大正陸軍飛行場
大阪府八尾市に所在する陸上自衛隊 八尾駐屯地、及び八尾空港は大正陸軍飛行場の跡地にあります。

▲陸上自衛隊八尾駐屯地内に遺る飛行第二百四十六戰隊 戦闘指揮所
【探索日時】
平成20(2008)年10月11日、平成21(2009)年3月17日、10月10日ほか近所のため随時

<大正陸軍飛行場の場所>
大正陸軍飛行場は大阪府中河内郡大正村、 南河内郡志紀村(ともに現、八尾市南部)に飛行場、東側に隣接する中河内郡柏原町(現、柏原市)の山際にかけて掩体壕が設定されました。
<要目>
・用地:飛行場 2,320,000㎡(703,000坪)
飛行師團 155,000㎡(47,000坪)
航空廠 420,000㎡(130,000坪)
・滑走路:240,800㎡(コンクリート舗装1,710×80m、1,300×80m)
・誘導路:不明
・掩体壕:36基

▲飛行第二百四十六戰隊 兵営見取り図(八尾駐屯地内展示参照) 上が北
<遺構について>
① 大正陸軍飛行場
昭和11(1936)年11月4日、民間による阪神地域の防空、及び操縦士養成を目的として官民有志により民間航空機関設立が提唱され、昭和13(1938)年6月18日、阪神飛行學校(大正飛行場)が開校します。

▲阪神飛行學校 北西上空から
昭和15(1940)年8月28日、阪神飛行學校は阪神地区の防空飛行場用地選定を進めていた陸軍に敷地、建物、機材等全てを献納、閉校します。
陸軍は飛行場を6倍に拡張し、昭和16(1941)年6月16日、大正陸軍飛行場が竣工します。
9月、加古川陸軍飛行場より飛行第十三戰隊が移駐、その後、大正陸軍飛行場では第十八飛行團(後に第十一飛行師團に昇格)司令部が設置され、主に飛行第二百四十六戰隊、獨立飛行第八十二中隊が近畿防空に務めるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
大正陸軍飛行場は飛行場内の滑走路2本に加え、近隣の道路を転用した予備滑走路3本を備え(『航空基地整備要綱』(航空要塞論)に基づき設定か?)、決號作戰(本土決戦)を迎えるにあたり大本營陸軍部は航空總軍を近隣の奈良県香芝市の地下司令部に推進、当飛行場を作戰の中核に据える予定だったと言われています。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始します。
飛行場及び隣接する陸軍施設は米軍により接収されHanshin AirBase(阪神飛行場)と改称、昭和22(1947)年4月22日、飛行戰隊兵舎を転用して志紀中学校が開校、他の大半の建物は撤去(戦災復興資材に転用か?)され、また飛行場内の一部で農耕が始まります。
昭和27(1952)年、第十一飛行師團司令部敷地などが払い下げられます。
昭和29(1954)年、米軍より日本政府に全面返還され、運輸省、大阪府に移管、一部は民間に払い下げられ、運輸省(現、国土交通省)用地に陸上自衛隊第3管区航空隊が浜松から移駐、八尾分屯地が発足、昭和31(1956)年3月31日、八尾飛行場と改称、全国初の民間飛行場として使用が開始されます。
昭和36(1961)年、『空港整備法』により第二種空港に指定、八尾空港と改称します。
昭和37(1962)年、八尾分屯地において中部方面航空隊が編成完結、昭和44(1969)年、海上保安庁第五管区海上保安本部八尾航空基地(平成16年廃止)、昭和45(1970)年、大阪市消防局航空隊基地が設置されます。
昭和46(1971)年、分屯地敷地が運輸省から防衛庁(現、防衛省)に移管されます。
昭和49(1974)年、八尾分屯地から八尾駐屯地へ昇格、昭和55(1980)年、防衛省は民有地を買収し、駐屯地を拡張、平成12(2000)年、防衛省用地と大阪府用地を交換、現在の八尾駐屯地が形成されます。

▲現在の陸上自衛隊・八尾駐屯地格納庫
昭和59(1984)年、エプロン(旧大阪陸軍航空廠格納庫地区)が、新たに整備された現ターミナル地区へ移転、現在に至ります。
A 飛行第二百四十六戰隊 戦闘指揮所
陸上自衛隊・八尾駐屯地内に遺ります。
昭和18(1943)年初旬、木造の戦闘指揮所が建設され、昭和20(1945)年3月、東西13mx南北10mのコンクリート製耐弾指揮所に建て替えられます。

▲北東から
北側は開口部が2ヶ所あります。

▲北側開口部近影

▲北西から
西側には開口部が1ヶ所あります。
往時は全体に土が被せられ偽装されていました。

▲東から
東側は開口部1ヶ所と入口があります。
上掲北側開口部に比べ造りが荒く、戦後に開けられたものかも知れません。

▲入口
天蓋コンクリートの分厚さが目立ちます。

▲入口天井の様子

▲南側壁面
南側は開口部が4ヶ所ありますが、左側以外の3ヶ所は造りが荒く、戦後に開けられたものかも知れません。

▲一番左側の開口部
表面は綺麗に整形されています。

▲西から2番目の開口部
明らかに無理矢理開口されています。

▲南側壁面にある柱跡。
築造当初は屋上に櫓が組まれ、監視哨に使われていたのかも知れません。
戦闘指揮所は停戦後、屋上に櫓が組まれ管制塔として利用された後、倉庫となります。

▲昭和30年代、管制塔に転用された戦闘指揮所

▲管制塔に転用された戦闘指揮所の近影
戦闘指揮所は昭和50(1975)年、広報展示室に改装され、平成26(2014)年、耐震工事がなされ「大正館」と命名され現在に至ります。
内部には八尾駐屯地の沿革、ヘリコプターのエンジンやローター、そして陸軍の展示が並びます。

▲寄せ書き

▲軍装品

▲感状、遺書類

▲無線機

▲最上段の木製プロペラは「剣のプロペラ」とあります。
「剣」(特殊攻撃機「劍」キ-一一五)は大東亜戦争末期に開発された特殊攻撃機で、鋼板、木製の為、「木製プロペラ=劍の物」となり、この説明になったと思われます。ただ、劍の発動機はハ-一一五(榮二一型)で一式戦や零戦に搭載されている物であり、木製プロペラが付けられたとは考え難いです。
B 第一中隊格納庫 控壁
陸上自衛隊・八尾駐屯地内に遺ります。
格納庫建屋は停戦後解体されましたが、コンクリート製の控壁はそのまま遺され、新築格納庫に転用されました。

▲東側控壁
重量屋根を支える三角形の控壁が並びます。

▲西側控壁
C 第二中隊格納庫 控壁
陸上自衛隊・八尾駐屯地内に遺ります。
滅失しました。
格納庫建屋は停戦後解体されましたが、コンクリート製の控壁はそのまま遺され、新築格納庫に転用されました。

▲東側控壁

▲西側控壁
C格納庫控壁の東側にも第三中隊格納庫の、さらにその東側にも別の格納庫(獨立飛行第八十二中隊か?)の控壁が同様に遺されていましたが、前者は昭和60年頃、後者は昭和40年頃、格納庫の建て替えに伴ない破壊されてしまいました。
これらの残骸が田井中遺跡発掘の際に出土しています。
D 建物
大阪府警航空隊の敷地に火薬庫の様な建物が遺りますが、詳細は不明です。

E 滑走路
当時はコンクリート舗装滑走路1,710×80m(東~西方向)、1,300×80m(北西~南東方向)の2本がありました。
現在も当時の滑走路が転用改修され使用されています。
両滑走路の接続する南東端付近に当時の舗装が一部遺ります。

▲滑走路右側にある格子状の部分が当時のコンクリート舗装と思われます。
④ 高射砲陣地
大正には高射第三師團(河合潔中将、天王寺)隷下の高射第百二十一聯隊第一大隊第二中隊(八八式七糎野戰高射砲6門)が配備されていました。
昭和30年代までコンクリート製構造物が遺されていたそうですが、現在は何も遺されていません。
高射砲陣地は当地の他に荘内にもありましたが、停戦まで備砲されていなかった様です。
高射砲の他、大正には獨立機關砲第十一大隊(前田俊夫少佐)の第四中隊(ソキ砲(双聯二十粍高射機關砲)x14)が配備されており、滑走路東端、格納庫東側、誘導路沿いの二俣、誘導路終端の恩地北、大和川堤防、北久宝寺などに陣地が構築、また恩地北に聴音機、太田に電波警戒機も配備されてい様ですが、詳細は不明です。

▲大和川堤防に遺るコンクリートの残骸。
この様なコンクリート片が点々とありますが、これが機関砲陣地の遺構かは不明です。
⑤ 掩体壕
大正陸軍飛行場には掩体壕が36基あった様ですが、現在は半壊した1基が遺るのみです。
I 有蓋掩体壕
飛行場から北東へ3.6km離れた垣内地区に遺ります。

▲現存の掩体壕
他の陸軍飛行場同様、昭和19(1944)年7月、南方戦線における戦訓に基づいた陸軍航空本部からの「飛行場の要塞化示達」に則り築造された様です。
※当掩体壕は私有地にあり、立ち入りには許可が必要です。

▲掩体壕 遠景
田圃の奥にある斜面上にあります。

▲掩体壕 近影

▲内部

▲天井には電灯を取付けた跡があります。

▲真横から
幅に比べ、奥行きが短い事が分かります。
往時は開口幅28×奥行21×高さ6m程あった様ですが、前半分が破壊され後半部の開口幅23.2×奥行10.2mが遺されています。
前半部は昭和25(1950)年、朝鮮戦争時の所謂“金偏ブーム”に際し、金属回収業者が内部の鉄筋を取り出すため爆破してしまいますが、鉄筋の量が少なく、採算に見合わない為、辛くも後半部が遺された様です。

▲破壊された前半部の痕跡(写真右側が掩体壕残存部)
前半部が破壊されていますが断面がきれいな事から、帯状に築造されたのが分かります。

▲残存部の10m前方に遺る向かって左側の前端部

▲掩体壕後端部
なお当掩体壕はしばしば「大阪に遺る唯一の掩体壕」と紹介されていますが、後述する様に大阪府内には他にも掩体壕(無蓋)が遺されており、正確には「大阪に遺る唯一の“有蓋(コンクリート製)”掩体壕」とするのが妥当と思います。
J 掩体壕基礎
I の掩体壕の南側100mの地点にありました。
昭和50年頃に破壊された様で、右側の立ち上り部分の一部が住宅の擁壁の一部として遺されています。
破壊前の写真を見ると北伊勢、八日市に遺る掩体壕と同種の、開口部上部に庇の付いた典型的な陸軍型掩体壕だった様です。

▲民家擁壁に遺る向かって右側の前縁部分

▲敷地内に転がるコンクリート塊
掩体壕の残骸でしょうか?
他の掩体壕
昭和23(1948)年8月31日の米軍空撮(国土地理院 USA-M84-1-118)を見ると、飛行場内の東から南側の外周に沿って有蓋掩体壕19基、南から西、北側にかけ無蓋掩体壕(コ型・ヨ型)23基(不鮮明含む)が確認できます(上掲「現在の地図」(飛行場周辺)緑色で表示)。
前者は昭和50年頃にかけて全て破壊、後者は時期不明ですが全て破壊され痕跡はありません。

▲水田内に遺っていた掩体壕(昭和39年)
分かりにくいですが、5基見えます。

▲今は無き掩体壕(昭和30年代)

▲今は無き掩体壕(昭和33年)
また、飛行場北東に設定された誘導路周辺、最南端の柏原市に木製掩体壕(基礎のみコンクリート製)が数10基設定され、多数の偽装飛行機が入っていた様です。
柏原市の掩体壕については大県南遺跡、大県南廃寺の発掘調査中にコンクリート製の基礎や誘導路土留跡が出土した様ですが、現在は何も遺されていません。
誘導路(上掲「現在の地図(広域)」オレンジ色で表示)
飛行場北東端付近から北東方向に砂利敷の誘導路5.5kmが設定されていました。
誘導路は既存の道路の一部を転用しつつ、JR志木駅の北側を通り国道170号線付近で南北に分岐、北側は近鉄恩地駅の北側付近から最北端にある I 、Jの掩体壕へ、南側は近鉄法善寺駅の北側から山の井地区の山裾に伸びていました。
両誘導路終端ふきんを南北に走る東高野街道を利用し、誘導路は巨大な環状を形成、さらに南側は柏原市大県南交差点付近まで伸びていたと思われます。

▲掩体壕 I ・J へ続く誘導路を転用した道路
<大正陸軍飛行場 沿革>
昭和11(1936)年11月4日、民間による阪神地域の防空、及び操縦士養成を目的として官民有志により大阪陸軍飛行場(東大阪)内に民間航空機関設立が提唱され、顧問に第四師團長・今井清中将、官側発起人に安井英二大阪府知事、坂間棟治大阪市長、岡田周造兵庫県知事、勝田銀次郎神戸市長、第四師團司令部附・松村正員少将(実行委員長)、民間側発起人に稲畑勝太郎日本染料製造㈱社長以下大阪側24名、鑄谷正輔川崎重工業㈱社長以下神戸側20名、後援に第四師團、大阪朝日、大阪毎日両新聞社が就任、献金の募集を開始します。
昭和12(1937)年6月15日、献金が予定額の150万円を超えた事から、顧問、発起人協議のもと(財)阪神航空協會が第四師團司令部庁舎内に設置されます。
協會は逓信・陸軍・内務各大臣、第四師團、大阪府知事の指揮監督のもと防空に関する研究、国民への防空思想の涵養を図り、また有事に際しては民間飛行隊を編成し防衞司令部指揮下、阪神地区の防空に出動するため民間操縦士の養成を行う阪神飛行學校を設立する事が決定します。
10月1日、阪神飛行學校假事務所(校長・佐藤市之丞豫備航空兵大佐)が大阪聯隊區司令部内に設置、10月中旬、敷地の選定・買収を委託された第四師團経理部は大阪府中河内郡大正村、同志紀村(現、八尾市)内100,000坪の用地を買収(1反800円、離作料他補償料等総額28万円)します(阪神飛行學校の用地が当初の大阪陸軍飛行場内から大正村に変更になった理由は不明)。
11月3日、飛行場は「大正飛行場」と命名され(財)阪神航空協會により工事が発注、飛行場の設定が開始され、昭和13(1938)年6月1日、阪神飛行學校が開校、第一期生30名(操縦科20名(応募者52名)、技術科10名(同53名))が入学、特典として操縦科学生は逓信省委託生となります。

▲阪神飛行學校(昭和10年代) 北西上空から
阪神飛行學校及び大正飛行場は東西810m、南北525m、東北隅が欠けた矩形で総面積は12万坪、陸軍から調達した九五式一型5、同三型5の10機を保有、最盛期には九五式一型10、同三型13、九三式中間練習機3、九〇式二號機上作業練習機2機を保有していました。
6日、逓信省航空局の第一回民間委託操縦生20名が入校します。
18日、中部防衞司令官・谷壽夫中将、海軍艦政本部大阪監督長・松崎伊織少将、池田清大阪府知事、勝田銀次郎神戸市長、楠本長三郎大阪帝大総長他各方面の来賓約1,000名が臨席のもと生國魂神社・生田宮司が斎主となり神式により竣工式が挙行、民間機による祝賀飛行、近隣小學校児童による祝賀合同体操が詰めかけた3万の観衆を喜ばせます。
昭和14(1939)年4月、阪神飛行學校は第三期生から正式に逓信省航空局より操縦士養成を委託され、逓信省航空局米子乗員養成所阪神分教場として教育を開始します。
11月28日、陸軍航空本部は時局の趨勢に鑑み阪神地区に防空飛行場設定を立案、陸軍航空本部池内主計中佐が中部防衞司令部職員とともに大正飛行場を視察します。
昭和15(1940)年8月28日、阪神飛行學校は防空飛行場用地選定を進めていた陸軍航空本部の要望を受け、敷地、建物、機材等全てを献納、全5期、操縦98名、技術16名を輩出し閉校します。
閉校に先立つ6月6日、陸軍は大正尋常高等小學校講堂において、飛行場用地拡張(拡張面積503,900坪:約6倍)予定地の地権者に用地買収の説明及び土地売買交渉を実施します。
10月、拡張予定地の用地買収(6.50円~6.75円/坪)が行われ、21日、陸軍航空總監代理・秋山徳三郎少将、阪神海軍部長・奥信一少将、半井清大阪府知事、坂千秋兵庫縣知事、大阪商工會議所會頭・安宅彌吉安宅商會㈱社長他軍官民各方面500名の参列のもと石切神社・木積社司が祭主となり地鎮祭が挙行されます。
飛行場拡張工事は陸軍省出資金に大阪府、兵庫県民の献金を加え、大阪府土木部担当のもと約250名の労務者が中心となり、近隣の勤労奉仕隊、學校報國隊の協力を得て学校、家屋、墓地の移転、河川付け替えを含む工事を開始し、12月、2回目の用地買収が実施されます。
昭和16(1941)年6月16日、大正陸軍飛行場が竣工、9月、加古川陸軍飛行場(兵庫)より飛行第十三戰隊が移駐してきます。
昭和17(1942)年8月4日、第十八飛行團が編成、11月、3回目の用地買収を実施し敷地を拡張します。
昭和18(1943)年、4月2日、飛行第五十四戰隊が立川陸軍飛行場(東京)から移駐、20日、飛行第十三戰隊はラバウルに前進、同月、飛行第二百四十六戰隊の一部が加古川陸軍飛行場から移駐(12月5日、鳳山陸軍飛行場(台湾)へ移駐)、6月7日、飛行第五十四戰隊は柏原陸軍飛行場(千島)に移駐、12月5日、飛行第二十戰隊が伊丹飛行場(大阪)から移駐してきます。
昭和19(1944)年2月14日、飛行第二十戰隊は立川陸軍飛行場に移駐、3月中旬、飛行第二百四十六戰隊が鳳山陸軍飛行場から移駐、3月23日、飛行第五十五、五十六戰隊が大正で編成(飛五十五は5月25日に小牧、飛五十六は4月28日に伊丹へ移駐)、7月17日、第十八飛行團は第十一飛行師團に昇格、10月21日、飛行第二百四十六戰隊主力は屏東陸軍飛行場(台湾)に移駐、11月、獨立飛行第十六中隊の高々度戰闘隊が編成され伊丹飛行場から移駐、12月中旬、飛行第百一戰隊が北伊勢陸軍飛行場(三重)から移駐(昭和20年3月10日、都城東に移駐)、19日深夜、B29爆撃機1機が大正陸軍飛行場、大阪金属工業㈱大和川製作所に投弾するも外れ大和川と田畑に着弾、26日、飛行第二百四十六戰隊主力(全機損失)がネグロス飛行場群(比島)より大正に帰還、戦力回復に務めます。
昭和20(1945)年1月19日1330、B29爆撃機80機が港区、西成区に来襲、うち数機が大阪陸軍航空廠に投弾、軍人軍属14名が死傷してしまいます。
29日、特別攻撃隊・第三振武隊(のち第二十振武隊に改称)が大正において編成、北伊勢に移駐します。
2月28日、獨立飛行第十六中隊高々度戰闘隊が獨立飛行第八十二中隊に改編、飛行第二百四十六戰隊とともに近畿防空にあたります。
3月19日0825、敵艦載機840機が神戸港に来襲、一部が大正にも来襲し小型爆弾、機銃掃射により施設が小破、7月10日1305、P51戦闘機50機が来襲、西作業所、倉庫が半焼、14日1445、SB2C艦爆1機が来襲します。
18日、第二獨立飛行隊が編成、北伊勢?鈴鹿?に移駐します。
7月24日0700、0715、F4U戦闘機8、F6F艦戦15機、25日0700、SB2C艦爆1、28日1310、1356、F6F20機、30日0530、F4U戦闘機7機が相次いで来襲、施設に被害が出るなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
<展開部隊>
飛行第十三戰隊(誠一一七〇三)
※「伊丹飛行場」の記事参照
飛行第二十戰隊(誠一八九六八)
※「伊丹飛行場」の記事参照
飛行第五十五戰隊(鷲一八四二七)
※「佐野陸軍飛行場」の記事参照
飛行第五十六戰隊(天鷲一八四二八)
※「伊丹飛行場」の記事参照
飛行第百一戰隊(靖一八九二〇)
昭和19(1944)年7月25日、『軍令陸甲第九十三號「第百飛行團司令部等航空部隊一部の臨時編成(編制改正)、第二百九十三次復歸要領」』により陸軍航空總監部(菅原道大中将)に臨時編成下令、『陸亞機密第九三〇號「同細則」』により第一航空軍、第八飛行師團、第二航空軍、西部軍より人員を抽出し、10月10日、編成された第百飛行團(土井直人中佐、高松)に飛行第百二(垣見馨少佐)、百三戰隊(東條道明少佐)とともに編入、11月10日、編成完結(代永兵衛少佐)します。
四式戦装備の予定でしたが機材が揃わず、また操縦者も航士五十六期、特操が主体で練度が低かったため九七戦、一式戦で訓練を開始、11月頃、四式戰に機種変更しますが故障が続発し可動率は低下します。

▲飛行第百一戰隊の四式戦
12月中旬、第二十一飛行團の比島進出により空いた大正陸軍飛行場に移駐、昭和20(1945)年1月の比島進出を目指しますが錬成が進まず、また整備能力も低く事故多発のため、比島進出は中止され、12月26日、第六航空軍(菅原道大中将、東京(昭和20年3月10日から福岡)に編入され沖縄作戦に出動する事になります。
昭和20(1945)年1月、B29爆撃機の近畿地区来襲に対し小隊規模で邀撃しますが、戦果は挙げられませんでした。
3月10日、戰隊は都城東陸軍飛行場に前進(3月26日現在、可動機は四式戰20機)、第百飛行團は第二攻撃集團を編成(各四式戦20機)します。
14、15日、第六航空軍司令部(福岡(福岡高等女學校))において行われた兵棋演習において、特攻機援護のための戦闘機隊を各飛行場に分散配備を求める航空軍司令部に対し、代永戦隊長は集結使用を主張、強硬に反対したため更迭、飛行隊長・末永正夫大尉が戦隊長に昇格します。
20日、天一號作戰の陸海軍中央協定に基づき第六航空軍は聯合艦隊指揮下に入ります。
23日、米機動部隊が南西諸島に来攻、沖縄本島、及び周辺島が銃爆撃、慶良間諸島が艦砲射撃にさらされます。
26日、聯合艦隊は天一號作戰発動を下令、第一次航空總攻撃(海軍側:菊水一號作戰)を4月6日に策定します。
4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始します。
6日、第一次航空總攻撃に集團は48機(援護機総数146機)で特攻機237機を援護、奄美大島付近まで進出し制空にあたります。
12日、第二次航空總攻撃に15機(援護機総数98機)で特攻機192機を援護、沖永良部島付近まで進出し制空にあたります。
15日夜、翌日の第三次航空總攻撃を控え集團選抜機11機により、敵制圧下の沖縄本島北・中陸軍飛行場にタ弾攻撃を実施しますが、敵対空砲火により児玉正美中尉以下8機が未帰還(児玉中尉は飛行場に不時着後、地上部隊に合流、停戦間際まで戦闘を継続していたと言われます)になってしまいます。
17日、海軍による敵機動部隊攻撃に四式戰11・三式戰11機で協力しましたが、奄美大島付近でF6F戦闘機約20機と交戦、末永戦隊長を含む8機が未帰還(後任戦隊長・坂元秀岳少佐)となり、集團の可動機は10機に減じてしまいます。
22日、第四次航空總攻撃(特攻機164機、援護機62機)、5月4日、第五次航空總攻撃(特攻機149機、援護機84機)に百二戰隊とともに30機で特攻機を援護、25日、義號作戰(義烈空挺隊の沖縄突入)に呼応した第八次航空總攻撃に百二戰隊とともに11機で出撃しますが10機が未帰還となり、戦力が払底、6月下旬、沖縄戦の終結とともに隈庄陸軍飛行場(熊本)を経由し成増陸軍飛行場(東京)に移駐、戦力回復にあたります。
7月10日、復帰した飛行第百二戰隊の人員・機材の一部(残りは百三戰隊)を加え、8月2日、高萩陸軍飛行場(埼玉)に移駐、12日、第百飛行團司令部(秋山紋次郎大佐)とともに高松陸軍飛行場(高松)に移駐、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝します。
16日夕、高知沿岸の監視哨から「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、17日未明、特別攻撃隊を編成(木村少尉)、12機が爆装し出撃しますが、目標を発見できず帰投(土佐湾沖海戦)し、停戦を迎えました。
飛行第二百四十六戰隊(天鷲一九一九六)
昭和17(1942)年6月30日、飛行第十三戰隊(加古川)を基幹として編成下令、8月10日、九七戦25機(定数33機)・2個中隊(札幌飛行場(逓信省)に所在した飛行第十三戰隊第二中隊はそのまま二百四十六戰隊第二中隊に転属)で編成完結(宮本武夫少佐)、8月4日に新編された第十八飛行團(北島熊男大佐、大正/昭和19年7月17日、第十一飛行師團に昇格)に編入され、阪神地区の防空にあたります。
10月下旬、札幌の第二中隊は飛行第五十四戰隊と交替し加古川陸軍飛行場に移駐し本隊と合流、12月、第三中隊が編成されます。
昭和18(1943)年4月、戰隊主力は伊丹飛行場、一部は大正陸軍飛行場に移駐、7月にかけ明野陸軍飛行學校(三重)において伝習教育を受けつつ、8月、二式戦二型に機種改変します。
11月25日、支那大陸の米陸軍機により台湾新竹市が空襲されたのを受け、台湾防空戦力の強化のため、12月5日、戰隊の2個中隊は第十八飛行團偵察隊とともに鳳山陸軍飛行場(台湾)に前進、高雄地区の防空にあたり、P38、B24を邀撃しますが、いずれも会敵できませんでした。
12月27日、『軍令陸甲第百二十一號』により、昭和19(1944)年1月20日、第二百四十六飛行場大隊(上野辰之助少佐)の編成が下令されます。
3月中旬、戰隊主力は鳳山から大正に帰還、4月、空地分離を実施し第二百四十六飛行場大隊に人員・器材を転出し、編制改正します。

▲大正における飛行第二百四十六戰隊の二式戦
6月15日夜、成都(支那)を出撃したB29の北九州初来襲を受け、16日、戰隊は小月陸軍飛行場に前進、第十九飛行團(三好康之少将、小月)の指揮下に入り、第一中隊(戦隊長直卒)は大村海軍航空基地に前進、7月7日・8月10日夜間、B29の邀撃にあたりますが会敵できず、13日、大正に帰還、1個中隊を残置し小牧陸軍飛行場(愛知)に移駐します。
8月10日、石川貫之少佐が新戦隊長に就任、9月中旬、石川戦隊長は戰隊全力を大正に集結、訓練の重点を従来の対爆撃機戦闘から対戦闘機戦闘訓練に移し、戦力向上に務めます。
10月21日、戰隊はフィリピン派遣を前提に台湾移駐が発令され、第三中隊長・佐野清則大尉以下、特操主体の未熟者、長男、妻帯者、及び整備隊主力(20機)を大正に残置し、戦隊長以下38機で屏東陸軍飛行場に前進、第八飛行師團(山本健児中将、台北)の指揮下に入り台湾南部の防空にあたります。
11月6日、比島進出を受命、8日、戰隊はクラーク中飛行場に前進、第三十戰闘飛行集團(青木武三少将、サラビヤ)の指揮下に入り、飛行第二十九戰隊(土橋正次大尉)とともにマニラ、クラーク地区の防空にあたりますが、目視のみの貧弱な防空監視態勢に苦戦します。
14日、特別攻撃隊「富嶽隊」(第四次攻撃、根木基夫大尉以下四式重爆3機6名)の出撃援護に戰隊3機は二十九戰隊5機とあたりますが、離陸直後にF6F艦戦30機の奇襲を受けて全機損失、戰隊の左高英司軍曹が散華してしまいます。
11月末、サブラン飛行場に移駐、12月5日、敵機邀撃に16機が出撃しますが、敵戦闘機40機に高度占位され2機撃墜するも、7名が散華してしまいます。
12月13日、ミンドロ島に向けスールー海を北上中の敵輸送船団攻撃に出撃する特別攻撃隊「旭光隊」(長幹夫少尉以下12名、九九双軽)援護のため可動全力13機で出撃、シライ飛行場(ネグロス島)で給油中、P38戦闘機6機の奇襲を受け川元省三准尉が散華してしまったため、特攻援護は他戰隊と交替、14日、残存10機でシライを出撃、敵船団攻撃に向かう友軍攻撃隊の出撃援護にあたりましたが、着陸時にF6F艦戦30機の奇襲を受けたため、石川戦隊長は燃料残量僅か、低位劣勢を考慮し胴体着陸を命じ、全機損失するも操縦者は全員生還します。
12月20日、戰隊は全機損失してしまったため内地帰還を命じられ、生存者はパコロドから輸送機で移動を開始、途中リンガエン湾で不時着水してしまいますが、救助され、24日、マニラに到着、26日、飛行第六十戰隊の九七重爆に便乗し大正に帰還、B29邀撃を禁止され錬成にあたっていた残置部隊と合流します。
石川戦隊長は比島での戦闘の経験から、対戦闘機戦能力に重点を置き戦力回復に務めますが、当時既にB29の近畿来襲が始まっていたため対爆撃機戦に専念する事となります。
戰隊主力の比島派遣中の昭和19(1944)年12月8日、第十一飛行師團(北島熊男大佐、大正)に特別攻撃隊の編成が内示、昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、師團隷下の飛行第五(清洲)、五十五(小牧)、五十六(伊丹)、二百四十六戰隊(大正)から隊員の選抜が行われ、戰隊から伊藤忠雄少尉、穴澤利夫少尉、山本秋彦少尉が選抜、大正陸軍飛行場において「第三振武隊」(一式戦三型)が編成(のち第二十振武隊に改称)、北伊勢に移駐します。
昭和20(1945)年1月頃、戰隊に四式戦の配備が開始され以後、二式戦と四式戦の混成編成(4月上旬時点で二式20、四式12機保有)を採ります。
3月13日2357、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機274機が大阪に来襲(第一次大阪大空襲)、戰隊は全力で邀撃、夜間飛行と炎上する大阪の街から吹き上がる火煙に妨げられる中、藤本研二曹長はB29爆撃機1機を撃墜後、銃弾を撃ち尽くすとさらに別の1機に体当たりを敢行し撃墜、生還します。
16日、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機307機が神戸に来襲、戰隊は全力で邀撃、13日に続き藤本曹長、及び生田幸男軍曹はそれぞれB29爆撃機に体当たりを敢行し撃墜、生還、第六航空軍司令官・菅原道大中将より藤本曹長に個人感状と陸軍武功徽章、戰隊に部隊感状が授与されます。
4月7日午後、B29爆撃機150機が中京地区に来襲との警報を受け、第十一飛行師團長心得・北島少将は飛行第五、五十六戰隊を名古屋上空に、二百四十六戰隊、獨飛八十二中隊を伊勢上空に配置し邀撃しますが、戰隊の四式戦8機は初来襲のP51戦闘機30機の奇襲を受け、2機が被弾、大破してしまいます。
5月30日、戰隊は帝都防空のため1個中隊を大正に残置し、四式戦4、二式戦16機で成増陸軍飛行場(東京)に移駐、第十飛行師團(吉田喜八郎少将、竹橋)の指揮下に入りますが、6月1日、濱松陸軍飛行場に移駐し、第十三方面軍(岡田資中将、名古屋)の指揮下に入り、21日、大正に帰還します。
6月26日、中京・阪神地区にB29爆撃機約360機来襲、戰隊は24機で邀撃し6機を撃墜、第一中隊(音成貞彦大尉)9機は尾鷲南方で1機撃墜後、さらに亀山東北上空で北進中の12機梯団を発見、音成中隊長は梯団1番機に、原実利軍曹は同2番機に体当りを敢行し散華、7月9日、音成大尉は第二總軍司令官・畑俊六大将から個人感状を授与、2階級特進します(昭和44年9月27日、勲四等旭日小綬章受章)。

▲音成大尉 感状写し(八尾駐屯地)
7月19日、8月1日、B29爆撃機来襲の報に飛行第五十六戰隊とともに全力で邀撃しますが、会敵できませんでした。
7月末時点の戰隊可動機は二式戦17、四式戦7機でした。
8月14日、阪神地区にP47が来襲、戰隊は安田義人准尉以下4機が飛行第五十五戰隊(佐野)、大和海軍航空基地(奈良)の戰闘第三〇八飛行隊とともに邀撃(琵琶湖上空邀撃戰)しますが、藤本研二准尉が散華してしまいます。
15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
第二獨立飛行隊[第二代](帥一九〇二九)
昭和20(1945)年7月18日、『軍令陸甲第百三號』により大正陸軍飛行場において臨時編成(有川俊千代中佐、百偵6、四式重爆3)され、航空總軍(河邉正三大正、東京)に編入されます。
編成完結後、鈴鹿陸軍飛行場※1に移駐、紀伊半島以西の敵機動部隊索敵、集團の特攻機誘導にあたり、小牧陸軍飛行場に移駐※2、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
※1:アジ歴『陸軍航空部隊略歴』には「伊勢菰野飛行場に移駐」とありますが、“菰野飛行場”=竹永陸軍飛行場は未成でした。
『東海軍管區 航空兵器現況表 第五十一航空師團』によると停戦時の位置は「鈴鹿」になっています。
のため近隣の鈴鹿か北伊勢と思われます。
※2:八尾駐屯地広報展示室の『大正飛行場(現陸上自衛隊八尾駐屯地)昭和20年4月所在部隊』によると停戦時所在地は「大正」となっています。
獨立飛行第八十二中隊[第二代](天鷲一九五二九)
昭和19(1944)年11月、児玉陸軍飛行場に所在した第十六獨立飛行隊(平松健二少佐、百偵9機)内に高高度戦闘機隊が編成(成田富三大尉)され、百式司偵三型乙プラス丙8機で大正に移駐、阪神・中京地区の対B29爆撃機戦闘にあたります。
12月13日、B29爆撃機の名古屋初来襲から昭和20(1945)年2月中旬まで、中京地区に来襲したB29に対し高戦隊は10回邀撃、1月14日、後藤信好曹長が離脱を図るB29に高速を活かし前下方からの攻撃で1機撃墜するなど、撃墜14、撃破14機の戦果を挙げ、第十五方面軍司令官・河邉正三中将から部隊感状を授与(昭和20年2月28日)されますが、13日、中村忠雄少尉が名古屋上空で、18日、中村靖曹長(同乗鈴木茂男少尉)、古後武雄准尉(同乗關川榮太郎伍長)が渥美湾上空で、22日、高橋英雄軍曹が名古屋上空でそれぞれB29に体当りを敢行し撃墜するも散華、昭和20年1月3日、小坂三男中尉が、23日、名古屋上空で川崎武敏軍曹(同乗竹井逸雄少尉)が散華してしまう等、この間に12名が散華してしまいます。
2月25日、高戦隊は獨立飛行第八十二中隊(南登志雄大尉)に昇格、引き続き中京地区の防空にあたります。
3月13日2357、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機274機が大阪に来襲(第一次大阪大空襲)、16日、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機307機が神戸に来襲、中隊は全力で邀撃しますが、夜間飛行と吹き上がる火煙に妨げられ、充分な戦果を挙げる事ができませんでした。
4月7日午後、B29爆撃機150機が中京地区に来襲との警報を受け、第十一飛行師團長心得・北島少将は飛行第五(清洲)、五十六戰隊(伊丹)を名古屋上空に、中隊と二百四十六戰隊(大正)を伊勢上空に配置し邀撃しますが、初来襲のP51戦闘機30機の奇襲を受け、戦果は挙がりませんでした。
以後、B29に随伴する戦闘機に苦戦します。
5月30日、飛行第二百四十六戰隊が帝都防空のため成増陸軍飛行場(東京)に移駐したため、中隊は単独で大阪防空に当ります。
6月1日、近畿地区に来襲したB29爆撃機を邀撃しますが、中隊長・南大尉(同乗千葉悟少尉)が散華(後任・成田富三大尉)、7日、淡路島上空で鵜飼義明大尉がB29に体当たりを敢行し撃墜するも散華、22日、伊丹上空で江口音春伍長、7月30日、稲垣太郎軍曹(同乗千葉薫中尉)が散華してしまいます。
6月21日、飛行第二百四十六戰隊が大正に復帰、ともに阪神・中京地区の防空にあたります。
8月10日、中隊(可動機2機)は決號作戰(本土決戦)に備え第二十八獨立飛行隊(江頭多少佐、百偵9機)に編入、東金陸軍飛行場への移駐が決定、準備中に15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝します。
16日夕、高知沿岸の監視哨から「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、17日未明、中隊は可動2機で哨戒を命ぜられますが、給油中に中隊長機が炎上、成田大尉は残った後藤准尉機に乗り換え単独で出撃、B29と遭遇するも離脱を図ったため深追いはせず、また目標も発見できなかったため岩國海軍航空基地に着陸、停戦を迎えます。
-特別攻撃隊-
第二十振武隊
昭和19(1944)年12月8日、第十一飛行師團(北島熊男大佐、大正)に特別攻撃隊の編成内示、昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、師團隷下の飛行第五(清洲)、五十五(小牧)、五十六(伊丹)、二百四十六戰隊(大正)から長谷川實大尉、寺澤幾一郎軍曹(以上飛行五)、熊谷吉彦少尉、瀧村明夫少尉、大平誠志少尉、小島五郎伍長(以上飛五十五)、吉田市少尉、山本英四少尉、重政正男軍曹(以上飛五十六)、伊藤忠雄少尉、穴澤利夫少尉、山本秋彦少尉(以上飛二百四十六)の12名(一式戦三型)が選抜、大正陸軍飛行場において編成(当初は「第三振武隊」)、隊長には航士五十五期生の長谷川大尉が補されます。

▲長谷川實大尉(群馬県出身)
生粋の戦闘機乗りで飛行第五戦隊に所属、南方航空戦において
数次の作戦に従事した勇士でした。
隊は北伊勢陸軍飛行場(三重)に移駐、防衞總司令官(東久邇宮稔彦王大将、東京)直轄の特別攻撃隊として整備、錬成にあたり、2月8日、第六航空軍隷下に編入され第二十振武隊と改称されます。

▲昭和20(1945)年1月末、北伊勢において訓練機を見上げる第二十振武隊隊員
左より長谷川隊長、重政軍曹、穴澤少尉、小嶋伍長、山本英少尉(色眼鏡)、
寺澤軍曹、吉田少尉、熊谷少尉
3月16日、大分海軍航空基地に移駐、艦船攻撃訓練を実施しますが、23日、米艦載機の空襲を受けたため防府陸軍飛行場(山口)に退避、同飛行場において徳山湾内の海軍艦艇を目標に急降下攻撃、艦船攻撃訓練を実施します。
25日、都城東陸軍飛行場に移駐、27日、知覧陸軍飛行場に前進、さらに夕刻、徳之島陸軍飛行場に前進予定でしたが、悪天候のため延期されます。

▲都城東において訓示の後、答礼する長谷川隊長(左)
写真手前の穴澤少尉は婚約者・孫田(現姓伊達、平成25年他界)智恵子さんから
送られた紫の襟巻きを白の航空襟巻きの下に巻いていいるため、他の隊員より
首元が膨らんでいるのが分かります。
29、30日、隊は徳之島に前進しますが悪天候のため、不時着が続出、長谷川隊長、山本英少尉、山本秋少尉のみが徳之島に到達、大平少尉、穴澤少尉、寺澤軍曹、重政軍曹は知覧に引き返し、吉田少尉は奄美大島の海岸不時着時に岩礁に激突し散華してしまいます(伊藤少尉、熊谷少尉、瀧村少尉、小島伍長は奄美大島、喜界島に不時着生還、次期作戰に備え福岡に移動)。
4月1日、米軍上陸部隊が沖縄本島に迫る中、0500、山本秋少尉は25番2発を懸吊し徳之島を発進、慶良間列島北方海上において敵大型輸送船に突入し命中撃破、2日0430、長谷川隊長、山本英少尉が徳之島を発進、慶良間列島北方海上の敵船団に突入散華します。
12日、第二次航空總攻撃が下令、1210、大平少尉、穴澤少尉、寺澤軍曹は知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、5月3日、第六次航空總攻撃が下令、4日0530、重政軍曹は知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華しました。

▲桜の小枝を打ち振り見送る“なでしこ隊”(隊員の身の回りの世話をしていた知覧高等女學校生)に答礼、25番1発を懸吊し知覧を発進する穴澤少尉
穴澤少尉辞世 「散花と さだめを共にせむ身ぞと 願ひしことの かなふ嬉しさ」
-待機特別攻撃隊-
第二百三十三振武隊
昭和20(1945)年4月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(六郷夷海少尉以下6名、九九襲)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百三十四振武隊
昭和20(1945)年4月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(平野勝美少尉以下6名、九九襲)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百三十五振武隊
昭和20(1945)年5月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(佐藤喜三郎中尉以下6名、九九襲)、常陸教導飛行師團(加藤敏雄少将、水戸)の隷下となり大正陸軍飛行場-甲府陸軍飛行場-前橋陸軍飛行場に移駐し錬成にあたります。
7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり目達原陸軍飛行場に移駐、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百三十六振武隊
昭和20(1945)年5月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(梅野直士中尉以下6名、九九襲)、常陸教導飛行師團(加藤敏雄少将、水戸)の隷下となり大正陸軍飛行場-甲府陸軍飛行場-前橋陸軍飛行場に移駐し錬成にあたります。
7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり目達原陸軍飛行場に移駐、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百四十一振武隊
昭和20(1945)年6月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(塩澤弘中尉以下6名、九九襲)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百四十二振武隊
昭和20(1945)年6月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(大谷佐重中尉以下6名、九九襲)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
-地上部隊-
第三十二航空地區司令部(輝一八四八六)
昭和19(1944)年5月8日、『軍令陸甲第六十一號』により編成下令、6月30日、大正陸軍飛行場において編成完結(大橋市伊中佐)します。
航空地區司令部は担当地区内所在の飛行場大隊、同中隊を指揮し、飛行部隊に対する支援業務を担当しました。
7月13日、南方派遣のため吉野丸に乗船し門司港を出航、21日、高雄(台湾)に入航、吉野丸はフィリピン方面への兵力増強を目的としたミ11船團(輸送船18隻、護衛「占守」、第五十五號駆潜艇等7隻)に加わり29日、高雄を出航しますが、31日0300、バリンタン海峡航行中、敵潜水艦パーチェ、スチールヘッド、ハンマーヘッドの雷撃を受け、光榮丸は3本被雷し轟沈、扶桑丸が1本被雷し転覆沈没、萬光丸が1本被雷し浸水沈没、吉野丸も2本被雷し沈没(他2隻損傷)、4,000名を超す将兵を失ってしまいます。
司令部の生存者14名はマニラに集結、9月13日、セレベス島マカッサル県のリンブン飛行場に移駐します。
昭和20(1945)年、8月10日、第四野戰飛行場設定司令部(難波了三大佐、ガマラン)より4名が転入、16日、停戦を迎えました。
25日、第九航空通信聯隊(野邊常介少佐、バンドン)より166名、第八航空情報隊(松本朝雄少佐、ジャワ)より54名、南方航空路部(斎藤文治大佐、マニラ)より17名、9月12日、第百四十四野戰飛行場設定隊(森下欣次郎大尉、メダン)より37名が転入します。
15日、ビンラン県スリリに移駐、10月1日、第四十三飛行場中隊(吉川昇中尉、レンバン島)が復帰し55名が編入、第百十三飛行場大隊(阿久津儀治少佐、マベヤ)から1名、第二十八飛行場大隊(武松哲夫大尉、セラム島)から1名が転入します。
10日、ビンラン県マリンプ集結地に移駐、11月15日、第四航側隊セレベス派遣隊(小山光男大尉)95名、第二十一野戰航空修理廠(新保稔大佐、ガレラ)第三分廠(アンボン)より178名、同第一獨立整備隊より8名、第五飛行場大隊(下見軍蔵少佐、セラム島)より27名が転入します。
昭和21(1946)年5月18日、セレベス島パレパレ港出航、30日、名古屋港に入航、名古屋において復員完結します。
第一飛行場大隊(鏑一九二七四)
昭和18(1943)年12月27日、『軍令陸甲第百二十號』により編成下令、昭和19(1944)年2月28日、第四十二飛行場大隊(目澤廣吉少佐、小牧)を基幹として大正陸軍飛行場において編成完結(原口作太郎少佐)、3月15日、落合陸軍飛行場(樺太)に移駐、一部を気屯、大澤、初間、小野登呂(以上樺太)、上更別、登路、帯廣(以上北海道)各陸軍飛行場に展開、各飛行場の補給、警備、及び飛行場管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、8月23日、落合において武装解除しました。
第二百四十六飛行場大隊(天鷲一九一九八)
昭和18(1943)年12月27日、『軍令陸甲第百二十一號』により、昭和19(1944)年1月20日、飛行第二百四十六戰隊(宮本武夫少佐、台湾鳳山)に第二百四十六飛行場大隊(上野辰之助少佐)の編成が下令されます。
3月中旬、戰隊主力の大正陸軍飛行場への帰還を待って、4月、空地分離を実施、戰隊から第二百四十六飛行場大隊へ人員・器材を転出し、編制改正します。
以降、大隊は大正に所在、飛行戰隊の補給、飛行場警備・管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
第百八十八獨立整備隊(燕一九〇七三)
昭和20(1945)年2月8日『軍令陸甲第二十三號』により、3月20日、大正陸軍飛行場において編成(佐渡一三中尉)完結します。
以降、隊は大正に所在、飛行戰隊の機材修理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
第十八飛行團通信隊(中部一二一)
第十八航空通信聯隊(靖一九一八六)
昭和17(1942)年4月13日、『昭和十六年軍令陸甲第三十一號』により第十八飛行團司令部の臨時編成下令、8月4日、編成完結(北島熊男大佐)、大正陸軍飛行場に進出します。
8月31日、第十八飛行團司令部隷下に第十八飛行團通信隊の編成完結します。
昭和19(1944)年7月15日、『軍令陸甲第八十七號』により第十八飛行團司令部は復帰、17日、第十一飛行師團司令部が臨時編成(北島熊男大佐、大正)されます。
7月31日、第十八飛行團の第十一飛行師團昇格に伴い通信隊は復帰、人員、器材は第十八航空通信隊、第十三対空無線隊編成の基幹となります。
同日、第十八航空通信隊が編成完結、第十一飛行師團隷下に編入されます。
昭和20(1945)年2月8日、第十八航空通信隊は第十八航空通信聯隊(平山彌市中佐)に改編、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、10月5日、復員完結しました。
第三十一航空通信聯隊 八尾分遣隊
※「歩兵第七十聯隊」の記事参照
第十三対空無線隊(燕一九一八九)
※「伊丹飛行場」の記事参照
第六十八対空無線隊(靖一九五五五)
※「伊丹飛行場」の記事参照
第二陸軍気象隊(風一九五六七)
昭和19(1944)年11月、中部管區気象隊が編成(萩洲博之少佐、大正)、第十一飛行師團司令部(北島熊男大佐、大正)内に設置され、第六航空軍司令部(菅原道大中将、福岡)指揮下に編入されます。
隊は中部、近畿、中国、四国地区の気象勤務を担当、本郡を大正(後、奈良に移駐)、第一中隊(小牧:中部地区担当)、第二中隊(大正:近畿地区担当)、第三中隊(中国地区担当)に展開します。
昭和20(1945)年3月17日、第二陸軍気象隊にに改編、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月15日、復員完結しました。
第百四十一野戰飛行場設定隊(翼一八四五〇)
昭和19(1944)年7月30日、大阪において編成(前田勢大尉)、大正陸軍飛行場の拡張工事にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、8月31日、復員完結しました。
航空總軍司令部 大阪支所
※「航空總軍戰闘指令所壕」の記事参照
<主要参考文献>
『河内どんこう 82~各号「戦争遺跡を訪ねて」』(やお文化協会)
『民衆史研究 53 「阪神飛行学校と大正飛行場」』(大阪民衆史研究会)
『ヒストリア 第171号 「田井中遺跡周辺の戦争遺跡」』(平成12年9月 大阪歴史学会)
『八尾今昔写真帖』(平成21年8月 棚橋利光監修)
『戦史叢書19 本土防空作戦』(昭和43年10月 防衛庁防衛研究所戦史室)
『日本陸軍戦闘機隊』(昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)
『陸軍特別攻撃隊』(平成7年7月 モデルアート社)
『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)
『高射戦史』(昭和53年12月 下志津(高射学校)修親会)
国土地理院 空撮
Yahoo!地図
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▲陸上自衛隊八尾駐屯地内に遺る飛行第二百四十六戰隊 戦闘指揮所
【探索日時】
平成20(2008)年10月11日、平成21(2009)年3月17日、10月10日ほか近所のため随時


<大正陸軍飛行場の場所>
大正陸軍飛行場は大阪府中河内郡大正村、 南河内郡志紀村(ともに現、八尾市南部)に飛行場、東側に隣接する中河内郡柏原町(現、柏原市)の山際にかけて掩体壕が設定されました。
<要目>
・用地:飛行場 2,320,000㎡(703,000坪)
飛行師團 155,000㎡(47,000坪)
航空廠 420,000㎡(130,000坪)
・滑走路:240,800㎡(コンクリート舗装1,710×80m、1,300×80m)
・誘導路:不明
・掩体壕:36基

▲飛行第二百四十六戰隊 兵営見取り図(八尾駐屯地内展示参照) 上が北
①戦隊本部庁舎 ②空中勤務者宿舎 ③医務室 ④衛兵所・営倉
⑤面会所 ⑥浴場 ⑦酒保 ⑧炊事場 ⑨落下傘修繕所 ⑩縫工場
⑪機関銃調整射場 ⑫第一・第二・第三中隊、整備隊兵舎
⑬飛行場大隊兵舎 ⑭第一中隊格納庫 ⑮第二中隊〃 ⑯第三中隊〃
⑰格納庫(獨立飛行第八十二中隊?) ⑱搭乗員待機所 ⑲戦闘指揮所
⑳第十一飛行師團
<遺構について>
① 大正陸軍飛行場
昭和11(1936)年11月4日、民間による阪神地域の防空、及び操縦士養成を目的として官民有志により民間航空機関設立が提唱され、昭和13(1938)年6月18日、阪神飛行學校(大正飛行場)が開校します。

▲阪神飛行學校 北西上空から
昭和15(1940)年8月28日、阪神飛行學校は阪神地区の防空飛行場用地選定を進めていた陸軍に敷地、建物、機材等全てを献納、閉校します。
陸軍は飛行場を6倍に拡張し、昭和16(1941)年6月16日、大正陸軍飛行場が竣工します。
9月、加古川陸軍飛行場より飛行第十三戰隊が移駐、その後、大正陸軍飛行場では第十八飛行團(後に第十一飛行師團に昇格)司令部が設置され、主に飛行第二百四十六戰隊、獨立飛行第八十二中隊が近畿防空に務めるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
大正陸軍飛行場は飛行場内の滑走路2本に加え、近隣の道路を転用した予備滑走路3本を備え(『航空基地整備要綱』(航空要塞論)に基づき設定か?)、決號作戰(本土決戦)を迎えるにあたり大本營陸軍部は航空總軍を近隣の奈良県香芝市の地下司令部に推進、当飛行場を作戰の中核に据える予定だったと言われています。
9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始します。
飛行場及び隣接する陸軍施設は米軍により接収されHanshin AirBase(阪神飛行場)と改称、昭和22(1947)年4月22日、飛行戰隊兵舎を転用して志紀中学校が開校、他の大半の建物は撤去(戦災復興資材に転用か?)され、また飛行場内の一部で農耕が始まります。
昭和27(1952)年、第十一飛行師團司令部敷地などが払い下げられます。
昭和29(1954)年、米軍より日本政府に全面返還され、運輸省、大阪府に移管、一部は民間に払い下げられ、運輸省(現、国土交通省)用地に陸上自衛隊第3管区航空隊が浜松から移駐、八尾分屯地が発足、昭和31(1956)年3月31日、八尾飛行場と改称、全国初の民間飛行場として使用が開始されます。
昭和36(1961)年、『空港整備法』により第二種空港に指定、八尾空港と改称します。
昭和37(1962)年、八尾分屯地において中部方面航空隊が編成完結、昭和44(1969)年、海上保安庁第五管区海上保安本部八尾航空基地(平成16年廃止)、昭和45(1970)年、大阪市消防局航空隊基地が設置されます。
昭和46(1971)年、分屯地敷地が運輸省から防衛庁(現、防衛省)に移管されます。
昭和49(1974)年、八尾分屯地から八尾駐屯地へ昇格、昭和55(1980)年、防衛省は民有地を買収し、駐屯地を拡張、平成12(2000)年、防衛省用地と大阪府用地を交換、現在の八尾駐屯地が形成されます。

▲現在の陸上自衛隊・八尾駐屯地格納庫
昭和59(1984)年、エプロン(旧大阪陸軍航空廠格納庫地区)が、新たに整備された現ターミナル地区へ移転、現在に至ります。
A 飛行第二百四十六戰隊 戦闘指揮所
陸上自衛隊・八尾駐屯地内に遺ります。
昭和18(1943)年初旬、木造の戦闘指揮所が建設され、昭和20(1945)年3月、東西13mx南北10mのコンクリート製耐弾指揮所に建て替えられます。

▲北東から
北側は開口部が2ヶ所あります。

▲北側開口部近影

▲北西から
西側には開口部が1ヶ所あります。
往時は全体に土が被せられ偽装されていました。

▲東から
東側は開口部1ヶ所と入口があります。
上掲北側開口部に比べ造りが荒く、戦後に開けられたものかも知れません。

▲入口
天蓋コンクリートの分厚さが目立ちます。

▲入口天井の様子

▲南側壁面
南側は開口部が4ヶ所ありますが、左側以外の3ヶ所は造りが荒く、戦後に開けられたものかも知れません。

▲一番左側の開口部
表面は綺麗に整形されています。

▲西から2番目の開口部
明らかに無理矢理開口されています。

▲南側壁面にある柱跡。
築造当初は屋上に櫓が組まれ、監視哨に使われていたのかも知れません。
戦闘指揮所は停戦後、屋上に櫓が組まれ管制塔として利用された後、倉庫となります。

▲昭和30年代、管制塔に転用された戦闘指揮所

▲管制塔に転用された戦闘指揮所の近影
戦闘指揮所は昭和50(1975)年、広報展示室に改装され、平成26(2014)年、耐震工事がなされ「大正館」と命名され現在に至ります。
内部には八尾駐屯地の沿革、ヘリコプターのエンジンやローター、そして陸軍の展示が並びます。

▲寄せ書き

▲軍装品

▲感状、遺書類

▲無線機

▲最上段の木製プロペラは「剣のプロペラ」とあります。
「剣」(特殊攻撃機「劍」キ-一一五)は大東亜戦争末期に開発された特殊攻撃機で、鋼板、木製の為、「木製プロペラ=劍の物」となり、この説明になったと思われます。ただ、劍の発動機はハ-一一五(榮二一型)で一式戦や零戦に搭載されている物であり、木製プロペラが付けられたとは考え難いです。
B 第一中隊格納庫 控壁
陸上自衛隊・八尾駐屯地内に遺ります。
格納庫建屋は停戦後解体されましたが、コンクリート製の控壁はそのまま遺され、新築格納庫に転用されました。

▲東側控壁
重量屋根を支える三角形の控壁が並びます。

▲西側控壁
C 第二中隊格納庫 控壁
滅失しました。
格納庫建屋は停戦後解体されましたが、コンクリート製の控壁はそのまま遺され、新築格納庫に転用されました。

▲東側控壁

▲西側控壁
C格納庫控壁の東側にも第三中隊格納庫の、さらにその東側にも別の格納庫(獨立飛行第八十二中隊か?)の控壁が同様に遺されていましたが、前者は昭和60年頃、後者は昭和40年頃、格納庫の建て替えに伴ない破壊されてしまいました。
これらの残骸が田井中遺跡発掘の際に出土しています。
D 建物
大阪府警航空隊の敷地に火薬庫の様な建物が遺りますが、詳細は不明です。

E 滑走路
当時はコンクリート舗装滑走路1,710×80m(東~西方向)、1,300×80m(北西~南東方向)の2本がありました。
現在も当時の滑走路が転用改修され使用されています。
両滑走路の接続する南東端付近に当時の舗装が一部遺ります。

▲滑走路右側にある格子状の部分が当時のコンクリート舗装と思われます。
④ 高射砲陣地
大正には高射第三師團(河合潔中将、天王寺)隷下の高射第百二十一聯隊第一大隊第二中隊(八八式七糎野戰高射砲6門)が配備されていました。
昭和30年代までコンクリート製構造物が遺されていたそうですが、現在は何も遺されていません。
高射砲陣地は当地の他に荘内にもありましたが、停戦まで備砲されていなかった様です。
高射砲の他、大正には獨立機關砲第十一大隊(前田俊夫少佐)の第四中隊(ソキ砲(双聯二十粍高射機關砲)x14)が配備されており、滑走路東端、格納庫東側、誘導路沿いの二俣、誘導路終端の恩地北、大和川堤防、北久宝寺などに陣地が構築、また恩地北に聴音機、太田に電波警戒機も配備されてい様ですが、詳細は不明です。

▲大和川堤防に遺るコンクリートの残骸。
この様なコンクリート片が点々とありますが、これが機関砲陣地の遺構かは不明です。
⑤ 掩体壕
大正陸軍飛行場には掩体壕が36基あった様ですが、現在は半壊した1基が遺るのみです。
I 有蓋掩体壕
飛行場から北東へ3.6km離れた垣内地区に遺ります。

▲現存の掩体壕
他の陸軍飛行場同様、昭和19(1944)年7月、南方戦線における戦訓に基づいた陸軍航空本部からの「飛行場の要塞化示達」に則り築造された様です。
※当掩体壕は私有地にあり、立ち入りには許可が必要です。

▲掩体壕 遠景
田圃の奥にある斜面上にあります。

▲掩体壕 近影

▲内部

▲天井には電灯を取付けた跡があります。

▲真横から
幅に比べ、奥行きが短い事が分かります。
往時は開口幅28×奥行21×高さ6m程あった様ですが、前半分が破壊され後半部の開口幅23.2×奥行10.2mが遺されています。
前半部は昭和25(1950)年、朝鮮戦争時の所謂“金偏ブーム”に際し、金属回収業者が内部の鉄筋を取り出すため爆破してしまいますが、鉄筋の量が少なく、採算に見合わない為、辛くも後半部が遺された様です。

▲破壊された前半部の痕跡(写真右側が掩体壕残存部)
前半部が破壊されていますが断面がきれいな事から、帯状に築造されたのが分かります。

▲残存部の10m前方に遺る向かって左側の前端部

▲掩体壕後端部
なお当掩体壕はしばしば「大阪に遺る唯一の掩体壕」と紹介されていますが、後述する様に大阪府内には他にも掩体壕(無蓋)が遺されており、正確には「大阪に遺る唯一の“有蓋(コンクリート製)”掩体壕」とするのが妥当と思います。
J 掩体壕基礎
I の掩体壕の南側100mの地点にありました。
昭和50年頃に破壊された様で、右側の立ち上り部分の一部が住宅の擁壁の一部として遺されています。
破壊前の写真を見ると北伊勢、八日市に遺る掩体壕と同種の、開口部上部に庇の付いた典型的な陸軍型掩体壕だった様です。

▲民家擁壁に遺る向かって右側の前縁部分

▲敷地内に転がるコンクリート塊
掩体壕の残骸でしょうか?
他の掩体壕
昭和23(1948)年8月31日の米軍空撮(国土地理院 USA-M84-1-118)を見ると、飛行場内の東から南側の外周に沿って有蓋掩体壕19基、南から西、北側にかけ無蓋掩体壕(コ型・ヨ型)23基(不鮮明含む)が確認できます(上掲「現在の地図」(飛行場周辺)緑色で表示)。
前者は昭和50年頃にかけて全て破壊、後者は時期不明ですが全て破壊され痕跡はありません。

▲水田内に遺っていた掩体壕(昭和39年)
分かりにくいですが、5基見えます。

▲今は無き掩体壕(昭和30年代)

▲今は無き掩体壕(昭和33年)
また、飛行場北東に設定された誘導路周辺、最南端の柏原市に木製掩体壕(基礎のみコンクリート製)が数10基設定され、多数の偽装飛行機が入っていた様です。
柏原市の掩体壕については大県南遺跡、大県南廃寺の発掘調査中にコンクリート製の基礎や誘導路土留跡が出土した様ですが、現在は何も遺されていません。
誘導路(上掲「現在の地図(広域)」オレンジ色で表示)
飛行場北東端付近から北東方向に砂利敷の誘導路5.5kmが設定されていました。
誘導路は既存の道路の一部を転用しつつ、JR志木駅の北側を通り国道170号線付近で南北に分岐、北側は近鉄恩地駅の北側付近から最北端にある I 、Jの掩体壕へ、南側は近鉄法善寺駅の北側から山の井地区の山裾に伸びていました。
両誘導路終端ふきんを南北に走る東高野街道を利用し、誘導路は巨大な環状を形成、さらに南側は柏原市大県南交差点付近まで伸びていたと思われます。

▲掩体壕 I ・J へ続く誘導路を転用した道路
<大正陸軍飛行場 沿革>
昭和11(1936)年11月4日、民間による阪神地域の防空、及び操縦士養成を目的として官民有志により大阪陸軍飛行場(東大阪)内に民間航空機関設立が提唱され、顧問に第四師團長・今井清中将、官側発起人に安井英二大阪府知事、坂間棟治大阪市長、岡田周造兵庫県知事、勝田銀次郎神戸市長、第四師團司令部附・松村正員少将(実行委員長)、民間側発起人に稲畑勝太郎日本染料製造㈱社長以下大阪側24名、鑄谷正輔川崎重工業㈱社長以下神戸側20名、後援に第四師團、大阪朝日、大阪毎日両新聞社が就任、献金の募集を開始します。
昭和12(1937)年6月15日、献金が予定額の150万円を超えた事から、顧問、発起人協議のもと(財)阪神航空協會が第四師團司令部庁舎内に設置されます。
協會は逓信・陸軍・内務各大臣、第四師團、大阪府知事の指揮監督のもと防空に関する研究、国民への防空思想の涵養を図り、また有事に際しては民間飛行隊を編成し防衞司令部指揮下、阪神地区の防空に出動するため民間操縦士の養成を行う阪神飛行學校を設立する事が決定します。
10月1日、阪神飛行學校假事務所(校長・佐藤市之丞豫備航空兵大佐)が大阪聯隊區司令部内に設置、10月中旬、敷地の選定・買収を委託された第四師團経理部は大阪府中河内郡大正村、同志紀村(現、八尾市)内100,000坪の用地を買収(1反800円、離作料他補償料等総額28万円)します(阪神飛行學校の用地が当初の大阪陸軍飛行場内から大正村に変更になった理由は不明)。
11月3日、飛行場は「大正飛行場」と命名され(財)阪神航空協會により工事が発注、飛行場の設定が開始され、昭和13(1938)年6月1日、阪神飛行學校が開校、第一期生30名(操縦科20名(応募者52名)、技術科10名(同53名))が入学、特典として操縦科学生は逓信省委託生となります。

▲阪神飛行學校(昭和10年代) 北西上空から
阪神飛行學校及び大正飛行場は東西810m、南北525m、東北隅が欠けた矩形で総面積は12万坪、陸軍から調達した九五式一型5、同三型5の10機を保有、最盛期には九五式一型10、同三型13、九三式中間練習機3、九〇式二號機上作業練習機2機を保有していました。
6日、逓信省航空局の第一回民間委託操縦生20名が入校します。
18日、中部防衞司令官・谷壽夫中将、海軍艦政本部大阪監督長・松崎伊織少将、池田清大阪府知事、勝田銀次郎神戸市長、楠本長三郎大阪帝大総長他各方面の来賓約1,000名が臨席のもと生國魂神社・生田宮司が斎主となり神式により竣工式が挙行、民間機による祝賀飛行、近隣小學校児童による祝賀合同体操が詰めかけた3万の観衆を喜ばせます。
昭和14(1939)年4月、阪神飛行學校は第三期生から正式に逓信省航空局より操縦士養成を委託され、逓信省航空局米子乗員養成所阪神分教場として教育を開始します。
11月28日、陸軍航空本部は時局の趨勢に鑑み阪神地区に防空飛行場設定を立案、陸軍航空本部池内主計中佐が中部防衞司令部職員とともに大正飛行場を視察します。
昭和15(1940)年8月28日、阪神飛行學校は防空飛行場用地選定を進めていた陸軍航空本部の要望を受け、敷地、建物、機材等全てを献納、全5期、操縦98名、技術16名を輩出し閉校します。
閉校に先立つ6月6日、陸軍は大正尋常高等小學校講堂において、飛行場用地拡張(拡張面積503,900坪:約6倍)予定地の地権者に用地買収の説明及び土地売買交渉を実施します。
10月、拡張予定地の用地買収(6.50円~6.75円/坪)が行われ、21日、陸軍航空總監代理・秋山徳三郎少将、阪神海軍部長・奥信一少将、半井清大阪府知事、坂千秋兵庫縣知事、大阪商工會議所會頭・安宅彌吉安宅商會㈱社長他軍官民各方面500名の参列のもと石切神社・木積社司が祭主となり地鎮祭が挙行されます。
飛行場拡張工事は陸軍省出資金に大阪府、兵庫県民の献金を加え、大阪府土木部担当のもと約250名の労務者が中心となり、近隣の勤労奉仕隊、學校報國隊の協力を得て学校、家屋、墓地の移転、河川付け替えを含む工事を開始し、12月、2回目の用地買収が実施されます。
昭和16(1941)年6月16日、大正陸軍飛行場が竣工、9月、加古川陸軍飛行場(兵庫)より飛行第十三戰隊が移駐してきます。
昭和17(1942)年8月4日、第十八飛行團が編成、11月、3回目の用地買収を実施し敷地を拡張します。
昭和18(1943)年、4月2日、飛行第五十四戰隊が立川陸軍飛行場(東京)から移駐、20日、飛行第十三戰隊はラバウルに前進、同月、飛行第二百四十六戰隊の一部が加古川陸軍飛行場から移駐(12月5日、鳳山陸軍飛行場(台湾)へ移駐)、6月7日、飛行第五十四戰隊は柏原陸軍飛行場(千島)に移駐、12月5日、飛行第二十戰隊が伊丹飛行場(大阪)から移駐してきます。
昭和19(1944)年2月14日、飛行第二十戰隊は立川陸軍飛行場に移駐、3月中旬、飛行第二百四十六戰隊が鳳山陸軍飛行場から移駐、3月23日、飛行第五十五、五十六戰隊が大正で編成(飛五十五は5月25日に小牧、飛五十六は4月28日に伊丹へ移駐)、7月17日、第十八飛行團は第十一飛行師團に昇格、10月21日、飛行第二百四十六戰隊主力は屏東陸軍飛行場(台湾)に移駐、11月、獨立飛行第十六中隊の高々度戰闘隊が編成され伊丹飛行場から移駐、12月中旬、飛行第百一戰隊が北伊勢陸軍飛行場(三重)から移駐(昭和20年3月10日、都城東に移駐)、19日深夜、B29爆撃機1機が大正陸軍飛行場、大阪金属工業㈱大和川製作所に投弾するも外れ大和川と田畑に着弾、26日、飛行第二百四十六戰隊主力(全機損失)がネグロス飛行場群(比島)より大正に帰還、戦力回復に務めます。
昭和20(1945)年1月19日1330、B29爆撃機80機が港区、西成区に来襲、うち数機が大阪陸軍航空廠に投弾、軍人軍属14名が死傷してしまいます。
29日、特別攻撃隊・第三振武隊(のち第二十振武隊に改称)が大正において編成、北伊勢に移駐します。
2月28日、獨立飛行第十六中隊高々度戰闘隊が獨立飛行第八十二中隊に改編、飛行第二百四十六戰隊とともに近畿防空にあたります。
3月19日0825、敵艦載機840機が神戸港に来襲、一部が大正にも来襲し小型爆弾、機銃掃射により施設が小破、7月10日1305、P51戦闘機50機が来襲、西作業所、倉庫が半焼、14日1445、SB2C艦爆1機が来襲します。
18日、第二獨立飛行隊が編成、北伊勢?鈴鹿?に移駐します。
7月24日0700、0715、F4U戦闘機8、F6F艦戦15機、25日0700、SB2C艦爆1、28日1310、1356、F6F20機、30日0530、F4U戦闘機7機が相次いで来襲、施設に被害が出るなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
<展開部隊>
飛行第十三戰隊(誠一一七〇三)
※「伊丹飛行場」の記事参照
飛行第二十戰隊(誠一八九六八)
※「伊丹飛行場」の記事参照
飛行第五十五戰隊(鷲一八四二七)
※「佐野陸軍飛行場」の記事参照
飛行第五十六戰隊(天鷲一八四二八)
※「伊丹飛行場」の記事参照
飛行第百一戰隊(靖一八九二〇)
昭和19(1944)年7月25日、『軍令陸甲第九十三號「第百飛行團司令部等航空部隊一部の臨時編成(編制改正)、第二百九十三次復歸要領」』により陸軍航空總監部(菅原道大中将)に臨時編成下令、『陸亞機密第九三〇號「同細則」』により第一航空軍、第八飛行師團、第二航空軍、西部軍より人員を抽出し、10月10日、編成された第百飛行團(土井直人中佐、高松)に飛行第百二(垣見馨少佐)、百三戰隊(東條道明少佐)とともに編入、11月10日、編成完結(代永兵衛少佐)します。
四式戦装備の予定でしたが機材が揃わず、また操縦者も航士五十六期、特操が主体で練度が低かったため九七戦、一式戦で訓練を開始、11月頃、四式戰に機種変更しますが故障が続発し可動率は低下します。

▲飛行第百一戰隊の四式戦
12月中旬、第二十一飛行團の比島進出により空いた大正陸軍飛行場に移駐、昭和20(1945)年1月の比島進出を目指しますが錬成が進まず、また整備能力も低く事故多発のため、比島進出は中止され、12月26日、第六航空軍(菅原道大中将、東京(昭和20年3月10日から福岡)に編入され沖縄作戦に出動する事になります。
昭和20(1945)年1月、B29爆撃機の近畿地区来襲に対し小隊規模で邀撃しますが、戦果は挙げられませんでした。
3月10日、戰隊は都城東陸軍飛行場に前進(3月26日現在、可動機は四式戰20機)、第百飛行團は第二攻撃集團を編成(各四式戦20機)します。
14、15日、第六航空軍司令部(福岡(福岡高等女學校))において行われた兵棋演習において、特攻機援護のための戦闘機隊を各飛行場に分散配備を求める航空軍司令部に対し、代永戦隊長は集結使用を主張、強硬に反対したため更迭、飛行隊長・末永正夫大尉が戦隊長に昇格します。
20日、天一號作戰の陸海軍中央協定に基づき第六航空軍は聯合艦隊指揮下に入ります。
23日、米機動部隊が南西諸島に来攻、沖縄本島、及び周辺島が銃爆撃、慶良間諸島が艦砲射撃にさらされます。
26日、聯合艦隊は天一號作戰発動を下令、第一次航空總攻撃(海軍側:菊水一號作戰)を4月6日に策定します。
4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始します。
6日、第一次航空總攻撃に集團は48機(援護機総数146機)で特攻機237機を援護、奄美大島付近まで進出し制空にあたります。
12日、第二次航空總攻撃に15機(援護機総数98機)で特攻機192機を援護、沖永良部島付近まで進出し制空にあたります。
15日夜、翌日の第三次航空總攻撃を控え集團選抜機11機により、敵制圧下の沖縄本島北・中陸軍飛行場にタ弾攻撃を実施しますが、敵対空砲火により児玉正美中尉以下8機が未帰還(児玉中尉は飛行場に不時着後、地上部隊に合流、停戦間際まで戦闘を継続していたと言われます)になってしまいます。
17日、海軍による敵機動部隊攻撃に四式戰11・三式戰11機で協力しましたが、奄美大島付近でF6F戦闘機約20機と交戦、末永戦隊長を含む8機が未帰還(後任戦隊長・坂元秀岳少佐)となり、集團の可動機は10機に減じてしまいます。
22日、第四次航空總攻撃(特攻機164機、援護機62機)、5月4日、第五次航空總攻撃(特攻機149機、援護機84機)に百二戰隊とともに30機で特攻機を援護、25日、義號作戰(義烈空挺隊の沖縄突入)に呼応した第八次航空總攻撃に百二戰隊とともに11機で出撃しますが10機が未帰還となり、戦力が払底、6月下旬、沖縄戦の終結とともに隈庄陸軍飛行場(熊本)を経由し成増陸軍飛行場(東京)に移駐、戦力回復にあたります。
7月10日、復帰した飛行第百二戰隊の人員・機材の一部(残りは百三戰隊)を加え、8月2日、高萩陸軍飛行場(埼玉)に移駐、12日、第百飛行團司令部(秋山紋次郎大佐)とともに高松陸軍飛行場(高松)に移駐、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝します。
16日夕、高知沿岸の監視哨から「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、17日未明、特別攻撃隊を編成(木村少尉)、12機が爆装し出撃しますが、目標を発見できず帰投(土佐湾沖海戦)し、停戦を迎えました。
飛行第二百四十六戰隊(天鷲一九一九六)
昭和17(1942)年6月30日、飛行第十三戰隊(加古川)を基幹として編成下令、8月10日、九七戦25機(定数33機)・2個中隊(札幌飛行場(逓信省)に所在した飛行第十三戰隊第二中隊はそのまま二百四十六戰隊第二中隊に転属)で編成完結(宮本武夫少佐)、8月4日に新編された第十八飛行團(北島熊男大佐、大正/昭和19年7月17日、第十一飛行師團に昇格)に編入され、阪神地区の防空にあたります。
10月下旬、札幌の第二中隊は飛行第五十四戰隊と交替し加古川陸軍飛行場に移駐し本隊と合流、12月、第三中隊が編成されます。
昭和18(1943)年4月、戰隊主力は伊丹飛行場、一部は大正陸軍飛行場に移駐、7月にかけ明野陸軍飛行學校(三重)において伝習教育を受けつつ、8月、二式戦二型に機種改変します。
11月25日、支那大陸の米陸軍機により台湾新竹市が空襲されたのを受け、台湾防空戦力の強化のため、12月5日、戰隊の2個中隊は第十八飛行團偵察隊とともに鳳山陸軍飛行場(台湾)に前進、高雄地区の防空にあたり、P38、B24を邀撃しますが、いずれも会敵できませんでした。
12月27日、『軍令陸甲第百二十一號』により、昭和19(1944)年1月20日、第二百四十六飛行場大隊(上野辰之助少佐)の編成が下令されます。
3月中旬、戰隊主力は鳳山から大正に帰還、4月、空地分離を実施し第二百四十六飛行場大隊に人員・器材を転出し、編制改正します。

▲大正における飛行第二百四十六戰隊の二式戦
6月15日夜、成都(支那)を出撃したB29の北九州初来襲を受け、16日、戰隊は小月陸軍飛行場に前進、第十九飛行團(三好康之少将、小月)の指揮下に入り、第一中隊(戦隊長直卒)は大村海軍航空基地に前進、7月7日・8月10日夜間、B29の邀撃にあたりますが会敵できず、13日、大正に帰還、1個中隊を残置し小牧陸軍飛行場(愛知)に移駐します。
8月10日、石川貫之少佐が新戦隊長に就任、9月中旬、石川戦隊長は戰隊全力を大正に集結、訓練の重点を従来の対爆撃機戦闘から対戦闘機戦闘訓練に移し、戦力向上に務めます。
10月21日、戰隊はフィリピン派遣を前提に台湾移駐が発令され、第三中隊長・佐野清則大尉以下、特操主体の未熟者、長男、妻帯者、及び整備隊主力(20機)を大正に残置し、戦隊長以下38機で屏東陸軍飛行場に前進、第八飛行師團(山本健児中将、台北)の指揮下に入り台湾南部の防空にあたります。
11月6日、比島進出を受命、8日、戰隊はクラーク中飛行場に前進、第三十戰闘飛行集團(青木武三少将、サラビヤ)の指揮下に入り、飛行第二十九戰隊(土橋正次大尉)とともにマニラ、クラーク地区の防空にあたりますが、目視のみの貧弱な防空監視態勢に苦戦します。
14日、特別攻撃隊「富嶽隊」(第四次攻撃、根木基夫大尉以下四式重爆3機6名)の出撃援護に戰隊3機は二十九戰隊5機とあたりますが、離陸直後にF6F艦戦30機の奇襲を受けて全機損失、戰隊の左高英司軍曹が散華してしまいます。
11月末、サブラン飛行場に移駐、12月5日、敵機邀撃に16機が出撃しますが、敵戦闘機40機に高度占位され2機撃墜するも、7名が散華してしまいます。
12月13日、ミンドロ島に向けスールー海を北上中の敵輸送船団攻撃に出撃する特別攻撃隊「旭光隊」(長幹夫少尉以下12名、九九双軽)援護のため可動全力13機で出撃、シライ飛行場(ネグロス島)で給油中、P38戦闘機6機の奇襲を受け川元省三准尉が散華してしまったため、特攻援護は他戰隊と交替、14日、残存10機でシライを出撃、敵船団攻撃に向かう友軍攻撃隊の出撃援護にあたりましたが、着陸時にF6F艦戦30機の奇襲を受けたため、石川戦隊長は燃料残量僅か、低位劣勢を考慮し胴体着陸を命じ、全機損失するも操縦者は全員生還します。
12月20日、戰隊は全機損失してしまったため内地帰還を命じられ、生存者はパコロドから輸送機で移動を開始、途中リンガエン湾で不時着水してしまいますが、救助され、24日、マニラに到着、26日、飛行第六十戰隊の九七重爆に便乗し大正に帰還、B29邀撃を禁止され錬成にあたっていた残置部隊と合流します。
石川戦隊長は比島での戦闘の経験から、対戦闘機戦能力に重点を置き戦力回復に務めますが、当時既にB29の近畿来襲が始まっていたため対爆撃機戦に専念する事となります。
戰隊主力の比島派遣中の昭和19(1944)年12月8日、第十一飛行師團(北島熊男大佐、大正)に特別攻撃隊の編成が内示、昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、師團隷下の飛行第五(清洲)、五十五(小牧)、五十六(伊丹)、二百四十六戰隊(大正)から隊員の選抜が行われ、戰隊から伊藤忠雄少尉、穴澤利夫少尉、山本秋彦少尉が選抜、大正陸軍飛行場において「第三振武隊」(一式戦三型)が編成(のち第二十振武隊に改称)、北伊勢に移駐します。
昭和20(1945)年1月頃、戰隊に四式戦の配備が開始され以後、二式戦と四式戦の混成編成(4月上旬時点で二式20、四式12機保有)を採ります。
3月13日2357、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機274機が大阪に来襲(第一次大阪大空襲)、戰隊は全力で邀撃、夜間飛行と炎上する大阪の街から吹き上がる火煙に妨げられる中、藤本研二曹長はB29爆撃機1機を撃墜後、銃弾を撃ち尽くすとさらに別の1機に体当たりを敢行し撃墜、生還します。
16日、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機307機が神戸に来襲、戰隊は全力で邀撃、13日に続き藤本曹長、及び生田幸男軍曹はそれぞれB29爆撃機に体当たりを敢行し撃墜、生還、第六航空軍司令官・菅原道大中将より藤本曹長に個人感状と陸軍武功徽章、戰隊に部隊感状が授与されます。
4月7日午後、B29爆撃機150機が中京地区に来襲との警報を受け、第十一飛行師團長心得・北島少将は飛行第五、五十六戰隊を名古屋上空に、二百四十六戰隊、獨飛八十二中隊を伊勢上空に配置し邀撃しますが、戰隊の四式戦8機は初来襲のP51戦闘機30機の奇襲を受け、2機が被弾、大破してしまいます。
5月30日、戰隊は帝都防空のため1個中隊を大正に残置し、四式戦4、二式戦16機で成増陸軍飛行場(東京)に移駐、第十飛行師團(吉田喜八郎少将、竹橋)の指揮下に入りますが、6月1日、濱松陸軍飛行場に移駐し、第十三方面軍(岡田資中将、名古屋)の指揮下に入り、21日、大正に帰還します。
6月26日、中京・阪神地区にB29爆撃機約360機来襲、戰隊は24機で邀撃し6機を撃墜、第一中隊(音成貞彦大尉)9機は尾鷲南方で1機撃墜後、さらに亀山東北上空で北進中の12機梯団を発見、音成中隊長は梯団1番機に、原実利軍曹は同2番機に体当りを敢行し散華、7月9日、音成大尉は第二總軍司令官・畑俊六大将から個人感状を授与、2階級特進します(昭和44年9月27日、勲四等旭日小綬章受章)。

▲音成大尉 感状写し(八尾駐屯地)
7月19日、8月1日、B29爆撃機来襲の報に飛行第五十六戰隊とともに全力で邀撃しますが、会敵できませんでした。
7月末時点の戰隊可動機は二式戦17、四式戦7機でした。
8月14日、阪神地区にP47が来襲、戰隊は安田義人准尉以下4機が飛行第五十五戰隊(佐野)、大和海軍航空基地(奈良)の戰闘第三〇八飛行隊とともに邀撃(琵琶湖上空邀撃戰)しますが、藤本研二准尉が散華してしまいます。
15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
第二獨立飛行隊[第二代](帥一九〇二九)
昭和20(1945)年7月18日、『軍令陸甲第百三號』により大正陸軍飛行場において臨時編成(有川俊千代中佐、百偵6、四式重爆3)され、航空總軍(河邉正三大正、東京)に編入されます。
編成完結後、鈴鹿陸軍飛行場※1に移駐、紀伊半島以西の敵機動部隊索敵、集團の特攻機誘導にあたり、小牧陸軍飛行場に移駐※2、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
※1:アジ歴『陸軍航空部隊略歴』には「伊勢菰野飛行場に移駐」とありますが、“菰野飛行場”=竹永陸軍飛行場は未成でした。
『東海軍管區 航空兵器現況表 第五十一航空師團』によると停戦時の位置は「鈴鹿」になっています。
のため近隣の鈴鹿か北伊勢と思われます。
※2:八尾駐屯地広報展示室の『大正飛行場(現陸上自衛隊八尾駐屯地)昭和20年4月所在部隊』によると停戦時所在地は「大正」となっています。
獨立飛行第八十二中隊[第二代](天鷲一九五二九)
昭和19(1944)年11月、児玉陸軍飛行場に所在した第十六獨立飛行隊(平松健二少佐、百偵9機)内に高高度戦闘機隊が編成(成田富三大尉)され、百式司偵三型乙プラス丙8機で大正に移駐、阪神・中京地区の対B29爆撃機戦闘にあたります。
12月13日、B29爆撃機の名古屋初来襲から昭和20(1945)年2月中旬まで、中京地区に来襲したB29に対し高戦隊は10回邀撃、1月14日、後藤信好曹長が離脱を図るB29に高速を活かし前下方からの攻撃で1機撃墜するなど、撃墜14、撃破14機の戦果を挙げ、第十五方面軍司令官・河邉正三中将から部隊感状を授与(昭和20年2月28日)されますが、13日、中村忠雄少尉が名古屋上空で、18日、中村靖曹長(同乗鈴木茂男少尉)、古後武雄准尉(同乗關川榮太郎伍長)が渥美湾上空で、22日、高橋英雄軍曹が名古屋上空でそれぞれB29に体当りを敢行し撃墜するも散華、昭和20年1月3日、小坂三男中尉が、23日、名古屋上空で川崎武敏軍曹(同乗竹井逸雄少尉)が散華してしまう等、この間に12名が散華してしまいます。
2月25日、高戦隊は獨立飛行第八十二中隊(南登志雄大尉)に昇格、引き続き中京地区の防空にあたります。
3月13日2357、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機274機が大阪に来襲(第一次大阪大空襲)、16日、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機307機が神戸に来襲、中隊は全力で邀撃しますが、夜間飛行と吹き上がる火煙に妨げられ、充分な戦果を挙げる事ができませんでした。
4月7日午後、B29爆撃機150機が中京地区に来襲との警報を受け、第十一飛行師團長心得・北島少将は飛行第五(清洲)、五十六戰隊(伊丹)を名古屋上空に、中隊と二百四十六戰隊(大正)を伊勢上空に配置し邀撃しますが、初来襲のP51戦闘機30機の奇襲を受け、戦果は挙がりませんでした。
以後、B29に随伴する戦闘機に苦戦します。
5月30日、飛行第二百四十六戰隊が帝都防空のため成増陸軍飛行場(東京)に移駐したため、中隊は単独で大阪防空に当ります。
6月1日、近畿地区に来襲したB29爆撃機を邀撃しますが、中隊長・南大尉(同乗千葉悟少尉)が散華(後任・成田富三大尉)、7日、淡路島上空で鵜飼義明大尉がB29に体当たりを敢行し撃墜するも散華、22日、伊丹上空で江口音春伍長、7月30日、稲垣太郎軍曹(同乗千葉薫中尉)が散華してしまいます。
6月21日、飛行第二百四十六戰隊が大正に復帰、ともに阪神・中京地区の防空にあたります。
8月10日、中隊(可動機2機)は決號作戰(本土決戦)に備え第二十八獨立飛行隊(江頭多少佐、百偵9機)に編入、東金陸軍飛行場への移駐が決定、準備中に15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝します。
16日夕、高知沿岸の監視哨から「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、17日未明、中隊は可動2機で哨戒を命ぜられますが、給油中に中隊長機が炎上、成田大尉は残った後藤准尉機に乗り換え単独で出撃、B29と遭遇するも離脱を図ったため深追いはせず、また目標も発見できなかったため岩國海軍航空基地に着陸、停戦を迎えます。
-特別攻撃隊-
第二十振武隊
昭和19(1944)年12月8日、第十一飛行師團(北島熊男大佐、大正)に特別攻撃隊の編成内示、昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、師團隷下の飛行第五(清洲)、五十五(小牧)、五十六(伊丹)、二百四十六戰隊(大正)から長谷川實大尉、寺澤幾一郎軍曹(以上飛行五)、熊谷吉彦少尉、瀧村明夫少尉、大平誠志少尉、小島五郎伍長(以上飛五十五)、吉田市少尉、山本英四少尉、重政正男軍曹(以上飛五十六)、伊藤忠雄少尉、穴澤利夫少尉、山本秋彦少尉(以上飛二百四十六)の12名(一式戦三型)が選抜、大正陸軍飛行場において編成(当初は「第三振武隊」)、隊長には航士五十五期生の長谷川大尉が補されます。

▲長谷川實大尉(群馬県出身)
生粋の戦闘機乗りで飛行第五戦隊に所属、南方航空戦において
数次の作戦に従事した勇士でした。
隊は北伊勢陸軍飛行場(三重)に移駐、防衞總司令官(東久邇宮稔彦王大将、東京)直轄の特別攻撃隊として整備、錬成にあたり、2月8日、第六航空軍隷下に編入され第二十振武隊と改称されます。

▲昭和20(1945)年1月末、北伊勢において訓練機を見上げる第二十振武隊隊員
左より長谷川隊長、重政軍曹、穴澤少尉、小嶋伍長、山本英少尉(色眼鏡)、
寺澤軍曹、吉田少尉、熊谷少尉
3月16日、大分海軍航空基地に移駐、艦船攻撃訓練を実施しますが、23日、米艦載機の空襲を受けたため防府陸軍飛行場(山口)に退避、同飛行場において徳山湾内の海軍艦艇を目標に急降下攻撃、艦船攻撃訓練を実施します。
25日、都城東陸軍飛行場に移駐、27日、知覧陸軍飛行場に前進、さらに夕刻、徳之島陸軍飛行場に前進予定でしたが、悪天候のため延期されます。

▲都城東において訓示の後、答礼する長谷川隊長(左)
写真手前の穴澤少尉は婚約者・孫田(現姓伊達、平成25年他界)智恵子さんから
送られた紫の襟巻きを白の航空襟巻きの下に巻いていいるため、他の隊員より
首元が膨らんでいるのが分かります。
29、30日、隊は徳之島に前進しますが悪天候のため、不時着が続出、長谷川隊長、山本英少尉、山本秋少尉のみが徳之島に到達、大平少尉、穴澤少尉、寺澤軍曹、重政軍曹は知覧に引き返し、吉田少尉は奄美大島の海岸不時着時に岩礁に激突し散華してしまいます(伊藤少尉、熊谷少尉、瀧村少尉、小島伍長は奄美大島、喜界島に不時着生還、次期作戰に備え福岡に移動)。
4月1日、米軍上陸部隊が沖縄本島に迫る中、0500、山本秋少尉は25番2発を懸吊し徳之島を発進、慶良間列島北方海上において敵大型輸送船に突入し命中撃破、2日0430、長谷川隊長、山本英少尉が徳之島を発進、慶良間列島北方海上の敵船団に突入散華します。
12日、第二次航空總攻撃が下令、1210、大平少尉、穴澤少尉、寺澤軍曹は知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、5月3日、第六次航空總攻撃が下令、4日0530、重政軍曹は知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華しました。

▲桜の小枝を打ち振り見送る“なでしこ隊”(隊員の身の回りの世話をしていた知覧高等女學校生)に答礼、25番1発を懸吊し知覧を発進する穴澤少尉
穴澤少尉辞世 「散花と さだめを共にせむ身ぞと 願ひしことの かなふ嬉しさ」
-待機特別攻撃隊-
第二百三十三振武隊
昭和20(1945)年4月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(六郷夷海少尉以下6名、九九襲)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百三十四振武隊
昭和20(1945)年4月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(平野勝美少尉以下6名、九九襲)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百三十五振武隊
昭和20(1945)年5月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(佐藤喜三郎中尉以下6名、九九襲)、常陸教導飛行師團(加藤敏雄少将、水戸)の隷下となり大正陸軍飛行場-甲府陸軍飛行場-前橋陸軍飛行場に移駐し錬成にあたります。
7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり目達原陸軍飛行場に移駐、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百三十六振武隊
昭和20(1945)年5月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(梅野直士中尉以下6名、九九襲)、常陸教導飛行師團(加藤敏雄少将、水戸)の隷下となり大正陸軍飛行場-甲府陸軍飛行場-前橋陸軍飛行場に移駐し錬成にあたります。
7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり目達原陸軍飛行場に移駐、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百四十一振武隊
昭和20(1945)年6月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(塩澤弘中尉以下6名、九九襲)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
第二百四十二振武隊
昭和20(1945)年6月、第一航空軍(安田武雄中将、東京)の担任で飛行第二百四十六戰隊(大正)において編成(大谷佐重中尉以下6名、九九襲)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり錬成、待命中の8月16日、停戦を迎えます。
-地上部隊-
第三十二航空地區司令部(輝一八四八六)
昭和19(1944)年5月8日、『軍令陸甲第六十一號』により編成下令、6月30日、大正陸軍飛行場において編成完結(大橋市伊中佐)します。
航空地區司令部は担当地区内所在の飛行場大隊、同中隊を指揮し、飛行部隊に対する支援業務を担当しました。
7月13日、南方派遣のため吉野丸に乗船し門司港を出航、21日、高雄(台湾)に入航、吉野丸はフィリピン方面への兵力増強を目的としたミ11船團(輸送船18隻、護衛「占守」、第五十五號駆潜艇等7隻)に加わり29日、高雄を出航しますが、31日0300、バリンタン海峡航行中、敵潜水艦パーチェ、スチールヘッド、ハンマーヘッドの雷撃を受け、光榮丸は3本被雷し轟沈、扶桑丸が1本被雷し転覆沈没、萬光丸が1本被雷し浸水沈没、吉野丸も2本被雷し沈没(他2隻損傷)、4,000名を超す将兵を失ってしまいます。
司令部の生存者14名はマニラに集結、9月13日、セレベス島マカッサル県のリンブン飛行場に移駐します。
昭和20(1945)年、8月10日、第四野戰飛行場設定司令部(難波了三大佐、ガマラン)より4名が転入、16日、停戦を迎えました。
25日、第九航空通信聯隊(野邊常介少佐、バンドン)より166名、第八航空情報隊(松本朝雄少佐、ジャワ)より54名、南方航空路部(斎藤文治大佐、マニラ)より17名、9月12日、第百四十四野戰飛行場設定隊(森下欣次郎大尉、メダン)より37名が転入します。
15日、ビンラン県スリリに移駐、10月1日、第四十三飛行場中隊(吉川昇中尉、レンバン島)が復帰し55名が編入、第百十三飛行場大隊(阿久津儀治少佐、マベヤ)から1名、第二十八飛行場大隊(武松哲夫大尉、セラム島)から1名が転入します。
10日、ビンラン県マリンプ集結地に移駐、11月15日、第四航側隊セレベス派遣隊(小山光男大尉)95名、第二十一野戰航空修理廠(新保稔大佐、ガレラ)第三分廠(アンボン)より178名、同第一獨立整備隊より8名、第五飛行場大隊(下見軍蔵少佐、セラム島)より27名が転入します。
昭和21(1946)年5月18日、セレベス島パレパレ港出航、30日、名古屋港に入航、名古屋において復員完結します。
第一飛行場大隊(鏑一九二七四)
昭和18(1943)年12月27日、『軍令陸甲第百二十號』により編成下令、昭和19(1944)年2月28日、第四十二飛行場大隊(目澤廣吉少佐、小牧)を基幹として大正陸軍飛行場において編成完結(原口作太郎少佐)、3月15日、落合陸軍飛行場(樺太)に移駐、一部を気屯、大澤、初間、小野登呂(以上樺太)、上更別、登路、帯廣(以上北海道)各陸軍飛行場に展開、各飛行場の補給、警備、及び飛行場管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、8月23日、落合において武装解除しました。
第二百四十六飛行場大隊(天鷲一九一九八)
昭和18(1943)年12月27日、『軍令陸甲第百二十一號』により、昭和19(1944)年1月20日、飛行第二百四十六戰隊(宮本武夫少佐、台湾鳳山)に第二百四十六飛行場大隊(上野辰之助少佐)の編成が下令されます。
3月中旬、戰隊主力の大正陸軍飛行場への帰還を待って、4月、空地分離を実施、戰隊から第二百四十六飛行場大隊へ人員・器材を転出し、編制改正します。
以降、大隊は大正に所在、飛行戰隊の補給、飛行場警備・管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
第百八十八獨立整備隊(燕一九〇七三)
昭和20(1945)年2月8日『軍令陸甲第二十三號』により、3月20日、大正陸軍飛行場において編成(佐渡一三中尉)完結します。
以降、隊は大正に所在、飛行戰隊の機材修理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
第十八飛行團通信隊(中部一二一)
第十八航空通信聯隊(靖一九一八六)
昭和17(1942)年4月13日、『昭和十六年軍令陸甲第三十一號』により第十八飛行團司令部の臨時編成下令、8月4日、編成完結(北島熊男大佐)、大正陸軍飛行場に進出します。
8月31日、第十八飛行團司令部隷下に第十八飛行團通信隊の編成完結します。
昭和19(1944)年7月15日、『軍令陸甲第八十七號』により第十八飛行團司令部は復帰、17日、第十一飛行師團司令部が臨時編成(北島熊男大佐、大正)されます。
7月31日、第十八飛行團の第十一飛行師團昇格に伴い通信隊は復帰、人員、器材は第十八航空通信隊、第十三対空無線隊編成の基幹となります。
同日、第十八航空通信隊が編成完結、第十一飛行師團隷下に編入されます。
昭和20(1945)年2月8日、第十八航空通信隊は第十八航空通信聯隊(平山彌市中佐)に改編、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、10月5日、復員完結しました。
第三十一航空通信聯隊 八尾分遣隊
※「歩兵第七十聯隊」の記事参照
第十三対空無線隊(燕一九一八九)
※「伊丹飛行場」の記事参照
第六十八対空無線隊(靖一九五五五)
※「伊丹飛行場」の記事参照
第二陸軍気象隊(風一九五六七)
昭和19(1944)年11月、中部管區気象隊が編成(萩洲博之少佐、大正)、第十一飛行師團司令部(北島熊男大佐、大正)内に設置され、第六航空軍司令部(菅原道大中将、福岡)指揮下に編入されます。
隊は中部、近畿、中国、四国地区の気象勤務を担当、本郡を大正(後、奈良に移駐)、第一中隊(小牧:中部地区担当)、第二中隊(大正:近畿地区担当)、第三中隊(中国地区担当)に展開します。
昭和20(1945)年3月17日、第二陸軍気象隊にに改編、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月15日、復員完結しました。
第百四十一野戰飛行場設定隊(翼一八四五〇)
昭和19(1944)年7月30日、大阪において編成(前田勢大尉)、大正陸軍飛行場の拡張工事にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、8月31日、復員完結しました。
航空總軍司令部 大阪支所
※「航空總軍戰闘指令所壕」の記事参照
<主要参考文献>
『河内どんこう 82~各号「戦争遺跡を訪ねて」』(やお文化協会)
『民衆史研究 53 「阪神飛行学校と大正飛行場」』(大阪民衆史研究会)
『ヒストリア 第171号 「田井中遺跡周辺の戦争遺跡」』(平成12年9月 大阪歴史学会)
『八尾今昔写真帖』(平成21年8月 棚橋利光監修)
『戦史叢書19 本土防空作戦』(昭和43年10月 防衛庁防衛研究所戦史室)
『日本陸軍戦闘機隊』(昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)
『陸軍特別攻撃隊』(平成7年7月 モデルアート社)
『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)
『高射戦史』(昭和53年12月 下志津(高射学校)修親会)
国土地理院 空撮
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