当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第七十聯隊

兵庫県篠山市に「丹波の鬼聯隊」と謂われた歩兵第七十聯隊の兵営がありました。

兵営では後に歩兵第百七十聯隊歩兵第二百十六聯隊歩兵第百六十八聯隊第三十一航空通信聯隊第十四航空通信聯隊第二十一航空通信隊第三対空無線隊が編成されます。
歩兵第七十聯隊 営門(篠山)
▲営門門柱

【探索日時】
平成20年4月13日、平成23年12月5日・16日

【更新日時】
平成29年10月25日・・・遺構追加





歩兵第七十聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
歩兵第七十聯隊 篠山(大正9)(篠山)
▲大正9年頃の地図(大正9年測量 大日本帝國陸地測量部地形図44 福知山及篠山近傍)
 ※地図は施設に色付け加工しています。

歩兵第七十聯隊 篠山(221103)NI-53-14-14(篠山)
▲昭和22(1947)年11月3日の篠山町周辺の空撮(国土地理院 NI-53-14-14)
 ※空撮は加工しています。

篠山(現在)(篠山)
▲現在の地図に施設を転写

※緑文字が当記事の紹介施設
歩兵第七十聯隊 兵営
②篠山陸軍病院
③篠山陸軍練兵場
④篠山陸軍射撃場
⑤篠山陸軍墓地
⑥篠山聯隊區司令部跡(大正14(1925)年5月1日、廃止)
⑦篠山憲兵分隊(昭和20年3月16日、中部憲兵隊司令部神戸地區憲兵隊篠山憲兵分隊)
名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
① 歩兵第七十聯隊 兵営
明治38(1905)年10月20日、兵庫県多氣郡篠山町(現、篠山市)出身の森本荘三郎代議士は町会議員を召集し、篠山への新設聯隊誘致を決定し、23日、発起人・森本氏、篠山町、多気郡の献納額を定め、25日、聯隊誘致の願書を陸軍省に提出し誘致運動を開始します。
明治40(1907)年9月19日、陸軍省は『陸軍平時編成』・『常備團體表』を改正し、歩兵第七十聯隊の創設と篠山町に兵営の建設が決定、多氣郡住民の土地献納(22町歩2反4歩・・・練兵場14.4町、作業場8.5反、射撃場6.8町、墓地4.1反、交通路4.3畝、憲兵分隊1.5反)が相次ぎ、また陸軍省買収用地(12.8町、兵営、衛戍病院、聯隊區司令部)も地価を大幅に下回る等地域住民の協力の下、円滑に用地習得が進みます。
10月1日、誓願寺に臨時陸軍建築部大阪支部篠山出張所(横田大八工大尉)、陸軍御用土地献納事務所(森本荘三郎委員長)が開設され、建物は大林組、練兵場は松村組、射撃場は關谷組が請負い工事が開始されます。

明治41(1908)年3月21日、歩兵第七十聯隊が大阪市東区法円坂町(現、中央区法円坂町)から、地域住民数万の大歓迎の中ほぼ完成した新兵営に移駐してきます。

昭和12(1937)年4月28日、歩兵第七十聯隊の滿洲駐箚に伴い、歩兵第七十聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和19(1944)年1月6日、歩兵第七十聯隊補充隊は歩兵第百六十八聯隊に改編され朝鮮に移駐、2月5日、航空通信の教育部隊である第三十一航空通信聯隊が三重県斎宮村から移駐、8月16日、停戦を迎えます。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置、近畿地方に進駐を開始し兵営は接収されますが、軍需品の処理が終了するとともに大蔵省に返還されます(接収時期は不明)。

昭和21(1946)年3月、兵営跡地の西側半分に多紀実業学校が移転、兵庫県篠山農学校(現、篠山産業高校)と改称、4月、東側半分に兵庫県立医科大学予科が設置、昭和23(1948)年3月、同大予科は神戸移転、昭和24(1949)年4月、跡地に兵庫県立農科大学が設立、昭和44(1969)年3月、同大は神戸大学に併合され廃止、昭和45(1970)年、跡地に篠山鋳鉄(昭和47年、三井ミーハナイトメタル篠山製造部)が設立、平成18(2006)年1月、兵営南東側に篠山警察署が移転、現在に至ります。

ちなみに僕の父方の祖父は昭和7(1932)年11月1日、幹部候補生として歩兵第七十聯隊に入営、第二大隊第六中隊に配属、昭和8年12月1日、現役満期となり予備役に編入されます。
その後、臨時召集に応召、歩兵第八聯隊補充隊、歩兵第二百十六聯隊、獨立歩兵第五十八大隊、獨立歩兵第五十七大隊、宇都宮師管區歩兵第三補充隊を経て歩兵第三百三十聯隊に配属、作戦地の福岡において本土決戦の準備中に停戦を迎えます。最終階級は中尉(停戦後、大尉)でした。
歩兵第七十聯隊 軍曹(篠山)
▲軍曹時代の祖父(中央列・左から2人目)
 幹部候補生同期と酒保前で撮影


ア 営門門柱
営門の門柱3本、敷石、土留が完存、周囲の土堤、側溝が一部遺されています。
歩兵第七十聯隊 営門(篠山)
▲営門門柱と敷石
 国旗掲揚用の金具が遺る等、保存状態は良好です。

歩兵第七十聯隊 営門 大正末頃(篠山)
▲大正末期の営門
 営門内側に見える築山は昭和初期には撤去された様です。

歩兵第七十聯隊 営門門柱 東側 上部(篠山)
▲門柱に遺る国旗掲揚用の受け金具

歩兵第七十聯隊 戸当り・国旗掲揚孔(篠山)
▲同じく敷石に遺る国旗掲揚用の受け孔

営門周辺には兵営を囲む土堤、側溝の一部が遺ります。
歩兵第七十聯隊 営門東側の土堤2(篠山)
▲営門東側の土堤

歩兵第七十聯隊 兵営正面の側溝(篠山)
▲営門付近の側溝


営門門柱の内側には複数の石碑が建てられています。
洗心
営庭にあった物と思われます。
歩兵第七十聯隊 洗心(篠山)
▲裏面には「昭和二年 初秋 建之」と刻字されています。

歩兵第七十聯隊跡
昭和43(1968)年に建立されました。
裏面に歩兵第七十聯隊の略歴と石碑建立の経緯が刻字されている様ですが、摩滅して読み難くなっています。
歩兵第七十聯隊 歩兵第七十聯隊跡(篠山)

歩兵第百六十八聯隊発祥之地
昭和63(1988)年5月、戦友会・遺族一同により建立されました。
歩兵第七十聯隊 歩兵第百六十八聯隊発祥之地(篠山)

第31航空通信聯隊 陸軍特別幹部候補生修練の地
平成6(1992)年4月26日、陸軍特別幹部候補生 特幹三一会有志一同により建立されました。
歩兵第七十聯隊 第31航空通信聯隊 陸軍特別幹部候補生修練の地(篠山)


ス 通用門土留・橋
県立篠山産業高校校門の西側(横断歩道付近)に遺ります。
土留は煉瓦造、橋はコンクリート製です。
残念ながら門柱は撤去されています。
こちらの遺構については日頃お世話になっている『戦争遺跡調査研究軍』祐実総軍三等兵様に御教示頂きました。
ス 通用口(橋) 南西から(篠山)
▲コンクリート橋と分かり難いですが土留(石垣の上)

ス 通用口(東側土留) 南西から (2)(篠山)
▲東側土留の近影

ス 通用口(西側土留) 南西から(篠山)
▲西側土留の近影


イ 将校集会所 門柱
門柱、土留、土堤が遺されています。
六角柱の非常に凝った造りです。
歩兵第七十聯隊 イ 門柱 東から(篠山)

歩兵第七十聯隊 イ 門柱(南側)の照明灯金具(篠山)
▲南側門柱の頂部には電灯の金具が遺っています。


ウ 東門 門柱
門柱と土留、周囲の土堤が遺されています。
歩兵第七十聯隊 ウ 門柱 東から(篠山)

歩兵第七十聯隊 ウ 門柱(北側)(篠山)
▲門札が掛かっていますが、文字は完全に消えています。

歩兵第七十聯隊 兵営東側の土堤(篠山)
▲東門周辺の土堤


※以下に紹介するA炊事場・B煉瓦建物・オ貯水槽・カ卓子・キク土留・ケ貯水槽は三井ミーハナイトメタル篠山製造部の工場敷地内にあります。
見学には事前連絡のうえ日程調整し許可が必要です。


A 炊事場
幅10x長さ80m、800㎡の煉瓦造りの建物です。
屋根がトタンに吹き替えられています。
歩兵第七十聯隊 A 北東から(篠山)
▲北東から
 全体にツタが絡まり春夏期は非常に見辛いです。

歩兵第七十聯隊 A 南側(篠山)
▲南側は建物が接近しており見渡せません。

建物北側にはコンクリート製の水槽がありますが、当時の物か不明です。
歩兵第七十聯隊 A 北側の水槽1(篠山)
▲水槽

歩兵第七十聯隊 A 北側の水槽2(篠山)
▲水槽


B 建物
煉瓦造りの建物ですが、用途など詳細は不明です。
炊事場付近にあったとされる汽缶室かも知れません。
歩兵第七十聯隊 B 南から(篠山)
▲南西から
 保存状態は良好です。

歩兵第七十聯隊 B 西から(篠山)
▲西側には大型の搬入口があります。

歩兵第七十聯隊 B 南東から(篠山)
▲東側の壁面下部には塞がれていますが半円形の開口部(白い部分)があった様です。
 左はA炊事場

歩兵第七十聯隊 B 洋小屋組(篠山)
▲建物内部

屋根は洋小屋組で当時の物の様です。
歩兵第七十聯隊 B 洋小屋組 (2)(篠山)
▲内部の洋小屋組


オ 貯水槽
当時の物と思われます。
歩兵第七十聯隊 オ 防火水槽 南から(篠山)


カ 門柱と円卓子
酒保の門柱、卓子が遺されています。
歩兵第七十聯隊 カ 門柱 南から(篠山)
▲門柱
 酒保の門柱と思われますが、詳細は不明です。

歩兵第七十聯隊 カ 円卓子 南から(篠山)
▲椅子の付属する円卓子3基、卓子1基
 円卓子は歩兵第六十一聯隊の円卓子と類似の形状をしていますが、当時の物か不明です。

歩兵第六十一聯隊 円卓子(和歌山)
▲(参考)歩兵第六十一聯隊 円卓子


キ 土留
兵営北側に隣接する篠山陸軍病院への通用口と思われる土留が並んで2基遺されています。
歩兵第七十聯隊 キ 土留(篠山)


ク 土留
キと同型の物です。
歩兵第七十聯隊 ク 土留(篠山)

北側に隣接する篠山陸軍病院との境は急坂になっており、土留はこの上にあります。
歩兵第七十聯隊 ①②間の土手(篠山)


ケ 貯水槽
オと同型の物です。
歩兵第七十聯隊 ケ 防火水槽(篠山)


その他
兵営西側の土堤
歩兵第七十聯隊 兵営西側の土堤(篠山)


兵営北側の土堤
歩兵第七十聯隊 兵営北側の土堤(篠山)


白楊樹(ポプラ)並木
歩兵第七十聯隊 並木道(篠山)
▲当時からあったそうで、明治43(1910)年に出版された『篠山聯隊兵営生活乃栞』(頼琴翠)にも「白楊樹の影映る病窓の下・・・」という一文が出てきます。


盃山(盃ヶ岳)
聯隊ではこの盃山を含む多紀連山で訓練を実施、「丹波の鬼聯隊」、「山岳戦の篠山聯隊」と称されました。
山頂までの登山競技も度々実施、将兵は強靭な健脚を誇りました。
歩兵第七十聯隊 兵営北側の盃山(篠山)
▲営門から23分で往復したそうです。


歩兵第七十聯隊 平成初期の敷地(中央大型工場の南側に兵舎、奥北側にレンガ建物数棟見える)(篠山)
▲平成初期頃の兵営跡空撮
 まだ多くの建物が遺っているのが確認できます。


歩兵第七十聯隊 上等兵(篠山)
▲軍旗祭の際に撮影された幹部候補生同期と祖父(後列左から2人目)
 分かりづらいですが背後に兵舎が写っています。

歩兵第七十聯隊 軍旗祭(篠山)
▲昭和8(1933)年の歩兵第七十聯隊軍旗祭の分列行進(管理人所蔵)
 手前馬上は第10代聯隊長・上森猛省大佐


衛戍・編成・補充部隊
歩兵第七十聯隊(國四九〇五、中部第六十八部隊、満洲第六三四部隊)
明治三十七八年戰役(日露戦争)勝利後、陸軍省は安全保障の観点から戦役中に動員された4個師團の常設化、及び2個師團の新設を決定します。
明治40(1907)年9月19日、『陸軍平時編成』・『常備團體表』を改正し、歩兵第七十聯隊を兵庫県多気郡篠山町への新設を決定します。
篠山町への新設聯隊誘致には篠山町出身の森本荘三郎・衆議院議員が中心となり、本郷房太郎少将、本庄繁大尉(各肩書は当時)の尽力がありました。

10月22日、聯隊長・飯田左門大佐以下聯隊の幹部が発令、11月5日、聯隊本部、第一大隊(第四中隊欠)が歩兵第八聯隊(大阪)において、第二大隊(第八中隊欠)が歩兵第三十七聯隊(大阪)において編成、第四師團(大阪)隷下の第七旅團(大阪)に属します。
明治41(1908)年3月21日、歩兵第八聯隊(大阪)の仮兵営から新築の篠山兵営に移駐、5月8日、宮中において軍旗を拝受、11月10~13日、奈良地方で行われた特別大演習に第四師團とともに南軍(乃木希典大将)に属し参加、12月1日、第三大隊、第四・第八中隊が編成され聯隊編成完結します。
歩兵第七十聯隊 軍旗(篠山)
▲歩兵第七十聯隊 軍旗

明治42(1909)年5月23日、第三中隊は歩兵第二聯隊(永田克之大佐、水戸)指揮下となり韓国に派遣(明治43年4月29日、帰還)されます。
明治43(1910)年6月8日、第九中隊151名は清國駐屯軍(阿部貞次郎大佐)指揮下となり天津に駐箚(明治44年7月6日、帰還)します。
明治45(1912)年3月21日、第七中隊155名は歩兵第一聯隊(朝久野勘十郎大佐、東京)指揮下となり朝鮮に派遣、龍山に駐箚(大正3年4月28日、帰還)します。

大正元(1913)年9月13日、明治天皇大喪の礼に軍旗を捧持し代表者が参列します。
大正3(1915)年11月15~18日、大阪地方で行われた特別大演習に第四師團とともに参加します。
大正4(1916)年9月10日、第十中隊155名は支那駐屯軍(斎藤季治郎 少将)指揮下となり北京に駐箚(大正5年10月2日、帰還)、12月2日、大正天皇の御大礼観兵式に軍旗を捧持し代表隊が参列します。
大正5(1917)年4月12日、歩兵第七十八聯隊(朝鮮龍山)編成のため第一中隊を抽出(大正6年4月1日、補欠編成)します。
大正6(1918)年11月14~17日、滋賀・岐阜県下で行われた大演習に第四師團とともに参加します。
大正7(1919)年9月5日、第六中隊156名が青島に駐箚(大正8年7月、帰還)します。
大正8(1920)年9月、第一中隊151名が青島に駐箚(大正9年10月5日、帰還)、11月1~14日、大阪府・兵庫県下で行われた大演習に第四師團とともに参加します。
大正10(1922)年9月3日、第八中隊156名が青島に駐箚(大正11年4月、帰還)します。
大正12(1924)年9月6日、関東大震災に救護班を編成し派遣します。
大正14(1925)年5月5日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)から歩兵第七十聯隊が除外された事で篠山町民により聯隊在置祝賀会が挙行されます。

昭和2(1927)年2月7日、大正天皇大喪の礼に軍旗を捧持し代表者が参列、11月15~18日、大阪府・奈良県下で行われた大演習に第四師團とともに参加します。
昭和3(1928)年12月2日、昭和天皇の御大礼観兵式に軍旗を捧持し代表隊が参列します。
昭和4(1929)年6月5日、第四師團の御親閲分列式に参列します。
昭和8(1933)年9月、第九中隊156名が天津に駐箚(昭和9年9月、帰還)します。
昭和9(1934)年9月、第一中隊152名が天津に駐箚(昭和11年9月、帰還)します。
昭和10(1935)年9月、第七中隊152名が天津に駐箚(昭和11年9月、帰還)します。
昭和12(1937)年2月、第四師團は第九師團(蓮沼蕃中将、金沢)に変わり滿洲駐箚が決定、4月20日、『軍令陸甲第一號』により第四師團の關東軍司令部(植田謙吉大将)戦闘序列編入と滿洲駐箚が下令、24日、聯隊に滿洲派遣が命じられ、28日、第一次部隊は篠山口から列車で大阪駅に移動後、29日、大阪港から、第二次部隊は列車で神戸市内に移動後、神戸港から出航、5月2日、釜山港に上陸、7日、濱江省梨樹鎮に集結、第十二師團(山田乙三中将、久留米)の指揮下に入り、周辺匪賊の春期討伐に参加、6月23日、第四師團隷下に復帰、28日、依蘭県に移駐し警備にあたるなか、7月7日、支那事變が勃発、9月22日、秋期討伐に参加し三道通方面の戦闘にて匪賊多数を討伐、11月、大項山、三道通、四道河子地区の警備にあたります。

昭和14(1939)年、刀翎、土城子、永発屯の警備にあたり、7月28日、佳木斯(チャムス)市樺川県追分に移駐します。
8月23日、同年5月13日にソ連軍の越境により勃発したノモンハン事件の増援として応急派兵の命を受け、9月4日、ハンダカヤにてソ連軍と対峙、陣地構築を行うも、13日、停戦協定成立により、10月5日、長発屯に帰還、警備にあたります。

昭和15(1940)年6月26日、中支那派遣のため第四師團に臨時動員下令、第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入され、7月、聯隊は師團とともに中支湖北省安陸に移駐し、同地の警備・治安維持に当たり、11月25日、第十一軍の漢水作戰に参加、蒋介石軍を撃破します。

7月10日、『軍備改編要領 其二』が発令、師團は従来の4単位から3単位に改編、8月1日、聯隊は第四師團から新設の第二十五師團(桑原四郎中将、滿洲國東寧)に隷属転移、佳木斯市に集結、9月、錦州、11月末、林口に移駐し警備にあたります。

昭和16(1941)年7月16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第二十五師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結、対ソ連戦を見越した準備を開始しますが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

昭和18(1943)年12月、「ウ號演習」(戦力の抽出)を実施します。

昭和20(1945)年1月中旬、新兵備計画、20日、決號作戰(本土決戦)に向け『帝國陸海軍作戰計畫大綱』が策定され、22日、軍令陸甲第十三號により第十六方面軍(横山勇中将、福岡)が編成、28日、軍令陸甲第三十四號により第一次兵備が下令され第二十五師團(加藤怜三中将)は第五十七師團(上村幹男中将)とともに九州への転用が決定します。
3月15日、大陸命第千二百七十四號により師團は第十六方面軍戦闘序列に編入、16日、師團に転用下令、26日、聯隊は東安省密山県を出発、4月4日、釜山に集結、5日、釜山港を出発、6日、博多に上陸、列車にて宮崎県西諸県郡野尻村に到着、聯隊本部を大塚原の野尻青年學校に設置します。
4月上旬、小林に進出した師團は機動打撃師團に位置付けられ、師團司令部を小林村(現、小林町)北方の山中に開設します。
17日、団体長会議において内地決戦における任務を指令され、敵上陸部隊破砕すべく地形偵察、陣地築城、物資保管隧道設定、挺身攻撃(挺身斬込隊)、肉迫攻撃(特別攻撃隊)訓練にあたります。

5月、鹿児島県出水に移駐、6月、再び野尻村に帰還し敵上陸に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

第二十五師團は古豪3個聯隊(歩十四、歩四十、歩七十)を隷下に持ち、装備、士気、団結も高く、敵上陸部隊破砕を目指し訓練に邁進しますが、その真価を発揮する事なく停戦を迎えました。

29日、大塚原において第二十五師團長・加藤怜三中将臨席のもと、軍旗奉焼式が挙行されます。
奉焼に先立ち聯隊長・石川粂吉大佐、聯隊旗手・中嶋憲一郎少尉、聯隊副官2名が前夜に旗頭、旗頭金具、軍旗の一部を取り外し保管します。
軍旗の分身は石川大佐、中嶋中尉が保管、昭和31(1956)年6月、石川元大佐、昭和60(1985)年5月、中嶋元少尉が遺族会を通じて篠山町に寄贈、忠霊堂前の遺芳会館内で保存されています。

19日、復員式を挙行、米軍に軍需品を引渡し、復員完結、22日、師團は復員業務を開始、10月13日、復員完結します。


歩兵第百七十聯隊
昭和13(1938)年6月16日、歩兵第七十聯隊留守隊に動員下令、21日、動員完結(古賀龍太郎大佐)、第百四師團(三宅俊雄中将)隷下の第百七旅團(松本健児少将)に属し、23日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第百七十聯隊 軍旗2(篠山)
▲歩兵第百七十聯隊 軍旗

7月4日、篠山を列車で出発、日本橋で一泊後、5日、第百四師團とともに大阪港を出航、9日、大連港に上陸、10日、大連を出発、12日、滿洲奉天から山海関を経て支那を結ぶ要地・錦州県錦県の滿洲軍兵舎北大営に屯営、連日訓練を実施します。

11日、ソ連軍がソ滿国境の張鼓峰に侵入、29日、張鼓峰北方2kmの沙草峰に侵入し陣地構築した事から、国境警備の第十九師團(尾高亀蔵中将)と戦闘が勃発(張鼓峰事件)、8月13日、第十九師團援護のため第百四師團とともに錦県を出発、間島省朝陽川の龍井(東部ソ滿国境)に進出しますが、11日、すでに日ソ間で停戦協定が締結されたため、龍井に屯営し訓練を実施、9月21日、滝井村を出発、24日、大連に到着、第百四師團は新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戰闘序列となります。
10月1日、大聯を出港、南支に向かい、12日、主力の第十八師團(久留米)に続き、バイアス湾に上陸、13日、範和岡、15日、平山墟、17日、東江右岸地区の恵陽、21日、増城に進撃、同日、第十八師團が広東市を攻略、22日、聯隊は第百四師團の先鋒として広東-従化公路を敗走中の支那軍(余漢謀)の退路を絶つべく太平場に進撃し支那軍を撃破、24日、第五師團が攻略した従化県城に入り、11月2日、残敵を掃討しつつ広東市に移駐し市北郊の警備にあたり、6日、支那軍の拠点・流渓水右岸の鴉湖、蛙湖、大同圩を攻略します。
12月26日、第百四師團は広東市内及び周辺の警備を第五師團と交替、聯隊は市内の中山大学に聯隊本部を設置、警備にあたり、昭和14(1939)年1月13日、花県、白泥水河畔で支那軍を撃破します。

1月20日、聯隊は再び広東市北郊の警備のため鳳凰山一帯に陣地を構築、4月5日、広東奪還を目論む支那軍を獅前市・花県北方付近で撃破、22日、第百七旅團(西山福太郎少将)の江門・新会方面(広東南方)の戦闘に歩百八とともに参加、6月9日、広東市西方の三水に移駐、警備にあたり、8月25日、再び広東市内の警備にあたり、9月2日、夏季作戦に参加、花県に進撃し高百丈の支那軍拠点を攻略します。

12月18日、支那国民党政府の汪兆銘行政院長が支那事變の平和的解決を目指し重慶より亡命、我が国は汪を全面的に支援、政権基盤を確固たるものにすべく支配地域の拡大を目指し、19日、第十一軍(岡村寧次中将)の翁英作戰に参加、粤漢線に沿って北上、12月2日、二一六高地の戦闘、18日、源潭墟、鮮水坑、羊仔山、伯公拗付近の戦闘を経て泡江を渡河、30日、第七中隊(西面治作中尉)が英徳城に一番乗りを果たしますが、昭和15(1940)年1月5日、粤漢線の打通・占領地域の拡大は困難と判断され翁英作戰は終了、13日、広東北方の太平場の警備にあたります。

5月21日、第十一軍の宜昌作戰の陽動として南支那方面軍(2月9日、第二十一軍から改編、安藤利吉中将)の良口作戰に参加、従化公路を北上し鴨洞谷地で支那軍と交戦、第七中隊長・西面中尉が散華するなど大損害を受けながらも敵主陣地の九六九高地高地を占領し敵を東方に圧迫、宜昌作戰の成功に伴い太平場に帰還します。

昭和16(1941)年1月13日、『軍令陸甲 第四號』により臨時編成下令、聯隊は第百四師團から印度支那派遣軍(7月、獨立混成第二十一旅團に改編、西村琢磨少将)隷下に転属が決定、20日、聯隊は命令を受領し歩百六十一(板津直剛大佐、和歌山)に警備を引き継ぎ、23日、輸送船3隻に分乗し黄埔を出航、25日、ハイフォンに上陸、駄馬編成の乙装備から自動車の甲装備に改編、聯隊本部・第一大隊はハイフォン、第二大隊は派遣軍司令部の位置するハノイ及び東北方フーランチョン、第三大隊はバグニン、ヌィディオ周辺に屯営し警備、援蒋ルートの遮断、国境偵察などに従事します。

12月8日、大東亜戰争が開戦、聯隊は仏印軍の暴発に備えパグマイ飛行場の接収、仏軍の武装解除、停車場、発電所、水源地の警備、通信機関の接収、市内交通の遮断を実施、再び警備にあたります。

昭和17(1943)年9月14日、『大陸命第六百八十六號』により獨立混成第二十一旅團(山形栗花生少将)は南方軍(黒田重徳中将)から大本營直轄となり、大宮島(グアム島)、ウェーク島転進が決定、19日、第二大隊はサイゴンに集結後、20日、陸軍特殊船「あきつ丸」に乗船し、10月2日、ウェーク島に上陸、陣地構築を開始、12月23日、敵艦載機の空襲を受けます。

9月28日、獨立混成第二十一旅團の大宮島転進が下命、10月1日、聯隊主力(渡邊嘉幸大佐)はサイゴンに集結、21日、歩百七十を主力とする獨立混成第二十一旅團は伏見丸(旅團司令部・通信隊・野戰病院)、ボストン丸(聯隊本部・聯隊砲・歩兵砲・旅團砲兵隊・旅團戰車隊・通信隊)、三興丸(第三大隊)、北光丸(第一大隊)に分乗、海軍備船北照丸、陸軍備船ジョホール丸とともにサイゴンを出航、サンジャックにおいて護衛の駆逐艦「追風」、第二十號駆潜艇と合流し二列縦隊で、27日、マニラに入航、急患を下船させ、28日、マニラを出航、11月3日、旅團は大本營直轄からガダルカナル島への援軍のため第十七軍(百武晴吉中将)隷下編入とラバウルへの転進が決定、5日、大宮島アブラ港において命令を受領、8日、大宮島を出航し、12日、パラオ島コロール港に入港します。
16日1515、コロール港を出航直後、右縦隊2番船のボストン丸に米潜シールの放った魚雷2本が命中し轟沈、聯隊旗手・富倉久夫少尉は軍旗の覆いを外し、旗竿から軍刀で切り離し軍旗を防水嚢に収納し背負い、旗竿は聯隊乙副官・上田建中尉が捧持しそれぞれ脱出しましたが、両名を含む228名の将兵が散華、軍旗も海没してしまいます(軍旗再下賜を申請しますが却下されます)。
追風に救助された生存者550名は、イロイロ島で先行した僚船に分乗、22日、ラバウルに入港します。

しかし、大本營はガ島の戦局悪化に伴い戦力の増援を中止したため、獨立混成第二十一旅團はポートモレスビー攻略に向かい苦戦する南海支隊(堀井富太郎少将)救援のため、新設の第十八軍(足立二十三中将)隷下に編入されます。
28日、旅團第一陣はラバウルを出航、12月2日にかけ敵機の妨害を受けながらもクムシ河付近に上陸、3日、東進を開始、追及してきた第二陣と合流、ナパポ、ゴナ、キリキで豪軍と交戦しますが、10日、旅團主力の第三大隊(岩崎少佐)が玉砕してしまう等損害が増加、進撃は遅滞、13日、第三陣(第一大隊)がマンバレー河口に上陸、17日、旅團主力と合流、ゴナに陣地を構築し豪軍と対峙します。
昭和18(1943)年1月13日、軍命令により包囲されている南海支隊救援のためブナ・ギルワ河方面に進撃を開始しますが、兵力・物量に優る米豪軍の包囲を受け損害が増加、20日、軍命令により旅團、南海支隊はクムシ河まで転進集結、舟艇輸送によりマンバレーに移駐、警備にあたり、2月8日、ラエ・サラモア付近に、20日、マギリに、3月17日、ラエ東方のホポイに集結、6月12日、『大陸命第八百號』により歩兵第百七十聯隊は復帰(現役・若年兵の一部は他隊に転属)、22日、聯隊本部を始めラバウルに転進し復員完結します。

ウェーク島の第二大隊は『大陸命第八百號』により南海第三守備隊(近森重治大佐)に改編、東部軍(土肥原賢二大将)に隷属します。
10月6・7日、敵艦載機約500機の空襲、及び艦砲射撃を受け戦死360名(陸58名、海302名)、飛行場、砲台など地上施設も甚大な被害を受けます。
昭和19(1944)年1月1日、獨立混成第五聯隊第一大隊(三井彌一大尉)940名、戰車第十六聯隊(八代重規中佐)九五式軽戦車18両が守備隊に編入、2月25日、守備隊は東部軍から第三十一軍(小畑英良中将)直轄となります。
5月24日、敵艦載機350機の空襲を受け、敵機30機を撃墜するも、戦死32名(陸9名、海23名)、地上施設に損害を受けます。
6月3日、南海第三守備隊は獨立混成第十三聯隊に改編されます。
戦局の悪化に伴い糧食不足が深刻化、敵上陸に備え迎撃訓練を実施するなか、8月16日、停戦を迎えます。
10月5日、病院船「橘丸」、11月1日、同氷川丸に乗船し浦賀に上陸、11月14日、復員完結します。


歩兵第二百十六聯隊(椿六八四二)
昭和14(1939)年3月1日、『軍令陸甲第六號』により歩兵第七十聯隊留守隊(米山米鹿大佐)に編成下令され、聯隊主力は篠山、第三大隊は歩兵第八聯隊留守隊において編成、3月20日、編成完結(小川権之助大佐)、3月23日、宮中において軍旗を拝受、第三十四師團(関亀治中将)第三十四歩兵團に隷属します。
第三十四師團は中支那で作戦中の第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。
歩兵第二百十六聯隊 軍旗(篠山)
▲歩兵第二百十六聯隊 軍旗

4月2日、篠山口から列車で出発、3日、大阪港を出航、13日、中支湖北省夏口県漢口に上陸し、湖北省麻城付近の警備にあたり、22日、白村村の戦闘、5月6日、大畔付近の戦闘に参加、11月9日、江西省南昌に移駐し、聯隊本部は堂塘村、第一大隊は楓樹下陳村、第二大隊は油搾頭張、第三大隊は蓮塘市に屯営し支那第九戰區軍第十九集團軍と対峙しつつ付近の警備に就きます。

12月12日、蒋介石軍の冬季攻勢に対し反撃戦、昭和15(1940)年4月29日、第十一軍の宜昌作戰に聯隊主力は小川支隊(第一・第二大隊)を編成して参加し684kmを踏破後、沙市攻略に参加、6月12日、第十三師團(荻洲立兵中将、仙台)により宜昌は攻略され、聯隊は第三十四師團に復帰し南昌に帰還します。
その間、第三大隊は第三十四師團とともに、21日、文昌堂の戦闘に参加、27日、支那軍の夏季攻勢反撃戦に参加、昭和16(1941)年1月24日、歩二百十八で編成された木佐木支隊(木佐木中佐)に編入され、師團とともに予南作戰に参加、2月20日、第四歩兵團(石本貞直少将)指揮下に入り武漢の警備にあたり、5月1日、陶家埧の戦闘に参加します。

昭和16(1941)年3月14日、南昌付近の支那第十九集團軍撃滅のため、第十一軍の第一次錦江作戰に師團とともに参加しますが、友軍間との連携の不手際から第二大隊長・木下重四郎少佐が散華してしまう等大損害を受け、4月1日、南昌に帰還します。

12月8日、大東亜戦争勃発に伴い第三十三師團が南方に抽出されると、同師團の警備地区である南昌西北の安義方面も併せて守備します。
12月24日、第十一軍は第二次長沙作戰を下令、12月22日~昭和17(1942)年1月6日、聯隊は師團とともに支作戦である第二次錦江作戰に参加します。
3月22日、聯隊から第六十八師團(中山惇中将、大阪)第六十一、第百十五大隊の編成要員を抽出します。

4月22日、第三大隊は第五十八師團(下野一霍中将、漢口)の指揮下に入り、第十一軍の沔陽作戰に参加、5月15日、岳州陽動作戰に参加後、6月10日、聯隊主力を追及します。

4月18日、ドーリットルの本土空襲機が着陸した浙江省方面の敵飛行場、軍事施設を覆滅するため、5月14日、浙贛作戰に師團とともに参加、烏渓江に進撃し衛州で激戦を展開、鷹譚、貴渓を攻略します。

昭和18(1943)年2月12日、江北殲滅作戰に参加し、長沙方面に向かう陽動作戰を実施、4月21日、江南殲滅作戰に第三大隊が歩二百十八(針谷逸郎大佐、大阪)指揮下に編入され参加し、宜昌対岸に進撃します。
10月18日、常徳殲滅作戰に参加し、多くの戦果を挙げました。

昭和19(1944)年1月、支那派遣軍は一號作戰(大陸打通作戦)を下令、5月27日、師團とともに第十一軍の湘桂作戰に参加、長安付近を出撃し、6月18日、長沙攻略の要所・岳麓山を攻略(同日、長沙陥落)、9月20日、耒陽、10月1日、常寧県城、13日、第一大隊は歩二百十八の指揮下に入り湘桂公路を南下し霊川に進撃、20日、聯隊主力は全県一帯に進撃し警備にあたり、昭和20(1945)年5月14日、反転作戰により全県を出発、16日、新寧平野に進出し、夫夷水左岸に沿って進撃、6月5日、宝慶、永豊を経て湘郷、渕陽の敵中を突破、7月30日、錦江を敵前渡河、8月3日、安義に帰還、16日、停戦を迎えます。
22日、安慶に移駐、23日、軍旗を奉焼します。


歩兵第百六十八聯隊(狼一八七〇四)
昭和19(1944)年1月25日、『軍令陸甲第二號』により臨時編成下令、歩兵第七十聯隊補充隊は歩兵第百六十八聯隊に改編(吉田四郎大佐)、宮中において軍旗を拝受、第四十九師團(竹原三郎中将、朝鮮京城)に隷属し、朝鮮に移駐します。
5月27日、臨時動員下令、師團は南方軍戦闘序列に編入されビルマ派遣が決定、6月20日、聯隊は師團司令部とともに釜山港を出航、7月19日、昭南島(シンガポール)に上陸、8月20日、ビルマのペグーに到着します(師團集結のための輸送は第四次10月まで続きます)。

聯隊は山砲兵第四十九聯隊第二大隊(菊池大尉)主力とともに、ウ號作戰(インパール作戦)中止後、南下攻勢に転じた支那軍を拒止し、援蒋ルート(印支ルート)を遮断に従事している第三十三軍(本多政材中将)指揮下となり、軍司令部所在の雲南省芒市に転進、第一期斷作戰に参加、第五十六師團(松山祐三中将、久留米)の先頭を進撃し敵陣を突破、9月18日、平戞で敵中に孤立した歩百四十六第一大隊を救援、21日、芒市に帰還します。
12月、聯隊は歩兵第四聯隊(一刈勇策大佐、仙台)とともに第三十三軍の予備隊としてナンバッカに布陣、昭和20(1945)年1月5日、モンミット正面から瑞麗江を渡河してきた米支軍2個師団を第十八師團とともに撃破しますが、兵力差は歴然で、1月27日、遂に印支ルートの打通(レド公路)を許してしまいます。

一方、中部ビルマ方面では英印軍の攻勢に対し中部ビルマへの侵攻を拒止するため緬甸方面軍(木村兵太郎中将)により完作戰・盤作戰が発動されますが、損耗した緬甸方面軍隷下部隊は各地で苦戦します。
2月17日、英第4軍団がイラワジ河を渡河、中部ビルマ防衛の要地・メークテーラに侵攻したため、27日、聯隊は急遽メークテーラに転進、第四十九師團に復帰し市街地北方の三叉路付近に布陣、メークテーラの守備隊(第二野戰輸送司令官・粕谷留吉少将以下、第百七兵站病院・同入院患者、歩兵第十六聯隊の一部等主に後方部隊)と合流、重症患者、日赤看護婦、在留邦人を離脱させ英印軍の侵攻に備えます。

英印軍(戦車旅団、第48歩兵旅団、第63歩兵旅団)の砲爆撃を伴う攻撃に聯隊は火砲、肉迫攻撃で防戦、英印軍の侵攻を遅滞させ損害を与えますが、3月2日、戦車20両を伴う敵の攻撃に聯隊本部、第一大隊は大損害を受け、吉田聯隊長が散華(後任・中尾策郎大佐)、守備隊も逐次市中心部に圧迫されてしまいます。
2日、生存者は市街地東方・南方に転進し防戦に努めますが、3日、山砲兵第四十九聯隊第二大隊の火砲が全壊、大隊長・菊池大尉が散華、粕谷少将以下生存者は英印軍の間隙を縫って脱出、メークテーラを失陥してしまいます。

3月16日、緬甸方面軍はシャン高原の第三十三軍司令官・本多中将に第四十九師團を区処、第十八師團とともにメイクテーラ奪回を下命しますが、対戦車装備不足の両師團は英印軍の機械化部隊に対抗できず大損害を受けてしまいます。

28日、本多中将は両師團、第五十三師團をサジ、ライデン、ピヨペ北方、ヤナウンに布陣、英印軍の侵攻を拒止、第十五軍の転進援護にあたります。
4月1日、ラングーンに向かう英印軍正面にあった第四十九師團は軍命令によりヤメセンに転進します。
南方軍(寺内寿一大将)はビルマ戦線をロイカウ-トングー-ラングーンの線に南下させますが、英印軍の急進に、4月16日、緬甸方面軍司令部はラングーンからモールメンに転進、5月2日、ラングーンを失陥、緬甸方面軍隷下部隊はシッタン河以東に転進、聯隊は師團とともにシッタン河東岸で防御陣地構築中の8月23日、停戦を迎えます。


第三十一航空通信聯隊(帥五五一、中部第百十部隊)
昭和19(1944)年2月5日、第七航空通信聯隊(三重)において編成(野口重義中佐)、旧歩兵第七十聯隊兵営に移駐します。
聯隊は航空通信の教育部隊で、編制は本部・2個有線中隊・5個無線中隊・1個固定無線中隊(全て教育中隊)・材料廠で、1期当たり1,600名の修業兵を教育し、第一航空軍司令部(安田武雄中将、岐阜のち東京)に隷属しました。

6月30日、聯隊は第七航空通信聯隊とともに新編された第二航空教育團司令部(安達三朗少将、松坂)隷下に編入されます。

昭和20(1945)年6月、一部が大阪府高槻市において川崎航空機工業㈱の疎開工場建設に派遣されます。

3月31日、航空總軍司令部(川邊正三大将、東京)が編成、4月7日、航空總軍戦闘序列発令により第二航空教育團司令部は航空總軍隷下となります。

8月15日、『大東亜戦争終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月1日、復員完結します。


第十四航空通信聯隊(隼一八四八三)
昭和19(1944)年5月15日、『昭和十九年三月二十三日 軍令陸甲第三十四號』により編成下令、5月20日、第三十一航空通信聯隊内において第十四航空通信隊の編成完結(讃岐武二中佐)、第五航空軍(橋本秀信中将、南京)に隷属します。
5月22日、兵営を出発、23日、門司港を出航、6月9日、長江河口を航行、13日、浦口に上陸、19日、浦口を出発、21日、北京に到着し聯隊本部を設置、北支の各飛行場に展開し通信網を構築します。

昭和20(1945)年3月15日、『昭和二十年二月八日 軍令陸甲第二十四號』において第十四航空通信隊は第十四航空通信聯隊に編成改正され、昭和20(1945)年8月16日、停戦を迎え、25日、復員下令、11月16日、塘沽を出航、20日、佐世保に上陸し、復員完結します。


第二十一航空通信隊(誠一九一五九)
昭和20(1945)年2月8日、第三十一航空通信聯隊内において編成(小鷲武雄少佐)、第八飛行師團(山本健児中将、台北)に隷属します。
編成後、直ちに沖縄に前進、26日、那覇港に上陸し、昭和19(1944)年11月より沖縄に展開する第二航空通信聯隊第六中隊を編入、安里村に宿営します。

3月24日、天一號作戰発動により通信隊は第三十二軍(牛島滿中将)司令部のある首里に集結し通信所を開設、4月1日、戦艦10・巡洋艦9・駆逐艦23・砲艇177隻による援護射撃のもと米軍60,000名が嘉手納付近に上陸を開始、第一中隊(小泉軍曹以下80名)は第二十四師團(雨宮巽中将、山梨)の指揮下に、2日、篠永見習士官以下40名は第三十二軍の指揮下に入ります。
5月22日、第三十二軍司令部は摩文仁転進に伴い通信隊に摩文仁通信所の開設を下命、29日、隊は島尻地区へ転進を開始し真栄平に到着しますが、米軍の圧倒的な物量に全線に渡り我が軍の防御体勢が崩壊してしまいます。
6月22日、通信隊は全無線機を破壊、23日、牛島滿中将が自決、小鷲少佐は部隊を解散し遊撃戦に意向、各地で斬込みを敢行する中、9月2日、停戦を迎えます。


第三対空無線隊(天翔→隼一八九五一)
昭和19(1944)年8月10日、第三十一航空通信聯隊内において編成(澤村和男大尉)、第十飛行師團(吉田喜八郎少将、台北)に隷属します。
17日、宮城県名取郡館腰村に移駐、名取陸軍飛行場に本部を設置、原町・仙臺・能代・八戸・真室川各陸軍飛行場に1個分隊を展開します。
昭和20(1945)年1月14日、第五航空軍(下山琢磨中将、京城)隷下となり、16日、各飛行場を出発、2月2日、広東省広東市に移駐し、白雲に3個分隊・天河・丹竹・啓徳・南村・南雄・岑村・梧州各飛行場に1個分隊を展開、5月10日、六號演習参加のため広東を出発、6月19日、湖南省衡陽に移駐、湖潭・零陵・桂林・衡陽各飛行場に1個分隊を展開し無線網を構築、友軍機との通信・地上警備にあたるなか、8月16日、停戦を迎えます。
昭和21(1946)年4月26日、展開した各飛行場を出発、5月3日、上海に移駐し復員業務にあたり、18日、上海を出発、29日、佐世保に上陸し復員完結します。


第百六十一獨立整備隊(隼一九一六五)
昭和20(1945)年6月5日、第三十一航空通信聯隊内において臨時編成(西山淳直大尉)、20日、門司港に移動し、29日、門司港を出航、30日、釜山港に上陸、7月1日、木浦陸軍飛行場に到着し、第二十六野戰航空修理廠(森本秀一大佐、水原)の指揮下に入り、機材整備にあたるなか、8月16日、停戦を迎えます。
停戦により、第十六航空地区司令部(松本征夫大佐、錦城面)の指揮下に入り、10月10日、主力が仙崎港に上陸、11月5日、一部が博多港に上陸し、復員完結します。


第百六十二獨立整備隊(隼一九一六六)
昭和20(1945)年6月5日、第三十一航空通信聯隊内において臨時編成(土井春美大尉)、7日、篠山を出発、8日、門司港に到着し、9日、門司港を出航、10日、釜山港に上陸、11日、釜山を出発し、泗川陸軍飛行場に到着、機材整備を開始、9月2日、停戦を迎えます。
10月1日、釜山港に集結、5日、釜山港を出航、10月6日、仙崎港に上陸し、7日、復員完結します。


補充部隊
第一航空通信聯隊(昭和14年9月1日、編成)

第二航空通信聯隊(昭和14年9月1日、編成)

第三航空通信聯隊(昭和17年9月15日、編成)

第四航空通信聯隊(昭和17年3月31日、編成)

第五航空通信聯隊(昭和16年7月20日、編成)

第六航空通信聯隊(昭和16年7月20日、編成)

第八航空通信聯隊(昭和18年6月10日、編成)

第九航空通信聯隊(昭和18年8月31日、編成)

第十一航空通信聯隊(昭和18年11月29日、編成)

第十二航空通信聯隊(昭和19年5月27日、編成)

第十四航空通信聯隊(昭和20年3月15日、編成)

第十五航空通信聯隊(昭和18年11月30日、編成)

第十六航空通信聯隊(昭和20年2月28日、編成)

第二十三航空通信聯隊(昭和20年2月28日、編成)

第二十四航空通信聯隊(昭和20年4月5日、編成)


主要参考文献
『篠山町七十五年史』 (昭和30年 篠山町)

『兵庫郷土の篠山歩兵第七十聯隊史』 (昭和60年5月 広岡正蔵 フジクリエイト)

『歩兵第百七十聯隊 -兵隊の綴る戦記-』 (昭和60年8月 納富寿生 経済ハイライト)

『岡山県郷土部隊史』 (昭和41年 岡山県郷土部隊史刊行会)

『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『続 陸軍航空の鎮魂』 (昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『大日本帝國陸地測量部地形図 44 福知山及篠山近傍』

国土地理院 昭和22(1947)年11月3日 篠山町周辺の空撮(国土地理院 NI-53-14-14)

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Re: タイトルなし

はじめまして、こんにちは。
拙ブログをお読み頂き、ありがとうございます。

歩兵第七十聯隊は私も祖父が入営した事もあり、最も思い入れのある聯隊の一つです。
ただ、歴史の有る聯隊にも拘らず、残念ながら公式な聯隊史が無く、細かい事績については同じ第二十五師團に属した歩兵第十四(小倉)、第四十(鳥取)聯隊の聯隊史を参考にするしかありません。

祖父は写真好きだった様で、尉官昇進後はかなりの写真が遺っています。
人名が記されている物も数点あったので、貴方様のお名前を探してみましたが、残念ながら見つかりませんでした。
入営時期が違うのかも知れません。

>>「おじいさんの連隊でのポジションとどこで怪我をして傷痍軍人になったのかと、どういう経緯で金鵄勲章を受賞したのかを調べている」

との事ですが、簡単な軍歴(何年に入営、何年に昇進、何年に入院など)であれば調べる事は可能です。

歩兵第七十聯隊に入営しておられるのであれば、本籍地は兵庫県だと拝察しますが、「兵庫県庁健康福祉部社会福祉局社会援護課恩給係」に問い合わせて頂ければ、『軍歴簿』が入手可能です。
兵庫県は他県に比べ手続きが煩雑ですが、他県が職員の「写し」に対し、「原本の複写」が手に入ります。
拙ブログに入手方法を記述しているので参考までに。
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-19.html
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

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