龜山陸軍病院 明星分院
三重県多気郡明和町に所在する済生会明和病院は龜山陸軍病院 明星分院の跡地にあります。

▲済生会明和病院に遺る龜山陸軍病院明星分院の西門
【探索日時】
平成24年3月9日

<遺構について>※青字は地図にリンクしています。
龜山陸軍病院 明星(みょうじょう)分院
昭和19(1944)年11月、多氣郡明星村(現、明和町)に龜山陸軍病院(昭和18年11月開設、三等甲病院、179床)の分院として龜山陸軍病院 明星分院(分類、床数不明)が開設します。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
12月1日、厚生省に移管され、国立鈴鹿病院明星分院に編組、同津病院明星分院、同明星療養所、同療養所明星病院を経て、平成10(1998)年12月1日、三重県済生会に経営移譲され済生会明和病院となり、現在に至ります。
当院については史料が皆無で詳細は不明ですが、近傍の津陸軍病院の分院では無く、遠方ですが航空總軍隷下である龜山陸軍病院の分院である事、昭和19(1944)年11月7日、津陸軍病院明野分院(昭和10年12月5日開設、分類不明、15床)が閉鎖されている事から、明野陸軍飛行學校が明野教導飛行師團に改編(6月20日)された事に伴う人員増加に対応する為、開設されたと思われます。

▲昭和23(1948)年12月17日の龜山陸軍病院明星分院跡(国土地理院USA-R2303-60)

▲現在の地図に境界・遺構を転写
ア 正門門柱
現在も明和病院の正門門柱として使用されています。

▲門柱、土留(門柱脇のコンクリート製三角形の構造物)、敷地外周をめぐる土堤が遺されています。
他の門柱に比べ太さは同等ですが高さが低く間隔が広いため、袖門の門柱だったのかも知れません。

▲北側門柱の近影
ペンキで塗装されていますが、病院関係者によると「戦前の物だろう」との事です。

▲南側門柱の近影

▲正門付近の側溝
こちらも当時の物と思われます。
イ 西門門柱
現在も病院の裏門として使用されています。

▲こちらも門柱、土留、土堤が完存しています。

▲西門前に遺る会所
こちらも当時の物と思われます。

▲外周には土堤がほぼ完存しています。
写真は敷地南側を廻る土堤
ウ 土留
門柱は撤去され、両側の土留のみが遺ります。

▲土留のみが遺ります。

▲地面に門柱跡と思われる痕跡(砂利部分や側面の土留)が遺ります。
エ 東門門柱
南側の門柱と土留のみが遺されています。
他所の門が現役で使用されているのに対し、東門は完全に閉鎖され生け垣になっており門柱のみが立っています。

オ 「陸軍」境界石標
北西隅の側溝付近に倒れたまま埋まって遺ります。

▲側溝工事の際にハマり込んだため撤去を逃れたようです。

▲境界石標の近影
頂部は欠けていますが、「陸」の一部と「軍」が読めます。
最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓宜しかったらクリックお願いします

▲済生会明和病院に遺る龜山陸軍病院明星分院の西門
【探索日時】
平成24年3月9日


<遺構について>※青字は地図にリンクしています。
龜山陸軍病院 明星(みょうじょう)分院
昭和19(1944)年11月、多氣郡明星村(現、明和町)に龜山陸軍病院(昭和18年11月開設、三等甲病院、179床)の分院として龜山陸軍病院 明星分院(分類、床数不明)が開設します。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
12月1日、厚生省に移管され、国立鈴鹿病院明星分院に編組、同津病院明星分院、同明星療養所、同療養所明星病院を経て、平成10(1998)年12月1日、三重県済生会に経営移譲され済生会明和病院となり、現在に至ります。
当院については史料が皆無で詳細は不明ですが、近傍の津陸軍病院の分院では無く、遠方ですが航空總軍隷下である龜山陸軍病院の分院である事、昭和19(1944)年11月7日、津陸軍病院明野分院(昭和10年12月5日開設、分類不明、15床)が閉鎖されている事から、明野陸軍飛行學校が明野教導飛行師團に改編(6月20日)された事に伴う人員増加に対応する為、開設されたと思われます。

▲昭和23(1948)年12月17日の龜山陸軍病院明星分院跡(国土地理院USA-R2303-60)

▲現在の地図に境界・遺構を転写
ア 正門門柱
現在も明和病院の正門門柱として使用されています。

▲門柱、土留(門柱脇のコンクリート製三角形の構造物)、敷地外周をめぐる土堤が遺されています。
他の門柱に比べ太さは同等ですが高さが低く間隔が広いため、袖門の門柱だったのかも知れません。

▲北側門柱の近影
ペンキで塗装されていますが、病院関係者によると「戦前の物だろう」との事です。

▲南側門柱の近影

▲正門付近の側溝
こちらも当時の物と思われます。
イ 西門門柱
現在も病院の裏門として使用されています。

▲こちらも門柱、土留、土堤が完存しています。

▲西門前に遺る会所
こちらも当時の物と思われます。

▲外周には土堤がほぼ完存しています。
写真は敷地南側を廻る土堤
ウ 土留
門柱は撤去され、両側の土留のみが遺ります。

▲土留のみが遺ります。

▲地面に門柱跡と思われる痕跡(砂利部分や側面の土留)が遺ります。
エ 東門門柱
南側の門柱と土留のみが遺されています。
他所の門が現役で使用されているのに対し、東門は完全に閉鎖され生け垣になっており門柱のみが立っています。

オ 「陸軍」境界石標
北西隅の側溝付近に倒れたまま埋まって遺ります。

▲側溝工事の際にハマり込んだため撤去を逃れたようです。

▲境界石標の近影
頂部は欠けていますが、「陸」の一部と「軍」が読めます。
- 関連記事
最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓宜しかったらクリックお願いします

