当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

倉敷海軍航空隊

岡山県倉敷市南畝(みなみせ)から松江にかけて倉敷海軍航空隊がありました。
倉敷海軍航空隊 ア 士官舎 基礎 東から(岡山倉敷)
▲定員分隊士官舎 厠基礎(東から)
【探索日時】
平成24年3月20日






倉敷海軍航空隊 周辺
倉敷海軍航空隊 軍都計画(岡山倉敷)
▲軍都整備事業補助申請箇所圖
 右下が倉敷海軍航空隊(表記は「海軍倉敷航空隊」)

倉敷海軍航空隊(230303)(岡山倉敷)
▲昭和23(1948)年3月3日の倉敷海軍航空隊跡地(国土地理院 NI-53-27-2)

倉敷海軍航空隊 現在(岡山倉敷)
▲現在の地図に転写


倉敷海軍航空隊の概要
急増した第二十一・二十二・二十三・二十四期海軍乙種飛行豫科練習生の教育機関として開隊します。

遺構について※青字は地図にリンクしています。
(番号・遺構配置は上掲地図参照)
ア 定員分隊士官舎 厠
畑の中にある別の小さな畑の中にあります。
巾3.7×奥行6m、便器部分は奥行0.8×深さ1.3mあり、煉瓦とコンクリートでできています。
倉敷海軍航空隊 ア 士官舎 基礎 北から(岡山倉敷)
▲北から
 側面が煉瓦造、上面はコンクリート塗ですが、上に農機具小屋が建てられ資材が置いてあり良く見えません。

※厳重に囲まれた畑の中にあり、見学には注意が必要です。


イ 隊門跡
隊門は現在の双葉製作所辺りにありましたが、遺構は遺されていません。
倉敷海軍航空隊 イ 隊門 跡 北から(岡山倉敷)
▲現在の隊門跡

倉敷海軍航空隊隊門(岡山倉敷)
▲倉敷海軍航空隊隊門

隊門の北側には巾10mの通称「海軍道路」が伸びており、現在も他の区画とは異なる道が遺ります。
倉敷海軍航空隊 イ 隊門 前から北(岡山倉敷)
▲隊門から北に伸びる海軍道路が農道に転用され遺されています。

隊門の他に西門裏門がありましたが、同じく遺構は遺されていません。


ウ 地下壕群
倉敷空敷地内南側にある王島山の北側斜面に地下壕数本遺されている様です。
地下壕は㈱丸中の倉庫(元和田組松江倉庫)の裏にありますが、普段は無人の倉庫のため入れません。
隣接する広本建設の敷地内から入れる様で交渉し許可は頂いたのですが、その方の上司らしき方に挨拶したところ、隣の敷地にあるのでそちらの許可を取って欲しいとの事でしたが、あいにく祭日のため休みで連絡がつかず、会社まで訪ねましたが誰もおらず断念しました。


エ 地下壕・倉庫基礎
航空隊北東の広江2丁目の千人塚西側山麓の畑にあります。
倉敷海軍航空隊の豫科練生により掘削されました。
当時は6本の地下壕が掘削されていた様ですが未完成のまま停戦を迎え、その後崩落により1本の壕口のみが遺ります。
壕口の横にコンクリート製倉庫の基礎が遺りますが、地下壕とともに農機具小屋に転用され、地権者により入口は鍵がかけられており入れません。
倉敷海軍航空隊 エ 地下壕(右)と倉庫基礎(左の下部のみ)(岡山倉敷)
▲地下壕壕口(左)と倉庫基礎(右、ブロック積みの下のコンクリート部分)

倉敷海軍航空隊 エ 付近の水槽(関係ない?)(岡山倉敷)
▲上記地下壕の南側15m程にある崩落跡?
 斜面が溝状になり、地下水が出ています。

この山の南側にも地下壕が数本遺っている様ですが、場所が不明確なうえ民家が密集しているため今回は未踏査です。


倉敷海軍航空隊 概略
昭和19(1944)年、海軍省人事局(三戸寿少将)は逼迫する戦況に陸海軍協定外の飛行豫科練習生の確保を積極的に行い、確保した人員の一部を搭乗員以外の水上・水中特攻、用地防衛、基地築城兵力として本土決戦の主兵力として備える事を立案し、豫科練習生の大量採用を行います。
大量採用した豫科練習生の教育に関しては半分から3分の1は搭乗員教育を実施、残りは電信員、電測員、整備員、気象員として養成、機を見て搭乗員としての教育を実施する計画でした。

大量採用された豫科練習生の教育航空隊として岡山県児島郡福田村(現、倉敷市南畝・同松江)に倉敷海軍航空隊の設置が決定、昭和19(1944)年2月25日、第一福田國民學校において、福田村より福田村松江の農家60戸弱に対し航空隊用地の買収、村が用意した中畝・南畝・王島への住居移転及び補償に関する説明が行われます。
買収・補償費用は住家2,700円、風呂35円から立木の松45円、柿20円に至るまで補償され、さらに金一封が支払われます。

航空隊建設は呉海軍施設部の指揮監督のもと労務者が主力となり、近隣住民の協力を得て進められます。

11月1日、未完成ながら、倉敷海軍航空隊(藤村正亮大佐)が開隊、第十九聯合航空隊(服部勝二少将)に所属します。

昭和20(1945)年2月8日、『空襲対策緊急要領(強化)及緊急施設措置等』の閣議決定を受け、海軍省令により三重空練習生分散措置(疎開)のため乙飛二十一期800名、乙飛二十二期800名、乙飛二十三期800名、乙飛二十四期1,800名は倉敷空に転隊します。

3月1日、第十九聯合航空隊の解隊に伴い、第二十一聯合航空隊(三木森彦少将)に配属、學生舎・講堂等の竣工に伴い、乙飛二十一期800名、乙飛二十二期800名、乙飛二十三期800名、乙飛二十四期1,800名が入校します。

20日、空襲激化に伴い練習生の安全を確保すべく隊内警備に編成された倉敷海軍特設陸戦隊を除き、全練習生は練習聯合航空總隊(松永貞市中将)司令部の割当人員に基づき三菱重工業㈱第七製作所(水島航空機製作所)の設営、防空砲台設営、松根油精製、軍需物資用地下壕建設作業に派遣(疎開)されます。

6月1日、官房機密『飛行専修豫備學生、同豫備生徒及飛行豫科練習生教育ニ対スル非常措置』が通達され、豫科練教育は停止され、倉敷空は小富士空とともに水上・水中特攻要員の基礎教育が開始されます。

22日、西側に隣接する三菱重工業㈱第七製作所が米第20航空軍第314航空団のB29、108機の空襲を受けた際の火災により類焼、多くの建物が焼失してしまいます。

7月15日、第二十一聯合航空隊の解隊に伴い、呉鎭守府(金澤正夫中将)に配属されます。

20日、森本丞予備役少将が司令に着任し、水上・水中特攻要員の基礎教育を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

『三重海軍航空隊史』によると乙飛の入隊は「昭和20年3月1日」に一括で記述されていますが、『海軍飛行豫科練習生』によると「昭和19年11月1日に乙飛二十一期2個分隊500名」、「昭和19年12月21日に乙飛二十二期2個分隊500名」、「昭和20年2月1日乙飛二十三期800名」と記載されており、「乙飛二十四期」の入隊は記載がありません。

停戦後、倉敷空用地は大蔵省に移管、昭和21(1946)年初旬、用地は大蔵省から返還され、元海軍航空隊跡地開拓団が結成され、農地に転換され現在に至ります。


主要参考文献
『三重海軍航空隊史』 (昭和56年5月 梶山治・赤平弘編纂 若桜福祉会)

『海軍飛行豫科練習生 全2巻』(昭和58年12月 国書刊行会)

『倉敷の戦争遺跡マップ』(倉敷市 平成22年1月)

『山陽新聞 終戦間際、倉敷に海軍航空隊開設 土地買収文書見つかる「立木1本まで補償」 証言 初めて裏付け』(平成19年5月16日)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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