豊臣期大坂城石垣、公開(軍跡おまけ付き)
本日は大坂城で開催されている「特別史跡大坂城跡発掘調査現場一般公開」に行って来ました。

▲豊臣期大坂城の石垣

今朝、毎日巡回している歴史ブログで表題の催しが行われているのを知りました。
公開は本日20日(金)から22日(日)の3日間ですが、現地説明会があるのは今日だけの様です。
ここで簡単に「大坂城の石垣」について説明をしておきます。
大坂城は天正11(1583)年、豊臣秀吉により築城が開始され、秀吉没後の慶長4(1599)年に完成し、伏見城から遺児・秀頼が入り城主となりますが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で徳川家康の攻撃を受け落城し焼失してしまいます。
元和6(1620)年、徳川秀忠により再築されますが、豊臣期大坂城の全ての遺構は土中深くに埋められたその上に新たな徳川期大坂城が築城されます。
現在、見る事のできる大坂城はこの徳川期大坂城です。
慶応4(1868)年、新政府と幕府軍による幕末の混乱の際の出火により、多くの建物が焼失してしまいます。
明治期になり大坂城は陸軍省の所轄地になりますが、昭和20(1945)年の米軍による空襲により大半の建物が焼失してしまいます。
昭和34(1959)年の発掘調査で本丸の地下で豊臣期石垣を発見(中ノ段帯曲輪と下ノ段帯曲輪の間の石垣)、現在はマンホール状の竪穴施設により定期的に公開されています。

▲大阪城天守閣復興80周年祭(平成23年)に公開された中ノ段帯曲輪下の石垣
昭和59(1984)年、新たに貯水池南側の地表の1m下から高さ6mの新たな石垣が発見(詰ノ段石垣)されます。

▲昭和59(1984)年の発掘時の詰ノ段石垣(現地説明板より)
今回、公開されるのは後者「詰ノ段石垣」です。
今回の調査結果、現場説明は大阪文化財研究所の公式サイトに詳細が記されているので、こちらを御覧ください。

▲今回の発掘場所

▲豊臣期大坂城の該当箇所
豊臣期大坂城の遺構は現在は一切見る事ができません。
一部の石垣が移設復元?されていますが、復元と言うには程遠い状態の物です。
その幻の豊臣期大坂城の遺構が築城当時のままの姿で見れると言う事で喜び勇んで行って来ました。
結果は・・・・(´・ω・`)

▲今回公開された豊臣期石垣(これだけです)
う~ん、見れるのは見れましたが想像していたのと違います。
てっきり昭和59(1984)年の発掘と同じ状態(上掲の写真)、もしくはそれに近い状態で「石垣を」見れると思ったのですが、天端石(石垣上端部の石)5個が僅かに穴の底に見えるだけです。
正直、残念な状態で、石垣というより穴の底に「石が並んでいる」と言った感じです。
ただ、今回の発掘調査により石垣以外に瓦溜まり(建物解体時の残材捨場)、金藏の土塀の痕跡、金藏移築時の遺構が発掘されました。

▲徳川期の瓦だまり

▲豊臣期の瓦
下の軒丸瓦は金箔が付いています。

▲徳川期の葵紋の鬼瓦

▲幕末に炎上し変形した瓦

▲金藏周辺に張り巡らされた土塀の礎石

▲明治期に配水池建設の為移設された金藏周辺の雨落溝
そして、帝國陸海軍の遺構好きには堪らない遺構?が出土していました!
現説、配布資料では殆ど触れられず、ただ現地に簡単な看板で説明されてるだけでしたが、発掘場所で最大の大きさを誇り、最も目立つ遺構が真ん中にドンと現れています。

▲発掘された自動車庫の基礎
写真左側が入口
コンクリート製の自動車庫の基礎です!
自動車庫は第四師團司令部庁舎とともに昭和6(1931)年3月22日に竣工しますが、大東亜戦争停戦とともに破壊され更地化されてしまいます。

▲自動車庫

▲今回の発掘平面図
「コンクリート基礎」の記載箇所が自動車庫の基礎

▲テント側が入口

▲自動車庫の柱部分の鉄筋

▲東側の部屋にある半地下室
車台の整備用の部屋?
この場所に自動車庫があった事は知っていたのですが、写真でしか見た事が無く、今日の現説でその規模や構造が良く分かりました。
石垣は残念な結果でしたが、思わぬ戦果があった本日の現地説明会でした。
職員の方にも伝えましたが、石垣の公開の際はこの自動車庫の基礎も何とか遺して欲しいものです。

▲会場で行われていた寸劇
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▲豊臣期大坂城の石垣


今朝、毎日巡回している歴史ブログで表題の催しが行われているのを知りました。
公開は本日20日(金)から22日(日)の3日間ですが、現地説明会があるのは今日だけの様です。
ここで簡単に「大坂城の石垣」について説明をしておきます。
大坂城は天正11(1583)年、豊臣秀吉により築城が開始され、秀吉没後の慶長4(1599)年に完成し、伏見城から遺児・秀頼が入り城主となりますが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で徳川家康の攻撃を受け落城し焼失してしまいます。
元和6(1620)年、徳川秀忠により再築されますが、豊臣期大坂城の全ての遺構は土中深くに埋められたその上に新たな徳川期大坂城が築城されます。
現在、見る事のできる大坂城はこの徳川期大坂城です。
慶応4(1868)年、新政府と幕府軍による幕末の混乱の際の出火により、多くの建物が焼失してしまいます。
明治期になり大坂城は陸軍省の所轄地になりますが、昭和20(1945)年の米軍による空襲により大半の建物が焼失してしまいます。
昭和34(1959)年の発掘調査で本丸の地下で豊臣期石垣を発見(中ノ段帯曲輪と下ノ段帯曲輪の間の石垣)、現在はマンホール状の竪穴施設により定期的に公開されています。

▲大阪城天守閣復興80周年祭(平成23年)に公開された中ノ段帯曲輪下の石垣
昭和59(1984)年、新たに貯水池南側の地表の1m下から高さ6mの新たな石垣が発見(詰ノ段石垣)されます。

▲昭和59(1984)年の発掘時の詰ノ段石垣(現地説明板より)
今回、公開されるのは後者「詰ノ段石垣」です。
今回の調査結果、現場説明は大阪文化財研究所の公式サイトに詳細が記されているので、こちらを御覧ください。

▲今回の発掘場所

▲豊臣期大坂城の該当箇所
豊臣期大坂城の遺構は現在は一切見る事ができません。
一部の石垣が移設復元?されていますが、復元と言うには程遠い状態の物です。
その幻の豊臣期大坂城の遺構が築城当時のままの姿で見れると言う事で喜び勇んで行って来ました。
結果は・・・・(´・ω・`)

▲今回公開された豊臣期石垣(これだけです)
う~ん、見れるのは見れましたが想像していたのと違います。
てっきり昭和59(1984)年の発掘と同じ状態(上掲の写真)、もしくはそれに近い状態で「石垣を」見れると思ったのですが、天端石(石垣上端部の石)5個が僅かに穴の底に見えるだけです。
正直、残念な状態で、石垣というより穴の底に「石が並んでいる」と言った感じです。
ただ、今回の発掘調査により石垣以外に瓦溜まり(建物解体時の残材捨場)、金藏の土塀の痕跡、金藏移築時の遺構が発掘されました。

▲徳川期の瓦だまり

▲豊臣期の瓦
下の軒丸瓦は金箔が付いています。

▲徳川期の葵紋の鬼瓦

▲幕末に炎上し変形した瓦

▲金藏周辺に張り巡らされた土塀の礎石

▲明治期に配水池建設の為移設された金藏周辺の雨落溝
そして、帝國陸海軍の遺構好きには堪らない遺構?が出土していました!
現説、配布資料では殆ど触れられず、ただ現地に簡単な看板で説明されてるだけでしたが、発掘場所で最大の大きさを誇り、最も目立つ遺構が真ん中にドンと現れています。

▲発掘された自動車庫の基礎
写真左側が入口
コンクリート製の自動車庫の基礎です!
自動車庫は第四師團司令部庁舎とともに昭和6(1931)年3月22日に竣工しますが、大東亜戦争停戦とともに破壊され更地化されてしまいます。

▲自動車庫

▲今回の発掘平面図
「コンクリート基礎」の記載箇所が自動車庫の基礎

▲テント側が入口

▲自動車庫の柱部分の鉄筋

▲東側の部屋にある半地下室
車台の整備用の部屋?
この場所に自動車庫があった事は知っていたのですが、写真でしか見た事が無く、今日の現説でその規模や構造が良く分かりました。
石垣は残念な結果でしたが、思わぬ戦果があった本日の現地説明会でした。
職員の方にも伝えましたが、石垣の公開の際はこの自動車庫の基礎も何とか遺して欲しいものです。

▲会場で行われていた寸劇
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