当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

京都飛行場(京都航空機乗員養成所) ・ 大刀洗陸軍飛行學校 京都教育隊

京都府久世郡久御山町には京都飛行場及び京都航空機乗員養成所大刀洗陸軍飛行學校 京都教育隊がありました。
京都陸軍飛行場 A 退避壕 北東から(京都府久御山)
▲民家に遺るコンクリート製横穴式の耐弾待機所

【探索日時】
平成20年10月5日、平成24年2月8日、平成25年1月23日





京都飛行場は資料によっては久御山飛行場御牧飛行場の名称が使用されている様です。

京都飛行場の場所
京都飛行場は京都府久世郡佐山村・同御牧村(現、久御山町)に設定され、隣接して東側の小倉村・大久保村(現、宇治市大久保町、広野町、伊勢田町)に日本國際航空工業㈱ 京都製作所がありました。
京都陸軍飛行場 2166(京都府久御山)
▲昭和21(1946)年6月6日の京都飛行場周辺の空撮(国土地理院 NI-53-14-3

日本国際航空工業(株)・京都陸軍飛行場(京都府久御山)
▲現在の地図に施設を転写(誘導路は推定)
※緑文字が当記事の紹介施設
京都飛行場
※紫部分が京都航空機乗員養成所大刀洗陸軍飛行學校 京都教育隊
②日本國際航空工業㈱ 京都製作所
③第一社宅
④第二社宅


要目
・用地:1,612,000㎡(320,000坪)
・建物:63,308㎡
・滑走路:1,000,000㎡(転圧1,500×400m、1,600×300m)
・誘導路:不明
・掩体壕:不明


飛行場の概要※青字は地図にリンクしています。
(番号・遺構配置は上掲地図参照)
① 京都飛行場
昭和14(1939)年、逓信省は支那事變が長期化するなか、航空戦力の増強を図るため全国5ヶ所に国営航空機乗員養成所と付属飛行場の設置を計画します。
この計画を知った京都市、京都航空協會、京都商工會議所は将来の京都市発展の基盤と位置付け、昭和14(1939)年2月16日、航空局に養成所・飛行場の設置を強く申請し、適当な用地を確保する事で認可を受けます。

昭和15(1940)年1月、京都府は「新興都市計画」の中核として國際工業(國際航空工業の前身)の誘致に成功します。

2月26日、縄張りが開始され、3月、用地買収(工場・格納庫・飛行場用地は國際工業、航空機乗員養成所・飛行場用地は京都府)を実施、4月16日、京都府主催の起工式が大久保尋常高等小學校で挙行、飛行場建設、工場建設工事が開始されます。

飛行場建設は京都飛行場建設事務所(西村隆雄技師)の指揮のもと、募集に応じた労務者約2,000名が作業にあたり、軽便機関車27両、運搬貨車600台が使用されました。

昭和17(1942)年4月、飛行場・養成所建設がほぼ完了、21日、陸軍系の逓信省航空局 京都航空機乗員養成所が開所(藤野市之焏大佐)します。

飛行場の設置当初の計画として①航空機乗員養成所の練習場、②日本國際航空工業の試験飛行場、③近畿(特に京都)の防空飛行場、④平時の旅客飛行場、⑤大阪の国際飛行場の不時着場、特に最初の3点を重点として設定されます。

昭和19(1944)年4月1日、大刀洗陸軍飛行學校 京都教育隊が養成所内に開隊(柴田勇治少佐、養成所長兼務)、教育中の第十四期操縦生は航空局委託操縦生となり、7月に卒業、8月26日、逼迫する戦局に伴い京都航空機乗員養成所は閉鎖され、飛行場は陸軍に移管(所有者は逓信省)されます。

昭和20(1945)年2月20日、大刀洗陸軍飛行學校は第八練習飛行隊に、京都教育隊は第七練習飛行隊に改編(高梨辰雄中佐)され、8月16日、停戦を迎えました。

停戦後、兵舎・飛行場は連合国軍の接収を経て、逓信省と大蔵省大阪財務局の所管となり、兵舎地区に逓信省は電気通信職員訓練所「淀学園」、御牧村は大蔵省から土地・建物を借用し淀・御牧・佐山の事務組合立淀中学校を設立(昭和23年12月、大蔵省より払い下げ)、飛行場地区は工業用地に転用されます。

昭和27(1952)年10月、淀学園跡に淀逓信病院(結核療養所)が開設したため、衛生面及び教育施設充足のため淀中学校は移転、跡地は日本電信電話公社に売却、その後、淀逓信病院は南区に移転、建物は全て破壊され総合運動場、飛行場は民間企業工場になり現在に至ります。


遺構について※青字は地図にリンクしています。
耐弾待機所
コンクリート製の横穴壕が畑から丘状になった民家の斜面にかけて掘削されています。
京都陸軍飛行場 A 退避壕 北東から(京都府久御山)
▲耐弾待機所前面の近影

所有者の方の話では大刀洗陸軍飛行學校京都教育隊が開隊した後、通信班がご自宅を間借して通信機、電鍵を使用して交信していたそうです。
その後、本土空襲の激化に伴い、このコンクリート製の待機所が労務者により築造されたそうです。
京都陸軍飛行場 A 退避壕 入口(京都府久御山)
▲入口
 若干埋まっていますが、充分入れます。

京都陸軍飛行場 A 退避壕 入口から (3)(京都府久御山)
▲入口から内部
 天井には石灰質のツララが数本ぶら下がっています。

京都陸軍飛行場 A 退避壕 内部から(京都府久御山)
▲内部から入口
 側面は板で型枠を取った様ですが、天井付近は布?紙?で型枠を取った様で無数のシワがあります。

寸法は間口が幅127×150cm、内部は幅250×奥行450cm、前面のコンクリート厚は97cmあります。
なお、陸軍では防空壕を「待機所」と称していた様です。

※私有地にあり、所有者の方も危険防止のため板とカゴで隠してあるので場所は伏せさせて頂きます。


B 排水暗渠
滑走路脇にあったコンクリート製の排水暗渠が畑の中に27m遺されています。
京都陸軍飛行場 暗渠 南東から (2)(京都府久御山)
▲暗渠右側が滑走路

京都陸軍飛行場 暗渠 南東から(京都府久御山)
▲暗渠には内部清掃用?の蓋が付いています。


ア 記念碑 逓信省航空局京都航空機乗員養成所
飛行場跡にある久御山中央公園にあります。
昭和53(1978)年4月、京都航空機乗員養成所関係者一同により建立されました。
京都陸軍飛行場 ア 逓信省京都航空機乗員養成所記念碑 (2)(京都府久御山)


京都陸軍飛行場 飛行場排水溝跡を利用したと思われる用水路 飛行場西端(京都府久御山)
▲飛行場外周の水路
 当時の排水溝を用水路に転用したと思われます。


-掩体壕-
京都飛行場の周辺は遮蔽物が少なく、飛行機を敵機の空襲から護るため近隣の國民少學校生の協力で飛行場北側の山崎、西側の八幡、南東の宇治田原の山麓に退避させました。
また、飛行場から宇治田原までの沿道にある古墳、丘陵地、薮地を利用し、土製の無蓋掩体壕が築造されました。
京都陸軍飛行場 京都掩体壕(京都府久御山)
▲掩体壕の位置を現在の地図に転写

京都陸軍飛行場 掩体壕 久津川車塚古墳 説明 (2)(京都府久御山)
▲車塚古墳実測図を加工
 (緑:掩体壕、赤:散兵壕、散兵壕は一部しか記入されていません)

⑪ 車塚古墳 掩体壕
飛行場の南東3km、久津川車塚古墳の西側裾部に4基の小型の土製掩体壕が、掩体壕背後の斜面には急造の対空陣地と思われる個人用散兵壕が築造されています。
以前は一面竹で覆われていましたが、近年古墳保存会の方が整備して見学しやすくなっています。
ただ、飽くまで古墳の整備なので、掩体壕内の樹木は放置、もしくは間伐材等が積まれてしまい見通しが良くありません。

A 掩体壕
開口部12m、奥行10m程あり、京都飛行場で運用されていた九五式練習機(幅10mx全長7.5m)が丁度収まる大きさです。
京都陸軍飛行場 掩体壕 A 南東から(京都府久御山)
▲掩体壕の上部右上から(写真左側が開口部)

当地の掩体壕は古墳裾部を四角く掘り込み、掩体壕前面両側に土堤を突き出す様に馬蹄形に築造し工期短縮を図っていた様です。


B 掩体壕
南側の前面土堤が破壊され、半壊状態ですが、寸法は他の掩体壕と同等の様です。
京都陸軍飛行場 掩体壕 B 北側土堤 北西から(京都府久御山)
▲北側の残存土堤を外側から


C 掩体壕
他の掩体壕よりやや大きく、開口部が14m、奥行が12m程あり、保存状態が最も良いです。
京都陸軍飛行場 掩体壕 C 北西から(京都府久御山)
▲正面から
 内部は竹が生え、間伐材が積まれていますが、形状がハッキリ見て取れます。

京都陸軍飛行場 掩体壕 C 北東から (2)(京都府久御山)
▲掩体壕の上部左上から内部


D 掩体壕
A・Bとほぼ同等の規格です。
京都陸軍飛行場 掩体壕 D 北西から(京都府久御山)
▲正面から
 見通しが悪く、辛うじて掘り込んだ形跡が見えます。

京都陸軍飛行場 掩体壕 D 北東から (2)(京都府久御山)
▲上部左上から


a 個人用散兵壕
『続・陸軍航空の鎮魂』に掲載されている、金丸原陸軍飛行場(栃木)での体験談に登場する急造の対空機関砲(銃)陣地(直径1.8m×深さ1.8m、もしくはそれに関連する施設)と同様の物と思われ、陸軍飛行場の掩体壕付近でたまに目にする遺構です。
京都陸軍飛行場 掩体壕 a 孔(京都府久御山)
▲直径2.5m程で、殆ど埋まっています。


b 個人用散兵壕
京都陸軍飛行場 掩体壕 b 孔 (3)(京都府久御山)
▲直径1.5m、深さ0.8m程あり、銃座と思われます。


c 個人用散兵壕
京都陸軍飛行場 掩体壕 c 孔(京都府久御山)
▲幅2mx奥行1m程の方形の竪穴で、bと同じ線にあります。


d 個人用散兵壕
京都陸軍飛行場 掩体壕 d 孔 (2)(京都府久御山)
▲bと同じ規格で、b・cと同じ線にあります。


e 個人用散兵壕
京都陸軍飛行場 掩体壕 e 孔(京都府久御山)
▲直径1.5m程で、殆ど埋まっています。


f 個人用散兵壕
京都陸軍飛行場 掩体壕 f 孔(京都府久御山)
▲直径4m程で、殆ど埋まっています。

a・e・fは古墳の頂部付近にある事から指揮所か観測所、b・c・dが銃座では無いでしょうか。


 久世神社 掩体壕
車塚古墳の南側500mにある久世神社が鎮座する丘陵に7基(昭和21年の空撮より推定)の小型の土製掩体壕が築造されていましたが、戦後の造成により東側の3基は完全に滅失してしまっています。
京都陸軍飛行場 掩体壕 久世神社(京都府久御山)
▲昭和23(1948)年3月30日の久世神社周辺の空撮

京都陸軍飛行場 掩体壕 久世廃寺 説明(京都府久御山)
▲久世廃寺(久世神社境内に存在した寺院)の実測図を加工
 (緑:現存F・G、黄:殆ど滅失のH)

E 掩体壕
久世神社の現存掩体壕中最大の開口部14m×奥行16mで、保存状態も良好です。
京都陸軍飛行場 掩体壕 E 北西から (4)(京都府久御山)
▲内部中央から掩体壕の奥

車塚古墳の掩体壕同様に斜面を掘り込み、前面両側に土堤を突き出した馬蹄形です。


F 掩体壕
内部北側が崩落しており開口部10m×奥行8mしかありませんが、本来は他の掩体壕と同等の規格だったと思われます。
京都陸軍飛行場 掩体壕 F 南西から(南側土堤)(京都府久御山)
▲左前方から
 中央の樹木が生えている場所が掩体壕内部(左に向かって開口)


G 掩体壕
京都陸軍飛行場 掩体壕 G 南東から (3)(京都府久御山)
▲正面から

京都陸軍飛行場 掩体壕 G 北東から (2)(京都府久御山)
▲上部中央から内部
 開口部9m×奥行10mあり、保存状態も良好で綺麗な馬蹄形をしています。

京都陸軍飛行場 掩体壕 G 南東からと誘導路 (2)(京都府久御山)
▲掩体壕Gから丘陵に沿って北に誘導路跡と思しき平な道が続きます。


g 個人用散兵壕
京都陸軍飛行場 掩体壕 g 孔(京都府久御山)
▲G掩体壕の背後の斜面にあり、殆ど埋まっています。


H 掩体壕
神社境内の改修時に均されてしまい、殆ど痕跡がありません。
それらしい窪地が何となくある程度です。
京都陸軍飛行場 掩体壕 H 西側の窪地(京都府久御山)


I 掩体壕
造成により完全に滅失してしまいました。

J 掩体壕
造成により完全に滅失してしまいました。

K 掩体壕
造成により完全に滅失してしまい、駐車場になってしまいました。


⑬ 待避所
昭和21(1946)年の空撮、証言によると城陽市役所南側の寺田に何らかの退避施設があった様ですが、現在は造成されてしまい完全に滅失してしまいました。
京都陸軍飛行場 掩体壕 寺田(京都府久御山)
▲昭和23(1948)年3月30日の寺田周辺の空撮


展開部隊
逓信省航空局 京都航空機乗員養成所
昭和14(1939)年、逓信省は昭和12(1937)年7月7日に発生した北支事變(8月15日、支那事變と改称)が長期化するなか、航空戦力の増強を図るため常時航空機の搭乗員を養成し民間に置き、有事に際して即戦力となすべく、全国5ヶ所に国営航空機乗員養成所と付属飛行場の設置を計画、昭和15(1940)年、5,000万円の予算を計上します。
この計画を知った京都市、京都航空協會、京都商工會議所は将来の京都市発展の基盤と位置付け、昭和14(1939)年2月8日、京都府の了承を得て、16日、航空局に養成所・飛行場の設置を強く申請し、適当な用地を確保する事で認可を受けます。

昭和15(1940)年1月24日、京都府・赤松小寅知事は佐古尋常高等小學校に関係村民600名を集め、航空機乗員養成所・飛行場、「新興都市計画」(洛南工業化計画)の中核として誘致に成功した國際工業㈱の製作所を建設する事を発表します。

当初、飛行場は巨椋池干拓田に予定していましたが、旧漁業従事者との契約により理解を得るのが困難なため、干拓伝に隣接する久世郡佐山村・同御牧村に決定します。

昭和15(1940)年2月26日、縄張りが行われ、3月、用地買収(工場・格納庫・飛行場用地は國際工業、航空機乗員養成所・飛行場用地は京都府)が実施され、4月16日、京都府主催の起工式が大久保尋常高等小學校で挙行、飛行場・航空機乗員養成所・工場建設工事が開始されます。

昭和17(1942)年4月21日、逓信省航空局 京都航空機乗員養成所(63,308㎡)が開所、初代所長に前阪神飛行學校長・佐藤市之焏大佐、助教官に久御山の退役下士官が就任、第二期本科生80名(一部新潟に転属、替わって岡山から配属)、第四期本科生58名が入所します。
10月、第十二期操縦生50名、昭和18(1943)年4月、第五期本科生70名、第十三期操縦生53名が入所、9月、第十二期操縦生が卒業、10月、第十四期操縦生が入所、昭和19(1944)年3月、第十三期操縦生が卒業、第十四期操縦生は都城に、第二期本科生は米子に転属します。

昭和19(1944)年4月1日、京都航空機乗員養成所内に大刀洗陸軍飛行學校 京都教育隊が開隊、藤野大佐は松戸高等乗員養成所に移動、柴田勇治少佐が養成所長と教育隊長を兼務します。

4月、第五期本科生が入所しますが、逼迫する戦局に鑑み、8月26日、京都航空機乗員養成所は閉鎖、京都飛行場は陸軍に移管、第五期本科生は印旛に転属、整備科職員は軍属として引き続き整備にあたります。


大刀洗陸軍飛行學校 京都教育隊
第七練習飛行隊
(空五〇一)
昭和19(1944)年4月1日、逓信省航空局 京都航空機乗員養成所内に大刀洗陸軍飛行學校 京都教育隊が開隊(柴田勇治少佐、養成所長兼務)、九五式一型練習機による少年飛行兵の戦闘分科教育を開始します。

昭和20(1945)年2月20日、大刀洗陸軍飛行學校が第八練習飛行隊(中村修三中佐)に改編されたのに伴い、京都教育隊は第七練習飛行隊に(高梨辰雄中佐)改編され、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に隷属します。
飛行隊は九五式一型練習機、二式高等練習機、四式高等練習機により操縦準備教育・基本操縦教育訓練を実施、5月、特別攻撃隊(第三百七十一、三百七十二、三百七十三、三百七十四、三百七十八、三百八十、三百八十六、三百八十七、三百八十八振武隊)を編成、北伊勢・鳥取・新潟各飛行場・陸軍飛行場に移駐し特攻訓練を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月3日、第七練習飛行隊は復員完結します。


-特別攻撃隊-
第三百四十七振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第一教育飛行隊(加古川)において編成(兵丹石啓介少尉以下6名、九五練)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり京都飛行場-加古川陸軍飛行場-北伊勢陸軍飛行場-加古川陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百四十八振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第一教育飛行隊(加古川)において編成(上原久義少尉以下6名、九五練)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり京都飛行場-加古川陸軍飛行場-北伊勢陸軍飛行場-加古川陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百五十三振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第四十教育飛行隊(各務原)において編成(田代芳明少尉以下6名、九五練)、第一航空軍(安田武雄中将)隷下となり京都飛行場-米子飛行場に移駐し錬成、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり曽根陸軍飛行場に前進、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百五十四振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第四十教育飛行隊(各務原)において編成(中川和人少尉以下6名、九五練)、第一航空軍(安田武雄中将)隷下となり京都飛行場-米子飛行場に移駐し錬成、7月26日、第六航空軍隷下(菅原道大中将)となり曽根陸軍飛行場に前進、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百五十五振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第四十教育飛行隊(各務原)において編成(佐藤敬文少尉以下6名、九五練)、第一航空軍(安田武雄中将)隷下となり京都飛行場-米子飛行場に移駐し錬成、7月26日、第六航空軍隷下(菅原道大中将)となり曽根陸軍飛行場に前進、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百五十六振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第四十教育飛行隊(各務原)において編成(山口富生少尉以下6名、九五練)、第一航空軍(安田武雄中将)隷下となり京都飛行場-米子飛行場に移駐し錬成、7月26日、第六航空軍隷下(菅原道大中将)となり曽根陸軍飛行場に前進、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百七十一振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(桑原英夫少尉以下6名、九五練)、京都飛行場-北伊勢陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百七十二振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(高田少尉以下6名、九五練)、京都飛行場-北伊勢陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百七十三振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(鶴末雄少尉以下6名、九五練)、京都飛行場-北伊勢陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。

第三百七十四振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(廣瀬鐵雄少尉以下6名、九五練)、京都飛行場-北伊勢陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百七十八振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(6名、九五練)、京都飛行場-北伊勢陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百八十振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(6名、九五練)、京都飛行場-北伊勢陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百八十五振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第三練習飛行隊(仙台)において編成(八谷貢少尉以下6名、九五練)、京都飛行場-鳥取飛行場-大阪陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百八十六振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(今和泉義雄少尉以下6名、九五練)、京都飛行場-鳥取飛行場-新潟飛行場-大阪陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百八十七振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(高橋勝少尉以下6名、九五練)、京都飛行場-鳥取飛行場-新潟飛行場-大阪陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百八十八振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團隷下第七練習飛行隊(京都)において編成(横山理少尉以下6名、九五練)、京都飛行場-鳥取飛行場-新潟飛行場-大阪陸軍飛行場に移駐し錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。


主要参考文献
『久御山町史 第二巻』(平成1年10月 久御山町)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』(平成5年4月 航空碑奉賛会)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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