当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

明野陸軍飛行場 (明野陸軍飛行學校)

三重県伊勢市小俣町明野に所在する陸上自衛隊 明野駐屯地は明野陸軍飛行場、及び明野陸軍飛行學校の跡地にあります。
明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 南西から パノラマ写真(明野)
▲陸上自衛隊 明野駐屯地に遺る明野陸軍飛行學校 将校集会所

【探索日時】
平成21年7月16日、平成25年10月10日、10月20日、11月8日

【更新情報】
平成27年6月24日:遺構追加





明野陸軍飛行場明野陸軍飛行學校の場所
明野陸軍飛行場は三重縣度會郡小俣町、北濱村(現、伊勢市小俣町明野、同村松町)一帯にあり、飛行場の一角に明野陸軍飛行學校がありました。
明野陸軍飛行學校(大正9)(明野)
▲大正9(1920)年 『大日本帝國陸地測量部地形圖 宇治山田近傍』

明野陸軍飛行場 昭和15年(明野)
▲昭和15(1940)年 『小俣町史』所収
 当地図を戦後の米軍空撮と重ねると、飛行場北端が最終時には縮小されている事になる(下掲地図参照)ので、誤りと思われます。

明野陸軍飛行場 昭和20年2月15日(明野)
▲昭和20(1945)年2月15日の米軍偵察写真(明野駐屯地所蔵)

明野陸軍飛行場 USA-R2303-37(231217)(明野)
▲昭和23(1948)年12月17日の米軍空撮(国土地理院 USA-R2303-37)

明野陸軍飛行學校 明野陸軍飛行場 現在(明野)
▲現在の地図に転写
 ※誘導路、掩体壕は上掲戦時中、戦後の空撮から推定

※緑文字が当記事の紹介施設
明野陸軍飛行場明野陸軍飛行學校
②コンクリート舗装部分
③大正9(1920)年、開場時の飛行場敷地
④昭和14(1939)年、拡張された 〃
⑤昭和20(1945)年、停戦時の 〃
陸軍氣象部 明野観測所
⑦西側誘導路
⑧南側誘導路
⑨北側誘導路
⑩対空陣地?

⑪龜山陸軍病院 明星分院
⑫第七航空通信聯隊
緑線:明野駐屯地・航空記念館「顕彰館」の展示地図には“昭和20年の跡地”となっていますが、警戒線と思われます。

要目
・用地:3,560,000㎡(1,080,000坪)
・誘導路:不明
・掩体壕:不明

遺構について※青字は地図にリンクしています。
(番号・遺構配置は上掲地図参照)
① 明野陸軍飛行場明野陸軍飛行學校
大正9(1920)年4月22日、陸軍航空部は気象、地質、地形等の諸条件に優れ、且つ地域繁栄を期待する官民の招致を受け、三重縣度會(わたらい)郡小俣(おばた)村に広がる明野ヶ原に明野陸軍飛行場を設定(③の範囲)、陸軍航空學校(所沢)射撃班が静岡縣濱名郡新居町から移転し、空中射撃の教育を開始します。

大正10(1921)年4月1日、射撃班は陸軍航空學校明野分校に昇格、大正13(1924)年5月17日、明野陸軍飛行學校として独立、戦闘機の戦技教育を中心に、他機種専攻者への空中射撃、火器、機關學生に対する教育を分担しました。
明野陸軍飛行學校 昭和3年3月(明野)
▲明野陸軍飛行學校 全景(北側上空から 昭和3年3月頃)

昭和9(1934)年4月、豐濱村野依の用地を買収、昭和13(1938)年12月、飛行場内のコンクリート舗装、及び飛行場拡張(昭和14年9月完成、④の範囲)を実施します。
昭和17(1942)年3月、飛行機駐機場のコンクリート舗装(②部分)、及び飛行場の拡張(⑤の範囲)を実施します。
昭和19(1944)年6月20日、明野陸軍飛行學校は閉鎖(昭和20年4月18日、正式に閉校)、教官・助教を基幹に作戦部隊の明野教導飛行師團に改編、人員増加に伴い明野養蚕學校(現、明野高校)の校舎の一部を借用(昭和20年1月、全部を借用)、教育と並行して本土防空にあたります。
10月13日、師團において第三十戰鬪飛行集團司令部飛行第二百戰隊が臨時編成、フィリピンに前進します。
昭和20(1945)年7月18日、師團は復帰、師團から第二十戰鬪飛行集團要員の抽出が行われ、師團第一教導飛行隊は第百十一戰隊に改編、師團の教育部隊は第一教導飛行隊に改編、戦技教育を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
29日、飛行隊は解散式を挙行、10月12日、米軍が進駐、機材・兵器を引き渡し、飛行場は接収され、11月30日、残務整理を完了します。

11月1日、当地で帰農を希望する第一教導飛行隊の元将校数名が三重縣農政課に陳情、元将校約20名、近村住民10名(後に復員者、戦災罹災者等を加え80名)が明野開拓團を結成、農地開發営團の企画、立案のもと、昭和21(1946)年4月頃、飛行場用地の分配(1町3反/1軒)、払い下げ(3,700円/反)を受け、兵舎に起居し開拓を開始します。
その後、開拓団は農耕上、暫時北浜町内に移住、兵舎は戦災復興資材として解体され、公共施設の復興に転用されてしまいます。
昭和22(1947)年、明野開拓團は明野開拓農業協同組合に改組、昭和39(1964)年、小俣農業協同組合に合併されます。
昭和30(1955)年8月1日、 浜松から陸上自衛隊航空学校が明野陸軍飛行学校跡地に移駐、明野駐屯地が開設され、現在に至ります。

※以下の遺構の建設時期は『明野陸軍飛行学校の歴史と飛行第二〇〇戦隊史』(以下「戦隊史」)、名称は同書所収の「明野陸軍飛行学校鳥瞰写真説明(昭和3年3月撮影)」(以下「鳥瞰図」)と「明野陸軍飛行学校建物図(昭和19年1月)」(同「建物図」)に依ります。

-陸上自衛隊 明野駐屯地内-
A 将校集会所
大正11(1922)年12月、㈱北川組の施工により竣工しました。
明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 南西から (14)(明野)
▲現在の将校集会所(明野駐屯地 航空記念館)
 正面テラス上の屋根にあった円形明り取りは失われていますが、
 ほぼ完存している様です。
 下掲の大正11年、竣工時の写真を見ると、向かって右側(写真奥)
 は増築されたのが分かります。

明野陸軍飛行學校 将校集会所 大正11年5月21日(明野)
▲竣工間近の将校集会所(大正11年5月21日)

明野陸軍飛行學校 将校集会所(偽装)(明野)
▲戦時中、廃屋に偽装された将校集会所

明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 西から (2)(明野)
▲将校集会所 西から

明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 北東から (4)(明野)
▲将校集会所 裏側(北東から)

将校集会所は飛行学校創成期においてフランス顧問団の指導を受けた関係からフランス人の設計と言われ、フランス瓦葺き、外壁に装飾を施し、テラスを設け、煉瓦基礎に飾り石をはめ込む等、斬新かつ華麗な造りになっています。
明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 南西から(明野)
▲外壁の装飾

明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 南側 玄関周辺 南西から(明野)
▲テラスの支柱にも細工が施されています。

明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 南側 玄関周辺 南から (3)(明野)
▲玄関まわりのちょっとした場所にも凝った装飾が施されています。

明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 南側 玄関周辺 南西から (2)(明野)
▲煉瓦基礎にはめ込まれた飾り石

昭和2(1927)年9月に増築、昭和16(1941)年2月に模様替えを行い、停戦時は北側に同等の大きさの建物が2本の廊下で連結していました。
明野陸軍飛行學校 A 将校集会所 北側西玄関 北東から(明野)
▲現在の将校集会所裏口
 ここから渡り廊下により北側の建物と連結していました。

停戦後の昭和26(1951)年、鳥羽中学校(現、廃校)の建築資材として払い下げられる予定でしたが、元第一教導飛行隊長の松村元大佐、元飛行第百十二戰隊長の梼原秀見元中佐が奔走、保存される事になりました。

現在は明野駐屯地・航空記念館となり、西側が広報室、厚生センター、東側(旧貴賓室)が顕彰室として主に明野陸軍飛行學校の歴史、及び陸軍航空に関する史料が展示されています。
明野陸軍飛行學校 A 将校集会所貴賓室(顕彰室:資料館)(明野)
▲元々は貴賓室であった場所を改装し顕彰室(資料館)として使用しています。

明野陸軍飛行學校 加藤少将 肖像画(明野)
▲「軍神加藤少将肖像画」
 陸軍省嘱託の従軍画家として多くの名作を手掛けた宮本三郎画伯の作品


B 忠魂塔
昭和17(1942)年12月8日、建立されます。
明野陸軍飛行學校 B 「忠魂」塔 東から(明野)

揮毫は我が国航空の先駆者でもあり、明野陸軍飛行學校の第7代校長も務めた徳川好敏中将です。
建立当初は明野陸軍飛行學校関係の英霊を祭祀していましたが、現在は全陸軍戦闘機隊、陸上自衛隊航空学校関係殉職者も合祀しています。
当初は将校集会所の南東50mの位置にありましたが、明野駐屯地本部隊舎新築に伴い、東30mの位置に移設されました。

“移設されただけで当時の物”と言われている忠魂塔ですが、当時の写真を見ると別物の様に思います。
現在の忠魂塔は2m程の高さしか無く、また正面の「忠魂」の文字の周囲が窪んでいますが、当時の写真を見ると人物から推測して5m程あった様で、「忠魂」の文字の周囲も窪んでいません。
明野陸軍飛行學校 B 「忠魂」塔 南東から (2)(明野)
▲現在の「忠魂」塔

明野陸軍飛行學校 昭和19年11月29日 丹心隊(明野)
▲特別攻撃隊八紘第七隊 丹心隊隊員と「忠魂」塔(昭和19年11月29日)

停戦後、米軍に接収されている事から、その際に破壊され再建された物かも知れません。


C 火薬庫付属屋
上掲の昭和3(1928)年3月の空撮に写っおり、写真では火薬庫入口に同等の建物が並んでもう1棟あったようです。
火薬庫の歩哨舎でしょうか?
明野陸軍飛行學校 C 弾薬庫関連建物 北東から (2)(明野)
▲正面側

明野陸軍飛行學校 C 弾薬庫関連建物 北西から (5)(明野)
▲裏側


ア 荒鷲の塔
昭和16(1941)年以降、昭和17(1942)年11月までの間に将校集会所の前に建立された様です。
明野陸軍飛行學校 ア 荒鷲の塔(明野)

昭和17(1942)年11月の写真に写っていますが、昭和19(1944)年10月の写真には岩の部分しか写っていない事から、鷲の部分は金属供出等で撤去されたのかも知れません。
昭和37(1962)年、台座を流用?し、現在地に当時の荒鷲像を模して(一回り程小さい)建立された様です。
明野陸軍飛行學校 航士五十一期 将校集会所前にて(昭和16)(明野)
▲昭和16(1941)年・・・後列右から3人目、4人目の間に何もありません。
 陸軍航空士官學校第五十一期生、戦闘班全員

明野陸軍飛行學校 昭和17年11月  第12代明野陸軍飛行學校長 板花義一中将(明野)
▲昭和17(1942)年11月・・・最後列右側の後ろに荒鷲像が見えます。
 第12代明野陸軍飛行學校長・板花義一中将(最前列左から5人目、
 左側は松村黄次郎中佐、右側は青木武三大佐)が第六飛行師團長
 としてラバウルに赴任する際に将校集会所の前で撮影された記念写真

明野陸軍飛行學校 八紘第七隊 丹心隊と今川大佐(前中) 昭和19年11月29日(明野)
▲昭和19年11月29日・・・後列右から2人目(丸山少尉)、3人目(永塚少尉)の間に
 “台座と岩の部分だけ”の像の跡が見えます。
 八紘第七隊 丹心隊隊員と明野教導飛行師團長代理・今川一策大佐(前列中央)


a 井戸
「建物図」によるとこの位置付近に井戸の記号が記載されています。
詳細は不明です。
明野陸軍飛行學校 ā 井戸?(明野)


-㈱伊勢萬本社工場内-
※毎年9月下旬に開催される明野駐屯地開設・航空学校創立記念行事の際、工場内駐車場がシャトルバス発着場になるため敷地内への立ち入りができますが、㈱伊勢萬は衛生観念上の理由から敷地内からの撮影、及び敷地内から撮影された写真のweb上の掲載を全て禁止しているので注意が必要です。
なお、敷地外からの撮影、及び写真掲載は可能です。


D 第六格納庫
建設時期は不明(大正8年12月、11年12月、昭和9年3月、14年11月、15年6月に格納庫新築、もしくは移転の記載あり)です。
幅46m×奥行53mあり、「鳥瞰図」によると面積560坪、甲式飛行機約40機が格納できた様です。
明野陸軍飛行學校 D 第六格納庫 南東から(明野)
▲南東から(許可を得て三重県警敷地内から撮影)

明野陸軍飛行學校 D 第六格納庫 南から (2)(明野)
▲南から(許可を得て三重県警敷地内から撮影)
 南側には特徴的な明り取りがあります。

明野陸軍飛行學校 D 第六格納庫 南から(明野)
▲南側からの遠景(許可を得て自衛隊官舎から撮影)

明野陸軍飛行學校 D 第六格納庫 南西から(明野)
▲南西から(道路から撮影)
 手前は下記の雨覆射場(銃砲工場)です。

明野陸軍飛行學校 D 第六格納庫 北西から(明野)
▲北西から(明野駐屯地から撮影)
 北側の明り取りは普通の四角形です。
 上掲「明野陸軍飛行學校 全景」(昭和3年3月頃撮影)を見ると、
 当時は北側も南側同様の特徴的な明り取りだった事が分かります。


E 兵器庫
「戦隊史」によると昭和11(1936)年4月に「兵器庫、竣工」とありますが、昭和18(1943)年5月に「第四兵器庫、竣工」とあり、該当建物がどの兵器庫に当たるのか不明です。
幅20×奥行31mあります。
明野陸軍飛行學校 E 兵器庫 北から(明野)
▲北から(明野駐屯地から撮影)

明野陸軍飛行學校 E 兵器庫 北西から(明野)
▲北西から(道路から撮影)


F 雨覆射場
  銃砲工場

建設時期は不明です。
幅22×奥行60m、東側に増築部があります。
明野陸軍飛行學校 F 銃砲工場 南西から(明野)
▲南西から(道路から撮影)

明野陸軍飛行學校 F 銃砲工場 西から(明野)
▲西から(㈱伊勢萬正門付近から撮影)

明野陸軍飛行學校 F 銃砲工場 南から(明野)
▲南から(許可を得て三重県警敷地内から撮影)
 東側(写真右側)に雰囲気の違う増築部があります。
 この増築部は昭和3年3月の空撮に写っておらず、昭和22(1947)・
 昭和23(1948)年の米軍空撮(以下、単に「米軍空撮」)には写っています。


イ 第三通用門
「建物図」に「第三通用門」とありますが、第一、第二がどこにあったか不明です。
現在は㈱伊勢萬本社工場の正門に転用されています。
高さは1m程と低いものですが軍用地に相応しい重厚な造りで、手前側の頂部に配線の跡、奥側は蝶番が遺ります。
明野陸軍飛行學校 イ 第三通用門 南西から(明野)
▲通用門 全景
 主門・袖門門柱の4本で構成されています。

明野陸軍飛行學校 イ 第三通用門 南側主門柱(右)・副門柱(左)(明野)
▲南側主門柱(右)と袖門柱

明野陸軍飛行學校 イ 第三通用門 北側主門柱(左)・副門柱(右)(明野)
▲北側主門柱(左)・袖門柱

明野陸軍飛行學校 イ 第三通用門 北側主門柱 頂部(明野)
▲主門柱頂部には門灯の金具?と配線が遺っています。

明野陸軍飛行學校 イ 第三通用門 北側副門柱 蝶番(明野)
▲袖門柱のみに蝶番が付いています。


ウ 第九格納庫 基礎
昭和18(1943)年9月に建設された第九格納庫の西側・北側基礎が駐車場の外周に遺ります。
西側(奥行側)はほぼ完存で56m、北側(幅側)は東端が滅失していますが42m遺ります。
明野陸軍飛行學校 ウ 第九格納庫基礎 西側 南東から(明野)
▲西側(奥行側)基礎
 分かりにくいですがアスファルトと草むらの境のコンクリート部分が基礎です。

明野陸軍飛行學校 ウ 第九格納庫基礎 西側 南東から (2)(明野)
▲西側(奥行側)基礎
 西側基礎は外側に5m間隔で写真の基礎が10本出ています。
 格納庫屋根を支える控柱の基礎と思われます。

明野陸軍飛行學校 ウ 第九格納庫基礎 北側 東から(明野)
▲北側(幅側)基礎
 北側は内側に2m間隔で基礎が出ており、写真の中央部は土間状の塗り込みがあります。

この駐車場区画には西側に第九、東側に第八格納庫がありましたが、東側は駐車場造成の際に土盛されており、基礎等遺構は遺っていません。


エ 第八・第九格納庫 駐機場排水溝
中東漬物敷地内に第八・第九格納庫南側にあった駐機場の南端排水溝が遺ります。
敷地外からは西端、東端しか見えませんが、敷地内部分も残存していると思われます。
明野陸軍飛行學校 エ 第八・第九格納庫前駐機場 排水暗渠 西から(明野)
▲排水溝 西端
 コンクリート蓋に孔が2列に空いた同様の排水蓋は、北伊勢陸軍飛行場にも遺ります。

明野陸軍飛行學校 エ 第八・第九格納庫前駐機場 排水暗渠 東から(明野)
▲排水溝 東端


G 電気精器工場
昭和15(1940)年3月に建設されました。
現在の空撮を米軍空撮と重ねると、光洋メタルテック伊勢工場内の建屋と合致しますが、詳細は不明です。
明野陸軍飛行學校 G 電精器工場(左から2棟目) 南東から(明野)
▲明るく加工した部分が電気精器工場と思しき建屋です。
 周辺と造り、大きさが違いますが、詳細は不明です。


② コンクリート舗装部分
昭和13(1938)年12月、飛行場の拡張に伴い場内(場所不明)の、昭和17(1942)年3月、駐機場のコンクリート舗装が施工されます。
web地図の空撮を見ると現在の滑走路の一部に当時の滑走路と同方向のコンクリート敷部分(上掲「遺構配置図」紫部分)がありますが、詳細は不明です。
当時のコンクリート敷が現用ヘリコプターの作戦行動に耐えうる耐荷重があるか不明なため、敷き直されている可能性があります。
明野陸軍飛行學校 ② 滑走路(当時の部分)(明野)
▲該当箇所のコンクリート敷

明野陸軍飛行學校 ② 滑走路(当時の部分)近影(明野)
▲該当箇所の近影
 骨材に玉砂利を多く含んでいる事から当時の物でしょうか?


⑥ 陸軍気象部 明野観測所
昭和13(1938)年4月9日、勅令第二四十號『陸軍氣象部令』が公布、11日、東京府東京市牛込区若松町の陸軍砲工學校内において陸軍氣象部が発足、事務を開始します。
同部は11月から各地に気象観測所の設置を開始、昭和14(1939)年2月10日、明野に設置されます。
昭和19(1944)年5月13日、陸達第三十六號により『氣象部支部業務規定』が定められ、15日より施行され、明野観測所は新設された陸軍氣象部岐阜支部隷下に編入されます。

現在は自衛隊の訓練場になっており、遺構は遺されていません


⑦ 西側誘導路(上掲「現在の地図」参照)
滑走路西端から平尾地区を囲むように誘導路が、誘導路に沿って無蓋掩体壕が設定されていました。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 e~d間 誘導路と側溝(明野)
▲掩体壕 e と d の間に遺る誘導路
 左側の溝から右側が誘導路跡

他の陸軍飛行場同様、昭和19(1944)年7月、南方戦線における戦訓に基づいた陸軍航空本部からの「飛行場の要塞化示達」に則り開始されたと思われますが、詳細は不明です。
「戦隊史」には昭和20(1945)年5月に「誘導路を造り付近の山林に分散遮蔽」とあります。

現在も森林の中に誘導路、半壊も含め掩体壕6基、及び付帯施設の遺構が遺ります。

なお、誘導路、掩体壕は資料が無いため詳細は不明です。
上掲地図⑦⑧⑨の遺構は米軍空撮と実地探索の成果に依っています。

明野の掩体壕は前方にやや開いた馬蹄形で、後端に2m幅の開口部が開けられています。
※寸法は内寸ですが、灌木に覆われた場所を歩測したため大凡です。
明野陸軍飛行學校 明野 掩体壕(明野)
▲明野の掩体壕 概要図

a 無蓋掩体壕
あぜ道から茂みに入って直ぐの場所にあり完存、周囲は灌木が繁茂していて荒れています。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 a 西側土堤 南から(明野)
▲西側土堤 先端部
 a 掩体壕は灌木で荒れており、見通しが効きません。

明野陸軍飛行學校 掩体壕 a 西側土堤 内部から(明野)
▲西側土堤 内部(後端)から

明野陸軍飛行學校 掩体壕 a 東側土堤後端から(明野)
▲東側土堤 後端から

明野陸軍飛行學校 掩体壕 a 後端開口部 北から(明野)
▲後端開口部

当掩体壕は開口部8.5×最大幅15×全長23m(以下の掩体壕もほぼ同規格)、後端に2m幅の開口部が開けられています。
※寸法は内寸ですが、灌木に覆われた場所を歩測したため大凡です。

米軍空撮を見るとaの東側10mにも掩体壕の痕跡がありますが、影の状態から早期に均されてしまった様で、踏査してみましたが痕跡はありませんでした。

a の南側には各地の陸軍飛行場で良く目にする方形、円形窪地が複数あり、防空陣地とも言われますが用途は不明です。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 a南西側の円形窪地6(明野)
▲円形窪地
 掩体壕内の飛行機を攻撃に来る敵機を迎撃する銃座と思われますが、詳細は不明です。

明野陸軍飛行學校 掩体壕 a南側の円形窪地1(明野)
▲円形窪地
 a 掩体壕周辺にはこれら円形窪地が5ヶ所程度、東西に並んであります。

明野陸軍飛行學校 掩体壕 a南側の方形窪地2(明野)
▲方形窪地
 円形窪地に並んで2ヶ所あります。


b 無蓋掩体壕
西側の農道から入って直ぐに c があり、その北側にありますが、向かって左側の先端と右側の後端の一部がなんとなく遺っている程度です。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 b 西側土堤 南から(明野)
▲左側土堤の先端部

明野陸軍飛行學校 掩体壕 b 東側土堤 北西から(明野)
▲右側土堤の後端部

bの北東30m程に幅3×奥行25m、南東側に入口状の窪みがある方形の窪地があります。
半地下式施設の跡の様です。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 b北東の方形窪地 北東から(明野)
▲方形窪地
 大きさから居住区か倉庫と思われます。

明野陸軍飛行學校 掩体壕 b北東の方形窪地 南東隅の出入口(明野)
▲方形窪地の入口と思われる部分


c 無蓋掩体壕
西側の農道から入って直ぐにあり、分かり易いです。
向かって左側の先端が破壊されています。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 c 西側土堤 内部から(明野)
▲左側の土堤、内部から

明野陸軍飛行學校 掩体壕 c 東側土堤 内部後端から(明野)
▲右側土堤、後端から

明野陸軍飛行學校 掩体壕 c 後端開口部 北から(明野)
▲後端の開口部

c の東側(森林と農地の境付近)に幅3×奥行13m、北側に2ヶ所の窪みがある方形の窪地があります。
半地下式施設の跡の様です。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 b東の方形窪地 北西から(明野)
▲方形窪地


d 無蓋掩体壕
d・e南側の農道に繋がる林道?沿いにあり、完存しています。
周囲に土取跡と思われる窪地があります。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 d 西側土堤前端部 北東から(明野)
▲右側土堤の前端部

明野陸軍飛行學校 掩体壕 d 南東から(明野)
▲左側土堤、外側から

明野陸軍飛行學校 掩体壕 d 後端部開口部 内部から(明野)
▲後端の開口部

明野陸軍飛行學校 掩体壕 d 東側の方形窪地(明野)
▲掩体壕の東側にある方形窪地


e 無蓋掩体壕
南側の農道から続く林道?沿いの竹林にあります。
向かって右側の後端部に後方の林道に繋がる通路が開けられ破壊されていますが、状態は良好です。
周囲に土取跡と思われる窪地があります。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 e 北から パノラマ写真(明野)
▲掩体壕 全景(左前方から)
 写真左端と右端にそれぞれの先端部があります。

明野陸軍飛行學校 掩体壕 e 外周 北東から(明野)
▲左側の土堤、外側から

明野陸軍飛行學校 掩体壕 e 後端開口部 北東から(明野)
▲後端の開口部

明野陸軍飛行學校 掩体壕 e 外周北側の溝(明野)
▲外周北側の土取跡の溝?


f 無蓋掩体壕
掩体壕を串刺す様に農道が造られているため大破、特に向かって左側の土堤は後端を遺して滅失しています。
明野陸軍飛行學校 掩体壕 f 後端東側 北西から(明野)
▲左側土堤、内部から

明野陸軍飛行學校 掩体壕 f 東側前端部 南東から(明野)
▲左側土堤の前端部

紹介した掩体壕以外にも誘導路沿いに同型無蓋掩体壕、飛行場周辺にヨ型、コ型の掩体壕が多数設定(上掲地図の薄赤部分)されていた様です。
現在は殆ど破壊滅失してしまい、踏査した限り青色で図示した物のみ発見できました。
空撮を頼りに踏査したので、空撮に写っていない掩体壕がまだ遺っている可能性はあります。


⑧ 南側誘導路(上掲「現在の地図」参照)
滑走路南端から明星駅北側まで誘導路、誘導路に沿って無蓋掩体壕が設定されていました。
西側誘導路に比べ、沿道沿いの掩体壕が少なく(農地に戻された可能性がありますが)、終端付近の森林に小型の待避所の様な場所が確認できます。

現在は畑地、住宅地になっています。
西側誘導路同様に森林内に誘導路の痕跡、掩体壕が遺っている可能性がありますが、探索するのを忘れてしまいました・・・。


⑨ 北側誘導路(上掲「現在の地図」参照)
戦時中・戦後の空撮で何と無く「この様に見える?」程度です。
誘導路らしい痕跡から外れた場所に掩体壕跡がある事から、誘導路はさらに西側に伸びていた様です。

戦後早い段階で畑地になってしまった様で、現在は痕跡も遺っていません。


⑩ 対空陣地
滑走路南西端に円形の銃座らしい物が写っています。
昭和20(1945)年3月、第十二方面軍司令官・岡田資中将は名古屋高射砲隊(入江莞爾少将)に明野陸軍飛行場防衛のため、1個高射機関砲中隊の派遣を下令、獨立高射機關砲第十二大隊第五、第六中隊が明野に進出し、夫々校舎付近、飛行場に陣地を設定します(どちらの中隊が夫々に布陣したか不明)。
飛行場の中隊は陣地周辺に偽装飛行機を並べ敵機を誘引、5月、低空で迫る敵艦載機を迎撃し3機を撃墜します。

現在は畑になり遺構は何も遺されていない様です。


所在部隊
明野陸軍飛行學校
明野教導飛行師團(明野陸軍飛行部隊)
第一教導飛行隊(明野飛行隊)
明治36(1903)年12月17日、米国ノース・カロライナ州キティーホーク海岸においてライト兄弟が発動機付き複葉機による人類初の有人動力飛行に成功します。
軍用飛行機の将来性に着目した陸軍は明治42(1909)7月30日、『明治四十二年七月三十日 勅令第二百七號』により陸軍省内に陸海官合同の臨時軍用気球研究會(長岡外史中将)を設置、遊動気球と飛行機に関する設計試験、操縦法、諸設備、通信法の研究を開始します。
明治43(1910)年12月19日、代々木陸軍練兵場において徳川好敏、日野熊蔵両大尉が我が国初の有人動力飛行に成功します。
明治45(1912)年7月、陸軍内の下級将校から志願者を募り、操縦術修業者を選抜、臨時軍用氣球研究會(井上幾太郎少将)の氣球隊に派遣、同会の飛行試験場(後の所澤陸軍飛行場)において体系的な教育を開始します。

大正3(1914)年8月23日、我が国は日英同盟に則り、大正三四年戰役(第一次世界大戦)に参戦、10月31日、青島要塞攻略戦に参加、有川青島派遣航空隊(有川鷹一工兵大佐、モーリス・ファルマン4、ニューポール1、気球1機)が偵察、要地爆撃を実施します。

大正4(1915)年12月14日、航空大隊が創設(有川鷹一工兵大佐、所沢)、空中勤務者の教育を担当します。
大正6(1917)年12月1日、航空大隊は航空第一大隊に改編、同日、航空第二大隊、大正7(1918)年5月、航空第三大隊、12月、航空第四大隊が編成され、空中勤務者の操縦教育を分担します。

大正7(1918)年3月、井上少将は陸軍大臣・大島健一大将に航空制度改革案(航空兵科の独立、航空兵団・航空学校・陸軍省航空局の新設等)を上申します。
7月、機・器材を輸入していたフランスから我が国政府に技術指導団派遣の提案がされ、12月、陸軍省は技術指導団の受け入れのため、臨時航空術練習委員(井上幾太郎少将)を編成、委員には操縦班(高橋勝馬工兵少佐)、射撃班(赤羽祐之工兵少佐)、偵察観測班(淺田礼三砲兵少佐)、爆撃班(赤羽祐之工兵少佐兼務)、發動機製作班(笹本菊太郎砲兵中佐)、検査班(笹本菊太郎砲兵中佐)、機体製作班(益田済工兵中佐)・気球班(益田済工兵中佐兼務)、海軍飛行艇班の8班が編成されます。
大正8(1919)年1月12日、ジャック・P・フォール砲兵大佐以下63(57名とも)名の遣日軍事航空使節団が来日、20日、所沢に来着し、8ヶ月に渡る教育指導を開始します。
当初講習は所澤陸軍飛行場と各務原陸軍演習場(岐阜)で受ける予定でしたが、使節団の勧告によりそれぞれ敵地(操縦班:各務原、偵察観測班:下志津原、爆撃班:三方原、發動機製作班:熱田兵器製造所、検査班:東京陸軍砲兵工廠、機体製作班、気球班:所沢、海軍飛行艇班:追浜)に移転、射撃班は空中射撃の流弾を防ぐための海岸や湖沼の隣接地である愛知県新居町に新設され、5月から教育を開始します(9月中旬、全教育を終了、10月中旬、帰国)。

4月15日、井上少将の航空制度改革案に基づき、『勅令第百十一號「陸軍航空部令」』により陸軍航空の軍政と教育を管掌する陸軍航空部(井上少将)、『軍令陸第八號「陸軍航空學校条例」』により、陸軍航空學校(有川鷹一少将、所沢)が設立されます。
12月、陸軍航空學校教育部に操縦、機關、観測、射撃、爆撃各班が設置され、空中勤務者の教育が継続されます。

射撃班(赤羽祐之工兵中佐)は引き続き新居町で教育を実施しますが施設が狭隘なため、新たな用地を求め、小川原沼(青森)付近、八郎潟(秋田県)付近、猪苗代湖(福島県)付近、浜名湖(静岡)付近、明野ヶ原(三重県)、米子町(鳥取県)付近の候補地から、気象条件(風速、雨量等)が良好で、平坦かつ硬質な原野が広がり、また以前歩兵第五十一聯隊の衛戍地の候補に挙がるも落選し、払い下げられるもほぼ放置してあり、地域繁栄のため官民が招致を請願、有事の際に伊勢神宮の防空が可能なこと等の諸条件から、三重県度會郡北濱村大字村松の明野ヶ原に選定します。
用地買収は第三師團経理部(中村大三主計少将)により行われ、飛行場設定、施設建設は㈱北川組により施工されます。

大正9(1920)年3月5日、宇治山田市中之郷町の本願寺派出所内に仮事務所を設置、4月22日、赤羽工兵中佐以下、37名が到着、陸軍航空學校射撃班が発足、5月1日、甲種驅逐學生4、下士官1名が入班、教育を開始(6月18日、修了)します。
8月13日、北濱村大字村松の明野ヶ原に飛行場、新校舎他附属施設が竣工、射撃班は移転します。
陸軍航空學校射撃班の教育対象
・甲種驅逐學生(将校・下士官)
・丙種驅逐、火器、射撃學生(将校・下士官)
・臨時航空術専修員将校(将校)

大正10(1921)年3月8日、『軍令陸第一號 「陸軍航空學校条例改正」』により、4月1日、射撃班は陸軍航空學校明野分校(赤羽工兵中佐)に昇格、大正13(1924)年5月17日、『軍令陸第六號 「陸軍飛行學校令」』より明野陸軍飛行學校(以下、「明飛校」)は独立(藤本恒治砲兵大佐)、航空部直轄となります。
『陸軍飛行學校令』により飛行學校は学生に航空に関する諸般の学術を修得させ、これを各隊に普及、常にこれら諸学術の調査研究を行い、航空教育の進歩を図りかつ航空に関する兵器・器材の研究試験を行う場所と規定され、明野は空中戦闘、空中射撃及び火器の取扱に関する諸学術、兵器・器材の調査、研究および試験を担当します。
陸軍航空學校明野分校の教育対象
・驅逐機操縦學生(将校・下士官)
・偵察並偵察機操縦學生(将校・准士官・下士官)
・火器學生(下士官)
・特種(火器)、(射撃)學生(将校・下士官)
・偵察學生(将校・召集下士官)※召集=現役から選抜の意
・機關學生(将校)
・召集尉官、下士官

明野陸軍飛行學校の教育対象
・射撃學生(将校・下士官)
・偵察學生(将校・下士官)
・偵察並射撃學生(将校)
・特種(火器)學生
・召集佐官、尉官、下士官
・空中偵察術修習教育者(将校)
明野陸軍飛行學校校門 昭和8年3月(明野)
▲明野陸軍飛行學校 校門(昭和8年3月)

明野陸軍飛行學校 現在の正門(明野)
▲現在の校門跡付近
 陸上自衛隊 明野駐屯地正門

大正14(1925)年5月27日、『勅令第百四十五號』により航空兵科が創設、『勅令第百四十九號』により陸軍航空部は陸軍航空本部に昇格、昭和8(1933)年5月5日、『軍令陸第十號 「陸軍飛行學校令改正」』により、8月1日、明飛校の教育、調査、研究、試験の対象に対空射撃が加わります。
明野陸軍飛行場 昭和4年(明野)
▲明野陸軍飛行場 全景(南東上空から 昭和4年頃)

明野陸軍飛行學校の教育対象(昭和10年8月1日以降)
・甲種學生(尉官)
・乙種學生(尉官)
・丙種學生(尉官)
・特種學生(尉官)
・召集佐官、尉官、下士官
・操縦生徒
・下士官候補者
・空中勤務者教育、追加教育、臨時教育
・滿洲國軍官委託學生20名
・緬甸派遣學生10名
・一式戦操縦、戦技教育
・第十二飛行團司令部、飛行第一、第十一、第二十六、第三十三、第十一戰隊、獨立飛行第十中隊、伝習教育(一式戦)
・飛行第二百四十六、獨飛第四十七中隊、伝習教育(一式戦操縦整備)
・飛行第九、第五十、第六十四、第二百四十六戰隊、伝習教育(二式戦)
・飛行第四、第十三、第七十、第七十七、第二百四戰隊、伝習教育(二式複戦)
・第十四飛行團司令部、飛行第五十九戰隊、伝習教育(三式戦)
・飛行第十九戰隊、獨飛第七十一中隊、第五、第七、第八錬成飛行隊、伝習教育
・飛行第六十八戰隊、第百一教育飛行聯隊、新戦技教育

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、13~20日、明飛校から航空兵團司令部等に配属されます。

昭和13(1938)年12月9日、航空兵科専門の教育を管掌する陸軍航空總監部が創設、明飛校は航空總監部隷下に編入されます。

昭和14(1939)年2月10日、陸軍気象部明野観測所が設置されます。

支那事變の長期化・拡大に備え、空中勤務者教育の増大に対応すべく、昭和15(1940)年8月1日、『軍令陸第十五號 「明野陸軍飛行學校令改正」』により、分教所設置が決定します。
分教所は各既存・新設陸軍飛行場に開設、明飛校から分教所長以下の人員を充当し教育を実施しましたが、分教所は必ずしも永続的な物では無く、時期による教育対象者数の増減、他陸軍飛行學校の新設等により開・閉校が行われました。
昭和15(1940)年8月1日~10月1日、横芝分教所(千葉)が開設されます。
明野教導飛行師團 二式戦(明野)
▲明野陸軍飛行學校所属の二式戦

昭和16(1941)年4月1日~10月1日、原町分教所(福島)が開設、4月7日、私立明野青年學校が開校、10月1日~12月27日、名古屋分教所(港區築地)が開設、12月8日、大東亞戰爭が勃発します。

昭和17(1942)年4月7日、天龍分教所(静岡)が開設、18日、米陸軍B25爆撃機により本土が初めて空襲を受け(ドーリットル空襲)た際、九七戦15、一式戦3機により追撃しますが、会敵できませんでした。
陸軍は米軍が南太平洋方面に配備したB17爆撃機の邀撃に苦戦、さらに強力なB29爆撃機が完成段階にある事が判明したため、対重爆邀撃に現用機の改修を開始、局地防空の研究、教育の必要性を認識しますが、明飛校では従来任務に加え新戦術の研究、教育は不可能なため、3月24日、『軍令陸第八號 「明野陸軍飛行學校令改正」』により、8月1日、水戸陸軍飛行學校跡地(茨城)に明野陸軍飛行學校分校(三好康之少将)が開設され、大型爆撃機邀撃を目的とした高々度戦闘、夜間戦闘の専門研究、教育を担当します。

6月、陸相・東條英機大将(首相兼務)は航空戦重視の観点から空中勤務者の大量養成を示達します。

昭和18(1943)年4月1日、北伊勢分教所(三重)が開設されます。
明野陸軍飛行學校 三式戦(明野)
▲明野陸軍飛行學校所属の三式戦

昭和19(1944)年5月12日、名古屋地区の防空を担当していた飛行第十七戰隊(荒蒔義次中佐)の比島進出を受け、明飛校が臨時に防空任務にあたります(9月、飛行第五戰隊と交替)。
15日、『軍令陸甲第三十四號」により明飛校北伊勢分教所は飛行第七十一、第七十二、第七十三戰隊を編成(同日、所澤において臨時編制された第二十一飛行團司令部の隷下に編入)します。

6月14日、佐野分教所(大阪)が開設されます。

20日、陸軍は飛行・整備学校(下志津、濱松、宇都宮、鉾田、明野、同分校・立川)を戦力化し、従来の教育に加え作戦任務を並行して実施するため、『軍令陸乙第二十九號』により5飛行・1整備学校は夫々教導飛行師團、教導航空整備師團に改編、明野陸軍飛行學校は一時閉鎖され、明野教導飛行師團(青木武三少将)に改編(師團司令部、第一、二、三、四教導飛行隊(空中勤務者600名、機材123機)、教導整備隊)、分校は常陸教導飛行師團(三好康之少将)として独立します。
明野教導飛行師團 青木武三少将(明野)
▲第14・16代(最終)明野陸軍飛行學校長、兼初代明野教導飛行師團長 青木武三少将

7月5~8日、第一教導飛行隊(明野)から抽出された四式戦13、二式戦15機(高橋武中佐)は東部軍司令官(藤江恵輔大将)指揮下に入り八街陸軍飛行場(千葉)、8月30日~9月3日、四式戦20、二式戦12機(坂川敏雄少佐)は西部軍司令官(下村定中将)指揮下に入り防府陸軍飛行場(山口)に分遣され防空にあたりますが会敵し得ませんでした。

8月8日、教導航空軍(菅原道大中将、東京)が編成、各教導飛行師團が隷下に編入されます。

22日、『軍令陸甲第九十三號」により師團は北伊勢陸軍飛行場において飛行第百一、第百二、第百三戰隊を編成します。

9月27日、富士(静岡)、10月5日、高松(香川)、八日市(滋賀)を教育、作戦用の分飛行場に指定します。

10月12日、大本營陸軍部は比島決戦に向け、『軍令陸甲第百三十五號』により師團の教官、助教、軍属の整備員等を基幹として飛行第二百戰隊(高橋武中佐、6個中隊、四式戦80機)の、『軍令陸甲第百三十六號』より第三十戰鬭飛行集團司令部(青木武三少将)の臨時編成を下令、13日、編成完結、集團は第四航空軍(冨永恭次中将)戰闘序列に編入(10月11日、『大陸命第千百五十號』により)されます。

13日、教導航空軍司令官・菅原道大中将臨席のもと出陣式を挙行、21日、各々明野を出発、新田原-沖縄-台中-ポーラックを経由し、25日、ネグロス島サラビヤ飛行場に前進し数次の航空作戦に参加、513名、四式戦86機で比島に進出した戦隊は高橋戦隊長以下395名が散華、全機損失という大損害を受け、昭和20(1945)年5月16日、復帰しました。
10月15日、第六航空軍(12月26日、教導航空軍から改編)司令官・菅原道大中将より師團に特別攻撃隊の編成下令、11月6日、八紘第一隊八紘隊、20日、八紘第七隊丹心隊、25日、八紘第九隊一誠隊が編成され、夫々比島に前進、第四航空軍(富永恭司中将)隷下に編入され、敵艦隊に突入、散華しました。

12月22日、名古屋地区にB29爆撃機が来襲、師團は邀撃にあたり、伊勢湾上空において広瀬吉雄少佐、川上修大尉が夫々B29に体当りを敢行、撃墜するも散華してしまいます。

昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、第二十二、第二十六、第二十七、第四十二、第四十三振武隊、2月14日、誠第三十三、誠第三十四飛行隊が編成され、夫々沖縄周辺海上の敵艦隊、船団に突入しました。

2月22日1400、明野にB29爆撃機が来襲、、滑走路と被服庫が被弾、4月22日1300、P51戦闘機約50機が硫黄島から来襲、対空砲火により2機を撃墜するも、機銃掃射により飛行機30機が地上撃破され、戦闘機隊が熊野灘まで追撃するも戦果は挙がりませんでした。

3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、第四十八、第四十九、第五十、第五十一、第五十四、第五十五、第五十七、第五十八、第五十九、第六十、第六十五、第六十六、第六十七、第六十九、第百四十一、第百四十四、4月24日、第百六十五振武隊が編成され、夫々沖縄周辺海上の敵艦隊、船団に突入しました。

4月8日、決號作戰(本土決戦)に向け航空總軍(川邊正三大将、東京)が編成、『大陸命第千二百九十八號』により師團は航空總軍司令官隷下となります。
18日、『軍令陸第十一號 「下志津陸軍飛行學校令外四軍令廃止ノ件」』により『明野陸軍飛行學校令』は廃止され、閉鎖中の明飛校、同分校は正式に廃校されます。
明野陸軍飛行學校は閉鎖までに将校2,715名、下士官1,082名を教育しました。

6月5日、中部地区にB29爆撃機が来襲、、師團は邀撃にあたり、鈴鹿山脈上空において11機(不確実5)の戦果を挙げます。
第一教導飛行隊(石川正中佐)は高松陸軍飛行場に移駐、第三中隊(伊東久暁大尉)を由良陸軍飛行場に分駐させますが、戦力温存の命により、7月3日、高松市にB29爆撃機116機による高松大空襲は邀撃できませんでした。
10日、航空總軍により制號作戰(対重爆邀撃戦)が発令、飛行隊は佐野陸軍飛行場(大阪)に移駐、16日、硫黄島を出撃した米陸軍第21・第506戦闘機群のP51戦闘機250機が来襲、佐野陸軍飛行場から第一大隊(江藤豊喜少佐、五式戦12機)、第二大隊(檜與平少佐、五式戦12機)が邀撃、松阪市上空でP51、12機を捕捉交戦(伊勢灣航空戰)、敵機の増援が加わり不利な状況になりながらも撃墜6機・不確実5機の戦果を挙げますが我も5機4名を失ってしまいます。

7月10日、『軍令陸甲第百三號』により各教導飛行師團は教育部隊と作戦部隊を完全に分離する事が令達、18日、明野教導飛行師團は復帰、師團の教育部隊は第一教導飛行隊(松村黄次郎大佐)に改編され、同日編成された教導飛行師團(橋本秀信中将、宇都宮)隷下に、作戦部隊の第一教導飛行隊は飛行第百十一戦隊(石川正中佐、佐野)に改編され、同日編成された第二十戰鬭飛行集團(青木武三中将、小牧)隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 松村黄次郎大佐(明野)
▲第一教導飛行隊長 松村黄次郎大佐

第一教導飛行隊は明野、北伊勢、八日市各陸軍飛行場において各種機材80機により戦技教育・錬成を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
29日、飛行隊は解散式を挙行、施設警備の警戒隊(斎藤嘉美少佐)を選抜、残務整理要員(松村黄次郎大佐)以下60名程を残し復員完結、10月12日(『コバルトの空明野』による、『明野陸軍飛行学校の歴史と飛行第二〇〇戦隊史』では15日)、米軍が進駐、機材・兵器を引き渡し、飛行場は接収され、17日、残務整理班は八日市場町の旅館「千秋楼蘭」に移動、11月30日、残務整理を完了します。


第三十戰鬭飛行集團司令部(威一九〇二五)
※「熊本陸軍飛行場」の記事参照


第二十戰鬭飛行集團司令部(帥三四二二〇)
昭和20(1945)年7月10日、『軍令陸甲第百三號「第二十戰鬭飛行集團司令部、教導飛行師團等臨時編成(編制改正)、第三五四次復帰要領」』により臨時編成下令、明野・常陸両教導飛行師團から要員を抽出し編成(青木武三中将)、航空總軍(川邊正三大将、東京)隷下に配属され、高松陸軍飛行場に前進、鷺田公民館に司令部を設置、18日、『大陸命第千三百六十六號』により編成下令、飛行第百十一、第百十二戦隊が隷下に編入されます。

22日、明野教導飛行師團第一教導飛行隊は飛行第百十一戰隊(石川正中佐、佐野)に、常陸教導飛行師團教導飛行隊は飛行第百十二戰隊(梼原秀見中佐、新田)に改編され、第二十戰鬭飛行集團司令部隷下となります。
飛百十一は五式戦4個、四式戦1個中隊、飛百十二は五式戦3個、四式戦1個中隊を擁し、9月末までに各五式戦6個中隊、約120機づつを計画(停戦時には90機と60機)していました。
また、空中勤務者の編隊長級には各教導飛行師團の教官、助教を充当しますが、列機は航士五十七期、特操主体のため練度が低く、燃料の不足もあり錬成は困難な状況でした。

7月下旬、飛百十一は三木陸軍飛行場(兵庫)に、26日、佐野に移駐、31日、飛行集團司令部は小牧陸軍飛行場に移駐、8月10日、飛百十二は八街陸軍飛行場からB29爆撃機を追撃、房総沖で撃破、13日、飛百十一は小牧に移駐、各々錬成中に8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。


飛行第七十一戰隊(誠一八四二九)
※「北伊勢陸軍飛行場」の記事参照


飛行第七十二戰隊(威一八四三〇)
※「伊丹陸軍飛行場」の記事参照


飛行第七十三戰隊(威一八四三一)
※「北伊勢陸軍飛行場」の記事参照


飛行第百一戰隊(靖一八九二〇)
※「大正陸軍飛行場」の記事参照


飛行第百二戰隊(靖一八九二一)
※「北伊勢陸軍飛行場」の記事参照


飛行第百三戰隊(靖一八九二二)
※「伊丹陸軍飛行場」の記事参照


飛行第二百戰隊(威一九〇二八)
大本營陸軍部は比島決戦に向け、精鋭揃いの明野教導飛行師團の教官、助教を戦力化するべく、10月12日、『軍令陸甲第百三十五號』により、明野教導飛行師團(青木武三少将)において飛行第二百戰隊(高橋武中佐)、『軍令陸甲第百三十六號』より同師團において第三十戰鬭飛行集團司令部(青木武三少将、明野教導飛行師團長代理に今川一策大佐)の臨時編成を下令、13日、編成完結、24日、戰隊は集團司令部隷下に配属され、集團は第四航空軍(富永恭次中将)戰闘序列に編入(10月11日、『大陸命第千百五十號』により)されます。
戰隊は通常の2個戦隊分の機材(6個中隊、四式戦86機)、空中勤務者、整備隊(及川修次大尉、2個整備・1個無線中隊)を配当され、決戦部隊として期待されますが、中隊長6名中3名は他機種からの転科者、一部の幹部以外は実戦経験が無く、航士五十七期の未熟者も多く、四式戦の未修教育が漸次修了、統一訓練は殆ど行われていない状況で、戦局の急速な進展により比島進出が決定します。
明野教導飛行師團 昭和19(1944)年10月13日、第三十戰鬪飛行集團司令部、飛行第二百戰隊(明野)
▲昭和19(1944)年10月13日、第三十戰鬪飛行集團司令部(最前列左から6人目が集団長・青木武三少将)、飛行第二百戰隊(同7人目が戦隊長・高橋武中佐)のフィリピン出陣前に将校集会所の前で撮影された記念写真

13日、教導航空軍司令官・菅原道大中将臨席のもと出陣式を挙行、21日、第一次前進空中部隊(高橋戦隊長、第一~第四中隊)42機は明野を出発、新田原-沖縄-台中を経由し、23日、ルソン島ポーラック飛行場に到着しますが、試験飛行を省略したため機材不調機が続出します。

24日、タルラック北方において敵戦闘機6機と交戦、2機が撃墜されてしまい、25~31日、戦隊主力(第一~第四中隊)はネグロス島サラビヤ飛行場に前進、戦隊は第四航空軍司令官・富永中将より期待をかけられ「皇(すめら)戰隊」と命名されますが、機材不調機の続出、飛行場被弾による悪条件下、11月1日までレイテ湾上空制空、飛行場上空哨戒、船団護衛にあたり、敵機8機を撃墜するも、10機が撃墜されてしまいます。

1日、第五・第六中隊10機がポーラック飛行場経由でサラビヤ飛行場に前進、合流します。

2日、戰隊はサラビア南方15kmのタンザ飛行場に移駐(マナブラ、タリサイ両飛行場も使用)、吉良勝秋曹長は単機でP38戦闘機13機と交戦、2機を撃墜し富永軍司令官より感状授与(准尉に進級)、5日、森田清良伍長はB24爆撃機を負傷しながらも撃墜し感状授与(軍曹に進級)、14日、タクロバン飛行場のタ彈攻撃を実施、被弾した永瀬善一伍長はは沖合の敵上陸用舟艇に体当りを敢行し自爆撃沈、感状授与のうえ全軍布告、18日、タクロバン飛行場のタ彈攻撃を実施、被弾した中島尚文、西功両少尉、蒲田一郎、吉野時二郎両曹長は沖合の敵輸送船に体当りを敢行し自爆、26日、南方軍司令官・寺内壽一大将より感状授与のうえ壮挙は天聴に達します。

戰隊は連日、飛行第二十二戰隊と合同で敵機邀撃、レイテ湾・カボカン上空制空、タクロバン飛行場のタ彈による夜襲、パゴロド埠頭哨戒、船団護衛、ブラウエン飛行場攻撃、同友軍機援護にあたり、敵機17機を撃墜・地上撃破するも、23機が撃墜されてしまいます。

24日、集團司令部のクラークへの転進に伴い、25日、戰隊は第二飛行師團(木下勇中将、シライ)の指揮下に入り、特攻隊援護、哨戒にあたりますが、27日、敵爆撃機の攻撃を受けタンザ飛行場が使用不能となったため、マナブラ飛行場に移駐、引き続き敵機邀撃、特攻隊援護、船団護衛、高千穂部隊(空挺部隊)援護、テ號作戰(タクロバン飛行場制空)に参加、12月7日から敵船団攻撃にあたり、敵機5機を撃墜するも、8機が撃墜されてしまいます。

13日、マナブラ飛行場被弾のためタンザに移駐しますが復旧が不十分で使用困難な状況下、14日、戰隊の空中勤務者は高橋戦隊長以下6名(可動機4機のため、余剰人員はクラーク飛行場群に移駐し集團司令部直轄に)、21日には高橋戦隊長1名になってしまったため、27日、戰隊は地上勤務者の大半を残置(飛七十一指揮下に)し、マバラカット東飛行場に移駐、戦力回復にあたります。

昭和20(1945)年1月3・4日、サンホセ飛行場に夜間タ彈攻撃、4・5・6日、特攻隊援護、6日、敵船団攻撃にあたります。

1月5日、青木少将は隷下・指揮下飛行戦隊に全機特攻待機を下令、飛行第一・十一・七十一・七十二・七十三・二百戰隊(全戰隊は四式戦装備)の志願者から2機編隊づつ34名を選抜、 長機が特攻機、僚機が援護機として出撃、次回は僚機が長機となり出撃する戦法を採り、戰隊からは西哲雄中尉、梶田七之助伍長が選抜され、第三十戰鬭飛行集團特別攻撃隊「精華隊」が編成され、10日、マバラカット西飛行場に移駐します。

9日、米軍がリンガエン湾に上陸を開始したため、8・10・11・12日、精華隊はリンガエン湾内の敵輸送船団に突入、13日、梶田伍長は25番2発を懸吊、援護の西中尉とともにマバラカット西飛行場を発進、リンガエン湾内の敵輸送船団に突入散華、西中尉も未帰還となり、また、直掩にあたった岩渕三千雄少尉も任務達成後、敵輸送船団に突入散華、戰隊の可動機は払底してしまいます。

12日、戰隊はマバラカットを自動車(途中から徒歩)で出発、13日、高橋戦隊長は飛七十二戦隊長・津崎栄介少佐とともに一式双発高練に搭乗して出発しますが、途中行方不明になってしまい、敵機に撃墜と判定されます。
戰隊は人員513名、機材86機で比島に進出(前進中機材不調で引返す機多数)、125回出撃し敵機32機撃墜、24機撃破他の戦果を挙げますが、13日時点で高橋戰隊長以下61名散華、全機損失の大損害を受けていました。

17、27日、台湾転進予定の30名がツゲガラオ飛行場に、ルソン島配属の187名はカワヤン地区に到着(他にネグロス島残置159名)、2月11日、内地転属者12名はツゲガラオ飛行場から屏東陸軍飛行場(台湾)に移駐(27日までに各飛行戦隊に転属)、5月8日、明野の留守人員26名が転属、15日、復帰下令、16日、飛行第二百戰隊は復帰します。

3月10日、『陸亞機密第千九百五十七號』によりルソン島残置215名・ネグロス島残置159名は南方軍隷下航空部隊に転属が決定しますが、比島の戦局悪化に伴いルソン島残置人員の大半は臨時歩兵第二十五大隊を編成、一部は同二十四大隊に編入、4月15日、バレテ峠防衛戦に参加、またネグロス島残置人員は歩兵第七十七旅團(河野毅中将、熊本)指揮下に入りシライ地区防衛戦に参加、9月2日、停戦を迎えます。


飛行第百十一戦隊(帥三四二一七)
※「佐野陸軍飛行場」の記事参照


特別攻撃隊
●フィリピン方面
八紘第一隊 八紘隊
昭和19(1944)年11月6日、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)に編成下令、志願者から田中秀志中尉(隊長)、藤井信、森本秀郎、善家善四郎、武内健一、寺田行二、細谷幸吉、粕川俊一、白石國光、道場七郎、馬場駿吉、作道善三郎各少尉の12名(一式戦三型)が選抜され編成完結(第一次特別攻撃隊)します。
明野教導飛行師團 八紘第一隊 八紘隊(明野)
▲八紘第一隊 八紘隊隊員
 後列右から白石少尉、細谷少尉、田中隊長、森本少尉、前列中央は寺田少尉

隊は整備、錬成の後、19日、ルソン島クラーク飛行場に移駐、第四航空軍(富永恭司中将、フィリピン)隷下に編入、富永中将より「八紘隊」と命名されます。
22日、機材整備のため作道少尉を残置し、ネグロス島ファブリカ飛行場に前進、第一目標を輸送船団、目標無き場合は空母、戦艦、巡洋艦の順に攻撃する事を示達されます。

27日1045、田中隊長以下11名は25番2発を懸吊し戦友の見送る中、ファブリカ飛行場を発進(粕川少尉機は機材不調により飛行場内に不時着)、1200、レイテ湾内の敵輸送船団に突入、輸送船5、戦艦2、巡洋艦3に命中撃沈破し散華、12月7日、粕川少尉はオルモック湾、12日、作道少尉は丹心隊の岡二男少尉、石腸隊の井樋太郎少尉とともにオルモック湾内バイバイ沖の敵艦船に突入、散華し任務を完遂しました。
明野教導飛行師團 八紘第一隊 八紘隊2(明野)
▲27日、出撃を前に富永第四航空軍司令官より親しく別盃を受ける道場、細谷、森本各少尉(手前から)

大本營発表 昭和十九年十一月二十九日十四時
一 我特別攻撃隊八紘飛行隊八十機ヲ以テ十一月二十七日レイテ灣内ノ敵艦船ニ対シ果敢ナル攻撃ヲ敢行シ次ノ如ク敵艦船十隻ヲ撃沈破セリ。
轟撃沈   戰艦     一隻
       大型巡洋艦 三隻
       大型輸送船 四隻
大破炎上 戰艦又ハ大型巡洋艦 一隻
       大型輸送船       一隻

二 右攻撃ニ参加セル八紘飛行隊員次ノ如シ
   隊長 陸軍中尉 田中秀志
   陸軍少尉     細谷幸吉      同   藤井信
      同      森本秀郎      同   善家善四郎
      同      武内健一      同   寺田行二
      同      白石國光      同   道場七郎
      同      馬場駿吉




八紘第七隊 丹心隊
昭和19(1944)年11月20日、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)に編成下令、志願者から石田國夫中尉(隊長)、石村正敏、梅原彰、大石榮、佐々田真三郎、永塚孝三、岡二男、加治木文男、齋藤行雄、今田廣美、丸山、小野各少尉の12名(一式戦三型)が選抜され編成完結(第二次特別攻撃隊)します。
明野教導飛行師團 八紘第七隊 丹心隊(明野)
▲整列した八紘第七隊 丹心隊隊員
 石田隊長(左)と隊員(左端は梅原少尉)

24日、今田少尉はB29爆撃機邀撃中、名古屋上空において散華してしまいます。
隊は明野において整備、錬成の後、27日、フィリピン前進を前に急遽駆け付けた石村少尉の両親、妹2名、梅原少尉の父、丸山少尉の母とともに将校集会所において祝杯会が設けられます。
29日、今川大佐、戦友、家族の見送りを受け明野を離陸、12月6日、マニラ近郊カロカン飛行場に移駐(丸山、小野両少尉はフィリピン移動中の事故等で引き返す?)、第四航空軍(富永恭司中将、フィリピン)隷下に編入、富永中将より「丹心隊」と命名されます。
明野教導飛行師團 八紘第七隊 丹心隊2(明野)
▲29日、戦友の見送りを受け明野を離陸する石田隊長機

明野教導飛行師團 八紘第七隊丹心隊:右より丸山少尉厳父、梅原少尉厳父・武春氏、丸山少尉御母堂、石村少尉厳父・音一氏、石村少尉令妹・八重子氏、石村少尉御母堂・きぬ氏、石村少尉令妹・静子氏(明野)
▲29日、丹心隊の比島進出を見送る家族
 右から丸山少尉父、梅原少尉父、丸山少尉母、石村少尉父、石村少尉妹、石村少尉母、石村少尉妹

10日、石田隊長以下、石村、梅原、大石、佐々田、永塚各少尉の6名は25番2発を懸吊し戦友の見送る中、カロカン飛行場を発進、レイテ湾口スリガオ海峡内の敵輸送船団に突入、輸送船2、巡洋艦乃至駆逐艦1、上陸用舟艇2に命中撃沈し散華、輸送船1、巡洋艦乃至駆逐艦1に命中撃破し散華、石田隊長機は上陸用舟艇2隻を懸吊した爆弾で撃沈後、他の敵艦に突入、1機よく3艦を撃沈したと言われます。

12日、岡少尉は石腸隊の井樋太郎少尉、八紘隊の作道少尉とともにオルモック湾内バイバイ沖の敵艦船に突入、17日、加治木文男、齋藤行雄両少尉はミンドロ島付近の敵艦船に突入、散華し任務を完遂しました。
明野教導飛行師團 八紘第七隊丹心隊 遺墨(明野)
▲八紘第七隊丹心隊 遺墨(明野駐屯地)


八紘第九隊 一誠隊
昭和19(1944)年11月25日、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)に編成下令、志願者から都留洋中尉(隊長)、大河原良之、臼井秀夫、相川清司、石川誠司、伊藤進、進藤龍巳、大原文雄、川野孝雄、山本正直、石橋邦、有澤文雄各少尉の12名(一式戦三型)が選抜され編成完結(第二次特別攻撃隊)します。
明野教導飛行師團 八紘第九隊 一誠隊(明野)
▲八紘第九隊 一誠隊と一式戦三型
 前列左から大原、大河原両少尉、都留洋隊長、臼井、石川、山本、有澤各少尉、後列左から新藤、伊藤、相川、石橋、川野各少尉。

隊は整備、錬成の後、12月20日、デルカメロン飛行場に移駐、第四航空軍(富永恭司中将、フィリピン)隷下の第三十戰鬭飛行集團司令部(青木武三少将)指揮下に編入、富永中将より「一誠隊」と命名されます。

21日、相川少尉は25番2発を懸吊し戦友の見送る中、デルカメロン飛行場を発進、ミンドロ島付近の敵艦船に突入散華、昭和20(1945)年1月4日1700、都留隊長、石川少尉はデルカメロン飛行場を発進、スール海キュウヨウ島西側沖の敵艦隊に突入散華、援護機は隊長機は空母に命中撃沈、石川機は戦艦乃至巡洋艦に命中撃沈を報じます。
5日、大河原良之、伊藤進、進藤龍巳各少尉が、8日、大原文雄、川野孝雄、山本正直各少尉が、9日、臼井秀夫、石橋邦両少尉がリンガエン湾の敵艦隊に突入、散華し任務を完遂しました。


●沖縄方面
第二十二振武隊
昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)に編成下令、志願者から藤山二典中尉(隊長兼第一小隊長)、竹下重之、島津等、立川美龜太(以上第一小隊)、柴田秋蔵(第二小隊長)、柄澤嘉則、西長武志、井上立智(以上第二小隊)、前田光彦(第三小隊長)、大上弘、伊東信夫、大貫健一郎(以上第三小隊)各少尉の12名(一式戦三型)が選抜され、2月4日、編成完結します。
明野教導飛行師團 第二十二振武隊(明野)
▲昭和20(1945)年1月1日、元旦初飛行を終えた第二十二振武隊隊員
 前列左から竹下、島津、山崎各少尉、藤山隊長、伊東少尉、後列左から大上、柴田、柄澤、立川、西長各少尉

隊は成増陸軍飛行場(東京)に移駐、整備、「必死絶沈丹心無雑」を標語に錬成にあたり、その豪快な編隊離陸と激烈な訓練、隊員が愛用した航空襟巻きの色から「黒マフラーの藤山隊」と称されました。
2月26日、第六航空軍(菅原道大中将、福岡)隷下に入り、3月20日、都城東陸軍飛行場、次いで知覧陸軍飛行場に前進します。
明野教導飛行師團 第二十二振武隊3(明野)
▲第二十二振武隊隊員が遺した辞世の寄せ書き

4月3日、藤山隊長、伊東少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進します。
藤山隊長は進撃中、発動機不調のため再出撃を期して徳之島陸軍飛行場に不時着するも、直後に敵機の機銃掃射を受け散華、伊東少尉は隊長機の不時着を確認するため徳之島上空を飛行中に敵機の襲撃を受け援護にあたっていた飛行第五十九戰隊の三式戦2機とともに徳之島南方1kmの海上において散華してしまいます。

5日、前田少尉が25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、浮揚できず松の木に翼を引っ掛けてしまい墜落、重傷を追い福岡第二陸軍病院に収容(6月18日、退院、19日、福岡、30日、飛行第六十五戰隊へ、7月、明野教導飛行師團へ転属)されます。
同日、大上少尉は喜界島海軍航空基地に前進します。

6日、柴田(隊長代理)、竹下、島津、柄澤、井上、大貫各少尉は徳之島に前進しますが、敵機の空襲を受け、4機が地上撃破されてしまう不運が続きます。
同日、第六航空軍の沖縄方面の敵艦隊に対する第一次航空總攻撃が発動、1500、立川、西長両少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、7日、0630、大上、大貫両少尉は25番2発を懸吊し夫々喜界島、徳之島を発進しますが、進撃中に敵機の急襲を受け大上少尉は撃墜散華、大貫少尉は喜界島に不時着生還します。
11日0535、柴田隊長代理は藤山隊長の遺骨を抱いて「隊長とともに征くが世話になった。後日、靖國で会おう!」の言葉を残し、隊歌を歌いながら唯一残った竹下機に搭乗、地上勤務者から送られた日の丸の寄せ書きを爆弾に巻き、降りしきる雨のなか単機で25番2発を懸吊し徳之島を発進、慶良間列島南方海上の敵艦隊に突入、散華し任務を完遂しました。
竹下、島津、柄澤、井上、大貫各少尉は後途を期して第六航空軍司令部に帰還、6月13日、師團に復帰します。
明野教導飛行師團 第二十二振武隊2(明野)
▲昭和54年に生還隊員により作成された色紙


第二十六振武隊 征夷隊
昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)に編成下令、志願者から相良釟郎(隊長)、木村清治、永島福次郎、梅津末雄、西宮忠雄、荒木卓三、名木山登、小林位、中村勝利、児玉直喜各少尉の10名(四式戦)が選抜され、2月14日、編成完結します。

3月、第五航空軍(下山琢磨中将、南京)隷下に編入され、新田陸軍飛行場(宇都宮)に移駐し四式戦を受領、明野、都城、平壌、南荘を経て大校場飛行場(南京)に到着、整備と錬成にあたります。

5月1日、第六航空軍隷下となり、福岡を経て都城東陸軍飛行場に前進、梅津、小林、児玉少尉はさらに知覧陸軍飛行場に前進、25日、梅津、小林両少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華しました。
6月2日、児玉少尉はF4Uの機銃掃射を受け飛行場において散華してしまいます。
21日1615、相良隊長(10日、中尉進級)、木村中尉(10日、進級)、永島、西宮、荒木、名木山、中村各少尉は25番1発を懸吊し都城東を発進(荒木、名木山両少尉は機材不調により鹿児島に不時着し都城東に帰還、中村少尉は機材不調により引返しますが、着陸時負傷)、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
荒木、名木山、中村各少尉は後途を期して第六航空軍司令部に帰還(後、師團に復帰?)します。


第二十七振武隊 隼疾風隊
昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)に編成下令、志願者から久保田邦夫(隊長)、川村勝、三垣忠義、原田栞、市村次郎、矢口剛、熊澤弘之、奈良又男、高橋毅各少尉の9名(四式戦)が選抜され、2月14日、編成完結します。

3月、第五航空軍(下山琢磨中将、南京)隷下に編入され、隊は整備と錬成にあたり、5月1日、第六航空軍隷下となり、26日、菊池陸軍飛行場(熊本)を経て(7日、三垣少尉は病気入院)、原田、熊澤両少尉を除き都城東陸軍飛行場に前進、6月22日0607、川村中尉(10日、中尉進級)、原田、市村、矢口、熊澤、奈良、高橋各少尉は25番1発を懸吊し都城東を発進(進撃途中、市村少尉は機材不調により佐田岬に不時着するも大破散華)、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
久保田隊長(10日、中尉進級)、三垣少尉は(要因不明)は後途を期して第六航空軍司令部に帰還(後、師團に復帰?)します。


第四十二振武隊
昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)に編成下令、志願者から猫橋芳朗(隊長)、大西造、中野友次郎、近藤幸雄、松澤平一、牛島久男、福永一馬、馬場洋、尾久義周、篠田庸正、仙波久男、岩崎辰雄各少尉の12名(九七式戦)が選抜され、2月14日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第四十二振武隊(明野)
▲昭和20(1945)年2月、明野教導飛行師團将校集会所前での
 第四十二振武隊隊員記念撮影

隊は整備、錬成の後、知覧に前進、3月29日、篠田、岩崎両少尉を残置し、喜界島に前進しますが、福永少尉機は途中徳之島付近に不時着行方不明になってしまいます(後、生還)。

4月6日、第六航空軍は第一次航空總攻撃を発動、8日1730、松澤、牛島、尾久、仙波各少尉が、9日1740、猫橋隊長、近藤、馬場各少尉が夫々25番2発を懸吊し喜界島を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、16日、第三次航空總攻撃を発動、同日、篠田少尉が、5月3日、第六次航空總攻撃を発動、4日0500、岩崎少尉が夫々25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
大西中尉(6月10日、進級)、中野(要因不明)、福永両少尉は後途を期して第六航空軍司令部に帰還、6月13日、師團に復帰します。


第四十三振武隊
昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)に編成下令、志願者から今井光(隊長)、村野博、淺川又之、簑島武一、清澤守、岸誠一、酒井忠春、村上稔、前田敏、横尾勇、大野宗明、神尾崇各少尉の12名(一式戦三型)が選抜され、2月14日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
隊は所澤陸軍飛行場に移駐、整備、錬成にあたりますが、3月7日、神尾少尉が事故により殉職、28日、小牧陸軍飛行場から防府陸軍飛行場(山口)に移動中に村野少尉が機材不調により江田島付近に墜落、殉職してしまい、隊は知覧に前進します。

4月6日、第六航空軍は第一次航空總攻撃を発動、1530、今井隊長、淺川、簑島、清澤、酒井、村上各少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、隊長機は機材不調により喜界島に不時着、他5名は沖縄西方海上の敵艦隊に突入、12日、第一次航空總攻撃発動、1200、岸、前田、大野各少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
明野教導飛行師團 第四十三振武隊(明野)
▲4月6日、出撃前に今井隊長(後ろ向き)の指示を受ける隊員
 左から横尾、大野、清澤、前田、簑島、酒井各少尉

6月1日、待命中発病し入院していた横尾少尉が、13日、今井中尉(10日、進級)が夫々師團に復帰します。


第四十八振武隊 惟神(かむらい)隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から掘恒治(隊長)、中島章、鈴木誠一、土屋好央、柴田信平、須藤勲二各少尉、松本眞太治、中島豐蔵両伍長(4月1日、軍曹進級)、中島明、川野勉、伊藤甲子郎、土屋光男各伍長の12名(一式戦三型)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第四十八振武隊(明野)
▲第四十八振武隊 惟神隊隊長・掘恒治少尉
 千葉県出身、航士五十七期、明野教導飛行師團付教官より第四十八振武隊隊長を拝命。

隊は防府陸軍飛行場に移駐し一式戦を受領、整備、錬成にあたり、5月25日、知覧に前進します。
28日、第六航空軍は第九次航空總攻撃を発動、0513、鈴木少尉、土屋伍長が、6月3日、天候悪化から延期になっていた第十次航空總攻撃発動、1030、掘隊長、柴田少尉、松本、中島両軍曹が夫々25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。
明野教導飛行師團 第四十八振武隊2(明野)
▲第四十八振武隊隊員から鈴木少尉に贈られた寄せ書き

8日、天候が回復、0547、中島少尉、伊藤伍長は25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

土屋、須藤少尉、中野、川野両伍長(要因不明)は後途を期して第六航空軍司令部に帰還(後に師團に復帰?)します。


第四十九振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から伊奈剛次郎(隊長)、藤喜八郎、伊藤定雄、南部吉雄、黒川久夫、村松祐行各少尉、高橋定雄、柴田進、井勝忠枝、小柳瞭、小坂清一、金指正夫各伍長の12名(一式戦三型)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。

隊は成増(東京)に移駐し一式戦を受領、整備、錬成にあたり、逐次知覧に前進(半数名が遅れた理由不明)します。

5月3日、第六航空軍は第六次航空總攻撃を発動、司令官・菅原中将は見送りのため知覧に移動、6日0520、伊奈隊長、藤少尉、小柳伍長が、11日、第七次航空總攻撃発動、0633、高橋、小坂両伍長が、24日、第八次航空總攻撃発動、25日、0500、南部、黒川両少尉が夫々25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。
29日、7名に聯合艦隊司令長官・豐田副武大将より感状が授与されます・
明野教導飛行師團 第四十九振武隊(明野)
▲第四十九、六十六、七十振武隊隊員に贈られた感状

26日、伊藤、村松両少尉、柴田、井勝、金指各伍長は成増から防府へ前進しますが、柴田伍長は防府で負傷し小月陸軍病院に入院、井勝伍長は玉名陸軍飛行場(熊本)に不時着、6月21日、村松少尉は知覧に前進しますが、待命中に沖縄戦が終結?します(詳細不明)。


第五十振武隊 山吹隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から斎藤數夫(隊長)、高橋暲、藤田典澄、多田良政行、速水修、小木曽亮助各少尉、飯高喜久夫、柳清、松尾登代喜、大野昌文、松崎義勝、磯田徳行各伍長の12名(一式戦三型)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第五十振武隊(明野)
▲防府陸軍飛行場における第五十振武隊隊員(後列中央が斎藤隊長)
 
隊は防府(山口)に移駐し一式戦を受領、整備、錬成にあたり、知覧に前進します。

5月20日、『義號作戰』(義烈空挺隊の強襲作戦)支援のため、1603、斎藤隊長、多田良、速水、小木曽各少尉、飯高、柳、松尾、大野、松崎各伍長が、24日、第八次航空總攻撃発動、25日、高橋、藤田両少尉が、28日、第九次航空總攻撃発動、磯田伍長が夫々25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。


第五十一振武隊 悠久隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から荒木春雄(隊長)、鮫島豐、伊藤博、光山文博(卓庚紘)、野上康光、川崎渉各少尉、島仁、鈴木惣一、豐田良一、堀岡一馬、安藤康治、市川豐各伍長の12名(一式戦三型)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第五十一振武隊(明野)
▲出撃前に記念撮影に収まる第五十一振武隊隊員
 前列左から市川、光山、荒木(隊長)、豐田、川崎各少尉、後列左から島、安藤、鈴木各伍長

隊は防府(山口)に移駐し一式戦を受領、整備、錬成にあたりますが、伊藤少尉は機材不調により負傷、山口陸軍病院に入院(6月21日、 東京第二陸軍病院に移送)、堀岡伍長以外(理由不明、6月1日、師團復帰)の他の隊員は知覧に前進します。

5月6日、第六航空軍は第六次航空總攻撃を発動、0550、鮫島少尉が、11日、第七次航空總攻撃発動、0633、荒木隊長、光山、野上各少尉、島、鈴木、豐田、安藤、市川各伍長が夫々25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、市川伍長は進撃は機材不調?により上別府陸軍飛行場(鹿児島)に不時着、他の7名は沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。
28日、第九次航空總攻撃発動、0520、市川伍長は25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
5月30日1630、川崎少尉は国分付近において機材不調により殉職してしまいます。


第五十四振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から葛西宏(隊長)、中西伸一、三島邦夫、松本勲、大越通明、岡本一利、内海京一郎、高井政満、坂内隆夫、上垣隆美、坂部潔、小川光悦各少尉の12名(三式戦)が選抜され、4月12日、編成完結、5月1日、第五航空軍(下山琢磨中将、南京)隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第五十四振武隊(明野)
▲目達原陸軍飛行場における第五十四振武隊隊員
 左から上垣、坂内、中西、三島、高井、内海、葛西(隊長)、岡本、松本、坂部、小川、大越各少尉

隊は目達原、大邱陸軍飛行場を経由し北京飛行場に移駐しますが、4月26日、小川少尉は京城付近で不時着、負傷(6月、福岡に移動、13日師團に復帰)、他の隊員は整備、錬成にあたり、知覧に前進します。

5月24日、第六航空軍は第八次航空總攻撃を発動、25日、葛西隊長、三島、松本、大越、内海、坂内、坂部各少尉が25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、離陸時に坂部機は主脚が折れ横転炎上、坂部少尉は火傷を負い入院、他の5名は沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、28日、第九次航空總攻撃発動、中西、岡本、高井、上垣各少尉が25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、0754、岡本中尉機は機材不調により喜界島に不時着(同日1012、第百九振武隊寺田譲伍長を同乗させ知覧に帰還)、他の3名は沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、6月3日、第十次航空總攻撃発動、6日、岡本中尉が再度25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。


第五十五振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から黒木國雄(隊長)、佐伯修、森清司、太田穣、大澤茂、鷲尾克己、伊藤敏夫、大岩泰雄、菊地誠、北澤元治、長谷川東、中島英一各少尉の12名(三式戦)が選抜され、4月12日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。

隊は調布(東京)、防府(山口)、葦屋(福岡)各陸軍飛行場に移駐し、整備、錬成にあたりますが、太田少尉が調布で、長谷川少尉が防府で入院離脱してしまいます。
明野教導飛行師團 第五十五振武隊(明野)
▲調布から知覧に向かう北澤少尉に地上勤務者がマスコットの日本人形を手渡しているところ。

5月3日から逐次知覧に前進、6日、第六航空軍は第六次航空總攻撃を発動、0530、伊藤、北澤、中島各少尉が25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、11日、第七次航空總攻撃発動、0605、黒木隊長、森清、鷲尾各少尉が25番1発を懸吊し知覧を発進、嘉手納沖の敵艦隊に突入散華します。
明野教導飛行師團 第五十五振武隊2(明野)
▲5月11日0600、出撃五分前の瞬時、円陣を組んで『男なら』を歌い
 気合を入れる第五十五・五十六振武隊隊員

17日0855、大澤少尉が葦屋において試験飛行中、墜落殉職してしまいます。
25日、佐伯、菊地両少尉が、28日、第九次航空總攻撃発動、大岩少尉が夫々25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。


第五十七振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から伊東喜得(隊長)、唐澤鐵次郎、吉川富治、市村昂、戸澤吾郎各少尉(以上小隊長)、第一錬成飛行隊(神奈川、「第一次ト號要員転出」)から西田久、小林昭二、山下孝之、高埜徳、志水一、青木清二、棧武夫各伍長の12名(四式戦)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。

30日、隊は下館陸軍飛行場(茨城)に移駐、4月10日、四式戦を受領、整備、錬成にあたり、5月17日、錬成を修了し明野に移動、申告の後、18日、防府(山口)に移駐、待命します。
明野教導飛行師團 第五十七振武隊(明野)
▲昭和20(1945)年5月7日、下館陸軍飛行場における出陣壮行会で
 別盃を受ける吉川、戸澤両少尉(左から)

明野教導飛行師團 第五十七振武隊2(明野)
▲下館から明野までの航路を打ち合わせる吉川、伊東(隊長)、戸澤各少尉(左から)
 第五十七振武隊の隊章を左腕に巻いています。

明野教導飛行師團 第五十七振武隊3(明野)
▲5月17日、日の丸を打ち振る地上勤務者に見送られ
 下館から明野に出発する第五十七振武隊
 右から西田伍長機(10号機)、誘導の飛五十一第一中隊長・栗原六郎中尉機(925〃)、高埜伍長機(21〃)、吉川少尉機(03〃)、山下伍長機(01〃)、戸澤少尉機(02〃)、高埜伍長機は機首から尾翼にかけ胴体側面に赤い矢印が描かれている事で有名です。

24日、第六航空軍は第八次航空總攻撃を発動、隊は都城東に前進、25日、『義號作戰』(義烈空挺隊の強襲作戦)に合わせ、0450、伊東喜得(隊長)以下12名は25番1発を懸吊し都城東を発進(進撃中、市村少尉機は機材不調により引返す)、0800頃、11名が沖縄周辺海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
6月5日、市村少尉は後途を期して第六航空軍司令部に帰還、23日、師團に復帰します。


第五十八振武隊 髑髏隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から高柳隆(隊長)、紺田博、高田光太郎、上田徳、西村潤二、宮尾克彦、富永靖(富永恭司中将の子息)各少尉(以上小隊長)、第一錬成飛行隊(神奈川、「第一次ト號要員転出」)から國吉秀俊軍曹、井野隆、今村岩美、藤山恒彰、榮瀧志各伍長の12名(四式戦)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第五十八振武隊2(明野)
▲第五十八振武隊隊員と四式戦
 左から高田少尉、井野、今村両伍長、紺田、西村、高柳(隊長)、富永、
 宮尾、上田各少尉、藤山伍長、國吉軍曹、榮伍長

髑髏隊は水平尾翼に釜茹での髑髏の絵柄を描いていた事で知られます。
明野教導飛行師團 第五十八振武隊(明野)
▲高柳隊長と水平尾翼に描かれた釜茹での髑髏

30日、隊は下館陸軍飛行場(茨城)に移駐、4月10日、四式戦を受領、整備、錬成にあたり、5月17日、錬成を修了し明野に移動、申告の後、18日、防府(山口)に移駐、待命します。

24日、第六航空軍は第八次航空總攻撃を発動、隊は都城東に前進しますが、紺田少尉機、井野伍長機は機材不調により隈庄陸軍飛行場(熊本)に不時着(のち、都城東に追及)、25日、『義號作戰』(義烈空挺隊の強襲作戦)に合わせ、0450、高柳隆(隊長)以下10名は25番1発を懸吊し都城東を発進し、0800頃、10名が沖縄周辺海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

28日、第九次航空總攻撃発動、1502、紺田少尉、井野伍長は再度25番1発を懸吊し都城東を発進しますが、井野伍長機はまたも機材不調のため國分海軍航空基地(鹿児島)に不時着、紺田少尉は沖縄周辺海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
6月12日、井野伍長は後途を期して、師團に復帰します。


第五十九振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から野口肇太郎(隊長)、芦刈茂金、田中平一、大竹俍一、御宮司秀雄、林一男、河合徳和各少尉(以上小隊長)、第一錬成飛行隊(神奈川、「第一次ト號要員転出」)から近藤一一、増岡武男、小川榮、永添照彦、黒田政勝各伍長の12名(四式戦)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。

隊は整備、錬成にあたり、4月18日、防府(山口)に移駐、待命します。
5月23日、防府を離陸、都城東に前進しますが、河合中尉(22日、進級)機は機材不調により墜落、殉職してしまいます。

28日、第六航空軍は第九次航空總攻撃を発動、1502、野口隊長、大竹、林各少尉、小川、永添両伍長は25番1発を懸吊し都城東を発進しますが、隊長機は機材不調により引き返し、林機は機材不調により口永良部島に不時着(のち都城東に生還)、0800頃、3名が沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、6月3日、第十次航空總攻撃発動、0545、野口隊長、芦刈、田中、御宮司各少尉、近藤、増岡両伍長は25番1発を懸吊し都城東を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
黒田伍長(要因不明)は後途を期して第六航空軍司令部に帰還?(後に師團に復帰?詳細不明)。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』渙発、16日、停戦を迎えますが、18日、林少尉は都城東において拳銃自決を遂げました。


第六十振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から平柳芳郎(隊長)、倉元利雄、村岡和男、柴田治各少尉(以上小隊長)、第一錬成飛行隊(神奈川、「第一次ト號要員転出」)から田中治、吉永成明、手塚進、若杉正喜、永田利夫、堀元官一、荒正彦、向井忠各伍長の12名(四式戦)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。

隊は隈庄陸軍飛行場(熊本)において四式戦を受領、整備、錬成にあたり、都城東に前進します。
明野教導飛行師團 第六十振武隊(明野)
▲隈庄における第六十振武隊隊員
 前列左から堀元、永田、田中、荒、若杉各伍長、
 後列左から手塚伍長、柴田、村岡、平柳(隊長)、倉元各少尉、向井伍長

5月3日、第六航空軍は第六次航空總攻撃を発動、4日0630、平柳隊長、村岡、柴田各少尉、田中、吉永、手塚、若杉、永田、堀元各伍長は25番1発を懸吊し都城東を発進しますが、手塚伍長機は離陸直後に倉元少尉機に接触に墜落散華、村岡少尉機は機材不調により鹿児島県宝島に不時着(大島防備隊に収容、6月12日明野に復帰)、他は沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、11日、第七次航空總攻撃発動、0730、倉元少尉、荒伍長は25番1発を懸吊し都城東を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、24日、第八次航空總攻撃発動、25日、『義號作戰』(義烈空挺隊の強襲作戦)に合わせ、知覧に前進していた向井伍長は25番1発を懸吊し都城東を発進しますが、機材不調により?与論島に不時着、散華してしまいました。
明野教導飛行師團 第六十振武隊2(明野)
▲若杉伍長と愛機
 北海道出身、少飛十四期甲種。
 「いざ征かん 散りて砕けん若櫻 身は深海に藻屑たらなむ」
 の辞世を遺して征きました。


第六十五振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から桂正(隊長)、田中藤次郎、吉田善一、三島茂、鈴木龍雄、木原宇一、後藤博司、川合平三、石塚糠四郎、渡邊準平、片山啓二、高橋静夫各少尉の12名(九七式戦)が選抜され、4月2日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第六十五振武隊(明野)
▲大阪陸軍航空廠において特攻機受領中の第六十五振武隊隊員
 機材の不調に悩まされた悲運の特攻隊として知られます。

3日、大阪陸軍航空廠において九七式戦を受領、8日、隣接する大正陸軍飛行場から高松、16日、防府(山口)、22日、小月(山口)において整備待機、5月3日、菊池(熊本))各陸軍飛行場に移駐し整備、錬成にあたりますが、移動、錬成中に桂隊長機が着陸時に主脚折損(大正)、片山、吉田両少尉機は高松に向かう途次、淡路島に不時着大破、吉田少尉は高松陸軍病院に収容、木原少尉機は防府に向かう途次、広島県大島上島に不時着転覆、渡邉少尉機は同じく呉付近に不時着水、機材海没、小月において錬成中、木原少尉機は急降下時に両脚折損、高橋少尉機は発動機停止、不時着水、機材海没と機材の不調により次々と不運に見まわれ、7日、知覧に前進できた機材は8機、8日、機材の検定では出撃可能数はわずか3機と判定され、「飛べない飛行機を持って来た」と叱咤されてしまいます。

5月11日、第六航空軍は第六次航空總攻撃を発動、0641、桂隊長は「飛行機が欲しい、部下を犬死にさせたくない。整備完全なる飛行機を要す!」との言葉を残し、田中、石塚両少尉を率い残された3機に搭乗、25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

吉田、鈴木、木原、後藤、川合、渡邊、片山、高橋各少尉は後途を期して第六航空軍司令部に帰還、6月1日、師團に復帰、5月24日、三島少尉は菊池陸軍病院、7月4日、鹿児島陸軍病院知覧分院に入院(要因不明)します。


第六十六振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から後藤光春(隊長)、金子彰、佐方栄一、加藤金四郎、毛利理、福佐定夫、伊東輝友、荒川英徳、壺井重治、中村憲太郎、増田壽一、松尾翠各少尉の12名(九七式戦)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第六十六振武隊(明野)
▲昭和20(1945)年4月、加古川陸軍飛行場における第六十六振武隊隊員
 左から壺井、伊東、後藤(隊長)、荒川、毛利各少尉

4月、隊は大阪陸軍航空廠において九七式戦を受領、加古川(兵庫)、防府(山口)陸軍飛行場において整備、錬成にあたり、逐次萬世陸軍飛行場(鹿児島)に前進、待命します。
5月3日、第六航空軍は第六次航空總攻撃を発動、4日0530、毛利、荒川、壺井各少尉が25番1発を懸吊し萬世を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、10日、佐方少尉は25番1発を懸吊し萬世を発進しますが、機材不調により枕崎海上に不時着、知覧に帰還、24日、第六航空軍は第八次航空總攻撃を発動、25日、後藤隊長は「ただ南へ前進あるのみです。ひたすらに神國たる自覚と神明の加護のもと南海に散って征く日本人のこの姿を米鬼へ見せてやります」との言葉を残し、伊東少尉とともに25番1発を懸吊し萬世を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

6月3日、第十次航空總攻撃発動、10日、中村、松尾両少尉は悪天候を衝いて25番1発を懸吊し萬世を発進しますが、中村少尉機は行方不明、松尾少尉機は坊ノ津に不時着してしまいます。

6月13日、金子、加藤、福佐、増田各少尉、16日、佐方、松尾両少尉は後途を期して福岡に帰還、23日、師團に復帰します。
同隊隊員の詳細な行動は不明ですが、金子、福佐両少尉は知覧に所在している記録がある事から、出撃するも何らかの理由で不時着したものと思われます。
第六十五振武隊同様、故障に悩まされたと思われます。


第六十七振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から金子正男(隊長)、寺田浩一、清水眞三、長澤徳治、山下尚武、網代一、市川敏邦、山岸聡、米谷悌、小池龍夫、幸田二郎、後藤幸一郎各少尉の12名(九七式戦)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。

4月、隊は整備、錬成にあたり、知覧に前進、待命します。

4月28日、第六航空軍は第五次航空總攻撃を発動、1650、金子隊長、寺田、清水、長澤、山下、網代、市川各少尉は25番1発を懸吊し萬世を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

5月6日、第六次航空總攻撃に際し見送りに出ていた幸田少尉は進路を誤った第五十五振武隊・大澤茂少尉機に接触、散華してしまいます。

6月1日、山下、山岸、米谷、小池、後藤少尉は後途を期して師團に復帰します。
第六十五振武隊同様、故障に悩まされたと思われます。


第六十九振武隊
昭和20(1945)年2月23日、特別攻撃隊の編成下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、明野教導飛行師團(今川一策少将)に編成下令、志願者から池田亨(隊長)、本島桂一、中山力造、岡安明、柳生一諭、渡邊忠義、河村嚴美、堀井友太郎、渡井新、明田勇、持木恒二、山下哲各少尉の12名(九七式戦)が選抜され、29日、編成完結し第六航空軍隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 第六十九振武隊(明野)
▲第六十九振武隊隊長・池田亨少尉
 陸士五十七期、歩兵から航空科に転科、温厚、部下思いで
 特攻隊員の身の回りの世話をした「なでしこ隊」(知覧高等女學校生)
 からも慕われました。
 出撃に際し蓮華草で造った花輪の首飾りをして征った事から
 “れんげの花輪の特攻隊長”と称されました。

隊は整備、錬成にあたり、4月7日、池田隊長、本島、岡安両少尉、11日、柳生、渡井、渡邊、河村、持木各少尉が知覧に前進します。
11日夜、食堂において第二十、第三十振武隊とともに壮行会を受け、12日、第六航空軍は第二次航空總攻撃を発動、1200、池田隊長、岡安、柳生、持木各少尉の順に25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、本島機は出発直前に爆弾架の不調で爆弾が外れてしまい出撃取り止めになります。
悔しがる本島中尉に隊長は「本島、後から来いよ。俺はあの世で一足先に行ってまっておるぞ」と声を掛けて発進、4名は沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。
12日、中山、堀井、明田、山下各少尉が逐次、知覧に前進します。
16日、第三次航空總攻撃発動、0630、本島、中山、渡邊、河村、堀井、渡井、山下各少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、機材不調により中山、渡邊、堀井、渡井、山下各少尉機は引き返し、河村機は口之島に不時着(6月11日、生還)、本島機は単機、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

6月1日、中山、渡邊、堀井、渡井、明田、山下各少尉が、12日、河村少尉が後途を期して師團に復帰します。


第百四十一振武隊
昭和20(1945)年3月、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、志願者から長井良夫(隊長)、平原太郎、和泉庫三郎、柳榮三各少尉(一式戦)他が選抜され編成完結、第六航空軍隷下に編入されます。

隊は整備、錬成にあたり、萬世に前進、待命しますが、
5月24日、柳榮三少尉は菊池(熊本)から知覧に前進中、機材不調により筑後付近に不時着大破、久留米陸軍病院に入院してしまいます。

6月3日、第六航空軍は第十次航空總攻撃を発動、天候の回復を待ち、8日0616、長井隊長、平原少尉は25番1発を懸吊し萬世を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。
19日、和泉少尉は25番1発を懸吊し萬世を発進しますが、徳之島付近で機材不調のため引き返す際、方向を誤り大村海軍航空基地に不時着、20日、萬世に帰還します。

他隊同様に6乃至12名編成と思われますが、史料が無く散華した隊員以外は詳細不明です。


第百四十四振武隊
昭和20(1945)年3月、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、志願者から中島秀彦(隊長)、奥澤一、薄井義夫、松浦喜一、加藤英輔、岡田義人、堀ノ内博少尉(一式戦)が選抜され編成完結、5月31日、第六航空軍隷下に編入されます。

隊は整備、錬成にあたり、萬世に前進、待命します。
6月3日、第六航空軍は第十次航空總攻撃を発動、7日、雨の降りしきる、薄井少尉は25番1発を懸吊し萬世を発進しますが、機材不調のため徳之島沖に不時着海没(のち生還)してしまいます。

天候の回復を待ち、8日0616、中島隊長、岡田少尉は25番1発を懸吊し萬世を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に、11日1608、薄井少尉は再度、25番1発を懸吊し萬世を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

19日、松浦少尉は25番1発を懸吊し萬世を発進しますが、徳之島付近で機材不調のため引き返す際、方向を誤り大村海軍航空基地に不時着、20日、萬世に向けて離陸しますが、天草付近に不時着、22日、萬世に帰着します。

7月9日、堀ノ内少尉は新田原陸軍飛行場(宮崎)に前進しますが、待命中に沖縄戦が終結?します(詳細不明)。

史料が無く散華した隊員以外は詳細不明です。


第百六十五振武隊
※「佐野陸軍飛行場」参照


誠第三十三飛行隊
昭和20(1945)年2月14日、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)において、志願者から坂口英作(隊長)、福井五郎(副隊長)、引地、石原正嘉、橋場昇、中村、内田雄二、持丸多喜夫、上田、天野博、草場道夫各少尉(四式戦)他が選抜され編成完結、第八飛行師團(山本健児中将、台北)隷下に編入されます。
明野教導飛行師團 誠第三十三(明野)
▲後列左から引地、石原、橋場、中村、坂口(隊長)、福井(副隊長)、内田、持丸、上田各少尉

4月中旬、隊は台湾北部の八塊陸軍飛行場に移駐、整備、錬成にあたり、桃園陸軍飛行場に前進、待命します。

16日、持丸少尉が桃園を発進、27日、福井副隊長、石原、橋場、内田、天野各少尉が桃園を発進、嘉手納沖海上の、5月9日、坂口隊長が桃園を発進、那覇西方海上の、6月6日、草場少尉が桃園を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

史料が無く散華した隊員以外は詳細不明です。


誠第三十四飛行隊
昭和20(1945)年2月14日、明野教導飛行師團(師團長代理・今川一策大佐)において、志願者から桑原孝夫、金澤宏、安東愛明、新山喬夫、富山信也、二神孝満、前川豐、中村嘉明、荒木周作、小林富男、砂畑耕作各少尉(四式戦)他が選抜され編成完結、第八飛行師團(山本健児中将、台北)隷下に編入されます。

隊は台湾の臺中陸軍飛行場に移駐、整備、錬成にあたり、待命します。

4月28日、桑原、安東、新山、中村少尉が桃園を発進、慶良間列島南方海上の、5月4日、金澤、富山、二神、荒木、小林、砂畑各少尉が桃園を発進、嘉手納沖の、5月9日、前川少尉が桃園を発進、那覇西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

史料が無く散華した隊員以外は詳細不明です。


待機特別攻撃隊
第百四十二振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(三明憲郎中尉以下6名、一式戦)、7月26日、第二十戰鬭飛行集團(青木武三中将)隷下となり富士(静岡)、加古川(兵庫)、鈴鹿(三重)各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百四十三振武隊
昭和20(1945)年4月21日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(鈴木原信中尉以下6名、一式戦)、7月26日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり明野(三重)、富士(静岡)、菊池(熊本)各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百四十五振武隊
昭和20(1945)年4月21日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(石澤精三中尉以下6名、一式戦)、7月26日、第二十戰鬭飛行集團隷下となり明野(三重)、佐野(大阪)、加古川(兵庫)、鈴鹿(三重)各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百四十六振武隊
昭和20(1945)年4月21日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(藤原正明中尉以下6名、一式戦)、7月26日、第二十戰鬭飛行集團隷下となり明野(三重)、佐野(大阪)、加古川(兵庫)、鈴鹿(三重)各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百四十七振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(豐島敏中尉以下6名、一式戦)、7月26日、第二十戰鬭飛行集團隷下となり本地原陸軍飛行場(愛知)に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百四十八振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(福島正剛中尉以下6名、一式戦)、7月26日、第二十戰鬭飛行集團隷下となり本地原陸軍飛行場(愛知)に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百六十六振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(坂田瑞男中尉以下7名、三式戦)、第二十戰鬭飛行集團隷下、7月27日、第六航空軍隷下となり佐野陸軍飛行場(大阪)に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百六十七振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(石原重郎中尉以下6名、三式戦)、第二十戰鬭飛行集團隷下、7月27日、第六航空軍隷下となり八日市陸軍飛行場(滋賀)に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百六十八振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(西川敏彦中尉以下6名、三式戦)、第二十戰鬭飛行集團隷下、7月27日、第六航空軍隷下となり八日市陸軍飛行場(滋賀)に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百六十九振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(鵜川藤一中尉以下6名、三式戦)、第二十戰鬭飛行集團隷下、7月27日、第六航空軍隷下となり八日市陸軍飛行場(滋賀)に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百七十振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(二宮三徳中尉以下6名、三式戦)、第二十戰鬭飛行集團隷下、7月26日、第六航空軍隷下となり八日市陸軍飛行場(滋賀)に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百九十五振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(藤山展法中尉以下6名、四式戦)、第二十戰鬭飛行集團隷下、7月27日、第六航空軍隷下となり明野(三重)、北伊勢、(三重)、熊本各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百九十六振武隊
昭和20(1945)年5月、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(野上五夫中尉以下6名、四式戦)、第二十戰鬭飛行集團隷下、7月27日、第六航空軍隷下となり明野(三重)、北伊勢、(三重)、熊本各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。

第百九十七振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(深川巖中尉以下6名、四式戦)、7月27日、第二十戰鬭飛行集團隷下となり明野(三重)、北伊勢、(三重)各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百九十八振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(藤井収三中尉以下6名、四式戦)、7月26日、第二十戰鬭飛行集團隷下となり明野(三重)、北伊勢、(三重)各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第百九十九振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(村山晴美中尉以下6名、四式戦)、7月26日、第二十戰鬭飛行集團隷下となり明野(三重)、北伊勢、(三重)各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第二百振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團(今川一策少将)において、編成(深川巖中尉以下6名、四式戦)、7月26日、第二十戰鬭飛行集團隷下となり明野(三重)、北伊勢、(三重)各陸軍飛行場に移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


地上部隊
第六十二飛行場大隊(天鷲一八九三二)
昭和19(1944)年8月20日、明野陸軍飛行場において編成(岩添友次大尉)、第十一飛行師團(北島熊男少将、大阪)隷下に配属、補給、飛行場の警備、管理保守にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
31日、明野において復員完結しました。


第百六獨立整備隊(帥一八九六四)
昭和19(1944)年7月25日、明野陸軍飛行場において編成(泉谷健一大尉)、航空總軍(河邉正三大将、東京)隷下に配属、明野、北伊勢陸軍飛行場を中心に三重の陸軍飛行場に展開、特別攻撃隊振武隊9隊の整備を実施、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、31日、復員完結しました。


主要参考文献
『明野陸軍飛行学校の歴史と飛行第二〇〇戦隊史』(昭和54年10月 同書編集委員会)

『明野陸軍飛行学校』(昭和59年11月 明野忠魂塔顕彰会)

『コバルトの空 明野:首都圏明野会語り部記録』(平成16年10月 首都圏明野会)

『小俣町史』(昭和63年11月 小俣町史編さん委員会)

『戦史叢書19 本土防空作戦』(昭和43年10月 防衛庁防衛研究所戦史室)

『陸軍特別攻撃隊』(平成7年7月 モデルアート社)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

-webサイト-
陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/index.htm
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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