当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第十六軍司令部

インドネシア共和国の国都ジャカルタ市の中心地、独立記念広場に隣接してインドネシア(当時、オランダ領東印度(蘭印))を攻略した第十六軍司令部の庁舎がありました。
第十六軍司令部 庁舎 北から (3)(インドネシア)
▲第十六軍司令部 庁舎

【探索日時】
平成24年4月15日






独立記念広場周辺の帝國陸海軍施設
独立記念広場はオランダ植民地時代「Koningspiein(王宮広場)」と呼ばれ、周辺にはオランダの公官庁、企業社屋が並んでいました。
昭和17(1942)年3月12日、蘭印を攻略した第十六軍はこれらオランダ植民地政府の建物を接収、各部隊の施設として転用しました。
第十六軍司令部 ジャカルタ(インドネシア)
▲昭和18(1943)年頃の独立記念広場周辺の配置
※緑文字が当記事の紹介施設
第十六軍司令部
②第十六軍司令官官邸
③第十六軍軍政部(昭和17年8月1日、第十六軍軍政監部に改編)
④第十六軍憲兵隊本部
⑤第十六軍将校集会所
⑥第十六軍宣伝班(昭和17年7月、第十六軍報道部に改称)
⑦ジャカルタ在勤海軍武官府
⑧ジャカルタ在勤海軍武官官邸

遺構について※青字は地図にリンクしています。
(番号・遺構配置は上掲地図参照)
① 第十六軍司令部
昭和17(1942)年3月1日、第十六軍はジャワ島3ヶ所に上陸、5日、第二師團佐藤支隊がバタビア(現、ジャカルタ)を攻略、7日、第三十八師團東海林支隊がバンドンに急進、8日、蘭印軍は降伏、次いで12日、英豪軍が降伏、H作戰(蘭印攻略作戦)は終結、350年に渡るオランダによる東インドの植民地支配は現地人の助力もあり、我軍による僅か8日間の進撃で終焉を迎えます。

我が政府は東印度を大東亜戦争完遂のための最重要資源地帯と位置付け、3月7日、第十六軍軍政部はジャワ島に軍政を施行します。
東印度攻略後、第十六軍は投獄されていた独立運動家のスカルノ、モハメド・ハッタなどを開放、軍政への協力を得、数々の政策を実施、文化、宗教上の違いから現地には受け入れ難い政策、戦局の悪化による現地人への負担増もありましたが、現地人への軍事教練、及び軍の編成、現地人の官吏登用による政治参与、中等教育の普及、インドネシア語の公用化、組織力の育成、経営力の養成、民族意識の涵養など植民地時代には決して得ることの出来なかった権利を認め、後の独立の素地にもなる施策を数多く実施しました。

第十六軍はバタビア(現、ジャカルタ)攻略後、司令部庁舎としてスタンダード・バキューム・オイル社(現、エクソン・モービル)事務所を転用、ジャワ島は主戦場から外れたため大東亜戦争停戦まで使用します。

現在はインドネシア共和国鉱業エネルギー省の庁舎として使用されています。
第十六軍司令部 庁舎 北から (2)(インドネシア)
▲車寄せ前の大木が邪魔で正面が見えません。
 車寄せ前には「鉱業エネルギー省」らしく鉱夫の像があります。

第十六軍司令部 庁舎 北から(インドネシア)
▲2枚の写真を合成したので画像が歪んでいますが、全景がつかめます。

第十六軍司令部 庁舎 北西から(インドネシア)
▲北西角から
 庁舎はコの字型をしています。

第十六軍司令部 庁舎 西から(インドネシア)
▲西側側面
 縦長の窓が半分閉鎖され、現行の窓がはめられています。

※庁舎は現在も中央省庁として使用されており、守衛がいてますので撮影には気を付けて下さい。
 5,000lpほど渡せば外周から自由に撮影できます。



第十六軍司令部(治一六〇二)
昭和16(1941)年9月16日、第二師團(丸山政男中将、仙台)に動員下令、10月22日、動員完結、10月1日、第十六軍司令部、及び第五十六師團(渡邉正夫中将、久留米)において坂口支隊(第五十六歩兵團長・坂口靜夫少将)の編成下令、30日、坂口支隊の編成完結、11月5日、第十六軍司令部編成完結、6日、『大陸命第五百五十五號』により第十六軍(今村均中将)戦闘序列を下令、軍司令部は東京において編成され、南方軍(寺内壽一大将、11月25日、東京出発、12月5日、サイゴン着)戦闘序列に編入されます。
今村均中将
▲第十六軍司令官に親補された今村均中将(陸士十九期 陸大二十七期首席)
 温厚篤実、部下思い、責任感が強く「仁将」と称されました。

【 第十六軍戦闘序列 】(昭和16年11月6日)
第十六軍司令部
戰車第四聯隊(滿洲國虎林)
野戰重砲兵第十七聯隊(国府台)
第十八野戰防空隊司令部
 高射砲第十六聯隊(南京)
 野戰高射砲第四十四大隊(加太)
獨立工兵第一聯隊
第十六軍通信隊
電信第十五聯隊(佐賀)
第三野戰憲兵隊(滿洲國新京)

第四十三、第四十八兵站地區隊
第二野戰輸送司令部(東京)
獨立自動車第三十九(金沢)、第百二大隊
第四十四野戰道路隊(盛岡)
第十四野戰勤務隊(徳島)
第十八野戰郵便隊(熊本)
第十八兵站衛生隊
第十六患者輸送隊(福岡)
第二十二野戰防疫給水部(東京)
第十三兵站病馬廠(金沢)
第十九軍馬防疫廠(弘前)
第二十四野戰兵器廠(東京)
第二十四野戰自動車廠(堺)
第二十四野戰貨物廠(東京)

第二師團(仙台)
第二歩兵團司令部(仙台):那須支隊
 歩兵第四聯隊(仙台):福島支隊
 歩兵第十六聯隊(山形):那須支隊
 歩兵第二十九聯隊(若松):佐藤支隊
捜索第二聯隊(仙台)
野砲兵 〃  (仙台)
工兵   〃  (仙台)
輜重兵 〃  (仙台)
第二師團通信隊(仙台)
 〃   衛生隊(若松)
 〃   兵器勤務隊(仙台)
 〃   第一、第二、第四野戰病院(仙台)
第二師團防疫給水部(仙台)
第二師團病馬廠(仙台)

第四十八師團(台湾)
第四十八歩兵團司令部(台湾)
 臺灣歩兵第一聯隊(台北)
 臺灣歩兵第二聯隊(台南)
 歩兵第四十七聯隊(大分)
捜索第四十八聯隊(台湾鳳山)
山砲兵 〃      (〃台北)
工兵   〃      (〃高雄)
輜重兵 〃
第四十八師團通信隊
   〃    衛生隊
   〃    兵器勤務隊
   〃    第一、第四野戰病院

第三十八師團(名古屋)
第三十八歩兵團司令部(名古屋):東方支隊
 歩兵第二百二十八聯隊(名古屋):東方支隊
 歩兵第二百二十九聯隊(岐阜)
 歩兵第二百三十聯隊(静岡):東海林支隊
山砲兵第三十八聯隊(名古屋)
工兵   〃      (豊橋)
輜重兵 〃       (名古屋) 
第二師團通信隊   (名古屋)
 〃   衛生隊   (名古屋)
 〃   兵器勤務隊(名古屋) 
 〃   第一、第二野戰病院(岐阜)
第三十八師團病馬廠(名古屋)

混成第五十六歩兵團(久留米):坂口支隊
 第五十六歩兵團司令部
 歩兵第百四十六聯隊(大村)
 第五十六師團装甲車隊第四中隊(久留米)
 野砲兵第五十六聯隊第一大隊(久留米)
 工兵第五十六聯隊第一中隊(久留米)
 輜重兵第五十六聯隊第二中隊(久留米)
 第五十六師團衛生隊第三中隊(久留米)
 第五十六師團第一野戰病院(久留米)


11月10日、東京において南方軍隷下各軍司令官は総司令官・寺内壽一大将より南方要域攻略に関する訓示、並びに作戦準備命令を下達され、15日、第十六軍は南方軍に隷属転移、18日、坂口支隊が門司、19日、第二師團が宇品港を出航、同日、第二師團は台湾高雄に、28日、坂口支隊はパラオに集結します。

我が国は外交交渉による戦争回避を図りますが、26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月8日、大東亜戦争が開戦します。

12月16日、坂口支隊はパラオにおいて三浦支隊(第十六師團隷下歩兵第三十三聯隊第一大隊長・三浦俊雄中佐)を編入、17日、パラオを出航、20日、第四航空戰隊(角田覚治少将:龍驤)の直掩により、ダバオに上陸しますが、直後に海軍機の誤爆により三浦支隊の50名が散華してしまったため坂口支隊主力が追加投入され、同日中にダバオを攻略し在留邦人を救出、25日、坂口支隊から抽出された歩百四十六第三大隊がホロ島を攻略します。

12月30日、今村軍司令官は飛行機にてサイゴンに出発、昭和17(1942)年1月2日、東京の軍司令部は閉鎖され、3日、サイゴンに軍司令部を開設(今村司令官は25日、台湾に移動し作戦計画を起案・準備、2月4日、サイゴンに帰還)します。
4日、第十六軍司令部は大阪港を出港(9日、台湾基隆上陸)、同日、第三十八師團(佐野忠義中将、名古屋)が香港を攻略(昭和16年12月25日)した第二十三軍 (酒井隆中将)から第十六軍に隷属転移、11日、第三十八師團において東方支隊(第三十八歩兵團長・伊東武夫少将、歩兵第二百二十八聯隊基幹)が編成完結、同日、佐世保聯合特別陸戰隊、佐世保第一・第二特別陸戰隊、横須賀第一特別陸戰隊(落下傘部隊)がメナドを攻略(24日、セレベス島ケンダリー攻略)、同日、坂口支隊、呉第二特別陸戰隊がタラカン島に上陸、13日、蘭印軍守備隊1,400名を降伏させ、12日、東方支隊が呉第一特別陸戰隊(家水幸之輔中佐)とともに第二水雷戰隊(田中頼三少将:神通、駆逐艦4、駆潜艇5、掃海艇5)、第二航空戰隊(山口多聞少将:蒼龍、飛龍)の護衛のもと香港九龍港を出航します。

1月14日、第四十八師團(土橋勇逸中将、台湾)がマニラを攻略(昭和17年1月2日)した第十四軍(本間雅晴中将)から第十六軍に隷属転移、18~26日、東方支隊がダバオに集結、19日、第三十八師團が東海林支隊(歩兵第二百三十聨隊長・東海林俊成大佐:第一、第二大隊、歩兵砲(静岡)・速射砲中隊、戦車第四聯隊第一中隊、山砲2個・高射砲1個中隊)を残置し、香港九龍港を出航し、仏印カムラン湾に集結します。

1月20日、南方軍總司令部より『H作戰』(ジャワ攻略作戦)下令、22日、坂口支隊はタラカン島を出航、24日、バリクパパンに上陸(直後のバリクパパン沖海戦生起)、同地、サマリンダ、テンガロンを攻略、陸海2路より進撃、2月10日、バンジェルマシン及び同飛行場を攻略、1月24日、二航戰がアンボン市街地を空襲、27日、東方支隊・呉一特は二水戰護衛のもとダバオを出航、31日、セラム島アンボンを攻略、2月1日、蘭印軍(カーピス中佐)800名を降伏させ、3日、アンボン郊外ラハ飛行場を攻略、豪軍を降伏させますが、呉一特隊長・家水幸之輔中佐が散華してしまいます。

1月29日、東海林支隊が九龍港を出航、31日、軍主力の集結する高雄に入港します。

▲第十六軍進撃路

2月1~6日、第十六軍司令部、第二師團が第五水雷戰隊(原顕三郎少将:名取、駆逐艦8隻)の護衛のもと高雄を出航、10・11日、カムラン湾に集結、9日、第三十八師團はカムラン湾を出航、14日、第一挺進團挺進第二聯隊(甲村武雄少佐)260名が挺進飛行戰隊の機材に乗機、飛行第五十九・六十四戰隊も護衛を受けクルアン、カハン両飛行場を出撃、15日、パレンバンを攻略、コロニアル石油製油所(8割破壊)、バターフセ石油製油所(ほぼ無傷)を攻略、同日、第三十八師團の一部がバンカ島に上陸しムントク飛行場を攻略、先遣隊はスマトラ島南部のムシ河を遡行しパレンバンに到着、第二聯隊と警備を交替、師團はジャンピー、ゲルンバン、ベンクル、ルアクリンガウ等を攻略、タンジュンカラン攻略において未成飛行場を発見し、これを拡張設定し第三飛行集團(菅原道大中将、パレンバン)隷下の各飛行戦隊が前進します。

2月7日、第四十八師團において編成された金村支隊(臺灣歩兵第一聯隊第三大隊長・金村亦兵衛少佐:第三大隊、山砲1個・獨立工兵1個小隊基幹)が、8日、第四十八師團主力が第四水雷戰隊(西村祥治少将:那珂、駆逐艦12)の護衛のもとリンガエン湾を出航、12日、ホロ島バタ泊地に集結、14日、先行した金村支隊はマカッサルに入港、17日、マカッサルを出航、19日、バリ島に上陸(上陸後、バリ島沖夜戦生起)、3月8日、全島を攻略します。

2月17日、東方支隊はディリ進駐部隊(歩兵第二百二十八聯隊第二大隊基幹、聯隊長・土井定七大佐)を編成、18月、夫々アンボンを出航、20日、東方支隊はチモール島クーパンに上陸、横須賀第三特別陸戰隊(落下傘部隊)が降下、同日、ディリ進駐部隊は葡領チモール島ディリを攻略、23日、東方支隊は蘭印軍を降伏させ、チモール島を攻略、蘭印軍-豪軍の連絡を遮断し、以後チモール島の警備にあたります。

2月18日1000、第十六軍主力(第二師團、東海林支隊基幹)が第一次輸送船團(輸送船56隻)により第五水雷戰隊の護衛のもとカムラン湾を出航、19日、第四十八師團が第二次輸送船團(輸送船38隻)により第四水雷戰隊、第二十三航空戰隊(竹中龍造少将、陸上基地)の護衛のもとバタ泊地を出航しますが、22日、スラバヤ沖海戰生起のため、第一次輸送船團は反転北上、第二次輸送船團はバリクパパン南方海岸に投錨(坂口支隊は久米支隊を残置し第四十八師團区処下に編入)、23日、第一次輸送船團は南下を開始、25日、第二次輸送船團はバリクパパン南方海岸を抜錨、26日、第一次輸送船團の護衛に第七戰隊(栗田健男少将:最上、三隈、鈴谷、熊野)、第三飛行集團が加わります。

27日0500、第一次輸送船團から第三嚮導隊(名取、駆逐艦2)護衛のもと東海林支隊(第三十八師團)を分派し東進させ、28日2230、軍主力、第二師團は佐藤支隊(歩兵第二十九聯隊長・佐藤半七大佐:同聯隊(若松)基幹)、那須支隊(第二歩兵團長・那須弓雄少将:歩兵第十六聯隊(新発田)、捜索第二聯隊(仙台)基幹)、福島支隊(歩兵第四聯隊長・福島久作大佐:同聯隊(仙台)基幹)に別れ、2340、バンタム(バンテン)湾に進入し投錨します。

3月1日0000、佐藤支隊がバンタム湾からアウラン岬に上陸を開始、0015~0045、無血上陸に成功しますが、直後に揚陸作業中の船団が敵艦、敵機の攻撃を受け(バタビア沖海戰)、軍司令部乗船の龍城丸(神洲丸の秘匿名)が大破、今村司令官も海上を3時間に渡り漂流の後救助され、また通信機材の海没により一時司令部機能が喪失してしまいます。
0200、那須支隊・福島支隊がバンタム湾からメラクに上陸、0330、東海林支隊はエレンタ、パトロール付近に上陸、0100、第二次輸送船團はクラガン泊地に投錨、敵艦・敵機の攻撃を受けながらも0345、師團右翼隊が、0400、同左翼隊が上陸、0700、坂口支隊の金氏梯團が、2日、0130、坂口支隊の山本梯團、松本梯團がクラガン東南に上陸します。

上陸後、佐藤支隊は散発的な敵の攻撃を排し、阻塞された街道、爆破された橋梁を架橋しつつ西進、パララヂャヤ、タンゲランを攻略、蘭印軍はいち早くバンドン要塞に退却したため、5日2130、国都バタビアを攻略します。
那須・福島両支隊は同じく街道補修、橋梁を架橋しつつを南下、セラン、ペチルを攻略しますが、ルウイリアンにおいて豪軍の強固な陣地に阻まれ進撃は遅滞、3日、丸山師團長は野砲兵第二聯隊の火砲8門による準備射撃の後、歩十六第三大隊第九中隊(伊藤今朝長大尉)による夜襲を下達しますが、敵火砲の阻止射撃を受け伊藤大尉以下28名が散華、歩十六聯隊長・廣安壽郎大佐も負傷してしまいます。
師團長は那須支隊を迂回させ敵陣地に連携する周辺陣地を攻略、豪軍はバンドン方面に退却を始めたため、軍は進撃を開始、チャンペア、ドラマガを攻略、5日未明、ボイデンゾルグに前進、6日0400、同地を攻略、那須支隊は主目標であるバンドンに直進、軍主力はカリジャティー方面からバンドンを目指します。

第四十八師團は上陸後西進、2日夕、チエプーを攻略、ソロ河に架橋、4日、ケデリを攻略、プランタス河右岸に進撃、6日、モジョケルトを攻略、軽微な抵抗を排しつつスラバヤを包囲、8日、スラバヤに突入し、蘭印軍東部兵団司令官イルヘン少将を降伏させます。

坂口支隊は金氏梯團を先頭に南下、山本梯團、松本梯團が自動車により続き、レンバン、プロラ、チャブーを攻略、さらにスラカルキ、ジョグジャカルタ、マゲラン、スマラン、ブルオケルトを攻略、各地の敵陣を撃破、鹵獲貨物自動車に分乗し400kmを進撃、8日、目標のチラチャップを攻略、敵の退路を遮断します。

東海林支隊は飛行場攻略、バタビア-バンドンの交通遮断を目標とし第一挺身隊(若松満則少佐)、第二挺身隊(江頭多少佐)に2分し進撃を開始、3日1130、第一挺身隊は30kmを西進しカリジャティー飛行場に突入、敵守備隊の反撃を受けるも、決死隊6名が敵戦闘指揮所に切り込んだため、敵は撤退を開始、1230、飛行場を攻略、3日、同飛行場に第三飛行集團(遠藤三郎少将)が前進、敵の飛行場の奪還を企図した機甲部隊を伴う逆襲を受けますが、飛行集團による直接協力を受け撃退します。
4日、第二挺身隊は南下しチカンベックを攻略、バタビア-バンドン間の鉄路を遮断しますが、依然軍司令部との連絡は不通であり、バンドン要塞に篭もる5万の蘭印軍の逆襲により包囲殲滅の危険があったため、東海林支隊長は遠藤集團長の支持を得て敵の防御態勢未完成を勝機として、単独でバンドン要塞の頂上線攻略を企図(今村司令官は軍主力による要塞攻略を立案、支隊単独での進撃を危惧)します。

5日、第一挺身隊は進撃を開始、スバンを突破、飛行場より40kmの要塞口ジャランチガルを攻略、以降、敵の激烈な反撃を飛行集團の直協により撃破、1600、要塞山麓のチャテルを攻略、1730、阻塞物を伴う敵の特火点陣地に遭遇、6日午前、敵の逆襲を受けますが、午後には苦戦しながらも軽微な損害で第一線陣地を突破、1400、チチェナンの敵陣を急襲、夕方には陣地を攻略、7日1200、バンドン市街を見下ろせる要塞外郭線のレンバンに進撃し敵主要陣地を攻略、後続の第二挺進團はチチェナンからチボフを攻略、レンバンに進撃します。

7日2330、東海林支隊の急進に驚愕したバンドン地区防衛兵団司令官・ペスマン少将は第一挺身隊に軍使を派遣、降伏の意図を伝達します(22日、東海林支隊に対し今村司令官より感状授与)。

同日、第十六軍はバタビアに第十六軍軍政部(軍政部長兼第十六軍参謀長・岡崎清三郎少将)を開設、『大日本軍司令官 布告第一號』を布告、ジャワ島を直轄領として軍政を施行します。

8日1600、カリジャティー飛行学校において今村司令官と蘭印総督チャルダ・V・スタルケンボルフ・スタックハウエル、蘭印軍総司令官ハイン・テル・ポールテン中将との間に停戦協議が持たれ、蘭印側はバンドン地区防衛兵団のみの降伏を主張しますが、我軍はジャワ所在全連合軍の降伏を要求、蘭印側はこれを受諾、9日午前、ラジオ放送で蘭印軍降伏がジャワ全島に放送されます。

12日、バンドン東方の英豪軍8,000名が降伏し、全連合軍が降伏します。
H作戰における第十六軍の損害は第二師團散華79、戦傷190、第四十八師團散華91、戦傷275、東海林支隊散華82、戦傷191、坂口支隊散華3、戦傷46名で、連合軍の俘虜82,618(蘭印66,219、英10,626、米883)名を得ました。

同日、第二十五軍(山下奉文中将、昭南島)隷下の近衞師團(西村琢磨中将、東京)がスマトラ島北部のクタラジャヤ、イッチ、ラブハンルクに上陸し敵の軽微な反撃を排しながら南下、第三十八師團は北上を開始、27日、両師團はパダンで連絡、スマトラ島を攻略します。

17世紀初頭から約350年に及ぶオランダによる東インドの植民地支配(典型的な愚民化、収奪型)は、第十六軍の進撃に僅か8日で終焉を迎えました。
我軍の快進撃は南方軍宣伝班がサイゴン進出後、第十六軍の蘭印攻略に先んじ実施していたラジオ放送を通じた宣撫工作が成功した事に加え、ジャワ島に古くから伝承された『ジョヨボヨ王の予言』に我軍を仮託した住民が、第十六軍の上陸、進撃を日の丸と紅白旗(Sang Merah Putih:現在のインドネシア共和国国旗)を振って歓呼で迎え、各地で食料提供、荷物運び、蘭印軍の設置した障害物の除去を率先して行た事が要因でした。
今村均中将と現地の子供達
▲現地の子供に囲まれる今村司令官

『ジョヨボヨ王の予言』とは12世紀前半に東ジャワに栄えたクディリ王国のジョヨボヨ王(在位1135~57年)の残した予言で、19世紀後半に伝統文化であるワヤン(影絵芝居)で演じられたため広く人口に膾炙します。
訳が大
同小異ありますが、おおよそ「わが王国に混乱が生じ、どこからか現れる“白い水牛”の人[=オランダ人]に長期に支配されるであろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる[=銃]。北(東とも)の方から“黄色い”人(巨人とも)[=我が軍]が攻めてきて白い人を追い出し代わって支配するが、それはトウモロコシ一回限りの短い期間である。 その後、男は女のように、女は男のようになり、世は麻のように乱れ(犯罪や不正が横行、道徳は退廃、ジャワ語の敬語法も乱れる)、加えて飢饉や伝染病が蔓延、転変地異も起こる。やがて白馬にまたがる正義の神ラトゥ・アディルが登場(天から白い布をまとって降りてくる[=落下傘部隊]とも)し、永遠の平和と幸福が約束される」という物です。

ジャワ全島を攻略した第十六軍はジャワ島のスカブミに幽閉されていた独立運動家のモハメド・ハッタ、次いでスマトラ東部のベンクーレンでスカルノを探索し解放、バタビアに招致、スカルノらは「プートラ(民衆総力結集運動」を結成、インドネシア独立の準備段階として、我が軍政に協力する事を確約します。
スカルノとハッタ
▲現行10,000lp紙幣に描かれたスカルノ(左)とハッタ
 背後は独立宣言書

東印度は南方軍は元より海軍、そして我が国が大東亜戦争を完遂するうえで最も重要な資源生産地として位置付けられ、『占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定』(昭和16年11月26日)に基づき、第十六軍軍政部(バタビア)がジャワ島、第二十五軍軍政部(昭南島)がスマトラ島、英領ボルネオ(及び馬来半島)、海軍省軍務局南方政務部が蘭領ボルネオ(ボルネオ民生部:バリクパパン)、セレベス・小スンダ列島(同民生部:マカッサル)、西部ニューギニア(セラム民生部:アンボン)に軍政(海軍呼称:民政)を施行します。

以降、第二師團はボイデンゾルグ(8月8日、ボゴールに改称)、バタビア周辺、東海林支隊はバタビア、バンドン周辺、第四十八師團はスラバヤからスンダ列島(8月23日まで)周辺、第三十八師團主力はパレンバン周辺、東方支隊はチモール島、坂口支隊はチラチャップ周辺の戡定、警備にあたります。

31日、坂口支隊はチラチャップ港を出航、4月20日、ラングーンに上陸、30日、ラシオにおいて第五十六師團に復帰します。

4月19日、第三十八師團はパレンバンを出発、22日、北部スマトラのトバ湖周辺に集結、第二十五軍の指揮下に入り北部スマトラの警備、訓練にあたります。

5月3日、東海林支隊はバタビア近郊のタンジュンプリオク港を出港、10日、スマトラ島ベラロンに上陸し第三十八師團に復帰、カバンジャヘに移駐し警備、訓練にあたります。

5月17日、『南總作命甲第百二十三號』により第二師團において青葉支隊(第二歩兵團長・那須弓雄少将:歩兵第四聯隊(仙台)、捜索第二聯隊第四中隊、野砲兵第二聯隊第一大隊、工兵第二聯隊第二中隊、輜重兵第二聯隊第三中隊・第二師團通信隊・同衛生隊・同第二野戰病院・同防疫給水部の一部基幹)が編成され、27日、タンジュンプリオク港を出港、6月5日、ダバオ東北のデブンコに移駐し南方軍直轄(8月10日、第十七軍に編入、20日、ラバウルへ移駐)になります。

昭和17(1942)年6月27日、『軍令陸甲第四十六號』により第十六軍戦闘序列の編制が改正されます。

【 第十六軍戦闘序列 】(昭和17年6月27日)
第十六軍司令部(バタビア)
戰車第四聯隊(スラバヤ)
野戰高射砲第三十二大隊(昭和17年8月25日、隷下に。スラバヤ)
野戰高射砲第四十八大隊
獨立工兵第三聯隊
第四鐡道輸送司令部(昭和17年9月15日、編成。バンドン)
電信第十五聯隊(昭和17年9月5日、第十六軍通信隊を改編。バタビア)
第十六軍憲兵隊(昭和17年8月31日、第三野戰憲兵隊から改称。バタビア)

第四十八兵站警備隊
自動車第二十八聯隊(昭和17年1月19日、隷下に。スンバワ、バリ、ロンボック各島)
獨立自動車第四十五大隊
南方第五陸軍病院(昭和17年8月26日、第百兵站病院を改編。ジャカルタ)
 同 第一分院(昭和17年9月6日、開院。バンドン)
 同 第二分院(  〃  。チヒマ)
 チサルワ、ガロー、チスルパン療養所
〃 第六陸軍病院(昭和17年1月19日、隷下に。マグラン)
〃 第七陸軍病院(昭和17年9月20日、第百十五兵站病院を改編。パレンバン)
第八防疫給水部(スラバヤ)
第二十四野戰兵器廠(バンドン)
第二十四野戰自動車廠(スラバヤ)
第二十四野戰貨物廠(バタビア)
第一、百十野戰飛行場設定隊

第四十八師團(チモール島クーパン)
第四十八歩兵團司令部( 〃 クーパン)
 臺灣歩兵第一聯隊( 〃 クーパン)
 臺灣歩兵第二聯隊( 〃 ラウテン)
 歩兵第四十七聯隊( 〃 ディリ)
捜索第四十八聯隊( 〃 オッス)
山砲兵 〃     ( 〃 ディリ)
工兵   〃     ( 〃 ラウテン)  
輜重兵 〃
第四十八師團通信隊( 〃 クーパン)
   〃    衛生隊( 〃 ディリ)
   〃    兵器勤務隊( 〃 クーパン)
   〃    第一( 〃 クーパン)、第四野戰病院(スラバヤ)

迫撃第五大隊(昭和17年12月24日、隷下に。チモール島ライバイ)
※第四十八師團隷下中隊以下、及び指揮下部隊は割愛

第十三獨立守備隊(昭和17年9月26日、編成。バンドン)
 獨立守備歩兵第四十八大隊(昭和17年10月31日、編成。ボゴール)
     〃   第四十九大隊( 〃 。チマヒ)
     〃   第五十大隊( 〃 。)
     〃   第五十一大隊( 〃 。)
 獨立山砲兵第五十一大隊( 〃 。)

第十四獨立守備隊(昭和17年9月26日、編成。スラバヤ)
 獨立守備歩兵第五十二大隊(昭和17年10月31日、編成。スラバヤ)
     〃   第五十三大隊( 〃 。ジョグジャカルタ)
     〃   第五十四大隊(  〃。ルマジャン)
     〃   第五十五大隊(  〃。ブスキ)
 獨立山砲兵第五十二大隊( 〃 。)

その他、ジャワ島にあった部隊
爪哇俘虜収容所(昭和17年8月15日、編成。バタビア)
南方軍幹部候補生隊(昭和17年10月21日、編成。バンドン)


7月20日、第十六軍司令部が編制改正されます。

8月1日、第十六軍軍政部は第十六軍軍政監部に改編され、南方軍軍政總監部(7月25日、『南方軍勤務令』改正により南方軍軍政班から改編、軍政總監兼南方軍總参謀長・黒田重徳中将)の管下に入ります。

同日、第十六軍軍政監部は南方における原住民の武装団体育成を認可した『大陸指千百九十六號』に基づき、蘭印軍に所属していたインドネシア人元兵士を対象に隷下部隊の転移による兵力の増強を図るべく、且つ鹵獲兵器を活用し、俘虜解放により在野の脅威となりうる元兵士を囲い込むため我軍の補助兵力として「兵補」(主に兵站部隊に配属され、軍属扱い)の募集を告知、採用を開始します(9月23日、陸軍省は『兵補規程』(陸亞密第三千六百三十六號)を制定、昭和18年4月22日、南方軍總司令部は隷下部隊に『兵補規程 施行細則』を示達、兵補の本格的な募集が開始され、対象者が蘭印軍元兵士に加え一般人にも開放、志願者が殺到し、停戦まで7回募集されジャワ島だけで24,875名が採用されます)。

24日、スンダ列島の戡定を終えた第四十八師團がチモール島に移駐、ガダルカナル島に転進する東方支隊の任務を継承、同島及び小スンダ列島の戡定、警備にあたります。

29日、『大陸命第六百七十六號』により第二師團が第十七軍戦闘序列に編入、9月16日、タンジュンプリオク港を出港、第十七軍に隷属転移しガダルカナル島に向かいます。

9月17日、『大陸命第六百八十八號』により第三十八師團が第十七軍戦闘序列に編入、24日、スマトラ島ベラ湾を出港、第十七軍に隷属転移しラバウルに向かいます。

26日、隷下師團の転出に伴い、ジャワ島の防衛・警備を担当する第十三獨立守備隊(國方慶三少将、4個大隊基幹)がバンドン、第十四獨立守備隊(石谷甚三郎少将、4個大隊基幹)がスラバヤにおいて編成され、隷下に入ります。

10月21日、第十六軍軍政監部は文学者スタン・タクディル・アリシャバナらを招聘しインドネシア語整備委員會を設置、蘭印政府により禁止されていたインドネシア語を公用語として普及させます。
インドネシア語の普及はインドネシア人同士の連携を強化、民族意識を涵養するとともに後の独立運動に多大な影響を与えました。

11月3日、第十六軍軍政監部は『治政令第十六號 州名改正ノ件』により、バタビア特別市は旧称に因みジャカルタ特別市に改称(12月9日から施行。その他多数の地名が随時オランダ式からインドネシア式に復称)します。

昭和18(1943)年1月7日、『軍令陸甲第百十一號』によりモルッカ諸島防衛を任務とする第十九軍(富永信政中将、アンボン)が編成され、チモール島の第四十八師團が第十六軍戦闘序列を解かれ隷属転移します。

5月31日、大本營政府聯絡會議において「大東亞政略指導大綱」が決議され、インドネシア人の政治参与が決せられます。
6月16日、東條英機首相によりインドネシア人の1年以内の政治参与認可が発表され、8月1日、第十六軍軍政監部はインドネシア人による軍政諮問機関を設置、参与制度および高級行政官への任用を開始します。

10月3日、第十六軍軍政監部は兵力増強を図るとともに、インドネシア側からの独立後のオランダの再侵攻に備えるための軍備の要求から、ガトット・マンクプラジャ等独立運動家の建白書を受領、爪哇郷土防衞義勇軍(Tentara Pembela Tanah Air:PETA(ペタ))の編成を開始します。
16日、昭和18年1月8日に開場し、インドネシア人諜報戦要員を養成していたインドネシア特殊要員養成隊(秘匿名称:タンゲラン青年道場。柳川宗成中尉)を義勇軍幹部錬成隊(ボゴールに移転)に改編(昭和19年4月1日、義勇軍幹部教育隊に改編)、各種訓練を開始します。
12月20日、第一次爪哇郷土防衞義勇軍が編成完結、錬成隊修了者により各地に35個大團が編成されます(昭和19年4月、第二次、同5月、第三次編成完結、停戦までに66個大團、36,000名が入隊)。
爪哇郷土防衞義勇軍は兵補とともにインドネシア人がオランダ植民地時代に絶対に得る事の出来なかった権利(自前の軍事組織)であり、昭和20(1945)年8月17日から始まる、オランダ、イギリスとの独立戦争においてインドネシア側の中核として戦う事になります。

11月16日、『軍令陸甲第百六號』により第十三獨立守備隊はバンドンにおいて獨立混成第二十七旅團(國方慶三少将)、第十四獨立守備隊はマランにおいて獨立混成第二十八旅團(岩部重雄少将)に改編、夫々の隷下大隊、砲兵隊も改編され工兵隊、通信隊が編成されます(昭和19年1月10日、編成完結)。

【 第十六軍戦闘序列 】(昭和18年11月16日)
第十六軍司令部(ジャカルタ)
戰車第四聯隊(チモール島クーパン)
野戰高射砲第三十二大隊(スラバヤ)
野戰高射砲第四十八大隊
獨立工兵第三聯隊
第四鐡道輸送司令部(バンドン)
電信第十五聯隊(ジャカルタ)
第十六軍憲兵隊(ジャカルタ)

第四十八兵站警備隊
自動車第二十八聯隊(ジャカルタ)
獨立自動車第四十五大隊
第十八野戰郵便隊
南方第五陸軍病院(ジャカルタ)
 同 第一分院(バンドン)
 同 第二分院(チヒマ)
 チサルワ、ガロー、チスルパン療養所
同第六陸軍病院(マゲラン)
 コペン患者療養所(昭和18年5月15日、開所)
 第十六軍體力鍛錬所(昭和18年8月1日、開所)
同第七陸軍病院(スラバヤ)

第八防疫給水部(チモール島クーパン)
第十六軍野戰兵器廠(昭和18年1月20日、第二十四野戰兵器廠から改称。ジャカルタ)
第十六軍野戰自動車廠(昭和18年1月30日、第二十四野戰自動車廠から改称。スラバヤ)
第十六軍野戰貨物廠(第二十四野戰貨物廠から改称。ジャカルタ)
第一、百十野戰飛行場設定隊

獨立混成第二十七旅團(バンドン)
 獨立歩兵第百五十大隊(獨立守備歩兵第四十八大隊改編。ボゴール)
   〃  第百五十一大隊( 〃 第四十九大隊改編。チマヒ)
   〃  第百五十二大隊(、 〃 第五十大隊改編。)
   〃  第百五十三大隊( 〃 第五十一大隊を改編。バニロマス、ペカロンガン)
 獨立混成第二十七旅團砲兵隊
      〃        工兵隊
      〃        通信隊(昭和18年12月6日、改編)

獨立混成第二十八旅團(マラン)
 獨立歩兵第百五十四大隊(獨立守備歩兵第五十二大隊を改編。スラバヤ)
   〃  第百五十五大隊( 〃 第五十三大隊を改編。ジョグジャカルタ)
   〃  第百五十六大隊( 〃 第五十四大隊を改編。マラン)
   〃  第百五十七大隊( 〃 第五十五大隊を改編。ブスキ)
 獨立混成第二十八旅團砲兵隊(ペカロンガン)
      〃        工兵隊(昭和18年12月4日、盛岡で編成。スラバヤ)
      〃        通信隊(昭和18年12月16日、弘前で編成。スラバヤ)

その他、ジャワ島にあった部隊
爪哇俘虜収容所(ジャカルタ)
南方軍幹部候補生隊(歩兵・歩兵砲隊:スマラン、砲兵隊:サラテガ、工兵・輜重兵隊:マゲラン)
南方軍野戰造兵廠(昭和18年10月25日、編成。バンドン)
南方燃料技術研究所(昭和19年6月10日編成。バンドン)
爪哇燃料工廠(昭和17年5月10日、サイゴンで編成。スラバヤ)
  〃     作井中隊(昭和19年4月10日隷下に。エナンジョン油田)
爪哇防衞義勇軍幹部練成隊(昭和18年10月16日、インドネシア特殊要員養成隊を改編。ボゴール)


昭和19(1944)年3月27日、『大陸命九百七十七號』により南方軍戦闘序列が更改され、第十六軍は第七方面軍(3月17日、編成下令、15日、編成完結。土肥原賢二大将、昭南)戦闘序列に隷属転移します。

5月24日、第七方面軍司令部は第十六軍に対し、敵の侵攻に際し外南洋方面の海軍、及び航空部隊と協同し敵を洋上で撃破、万が一敵のジャワ海侵攻を許した際は西部ジャワ、特にジャカルタ、バンドン、マラン、スラバヤを重点防衛する事を下達します。
第十六軍は第七方面軍の作戦計画に則り、東部ジャワを獨立混成第二十八旅團、中部ジャワを獨立混成第二十七旅團の一部、南方軍幹部候補生隊、西部ジャワを獨立混成第二十七旅團の担任地区として部署しますが、陸上戦闘能力しか有しない事に鑑み、バンドン周辺の高原地帯を主抵抗陣地とし、遊撃戦用の拠点陣地を各地に築城、敵迎撃訓練を開始します。

28日、第一回兵補の採用を開始、隷下部隊に配属されます。

9月7日、小磯國昭首相は将来の東印度(インドネシア)の独立を承認(第八十五回帝國議會『小磯声明』)します。

昭和19(1944)年7月7日サイパン島守備隊が玉砕、8月2日、テニアン島守備隊が玉砕、11日、大宮島(グアム)守備隊が玉砕するなど、相次いで南洋群島を失陥、10月20日、米軍がレイテ島に上陸、昭和20(1945)年1月9日、米軍がルソン島に上陸を開始、南方資源地帯と本土との海上輸送路が途絶するに至り、東印度の戦略的価値は急速に失われていきます。

昭和20(1945)年3月、南方軍幹部候補生隊は教育を中止、戦力化されジャワ中部の防衛にあたります。

6月10日、ジャワ中部の防衛強化のため、第十六軍中部防衞隊(爪哇中部地區隊。中村孝次少将)の編成に着手します(停戦時、編成未完)。

4月29日、獨立準備調査會(スカルノ、ハッタ、アフマッド・スバルジョ等70名)が発足、7月17日、最高戰爭指導會議は南方軍總司令官・寺内寿一大将に対し『東印度獨立措置ニツイテ』通達を発し、東印度独立に関する意見を求めます。
寺内大将は獨立準備委員會の設置と準備完了次第の東印度全域の独立を8月7日1200に発表し、独立を9月7日に予定する旨を東京に返信、併せてと第十六軍司令部に示達し、8月7日、調査會は獨立準備委員會に移行(正式発足は8月17日に予定)、我が国はインドネシア全域の独立を認可します。

10日、南方軍總司令部はワシントン発の放送を傍受、非常最悪の事態(敗戦)が切迫している事を察知、11日、寺内大将は委員會委員長・スカルノ、副委員長・ハッタ、議長・ラジマン・ウェディアディニングラットの3名を軍總司令部(ダラット)に招致、夫々に辞令を交付するとともに、インドネシア独立の認可を告知、余剰兵器・資材の譲渡を約し、14日、3名はジャカルタに帰着、第十六軍司令官・長野祐一郎中将にダラットでの結果を報告します。

8月15日1200、第十六軍は『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝しますが、南方軍總司令部より無許可での敵側との交渉禁止、侵攻して来る敵の撃破、及び「大陸命第千三百八十一號」に基づく進攻作戦の中止を受命します。

16日、第十六軍参謀長・山本茂一郎少将は他の南方軍隷下方面軍、軍参謀長とともに南方軍總司令部に招集され、寺内大将より「承詔必謹」、進攻作戦の中止、及び停戦を下達され、東印度の大半は連合国東南アジア軍司令部(ルイス・マウントバッテン英国海軍大将、ラングーン)の管下に移譲されます。

17日1000、スカルノは独立急進派に迫られ自邸前庭に集まった1,000名程の立会を得て『インドネシア独立宣言書』を読み上げ、スカルノを大統領、ハッタを副大統領とするインドネシア共和国を樹立します。

18日、東南アジア軍司令部の進駐に際して設備の現状維持、治安の維持、武装解除の示達に則り第七方面軍司令部は隷下部隊の兵補、各郷土防衞義勇軍の解散を下達し、19日、第十六軍は爪哇郷土防衞義勇軍を解散し武装解除、兵器・弾薬を回収、25日、兵補を解散します。

21日、第十六軍はインドネシア共和国政府に治安維持の権限を移譲、22日、共和国政府布告により人民治安団が新設され、元爪哇郷土防衞義勇軍、元兵補らを雇用、急進化する青年層を取り込みつつジャワ全土の治安維持にあたりますが、各地にBKR、アンカロンムダ、コミテナショナルなど非正規の武装集団が現出、進駐軍との戦闘に備え各地で武器弾薬、糧秣の強奪が頻発します。

23日、第十六軍は南方軍總司令部より作戰任務の解除を下令され、隷下部隊を各屯営に集結、連合軍俘虜・抑留者の保護を中心に治安維持にあたります。

26日、東南アジア軍司令官官邸(ラングーン)において同軍司令官代理・フレデリック・ブロウニング中将(同軍参謀長)と南方軍總司令官代理・沼田多稼蔵中将(南方軍總参謀長)が会談、27日1825、暫定降伏文章の写しに調印、9月12日、昭南島(シンガポール)市庁舎において板垣征四郎大将(第七方面軍司令官。病気療養中の寺内大将の代理)、木村兵太郎大将(緬甸方面軍司令官)、中村明人中将(第十八方面軍司令官)、木下敏中将(第三航空軍司令官)、沼田多稼蔵中将、福留繁中将(第十方面艦隊司令長官)、柴田彌一郎中将(第二南遣艦隊司令長官)の7名が出席し降伏文章への調印式が挙行されます。

9月1日、第四十八師團以下チモール島所在部隊は第二軍(豐嶋房太郎中将、セレベス)の指揮下に編入され、10月3日、師團長・山田國太郎中将はクーパンにおいて豪軍への降伏文章に調印します。

9月8日、東南アジア軍捕虜救恤隊がジャカルタに上陸、連合軍俘虜・抑留者の保護、移送に関する調査を開始、25日、英印軍先遣隊、29日、英印軍主力(フィリップ・クリスティソン陸軍中将)がジャカルタに上陸、10月1日、第十六軍司令官・長野祐一郎中将は降伏文章に調印、ジャカルタに英・蘭連合軍(AFNEI)司令部(クリスティソン中将)が開設されます。

【 第十六軍戦闘序列 】(昭和20年8月16日)
第十六軍司令部(ジャカルタ)
戰車第四聯隊(チモール島クーパン)
第十六軍司令部八木部隊松島隊(昭和20年8月25日、第五師團歩兵第十一聯隊第三大隊を改編。ボゴール)
野戰重砲兵第十二大隊
野戰高射砲第三十二大隊(スラバヤ)
野戰高射砲第七十二大隊(スンバロ島)
迫撃第五大隊(ジャカルタ)
第十六軍憲兵隊(ジャカルタ)

第十六軍中部防衞隊(編成未完)
 第十六軍臨時獨立歩兵大隊(昭和20年4月30日編成。プルオクルト)
  〃   特設歩兵第一大隊(編成未完)
  〃   特設歩兵第五大隊(編成未完)
 爪哇郷土防衞義勇軍第四地區隊司令部(爪哇郷土防衞義勇軍16個大團)

第四鐡道輸送司令部(バンドン)
電信第十五聯隊(ジャカルタ)
自動車第二十八聯隊(ジャカルタ)
第百九兵站病院(スンバワ島)
南方第五陸軍病院(ジャカルタ)
 同 第一分院(バンドン)
 同 第二分院(チヒマ)
 チサルワ、ガロー、チスルパン療養所
同第六陸軍病院(マゲラン)
 コペン患者療養所
 第十六軍體力鍛錬所
同第七陸軍病院(スラバヤ)
第八防疫給水部
第十六軍野戰兵器廠(ジャカルタ)
第十六軍野戰自動車廠(スラバヤ)
第十六軍野戰貨物廠(ジャカルタ)

第四十八師團(チモール島クーパン)・・・1945年(昭和20年)2月28日、第十九軍廃止に伴い転移。
第四十八歩兵團司令部(昭和20年8月2日、復帰)
 臺灣歩兵第一聯隊(スンバワ島ラバ)
 臺灣歩兵第二聯隊(チモール島ラウテン)
 歩兵第四十七聯隊( 〃 ディリ)
捜索第四十八聯隊( 〃 オッス)
山砲兵 〃     ( 〃 ディリ)
工兵   〃     ( 〃 ラウテン)  
輜重兵 〃
第四十八師團通信隊( 〃 クーパン)
   〃    衛生隊( 〃 ディリ)
   〃    兵器勤務隊( 〃 クーパン)
   〃    第一( 〃 アンボン)、第四野戰病院(チモール島)
※第四十八師團隷下中隊以下、及び指揮下部隊は割愛

獨立混成第二十七旅團(バンドン)
  獨立歩兵第百五十大隊(ボゴール)
    〃  第百五十一大隊(チマヒ)
    〃  第百五十二大隊
    〃  第百五十三大隊(マヂャルンカ、クドンブレデル)
 獨立混成第二十七旅團砲兵隊
      〃        工兵隊
      〃        通信隊

獨立混成第二十八旅團(スラバヤ)
 獨立歩兵第百五十四大隊(スラバヤ、マドウラ、チバトー)
   〃  第百五十五大隊(ジョグジャカルタ)
   〃  第百五十六大隊(マラン)
   〃  第百五十七大隊(ブスキ)
 獨立混成第二十八旅團砲兵隊(クドンプレデル)
       〃       工兵隊(スラバヤ)
       〃       通信隊(スラバヤ)

その他、ジャワ島にあった部隊
爪哇俘虜収容所(ジャカルタ)
南方軍幹部候補生隊(歩兵・歩兵砲隊:スマラン、砲兵隊:サラテガ、工兵・輜重兵隊:マゲラン)
南方軍野戰造兵廠(バンドン)
南方燃料技術研究所(バンドン)
爪哇燃料工廠(スラバヤ)
爪哇防衞義勇軍幹部教育隊(昭和19年4月1日、爪哇防衞義勇軍幹部練成隊を改称。ボゴール)


10月末までにジャカルタ、バンドン、スラバヤ、スマランに英印軍、蘭軍が進駐、20日、元蘭印政府ファン・モーク副総督がジャカルタに再来、第十六軍より警備活動の移譲を開始します。

10月1日、スラバヤ、3日、スラカルタ、ジョグジャカルタ、マゲラン、マディウンにおいて第十六軍隷下部隊の武装解除が行われます(進駐軍の兵力は少なく、一部では引き続き我軍が警備にあたります)。
以降、我軍将兵、在留邦人は各地の収容所に抑留され作業隊として使役されますが、開戦劈頭に我軍に敗れ、または俘虜として抑留された報復から各地で我が将兵に対する虐待が発生、特に蘭軍の違法行為は顕著でした。

5日、オランダの再侵攻を警戒する共和国は元爪哇郷土防衛義勇軍を基幹に人民治安軍の新設を布告(8日、設立)します。
共和国側は進駐軍との戦闘に備え、8月末頃よりジャワ島各地で第十六軍隷下、指揮下、及び海軍部隊からの武器弾薬、物資の譲渡を要求しますが、英・蘭軍の進駐が進むにつれ共和国側の要求は激化、我軍は連合軍により共和国側への軍需品の譲渡禁止と治安維持を命じられていたため、要求を拒絶したバンドン、プシン、ガルー、ブカシ、スマランなどで武力衝突が発生、双方に犠牲者が発生してしまいます。
一方で現地の判断から武器弾薬を譲渡する部隊もあり、共和国側に航空機、火砲、小銃、車両多数が渡り、独立戦争に活用されます。

25日、英第49旅団がスラバヤ市民に対し武器供出を指示したため、インドネシア人は宣戦布告と受け止め、29日、スラバヤで英印軍と交戦、インドネシア独立戦争が勃発します。
独立戦争の勃発により各地で連絡が途絶、第十六軍隷下部隊将兵、在ジャワ邦人は共和国側の抑留下に置かれますが、南方軍と東南アジア軍、第十六軍と英印軍が協力、共和国側の援助もあり安全が確保され、復員に向け逐次レンバン島、ガラング島やスンバワ島など集結地に移送されます。
独立戦争が激化する中、約2,000名を超える元帝國陸海軍将兵が元爪哇郷土防衞義勇軍の生徒に請われ、また自発的に東亜開放を目指すなどして兵営を脱し、インドネシア独立を目指し共和国側に参加、英軍、蘭軍と戦います。
昭和24(1949)年12月27日、国際世論の避難を浴びオランダはハーグ円卓会議においてインドネシア共和国の独立を承認、最植民地化を目論むオランダとの4年に渡る独立戦争により約1,000名の日本人将兵が散華してしまいました。

11月、東南アジア軍による戦犯訴追が開始されますが、その内容は杜撰極まりなく裁判の名を借りた報復劇であり、多くの日本人が戦犯の汚名を着せられ処刑されました。
特に開戦劈頭、我軍により無残な敗北を遂げたイギリス、オランダの報復は顕著で実態が不明なソ連(2,689名が戦犯として訴追)、中国共産党の人民裁判(3,500名が処刑)を除くと処刑者は英国が281名(最多/被告978名)、オランダが236名(2位/被告1,038名)でした。
原田熊吉中将
▲第2代 第十六軍司令官 原田熊吉中将(陸士二十二期 陸大二十八期)
 司令官時代は軍政に力を入れ独立準備を推進しました。
 豪軍搭乗員3名処刑の責任者として昭和21年10月25日、
 シンガポール法廷(英・豪軍)で死刑判決を受け、
 昭和22年2月25日、戦犯の汚名を着せられ法務死。
 「みんなみの はなと此身は散りゆかむ 君のためなり 何ぞおしまむ」
 「今ぞたち 天かけりても大君の みまへにかへり つかへまつらむ」
 「南溟の 嵐に花と散りぬれど 君のためなり とはにかほらむ」
 「君がため 花と散れりと世に宣べよ 海をわたりて かへるみつばめ 」
 の辞世4首を残し、刑場に散りました。

昭和21(1946)年5月、南方軍の第一次復員が開始され、集結地より逐次内地への復員が開始されます。
しかし、ビルマ、馬來方面では燃料不足やイギリスの東南アジアにおける労働力確保の方針から、約10万名が強制労働に従事させられ、昭和23(1948)年1月3日、最後の復員船が本土に帰還しました。

【 歴代 第十六軍司令官 】
今村均 中将 (昭和16(1941)年11月6日~昭和17(1942)年11月8日)
原田熊吉 中将 (昭和17(1942)年11月9日~昭和20(1945)年4月6日)
長野祐一郎 中将 (昭和20(1945)年4月7日~11月3日)


主要参考文献
『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『太平洋戦争師団戦史』(平成8年5月 新人物往来社)

『太平洋戦争戦闘地図』(平成8年2月 新人物往来社)

『あの戦争 太平洋戦争全記録(上)・(下)』(平成13年8・10月 牧野弘道著 産経新聞社)

『大東亜戦争とインドネシア 日本の軍政』(平成14年9月 加藤裕著 朱鳥社)

『インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実』(平成18年11月 桜の花出版)

日本占領期インドネシアにおける現地人兵士たち:兵補』(平成9年12月 前川佳遠理)

阿部知二とインドネシア体験(一) -その事実を巡って-』(木村一信)

日本降伏後における南方軍の復員過程』 (平成23年3月 増田弘)

アジア歴史資料センター史料各種
 第十六軍関連
 爪哇上陸作戦各種
 爪哇方面部隊略歴
 小スンダチモール方面部隊略歴 他

-webサイト-
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
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