当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第十六軍軍政監部

インドネシア共和国の国都ジャカルタ市の中心地、独立記念広場に隣接して第十六軍軍政監部がありました。
第十六軍軍政監部 庁舎 北から(インドネシア)
▲第十六軍軍政部(第十六軍軍政監部)庁舎

【探索日時】
平成24年4月15日






独立記念広場周辺の帝國陸海軍施設
独立記念広場はオランダ植民地時代「Koningspiein(王宮広場)」と呼ばれ、周辺にはオランダの公官庁、企業社屋が並んでいました。
昭和17(1942)年3月12日、蘭印を攻略した第十六軍はこれらオランダ植民地政府の建物を接収、各部隊の施設として転用しました。
第十六軍司令部 ジャカルタ(インドネシア)
▲昭和18(1943)年頃の独立記念広場周辺の配置
※緑文字が当記事の紹介施設
①第十六軍司令部
②第十六軍司令官官邸
第十六軍軍政部(昭和17年8月1日、第十六軍軍政監部に改編)
第十六軍憲兵隊本部
第十六軍将校集会所
第十六軍宣傳班
(昭和17年7月、第十六軍報道部に改称)
⑦ジャカルタ在勤海軍武官府
⑧ジャカルタ在勤海軍武官官邸


遺構について※青字は地図にリンクしています。
(番号・遺構配置は上掲地図参照)
③ 第十六軍軍政部
   第十六軍軍政監部

昭和17(1942)年3月1日、第十六軍はジャワ島3ヶ所に上陸、5日、第二師團佐藤支隊がバタビア(現、ジャカルタ)を攻略、7日、第三十八師團東海林支隊がバンドンに急進、8日、蘭印軍は降伏、次いで12日、英豪軍が降伏、H作戰(蘭印攻略作戦)は終結、350年に渡るオランダによる東インドの植民地支配は現地人の助力もあり、我軍による僅か8日間の進撃で終焉を迎えます。

陸軍省は東印度を大東亜戦争完遂のための最重要資源地帯と位置付け、3月7日、第十六軍軍政部(昭和17年8月1日、第十六軍軍政監部に改編)はジャワ島に軍政を施行します。

東印度攻略後、第十六軍は投獄されていた独立運動家のスカルノ、モハメド・ハッタなどを開放、軍政への協力を得、数々の政策を実施、文化、宗教上の違いから現地には受け入れ難い政策、戦局の悪化による現地人への負担増もありましたが、現地人への軍事教練、及び軍の編成、現地人の官吏登用による政治参与、中等教育の普及、インドネシア語の公用化、組織力の育成、経営力の養成、民族意識の涵養など植民地時代には決して得ることの出来なかった権利を認めるとともに現地人の民度向上に務め、後の独立の素地にもなる施策を数多く実施しました。

第十六軍はバタビア(現、ジャカルタ)攻略後、司令部庁舎としてバターフセ・オイル社(Bataafsche Petroleum Maatstchappij)事務所を転用、ジャワ島は主戦場から外れたため大東亜戦争停戦まで使用します。

現在は国営石油企業プルタミナ(旧本館)として使用されています。
第十六軍軍政監部 庁舎 南西上空から(インドネシア)
▲南西上空から見た第十六軍軍政監部庁舎
 くの字型をしているのが分かります。

第十六軍軍政監部 庁舎 北西から (2)(インドネシア)
▲北西から
 北西隅に塔がありますが、当時の物かは不明です。
 奥のビルが現在のプルタミナ社屋です。

第十六軍軍政監部 庁舎 北西から(インドネシア)
▲北西からの近影

第十六軍軍政監部 庁舎 南西から(インドネシア)
▲南西から
 熱帯のため樹木が生い茂り見通しが悪いです。

第十六軍軍政監部 庁舎 北東から (2)(インドネシア)
▲北東から

第十六軍軍政監部 庁舎 北東から(インドネシア)
▲北東からの近影
 営業中の企業のため、この位置からの撮影が限界です。

第十六軍軍政監部 東側の建物 北から(インドネシア)
▲庁舎東側にある建物
 造りから当時の物と思われます。


④ 第十六軍憲兵隊本部
昭和16(1941)年7月16日、關東憲兵隊教習隊(新京)において第三野戰憲兵隊が編成完結、昭和17(1942)年1月22日、第十六軍隷下に隷属転移、台湾高雄に集結します。
3月1日、第十六軍隷下に中隊ごとに配備されH作戰(蘭印攻略作戦)に参加、5日、国都バタミア攻略後、現地警察官を指揮し敗残兵の補足、物資の接収管理、重要資源の確保、現地人による略奪防止、治安維持、連合軍側要人の抑留を実施します。
昭和17(1942)年8月31日、第十六軍憲兵隊に改編、各地に憲兵分隊、同分遣隊を配置し停戦までジャワ島の治安維持にあたりました。

現在はインドネシア国防省になっており、遺構は遺されていない様です。


⑤ 第十六軍将校集会所
現在は健康研究所になっており、遺構は遺されていない様です。


⑥ 第十六軍宣傳班
  第十六軍情報部

昭和16(1941)年10月1日、第十六軍司令部の編成下令、11月5日、第十六軍司令部編成完結、6日、『大陸命第五百五十五號』により第十六軍(今村均中将)戦闘序列が下令されます。
第十六軍司令部編成後、宣傳班(町田敬二中佐)は陸軍畫報社・中山正男社長を介し滿洲滞在中の評論家・大宅壮一を招聘し3名は人選を開始、陸軍畫報社編集次長・金子智一、作家の阿部知二、富澤有為男、活動弁士の松井翠声、詩人の大木惇夫、漫画家の横山隆一、小野佐世男等の各氏約250名を陸軍報道班員として選抜します。

昭和17(1942)年3月1日、第十六軍はジャワ島3ヶ所に上陸、5日、第二師團佐藤支隊がバタビア(現、ジャカルタ)を攻略、7日、第三十八師團東海林支隊がバンドンに急進、8日、蘭印軍は降伏、次いで12日、英豪軍が降伏、H作戰(蘭印攻略作戦)は終結、350年に渡るオランダによる東インドの植民地支配は現地人の助力もあり、我軍による僅か8日間の進撃で終焉を迎えます。

昭和17年7月、宣傳班は報道部に改称、インドネシア人に大東亜戦争の意義を周知させるべく新聞発刊、ラジオ等報道、教育を実施、また東インドの学術、文化の調査、保護、及び指導から、現地の軍の活躍を内地に伝えました。

現在は道路になっており、遺構は遺されていない様です。


部隊沿革
第十六軍軍政部
第十六軍軍政監部
(爪哇軍政監部)
昭和16(1941)年10月1日、第十六軍司令部の編成下令、11月5日、第十六軍司令部編成完結、6日、『大陸命第五百五十五號』により第十六軍(今村均中将)戦闘序列を下令、軍司令部は東京において編成され、南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、15日、第十六軍は南方軍に隷属転移します。

我が国は外交交渉による戦争回避を図りますが、26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年1月4日、第十六軍司令部は大阪港を出港、9日、台湾基隆に上陸、1月20日、南方軍總司令部より『H作戰』(ジャワ攻略作戦)下令、2月1~6日、第十六軍主力が第五水雷戰隊(原顕三郎少将:名取、駆逐艦8隻)の護衛のもと高雄を出航、10・11日、カムラン湾に集結、18日1000、第十六軍主力(第二師團、東海林支隊基幹)が第一次輸送船團(輸送船56隻)により第五水雷戰隊の護衛のもとカムラン湾を出航、
3月1日、ジャワ島西端のアウラン岬、メラク、及びエレンタ、パトロール付近、東端クラガンに上陸、5日、国都バタミア、6日、ボイデンゾルグを攻略、8日、スラバヤ、7日、蘭印軍の篭もるバンドン要塞に急進、8日、蘭印軍が降伏、12日、バンドン東方の英豪軍8,000名が降伏し、全連合軍が降伏します。

東印度は南方軍は元より海軍、そして我が国が大東亜戦争を完遂するうえで最も重要な資源生産地として位置付けられ、7日、蘭印軍の降伏の意志を受け、第十六軍はバタビアに軍政部(第十六軍参謀長兼軍政部長・岡崎清三郎少将)を開設、『大日本軍司令官 布告第一號』を布告、ジャワ島を直轄領として『南方占領地行政実施要領』(昭和16年11月12日、大本營政府聯絡會議)に基づき軍政を施行します。

ジャワ全島を攻略した第十六軍はジャワ島のスカブミに幽閉されていた独立運動家のモハメド・ハッタ、次いでスマトラ東部のベンクーレンでスカルノを探索し解放、バタビアに招致、スカルノらは「プートラ(民衆総力結集運動」を結成、インドネシア独立の準備段階として、我が軍政に協力する事を確約します。

第十六軍軍政部は南方軍参謀部第三課軍政班の統制指導を受け、重要事項に関しては大本營政府聯絡會議により決定されました。

7月25日、『南方軍勤務令』改正により南方軍軍政班は南方軍軍政總監部に改編(南方軍總参謀長兼軍政總監・黒田重徳中将)、8月1日、第十六軍軍政部は第十六軍軍政監部に改編され南方軍隷下部隊による軍政が体系化されます。

第十六軍軍政監部には総務、内政、警務、司法、財政、産業、交通、軍政会計監督、敵産管理の9部、調査研究機関を置き、外局として通信、陸運、宣伝、放送班等、地方機関として従来の省(3省)を廃止し各州(17州)に長官、王侯州には事務局長官を配置、軍政部、及び地方機関の高官は軍政要員(日本人軍人、文官)を、下級官吏、県以下の官吏は主にインドネシア人を採用し充当しました。
軍政における命令系統は陸軍大臣(-南方政務局)-南方軍總司令官-南方軍軍政總監部-隷下軍司令官-隷下軍軍政監部-各州長官(事務局長官)になります。

8月1日、第十六軍軍政監部は南方における原住民の武装団体育成を認可した『大陸指千百九十六號』に基づき、蘭印軍に所属していたインドネシア人元兵士を対象に隷下部隊の転移による兵力の増強を図るべく、且つ鹵獲兵器を活用し、俘虜解放により在野の脅威となりうる元兵士を囲い込むため我軍の補助兵力として「兵補」(主に兵站部隊に配属され、軍属扱い)の募集を告知、採用を開始します(9月23日、陸軍省は『兵補規程』(陸亞密第三千六百三十六號)を制定、昭和18年4月22日、南方軍總司令部は隷下部隊に『兵補規程 施行細則』を示達、兵補の本格的な募集が開始され、対象者が蘭印軍元兵士に加え一般人にも開放、志願者が殺到し、停戦まで7回募集されジャワ島だけで24,875名が採用されます)。

15日、南方軍總司令部により『軍政令』が施行され、軍政関連の法令が体系化されます。

10月21日、文学者スタン・タクディル・アリシャバナらを招聘しインドネシア語整備委員會を設置、蘭印政府により禁止されていたインドネシア語を公用語として普及させます。
インドネシア語の普及はインドネシア人同士の連携を強化、民族意識を涵養するとともに後の独立運動に多大な影響を与えました。

11月3日、『治政令第十六號 州名改正ノ件』により、バタビア特別市は旧称に因みジャカルタ特別市に改称(12月9日から施行。その他多数の地名が随時オランダ式からインドネシア式に復称)します。

昭和18(1943)年5月31日、大本營政府聯絡會議において「大東亞政略指導大綱」が決議され、インドネシア人の政治参与が決せられます。
6月16日、東條英機首相によりインドネシア人の1年以内の政治参与認可が発表され、8月1日、第十六軍軍政監部はインドネシア人による軍政諮問機関を設置、参与制度および高級行政官への任用を開始します。

10月3日、兵力増強を図るとともに、インドネシア側からの独立後のオランダの再侵攻に備えるための軍備の要求から、ガトット・マンクプラジャ等独立運動家の建白書を受領、爪哇郷土防衞義勇軍(Tentara Pembela Tanah Air:PETA(ペタ))の編成を開始します。
16日、昭和18年1月8日に開場し、インドネシア人諜報戦要員を養成していたインドネシア特殊要員養成隊(秘匿名称:タンゲラン青年道場。柳川宗成中尉)を義勇軍幹部錬成隊(ボゴールに移転)に改編(昭和19年4月1日、義勇軍幹部教育隊に改編)、各種訓練を開始します。
12月20日、第一次爪哇郷土防衞義勇軍が編成完結、錬成隊修了者により各地に35個大團が編成されます(昭和19年4月、第二次、同5月、第三次編成完結、停戦までに66個大團、36,000名が入隊)。
爪哇郷土防衞義勇軍は兵補とともにインドネシア人がオランダ植民地時代に絶対に得る事の出来なかった権利(自前の軍事組織)であり、昭和20(1945)年8月17日から始まる、オランダ、イギリスとの独立戦争においてインドネシア側の中核として戦う事になります。

昭和19(1944)年3月27日、『大陸命九百七十七號』により南方軍戦闘序列が更改され、第十六軍は第七方面軍(3月17日、『軍令陸甲第三十七號』により編成下令、15日、編成完結。土肥原賢二大将、昭南)戦闘序列に隷属転移します。
第七方面軍の新設に伴い南方軍軍政總監部は組織ごと第七方面軍軍政監部(第七方面軍参謀長兼軍政監・清水規矩中将)に転移、南方軍軍政總監部は閉鎖され再び南方軍参謀部第三課軍政班に縮小されます。
組織上、南方軍参謀部第三課軍政班は南方における軍政の最高統括機関でしたが、実質は第七方面軍軍政監部が担当します。

5月28日、第一回兵補の採用を開始、隷下部隊に配属されます。

9月7日、小磯國昭首相は将来の東印度(インドネシア)の独立を承認(第八十五回帝國議會『小磯声明』)します。

昭和19(1944)年7月7日サイパン島守備隊が玉砕、8月2日、テニアン島守備隊が玉砕、11日、大宮島(グアム)守備隊が玉砕するなど、相次いで南洋群島を失陥、10月20日、米軍がレイテ島に上陸、昭和20(1945)年1月9日、米軍がルソン島に上陸を開始、南方資源地帯と本土との海上輸送路が途絶するに至り、東印度の戦略的価値は急速に失われていきます。

昭和20(1945)年1月22日、『陸亞機密第四十二號』により第七方面軍軍政監部は第七方面軍軍政總監部に改編します。

4月29日、獨立準備調査會(スカルノ、ハッタ、アフマッド・スバルジョ等70名)が発足、7月17日、最高戰爭指導會議は南方軍總司令官・寺内寿一大将に対し『東印度獨立措置ニツイテ』通達を発し、東印度独立に関する意見を求めます。
寺内大将は獨立準備委員會の設置と準備完了次第の東印度全域の独立を8月7日1200に発表し、独立を9月7日に予定する旨を東京に返信、併せてと第十六軍司令部に示達し、8月7日、調査會は獨立準備委員會に移行(正式発足は8月17日に予定)、我が国はインドネシア全域の独立を認可します。

10日、南方軍總司令部はワシントン発の放送を傍受、非常最悪の事態(敗戦)が切迫している事を察知、11日、寺内大将は委員會委員長・スカルノ、副委員長・ハッタ、議長・ラジマン・ウェディアディニングラットの3名を軍總司令部(ダラット)に招致、夫々に辞令を交付するとともに、インドネシア独立の認可を告知、余剰兵器・資材の譲渡を約し、14日、3名はジャカルタに帰着、第十六軍司令官・長野祐一郎中将にダラットでの結果を報告します。

8月15日1200、第十六軍は『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝しますが、南方軍總司令部より無許可での敵側との交渉禁止、侵攻して来る敵の撃破、及び「大陸命第千三百八十一號」に基づく進攻作戦の中止を受命します。
同日、ジャカルタに「日本降伏」の噂が流れ、真相を確認すべくスカルノとハッタが軍政監(第十六軍参謀長)山本茂一郎少将に面会を求めますが、山本少将は不在だったためスバルジョと合流、ジャカルタ在勤海軍武官府に前田精少将を訪ねます。
前田少将は14:30頃、両名と会見しますが、公式な情報がないという理由で回答を留保します。

16日未明、スカルノとハッタは即時の独立宣言を求める急進派に拉致されたため、長野司令官は第十六軍憲兵隊に命じ探索させますが、同日2300、スバルジョが急進派を説得し両名はジャカルタに帰還、在勤海軍武官官邸に入り、スカルニ、スバルジョ、前田少将、西嶋重忠(海軍嘱託)、さらに招集された独立準備委員会員と独立宣言について会合が開かれます。

前田少将は陸軍側の独立宣言黙認と保証を得るため電話で軍政監・山本少将を招聘しますが、山本少将は窓口として軍政監部総務部長・西村乙嗣少将を指定したため、前田少将はスカルノ、ハッタ、西嶋、吉住留五郎(海軍嘱託)を伴い軍政監部総務部長公邸を訪ねますが、少将はポツダム宣言による現状維持の責務から要請を拒否するも、0200、連絡将校として三好俊吉郎大佐(陸軍司政官)を派遣、会合に参加させ実質陸軍もポツダム宣言に反しインドネシア独立の動きを黙認します。

同日、南方軍總司令部での会議の結果、第十六軍他隷下部隊は寺内大将より「承詔必謹」、進攻作戦の中止、及び停戦を下達され、東印度の大半は連合国東南アジア軍司令部(ルイス・マウントバッテン英国海軍大将、ラングーン)の管下に移譲されます。

17日1000、スカルノは自邸前庭に集まった1,000名程の立会を得て『インドネシア独立宣言書』を読み上げ、スカルノを大統領、ハッタを副大統領とするインドネシア共和国を樹立します。

18日、東南アジア軍司令部の進駐に際して設備の現状維持、治安の維持、武装解除の示達に則り第七方面軍司令部は隷下部隊の兵補、各郷土防衞義勇軍の解散を下達し、19日、第十六軍は爪哇郷土防衞義勇軍を解散し武装解除、兵器・弾薬を回収、25日、兵補を解散します。

21日、第十六軍はインドネシア共和国政府に治安維持の権限を移譲、22日、共和国政府布告により人民治安団が新設され、元爪哇郷土防衞義勇軍、元兵補らを雇用、急進化する青年層を取り込みつつジャワ全土の治安維持にあたりますが、各地にBKR、アンカロンムダ、コミテナショナルなど非正規の武装集団が現出、進駐軍との戦闘に備え各地で武器弾薬、糧秣の強奪が頻発します。

23日、第十六軍は南方軍總司令部より作戰任務の解除を下令され、隷下部隊を各屯営に集結、連合軍俘虜・抑留者の保護を中心に治安維持にあたります。

9月8日、東南アジア軍捕虜救恤隊がジャカルタに上陸、連合軍俘虜・抑留者の保護、移送に関する調査を開始、25日、英印軍先遣隊、29日、英印軍主力(フィリップ・クリスティソン陸軍中将)がジャカルタに上陸、10月1日、第十六軍司令官・長野祐一郎中将は降伏文章に調印、ジャカルタに英・蘭連合軍(AFNEI)司令部(クリスティソン中将)が開設されます。

10月1日、スラバヤ、3日、スラカルタ、ジョグジャカルタ、マゲラン、マディウンにおいて第十六軍隷下部隊の武装解除が行われます(進駐軍の兵力は少なく、一部では引き続き我軍が警備にあたります)。
以降、我軍将兵、在留邦人は各地の収容所に抑留され作業隊として使役されますが、開戦劈頭に我軍に敗れ、または俘虜として抑留された報復から各地で我が将兵に対する虐待が発生、特に蘭軍の違法行為は顕著でした。

25日、英第49旅団がスラバヤ市民に対し武器供出を指示したため、インドネシア人は宣戦布告と受け止め、29日、スラバヤで英印軍と交戦、インドネシア独立戦争が勃発します。
独立戦争が激化する中、約2,000名を超える元帝國陸海軍将兵が元爪哇郷土防衞義勇軍の生徒に請われ、また自発的に東亜開放を目指すなどして兵営を脱し、インドネシア独立を目指し共和国側に参加、英軍、蘭軍と戦います。
昭和24(1949)年12月27日、国際世論の避難を浴びオランダはハーグ円卓会議においてインドネシア共和国の独立を承認、最植民地化を目論むオランダとの4年に渡る独立戦争により約1,000名の日本人将兵が散華してしまいました。

11月、東南アジア軍による戦犯訴追が開始されますが、その内容は杜撰極まりなく裁判の名を借りた報復劇であり、多くの日本人が戦犯の汚名を着せられ処刑されました。
特に開戦劈頭、我軍により無残な敗北を遂げたイギリス、オランダの報復は顕著で実態が不明なソ連(2,689名が戦犯として訴追)、中国共産党の人民裁判(3,500名が処刑)を除くと処刑者は英国が281名(最多/被告978名)、オランダが236名(2位/被告1,038名)でした。

昭和21(1946)年5月、南方軍の第一次復員が開始され、集結地より逐次内地への復員が開始されます。
しかし、ビルマ、馬來方面では燃料不足やイギリスの東南アジアにおける労働力確保の方針から、約10万名が強制労働に従事させられ、昭和23(1948)年1月3日、最後の復員船が本土に帰還しました。

第十六軍軍政部及び軍政監部は『南方占領地行政実施要領』に基づき重要資源の急速獲得、作戦軍の自活を主任務とし、またインドネシアに対し数々の政策を実施します。
大東亜共栄圏内における日本語の共通語化、日の丸の国旗化、日本時間、紀元の使用など直轄地としての政策は別として一神教のイスラーム教徒に対する宮城遥拝の勧奨、一部の日本人による体罰など文化、宗教上の違いから現地には受け入れ難い政策、籾の供出、労務者の募集など戦局の悪化に伴う現地人への負担増もありましたが、体育を目的とした学校教育における体操や集団行動、兵補・爪哇郷土防衛義勇軍など現地人への軍事教練、及び軍の編成、現地人の官吏登用による高度な行政能力、専門職育成方針による技術者の育成、オランダが行った愚民化政策・団体行動の禁止を廃止し中等教育の普及、インドネシア語の公用化、青年團、処女會、婦人會など組織力の育成、経営力の養成、民族意識の涵養など植民地時代には決して得ることの出来なかった権利を認め普及させると伴に、現地人の民度向上に務め、後の独立の素地にもなる施策を数多く実施しました。

【 歴代第十六軍参謀長兼軍政監 】
岡崎清三郎 少将(昭和16(1941)年11月6日~昭和18(1943)年6月9日)
國分新七郎 少将(昭和18(1943)年6月10日~昭和19(1944)年11月13日)
山本茂一郎 少将(昭和19(1944)年11月14日~停戦)


第三野戰憲兵隊
第十六軍憲兵隊
(爪哇憲兵隊)
昭和16(1941)年7月16日、關東憲兵隊教習隊(新京)において第三野戰憲兵隊(久住健三郎中佐、本部・4個中隊:260名)が編成完結、牡丹江市興龍鎮に移駐、教育訓練、実務にあたり、昭和17(1942)年1月3日、動員下令、6日、牡丹江市出発、15日、大連市着、補充を受け、22日、大連市出発、第十六軍隷下に隷属転移、台湾高雄に集結します。

2月1~6日、第十六軍主力とともに高雄を出航、10・11日、カムラン湾に集結、9日、第一中隊(矢島七三郎大尉)は第三十八師團とともにカムラン湾を出航、スマトラ島パレンバンへ(4月8日、本隊復帰)、18日、第十六軍主力とともにカムラン湾を出航、3月1日、本部・第四中隊(谷口清大尉)、第三中隊(須郷季三大尉)は軍主力とともにジャワ島西端のアウラン岬に、第二中隊(小林庄吉大尉)は第四十八師團とともにクラガン上陸、各中隊は前進部隊を追及しつつ敗残兵の補足、撃沈された友軍輸送船から流出する重要書類を回収にあたり、5日、国都バタミアが陥落すると王宮広場南側の法科大学を接収し憲兵隊本部を開設、現地警察官を指揮し敗残兵の補足、物資の接収管理、重要資源の確保、現地人による略奪防止、治安維持、連合軍側要人の抑留を実施します。
6日、ボイデンゾルグが陥落し第三中隊が、8日、スラバヤが陥落し第二中隊本部を開設、7日、蘭印軍の篭もるバンドン要塞に急進、8日、蘭印軍が降伏、12日、バンドン東方の英豪軍8,000名が降伏し、全連合軍が降伏します。

昭和17(1942)年8月31日、第三野戰憲兵隊は第十六軍憲兵隊に改編、以下の様に分隊、分遣隊を配置しジャワ島の治安維持にあたります。
第十六軍憲兵隊(久住健三郎中佐、バタビア) 将校30、准士官以下432、合計522名
 バタビア憲兵分隊(谷口清少佐)-タンジュンプリオク憲兵分遣隊
 セラン〃分隊(尾西久太郎少尉)
 ボゴール〃分隊(谷口武次少尉)-スカブミ〃分遣隊
 バンドン〃分隊(須郷季三大尉)-タンクラマヤ〃分遣隊
 テレボン〃分隊(松岡剛三大尉)-テガール〃分遣隊
 ソロ〃分隊-マデラン〃分遣隊
 プルオケルト〃分隊(加藤道太郎中尉)-チラチャップ〃分遣隊
 ジョグジャカルタ〃分隊(佐藤平吉中尉)-マゲラン〃分遣隊
 スマラン〃分隊(矢島七三郎大尉)-ペカロンガン〃分遣隊
 スラバヤ〃分隊(小林庄吉大尉)-スラバヤ埠頭〃分遣隊
                      -ボジョネゴロ〃分遣隊
 マラン〃分隊(猪山次郎中尉)-ケデリ〃分遣隊
                    -プロポリンゴ〃分遣隊
 ジョンベル〃分隊(和田都重大尉)-バニュワンギ〃分遣隊
 スラカルタ〃分隊(大西勝彦中尉)-マデウン〃分遣隊
                      -ジョグジャ〃分遣隊
特別無線探査隊(吉江安行中尉、昭和19年5月、編成)

第十六軍憲兵隊は少ない人数で広大なジャワ島の治安維持を管掌、元オランダ副総督ファン・モーク夫人を始めとする蘭人による流言飛語、親蘭現地人による赤痢菌感染テロを取り締まりました。
中でも植民地時代に準支配層にあった混血人、華僑は敵性思想が強く、一部は豪軍諜報員と結び度々偽軍票を使用した経済混乱、武装叛乱計画を企てたため、当初は軽微な刑罰で済ませていましたが、首謀者に関し極刑(黄泉から「黄工作」と呼称)で挑まざるを得ませんでした。
昭和19(1944)年3月、イスラーム教徒による大規模な宗教蜂起によるイスラム国建設計画が発覚(タシクマラヤ事件)、昭和20(1945)年2月、ブリタルの爪哇郷土防衛義勇軍小団長スプリヤディが教官の日本軍の一下士官の苛酷な教育、乱脈な私生活に反発し義勇軍1個大団300名を扇動した叛乱を鎮圧する等、治安維持にあたる中、停戦を迎えます。

8月17日、独立宣言を発したインドネシア共和国側は進駐軍との戦闘に備え、8月末頃よりジャワ島各地で第十六軍隷下、指揮下、及び海軍部隊からの武器弾薬、物資の譲渡を要求、特に憲兵隊等の小部隊は標的にされ、連合軍により共和国側への軍需品の譲渡禁止と治安維持を命じられていたため、遵法精神の特に強固な憲兵隊は要求を拒絶し、ジョカルタ、スラカルタ、マデウン、スマラン、ケデリ、スラバヤ埠頭、バンドン、セラン各憲兵分隊・分遣隊では武力衝突、または暴徒による虐殺により、犠牲者が発生してしまいます。
さらに進駐してきた英蘭軍は兵力が過少なため憲兵隊はインドネシア独立運動の鎮圧に動員され犠牲者が発生してしまいます。

また、戦犯訴追が始まると治安維持を主任務とし流言飛語や叛乱計画など騒擾未然に防ぐため、時には苛烈に容疑者を取り調べ、また叛乱を鎮圧する職務上、多くの憲兵が裁判の名を借りた報復劇により曖昧な証拠により戦犯の汚名を着せられ処刑されました。


主要参考文献
『大東亜戦争とインドネシア 日本の軍政』(平成14年9月 加藤裕著 朱鳥社)

『インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実』(平成18年11月 桜の花出版)

『阿部知二とインドネシア体験(一) -その事実を巡って-』(木村一信)

アジア歴史資料センター史料各種
 第十六軍関連
 爪哇上陸作戦各種
 爪哇方面部隊略歴
 小スンダチモール方面部隊略歴 他

『日本憲兵正史』(昭和51年10月 全国憲友会連合会編纂委員会)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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