当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

三菱重工業株式會社 水島航空機製作所(第七製作所)・龜集團 疎開工場

岡山県倉敷市水島には三菱重工業株式會社 水島航空機製作所(第七製作所)、及び龜集團 疎開工場(地下工場)がありました。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅰ ②接続部からア(岡山倉敷)
▲三菱重工業株式會社 水島航空機製作所の龜集團地下疎開工場






三菱重工業㈱ 水島航空機製作所周辺
三菱重工業㈱ 水島航空機製作所は岡山県淺口郡聯島(連島:つらじま)町、同福田村(現、倉敷市水島)の東高梁川廃川地河口部に製作所、その南側に試験飛行場が建設、大東亜戦争末期には近隣に地下・半地下を含む疎開工場が建設されました。
三菱重工業㈱ 水島航空機製作所(191208)(岡山倉敷)
▲三菱重工業㈱ 水島航空機製作所全景(昭和19年12月8日)

三菱重工業㈱ 水島航空機製作所(221011)(岡山倉敷)
▲同 (昭和22年10月11日 写真は加工しています)

水島航空機製作所 見取図(岡山倉敷)
▲同 見取図(『水島自動車製作所50年史』掲載)

水島航空機製作所  三菱重工業㈱ 水島航空機製作所(現在)(岡山倉敷)
▲三菱重工業㈱ 水島航空機製作所を現在の地図に転写
①三菱重工業㈱ 水島航空機製作所
②試験飛行場(淡赤は滑走路)
③龜集團 地下疎開工場
④水島青年學校
⑤青年學校寮
⑥工員社宅
⑦当時の海岸線


三菱重工業㈱ 水島航空機製作所の概要
三菱重工業㈱水島航空機製作所(昭和20年2月1日から「第七製作所」)は海軍の予算により岡山県が用地買収、廃川地埋立、三菱重工業㈱が工場建設を行った官設民営の製作所で、海軍機専用製作所として一式陸上攻撃機、紫電二一型の機体を製造、第八製作所(京都:発動機製作)から火星二◯型(ハ一一一)、中島飛行機㈱から譽二一型、住友金属工業㈱プロペラ製造所からプロペラを供給され、それらを組付け第二海軍航空廠鈴鹿支廠(三重)に納入していました。
一式陸攻
▲一式陸上攻撃機

紫電二一型(紫電改)
▲紫電二一型(紫電改)

昭和20(1945)年5月、空襲激化から倉敷、井原などの遊休民間工場・空き学校、亀島山、浦田などの地下・半地下工場に生産設備を分散疎開させます。

現在は製作所が三菱自動車㈱水島製作所、試験飛行場が三菱ガス化学、社宅地区が住宅等になっています。


遺構について※青字は地図にリンクしています。
① 三菱重工業㈱ 水島航空機製作所
現在は三菱自動車工業㈱水島製作所となっています。

大東亜戦争停戦後、水島航空機製作所は青年學校、実習工場、鋳鍛造工場のみに縮小、工場跡地の大部分は大蔵省管理下に入ります。
その後、工場跡地は岡山県が一括買収、水島工業地帯計画の策定に伴い中日本重工業㈱(三菱重工業㈱の分割会社)が買収し現在に至ります。

昭和22年10月11日の空撮と現在の空撮を比べ、『水島自動車製作所50年史』を精読してみましたが、主要な建物は全て建て替え(第一機械工場は全面改築)られています。


② 試験飛行場
現在は三菱ガス化学㈱、西日本飼料㈱になり、更に南側が埋め立てられ水島コンビナートになっています。
滑走路の一部が道路に転用され、形状が辛うじて遺されています。

停戦時、1,200mの滑走路1本が設営されましたが、計画では2,000m滑走路2本を×型に設営する予定で工事中でした。
昭和20(1945)年11月3日、連合国軍最高司令官総司令部は各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』により、各陸軍飛行場、海軍航空基地の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。
これを受け大蔵省専売局は全国各地の飛行場跡に製塩業者を誘致、水島航空機製作所の試験飛行場の西側に水島塩業㈱が設立され、東側は農地となり入植者に開放されます。
水島航空機製作所 龜集團 ②滑走路跡 南から(岡山倉敷)
▲現在は滑走路跡の一部が道路になっています。

日清オイリオグループ(株)水島工場の駐車場に滑走路東側の排水暗渠が30m程遺ります。
水島航空機製作所  a 排水暗渠 北から(岡山倉敷)
▲内部は埋まっている様です。

水島航空機製作所  a 排水暗渠 孔(岡山倉敷)
▲暗渠の蓋 近影

水島航空機製作所  b 排水暗渠 北から(岡山倉敷)
▲暗渠は途中で途切れ(埋まっている?)ますが、南側の西日本飼料㈱内にも40m程遺ります。


③ 龜集團 疎開工場  (地下疎開工場)
水島航空機製作の北側にある亀島山に2,055mの地下工場(地下壕)が設営されており、一部崩落していますが、ほぼ完存しています。
現在は一般に「亀工場」と呼ばれている様です。
水島航空機製作所 龜集團「亀工場」全景 北から(岡山倉敷)
▲亀島山

昭和18(1943)年末から昭和19(1944)年初頃に工事開始(元飯場頭の証言)されたと言われますが、昭和18(1943)年末と言えば戦局は悪化しつつあるものの深刻とまでは行かず、本土空襲も殆ど無く、政府による分散疎開・地下工場建設の指示より1年も早いのは疑問です。
地下疎開が推進されるのは昭和19(1944)年7月のマリアナ諸島失陥からであり、停戦時の工事状況を見る限り1年誤認されている様に思います。
昭和19(1944)年末から掘削開始であれば、政府の地下疎開工場への疎開推進の動き、停戦時の工事進捗状況とも合致します。

亀島山の地下疎開工場は呉海軍施設部が指揮監督のもと、大林組㈱が建設を担当、水島航空機製作所建設、特に試験飛行場の設営と並行して行われます。
昭和20(1945)年2月、機械工場・工具工場の工作機械を中谷組が完成した南側の地下壕から随時搬入し疎開(龜集團)、未完成の北側の地下壕建設を進めつつ操業を開始、8月15日、未完成で停戦を迎えます。

亀島山に疎開したのは『岡山の記憶 第10号』の証言によると「機械工場・工具工場」となっていますが、『水島自動車50年史』の「昭和20年3月1日時点の職制図」に機械工場(第一工作部)はありますが、工具工場の名称は見当たりません。

また、『水島自動車50年史』には「光集団(金光町)・梅集団(寄島町)・鶴集団(連島町江島)・亀集団(亀島山)・松集団(五軒屋)などの名称で工場があった」と記載されており、熊本航空機製作所の例(各疎開工場は近隣ごとに「群」の単位で管理)から水島航空機製作所では「集團」の単位が使用されていた様です。
水島航空機製作所 龜集團 米国戦略爆撃調査団(USSBS)の報告書(岡山倉敷)
▲『米国戦略爆撃調査団報告書』掲載の見取図

水島航空機製作所 龜工場(龜集團)(岡山倉敷)
▲地下壕全体図
 赤色:地下壕遺構
 緑色:コンクリート・他遺構
 青色:コンクリート擁壁

壕口は11ヶ所ありましたが、閉鎖、崩落等で現在はD・F・G・Kの4ヶ所のみが開口しています。
ただ、Dは有刺鉄線付きの金網扉で閉鎖、Fは民家の裏、Gは会社の裏の急斜面にあり、Kが慣れている方なら辛うじて入れるか?と思われます。

Ⅰ 一號隧道
証言から南側の完成隧道から順に一號、二號、三號、四號、五號隧道と呼称されていた様です。
5本の隧道中、巾6.3×高4mと最大の規模があり、コンクリート巻立てが4ヶ所(ア・ウ・オ・カ)に施工され、北側は枝坑が8本(①~⑧)で二號隧道に、南側は1本の枝坑で壕口が接続します。
操業時、一號隧道には何も無く、①~⑧の枝坑に工作機械が据付けられ稼働していた様です。
壕全体が浸水し、⑦・⑧枝坑間が崩落しています。

ア コンクリート巻立て
枝坑①に接続します。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅰ ア 西端から(岡山倉敷)
▲コンクリート巻立て

水島航空機製作所 龜集團 Ⅰ ア 上部の金具 西から(岡山倉敷)
▲分かり難いですが、天井に照明の金具が遺ります。

E 壕口
コンクリート巻立ての西側に2×2mの切欠きがありますが、崩落して埋まっています。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅰ 西側の開口部(岡山倉敷)

また南側にも切欠きがありますが、岩盤はそのままです。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅰ ア 南西端の開口部(岡山倉敷)

オ コンクリート巻立て
G壕口付近にあります。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅰ ⑦接合部からオ(岡山倉敷)

F 壕口
南側の斜面からの唯一の壕口で、一號隧道に接続しています。
壕口付近は2×2mの六角形の坑道が15m、巾4.9mに拡幅し円形天井巻き立てに変わり30m、素掘り部分が30m、巾5.6mに拡幅し再びコンクリート巻立てが9.4m続き、一號隧道に接続しています。
壕口は民家の裏にあり、内部は物置になっています。
水島航空機製作所 龜集團 F壕口 エ 内部から(岡山倉敷)
▲壕口は六角形のコンクリート製坑道で、物置になっています。

水島航空機製作所 龜集團 F壕口 エ 内部から (2)(岡山倉敷)
▲拡幅部から壕口

G 壕口
工場稼働時、暗幕が張られていた様です。
崩落していますが出入りが可能で、壕口は民間工場の裏にあります。

① 枝坑
巾3.5mで壕床はスレートが大量に不法投棄されています。
水島航空機製作所 龜集團 ① 北から(岡山倉敷)

一號隧道との接続部は扉状に施工されています。
水島航空機製作所 龜集團 ① Ⅰ接続部(岡山倉敷)
▲出入口の上に四角孔があります。配線を通す孔でしょうか?

② 枝坑
壕床両側に工作機械を据付けた跡が遺ります。
水島航空機製作所 龜集團 ② Ⅰ 接続部 北から(岡山倉敷)
▲①枝坑同様の加工が施工されています。

東側は0.9x1.3mが壕に直角に3台、西側は1x1.5mが斜めに4台並んでいます。
水島航空機製作所 龜集團 ② 北から(床面に機械設置跡)(岡山倉敷)
▲工作機械の跡

⑧ 枝坑
二號隧道との接続部は崩落しています。
水島航空機製作所 龜集團 ⑧ キ(圧壊) 北から(岡山倉敷)
▲コンクリート巻立てで土圧で崩壊してしまっています。


Ⅱ 二號隧道
巾は枝坑と同じで南側は8本の枝坑(①~⑧)で一號隧道と接続、4本の枝坑(⑨~⑫)で三號隧道と接続しています。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅱ ⑧接合部から西(右は⑪)(岡山倉敷)
▲右は⑪枝坑

ク 孔
壕床に四角い孔があります。
詳細は不明です。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅱ ④⑤間にある四角い孔(岡山倉敷)

D 壕口
西側唯一進入可能な壕口ですが、現在は有刺鉄線付きの金網扉が付いています。
素掘りの壕で巾2.0×高4mで7.7mの地点で高1.7mになり、20mで斜めに二壕隧道に接続しています。
水島航空機製作所 龜集團 D 壕口入口付近(岡山倉敷)
▲有刺鉄線付きの金網扉で閉鎖

水島航空機製作所 龜集團 D 壕口(岡山倉敷)
▲壕口

H 壕口
土嚢で閉鎖されたうえ、崩落しています。
水島航空機製作所 龜集團 H 壕口(閉鎖・崩落)(岡山倉敷)

⑨ 枝坑
壕床は巾4.2×長7.7mのコンクリート舗装がされています。
水島航空機製作所 龜集團 ⑨ コンクリート床ケ 南から(岡山倉敷)

⑪ 枝坑
途中で崩落していますが、何とか通過できます。
水島航空機製作所 龜集團 ⑪ 南から(岡山倉敷)
▲全体的に崩落しています。

⑫ 枝坑
途中で崩落し、完全に埋まっています。
水島航空機製作所 龜集團 ⑫ I付近(崩落) 南から(岡山倉敷)
▲支保工が散乱しています。


Ⅲ 三號隧道
巾は枝坑と同じで南側は4本の枝坑(⑨~⑫)で二號隧道と接続、8本の枝坑(⑬~⑳)で四號隧道と接続しています。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅲ ⑯接続部から東(岡山倉敷)

C 壕口
コンクリート巻立てが施工されていますが天井が抜け、壕口は崩落しています。
木材の型枠が張り付いたまま遺ります。
水島航空機製作所 龜集團 C コ 東から(岡山倉敷)

I' 壕口
崩落してしまっています。
水島航空機製作所 龜集團 I 崩落部(岡山倉敷)

⑬ 枝坑
全体的に崩落しており、南側で完全に崩落してしまっています。
水島航空機製作所 龜集團 ⑬ 北から(岡山倉敷)

⑭ 枝坑
巾が本坑より広くなっています。
水島航空機製作所 龜集團 ⑭ 南から(岡山倉敷)

⑱ 枝坑
若干崩落していおり、北側の幅がやや広くなっています。
水島航空機製作所 龜集團 ⑱ 南から(岡山倉敷)

⑲ 枝坑
壕床に軌条跡サが遺ります。
水島航空機製作所 龜集團 ⑲ 壕床の枕木跡サ(岡山倉敷)

⑳ 枝坑
南側が崩落してしまっています。
水島航空機製作所 龜集團 ⑳ 南側の崩落 北から(岡山倉敷)


Ⅳ 四號隧道
巾は枝坑と同じで南側は8本の枝坑(⑬~⑳)で三號隧道と接続、北側は7本の枝坑(㉑~㉙)で五號隧道と接続しています。

B 壕口
崩落してしまっています。
水島航空機製作所 龜集團 B壕口 崩落(岡山倉敷)

J 壕口
崩落してしまっています。

シ 軌条跡
壕床に軌条の枕木跡が遺ります。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅳ ⑲⑳間の枕木跡シ(岡山倉敷)
▲左は⑳枝坑

㉑・㉘・㉙ 枝坑
巾は本坑より広くなっています。
水島航空機製作所 龜集團 ㉙ 北から(岡山倉敷)
▲㉙枝坑 崩落も無く、状態は良好です。

㉕・㉗ 枝坑
五號隧道に至る枝坑は南北から掘削中に停戦を迎えた様です。


Ⅴ 五號隧道
最も北側にあり、南側は7本の枝坑(㉑~㉙)で四號隧道と接続しています。
停戦時、掘削中で他の隧道と比べ巾が狭く、天井も低いです。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅴ ㉒接続部 西から(岡山倉敷)

A 壕口
コンクリート壁で閉鎖されています。
水島航空機製作所 龜集團 A 壕口(岡山倉敷)

K 壕口
本来の壕口は崩落して狭くなっていますが、南側の天井が崩落しており開口しています。
水島航空機製作所 龜集團 K 壕口 南側の崩落口(岡山倉敷)
▲K壕口南側の崩落開口部

ス 軌条跡
壕床に軌条の枕木跡が遺ります。
水島航空機製作所 龜集團 Ⅴ ㉘㉙間の枕木跡ス(東から)(岡山倉敷)

㉓・㉔・㉖ 枝坑
巾の狭い枝坑を拡幅中だった様です。
水島航空機製作所 龜集團 ㉓ 北から(岡山倉敷)
▲左側を掘削中

㉔・㉖ 枝坑
四號隧道に至る枝坑は南北から掘削中に停戦を迎えた様です。
水島航空機製作所 龜集團 ㉖ 北側の切羽(岡山倉敷)
▲㉖枝坑切羽の削岩機跡


④ 水島青年學校
現在は水島自動車製作所、水島工業、商業施設になり、遺構は遺されていません。

昭和17(1943)年5月27日、事務所・実習工場が竣工、同年4月1日入校の第一期生から昭和20(1945)年4月1日入校の第四期生まで6,000名が養成工として実習・教練を学びました。

停戦後、水島航空機製作所は水島機器製作所と更生、被曝を逃れた水島青年學校において操業を開始します。


⑤ 青年學校 寮
現在は三菱自動車工業㈱水島製作所の寮、新日本石油の寮、学校、団地等になり、遺構は遺されていません。

水島青年學校の周囲には養成工の寮(第一~第四西寮、同東寮、第五女子寮、亀島寮、吉備寮、白菊寮など)が建設されました。


④ 社宅
東高梁川廃川地(緑町・瑞穂町・春日町・弥生町・青葉町・栄町・常磐町)、汐入川沿い(矢柄)に1戸建て、2戸建て、4戸建てが合計4,823棟が建築されました。

社宅は空襲の被曝を逃れ停戦時は完存、外地からの引揚者等の住宅に転用、常磐町・寿町(倉敷工業萬壽航空機製作所の社宅:旧倉敷紡績、水島航空機製作所の協力工場)の605戸のみが三菱重工業㈱に継承されました。

未踏査ですが、空撮を見る限り数棟は遺っている様です。


⑤ 当時の海岸線
現在は水島航空機製作所の西側、南側ともに埋め立てられ痕跡はありません。


三菱重工業㈱ 水島航空機製作所(第七製作所)沿革
昭和12(1937)年7月7日に勃発した北支事變(9月2日、支那事變と改称)が長期化するなk,陸海軍は三菱重工業㈱に対し、数次に渡り航空機の増産を要請します。
昭和15(1940)年11月、海軍省航空本部(井上成美中将)は『第二次生産能力拡充計畫』を策定、三菱重工業㈱に対し「昭和18年3月までに月産小型機同62機、中型機月産75機、戦時においては50%増」が要請されました。

名古屋航空機製作所(以下「名航」)は増産拡充のため新工場を増設する余地が無く、飛行場の併設、空襲に対する工場分散の方針もあり新工場用地の選定を開始します。

一方、農業県であった岡山県(横溝光暉知事)は、将来の重工業による地域開発・発展を計画、海軍と三菱重工業㈱が工場用地を選定している事を知り、誘致活動を行います。

3月、名航は岡山県に対し新工場用地の選定協議を打診します。

昭和16(1941)年初旬、岡山県は第一候補として岡山市福浜の児島湾干拓地を提示しますが、名航が調査したところ地盤が軟弱で工場・試験飛行場の立地には不向きだった事、岩崎小彌太社長の「美田を潰すな」と言う垂訓もあり却下します。
岡山県は第二候補地として連島町・福田村の高梁川東廃川地を新たに提示、3月から海軍省、名航が9回に渡り調査し工場適地として選定、4月26日、連島町・福田村に新工場設置が決定します。

5月29日、横溝知事から該当用地の地主(農家30戸)に対し工場建設の説明と土地買収の要請が行われます。
買収面積は工場・試験飛行場で55,508坪で、買収の坪当たり単価は30円でした。

5月、岡山県より公用水面埋立免許願いが内務省に提出され、認可されます。

7月1日、海軍省航空本部は用地買収、高梁川東廃川地河口部の埋立、道路建設は海軍省の予算を用い、審査以外の監督・施工を岡山県に委託します。

10月、名航第一建設部(臨時岡山工場建設部)が設置され、11月22日、水島において起工式が挙行、阪神築港㈱、㈱大林組、㈱竹中工務店の指揮監督のもと作業員、労務者4,000名が中心となり建設が開始されます。
建設は工場建設と同時に生産を開始するため工員を養成する青年學校、寮の建設を優先します。
水島航空機製作所 起工式(岡山倉敷)
▲起工式

昭和17(1942)年4月1日、青年學校・寮の一部が完成、水島青年學校と命名され尋常高等小學校を卒業した14歳の第一期生生徒1,500名が入校し、運動場において始業式が挙行、5月27日、講堂が完成し入学式が行われます。
青年學校入校の養成工は中国・四国地方を中心に全国から採用され、名航から熟練工員が水島に転勤し指導にあたりました。
また、應徴士など途中入社の工員は一旦名航に派遣され現場で技術習得後、再度水島に戻る教育方法でした。
水島航空機製作所 入校式(岡山倉敷)
▲昭和17年5月27日、竣工したての講堂において第一期養成工入学式

水島青年學校開校と同時期に社宅・寮が建設されます。

17日、三菱重工業㈱の依頼により東邦瓦斯㈱(名古屋)が中心となり水島のガス会社と共同で水島瓦斯㈱が設立され、新工場・厚生施設へのガス工事を開始します。

5月22日、『兵器等製造事業特別助成法』(昭和十七年法律第八號・勅令第五百三十一號)が公布、岡山工場建設に同法が適用され、用地造成、資材調達、工場建設、生産設備調達費用などは海軍の予算から拠出(厚生施設は三菱重工業㈱)され、運営は三菱重工業㈱が行う事が認可されますが、海軍予算の不足、三菱重工業㈱からの工場建設についての意見が入り計画は度々変更されます。
8月、三菱重工業㈱は『岡山工場建設計畫概要』を作成、土地が新工場用地339,897坪、試験飛行場用地642,031坪、厚生施設(青年學校・寮・社宅・病院など)が391,103坪の合計1,373,031坪で、建物が生産工場鉄骨14棟63,760坪、付帯工場他鉄骨鉄筋コンクリート造9棟2,425坪・木造62棟33,890坪、厚生設備1,380棟64,725坪の計画に則り工事を進めます。

9月15日、名航第一建設部が廃止され臨時岡山工場建設事務所が開所(荘田泰蔵名航副所長が事務所長兼務)、主要幹部が発令、水島要員も採用され昼夜兼行で工場建設を促進します。

10月24日、専用鉄道の起工式が挙行されます。

昭和18(1943)年4月1日、三井造船㈱玉野造船所在の海軍省艦政本部玉野造船監督官、橋本清吉岡山県知事ほか多数の来賓者出席のもと、全従業員が参列し操業式が挙行され、完成した機械工場が操業開始します。

4月10日、荘田事務所長、大林組㈱、竹中組㈱など関係者40名が参列し、上水道の仮通水式が挙行されます。

6月1日、臨時岡山工場建設事務所は水島工場建設事務所(荘田泰蔵所長)に改称します。

7月1日、専用鉄道の敷設が完了し、運転を開始します。

9月1日、海面埋立、道路開設、鉄道敷設、水源確保、社宅等厚生施設、工場、生産設備が逐次竣工、生産を開始できる段階に達したため、本社より原耕三・後藤直太両常務を迎え未完成ながら三菱重工業㈱ 水島航空機製作所(荘田泰蔵所長、以下「水航」)が開所、以降も飛行機生産と工場建設が並行して行われます。
開所時の工場規模は建物79,726坪、厚生施設108,235坪、社宅4,823坪、工作機械3,239台でした。
水島航空機製作 荘田泰蔵所長(岡山倉敷)
▲荘田泰蔵所長

下請会社は服部金属製作所(小型圧延機部品)、アルマイト工業㈱(防腐剤)、瀧澤鐵鋼㈱(機械部品)、大塚製作所(〃)、宮原電気鋳造(〃)、岡本鐵工(〃)、中國冶具製作所(冶具工具)、アクザワ工機製作所(〃)、サウリツ工機製作所(〃)、長岡工業所岡山工場(木製冶具装備品)、山陽航空㈱(木製冶具)、トウメッキ製作所(〃)、姫井工業(〃)、倉敷工業㈱(〃)、テイショク航空㈱(〃)が担当しました。

11月7日、水島瓦斯㈱がガスの供給を開始します。

昭和19(1944)年1月8日、前年6月25日に閣議決定された『學徒戰時動員體制確立要綱』に基づき、女子挺身隊が入所して来ます。

17日、三菱重工業㈱は前年10月31日に公布された『軍需會社法』(昭和十八年法律第百八號)に基づき、軍需省により軍需会社に指定され、元良信太郎取締役社長は生産責任者となります。

2月11日、試験飛行場において全従業員注視のなか一式陸攻二二型の水航1号機(萬谷正弘操縦士)の進空式が試験飛行が行われ、離陸後は鈴鹿に向かいます。
水島航空機製作所 進空式(岡山倉敷)
▲滑走路において1号機の進空式

3月、航空本部より名航、水航に対し十七試艦上戰闘機(A七M一:烈風)の試作、試験及び早期生産が示達、試作が昭和19年夏以降になる場合、水航は紫電二一型(紫電改)の転換生産を示達されます。

8月4日、航空本部は三菱重工業㈱に対し十七試艦上戰闘機の開発中止、紫電二一型の転換生産を行うように示達、水航は川西航空機㈱より移管された紫電2機で組立実習を行い、紫電二一型の生産準備に入ります。

昭和19年月別生産数
一式陸攻二二型
1月1 2月1 3月1 4月10 5月12 6月19 7月31 8月25 9月36 10月55 11月55 12月40

昭和20年月別生産数
一式陸攻二二型
1月44 2月45 3月42 4月53 5月25 6月17 7月-- 8月--
一式陸攻三四型
5月1
紫電二一型
3月1 4月1 5月-- 6月3 7月1 8月3

7月7日、我が国はサイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、11月24日、中島飛行機㈱武蔵製作所がマリアナ諸島からのB29により空襲されたのを受け、軍需省は各航空機会社に対し生産設備の分散疎開(生産疎開)を示達します。

12月、各地の空襲被害が拡大、水航においても工場疎開の計画が推進されます。

昭和20(1945)年1月15日、軍需省は三菱重工業㈱を含む重要軍需工場に対し、地下疎開工場の建設と機械設備の疎開を指示、23日、『工場緊急疎開要綱』が閣議決定され、航空機及同部品工場を最優先に分散疎開、地下施設への移転を示達、『生産強化企業再整備及工場緊急疎開ノ一体的実施機構ニ関スル件』、『臨時生産防衞対策中央本部設置ニ關スル件』を同じく閣議決定し、重要軍需工場の疎開に関して政府機構を整備し、急速且つ計画的に実行する事、そのため軍需省に臨時生産防衞対策中央本部(吉田茂軍需相が兼務)を設置します。

25日、最高戰爭指導會議により、航空機・限定した特攻兵器の優先生産と強化、生産施設の防空態勢の徹底的強化等を含む大東亞戰爭完遂のための基礎態勢を確立する『決戰非常措置要綱』が提案され、閣議決定されます。

2月1日、防諜上の見地から三菱重工業㈱ 水島航空機製作所は三菱重工業㈱ 第七製作所(通称「オカ七〇〇〇工場」)と改称(以下の文は「水航」で通します)します。

3月19日、B29、1機が爆弾4t、29日、B29、1機が2t夫々水航に来襲し投弾しますが命中しませんでした。

4月12日、B29、1機が来襲、爆弾数発を投弾、機械工場が被弾し7名が爆死、35名が負傷、25日、B29、1機が来襲、爆弾3tを投弾、本部の一部、機械工場、部品工場、亀島山麓の大林組㈱飯場が被弾し1名が爆死、16名が負傷てしまいます。

5月、倉敷、井原、津山、笠岡、玉島、福田地区の遊休民間工場、空学校など15ヶ所、亀島山、江島、五軒屋など地下・半地下施設に鈑金・機械・組立・鍛造工場の分散疎開を実施します。
各疎開工場は生産部品を本工場(工場地区)に残った組立工場に発送、組立工場において疎開工場からの部品、発動機、プロペラなどを組付ける総組立を行い、同じく本工場の整備工場で整備しました。

6月22日0825、警戒警報発令、0830、空襲警報発令、0836、米第20航空軍第314航空団のB29、123機が来襲、うち108機が水航に来襲し603tの爆弾を投弾、4名が爆死、13名が負傷、總事務所以下建物10棟が全壊全焼、第二組立工場以下15棟、倉庫12棟が半壊半焼、工作機械85台が破壊、70台が損傷、一式陸攻27機が破壊されてしまいます。
当日は金曜日でしたが、節電休業日(日曜と振替)であったため設備の甚大な被害に比べ、人的損害は僅少でした。
水島航空機製作所 空襲(岡山倉敷)
▲6月22日の空襲後の水島航空機の惨状

水島航空機製作所 空襲3(岡山倉敷)
▲6月22日の空襲後の水島航空機の惨状

水島航空機製作所 空襲2(岡山倉敷)
▲6月22日の空襲後の水島航空機の惨状

7月24日、米軍戦闘機30機が3波に分かれ来襲しますが、被害は軽微でした。

4月以来、水航は7度に渡る空襲を受け建物34,110坪、工作機械311台、その他材料、仕掛品などに甚大な被害を受けてしまいますが、大半の生産設備は分散疎開されており生産を続行するも、工場分散による作業能率低下、熟練工の相次ぐ出征により生産力が低下してしまいます。

8月1日、軍需省中國軍需監理局通牒により通称を「神州七〇〇〇工場」と改称します。

15日、全従業員は本工場、各疎開工場で『大東亜戦争終結ノ詔書』の玉音放送を拝聴し、停戦を迎えます。
停戦時の従業員数は不明ですが、昭和19(1944)年1月末時点で職員(正員・準員・雇員・嘱託・その他)1,395名(内兵役63名)、工員11,807(兵役608名、應徴士3,014名)、名航への派遣者696名の計13,898名、12月末時点で総計22,744名、昭和20年の最盛期で30,000名超が生産に従事していました。

16日、荘田所長以下課長、工場長が残務処理を開始、連日今後の方針に付いて会議が持たれます。

22日、三菱重工業㈱本店より各部所に軍需生産停止命令が示達され、應徴士・學校報國隊・女子挺身隊の勤労が解除・解散、自発退職者の対応を行い、工場用地は大蔵省に移管されます。

9月2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により『一般命令 第一号』が公布、我が国の軍需生産は禁止され、生産禁止品目が発表、10月10日、我が国の航空機生産・加工が禁止され、11月18日、『航空禁止令』が公布されます。
三菱重工業本店は水航などを除く14ヶ所の製造所・工場を閉鎖、 3製造所・工場の合併を進め、臨時航空機工場整理事務所を発足します。

水航では英国グラスゴー大学卒業で英語が堪能な荘田所長が米第1軍団司令部(京都)に直接赴き、水航の民需工場への転換と存続を交渉します。

11月15日、三菱重工業㈱第七製作所は三菱重工業㈱水島機器製作所(以下「水機」)と改称します。

12月16日、岡山に進駐した米第24師団司令部より民需工場への転換と存続の内諾を得、各地の疎開工場から設備・工作機械・仕掛品・成品を爆撃を逃れた水島青年學校本・実習工場に移設し、米第1軍団からロッカー(21年2月8日受注)、同第24師団から暖炉煙突、食卓盆、三菱車体から機関車運転室、三菱商事からメンソレータム容器などの製造を開始します。

昭和21(1946)年1月20日、航空機関係の15工場はGHQにより賠償工場指定を受け、2月、水機も対象となり生産に支障が出ます。

3月20日、米第1軍団司令部から水機の民需工場への転換と存続の許可が下り、5月8日、正式な許可書を受領します。

6月29日、自動三輪車の第一号車「みずしま」が完成、量産に入ります。

10月1日、GHQは我が国が再び米国の脅威とならない様に経済機構を破壊すべく財閥解体を断行、三井・住友・安田と並び㈱三菱本社が解散します。

11月7日、所長通達により「スリーダイヤモンド」の使用が禁止され、「MEW(MIZUSHIMA ENGINEERING WORKS)」の使用が通達されます。

昭和22(1947)年4月9日、社宅・寮・鉄道・水道等を管理、残存工場への中小工場誘致と水島の工業都市建設を目指し、三菱地所㈱とともに水島工業都市開発㈱を設立します。

昭和23(1948)年6月17日、荘田泰蔵所長は三菱重工業㈱の常務取締役に、水機所長に有川藤太郎副所長が就任します。

昭和25(1950)年1月11日、GHQは『過度経済力集中排除法』を制定、三菱重工業㈱は東日本重工業㈱、中日本重工業㈱、西日本重工業㈱の3社に分割され、水島機器製作所は中日本重工業㈱水島製作所と改称します。

昭和26(1951)年5月1日、有川藤太郎所長は中日本重工業㈱の企画部長に、水島所長に岡田俊一名古屋製作所副所長が就任します。

11月、大蔵省から岡山県へ旧水航本用地の払下げ内認可があり、岡山県より中日本重工業㈱に使用予定地の伺いがあったため130,000坪の使用を要望します。

昭和27(1952)年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効に伴い我が国は独立を回復、倍賞指定工場が解除、5月29日、「三菱」の商号・商標の使用を復活し、中日本重工業㈱は新三菱重工業㈱に改称、昭和35(1960)年10月1日、新三菱重工業㈱水島製作所は同水島自動車製作所と改称します。

昭和39(1964)年6月1日、3社に分割された三菱日本重工㈱(旧東日本重工業㈱)、新三菱重工業㈱、西日本重工業㈱は再び合併し三菱重工業㈱となり、新三菱重工業㈱水島自動車製作所は三菱重工業㈱水島自動車製作所と改称します。

昭和45(1970)年4月22日、米クライスラー社と合弁し三菱自動車工業㈱が設立、三菱自動車工業㈱乗用車事業部水島自動車製作所と改称、昭和49(1974)年6月15日、三菱自動車工業㈱水島自動車製作所と改称、平成3(1991)年6月27日、三菱自動車工業㈱乗用車生産本部水島自動車製作所と改称し、現在に至ります。


主要参考文献
『水島自動車製作所50年史』(平成5年9月 水島自動車製作所50年史編さん委員会)

『三菱重工業株式会社史』(昭和31年 三菱重工業株式会社史)

『新修 倉敷市史 7 現代』(平成17年3月 倉敷市史研究会)

『岡山の記憶 第10号』(平成20年8月 岡山・十五年戦争資料センター)

『倉敷の戦争遺跡マップ』(倉敷市 平成22年1月)
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お久しぶりです。

滑走路跡の道路とは驚きました。

何年前かに仕事で通りましたね。

Re: お久しぶりです。

奥山様、ご無沙汰いたしております。

各地に遺る飛行場跡で滑走路が道路に転用されて遺っている例は結構あります。
畑や民家になり面影の無い例もありますが、道路でしたら滑走路っぽく見えるので嬉しい?ものですね。

こんばんは

最近、開発等で昔の面影が失われて知らないと気づかないものですね。

たしか近鉄の駅だったか、未だに機銃掃射を受けた痕が残っていると聞いた事がありました。

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 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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