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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠

大阪府枚方(ひらかた)市には大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠がありました。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 サ 電柱(大阪)
▲側線跡に移設された電柱と境界石標

【探索日時】
平成22年1月2日、10日、平成27年1月20日、7月18日

【更新情報】
平成22年11月16日・・・地図追加
平成27年5月30日・・・大幅改訂
平成27年7月18日・・・現地説明会追加





枚方市周辺の軍事施設配置
大造枚方製造所 枚方・交野全図(大阪)
▲昭和20(1945)年頃の枚方市周辺
※緑文字が当記事の紹介施設
①大阪陸軍造兵廠 枚方製造所
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠
③大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 天之川工場(旧倉敷紡績㈱枚方工場)
④枚方陸軍官舎
⑤大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 養生校(技能養成校)
⑥ 〃         霧島寮(工員寮)
⑦ 〃         敷島寮( 〃 )
⑧大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠官舎
⑨大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 保健寮(工員保養所)
⑩高射砲陣地
⑪  〃
軍用側線
⑬以下は別ページで紹介します


大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠の概要
当施設は砲兵第二方面本署 禁野(きんや)出張所(明治30年4月、創設時)、大阪陸軍兵器本廠 禁野彈藥庫(明治30年10月10日~)、大阪陸軍兵器支廠 禁野彈藥庫(明治36年5月1日~)、大阪陸軍兵器支廠 禁野倉庫(昭和11年~)、大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠(昭和15年5月1日~停戦)と度々名称が変更されていますが、現在は一般に禁野火薬庫禁野弾薬庫と呼ばれています。

設立当初は火薬・砲弾の貯蔵・発送のみを行いますが、後に砲弾の組立て(火薬熔填・信管取付、調整)・解体(信管取外し)作業及び、それら弾丸、弾薬、信管の貯蔵、補給を行います。
昭和14(1939)年の爆発事故発生により、砲弾の組立て・解体作業、弾丸、弾薬、信管の貯蔵は昭和16(1941)年に新設された祝園(ほうその)填藥所に移管され、当施設では未填薬弾、薬莢類の保管のみが行われました。

用地
明治30(1897)年4月、竣工時 : 217,661㎡
昭和8(1933)年、最盛期    : 410,200㎡
昭和15(1940)年、爆発事故後: 142,560㎡  
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 枚方製造所(現在)M43(大阪)
▲明治43(1910)年頃の敷地範囲(着色部)

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 明治43年(大阪)
▲『大阪陸軍兵器支廠禁野彈藥庫圖』

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 枚方製造所(現在)S12(大阪)
▲昭和13(1938)年頃、最盛期の敷地範囲
 水色着色:大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫
 紫色実線:陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 昭和12(大阪)
▲『大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫要圖』(昭和12年2月調整)

大造枚方製造所 枚方製造所(現在)(大阪)
▲現在の地図に施設を転写(昭和20年頃)
 下記の番号・遺構配置は当地図参照

遺構について※青字は地図にリンクしています。
② 大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠
明治28(1895)年4月17日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結、我が国は安全保障のため軍備増強を決定し、師團増設とともに弾薬庫の建設を推進します。
明治29(1896)年2月、大阪府北河内郡牧野村大字禁野、渚(現、枚方市)の国有林を管理転換、民有地の買収を実施、明治30(1897)年4月、砲兵第二方面本署 禁野(きんや)出張所を開設し、弾薬類の貯蔵を開始します。
9月大阪陸軍兵器本廠 禁野彈藥庫、明治36(1903)年4月、大阪陸軍兵器支廠 禁野彈藥庫と改称します。
明治40(1907)年4月、敷地を拡張、明治42(1909)年8月20日、爆発事故発生により、大半の火薬庫・弾薬庫が倒壊してしまいます。
明治43(1910)年12月、明治44(1911)年1月、3月、大正5(1916)年12月、大正13(1924)年10月、昭和8(1933)年5月、民有地の買収を行い敷地を拡張します。
昭和11(1936)年、大阪陸軍兵器支廠 禁野倉庫と改称します。
昭和14(1939)年3月1日、爆発事故発生、10月11日、敷地北側を隣接する陸軍造兵廠大阪工廠 枚方製造所に移管します。
昭和15(1940)年5月1日、大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠と改称、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始します。
分廠は米軍により接収され軍需品の処理の後(日時不明)、大蔵省(現、財務省)に返還され大阪財務局の管理下に入りますが、10月16日、枚方市が旧陸軍省用地の払下げを申請、昭和21(1946)年4月、分廠及び枚方製造所西側の一画に大阪大学工学部枚方学舎が開校、昭和24(1949)年、分廠南端に枚方市立伝染病院(昭和25年、市民病院に改称)が開院、昭和31(1956)年、日本住宅公団により開発され中宮団地の建設が開始、昭和42年、大阪大学工学部が移転、跡地も日本住宅公団により開発され中宮団地が拡張、近畿財務局合同宿舎等が建設され現在に至ります。

当地では昭和61(1986)年から断続的に建設工事に伴う発掘調査が行われており、当時の基礎や遺物が多数検出されています。
大阪陸軍造兵廠 枚方製造所(Japanese Air Target Analyses)1(大阪)
▲昭和20(1945)年5月23日の大阪陸軍造兵廠 枚方製造所空撮
 米軍戦略爆撃調査団『Japanese Air Target Analyses』

f 土塁
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠(当時は大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫)の地上に遺る唯一の遺構です。
五號乾燥火藥庫の西側(他の3方は破壊)の防爆土塁です。
大造枚方製造所 f 土堤 南東から(大阪)

※平成27(2015)年7月、該当土塁周辺の発掘調査により設立当初のヰ號火藥庫、爆発事故後に建設された五號乾燥火藥庫の基礎が出土しました。
大阪陸軍兵器補給廠枚方分廠 現地説明会 f ヰ號火薬庫・五號乾燥火薬庫 南東から(大阪)
▲詳細は拙ブログ『大阪陸軍兵器補給廠枚方分廠 現地説明会』参照


カ 軽便軌条、建物基礎、模擬土塁
PFI枚方住宅3号館前に建設工事中に出土した軽便軌条の石製枕木、建物基礎の石材を転用、土塁を模した花壇を配した公園があります。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 カ 転用軽便軌道枕木(大阪)
▲軽便軌条の石製枕木

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 カ 転用石材(階段) (3)(大阪)
▲出土した建物基礎の石材を転用した階段

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 カ 転用石材(建物礎石)(大阪)
▲出土した建物礎石

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 カ 転用石材(階段)(大阪)
▲土塁を模した花壇

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 カ 説明(大阪)
▲付近にある説明板
 この説明板の周囲を囲む石材も出土した基礎の様です。


キ 殉職義烈之碑
昭和15(1940)年3月1日に建立されました。
昭和14(1939)年3月1日、大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫で爆発事故が発生、38名が死亡、52名が負傷してしまいます。
この時の爆発事故の殉職者の慰霊碑です。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 キ 殉職義烈之碑(昭和15年3月1日)(大阪)
▲残念ながら敷地は雑草だらけ、周囲の柵も破損してしまっています。


ク 殉職記念碑
昭和15(1940)年3月1日に建立されました。
昭和14(1939)年3月1日の大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫爆発事故に際し殉職した、枚方町公設消防組員・茨木安三氏以下15名、町会議員・山本徳次郎氏の警防精神を顕彰して建立されました。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 ク 殉職記念碑(大阪)
▲裏面に殉職者全員の氏名と顕彰文が告示されています。


ケ 説明板
古代から現在に至る中宮団地の簡単な説明板があります。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 ケ 説明(大阪)
▲大阪陸軍兵器補給廠枚方分廠についても触れられています。


コ 擁壁
現在は駐車場になり、破壊されてしまいました。
骨材に玉砂利が多数含まれた古い物で枚方分廠南西の外周道路擁壁と思われますが、関係ある物か不明です。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 コ 壁(大阪)
▲中央に古い角材が遺ります。

因みに枚方分廠の境界はこの道路の北側と民家の境でした。


⑧ 大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠官舎
昭和60(1985)年まで官舎2棟、給水塔が遺っていた様ですが、残念ながら全て破壊され遺構は遺されていません


⑫ 軍用側線
現在、側線跡は道路に転用されています。
昭和10(1935)年9月、陸軍省は水運、牛馬車で行っていた弾薬輸送を効率化するため、鐵道省線片町線津田駅(現、JR津田駅)から大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫までの側線敷設を計画、昭和11(1936)年7月、側線用地15,151坪を買収、昭和12(1937)年12月28日、側線構内引き込み部を延長、積卸場が完成し、鉄道による弾薬輸送を開始します。
昭和20(1945)年1月、側線の大阪陸軍造兵廠枚方製造所構内側が延長されます。
大東亜戦争停戦後、枚方分廠側は撤去されますが、枚方製造所側は昭和25(1950)年頃まで残存していた様です。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 ①側線・片町線合流部から 北東方向(大阪)
側線分岐部付近
 正面の白いビルと赤屋根の間にある駐車場が側線跡です。

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 ②側線・片町線合流部から 北東方向(大阪)
現在の国道307号線に向かいます。

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 ③側線(国1池之宮北)南東から(大阪)
側線は現在の国道307号線から府道139号線に

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 ④側線(府139中宮山戸町)南東から(大阪)
▲側線は府道139号線から分岐(歩道橋下の横断歩道付近

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 ⑤側線(府139中宮山戸町)南東から (2)(大阪)
▲大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠に向かいます。

現在、側線跡は道路に転用され、平成3(1991)年3月、終点付近の一帯が中宮平和ロードとして、電柱1本、境界石標3本が移築され保存されています。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 サ 電柱(大阪)
▲側線跡に移設された電柱と境界石標

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 サ「陸軍用地」(移設)×3 (2)(大阪)
▲陸軍用地

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 サ「陸軍用地」(移設)×3(大阪)
▲陸軍用地


大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 略歴
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月、陸軍平時編制を制定し、第七から第十二師團の編成を決定します。
同時に各部隊に砲弾・弾薬を円滑に補給するための施設整備の一環として火薬庫の新設が進められます。

明治29(1896)年2月、陸軍省は大阪府北河内郡牧野村大字禁野、渚(現、枚方市)の火薬庫用地25,898坪(217,661㎡?資料により面積が異なる)の国有林を管理転換、民有地を買収します。
地政学上、当時主力だった輸送手段である水運の弁が良く、且つ人家が少なく段丘上にあるため防爆・防諜に適した禁野一帯が選定されたと言われています。
10月、火薬庫施設が完成、明治30(1897)年4月、砲兵第二方面本署禁野出張所が開設、弾薬類の貯蔵を開始します。

明治30(1897)年9月15日、勅令第三百四號『陸軍兵器廠條例』が制定、10月10日、陸軍省達乙七十四號より砲兵第二方面本署は大阪陸軍兵器本廠に改編、砲兵第二方面本署禁野出張所は大阪陸軍兵器本廠禁野彈藥庫と、明治36(1903)年4月14日、勅令第七十八號『陸軍兵器廠條例』改正により、5月1日、大阪陸軍兵器支廠禁野弾藥庫と改称します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発します。

明治40(1907)年4月、民有地4,188坪を買収し敷地を拡張します。

明治42(1909)年8月、構内に軽便軌条が敷設されます。

20日、構内西南端に隣接してあった大阪砲兵工廠管下の第一號誘發鉱山火藥格納倉庫(黒色火薬70t格納)と第二號爆發ダイナマイト格納倉庫(ダイナマイト23t格納)がダイナマイトの自然発火により相次いで爆発、施設の大半が倒壊、近隣の民家25戸が大破、1,470戸が小破してしまいますが、幸い警備にあたっていた第四師團(大阪)所属の兵7名が軽傷を負った程度で人的被害は僅少でした。
陸軍省は爆発事故による罹災者に補償を実施、周辺地域から生起した火薬庫撤去の動きに再発防止を誓い説得、施設の復旧を行いつつ、明治43(1910)年12月、民有地34,275坪、明治44(1911)年1月、民有地234坪を買収、3月、官有地を管理転換(面積不明)、明治45(1912)年8月9日、大阪陸軍兵器支廠宇治火藥庫に退避させていた弾薬類を再収容し復旧工事は完了しました。

大正4(1915)年5月11日、第三號未填藥彈丸庫において十五糎榴散彈の脱薬作業中に織工の不注意から砲弾が破裂しますが、織工は頭と手を負傷しただけで、建物被害も僅少でした。

大正5(1916)年12月、民有地290坪を買収します。

大正6(1917)年10月30日、9月28日夜からの降雨及び強風により天之川堤防が決壊、禁野彈藥庫周辺の窪地一帯が水没しますが、被害は軽微でした。

大正13(1924)年10月11日、敷地崩落保全のため民有地を買収(面積不明)します。

昭和8(1933)年5月、民有地52,819坪を買収(11月25日、57,467坪買収の記録有るも同じ箇所の事か?)、敷地を拡張します。

昭和10(1935)年9月、陸軍省は水運、牛馬車で行っていた弾薬輸送を効率化するため、鐵道省線片町線津田駅(現、JR津田駅)から大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫までの側線敷設を計画、昭和11(1936)年7月、側線用地15,151坪を買収、昭和12(1937)年12月28日、側線構内引き込み部を延長、積卸場が完成し、鉄道による弾薬輸送が開始されます。

昭和11(1936)年、大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫と改称します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生します。

昭和13(1938)年1月、東側に隣接し陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設します。

昭和14(1939)年3月1日1440、第十五號未填藥彈丸庫において上海から還送されてきた重迫撃砲弾の信管離脱作業中に爆発事故が発生、爆発は14時40分から18時55分までに大小27回記録(京大阿武山地震観測所)、火災の発生により周辺の弾薬庫が次々に誘爆、構内の設備大半、隣接する枚方製造所の一部の施設が倒壊・焼失してしまいます。
禁野倉庫職員は直ちに枚方製造所、及び枚方町消防組に応援を依頼しますが、火災は折からの強風に煽られ周辺民家にも飛火、周辺の禁野、中宮、渚、天之川の民家はほぼ全焼・全壊、磯島、三矢、岡などにも延焼、2日0300頃、鎮火しましたが、弾片は禁野倉庫を中心に半径2kmに及び、死者94名(禁野倉庫38名、枚方製造所29名、歩三十七1名、警察3名、消防13名、一般10名)、重軽傷者351名(禁野倉庫52名、枚方製造所151名、民間149名)、民家(間借含む)の全焼827戸、全壊9、半壊16世帯の大事故になってしまいました(※被害数は資料により差有り)。

事故発生とともに第四師團(大阪)隷下の歩兵第八、三十七、工兵第四、第十六師團(京都)隷下の歩兵第九、工兵第十六各聯隊から1個中隊、大阪憲兵隊本部主力、大阪府警察部主力が出動し罹災者救援、治安、警備にあたります。
3月23日、大阪陸軍兵器支廠合同葬、25日、枚方警察葬、26日、官民合同葬が挙行されます。
大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 爆発事故2(大阪)

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 爆発事故(大阪)

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 爆発事故3(大阪)

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 爆発事故4(大阪)

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠 爆発事故5(大阪)
▲爆発事故で損壊した建物

陸軍は大阪府、大阪市と共同で罹災者の救護、支援を続けつつ、施設の復旧、整備、及び業務を再開しますが、10月11日、敷地北側を隣接する陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所に移管、砲弾の組立て・解体作業、弾丸、弾薬、信管の貯蔵を取り止め、禁野倉庫は未填薬弾丸、薬莢類の貯蔵・補給のみ実施します。

昭和15(1940)年3月30日、勅令第二百九號『陸軍造兵廠令』改正により、陸軍兵器廠と陸軍造兵廠が統合され陸軍兵器廠に改編された事から兵器支廠は兵器補給廠に改称、5月1日、大阪陸軍兵器補給廠枚方分廠と改称します。

昭和16(1941)年9月1日、大阪陸軍兵器補給廠祝園分廠が開設され、砲弾の組立て・解体作業、弾丸、弾薬、信管の貯蔵を開始します(昭和17(1942)年10月9日、勅令第六百七十七號『陸軍兵器補給廠令』施行に伴い10月15日、「祝園填藥所」に改称))。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和19(1944)年12月7日、米軍による本土空襲が激化している状況に鑑み、保管されていた弾丸、薬莢類を枚方・津田・交野各町の学校、神社、民家16ヶ所に疎開、分散格納します。

昭和20(1945)年4月26日、分廠周辺の道路面に、さらに5月4日、牧野付近の淀川堤防に疎開、分散格納し空襲に備える中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『枚方市史 第4巻』 (昭和55年 枚方市史編纂委員会)

『カルチュア はっとり No.10』 (平成19年3月 (財)大阪府文化財センター 日本民家集落博物館)

『いま、よみがえる枚方の20世紀 発掘・復元・検証』 (平成23年1月 大阪府文化財センター)

『禁野火薬庫資料集』 (平成1年 枚方市企画調査室)

『USA-M34-3-15』(国土地理院)

『Japanese Air Target Analyses』米軍戦略爆撃調査団空襲目標計画

・Yahoo!の地図
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枚方市 意賀美神社山頂付近にも高射砲が一基、保存されていたはずですが、現在は撤去されたのかな?

情報ありがとうございます!

ZUIKAKUさん、こんにちは!
意賀美神社、全く知りませんでした。
ネットで調べてみると、砲身が使用された忠魂碑のようですね。
忠魂碑巡りも好きなので、今度行ってみようと思います!
ありがとうございます!

砲身忠魂碑

こんにちは興味深く貴ブログを拝見していましたが、意賀美(おかみ)神社の追加情報を・・・

神社には駐車場もありますが分かりづらいところですよ

意賀美梅林も御茶屋御殿跡もお花見の人が多くなりますね、拙ブログに昨日訪問した画像を掲載中です。砲身忠魂碑は昨日のエントリーでアップしました。

砲身忠魂碑

福介さん、こんにちは。

情報ありがとうございます。
駐車場があるのであれば車で行けそうですね。

貴ブログ、拝見させていただきました。
70年以上経ってるとは思えない立派なモノですねぇ。
「お花見の人が多くなる」と言うことで、早めに言った方がよさそうですね。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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