当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

川崎重工業株式會社 泉州工場

大阪府岬町には川崎重工業株式會社 泉州工場がありました。
川重泉州工場  入口から奥(多奈川 岬町)
▲工場裏山に遺る地下壕

【探索日時】
平成24年1月31日






川崎重工業㈱ 泉州工場周辺
川崎重工業㈱ 泉州工場は大阪府泉南郡多奈川村、深日村(現、岬町)に跨る地域の臨海部、及び埋立地にありました。
現在は造船設備は全て破壊され関西電力の多奈川第二発電所、新日本工機になっています。

川重泉州工場  多奈川 国土地理院(22922)NI-53-15-15(多奈川 岬町)
▲昭和22(1947)年9月22日の多奈川周辺の空撮(国土地理院 NI-53-15-15

川重泉州工場  泉州工場(多奈川 岬町)
▲川崎重工業㈱ 泉州工場配置図(『川崎重工業株式会社社史 本史』より)

川重泉州工場  多奈川(公開)(多奈川 岬町)
▲現在の地図に遺構、上掲配置図を転写
①川崎重工業株式会社 泉州工場
②海軍工廠 予定地


川崎重工業㈱ 泉州工場の概要
海軍の艦船需要に対し、本社工場(神戸)だけでは対応が不可能になったため建設され、主に二等・三等潜水艦、海防艦の建造を行いました。
川重泉州工場  呂百九(多奈川 岬町)
▲二等潜水艦(呂號百型)

川重泉州工場  波百型(多奈川 岬町)
▲三等潜水艦(波百型)
 波號は起工のみで未成でした。

川重泉州工場  第八號海防艦(丁型)(多奈川 岬町)
▲丁型海防艦


遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構など、上掲地図参照)
① 川崎重工業株式會社 泉州工場
川重泉州工場  多奈川(公開) 隧道(多奈川 岬町)
▲地下壕配置
 ※斜線部分は崩落(通行可)、緑線はフェンス

ア 地下壕
小山の南側から掘削された長さ150m程の直線の地下壕で、貫通はしていません。
壕口は幅2.5×高さ3m程で、30m地点、90m地点で若干崩落が見られます。
川重泉州工場  ア壕口(多奈川 岬町)
▲壕口
 道路脇にあります。

川重泉州工場  Aから入口(多奈川 岬町)
▲30m(A)付近から壕口

川重泉州工場  A(支保工)を奥から(多奈川 岬町)
▲A付近の崩落
 支保工の残骸が遺ります。

川重泉州工場  Bを奥から(多奈川 岬町)
▲B付近の崩落

川重泉州工場  堰板(多奈川 岬町)
▲壕床に散乱する堰板と思しき板材

川重泉州工場  突き当り(多奈川 岬町)
▲切羽付近

川重泉州工場  突き当りから入口方向(多奈川 岬町)
▲切羽付近から壕口方向
 直線の壕なので壕口の光が僅かに見えます。

当時は北側からも掘削されており、北側斜面に崩落跡があるようですが、火力発電所になっており探索していません。

この地下壕については「工場建設資材運搬用の隧道」や「地下疎開工場」、「基地回天隊の格納壕」との説がある様ですが、回天の格納壕にしては造船所の背後にある立地や長過ぎる事から可能性は低い様に思います。
当時、建設資材は工場北西の谷川港に揚陸され、軽便軌条により運搬、工場背後の山を迂回するように駄馬で運搬されていた様ですが、大量の資材を迅速かつ安全に運搬する様に、この地下壕が掘削されたと考えるのが妥当な様です。
ただ、下記の地下壕が隣接してある事から、地下疎開工場、もしくは地下倉庫の可能性もあります。


イ 地下壕
上記ア地下壕の南東30m程の斜面にあります。
アと違い入口から20m程はコンクリートの巻立てが施工されていますが、その奥の素掘り部分は崩落して完全に埋まっています。
川重泉州工場  イ壕口(多奈川 岬町)
▲壕口

川重泉州工場  イ内部(多奈川 岬町)
▲壕内
 コンクリート巻立てが施工されていますが、その先は崩落で塞がっています。


ウ 建物基礎
地下壕のすぐ横にあります。
戦後の空撮には小屋が2棟程写っていますが、当時の物か不明です。
川重泉州工場  ウ建物基礎(多奈川 岬町)


② 海軍工廠用地(未成)
エ コンクリート製構造物
駐車場から海岸に抜ける小道を進み、途中から斜面側に登った場所にあります。
せっかくなので火力発電所でも見て帰ろうと思い、ただ舗装された道を歩くのもつまらないので、適当に道から外れた場所を歩いていて偶然発見しました。
川重泉州工場  エ コンクリート構造物 (2)(多奈川 岬町)
▲正面から見たコンクリート構造物

コンクリートの質や築造方法から当時の物と思われ、特火点(トーチカ)の様にも見えますが掩蓋が無く、上の開いた箱型をしています。
この場所から大阪湾が一望できますが、形状から対空施設(高角砲台、機銃座)でも無さそうなので、何かの監視所かも知れませんが、詳細は不明です。
川重泉州工場  エ コンクリート構造物 (3)(多奈川 岬町)
▲側面は斜面に積んだ石垣をコンクリートで固めているのが分かります。

川重泉州工場  エ コンクリート構造物(多奈川 岬町)
▲上から
 掩蓋は無く、水槽の様な形状です。


建物基礎
付近のとある場所に飯場跡と言われる、大規模な建物基礎が遺されており、地権者の方に見学の許可を頂き踏査しました。
地権者の方がこの土地を購入した際は既に建物は無く、基礎だけだったそうです。

基礎は全て煉瓦の立上がりかコンクリートの布基礎で、井戸が3ヶ所の他、便所棟もあり、かなりしっかりした建物が建っていた様です。
飯場にしてはしっかりした建物なので、場所からして呉海軍施設部関連の建物の様に思います。

この建物基礎ですが、以前見学に来た団体に畑を踏み荒らされた事から、場所の明記並びに写真掲載はして欲しく無いとの要望でしたので発表はしません。
当地の遺構について書かれた書籍等にだいたいの場所は書かれていますが、行かれる方は私有地である事を注意し、地権者の方が不在の場合は上記の理由から入らない事、及び写真の発表は控える事をお願いします。


多奈川駅
川崎重工業・海軍工廠への従業員、工員、資材運搬のため、昭和19(1944)年5月31日、延伸工事が完了、6月1日、多奈川駅が営業を開始します。
川重泉州工場  多奈川駅(多奈川 岬町)
▲多奈川駅
 小さい駅にも拘わらず駅前に大きな広場があります。


川崎重工業株式會社 泉州工場、海軍工廠用地 略史
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、事変の進展に伴い川崎重工業は艦船の受注が急造、本社工場(神戸)は拡張の余地が無く対応が困難なため、工場新設用地の選定を考察していたところ、間島健三郎工学博士より「大阪府泉南郡多奈川村、深日村一帯の臨海部が深海、且つ地盤が強固で造船所建設に適している」との推薦を受けます。

昭和13(1938)年5月、大阪府泉南郡多奈川村、深日村一帯の調査を実施、阪神地区における大型船渠を必要としていた海軍の賛意を得て同地に新工場・船渠の建設を決定します。

昭和14(1939)年4月、呉海軍建築部の斡旋により工場用地85,599坪(282,972㎡)の買収を開始します。

昭和15(1940)年3月、鐵道省より南海電氣鐵道株式会社に川崎重工業・海軍工廠への従業員、工員、資材運搬のための鉄道延伸許可が降ります。

12月、工場用地の買収が完了し、東側の大半に川崎重工業泉州工場、西側の一部に海軍工廠が設置(着工前に中止され、川重第三船渠を海軍が構築)される事が決定します。
しかし、小田平、東地区の民家190戸の移転を伴う用地買収は紛糾が生じたため、円満解決には長時間を要す事となり、全戸移転は昭和17(1942)年4月までかかります。

昭和16(1941)年5月、民家移転交渉と平行し工場用地臨海部82,800坪(273,720㎡)の埋め立てと、同時に買収地に工場、埋立地に船台・船渠・艤装岸壁の建設が開始され、特に潜水艦の需要に応えるため船台の建設を優先します。
建設工事は川重側は飛鳥組を中心に和歌山の原庄組・淺川組、星野組、朝鮮の金丸組が請負、労務者が中心となり施工、海軍工廠側は呉海軍建築部(昭和18年8月18日、呉海軍施設部に改称)指揮の下、同じく飛鳥組が請負、囚人が中心となり米軍捕虜等が施工にあたりました。

昭和17(1942)年1月、南海・南淡輪駅付近の線路の付け替え工事を伴う鉄道延伸工事が、労務者が中心となり付近の勤労奉仕隊の協力を得て開始されます。

6月20日、船台の竣工とともに呂號第百十二潜水艦、7月、呂號第百十三、第百十四潜水艦、10月、呂號第百十五、第百十六潜水艦を起工します(艤装岸壁が未完成のため、本社工場に回航し艤装のうえ海軍に引渡し)。

10月28日、川崎重工業㈱ 泉州工場の開所式が挙行され、引き続き計画に沿って造船設備の建設が行われます。

昭和18(1943)年2月、艦政本部(岩村清一中将)より、昭和20(1945)年3月末日までに大型潜水艦年間10隻建造を可能とする第二次設備拡張計画が示達されますが、設備拡張には多額の資金が必要になるため、7月、既設・計画の全設備を官設とし、運営を川重に委託する様に請願、昭和19(1944)年2月、請願が受理され建設総額の半額を政府が出資する事となります。
しかし、逼迫する戦局に艦政本部は計画を変更、工場建設を必要最小限に圧縮する事を示達、最終的に生産設備・敷地を官設、事務所・福利厚生施設に関する建物・土地・備品類を川重が出資し建設を続行、経営は川重に委託する事が決定します。

昭和19(1944)年5月31日、鉄道の延伸が完了、6月1日、多奈川駅が営業を開始します。

8月、台風により桟橋、船台、護岸が損傷する等の大損害を受けてしまいます。

昭和20(1945)年1月、呉海軍施設部により施工されていた第三船渠が完成し、川重に貸与されます。

7月25日、艦載機50機による空襲で大被害を受けてしまい、復旧と工場建設、艦艇生産を急ぐ中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、停戦を迎えました。

9月、應徴士・學校報國隊・女子挺身隊の勤労が解除・解散、社員・工員の整理縮減、自発退職者の対応を行い、造船部は南海・近鉄等の戦災電車修理、造機部は農耕具・家庭用品の製造、製塩を開始します。

昭和21(1946)年6月、大蔵省に工場内の官設部分の使用認可を申請、12月、使用許可が降り、昭和22(1947)年、9月、第三十七號海防艦、停戦により建造中止となった潜水艦の解体に着手、復員局の船舶修理、漁船、捕鯨船、貨物船、貨客船等の建造・修理を開始します。

昭和23(1948)年、川重、深日町、南海電鉄の共同出資により、工場内の船溜りを改修、深日港を構築、関西汽船の深日-洲本定期航路が開通します。

昭和24(1949)年4月21日、全工場設備が川重に払い下げられますが、6月30日、企業経営の観点から泉州工場は閉鎖され、建物・機械類は多奈川町・深日町へ譲渡・寄付、分譲されました。


停戦時の川崎重工業㈱ 泉州工場 要目
◯従業員数:6,800名(社員・工員2,100名、應徴士・學校報國隊・女子挺身隊4,700名)

◯官設施設
・土地:168,399坪(買収地:85,599坪、埋立地:82,800坪)
・船台:第一船台 177×8m 許容能力5,000t 鉄筋コンクリート造 完成
    第二船台 150×8m 許容能力5,000t 鉄筋コンクリート造 完成
    第三船台 150×8m 許容能力5,000t 鉄筋コンクリート造 完成
    第四船台 215×14m 許容能力9,000t 鉄筋コンクリート造 完成
    平船台A 140×14m         鉄筋コンクリート造 未完成
    平船台B 140×14m         鉄筋コンクリート造 未完成
    平船台C 140×14m         鉄筋コンクリート造 未完成

・建物 
事務所・倉庫等:19棟 4,247坪
泉州青年學校 :5棟 1,461坪
泉州病院   :1棟 1,499坪
診療所    :3棟 257坪
厚生施設   :68棟 10,073坪
社宅     :635戸

・機械設備
工作機械:62
木工〃 :10
電機〃 :42
運搬〃 :3
その他 :113

◯建造実績
・呂號潜水艦 :6隻(呂號第百十二~百十七潜水艦)
・丁型海防艦 :6隻(第三十八・百十二・百十八・百二十二・百二十四・百三十號海防艦)

・伊號潜水艦 :3隻 未成(艦名不詳)
・波號潜水艦 :8隻 未成(波號第百一~百二、百五、百六、百八、百十一、百十二潜水艦)


主要参考文献
『川崎重工業株式会社社史 本史』(昭和34年 川崎重工業株式会社社史編さん室)

・平成2年10月15日、毎日新聞 夕刊

・国土地理院 空撮(昭和22年9月22日 NI-53-15-15)

・Yahoo!地図
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非公開コメント

お疲れ様でした。
まだ 残っていたんですね。

私の子供の時には遺構らしきものを目にしたりしていましたが 住宅開発等で取り壊され住宅ばかりになっております。

これから暑い時期は気をつけてください

Re: タイトルなし

奥山様、こんばんは。
お気遣いありがとうございます。

停戦から70年近く経っているので、当時の遺構は自治体などが遺す気が無ければアッと言う間に破壊されてしまいますね。
貴重な遺構が住宅地になってしまうのは寂しいです。

我が大阪でも最近、貴重な高射砲座が破壊されて分譲住宅になってしまいました。

ご無沙汰しております。

良識の無い見学者の行動は許せませんね。
軍の遺構は文化財などにはならないのでしょうか?

私は先日、空自の行事の一環で回天記念館と発射基地跡(徳山市大津島)へ行ってきました。
せっかくですので、回天の研究をしようかと思い始めたところです。

Re: タイトルなし

甲斐菊陽さん、こんにちは。
こちらこそご無沙汰致しております。
ブログの更新が暫く空いてらしたので、お忙しいと拝察致しておりました。

本文では伏せてありますが、公共施設の所謂「平和学習」の一団に踏み荒らされたと憤ってらっしゃいました。
ただ、他の場所でも許可無く入り込む見学者の話は良く聞く(余りにも酷いので全面立入禁止になった場所もあります)ので、同好者としては気を付けなくてはならないところです。

軍の遺構の保存については偏に自治体の姿勢にあります。
熱心な自治体とそうでない自治体は一目瞭然です。
昨今、漸く「近代化遺産」として近代の遺構が保存される傾向が見られますが、せいぜい明治、大正期の建物などが主で、昭和期の物となると僅少、また「軍」となるとイデオロギー的な反応を示す自治体も少なくなく、まだまだ難しいのが現状です。

大津島基地、行かれましたか!
私も5年ほど前に行きましたが、4ヶ所(大津島、平生、光、大神)の訓練基地の中では最も多くの遺構が遺っており訓練基地の形態が良くわかり見応えありますね。
魚雷試射場に立つと、悠久の大義に殉じた黒木、仁科両少佐を始め烈士の誠心が伝わってくる様で感慨深いものがありました。

ただ、あそこの記念館も管理が回天顕彰会から周南市教委に替わり、「回天顕彰」「英霊顕彰」という方針から「過去を振り返るのではなく、回天という歴史的事件を現在の日本のために生かす」として左傾化では無いものの改悪され多くの展示品が撤去(坂のふもとの無料休憩所に一部移された様ですが)されたのが残念です。

第六艦隊麾下の水上回天隊は比較的史料が多いのですが、沿岸部に配置された基地回天隊は出撃する機会が無かった事もあり、史料が少ないのでぜひ研究してみて下さい!
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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