当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍造兵廠 枚方製造所

大阪府枚方(ひらかた)市には大阪陸軍造兵廠 枚方製造所がありました。
大造枚方製造所 C 鍛造・鋳物工場 南西から(大阪)
▲コマツ大阪工場内に遺る鍛造・鋳物工場

【探索日時】
平成22年1月2日、10日、平成26年11月9日、平成27年1月20日

【更新情報】
平成22年11月16日・・・地図追加
平成27年5月27日・・・大幅改訂






枚方市周辺の軍事施設配置
大造枚方製造所 枚方・交野全図(大阪)
▲昭和20(1945)年頃の枚方市周辺
※緑文字が当記事の紹介施設
大阪陸軍造兵廠 枚方製造所
②大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠
大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 天之川工場(旧倉敷紡績㈱枚方工場)
④枚方陸軍官舎
⑤大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 養生校(技能養成校)
⑥ 〃         霧島寮(工員寮)
⑦ 〃         敷島寮( 〃 )
⑧大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠官舎
⑨大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 保健寮(工員保養所)
高射砲陣地
  〃
⑫軍用側線
⑬以下は別ページで紹介します


大阪陸軍造兵廠 枚方製造所の概要
各種砲弾・爆弾(弾体)、及び信管の製造を行っていました。

敷地面積:1,089,000㎡  (停戦時)
建物面積:116,000㎡
事務所=?㎡
第一工場=18,650㎡ (工員数525名)・・・弾丸・爆弾の旋造
第二工場=35,000㎡ (3,800名)   ・・・弾丸・爆弾の搾出
第三工場=26,160㎡ (900名)    ・・・刃工検・大口径砲弾の搾出・旋造
第四工場=?㎡    (1,200名)   ・・・工具製造
第五工場=?㎡    (800名)    ・・・雷管用爆剤 〃
第六工場=18,957㎡ (4,000名)   ・・・信管部品旋造・圧搾
第七工場=5,400㎡  (1,250名)   ・・・信管組立
第八工場=12,089㎡ (750名)    ・・・爆剤化成・填薬
大阪工場=?㎡    ( ? )     ・・・弾丸の旋造
天之川工場=9,652㎡ (750名)    ・・・信管部品旋造・組立、刃工検
中島工場=?㎡   ( ? )      ・・・信管組立
伏見工場=54,000㎡  ( ? )    ・・・信管部品旋造
鳥取工場=57,800㎡  ( ? )    ・・・信管組立
その他補助工員5,000名


遺構について※青字は地図にリンクしています。
① 大阪陸軍造兵廠 枚方製造所
昭和12(1937)年7月7日、支那事変が勃発、増大する砲弾の需要に対応すべく、陸軍省は陸軍造兵廠大阪工廠(昭和15年4月1日、大阪陸軍造兵廠と改称)の遊休設備を可動・工員の増員を実施するとともに新たな製造所の設置を決定、同年、大阪府北河内郡山田村枚方(現、枚方市)に新製造所用地を買収、施設建設を開始、昭和13(1938)年1月、陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設されます。
昭和18(1943)年、製造所敷地を隣接する大阪陸軍兵器支廠 枚方分廠敷地(昭和14(1939)年、爆発事故により空地化)に拡張、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月、製造所は米軍により接収、生産設備は賠償指定物件とされ、大蔵省(現、財務省)近畿財務局の管理下に入りますが、昭和21(1946)年4月、製造所西側の一画が大阪大学工学部枚方学舎(昭和42年、移転、跡地は日本住宅公団により開発され中宮団地が建設)、昭和22(1947)年3月、養生校が枚方町立中学校(現、市立第一中学)に転用、工員寮は逐次一般住宅として払い下げられます。

昭和23(1948)年5月6日、枚方市は民間製造業誘致による税収増、失業者対策のため旧枚方製造所を含む陸軍省用地の払下げを申請、昭和25(1950)年6月25日、朝鮮戦争が勃発、米軍の砲弾製造を受注した㈱小松製作所は昭和26(1951)年、砲弾製造設備の残る旧枚方製造所の転用を申請、枚方市の誘致もあり、昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効、旧製造所が返還されると、10月 、㈱小松製作所に払下げが内定し一時使用が許可、6月24日、枚方事件(日本共産党と朝鮮人による小松製作所爆破テロ)が発生しますが、昭和28(1953)年9月25日、10月15日、正式に㈱小松製作所(コマツ)大阪工場として払い下げられます。
平成10(1998)年10月、旧製造所南側が㈱小松製作所から関西外国語大学に売却され、平成14(2002)年11月、関西外国語大学中宮学舎が開学し現在に至ります。
大阪陸軍造兵廠 枚方製造所(Japanese Air Target Analyses)1(大阪)
▲昭和20(1945)年5月23日の大阪陸軍造兵廠 枚方製造所空撮
 米軍戦略爆撃調査団『Japanese Air Target Analyses』

大造枚方製造所 USA-M34-3-15(230331) 白抜き(大阪)
▲昭和23(1948)年3月31日の 〃
 国土地理院『USA-M34-3-15』 ※加工しています

大造枚方製造所 枚方製造所(現在)(大阪)
▲現在の地図に施設を転写
 下記の番号・遺構配置は当地図参照

※以下の遺構名称は『Japanese Air Target Analyses』に依ります。

A 機械加工・手仕上げ工場
コマツ大阪工場内に遺り、現役で使用されています。
東側に別の建屋が増設されていますが、状態は良好です。
大造枚方製造所 A 機械加工・手仕上げ工場 南西から パノラマ写真(大阪)
▲南西から
 最も見通しの効く角度です。

大造枚方製造所 A 機械加工・手仕上げ工場 北西から(大阪)
▲北西から
 のこぎり屋根の明かり取り窓が良く分かります。
※この位置は開放外地区のため、係の方の許可を得て立ち入っています。


B 重機械工場
コマツ大阪工場内に遺り、現役で使用されています。
現存建屋最大の建物です。
大造枚方製造所 B 重機械工場 南西から パノラマ写真(大阪)
▲南西から
※係の方の許可を得て立ち入っています。

大造枚方製造所 B 重機械工場 東から(大阪)
▲東からの近影

大造枚方製造所 B 重機械工場 南東から パノラマ写真(大阪)
▲重機械工場は南側3コマが東側に出っ張っています。

大造枚方製造所 B 重機械工場 北東から(大阪)
▲北東から
 こちらものこぎり屋根の明かり取り窓が良く分かります。

大造枚方製造所 B 重機械工場 北西から パノラマ写真(大阪)
▲重機械工場(左)と機械加工・手仕上げ工場(右奥)
 のこぎり屋根が延々と続く、工場らしい風景です。
※係の方の許可を得て立ち入っています。


C 鍛造・鋳物工場
コマツ大阪工場内に遺り、現役で使用されています。
北側に別の建屋が増設されていますが、状態は良好です。
東側の敷地外からも見える建屋です。
大造枚方製造所 C 鍛造・鋳物工場 西から パノラマ写真(大阪)
▲西から
 上屋の上に明かり取りの小屋根が乗る構造です。

大造枚方製造所 C 鍛造・鋳物工場 南から パノラマ写真(大阪)
▲南東から
 上掲の3連建屋の南側に細長い建屋(小屋根の一段低い建屋)が附属しています。

大造枚方製造所 C 鍛造・鋳物工場 東から パノラマ写真(大阪)
▲東から
 東側にも細長い建屋(灰色の屋根の建屋)が附属しますが、いずれも当時の建屋です。

大造枚方製造所 C 鍛造・鋳物工場 東側突出部 南から(大阪)
▲東側に附属する細長い建屋の側面
 明かりを効率的に取れる構造になっています。

大造枚方製造所 C 鍛造・鋳物工場 西側扉(大阪)
▲鍛造・鋳物工場の扉

鍛造・鋳物工場は「わくわくケンキフェスティバル」(企業祭)の際は内部が公開されます。
大造枚方製造所 C 鍛造・鋳物工場 内部(大阪)
▲細い鉄骨を隈無く組み上げた当時の特徴的な工場建屋です。

大造枚方製造所 C 鍛造・鋳物工場 内部 (2)(大阪)
▲明かり取り窓はありますが、非常に薄暗いです。


D 鍛造工場
コマツ大阪工場内に遺り、現役で使用されています。
西・北側に別の建屋、近年東側にも建屋が増設され、南側からしか見えません。
大造枚方製造所 D 鍛造工場 南西から(大阪)
▲鍛造・鋳物工場と同じ様な型をしていますが、小屋根に明かり取り窓がありません。

大造枚方製造所 D 鍛造工場 東側(大阪)
▲東側の窓


出荷場
コマツ大阪工場南端に数年前まで木造の出荷場5棟が遺っていましたが、残念ながら破壊されてしまいました。
大造枚方製造所 倉庫 南から(大阪)
▲在りし日の出荷場
 木造5連の建屋がありました。

以上の遺構は全てコマツ大阪工場内に遺されています。
普段は株主以外の見学、及び撮影は受付けていない様ですが、毎年11月初旬に開催される「わくわくケンキフェスティバル」(企業祭)の際、敷地の一部が開放され現存遺構の見学(一部は内部も)、撮影が可能です。


a 土塁
中宮団地内に遺ります。
砲弾・爆弾倉庫外周に廻らされた防爆土塁の一部(倉庫南側)が遺ります。
大造枚方製造所 a 土塁 南西から(大阪)
▲石垣は戦後に造られた土留です。

土塁西側に倉庫に入るための隧道が遺ります。
大造枚方製造所 a 土塁 隧道(北) 北西から(大阪)
▲隧道北側は説明板も建てられていますが、肝心の隧道に変な装飾が施されています。

大造枚方製造所 a 土塁 隧道(南) 南から(大阪)
▲隧道南側は道路建設の際のかさ上げで低くなっています。


b 土塁
上記 aが囲んでいた倉庫の南側にあった倉庫に廻らされた防爆土堤の一部(倉庫南側)が遺ります。
大造枚方製造所 b 土塁 北西から(大阪)
▲閉鎖された東側の隧道(北側出入口)が見えます。

東西に倉庫に入るための隧道が遺りますが、残念ながら全て閉鎖されています。
大造枚方製造所 b 土塁 東側隧道(北) 北東から(大阪)
▲閉鎖された西側の隧道(北側出入口)と東側の隧道(奥)
 写真では分かりにくいですが、西側の隧道には当時の扉枠の残骸が遺っています。

大造枚方製造所 b 土塁 西側隧道(南) 東から(大阪)
▲西側隧道(南側出入口)

大造枚方製造所 b 土塁 東側隧道(南) 東から(大阪)
▲東側隧道(南側出入口)はほとんど埋まっています。
 左側のフェンス際に僅かに軒の部分が見えます。


d 土塁
a が囲んでいる倉庫の西側にあった小型倉庫に廻らされた防爆土堤の一部(倉庫北側)が遺ります。
大造枚方製造所 d 土塁 南東から(大阪)
▲石垣は戦後に造られた土留です。


e 土塁
市立高陵小学校の校門脇に遺ります。
廃棄弾置場の周囲に廻らされた防爆土堤の東側です。
大造枚方製造所 e 土塁 南東から(大阪)
▲石垣、コンクリート擁壁は戦後に造られた土留です。


g 境界土塁
枚方製造所と西側の大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫の境界にあった土塁が遺ります。
大造枚方製造所 g ①・②境界の土堤? 南東から(大阪)
▲高さ1m程の土塁が遺ります。


ア 建屋廃材の記念碑
車塚公園南側の遊歩道に沿って3ヶ所あります。
コマツ大阪工場内に遺っていた枚方製造所の木造倉庫解体の際に出た廃材を、枚方市が譲り受けて記念碑に加工した物です。
大造枚方製造所 ア 建物部材で造られた記念物(東側)(大阪)
▲一番東側にある物
 簡単な説明板が付いています。

大造枚方製造所 ア 建物部材で造られた記念物(西側)(大阪)
▲遊歩道に沿って立っていますが、説明は無くこれだけ見た人は何だか分かりません。

大造枚方製造所 ア 建物部材で造られた記念物(西側) (2)(大阪)
▲この様な感じで立っています。


イ 建屋廃材の記念碑
アの道路を挟んだ南側にあります。
一応、建物の形に並べてあります。
大造枚方製造所 イ 建物部材で造られた記念物(大阪)
▲こちらは詳細な説明板が付いています。


ウ 枚方工廠爆発殉難者慰霊塔・供養塔
コマツ大阪工場中宮門の守衛所の裏にあります。
守衛所で見学の旨を告げ、芳名帳に記名すれば何時でも見学できます。
大造枚方製造所 ウ 枚方工廠爆發殉難者慰霊塔(昭和49年6月再建)・供養塔(大阪)
昭和14(1939)年3月1日、隣接する大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫で爆発事故が発生、枚方製造所では29名が死亡、151名が負傷してしまいます。
この時の爆発事故の殉職者の慰霊碑と思われます。
昭和49(1974)年6月に再建された様ですが、最初に建立されたのは何時か不明です。

慰霊碑の右側に何かの石碑の基礎の様な石積みが残っていますが、元々はここに慰霊碑か建っていたと思われます。
大造枚方製造所 ウ北側にある石組み(元の碑跡?)(大阪)


エ 境界塀 基礎
枚方製造所時代、この辺りの民有地との境は鉄条柵があった様です。
当時の物と思われる鉄筋入りの柵の残骸が点々と遺ります。
大造枚方製造所 エ 柵基礎(大阪)
▲鉄筋を盗ったのか、全て折れて根本しか残っていません。


オ 石標類
車塚公園の手洗い場横に枚方製造所構内にあった各種石標が集められています。
内訳は作制水辯5、上制水辯5、消火栓1、作泥吐辯1本です。
大造枚方製造所 オ6 作制水辯(大阪)
▲作制水辯

大造枚方製造所 オ12 上制水辯(大阪)
▲上制水辯

大造枚方製造所 オ5 消火栓(大阪)
▲消火栓

大造枚方製造所 オ11 作泥吐辯(大阪)
▲作泥吐辯

大造枚方製造所 オ2 上制水辯(大阪)
▲上制水辯の頂部に刻字された記号
 他の石標にも似たような記号と数字が刻まれています。


1 陸軍省用地 90
敷地北西端の民家内に境界石標が遺ります。
側面にアラビア数字で「90」と刻字されています。
大造枚方製造所 1「陸軍省用地」90(大阪)
▲敷地外(公園)からの写真

柵の隙間からスマホを突っ込んで何とか撮影しましたが、こういう時に自撮り棒があったら便利なのですが・・・
大造枚方製造所 1「陸軍省用地」90 (2)(大阪)
▲何とか撮影した表側の「陸軍省用地」


2 陸軍省用地
上記のすぐ西側、マンションの敷地内に遺ります。
番号の刻字が無い様に思います。
大造枚方製造所 2「陸軍省用(地)」91?(大阪)


③ 大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 天之川工場
現在は関西医科大学附属枚方病院になっています。
大正9(1920)年、日本メリヤス㈱枚方工場として開設、大正13(1924)年3月、倉敷紡績㈱が買収し、5月31日、操業開始します。
昭和16(1941)年9月、大阪陸軍造兵廠枚方製造所天之川工場として転用されますが、停戦後に倉敷紡績㈱に返却、平成8(1996)年に閉鎖され、関西医科大学に賃貸されましたが、平成22(2010)年、関西医科大学に売却、現在は関西医科大学附属枚方病院が建設され、遺構は何も遺されていません。

枚方製造所は天之川工場の他、中島工場(鐘淵紡績㈱中島工場を賃借:昭和17(1942)年3月15日~)、伏見工場(日本レイヨン㈱伏見工場を賃借:昭和20(1945)年1月~)、鳥取工場(日本レイヨン㈱米子工場を賃借:昭和20(1945)年2月~)を分工場として開設しましたが、中島工場はマンション、伏見工場は学校、住宅地、鳥取工場は住宅地、商業施設になり、いずれも遺構は何も遺されていません。


⑩ 高射砲陣地
現在は枚方禁野本町住宅(団地)になっています。

『高射戦史』によると枚方製造所には獨立高射機關砲第五十一中隊が配備されていたようですが、上掲の空撮を見ると機関砲陣地では無く高射砲陣地の様です。
『高射戦史』には当地周辺に高射砲隊の記載はなく、高射第三師團隷下以外の高射砲隊が配備されていたのかも知れませんが詳細は不明です。
遺構は何も遺されていません。


⑪ 高射砲陣地
現在は㈱小松製作所大阪工場の建機置場になっています。
上記同様に詳細は不明です。

遺構は何も遺されていません。


大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 略歴
昭和12(1937)年7月7日、、支那事変が勃発、増大する砲弾の需要に対応すべく、陸軍省は陸軍造兵廠大阪工廠に従来の第一(火砲)・第二(弾丸)・第三製造所(薬莢、非鉄金属素材)に加え第四(非鉄金属を除く素材)・第五製造所(信管)を増設、遊休設備を可動・工員の増員を実施します。

さらに第二、第五製造所増強のため新たな製造所の設置を決定、同年、「昭和十二年度國防充備費」をもって大阪府北河内郡山田村枚方(現、枚方市)に新製造所用地120,000坪(現、関西外大一帯)を買収、工場建設を開始、昭和13(1938)年1月、陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設されます。

昭和13(1938)年、「昭和十三年度國防充備費」をもって隣接地90,000坪(現、㈱小松製作所大阪工場一帯)を買収、敷地を拡張します。
陸軍造兵廠長官・永持源次中将から陸相・板垣征四郎大将に宛てられた『土地買収概要ノ件申請』(陸造秘一二一九號)によるとさらにその東側の片鉾本町、交北1付近まで買収予定だったようですが、実現しませんでした。
昭和14(1939)年、隣接する大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫の爆発事故による禁野倉庫の縮小、枚方製造所への敷地転換によるものと思われます。

昭和14(1939)年3月1日、隣接する大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫で爆発事故が発生、枚方製造所では29名が死亡、151名が負傷してしまいます。
陸軍は大阪府、大阪市と共同で罹災者の救護、支援を行ないつつ施設の復旧、整備を実施、10月11日、禁野倉庫敷地の北側2/3を枚方製造所に移管します。

昭和15(1940)年4月1日、陸軍兵器本部の設置に伴い陸軍造兵廠大阪工廠は大阪陸軍造兵廠と改称、枚方製造所も大阪陸軍造兵廠枚方製造所と改称します。
大阪陸軍造兵廠 枚方製造所(大阪)
▲大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 南西上空から

昭和16(1941)年9月、休止していた倉敷紡績㈱枚方工場を賃借し、枚方製造所天之川工場を開設します。

12月8日、大東亜戦争が勃発します。

昭和17(1942)年3月15日、鐘淵紡績㈱(現、クラシエホールディングス㈱)中島工場を賃借し、枚方製造所の第二製造所(弾丸)設備を増強、中島工場を開設します。
同年、火薬を用いる信管製造所を人口の密集する大阪市内に置くのは危険であり、また空襲の危険性回避、砲弾製造との一元化による作業効率化の促進から第五製造所を枚方製造所に移転する事が決定、禁野倉庫から移管された用地に工場建設を開始します。

昭和18(1943)年7月、大阪陸軍造兵廠の第二製造所(砲弾)が、工場建屋は大阪陸軍造兵廠のままで枚方製造所の管轄(大阪工場)になります。

昭和19(1944)年初旬、枚方製造所に第五製造所の一部建屋、全信管製造設の移転が開始され、3月、移転が完了し信管部品の製造、填薬、組立てが開始されます。

昭和20(1945)年1月、日本レイヨン㈱(現、ユニチカ㈱)伏見工場を賃借し枚方製造所伏見工場とし、2月、さらに同社米子工場を同鳥取工場として賃借します。
4月、第五製造所が枚方製造所の管下に移行されます。

同年中旬、第五製造所の製造設備を疎開すべく大阪府北河内郡交野町大字馬場堂の山中に地下疎開工場の設定を開始します(停戦により未完成)。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『枚方市史 第4巻』 (昭和55年 枚方市史編纂委員会)

『いま、よみがえる枚方の20世紀 発掘・復元・検証』 (平成23年1月 大阪府文化財センター)

『小松製作所五十年の歩み 略史』 (昭和46年5月 小松製作所社史編纂室)

『鐘紡百年史』(昭和63年10月 鐘紡株式会社社史編纂室)

『倉敷紡績百年史』(昭和63年3月 倉敷紡績株式会社)

『ユニチカ百年史』(平成3年6月 ユニチカ社史編集委員会)

・『USA-M34-3-15』(国土地理院)

・『Japanese Air Target Analyses』米軍戦略爆撃調査団空襲目標計画

・Yahoo!の地図
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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