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長宗我部盛親の慰霊碑建立へ

長宗我部元親公をお祀りする秦(はた)神社(高知市)に、元親の四子で長宗我部氏第22代当主・長宗我部盛親の慰霊碑が建立されるそうです。
秦神社 拝殿 別角度~土佐・長宗我部
▲秦神社拝殿






長宗我部盛親の慰霊碑建立へ 高知市の秦神社 2013年01月31日08時50分


 長宗我部家最後の当主、盛親の慰霊碑を高知市内に建てようと、県内外の有志が準備を進めている。没後400年にあたる2015年5月の除幕を目指しており、これまで注目を浴びることが少なかった「悲運の名将」に光を当てようと盛り上がっている。

 盛親は元親の四男。元親の跡を継ぐはずだった長男・信親が九州で戦死したため、慶長4(1599)年の元親の死に伴い、22代当主となった。関ケ原の戦いで石田三成の西軍に加わるが敗北し、土佐一国を失った。京都での浪人生活を経て、大坂冬の陣、夏の陣に出陣したが捕らえられ、元和元(1615)年5月15日に、京都の六条河原で斬首された。

 慰霊碑建立の発起人は東京都で建築関係の仕事をしている林太一さん(33)。司馬遼太郎の小説「戦雲の夢」を読み盛親の生き方にほれ込んだ。長宗我部家に関するイベントへの参加や、情報を発信する「長曾我部最高委員会」をつくり、主にインターネット上で活動している。

 盛親に関する史跡は京都の蓮光寺に墓があるだけで本県にはない。そのため、林さんは「いつか盛親の魂だけでも高知に返してあげたい」と思っていたと言う。昨年5月に「長宗我部まつり」で来高した際、元親の初陣祈願の地とされる若宮八幡宮(高知市長浜)の大久保千堯宮司(69)に、「盛親の没後400年に慰霊碑を建てたい」と相談し、計画は動き始めた。
 林さんの熱意に打たれ、大久保さんも協力を約束。盛親や元親らを祭っており、大久保さんが宮司を兼務する秦神社(同市長浜)の境内に慰霊碑を建てることが決まった。
 昨年11月に秦神社で行われた長宗我部氏一族の慰霊祭で、大久保さんが計画を発表したところ、県内外のファンら約50人が賛同。「長宗我部盛親公慰霊碑建立期成会」を組織した。会長には元親の末弟、親房から数えて17代目になる長宗我部友親さん(70)=東京都=が就いた。

 最近は「戦国」や「武将」がブームで、若いファンも多い。林さんは「盛親は悲運の名将と言われているが、最後の戦いだった大坂の陣では男の意地を貫いた。マイナーな武将だが、もっと全国に知ってもらい、盛大な慰霊祭を」と意気込んでいる。
 建立費約550万円のうち400万円は関係団体からの寄付などで賄い、残り150万円は一般からの募金で賄う予定。問い合わせは同会事務局の若宮八幡宮(088・841・2464)へ。(高知新聞


盛親は長宗我部元親の四子で、長宗我部家最後の当主です。
昨今のゲームの影響からか長宗我部元親の人気、知名度は一気に全国区になりましたが、父に比べると盛親の知名度は低く、家を滅ぼした人物として評判も余り芳しく無い様に思います。
41年の生涯で実働期間は家督を継ぐまでと関ヶ原に敗れ寺子屋の師匠をしていた期間を除き僅か13年程しか無く、政治面では長宗我部元親百箇条の制定に加わったくらい、合戦面では関ヶ原(ほぼ戦わず)と大坂の陣くらいしか無く、唯一の記憶が「長宗我部家が取り潰しになった時の当主」としてしか残らないのが残念です。

ただ、長宗我部家取り潰しを盛親一人に被せるのは酷と言うものです。
父元親は「英雄に負の面は無い」と言う「英雄神話」的な語られ方をする事が多く、知勇兼備の武将としての印象が強いと思います。
しかし、実際は嫡男・信親を豊後戸次川の合戦で失ってからは人格に異常を来したと思われるくらい人が替わり、次男・香川親和、三男・津野親忠を差し置き四男の盛親を偏愛(一説には嫡男信親の娘を嫁がせるのに盛親の年齢が最適だった為とも)、諫言した甥の吉良親実や従兄弟の比江山親興を誅殺し親和の諌死など家臣団の弱体を招き、親忠を幽閉するなど大きな荷物を残して関ヶ原の直前に死去しました。
父の残した大き過ぎる負の遺産を引き継ぎ、しかも当主としての初仕事が関ヶ原の合戦です。
当初は東軍に付く予定でしたが、使者が西軍の長束正家に阻まれたため止むを得ず西軍として参戦、しかし、毛利秀元隊(実際は吉川広家隊)に阻まれ戦闘に参加せずに敗戦してしまいます。

勝者の徳川家康により土佐全土を没収され改易(改易理由は幽閉中の兄・親忠を殺害したためとも、旧臣による一揆発生の懲罰とも言われます)されてしまいます。
その後、15年間、京都で寺子屋の師匠として生活、慶長19年、長宗我部家再興を賭して大坂城に入城、浪人衆最大身として重きをなします。
籠城に決した冬の陣に続く夏の陣では裸城となった大坂城を出撃、木村重成とともに八尾・若江の戦いに参加、関ヶ原の采配が嘘の様な冷静沈着に見事な指揮を採り藤堂高虎を壊滅寸前まで追い詰めるも、木村隊を破った井伊直孝隊に阻まれ止む無く撤退、大坂城落城直前に再起をかけて脱出しますが、京都で捕縛され助命嘆願も入れられず斬首されてしまいました。
最後まで長宗我部家再興に賭けた生涯でした。

盛親の墓はそれぞれ土佐にある父母兄弟と離れ、京都市五条寺町の蓮光寺にあり、墓を改葬するわけには行かないのでせめて魂魄だけでも土佐に還えれる様に慰霊碑を建立するのは大いに賛成します。
いち長宗我部家好きとして賛同するとともに、浄財を寄付しようと思います。

早速、若宮八幡宮に問い合わせたところ「長宗我部盛親公慰霊碑建立期成会」の趣意書があるようなので、そちらと資料を送って頂けました。

寄付金の振込先は

高知市農協長浜支店 普通 0011253
宗教法人 秦神社 盛親公慰霊碑期成会 代表役員 大久保千堯


是非、我こそはと思う全国の長宗我部ファンはこの機会に!
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無事に建立されるといいですね。
御家・主家再興に奔走した武将はみな一際格好いいですよね。
では私はいつか菊池家最後の当主・菊池義武(大友重治)の慰霊碑を建てたいですね。
大友家の半支配下にあった菊池家を完全に乗っ取る形で当主に就いたのに、突如として実家である大友家に反旗を翻した行動力に頭が下がります。

Re: タイトルなし

甲斐菊陽さん、こんばんは。

無事建立される事を切に願います。
甲斐さんも以前取り上げられていた山中幸盛も最期の一瞬まで尼子家の再興に賭けた生涯で、感銘を受けますよね。
菊池義武は兄大友義鑑との不仲や領土欲から大友家を離反したと言われますが、やはり名門・菊池氏の再興に賭けて独立したと考えたいです。

是非、菊池神社に慰霊碑建立の際はご連絡下さい。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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