当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第六十一聯隊

和歌山県和歌山市に歩兵第六十一聯隊の兵営がありました。

兵営では後に歩兵第百六十一聯隊歩兵第二百十八聯隊歩兵第九十四聯隊歩兵第四百十五聯隊歩兵第四百十六聯隊が編成されます。

また、隣接して歩兵第三十二旅團司令部和歌山陸軍病院がありました。
歩兵第六十一聯隊 ア 営門門柱(和歌山)
▲近畿財務局和歌山財務部跡地に遺る営門門柱

【探索日時】
平成21年5月31日、平成24年1月31日、平成24年2月10日

【更新情報】
平成24年11月15日:大幅改訂(地図訂正、写真追加、記事分離、書式変更)





歩兵第六十一聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
歩兵第六十一聯隊 和歌山~歩六十一(和歌山市街圖 昭和14)(和歌山)
▲昭和14年頃の地図(和歌山市街圖)
 ※地図は施設に色付け加工しています。

歩兵第六十一聯隊 国土地理院 歩61(NI-53-15-15 22922)(和歌山)
▲昭和22(1947)年9月22日の砂山周辺の空撮(国土地理院 NI-53-15-15
 ※空撮は加工しています。

歩兵第六十一聯隊 歩61(現在)(和歌山)
▲現在の地図に施設を転写

※緑文字が当記事の紹介施設
①歩兵第六十一聯隊
②旧歩兵第三十二旅團司令部
③和歌山陸軍病院

④和歌山聯隊區司令部
⑤和歌山陸軍練兵場
⑥和歌山陸軍射撃場
⑦和歌山憲兵分隊
⑧和歌山陸軍墓地
名称については一般的な昭和17(1942)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構など、上掲地図参照)
① 歩兵第六十一聯隊
明治42(1909)年3月17日、歩兵第六十一聯隊が大阪府泉北郡濱寺村(現、堺市西区)から和歌山県海草郡湊村(現、和歌山市砂山南)の新兵舎に転営してきます。
歩兵第六十一聯隊 歩61兵営(和歌山)
▲北西上空からの兵営(昭和初年頃)
 中央が聯隊兵営、右上隅が陸軍病院、中央左端が聯隊區司令部

昭和12(1937)年4月20日、第四師團の滿洲駐箚に伴い歩兵第六十一聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和17(1942)年6月12日、歩兵第六十一聯隊・同補充隊に復員下令、7月20日、聯隊は兵営に凱旋します。

昭和18(1943)年10月5日、歩兵第六十一聯隊のスマトラ島出征後、歩兵第六十一聯隊補充隊が編成、昭和19(1944)年4月6日、歩兵第六十一聯隊補充隊は歩兵第九十四聯隊に改編、7月6日、歩兵第九十四聯隊が動員されたため、再び歩兵第六十一聯隊補充隊が編成されます。
昭和20(1945)年2月28日、歩兵第六十一聯隊補充隊に復員下令、大阪師管區歩兵第三補充隊が編成され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸を開始、和歌山陸軍練兵場が接収され物資の集積場として使用されます。
28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は大蔵省に移管、昭和21(1946)年11月16日聯隊本部庁舎に大阪財務局和歌山地方部が開設され当部の管理下におかれます。

兵舎は空襲で校舎を焼失した市立和歌山高等女學校等に転用され、現在は国土交通省用地(和歌山河川国道事務所跡)、和歌山聾学校、和歌山商業高校、西和中学、県環境衛生研究センターになっています。

ちなみに僕の母方の大叔父は現役応召時にこの歩兵第六十一聯隊に入営しており、ゆかりを感じます。

ア 営門門柱
河川国道事務所の正門に転用され遺されています。
本来は煉瓦積みの門柱でしたが、転用時に門柱頂部の笠石と基台以外の門柱表面に化粧タイルが貼られ遺構が台無しになっています。
歩兵第六十一聯隊 ア 営門門柱(和歌山)
▲営門門柱

歩兵第六十一聯隊 歩61営門(和歌山)
▲昭和初期の営門

歩兵第六十一聯隊 ア 営門門柱 基部(正門右)(和歌山)
▲当時のままの門柱基台

歩兵第六十一聯隊 ア 営門門柱の孔(和歌山)
▲撤去された看板の跡をよく見ると内部が煉瓦積みになっているのが分かります。

現在、和歌山河川国道事務所は移転し跡地は更地になっており、今後の動向が気になるところです。


「歩兵第六十一聯隊跡」碑、「創立100周年記念」碑、「歩六一(中部二四)哨舎跡」
営門の南側には昭和56(1981)年10月に歩六一戦友会により建立された「歩兵第六十一聯隊跡」碑、平成16年6月に建立された「創立100周年記念」碑とともに「歩六一(中部二四)哨舎跡」の銘板の付いた哨舎があります。
歩兵第六十一聯隊 ア 歩兵第六十一聯隊跡の碑 創立100周年碑 歩六一(中部二四)哨舎跡(和歌山)
▲「歩兵第六十一聯隊跡」碑、「創立100周年記念」碑、「歩六一(中部二四)哨舎跡」(左から)

歩兵第六十一聯隊 ア 営門門柱 (2)(和歌山)
▲哨舎
 柵が建っており非常に見づらいです。

歩兵第六十一聯隊 ア 創立100周年碑(和歌山)
▲哨舎
 近くから撮影

歩兵第六十一聯隊 ア 哨舎前の踏み石(和歌山)
▲哨舎前にある踏み石

この哨舎ですが非常に凝った意匠です。
最初は見た事が無い意匠と綺麗過ぎる塗装なので復興された物かと思いましたが、後で色々調べるとほぼ同じ造りの哨舎が野砲兵第四聯隊で使用されていた事が写真で確認できるので、当時の物の可能性が高いです。

ただ、全体の大きさの割に入口がかなり低く、当時の平均身長が現在より低い(165cm)と言えども低過ぎるので、内部で一段低くなっているのかも知れません。


その他
聯隊道路
営門の前から中央通り(国道42号線)に続く広い道路は通称「聯隊道路」と呼ばれ、交差点には市電の「兵舎前」停留所がありました。
歩兵第六十一聯隊 聯隊道路からの営門(和歌山)


門柱
兵営西側にある「むつみ保育園」の裏(兵営側)の塀に門柱が埋め込まれています。
兵営に関係ある物か不明です。
保育園の敷地自体が兵営跡なので、兵営内にある門柱は将校・下士官集会所の物?、酒保の物?、保育園の入口が元々ここにあっただけ?
誰も人がいなかったので聞けませんでしたが、次回訪問時に確かめてみようと思います。
歩兵第六十一聯隊 むつみ保育園 東側の門柱(関係無い?)(和歌山)

側溝
兵営北側の側溝に当時の物と思われるコンクリート舗装が遺っています。
歩兵第六十一聯隊 北側側溝 (2)(和歌山)

歩兵第六十一聯隊 北側側溝(和歌山)
▲側溝の近影
 右側が兵営

円卓子
和歌山縣護國神社内に移設保存されています。
説明板によると、元々は酒保前の藤棚下にあった物の様です。
歩兵第六十一聯隊 円卓子(和歌山)


② 旧歩兵第三十二旅團司令部
明治42(1909)年、歩兵第六十一聯隊の転営と同時に開庁しました。
昭和15(1940)年7月30日、編成改正により廃止、跡地は歩兵営に包含された様ですが、詳細は不明です。

現在は砂山保育園になり、遺構は何も遺されていません。

御即位大典記念
砂山保育園北側の道路上にあります。
表面は摩滅が酷く殆ど判読できず、何帝の御大典記念か判りません。
もしかしたら旅團司令部関連の遺構かも知れませんが、詳細は不明です。
歩兵第六十一聯隊 砂山保育園北側の「御即位大典記念」(和歌山)


③ 和歌山陸軍病院
明治42(1909)年3月、歩兵第六十一聯隊の転営と同時に和歌山衛戍病院として開院しました。
昭和15(1940)年6月、和歌山陸軍病院と改称します。

上掲の昭和22(1947)年9月22日の空撮を見ると敷地に何も写っておらず、空襲により消失したのかも知れません。
現在は住宅地になり、辛うじて区画が遺る程度です。


衛戍・編成・補充部隊
歩兵第六十一聯隊(淀四〇七四、中部第二十四部隊)
明治38(1905)7月24日、明治三十七八年戰役(日露戦争)の進展に伴い留守第四師團(大阪)・同第十師團(福知山)隷下の各聯隊留守隊から基幹要員を抽出し編成(中村無一大佐)、8月8日、宮中において軍旗を拝受、7月18日、臨時動員された第十六師團(山中信儀中将、大阪)隷下の歩兵第三十一旅團に編入されます。
歩兵第六十一聯隊 歩兵六十一聯隊軍旗(和歌山)
▲歩兵第六十一聯隊 軍旗

8月10日、第十六師團は第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され聯隊は滿洲に出征しますが、戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結、10月18日、關東總督(大島義昌大将)隷下に編入され滿洲の警備にあたり、明治40(1907)年3月、復員が下令され大阪に到着、濱寺村(堺)の仮兵舎に帰還しました。

明治40(1907)年9月18日、『軍令陸四百號』により平時編成が改編され聯隊は第四師團(井上光中将、大阪)隷下の歩兵第三十二旅團(伊崎良煕少将、大阪)に転属、明治42(1909)年3月17日、聯隊は濱寺村から和歌山県海草郡湊村(現、和歌山市砂山南)の新兵舎に転営し、教育訓練にあたりました。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災に師團とともに出動、災害復旧、秩序の維持、住民保護に努めます。

昭和3(1928)年7月、師團とともに大阪において我が国初の軍官民合同で防空演習を実施、昭和4(1929)年7月、千葉歩兵學校戰車隊と連合夜間演習を長田野陸軍演習場(福知山)にて実施、昭和5(1930)年7月、瓦斯戦演習を長田野陸軍演習場にて実施します。

昭和7(1938)年1月、上海事變が勃発、聯隊で編成された獨立機關銃第四大隊が工兵第四大隊(高槻)で編成された夜戰電信第十四中隊とともに派遣されます。

昭和9(1934)年9月21日、室戸台風に際し罹災者の救援・救護、食糧配給、被災地の復旧を実施します。

昭和12(1937)年2月、第四師團は第九師團(蓮沼蕃中将、金沢)に変わり滿洲駐箚が決定、4月20日、第四師團の關東軍司令部(植田謙吉大将)戦闘序列編入と滿洲駐箚が決定、4月29日、聯隊は渡滿し佳木斯(チャムス)付近の湯原に屯営し、国境警備、匪族討伐にあたるなか、7月7日、支那事變が勃発、開拓移民の保護にあたります。

昭和14(1939)年8月29日、第四師團は同年5月13日にソ連軍の越境により勃発したノモンハン事件の増援として応急派兵の命を受けますが、到着前の9月15日、停戦協定成立により湯原に帰還します。

昭和15(1940)年6月26日、第四師團は支那派遣のため臨時動員下令、第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入され、7月、中支湖北省安陸に移駐し同地の警備・治安維持にあたり、11月25日、第十一軍の漢水作戰に参加、蒋介石軍を退散させます。

昭和16(1941)年1月26日、予南作戰、4月9日、大洪山作戰、5月5日、江北作戰、8月27日、第二次長沙作戰に参加します。
11月8日、第四師團は第十一軍戦闘序列を外れ大本営直轄となり、聯隊は上海付近に移動集結、上陸戦闘訓練に従事します。

12月8日、大東亜戰争が勃発します。

昭和17(1942)年2月10日、第四師團は比島(フィリピン)攻略作戦参加のため第十四軍(本間雅晴中将)隷下となり、2月28日、聯隊はルソン島リンガエン湾に上陸、4月3日、作戦主攻撃担当の第四師團右翼隊として第二次バターン半島攻略戦に参加、第一砲兵隊の援護の元、5日、第七中隊はサマット山の敵主陣地を攻略、敗走する米比軍を追撃中の9日、マリベレス山東南麓において第三中隊陣地にバターン半島総司令官エドワード・キング少将が降伏を申し入れ、4月12日、作戦は終了します。

5月5日夕刻、コレヒドール島攻略戦に第四師團の第一次敵前上陸部隊としてリマイ付近を大発に乗艇に発進、途中海流に流され達着地点を外れてしまい多大な損害を出しながらも、同日2310、敵前上陸を敢行、敵砲撃下の断崖を登り前進し攻撃を開始し「きく陣地」、「給水塔」付近で激戦を展開、6日正午、遂に米極東陸軍司令官ジョナサン・ウェインライト中将は全面降伏し、聯隊は軍司令官・本間中将より部隊感状を授与され、聯隊の勇戦敢闘は天聴に達します。
6月12日、第四師團に復員が下令されたため、7月、和歌山に凱旋、20日、復員完結します。

昭和17(1942)年12月、聯隊は県内の防空体制を整備・構築、県庁・東亞燃料・住友金属・由良精工など行政の中枢や重要産業施設に防空陣地を設定し空襲に備えます。

昭和18(1943)年9月21日、聯隊に臨時動員下令、第四師團は第二十五軍(田邊盛武中将)隷下となり、10月10日、聯隊は一〇五船團に分乗し宇品を出航、11月14日、スマトラ島ベラワンに上陸、中部西岸のエナンヂャンにおいて油田地帯の警備及び治安維持にあたります。

昭和19(1944)年6月、ウ號作戰(インパール作戦)の進展遅滞に伴い、第一・第三大隊・歩兵砲隊・通信隊・作業隊は緬甸方面軍(河邊正三大将)隷下第十五軍(牟田口廉也中将)の指揮下に入りインパール進撃中の獨立混成第七十二旅團(山本募少将)に編入、第一大隊は獨立歩兵第五百四十二大隊、第三大隊は獨立歩兵第五百四十三大隊、歩兵砲隊は獨立混成第七十二旅團砲兵隊、通信隊は獨立混成第七十二旅團通信隊、作業隊は獨立混成第七十二旅團工兵隊に改編され、ウ號作戰に参加します。

両大隊は第三十三師團(田中信男少将、仙台)とともに苦戦する旅團を追及、7月3日、作戦の中止により、糧食が途絶するなか、インド北東部のマニエプール・シボン高地を攻略、転進する友軍の最後尾を英印軍の追撃を防ぎながら後退しますが、欠食、疲労、マラリア、赤痢のため783名を失ってしまいます。

昭和20(1945)年1月、第四師團はビルマ方面の戦局悪化に伴い第三十九軍(中村明人中将)隷下に編入が決定、2月にかけスマトラを出発、聯隊は第二大隊を残置し本部のみが師團とともに昭南島(シンガポール)を経由し泰国に移動、4月末、本部はプラカノンに移駐します。

昭和20(1945)年1月、聯隊本部に第一・第三大隊・歩兵砲隊・通信隊・作業隊が復帰、スマトラの第二大隊も本部を追及し聯隊再建に着手しますが、敵機の空襲が頻発したためナコンナヨク北方ドリアン山付近に移駐、英印軍の侵攻に供え陣地構築中の8月17日、停戦を迎えました。

8月30日、ノンファリンにおいて軍旗を奉焼、昭和21(1946)年5月30~6月1日、バンコクを出航、6月14・19・21日、浦賀に上陸、21日、復員完結しました。


歩兵第百六十一聯隊(鳳八九六三)
昭和13(1938)年6月16日、年次動員計画により歩兵第六十一聯隊留守隊において編成(乾忠夫大佐)、6月23日、宮中において軍旗を拝受、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)隷下となります。

7月9日、和歌山を出発し10日、錦県に上陸集結、教育訓練に任じるなか、7月11日、張鼓峰事件が勃発したため不測の事態に備え、8月11日、師團とともに大連から琿春(東部ソ滿国境)付近に出動しますが、同日、停戦となりますが、13日、滿ソ東部国境の渾春・図們・延吉の警備にあたります。

9月7日、第百四師團は新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戰闘序列となり、滿ソ東部国境を出発、17日、聯隊は大連に集結、9月29日、大連を出航し南支に向かい、10月12日、第十八師團(久納誠一 中将、久留米)とともにバイアス湾に奇襲上陸し広東攻略戦に参加します。

11月9日、第二十一軍の従北作戰に師團とともに参加、従北付近に屯営し広東奪還を目論む支那第四戰區軍を撃退、玻璃廠北方海岸の無血上陸に成功、平海を攻略し稔山圩、範和岡に進撃、さらに平山墟を経て西河を渡河、平潭圩に進み恵州西方地区の警備と治安維持にあたります。

昭和14(1939)年4月4日、第百四師團の四月作戰に参加、9月1日、第二十一軍の花県作戰に参加、険峻な地形と敵の抵抗に進撃は遅滞するも、6日、龍頭墟付近に進撃し敵陣地を撃破、9日、作戦は終了します。

12月20日、第十一軍(岡村寧次中将)の翁英作戦に師團とともに参加し英徳を攻略、さらに支那国府軍第四戦區長官部の所在する韶州攻略のため北進しますが、南寧方面の戦局遅滞により反転します。

昭和15(1940)年2月9日、第二十一軍は廃止に伴い、第百四師團は新設された南支那方面軍(安藤利吉中将)戦闘序列に編入され、5月、第二十二軍とともに良口作戰に参加します。

昭和16(1941)年7月5日、南支那方面軍廃止に伴い、第百四師團は新設された第二十三軍(今村均中将)戦闘序列に編入され、四邑北エ作戰などに参加します。

昭和17(1942)年5~9月、第二十三軍の従源作戰に参加します。

昭和18(1943)年2月、広州湾進駐作戰、12月、廣九作戰に参加します。

昭和19(1944)年8~12月、一號作戰(大陸打通作戰)第二段の湘桂作戦に参加、9月16日、広東省肇慶、11月4日、広西省武宣、6日、象県を攻略占領します。

昭和20(1945)年1月15日、粤漢作戰において広東省恵州を、18日、海豊を攻略します。

作戦終了後、海豊周辺に展開し連合国軍の支那南部上陸に備え、沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎えます。


歩兵第二百十八聯隊(椿六八四四)
昭和14(1939)年3月11日、『軍令陸甲第六號』において歩兵第六十一聯隊留守隊に編成下令、留守隊主力に歩兵第八聯隊留守隊(大阪)の第三大隊を編入し編成完結(高橋達吉大佐)、3月23日、宮中において軍旗を拝受、第三十四師團(關亀治中将、大阪)に隷属、4月、師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。

4月3日、大阪を出発、10日、中支湖北省陽暹に上陸し江北地区の警備にあたります。

11月31日、第三十四師團は第三十九師團(村上啓作中将、広島)に任務を引継ぎ、漢口に集結し、11月17日、江西省南昌県南昌に移駐、国府軍第九戰區軍第十九集團軍と対峙しつつ同地の警備に従事、26日、冬季攻勢撃滅戦、八里湾付近の戦闘などの戦闘に参加します。

昭和15(1940)年5~6月、第十一軍の宜昌作戰に小川支隊(歩二百十六聯隊長・小川權之助大佐)に1個大隊を配属して参加、多大な損害を出しながらも宜昌を攻略します。

昭和16(1941)年3~4月、予南、第一次錦江、沔陽作戰に参加します。
12月24日、第十一軍は第二次長沙作戰を下令、第三十四師團は12月~昭和17(1942)年1月、支作戦である第二次錦江作戰、贛(カン)江作戰に参加します。

昭和17(1942)年4月18日、ドーリットルの本土空襲機が着陸した浙江省方面の敵飛行場、軍事施設を覆滅するため5~8月、浙贛作戰に参加、第三十四師團は第十一軍の東進基幹師團として南昌から東進、横峯で第十三軍(澤田茂中将)と連絡打通、敵飛行場、軍事施設、鉄道施設を破壊、軍需物資を押収し転進しました。

昭和18(1943)年5~6月、第十一軍の江北・江南殲滅作戰、10月~昭和19(1944)年1月、常徳殲滅作戰に参加し、多くの戦果を挙げました。

昭和19(1944)年8~12月、一號作戰(大陸打通作戰)第二段の湘桂作戦に参加、南昌を出撃し、5月、第一期作戦として長沙・衡陽に進撃、6月、長沙攻略の要所・岳麓山を攻略、針谷支隊(歩二百十八聯隊長・針谷逸郎大佐)は洞庭湖を舟艇機動し6~8月の第一~三次衡陽攻略戦に参加、激戦を展開、次いで第二期作戦である柳桂作戰に参加、11月、桂林・柳州まで進撃します。

昭和20(1945)年4~5月、第二十軍(坂西一良中将)の芷江作戰に参加、全県付近の守備を担当し友軍の転進を援護します。

4月18日、第三十四師團は支那派遣軍(岡村寧次大将)直轄となり、6月、南京・上海方面に向けて移動中、浦口で停戦を迎えます。


歩兵第九十四聯隊(橘一四一五五)
昭和19(1944)年4月6日、『軍令陸甲第三十七號』において歩兵第六十一聯隊補充隊は歩兵第九十四聯隊に改編(工藤豊雄大佐)、4月26日、宮中において軍旗を拝受、4月4日に留守第四師團から改編された第四十四師團(關原六中将、大阪)に編入され教育訓練を実施します。
第四十四師團は動員完結とともに信太山に移駐、主力を大阪府南部に、一部を和歌山に配置し本土防衛にあたります。

昭和20(1945)年1月20日、『帝國陸海軍作戰計畫大網』の策定により決號作戰(本土決戦)の準備として、3月、師團主力は第十二方面軍戦闘序列に編入され、列車により作戦地である関東平野に進出します。
4月8日、師團は新設された第五十一軍(野田謙吾中将)戦闘序列に編入、機動打撃師團として司令部を石岡(のち小川に前進)に、聯隊は烟田(かまた)に本部を配置、野砲兵第四十四聯隊第一大隊を指揮下に加え鹿島灘への上陸が予測される米軍迎撃の陣地構築中、8月15日、停戦を迎えました。

9月1日、『軍令陸甲第百十六號』により復員下令、同日、鉾田において復員完結します。


歩兵第四百十五聯隊(護阪二二三〇五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、大阪師管區歩兵第三補充隊(中部第二十四部隊/旧歩兵第六十一聯隊補充隊)により編成(白石通世大佐)され、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第四師團により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十四師團(高野直滿中将)に隷属します。

第百四十四師團は近畿・中国・四国地方を作戦地域とする第十五方面軍(内山英太郎中将)に隷属、聯隊は紀ノ川以北の和歌山市・海草郡・那珂郡・淡路島由良付近・泉南郡に沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎え、9月7日、復員完結します。


歩兵第四百十六聯隊(護阪二二三〇六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、大阪師管區歩兵第三補充隊(中部第二十四部隊/旧歩兵第六十一聯隊補充隊)により編成(大野次郎中佐)され、6月7日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第四師團により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十四師團(高野直滿中将)に隷属します。

第百四十四師團は近畿・中国・四国地方を作戦地域とする第十五方面軍(内山英太郎中将)に隷属、聯隊は紀ノ川以北の和歌山市・海草郡・那珂郡・有田郡に沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎え、9月8日、復員完結します。


主要参考文献
『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』(昭和53年10 ノーベル書房)

『日本陸軍連隊総覧』(平成2年9月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『太平洋戦争と和歌山県』(平成3年11月 川合功一 MBC21)

和歌山県平和祈念資料館の展示

国土地理院 昭和22(1947)年9月22日 空撮(NI-53-15-15

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No Title

ご無沙汰しております。
空港探索のとりです。
先日当地にお邪魔してきました。
この記事が大変助けになりました。どうもありがとうございました。

実はどうしても分からないことがありまして、ご質問したいのですが。。。
「航空年鑑昭和15年」の中で、
和歌山中學校滑空隊が「六十一聯隊練兵場」をグライダー訓練に使用していたと記されております。
この「六十一聯隊練兵場」がどの場所を指すのか分かりません。

当記事内に掲載してあるお写真に六十一連隊がありますが、手前側が広場になっていますね。
グライダー訓練のために使用していたのは、この広場なのか、
それとも少し南側にある「陸軍練兵場」を使用していたのか、判断が付かず困っております。

実は前述の「航空年鑑昭和15年」の中で
和歌山商業學校という別の学校がが「陸軍練兵場」を使用した。とも記されております。
同じ資料の中で、「六十一聯隊練兵場」と「陸軍練兵場」という、
別々の表記が出てくるため、判断に苦しんでおります。

お聞きしたいのですが、六十一連隊敷地内の広場程度の規模でも「練兵場」と表現するものでしょうか?
またこれと関連する点ですが、「六十一聯隊練兵場」とは、六十一連隊敷地内の広場でしょうか。
それとも「陸軍練兵場」を指すのでしょうか。
ややこしい話で申し訳ありませんが、お考えを聞かせて頂ければ幸いです。

Re: No Title

とり様
こちらこそ、ご無沙汰しております。

拙記事がお役に立てて光栄です。

通常「練兵場」といえば拙記事内の⑤の場所「和歌山陸軍練兵場」の事を指します。
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1097.html

①の兵営内にある手前側の広場は「営庭」(えいてい)と言うので、まず違うと思います。
当時の冊子なので、執筆者が練兵場と営庭の表記を混同するとは考えにくいです。
営庭は兵営内にあり、軍旗祭(今で言う創立記念行事)でも無い限り一般人が入れるとは考えにくく、また広く見えますが、2階建の兵舎を始め架線なども有り、ここで滑空機の訓練は難しいと思います。

「陸軍練兵場」・「六十一聯隊練兵場」は表記の揺れ程度の誤差で良くある事なので、一緒のものを指していると考えて問題無いですよ。
当時の新聞記事、冊子等を見ていると同一文章内で表記が統一されておらず、私もよく???となる事があり、これがまた厄介で現在まで遺って正式名称なのか、通称なのかの判断を難しくしています。

No Title

盡忠報國様
早速のご回答ありがとうございます。
明快なお答えで納得いきました。
当時の軍のことは分からない事ばかりで大変助かりました。
当地についての記事は順番にアップしているため来年の三月ごろになる予定です。
アップの際は改めてご挨拶させて頂きます。
どうもありがとうございました。

Re: No Title

とり様

ブログ作成の一助になり、良かったです。
また、記事を楽しみにしています!

No Title

ご無沙汰しております。とりです。
その節は貴重な情報ご教授頂きありがとうございました。
2/9,11 に記事をアップします。
拙記事内に貴記事のリンクを貼りたいのですが、いかがでしょうか。
可否教えて頂ければ幸いです。

Re: No Title

こちらこそご無沙汰しております。
リンクの件、宜しくお願いします。
記事、楽しみにしています!

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No Title

貴記事の情報使用させて頂きました。
どうもありがとうございました。

Re: No Title

とり様
記事、拝見致しました!
わざわざのご連絡、ありがとうございます。
拙ブログがお役に立てて嬉しく思います。
今後ともよろしくお願いいたします!
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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