当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠

兵庫県伊丹市、宝塚市、川西市にまたがり大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠がありました。
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 オ 「陸軍」55 南東から(川西・伊丹)
▲外周に残る「陸軍」の刻字のある境界石標

【探索日時】
平成21年11月1日、平成26年5月18日





大阪陸軍兵器補給廠川西分廠 周辺の陸軍施設配置
大阪陸軍獣医資材支廠 USA-M84-1-6(230823)加工(伊丹)
▲昭和23(1948)年8月23日の周辺の空撮(国土地理院 USA-M84-1-6)
 ※空撮は加工しています。

大阪陸軍獣医資材支廠 現在(伊丹)
▲現在の地図に施設を転写
※緑文字が当記事の紹介施設
①大阪陸軍獣醫資材支廠
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠
軍用側線
④大阪陸軍兵器補給廠 川西陸軍官舎


施設の概要
陸軍兵器補給廠は陸軍兵器行政本部長に隷し、陸軍における航空兵器を除く兵器、兵器材料、自動車燃料その他の軍需品の購買、保管、修理、補給、及び廃品処分を掌りました。
兵器補給廠は大阪の他、東京、千葉、名古屋、岡山、広島、小倉(西部軍管區司令官隷下)、平壌(朝鮮軍管區〃)、南満(奉天、關東軍〃)、台湾(台北、臺灣軍管區〃)、北海道(北部軍管區〃)、仙台、長野に設置され、各陸軍兵器補給廠には填薬所が置かれ、陸軍大臣により必要に応じ分廠、出張所が設置され、上記業務を分掌しました。

川西分廠は大阪陸軍兵器補給廠の分廠として砲弾、弾薬からドラム缶、木箱、荒縄など軍需品の保管を行いました。

当施設について「大阪陸軍造兵廠 川西補給廠」と言う名称が流布していますが、正しくは「大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠」です。


遺構について
※青字は地図にリンクしています
② 大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠
昭和17(1942)年(7月頃?)、陸軍省は大阪陸軍兵器補給廠に分廠の設置を決定、兵庫縣伊丹市、川西町(現、川西市)、寳塚町(現、宝塚市)一帯の果樹園、植木畑(民家4軒)に用地を選定し、中部軍経理部により用地買収が行われ、大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠が開設します。
昭和20(1945)年初旬、大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠と西側にあった大阪陸軍獣醫資材支廠への軍用側線が敷設されます。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始、分廠は米軍に接収されます。
接収解除の後(時期不明)、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』(8月28日、閣議決定)に基づき内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれ、昭和23(1948)から24年頃、元地権者による陳情により払い下げられ、再び果樹園になります。

昭和26(1951)年4月10日、警察予備隊(現、陸上自衛隊)の伊丹駐屯地開設に伴い、第3管区総監部(現、第3師団司令部)が宇治から伊丹に移駐、昭和28(1953)年、演習場開設のため分廠跡地の大半を買収、昭和41(1966)年2月21日、川西駐屯地が開設されます。
現在、西側は自衛隊官舎、東側は久代浄水場や民間企業、北側は学校になっています。

ア 「陸軍」 境界石標 82
バッティングセンターの駐車場にあります。
旗竿の支柱に転用されており、寄りによって正面の刻字、裏面の数字ともに見えにくいです。
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 ア 「陸軍」82 北西から(川西・伊丹)
▲間近で見ると、辛うじて「陸軍」の刻字が見えます。

大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 ア 「陸軍」82 北東から(川西・伊丹)
▲ボルトで見えにくいですが、「82」と刻字されている様です。


イ 「陸軍」 境界石標 60
民家の塀の角にあります。
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 イ 「陸軍」60 北西から(川西・伊丹)

大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 イ 「陸軍」60 東から(川西・伊丹)
▲裏面は「60」と刻字されている様です。


ウ 「陸軍」? 境界石標
池の入口にあります。
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 ウ 「陸軍?」(川西・伊丹)
▲上部が欠損しているのか、大半が埋まっている為刻字は不明です。


エ 「陸軍」? 境界石標
池のフェンス沿いにあります。
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 エ 「陸軍」? 西から(川西・伊丹)
▲殆ど埋まっており、刻字の確認はできませんでした。


オ 「陸軍」 境界石標 55
池の土堤上にあります。
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 オ 「陸軍」55 南東から (2)(川西・伊丹)
▲正面側

大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 エ 「陸軍」55 西から(川西・伊丹)
▲裏面は「55」と刻字されている様です。


大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 ②南端(自衛隊阪神病院) 南から(川西・伊丹)
▲大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠跡
 敷地跡の南端にある自衛隊阪神病院


③ 軍用側線
昭和18(1943)年7月、省線(現、JR)中山寺駅から敷かれた植木用の側線(引き込み線)を延長する形で軍用側線用地の買収が行われ、昭和20(1945)年初旬、大阪陸軍兵器補給廠川西分廠と西側にあった大阪陸軍獣醫資材支廠への軍用側線が敷設されました。
大東亜戦争停戦に伴い川西分廠側の側線は昭和20(1945)年10月頃、獣醫資材支廠側は昭和21(1946)年秋頃に撤去されました。

現在は大半が道路に転用され、区画が遺ります。
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 ③側線 ②補給廠方向へ(川西・伊丹)
▲側線跡の道路


B 隧道
天神川の下をくぐる側線の隧道が遺されています。
大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 B 隧道 西から(川西・伊丹)
▲西側から

大阪陸軍兵器補給廠 川西分廠 B 隧道 内側(川西・伊丹)
▲内部は鉄骨で補強されていますが、保存状態は良好で現役で使用されています。


主要参考文献
・昭和十七年十月九日 勅令第六百七十七號 『陸軍兵器補給廠令』

・昭和二十年二月九日 勅令第五十二號 『陸軍兵器行政本部令外十二勅令中改正ノ件』

『大手前大学史学研究所紀要 第2号 「阪神間にあった陸軍施設」 (森美恵子)

・国土地理院空撮(昭和23年8月23日の USA-M84-1-6)
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カテゴリ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
カウンター
最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。


●Facebookやってますので本名ご存知の方はぜひ。
目印は水木しげる先生風の自画像です(笑)

検索フォーム
リンク
地図・史資料
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
ライオンズニュース
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる