯の鶴山・中山・新会付近の敵拠点攻略に参加、9月1日、第二十一軍の花県作戰に参加、聯隊は険峻な地形と敵の抵抗に進撃は遅滞、担送により補給を継続しつつ師團を追及、6日、師團主力により龍頭墟付近の敵陣地を撃破、9日、作戦は終了します。
11月~昭和15(1940)年1月、第十一軍(岡村寧次中将)の翁英作戰に参加します。

2月9日、第二十一軍が廃止され、第百四師團は南支那方面軍(安藤利吉中将)戰闘序列に編入、5~6月、南支那方面軍隷下の第二十二軍とともに良口作戰、昭和16(1941)年9~10月、第二十三軍(今村均中将、6月28日、南支那方面軍を改編)の四邑北エ作戰などに参加します。

昭和17(1942)年5~9月、師團とともに第二十三軍の従源作戰に参加します。

昭和18(1943)年2月、広州湾進駐作戰、廣九作戰に参加します。

昭和19(1944)年4月、第百四師團は一號作戰(大陸打通作戰)に備え警備を他部隊と交替し、8~12月、第二段湘桂作戦に第二十三軍の主力として参加、9月16日、広東省肇慶、11月4日、広西省武宣、6日、象県攻略戦に参加します。

昭和20(1945)年1月、粤漢作戰において、15日、広東省恵州、18日、海豊攻略戦に参加の後、第百四師團は海豊、陸豊地区に集結し、米軍の支那南部上陸に備え陣地構築の後、広東省恵州に移駐し対米戦準備中に停戦を迎えます。


輜重兵第三十四聯隊(椿六八四九)
昭和14(1939)年2月、輜重兵第四聯隊留守隊に臨時動員下令(知覧豊城大佐、輓馬2個・自動車1個中隊)、3月1日、乙編成師團として編成完結した第三十四師團(關亀治中将、大阪)に隷属、4月、師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。
4月、中支湖北省陽暹に上陸し、湖北省黄坡の警備に従事、八里湾、長嶺崗付近の戦闘に参加、12月、江西省南昌に移駐し支那第九戰區軍第十九集團軍と対峙しつつ同地の警備に従事します。

昭和15(1940)年5~6月、支那軍の夏季攻勢を受け損害が出てしまいます。

昭和16(1941)年3~4月、師團とともに予南、第一次錦江、沔陽作戰に参加します。
6月、聯隊は自動車1個中隊が増設され、輓馬2個・自動車2個中隊に改編されます。
12月24日、第十一軍は第二次長沙作戰を下令、第三十四師團は12月~昭和17(1942)年1月、支作戦である第二次錦江作戰、贛(カン)江作戰に参加します。

昭和17(1942)年4月18日、ドーリットルの本土空襲機が着陸した浙江省方面の敵飛行場、軍事施設を覆滅するため5~8月、浙贛作戰に参加、聯隊は第十一軍の東進基幹師團として位置づけられた第三十四師團の進撃を援護、南昌から東進し横峯で第十三軍(澤田茂中将)と連絡打通に成功し作戦終了後、転進します。

昭和18(1943)年5~6月、第十一軍の江北・江南殲滅作戰、10月~昭和19(1944)年1月、常徳殲滅作戰に参加しました。
昭和18年5月1日、『軍令陸甲第三十六號』による在支師團の編成改正により、7月、輜重兵第三十四聯隊は第三十四師團輜重隊に改編、輓馬2個・自動車1個中隊の3個中隊になります。
第三十四師團は、第十三師團(赤鹿理中将)と交替し宜昌の警備に就きます。

昭和19(1944)年1月、支那派遣軍は一號作戰(大陸打通作戦)を下令、4月末、第三十四師團は第十一軍の湘桂作戰に参加、南昌を出撃し5月、第一期作戦として長沙・衡陽に進撃、6月、長沙攻略の要所・岳麓山攻略戦に参加、第三十四師團において編成された針谷支隊(歩二百十八聯隊長・針谷逸郎大佐)は洞庭湖を舟艇機動し6~8月の第一~三次衡陽攻略戦に参加し激戦を展開、聯隊で編成された舟艇輸送隊(小野勝一中尉指揮)が補給に任じます。
師團主力は衡陽西部の山岳地帯を迂回し、10月、広西省全県に到着し同地の守備に就き戦力を回復します。
針谷支隊は引き続き第二期作戦である柳桂作戰に参加、11月、桂林・柳州まで進撃します。

昭和20(1945)年4月18日、第三十四師團は支那派遣軍直轄部隊となり、6月、中支方面の防衛強化のため湖南省宝慶を出発、第三、第十三師團とともに南京、上海方面に向けて移動中、江西省九江で停戦を迎えました。


輜重兵第四十四聯隊(橘一四一六〇)
昭和19(1944)年4月4日、輜重兵第四聯隊補充隊において臨時動員下令、編成完結後(金澤善治大佐)、第四十四師團(関原六中将、大阪)に編入、教育訓練を実施します。

昭和20(1945)年1月20日、『帝國陸海軍作戰計畫大網』の策定により決號作戰(本土決戦)の準備として、3月、師團主力は第十二方面軍戦闘序列に編入され作戦地である関東平野に進出、茨城県行方郡鉾田町に集結、九十九里浜に上陸が予測される敵迎撃の準備にあたる中、8月15日、停戦を迎えます。
9月13日、復員下令され、作業を中止し、15日、復員完結します。


第百四十四師團輜重隊(護坂二二三〇九)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け『帝國陸海軍作戰計畫大綱』が策定され、2月28日、大阪師管區輜重兵補充隊において編成(山名滋郎少佐)されます。
2月28日、「第一次兵備」により動員下令され、4月9日、動員完結した沿岸配備師團である第百四十四師團(高野直滿中将)に隷属します。
4月8日、師團は第十五方面軍(内山英太郎中将)戦闘序列に編入されます。

4月13日、第百四十四師團は作戦地である和歌山市紀三井寺町に司令部を設置、主力を和歌山市・海南市周辺に、一部を御坊町・串本町・淡路島に配備し、留守第四師團が紀伊半島沿岸部(御坊から潮岬を重点)に構築を行っていた陣地を継承します。
7月11日、師團の新防衛体制に基づく軍隊区分下令に基づき、師團隷下の各部隊は河北、河南、和歌浦、簑島各地區隊として和歌山市、海南市方面に移動、陣地構築、軍需物資集積に当たります。
輜重隊は敵上陸に備え軍需物資集積を急ぐなか、8月15日、停戦を迎え、9月9日、和歌山において復員完結します。


第二百二十五師團輜重隊(金剛二八二六四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、6月20日、大阪師管區輜重兵補充隊において編成(藤森官三郎少佐)され、6月19日、第十五方面軍戦闘序列に編入された第二百二十五師團(落合鼎五中将)に隷属します。

輜重隊は師團の作戦地である兵庫県青野ヶ原に移動、作戦準備中の8月15日、停戦を迎え、9月8日、同地において復員完結します。


第百六十七野戰飛行場設定隊(隼一四一八三)
昭和19(1944)年1月、輜重兵第四聯隊補充隊において編成開始、昭和20(1945)年2月1日、編成完結(田中二郎大尉)します。
北支派遣のため、新潟港に集結、5日、新潟港を出航、7日、朝鮮咸鏡北道清津に上陸、10日、鮮滿国境の図們を通過、20日、滿支国境の山海関を通過、25日、山東省城陽飛行場に到着・展開し、警備にあたります。
4月30日、朝鮮に転進のため、城陽飛行場を出発、5月、鮮滿国境の安東を経て、京城に到着、龍山陸軍飛行場に展開、ケ號作戰に参加、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月20日、始興に移駐、10月20日、釜山港を出航、22日、舞鶴港に上陸、24日、復員完結します。


獨立大隊
獨立輜重兵第五十四大隊(呂六〇〇〇)
昭和16(1941)年7月16日、編成

獨立輜重兵第五十五大隊(波六〇〇一)
昭和16(1941)年7月16日、編成


補充部隊
輜重兵第十聯隊(鐵五四五四)

輜重兵第十七聯隊(月七三九八)

輜重兵第二十五聯隊(國四九一〇)

輜重兵第五十四聯隊(兵一〇一二〇)

第六十八師團輜重隊(檜二三三七)

輜重兵第八十四聯隊(突一〇一四〇)

輜重兵第九十四聯隊(威烈一八五〇八)

第百十師團輜重隊(鷺三九一七)

第百五十師團輜重隊(護朝二二五〇九)


主要参考文献
『日本陸軍兵科連隊』(平成6年11月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『戦争はあかん!庶民の記録 第1集』(平成21年 金岡ピースメモリクラブ)

・国土地理院昭和23(1948)年2月20日の長曽根町周辺の空撮(NI-53-15-5

・Yahoo!地図
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昭和52年、当方10歳の頃、毛白池で釣りをしていました。南側から侵入し、そこには廃墟となった火葬場があり、セメント製の煙突を覚えています。さらに北側には黒瓦で白塗りの病棟が整然と並んでいました。今は更地のようですね。こんな重要な遺構とは知りませんでした。

Re: タイトルなし

コメント、ありがとうございます。
黒瓦で白塗りの病棟は元輜重隊の兵舎を改造した物かも知れませんね。
現在では警察学校内に遺る倉庫?1棟が唯一の現存建物になってしまいました。

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Re: 案内看板

ご情報頂きありがとうございます。

金岡公園には10年行っていないので、知りませんでした。

また再訪した際に確認させて頂こうと思います。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


探索、記載内容など拙ブログを参照した際は参照明記のうえリンクを張って頂けたら幸甚です。
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