当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

日本國際航空工業株式會社 京都製作所

京都府宇治市大久保町から隣接する久世郡久御山町には日本國際航空工業株式會社 京都製作所がありました。
日本國際航空工業㈱京都製作所 あ 北西から(京都府宇治市)
▲寄宿舎地区 総合事務所

【探索日時】
平成25年5月26日





日本國際航空工業㈱ 京都製作所周辺
日本國際航空工業㈱ 京都製作所は京都府久世郡大久保村、佐山村、小倉村(現、宇治市大久保町、広野町、伊勢田町、久御山町)に建設され、隣接する佐山村、御牧村(現、久御山町)に試験飛行場(兼逓信省航空機乗員養成所練習飛行場、のち京都飛行場)、伊勢田村(現、宇治市開町)に第一社宅、宇治町神明(現、宇治市神明)に第二社宅がありました。
日本國際航空工業㈱京都製作所 (昭和20年4月29日)(京都府宇治市)
▲日本國際航空工業㈱京都製作所(昭和20年4月29日、米軍戦略爆撃調査団による空撮)

日本国際航空工業(株)・京都陸軍飛行場(京都府久御山)
▲現在の地図

※緑文字が当記事の紹介施設
①京都飛行場
日本國際航空工業㈱ 京都製作所
第一社宅
第二社宅



日本國際航空工業㈱ 京都製作所の概要
設立当初の計画では37万坪の敷地に試作工場3、機体工場1、発動機工場、工員養成工場を持つ大工場を予定していましたが、戦局の悪化に伴い計画を大幅に縮小、各地の遊休工場を利用し分工場を設立し生産にあたりました。
日本國際航空工業は陸軍専用の製造会社で、京都製作所では二式小型滑空機、キ一〇五試作輸送機、三式指揮連絡機、一〇〇式輸送機、四式基本練習機の製造を行いました。
略称は「日國(にっこく)」。
日本國際航空工業㈱社章(京都府宇治市)
▲日本國際航空工業㈱ 社章


遺構について※青字は地図にリンクしています。
(番号・遺構配置は上掲地図参照)
② 日本國際航空工業㈱ 京都製作所
あ 事務所棟
陸上自衛隊・大久保駐屯地内に寄宿舎地区(寄宿舎・養成工場・青年學校・病院)の総合事務所棟が完存しています。
日本國際航空工業㈱京都製作所 あ 南西から(京都府宇治市)
▲母屋 南西から
 

日本國際航空工業㈱京都製作所 あ 南から(京都府宇治市)
▲南から
 母屋の東側に別の棟が接続します。

日本國際航空工業㈱京都製作所 あ 北から(京都府宇治市)
▲北から
 こちらも母屋の東側に別の棟が接続します。

日本國際航空工業㈱京都製作所 あ 南東から(京都府宇治市)
▲南東から
 母屋東側(の南側)に接続する大型の別棟

日本國際航空工業㈱京都製作所 あ 北東から(京都府宇治市)
▲北東から
 母屋東側(の北側)に接続する小型の別棟

日本國際航空工業㈱京都製作所 あ 外廊下 北東から(京都府宇治市)
▲母屋東側には外廊下があり別棟同士が接続しています。

ちなみに本館事務所棟は工場地区(現、日産車体京都事業所内)にありましたが、工場地区の遺構は事務所棟を含め全て建て替えられてしまい皆無の様です。


い 建物
あ事務所棟の南側にあります。
倉庫の様ですが、詳細は不明です。
日本國際航空工業㈱京都製作所 い 北東から(京都府宇治市)
▲北東から


う 建物
あ事務所棟の北西にあります。
元々は「E」型をしていましたが、現在は一番上の横棒部分だけが遺ります。
日本國際航空工業㈱京都製作所 う 北東から(京都府宇治市)
▲北東から

日本國際航空工業㈱京都製作所 う 北西から(京都府宇治市)
▲切断された部分が不自然な壁になっています。

以上、3点が日國京都製作所の遺構ですが、全て陸上自衛隊・大久保駐屯地内にあり、見学は年3回行われる駐屯地開放(4月初:桜の一般開放、5月下:駐屯地創立記念行事、8月初:駐屯地盆踊大会)の際しかできません。
場合によっては立ち入り禁止地区になるので、注意が必要です。


③ 第一社宅
昭和17(1942)年6月に竣工しました。
4戸1棟の形式で建てられており、現在20棟程(上掲地図の黄色塗部分)が遺りますが、増改築が激しく原型を辛うじて留めている建物は僅かです。
日本國際航空工業㈱京都製作所 社宅構造(京都府宇治市)
▲第一社宅の基本構造(下が正面)

日本國際航空工業㈱京都製作所 ③ 社宅(京都府宇治市)
▲上図の右端だけが遺ります。
 全ての家に小庭が付属します。

日本國際航空工業㈱京都製作所 ③ 社宅 (2)(京都府宇治市)
▲上図の左端だけが遺ります。

日本國際航空工業㈱京都製作所 ③ 社宅 (3)(京都府宇治市)
▲上図の中央の連棟が遺ります(右側の家は2階が増築されています)。
 分かり難いですが、電柱の後ろに両家の玄関が隣り合っています。

日本國際航空工業㈱京都製作所 ③ 社宅 (4)(京都府宇治市)
▲上図の右側2棟が遺ります(両家とも2階が増築)。
 正面に突き出した切妻屋根部分は左右でそれぞれ別の家なので、壁の色が違います。

全て一般住宅に転用されているので、見学には注意が必要です。


④ 第二社宅
昭和18(1943)年5月に竣工しました。
第一社宅と同様に4戸1棟の形式で建てられていますが、外見は第一社宅に比べ簡素な長屋風で資材・工期不足を感じさせます。
現在、殆どが建て直されてしまい、数棟しか遺っていません。
日本國際航空工業㈱京都製作所 ④ 社宅(京都府宇治市)
▲第一社宅と異なり、正面に突き出す部分がありません。

日本國際航空工業㈱京都製作所 ④ 社宅 (2)(京都府宇治市)
▲第一社宅同様に小庭が付属しますが、殆どが家屋の一部に取り込まれています。

日本國際航空工業㈱京都製作所 ④ 浄水場(京都府宇治市)
▲浄水場
 当時のままと思われますが、詳細は不明です。

第一社宅同様に全て一般住宅に転用されているので、見学には注意が必要です。


日本國際航空工業㈱ 京都製作所沿革
昭和12(1937)年5月5日、成長著しい航空機産業に着目していた南海鐵道㈱の寺田甚吉社長は、経営方針の転換に不満を持っていた川西航空機㈱の坂東舜一取締役に進められ日本航空工業株式會社(本社:大阪市、資本金300万円)を設立、自身の関係会社である㈱日本スピンドル製造所の技術を応用でき、且つ我が国が機体・発動機に比べ遅れていたプロペラの製造権をフランスのラチエ社から購入、平塚市に建設した工場において可変ピッチプロペラ、機体の製造を開始します。

京都府土木部では大正年間から昭和初期にかけ、洛南一帯の豊富な河川を利用し水運による物資の集積を行い、ここを大阪の内港として活用、干拓された巨椋池跡に重工業を誘致する「京都産業振興計畫」を立案します。
しかし、昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発したことにより、計画は頓挫してしまいます。

昭和13(1938)年3月30日、『航空機製造事業法』((昭和十三年三月三十日法律第四十一號)が成立、航空機製造事業に対し補助金を公布、航空産業を積極的に育成する態勢が整えられます。

昭和14(1939)年、逓信省は支那事變が長期化するなか、航空戦力の増強を図るため全国5ヶ所に国営航空機乗員養成工場と付属飛行場の設置を計画、この計画を知った京都市が誘致を成功させます。

昭和14(1939)年11月17日、イタリアのフィアット社の技術協力(第二次世界大戦勃発により頓挫)を取り付けた伊太利亜國在勤帝國大使館附陸軍武官・有末精三中佐の勧めにより、経営の多角化を進めていた鐘淵紡績㈱の津田信吾社長は、国家の発展と社業の興隆を図るべく財界の要人25名を発起人とし國際工業株式会社(本社:東京市、資本金3,000万円)を設立、12月、『航空機製造事業法』による事業経営が認可されます。
津田信吾
▲津田信吾 鐘淵紡績㈱社長

國際工業は「航空機の機体・発動機及び部品の製造、販売、修理、及び関連する機材、器具の製造販売」を事業目的とし、必要な工場敷地は30万坪(99万㎡)、京都飛行場内の試験飛行場部分を含め65万坪を予定していました。

京都府は「京都産業振興計畫」に代わり新たに「新興都市計畫」を策定、國際工業を計画の中心企業として先に誘致に成功した航空機乗員養成工場、飛行場と並んで誘致運動を行い、同じく誘致運動を行っていた岡山、大阪、和歌山、富山等を退け、昭和15(1940)年1月、國際工業の誘致に成功します。

京都府は國際工業を中心に約300万坪に渡る区画整理を実施し、約10年後には人口20万人の新興工業都市の創成、さらに支那事變で頓挫した運河による工業化を「洛南工業地帯計畫案」として再度立案します。

昭和15(1940)年1月24日、京都府の赤松小寅知事は佐古尋常小學校に関係村民600名を集め、國際工業と京都飛行場建設の大要を説明、2月6日、生活保障の陳情に訪れた建設に伴い耕地を失う佐山村、御牧村、大久保村、小倉村、宇治町の町村長ら代表36名に対し、代替地の用意と國際工業への優先就職等の対応を約束します。

工場建設に際し、國際工業は京都市下京区に京都事務所を開設、3月、工場・格納庫・試験飛行場(京都飛行場の北東外周を拡張)用地の買収が実施され、4月16日、京都府主催の起工式が大久保尋常高等小學校で挙行、5月、工場、飛行場建設工事が開始されます。

敷地整地は京都府に委託され、京都飛行場建設事務所(西村隆雄技師)の指揮のもと、募集に応じた労務者約2,000名が作業にあたり、工場建設は大倉土木㈱があたります。
建設費用は國際工業が敷地65万坪で3,662,754円(全額京都府負担)、京都飛行場は敷地32万坪で2,886,640円(逓信省1,886,640円、京都府1,000,000円)でした。

昭和15(1940)年4月1日、高等小學校を卒業した131名が工員養成工場第一期生として入所(工場・諸設備が未完成のため、洲本の鐘淵紡績工場において)、昭和16(1941)年4月1日、第二期生400名が完成した大久保の養成工場に入所、昭和18(1943)年2月、中等學校卒業生を対象にした技術員養成所を設置、工員・技師の養成・教育を開始します。

昭和16(1941)年4月、食堂が、6月、寄宿舎5棟が、8月、職工養成工場が、昭和17(1942)年6月、伊勢田村(現、宇治市開町)に第一社宅、昭和18(1943)年5月、宇治町神明(現、宇治市神明)に第二社宅が完成します。

昭和15(1940)年3月、フィアット社との業務提携が不成立となり、國際工業独自での航空機技術開発は不可能な事から、創業以来高い技術を築き上げながら量産設備が不足していた國際工業取締役でもある寺田甚吉氏の日本航空工業との合併が模索されます。
昭和16(1941)年3月24日、両社はそれぞれ臨時株主総会を開催、設立委員会が設置され、合併の準備が整えられ、7月1日、國際工業株式會社と日本航空工業株式会社は対等合併し、日本國際航空工業株式會社(本社:東京市、資本金3,600万円)が設立され、津田信吾氏が社長、寺田甚吉氏が副社長に就任します。
会社規模は京都工場(1,540,000㎡、従業員572名、機体製造・組立)、平塚工場(145,000㎡、2,561名、プロペラ製造)、試験飛行場(680,000㎡)でした。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

戦域の拡大に伴う航空機需要の増加、陸軍の航空機増産指示に応えるべく京都製作所の工場建設・増設は進められますが、建設資材調達が困難になりつつある事から建設・増設を中止(最終的に計画の1/5で停戦)し、周辺各地の各種遊休工場を借用・買収し、建物・設備・従業員はそのままで操業する事としたため、またも京都市の「新興都市計画」は頓挫します。

12月、鐘淵紡績上京工場(京都市左京区、敷地5,411坪・建屋5,111坪)を借用(昭和19年2月、買収)、京都工場上京分工場(機体・部品製造)を設置します。

昭和17(1942)年3月31日、立川格納庫(立川市武蔵野、敷地1,150坪・建屋544坪、従業員45名)が竣工、陸軍に納入する機体の格納、及び組立・修理を開始します。

5月、元郡是製糸㈱園部工場(園部市、敷地9,442坪・建屋2,513坪)を園部市より借用し、京都工場所管の工員養成工場(京都工場園部分工場)を設置、鐘淵紡績戸ノ内工場(兵庫県川辺郡、敷地46,556坪・建屋7,274坪)を借用(昭和19年1月、買収)、大阪機工㈱航空機發動機部門の設備・従業員を継承し大阪工場(発動機製造)を設置します。

10月、興亞紡績㈱福井工場(福井県足羽郡、敷地19,584坪・建屋9,044坪)を買収、福井工場(プロペラ製造)を設置、香港占領地總督部(磯谷廉介中将)より南華鐵工所の経営を委託され、陸軍の要望により荃灣(せんわん)工場を開設(昭和18年11月5日、陸軍次官通牒により閉鎖)し飛行機修理にあたります。

昭和18(1943)年4月、『昭和十八年一月二十三日 航密第七百三十號「施設利用に關する件通牒」』により京都市勧業館(京都市左京区、敷地7,100坪・建屋2,832坪)を京都市より借用し、上京工場(機体・部品製造)を設置、従来の京都工場上京分工場は上京工場の分工場に移管されます。

昭和18(1943)年9月、京都工場を京都製作所、園部分工場を園部工場、上京工場を上京第一工場、上京分工場を上京第二工場、大阪工場を神埼製作所、平塚工場を平塚製作所、福井工場を福井製作所に改称します。

12月、昭和染工㈱淀川工場(大阪市都島区、敷地15,271坪・建屋4,133坪)を買収、淀川製作所(木材積層材製造)を設置します。

昭和19(1944)年2月、渡邊春一工場など11織物工場(福井県春江町、敷地6,951坪・建屋4,579坪)を買収・改装、福井製作所春江分工場(プロペラ部品製造)を設置します。

本社―――京都製作所――園部工場
   |      |―上京第一工場―上京第二工場
   |
   |―神崎製作所
   |
   |―平塚製作所
   |
   |―淀川製作所
   |
   |―福井製作所――春江分工場

昭和16(1941)年8月、本社を東京市品川区から麹町区に、昭和18(1943)年2月、工場の連絡・管理を円滑に行うべく大阪市東区の寺田ビルに、3月、南区難波の南海ビルに移転しますが、直後の14日、大阪大空襲により被災したため、4月、京都市下京区の丸物ビルに移転します。

昭和18(1943)年、戦局が次第に悪化、従業員の出征が相次ぎ工員不足が深刻化してきます。

昭和17(1942)年7月8日、『國民徴用令』(昭和十四年七月八日 勅令第四百五十一號)に続き、昭和19(1944)年8月23日、『學徒勤労令』(昭和十九年八月二十三日 勅令第五百十八號)、『女子挺身勤労令』(同 勅令第五百十九號)が交付され、京都製作所でも桃山高等女學校や京都府女子師範學校の女学生が生産に加わります。

昭和19(1944)年1月、日本國際航空工業㈱は軍需会社に指定、津田信吾取締役社長は生産責任者となります。

昭和20(1945)年、月産30機で生産は進捗していましたが、3月11日の東京大空襲を皮切りに米軍による本土空襲が激化、4月3日、平塚製作所、6月7日、神埼製作所、淀川製作所、福井製作所が空襲を受け、15日、再び神埼製作所が空襲を受け大損害を受け操業停止、16日、再び福井製作所が空襲を受け操業停止、7月16日、平塚製作所、再び淀川製作所が空襲を受け操業停止、24日、京都製作所が空襲を受け女学生6名が爆死、28日、再び京都製作所が、30日、平塚製作所、京都製作所が3度目の空襲により大損害を受け夫々操業停止していくなか、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、全工場の生産を停止しました。
停戦時の従業員は会社全体で職員:社員1,376名、雇・傭員2,852名/工員:現員職工11,332名、応徴士2,091名、學校報國隊5,391名、女子挺身隊546名、臨時工員185名、合計23,773名(京都製作所のみで11,782名)でした。

9月、全正従業員を一旦解雇、應徴士・學校報國隊・女子挺身隊の勤労を解除・解散、1,665名を再雇用し残務整理にあたります。

25日、米第6軍により京都製作所の寄宿舎地区、28日、工場地区が接収されたため、事務所を第一社宅内に移転、工場・格納庫内の未完成飛行機が米軍により爆破処分されます。

10月、工場事務所一部の使用許可が出され、12月13日、米軍の姫路移駐に伴い、工場地区の接収が解除されますが、寄宿舎地区は接収が続きます。

12月6日、津田信吾社長が戦争犯罪容疑者に指名され、10日、巣鴨拘置所に連行(昭和21年5月31日、無罪釈放)され、昭和21(1946)年1月20日、全製作所が賠償工場に指定され機械設備3,036台の管理保全が指示、2月27日、臨時株主総会により役員が改選され、淀川製作所の寺田道彦所長が新社長に就任、社名を日國工業株式会社と改称し、民需品生産(金属・木工日用品、家具、農機具、自動車部品、バス車体、電車車体など)に転換します。

昭和22(1947)年5月、京都製作所は大久保製作所に改称します。

昭和24(1949)年4月、新日国工業株式会社を設立し日國工業の事業を継承、大久保製作所は大久保工場に改称、昭和26(1951)年6月、日産自動車㈱と提携、昭和37(1962)年1月、日産車体工機株式会社に改称、7月、日産車体工機に吸収合併され、昭和46(1971)年6月、日産車体株式会社となり現在に至ります。

一方、米軍に接収された寄宿舎地区は昭和32(1957)年1月、陸上自衛隊・大久保駐屯地業務隊が移駐、2月、第10特科連隊が移駐し、大久保駐屯地が開設され現在に至ります。


日本國際航空工業㈱ 製作機体
京都製作所
・二式小型滑空機 ク-一 (50機)
・試作輸送滑空機 (1機)
ク7試作輸送滑空機

・キ一〇五試作輸送機 (9機)
キ105試作輸送機

・三式指揮連絡機 キ-七六(15機、平塚製作所含む)
ki76.jpg

・一〇〇式輸送機 キ-五七 (約40機)
一〇〇式輸送機1

・四式基本練習機 キ-八六 (約850機)
四式基本練習機

平塚製作所
・四式中型輸送滑空機 ク-八Ⅱ (619機)
四式特殊輸送機(ク8)

・九五式一型練習機 キ-九 (約230機)立川飛行機㈱開発
九五式一型練習機

・滿航式隼型旅客機 MT-一 (約20機)
満航式隼型旅客機

・一式輸送機 キ-五九 (19機)
一式輸送機

プロペラ(主に平塚製作所で製作)
・ペ-三二(四式戦 疾風用、6400本)
ki84.jpg

発動機(主に神崎製作所で製作)
・ハ-一一
・ハ-二三 計840基


主要参考文献
『日産車体三十年史』(昭和57年3月 日産車体株式会社』

『久御山町史 第二巻』(平成元年10月 久御山町)

『宇治市史4 近代の歴史と景観』(昭和53年2月 宇治市)

・国土地理院空撮(昭和21年6月6日の NI-53-14-3)

・『Japanese Air Target Analyses』米軍戦略爆撃調査団空襲目標計画
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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