当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第十一飛行師團司令部

大阪府八尾市に所在する八尾空港の北東側に第十一飛行師團司令部がありました。
第十一飛行師團 ア 「陸軍」石標(八尾)
▲公園に移設された「陸軍」の境界石標

【探索日時】
平成21年3月17日





第十一飛行師團司令部の場所
第十一飛行師團司令部は大正陸軍飛行場の北東側に隣接してありました。
大正陸軍飛行場(現在)
▲現在の地図(飛行場周辺)に施設を転写

※緑文字が当記事の紹介施設
①大正陸軍飛行場
第十一飛行師團司令部
③大阪陸軍航空廠/大阪陸軍航空補給廠
④高射砲陣地(高射砲第百二十一聯隊第一大隊第二中隊?)

遺構について※青字は地図にリンクしています。
(番号・遺構配置は上掲地図参照)
② 第十一飛行師團司令部
昭和17(1942)年8月4日、本土中部の防空専任部隊として第十八飛行團司令部が大正陸軍飛行場において編成(北島熊男大佐)、12月、飛行場北東側44,000坪を買収、師團司令部が新築されます。
昭和19(1944)年7月17日、第十八飛行團司令部は第十一飛行師團司令部に昇格、引き続き近畿・中京地区の防空にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始、司令部は飛行場とともに米軍に接収されます。

昭和27(1952)年、接収解除に伴い大蔵省に返還、敷地は大阪府に払い下げられ、最後まで遺っていた司令部作戦室も昭和44(1969)年、平成12(2000)年の2度に分けて破壊されてしまい、現在跡地は府営住宅、公園等になっています。

飛行師團司令部内は昭和19(1944)年夏頃、疎開のため不要兵舎2棟を撤去しましたが、停戦時には大小67棟(3,420坪)の建物がありましたが、昭和22(1947)年9月23日の米軍空撮を見ると、一部を除き大半の建物は撤去(戦災復興資材に転用か?)されています。
近畿防空の中核を成した第十一飛行師團司令部ですが、遺構は皆無に近いです。

ア 「陸軍」境界石標(移設)
志紀町西公園内に移設されており、第十一飛行師團司令部唯一の遺構です。
第十一飛行師團 ア 「陸軍」石標(八尾)
▲正面

第十一飛行師團 ア 「陸軍」石標裏「12」(八尾)
▲裏面は「十二」の刻字があります。


イ 国旗掲揚塔
同じく志紀町西公園内にありますが、軍とは関係無い物かも知れません。
第十一飛行師團 イ 国旗掲揚台(八尾)
▲正面は「皇紀二千六百年記念」の刻字があります。
 側面には「昭和十五年八月 乾町」の刻字があります。


外周堀跡
第十一飛行師團司令部の外周は水堀で囲まれていました(上掲地図、水色部分)。
現在は埋められてしまい、一部区画が残るのみです。
第十一飛行師團 北側堀(八尾)
水堀北端付近
 水路とその右側のテニスコートが水堀跡です。

第十一飛行師團 北東端付近(左側幼稚園が水濠跡) 東から(八尾)
水堀東側付近
 道路と左側の建物が水堀跡


志紀町西公園には第十一飛行師團司令部のコンクリート製耐弾作戦室(102坪)がありました。
停戦後、木造建物はいち早く撤去されてしまいましたが、作戦室は強固なため放置されていました。
しかし、昭和44(1969)年、府営住宅改装に伴う公園整備により上半分が破壊、残存部は埋められて小山に、さらに平成12(2000)年、残存部も破壊され更地化されてしまいました。
第十一飛行師團作戦室(昭和43年)(八尾)
▲今は無き飛行師團作戦室(昭和43年)


所在部隊
第十八飛行團司令部(中部一二一)
第十一飛行師團司令部(天鷲一〇四一)
昭和17(1942)年4月13日、『昭和十六年 軍令陸甲第三十一號』により第一飛行集團(安部定中将、岐阜) 隷下に第十八飛行團司令部臨時編成下令、8月4日、本土中部(近畿・中京地区)の防空専任部隊として第十八飛行團司令部が大正陸軍飛行場において編成(北島熊男大佐)、第一航空軍司令部(安田武雄中将、東京)隷下に編入、中部軍司令官(藤井洋治中将、大阪)の指揮下に配属され、近畿・中京地区の防空にあたります。
第十八飛行團司令部隷下部隊
飛行第十三戰隊(大正)
飛行第二百四十六戰隊(加古川)
第十八飛行團偵察中隊(大正)
   〃    情報隊(大正)
   〃    通信隊(大正)

12月、飛行場北東側44,000坪を買収、師團司令部が新築されます。
第十一飛行師團 北島熊男少将(八尾)
▲北島熊男中将(士候二十九、陸大四十、岡山県出身)
 北島中将は騎兵から航空兵に転科、飛行第十二戰隊長を経て
 第十八飛行團長に補されます。
 昭和18年3月1日、少将、昭和20年4月7日、中将に進級。
 猛将型の将軍で、大東亜戦争末期、情報伝達の利便性、空襲の危険性から
 上級部隊から大阪城に後退を勧められますが、士気の低下を考慮し
 前線の大正に留まり、指揮を採り続けました。
 迅速な指揮のため拡声器で直接命令を伝える事もしばしばあったと伝えられます。

昭和18(1943)年4月2日、飛行第十三戰隊は南東方面に転用のため、第六飛行師團司令部(板花義一中将、ラバウル)隷下に編入、20日、ラバウルに移駐します。
4月2日、飛行第五十四戰隊第一・第二中隊が第十八飛行團司令部指揮下に入り、札幌飛行場(逓信省)から大正に移駐、飛十三の任務を継承しますが、4月30日、第一中隊は台湾防空のため臺北陸軍飛行場へ移駐、5月30日、熱田(アッツ)島守備隊玉砕を受け、6月上旬、米軍侵攻に備え飛五十四主力は柏原陸軍飛行場(千島)に帰還します。

11月25日、支那大陸の米陸軍機により台湾新竹市が空襲されたのを受け、台湾防空戦力強化のため、12月5日、飛行第二百四十六戰隊の2個中隊は第十八飛行團偵察隊とともに鳳山陸軍飛行場(台湾)に前進、高雄地区の防空にあたり、P38戦闘機、B24爆撃機を邀撃しますが、いずれも会敵できませんでした。

12月5日、伊丹陸軍飛行場において飛行第二十戰隊が編成、第十八飛行團隷下に編入され大正に移駐、阪神地区の防空任務にあたりつつ錬成に務めます。

昭和19(1944)年2月14日、飛二十は第一飛行師團司令部(原田宇一郎中将、札幌)隷下、北方軍(樋口季一郎中将、札幌)指揮下となり立川陸軍飛行場に移駐、3月中旬、飛二百四十六主力が鳳山から大正に帰還します。

3月23日、飛行第五十五、五十六戰隊が大正で編成(飛五十五は5月25日に小牧、飛五十六は4月28日に伊丹へ移駐)、ともに第十八飛行團隷下に編入されます。

昭和19(1944)年5月5日、飛行團は『大陸命第千三號』により防衞總司令官(東久邇宮稔彦王大将、東京)隷下に編入されます。

6月15日夜、成都(支那)を出撃したB29爆撃機の北九州初来襲を受け、16日、飛二百四十六は小月陸軍飛行場に移駐、第十九飛行團(三好康之少将、小月)の指揮下に入り、第一中隊(戦隊長直卒)を大村海軍航空基地に配置、7月7日・8月10日夜間、B29の邀撃にあたりますが会敵できず、13日、大正に帰還、1個中隊を残置し小牧陸軍飛行場(愛知)に移駐します。

7月17日、『昭和十九年 軍令陸甲第八十七號』により第十八飛行團司令部は復帰、第十一飛行師團司令部臨時編成下令(心得・北島熊男少将)、第十八飛行團司令部は第十一飛行師團司令部に昇格、8月24日、中京地区の防空専任として師團隷下に第二十三飛行團(二田原憲治郎大佐、小牧)が編成され、飛五・飛五十五を統括します。
第十一飛行師團司令部隷下部隊
第二十三飛行團
 飛行第五戰隊(小牧)
 飛行第五十五戰隊(小牧)
飛行第五十六戰隊(伊丹)
飛行第二百四十六戰隊(大正)
獨立飛行第十六中隊(児玉)
第四十二飛行場大隊(小牧)
第百四十三飛行場大隊(伊丹)
第百六十三飛行場大隊(清洲)
第二百四十六飛行場大隊(大正)
第十八航空通信隊(大正)
第十三対空無線隊(大正)

8月21日、飛五十六は「航ハ號作戰」(防衞總司令部による臨機応変な防空戦闘部隊の兵力集中(ハ號:西部軍対象)発動により西部軍(横山勇中将、小倉)の指揮下に編入され、大刀洗陸軍飛行場(福岡)に、次いで9月1日、B29を要地侵入前に邀撃すべく済州島陸軍飛行場(朝鮮)に移駐します。

10月21日、飛二百四十六はフィリピン派遣を前提に台湾移駐が発令、約1個中隊及び整備隊主力(20機)を大正に残置し、第八飛行師團司令部(山本健児中将、台北)の指揮下に入り台湾南部の防空にあたり、さらに11月8日、クラーク中飛行場(比島)に前進、第三十戰闘飛行集團司令部(青木武三少将、サラビヤ)の指揮下に入り、飛行第二十九戰隊(土橋正次大尉)とともにマニラ、クラーク地区の防空にあたりますが、連日の戦闘で全機損失してしまいます(12月26日、大正に帰還)。

10月25日、済州島の電波警戒機がB29を発見、飛五十六は全力で邀撃に向かうも会敵できず帰還、燃料補給を行い再出撃し大村など西九州地区攻撃後のB29爆撃機58機を補足、1機撃墜、6機撃破の戦果を挙げます。
11月9日、済州島から大刀洗に移駐、15日、伊丹に帰還しますが、20日、「航ハ號作戰」発動により再び大刀洗に移駐、21日、B29爆撃機を有明海上空で邀撃し3機撃墜、1機撃破し、22日、伊丹に帰還、12月3日、再び大刀洗に移駐するも敵機の来襲は無く、8日、伊丹に帰還します。

11月6日、飛五十五は捷號作戰への転用が下命、特操を中心とした未熟者約20名の留守隊を小牧に残置し錬成にあたらせ、18・19日、アンヘレス西飛行場(比島)に前進し第二飛行師團司令部(木下勇中将)の指揮下に入り、11月23日、タリサイ飛行場に前進し幾多の航空作戦に従事しますが、連日の戦闘で人員・機材ともに損耗してしまいます(昭和20年3月、小牧に帰還)。

12月13日、中部軍からの「B29爆撃機1機が室戸岬上空を北東進中」の報に師團長・北島少将は獨飛十六に哨戒を命じ、マリアナ諸島から名古屋に初来襲したB29爆撃機80機を発見、飛五、飛五十五の残置隊、飛五十六、十六獨飛高戦隊に邀撃を命じるも、高度9,000mを飛行するB-29に届かず、撃墜2、撃破8と戦果僅少のため、装備・機関銃・機関砲の一部を撤去し軽量化、18日、第二次空襲邀撃戦(B-29・63機)では飛五十五が1機、飛五十六が2機撃墜、2機撃破、22日、名古屋の第三次空襲(B-29・48機)では飛五が4機、飛五十五が2機、飛五十六が3機撃墜します。

12月26日、第十一飛行師團は『大陸命第千二百十二號』により第六航空軍(菅原道大中将)戦闘序列に編入されます。

昭和20(1945)年1月3日、B29爆撃機74機が大阪を経て名古屋に来襲(第四次空襲)、飛五、飛五十五、飛五十六、十六獨飛高戦隊が邀撃、飛五十五・代田中尉、飛五十六・涌井中尉はそれぞれB29に体当たりを敢行し1機づつ撃墜するもともに散華、高向軍曹も体当たりを敢行し1機撃破し生還、戰隊は計5機を撃墜、13日、十六獨飛高戦隊の中村忠雄少尉が名古屋上空でB29に体当りを敢行し撃墜するも散華、14日、十六獨飛高戦隊の後藤信好曹長が1機撃墜、18日、中村靖曹長(同乗鈴木茂男少尉)、古後武雄准尉(同乗關川榮太郎伍長)が渥美湾上空で、22日、高橋英雄軍曹が名古屋上空でそれぞれB29に体当りを敢行し撃墜するも散華(2月中旬まで高戦隊は撃墜14、撃破14機)、23日、飛五はB29爆撃機梯団を高度1万mで待機邀撃、1機撃墜しますが、第三中隊長・栗原康敏中尉が散華してしまいます。

1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、師團隷下の飛行第五(清洲)、五十五(小牧)、五十六(伊丹)、二百四十六戰隊(大正)から特別攻撃隊隊員の選抜が行われ、戰隊から伊藤忠雄少尉、穴澤利夫少尉、山本秋彦少尉が選抜、大正陸軍飛行場において「第三振武隊」(一式戦三型)が編成(のち第二十振武隊に改称)、北伊勢に移駐します(4月1日、山本秋少尉が突入散華、2日、長谷川隊長、山本英少尉が突入散華、12日、大平少尉、穴澤少尉、寺澤軍曹が突入散華、5月3日、重政軍曹が突入散華)。

2月4日、B29爆撃機80機が3梯団に別れ神戸、松坂、大垣に来襲、師團は全力で邀撃、B29爆撃機6機撃墜、30機撃破、15日、B29爆撃機60機が名古屋に来襲、師團は全力で邀撃、B29爆撃機17機撃破の戦果を挙げます。

25日、十六獨飛高戦隊は獨立飛行第八十二中隊に昇格、引き続き近畿・中京地区の防空にあたります。

3月11日、B29爆撃機230機が名古屋に来襲、飛五は11日の東京大空襲を受け調布に移駐していましたが、病気療養中の保谷勇軍曹がB29爆撃機4機撃墜、1機撃破します。

13日2357、B29爆撃機274機が大阪に来襲(第一次大阪大空襲)、師團は全力で邀撃、夜間飛行と炎上する大阪の街から吹き上がる火煙に妨げられる中、飛二四六・藤本研二曹長はB29爆撃機1機を撃墜後、銃弾を撃ち尽くすとさらに別の1機に体当たりを敢行し撃墜、生還、飛五十六も1機撃墜します。

16日、B29爆撃機307機が神戸に来襲、師團は全力で邀撃、飛五十六飛行隊長・緒方大尉は1機撃墜後、体当たりを敢行しさらに1機撃墜するも散華(戰隊は計3機撃墜)、飛二四六・藤本曹長、生田幸男軍曹はそれぞれB29爆撃機に体当たりを敢行し撃墜、生還、第六航空軍司令官・菅原道大中将より藤本曹長に個人感状と陸軍武功徽章、飛二四六に部隊感状が授与されます。

3月31日、「天一號作戰(沖縄方面航空戦)」参加のため飛五十五から8機が抽出され葦屋に前進、第六航空軍隷下の第一攻撃集團(川原八郎大佐)に編入され、さらに萬世陸軍飛行場(鹿児島)に前進し特別攻撃隊の直掩任務、制空任務にあたります。

3月31日、「航ハ號作戰」発動により、飛五十六主力は葦屋に前進、第十二飛行師團(三好康之少将)指揮下、北九州の防空に就きます。
4月18日、B29爆撃機112機が大刀洗に来襲、戰隊は2機撃墜、29日、佐伯海軍航空基地に移駐、5月4日、B29爆撃機の奇襲爆撃を受けて10機が地上撃破され可動機は3機に低下してしまい、5月7日、葦屋に移駐します。

4月7日午後、B29爆撃機150機が中京地区に来襲との警報を受け、師團長・北島中将は飛行第五、五十六を名古屋上空に、飛二百四十六、獨飛八十二中隊を伊勢上空に配置し邀撃しますが、初来襲のP51戦闘機の奇襲を受けるなどし戦果は挙がらず、以降師團隷下部隊の損害は増加、B29邀撃は困難になっていきます。

8日、師團は『大陸命第千二百九十八號』により第一航空軍(安田武雄中将、東京)戦闘序列に編入されます。
第十一飛行師團司令部隷下部隊
第二十三飛行團(小牧)
 飛行第五戰隊(清洲)
 飛行第五十五戰隊(小牧)
飛行第五十六戰隊(伊丹)
飛行第二百四十六戰隊(大正)
獨立飛行第八十二中隊(大正)
第四十七航空地區司令部(小牧)
第四十二飛行場大隊(小牧)
第六十一飛行場大隊(浜松)
第六十二飛行場大隊(明野)
第百四十三飛行場大隊(伊丹)
第百六十三飛行場大隊(清洲)
第二百四十六飛行場大隊(大正)

5月11日、B29爆撃機102機が阪神地区に来襲、飛五十六飛行隊長・船越明大尉は伊丹残置の留守隊を率いて邀撃するも、撃墜され散華してしまいます。
24日、飛五十六主力が九州から伊丹に帰還、戦力回復に務めます。

5月末、飛五は五式戦に機種改変を開始しますが故障が続発し可動率が低下、6月頃より決號作戰(本土決戦)に向け防空に加え艦船攻撃訓練を開始、戦力温存に務めます。

30日、飛二百四十六は帝都防空のため1個中隊を大正に残置し、成増陸軍飛行場(東京)に移駐、第十飛行師團司令部(吉田喜八郎少将、竹橋)の指揮下に入りますが、6月1日、濱松陸軍飛行場に移駐し、第十三方面軍(岡田資中将、名古屋)の指揮下に入ります。

1日、B29爆撃機458機が大阪に来襲(第二次大阪大空襲)、飛五十六はタ彈攻撃を実施し10機を撃墜、獨飛八十二・中隊長・南大尉(同乗千葉悟少尉)が散華(後任・成田富三大尉)、5日、B29爆撃機473機が神戸に来襲、飛五十六は11機を撃墜するも3名が散華してしまいます。
7日、B29爆撃機409機、P51戦闘機138機が大阪に来襲(第三次大阪大空襲)、飛五十六はB29・2機、P51・1機を撃墜するも、3名が散華、獨飛八十二・鵜飼義明大尉が淡路島上空でB29に体当たりを敢行し撃墜するも散華、22日、伊丹上空で江口音春伍長、7月30日、稲垣太郎軍曹(同乗千葉薫中尉)が散華してしまいます。

21日、飛二百四十六が濱松から大正に帰還します。

26日、中京・阪神地区にB29爆撃機約360機が来襲、飛五十六・中川裕少尉が名張上空でB29に体当たりを敢行、1機を撃墜するも散華、飛二百四十六・第一中隊(音成貞彦大尉)9機は尾鷲南方で1機撃墜後、さらに亀山東北上空で北進中の12機梯団を発見、音成中隊長は梯団1番機に、原實利軍曹は同2番機に体当りを敢行し散華、戰隊は計6機を撃墜します。

7月9日、P51戦闘機が阪神地区に来襲、飛五十六は全力で邀撃するも中村純一少尉が撃墜され散華、飛行場に不時着した2機も地上撃破されてしまい以降、決號作戰(本土決戦)に向け戦力温存のため昼間邀撃は中止します。

7月中旬、沖縄の失陥により飛五十五は小牧に帰還、決號作戰(本土決戦)に向け戦力温存に努めつつ、8月13日、佐野陸軍飛行場(大阪)に移駐、阪神地区防空任務にあたり、小牧残置隊は三木陸軍飛行場(兵庫)に移駐し錬成にあたります。

18日、師團は『大陸命第千三百六十六號』により航空總軍司令官(河邉正三大将、東京)直属に編入されます。

師團長・北島中将は隷下全力を結集、事前に亀岡上空に待機、対空無線の誘導によりB29編隊に一撃を加える反撃作戦を策定、19日、B29来襲の報に接し、飛五十六、飛二百四十六は作戦通り全力で亀岡に前進しますが、出撃直後に敵機は小型機と判明、師團長は攻撃回避を命じるも両戦隊とも受信できず、飛五十六がP51と遭遇、我に不利な高度からの攻撃を受け2機が撃墜されてしまいます。

8月1日、再びB29来襲の報に接し、飛五十六、飛二百四十六は亀岡に前進しますが、またもや敵機は小型機で作戦は不発に終わってしまいます。

10日、獨飛八十二(可動機2機)は決號作戰(本土決戦)に備え第二十八獨立飛行隊(江頭多少佐、百偵9機)に編入、東金陸軍飛行場への移駐が決定します。

14日、阪神地区にP47が来襲、飛五十五、飛二百四十六、大和海軍航空基地(奈良)の戰闘第三〇八飛行隊とともに邀撃(琵琶湖上空邀撃戰)しますが、飛五十五飛行隊長・前田茂大尉、飛二百四十六・藤本研二准尉、戦三〇八・兵頭寛一中尉、同松山英二少尉が散華してしまいます。

15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝します。

16日夕、高知沿岸の監視哨から「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、師團長・北島中将は17日未明、獨飛八十二に哨戒、飛五十五に出撃準備をを命じますが、誤報と判明、出撃中止が下令(土佐湾沖海戦)されます。

飛五は可動全力25機を爆装、18日未明を期して伊勢湾南方の敵機動部隊攻撃を立案しますが、作戦が事前に漏洩、師團長・北島中将以下師團司令部の説得を受け攻撃を中止、第三中隊長・伊藤藤太郎中尉は独断で23機を率いて離陸、名古屋上空を飛行し1時間後に帰還、第十一飛行師團司令部は隷下部隊に武装解除を命じ、停戦を迎えます。

9月、米軍に司令部、機材、兵器、軍需品を引き渡し、残務処理後、復員完結します。

※戦果については資料によりかなりバラつきがあり確実ではありません。

主要参考文献
『河内どんこう 82~各号「戦争遺跡を訪ねて」』(やお文化協会)

『八尾今昔写真帖』(平成21年8月 棚橋利光監修)

『日本陸軍戦闘機隊』(昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)

『戦史叢書19 本土防空作戦』(昭和43年10月 防衛庁防衛研究所戦史室)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

国土地理院 空撮

Yahoo!地図
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こんばんは

私が見た頑強な建物が飛行場内に有ったと記憶しているのですが 指令部?それとも何なんですかね。
白黒の写真の建物よりは一回り小さいかと思います。
あの時に自衛隊の方に聞いておけば良かったのですが残念(>_<)

Re: こんばんは

>>奥山様、こんにちは。

おっしゃられているコンクリート製の建物は先の記事「大正陸軍飛行場」で紹介した、駐屯地内に遺る戦闘指揮所だと思われます。
師團作戦室は戦闘指揮所の3倍ほどの大きさがあった様です。

こんばんは

昔々と違い周りの風景が変わっている様ですね。
ありがとうございますm(__)m
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 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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