当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大津陸軍少年飛行兵學校 (旧 歩兵第九聯隊)

滋賀県大津市御陵町には歩兵第九聯隊の兵営があり、後に跡地は大津陸軍少年飛行兵學校になりました。
歩九・大津少飛 B 火薬庫基礎 北側 北西から (大津)
▲大津市に遺る弾薬庫基礎

【探索日時】
平成24年12月26日






歩兵第九聯隊兵営大津陸軍少年飛行兵學校の概要
明治8(1875)年1月19日、滋賀縣山上村(現、大津市)に歩兵第九聯隊兵営が竣工、3月8日、歩兵第九聯隊が大阪から移駐してきます。
歩兵第九聯隊全景 南東から(大津)
▲歩兵第九聯隊全景(奥が兵営、手前は練兵場) 南東から

大正14(1925)年5月6日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い聯隊主力は第三大隊を大津に残置し、京都に移駐、昭和9(1934)年4月11日、大隊は聯隊とともに滿洲駐箚に出発、その後は聯隊と行動を伴にしたため大津には帰還しませんでした。
昭和13(1938)年2月10日、旧歩兵第九聯隊兵営に臨時大津陸軍病院が開設、昭和17(1942)年10月2日、東京陸軍航空學校大津教育隊が臨時大津陸軍病院として使用されていた旧兵営で開隊されます。
昭和18(1943)年4月1日、東京陸軍航空學校大津教育隊は大津陸軍少年飛行兵學校として独立、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月5日、米第136歩兵連隊(後、第35歩兵連隊、海兵第9連隊、第7騎兵連隊)により大津陸軍少年飛行兵學校・京都陸軍病院大津分院は接収され、Camp Ootu Area-A(キャンプ大津A地区)と改称されます。

昭和33(1958)年6月30日、A地区は米軍より返還され、大津市に移管、市民文化会館、大津商業高校、陸上競技場が建設され現在に至ります。
歩九(現在)(大津)
▲歩兵第九聯隊衛戍時の配置を現在の地図に転写
 ①兵営 ②大津衛戍病院 ③大津陸軍練兵場 ④大津聯隊區司令部
 ⑤大津憲兵分遣隊 ⑥大谷陸軍射撃場 ⑦山上陸軍射撃場 ⑧大津陸軍墓地
 ※名称は昭和初期頃

歩九・大津少飛 遺構(現在)(大津)
▲大津陸軍少年飛行兵學校と遺構配置
①大津陸軍少年飛行兵學校
②京都陸軍病院 大津分院
③大津陸軍少年飛行兵學校(南側)・練兵場(北側)
④大津聯隊區司令部
⑤大津憲兵分隊

⑥(財)滋賀縣國防協會 大谷射撃場
⑦大津陸軍射撃場
⑧大津陸軍墓地
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について※青字は地図にリンクしています
※以下の数字、アルファベット等は上掲「大津陸軍少年飛行兵學校と遺構配置」の表記参照
① 大津陸軍少年飛行兵學校
現在は大津歴史博物館、市民文化会館、大津商業高校、大津市役所、大津市消防局、滋賀県警察学校などが建設されています。
光輝ある戦歴を誇る歩兵第九聯隊ですが、残念ながら大津、京都ともに遺構は殆ど遺されていません。

市民文化会館脇にある階段を登った場所にある小さい広場に、隠される様に各種石碑が建立されています。
大津歴史博物館、市民文化会館のある場所は歩兵第九聯隊、大津陸軍少年飛行兵學校時代、将校集会所がありました。
歩兵第九聯隊 将校集会所(大津)
▲歩兵第九聯隊、大津陸軍少年飛行兵學校 将校集会所

あ 歩兵第九聯隊之跡 碑
昭和42年4月12日、歩兵第九聯隊記念碑建設委員会により建立されました。
歩九・大津少飛 あ 歩兵第九聯隊之跡 碑(大津)

歩兵第九聯隊之跡 碑の周辺には以下の石碑類があります。
歩九・大津少飛 あ 前にある石碑「不死美臺?」(大津)
▲当時の物と思われる「不死美臺」石碑
 不死美臺(富士見台)と言う事から、当時はこの場所から琵琶湖対岸にある近江富士(三上山)が見通せた様です。

歩九・大津少飛 あ 前にある火袋(大津)
▲灯籠の火袋(当時の物かは不明)

歩九・大津少飛 あ 北側にある灯篭(大津)
▲灯籠(当時の物かは不明)

歩九・大津少飛 あ 北側にある井型(大津)
▲井戸枠(当時の物かは不明)

歩九・大津少飛 あ 北側にある手水鉢(大津)
▲手水鉢(当時の物かは不明)


い 若鷲の碑 大津陸軍少年飛行兵學校跡
昭和50年10月12日、大津陸軍少年飛行兵學校関係者により建立されました。
歩九・大津少飛 い 若鷲の碑(大津)

歩九・大津少飛 い 大津少飛 校訓(大津)
▲少年飛行兵達は「至誠・純真・元気・周到」の校訓のもと、厳しい勉学に励みました。


ア 「陸軍地」境界石標
"あ”歩兵第九聯隊之跡碑と"い”若鷲の碑の間にあります。
移設された物と思っていましたが、当時の境界はこの辺りを通っており、当時のままの位置と思われます。
歩九・大津少飛 ア 陸軍地(大津)


イ 「陸軍地」境界石標
石碑類のある広場から北側にある草むらに入り、フェンスに沿って進んだ場所にあります。
この辺りはなぜか総理府の所有地の様です。
歩九・大津少飛 イ 「陸軍地」(大津)


ウ 「陸軍地」境界石標
"イ”陸軍地の対面にありますが、肝心の正面側に総理府の境界石標が建てられており、見づらいです。
歩九・大津少飛 ウ 「陸軍地」(大津)


エ 「陸軍地」境界石標
石碑類のある広場から西側の山に15m程入った辺りにあります。
将校集会所の裏手には弾薬庫があり、イ、ウ、エの境界石標はそこに続く通路の境界と思われます。
この境界石標から正面(西側)に弾薬庫の巨大な防爆土堤が見えます。
歩九・大津少飛 エ 「陸軍地」(大津)

歩九・大津少飛 エ 東側の堰(大津)
▲排水施設?
 エの東側には堰の様な遺構があります。
 弾薬庫の排水施設でしょうか?


A 弾薬庫土堤
滋賀県警察学校西側の斜面上にある削平地に弾薬庫がありました。
現在、弾薬庫はありませんが、周囲を囲っていた土堤が僅かに遺っています。
歩九・大津少飛 A 火薬庫跡の土塁(大津)
▲かなり低くなっている土堤


B 弾薬庫
歩九・大津少飛 B 火薬庫跡土塁(大津)
▲B弾薬庫を囲む防爆土堤

防爆土堤南東隅に本来の入口がありますが、土堤内は雑草が繁茂しており正攻法では進めません。
土堤内部南側に沿って西側に迂回、南西隅にある貯水槽辺りから中央に進むと弾薬庫の基礎があります。
弾薬庫は6×6mで、西側に入口と思われる幅4×奥行1.5mの張り出しがあります。
歩九・大津少飛 B 火薬庫基礎 西側 西から(大津)
▲弾薬庫の基礎は雑草に埋もれていますが、比較的状態が良いです。

歩九・大津少飛 B 火薬庫基礎 南東隅 南東から(大津)
▲外観は石造りで曲線状に床下換気を造るなど、非常に丁寧な仕上げです。
 床下換気口は幅60×高さ30cmあり、1辺に6個あります。

歩九・大津少飛 B 火薬庫基礎 北東隅(北側)通気口(大津)
▲幅21×高さ15cmの換気窓が並びます。
 換気口は小さい扉が付いていた様で蝶番と掛け金が遺ります。

歩九・大津少飛 B 火薬庫基礎 床下 西から(大津)
▲床下は煉瓦の支柱が並びます。

歩九・大津少飛 B 火薬庫基礎 南側突出部に倒れる塀(大津)
▲周囲には壁が散乱しています。

歩九・大津少飛 B 火薬庫南西の水槽 西から(大津)
▲弾薬庫南西にある防火水槽


オ 退避壕
滋賀県警察学校の敷地内に遺ります。
文化会館の駐車場からフェンスに沿って警察学校の外周を進んで行きます。
斜面を利用して作られた半地下施設の様で上部に換気塔がありますが、場所が場所なので確認できず詳細は不明です。
対面の建物ガラスに写る様子では、入口は鉄の扉が付いている様です。
歩九・大津少飛 オ 退避壕?(大津)


カ 配水施設
兵営敷地北西隅にあります。
北側の新羅善神堂辺りから入れます。
煉瓦躯体にコンクリートを塗って仕上げています。
詳細は不明です。
歩九・大津少飛 カ 配水施設(大津)


キ 「兵營前驛」停車場跡
昭和2(1927)年5月15日、 琵琶湖鐵道汽船の兵營前驛として開業、昭和4(1929)年4月11日、 琵琶湖鐵道汽船は京阪電氣鐵道と合併、昭和15(1940)年11月10日、別所驛に改称、昭和42(1967)年9月24日、大津市役所の移転に伴い、300m北側に移転します。
歩九・大津少飛 キ 兵営前駅跡(大津)
▲当時のプラットフォームが遺ります。


ク 記念碑
明治10(1877)年2月19日、西郷隆盛率いる薩摩郡が挙兵、西南の役が発生、27日、歩兵第九聯隊は第二次動員により吉次越、田原坂に前進しますが、徴兵で応召した示現流で斬りこんでくる薩軍に苦戦、450名が散華してしまいました。
明治11(1878)年9月、英霊を弔うべく歩兵第九聯隊有志により三井寺観音堂裏の御幸山に建立され、その後、さらに見晴らしの良い現在地に移設されました。
歩九・大津少飛 ク 記念碑(西南の役)明治11年8月建立(大津)

三井寺の裏山にはあちこちから登山道が繋がっている様ですが、行き方が分からなかったので、三井寺観音堂の拝観料500円を支払って麓から登りました。
場所は観音堂の裏にある高台(大津そろばんの碑や明治天皇玉座之跡碑がある場所)から、さらに道とも言えない斜面を10分程登った先にあります。


② 京都陸軍病院 大津分院
明治18(1885)年4月24日、大津衛戍病院が歩兵第九聯隊兵営内に開院、明治30(1900)年夏、兵営北隣に移転します。
大正14(1925)年5月6日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い歩兵第九聯隊が第三大隊を大津に残置し、京都に移駐したのに伴い、大津衛戍病院は閉鎖され京都衛戍病院大津分院が開設されますが、昭和9(1934)年4月11日、歩兵第九聯隊の滿洲駐箚に伴い、同分院は閉鎖されました。

昭和13(1938)年2月10日、旧歩兵第九聯隊兵営に臨時大津陸軍病院が開設、昭和17(1942)年10月、東京陸軍航空學校大津教育隊が旧兵営で開隊し、昭和18(1943)年4月20日、旧大津衛戍病院(兵営北側)に京都陸軍病院大津分院が開設され、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月5日、米軍により接収、昭和33(1958)年6月30日、大津市に返還され、現在は大津市庁舎第2別館、駐車場などが建設され、遺構は何も遺されていません


③ 大津陸軍少年飛行兵學校(南側)・練兵場(北側)
明治8(1875)年1月19日、歩兵第九聯隊兵営に付属する練兵場として開設、昭和9(1934)年4月11日、歩兵第九聯隊の滿洲駐箚に伴い閉鎖されました。
昭和17(1942)年10月2日、東京陸軍航空學校大津教育隊の開隊に際し、南側に医務室、車庫、理化学講堂、自習室が建設され、北側は拡張され練兵場が設置され、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月5日、米軍により接収、昭和33(1958)年6月30日、大津市に返還され、現在は別所合同庁舎、皇子山総合運動公園などが建設され、遺構は何も遺されていません


④ 大津聯隊區司令部
明治21(1888)年5月26日、大津大隊區司令部が大津町船頭(現、大津市長等町)の旧滋賀駐在所に開設されます。
明治29(1896)年4月1日、大津大隊區司令部は大津聯隊區司令部に改編されます。
明治32(1899)年10月1日、下大門町に移転、大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い大津聯隊區司令部は廃止されます。
昭和15(1940)年7月24日、大津聯隊區司令部の再設置が決定、昭和16(1941)年4月1日、滋賀縣物産陳列館2階に仮庁舎を開設、5月3日、同一敷地内に新庁舎が開庁されます。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦後の経緯は不明ですが、昭和29(1954)年10月、長等小学校北校舎として拡張され、遺構は何も遺されていません


⑤ 大津憲兵分隊
明治29(1896)年5月25日、第四憲兵隊(大阪)京都分隊分遣大津町屯所が開設、9月1日、滋賀分隊の発足に伴い滋賀憲兵分隊大津町屯所に改称します。
明治30(1897)年7月、上平蔵町(現、大津市)の旧裁判所跡に滋賀憲兵分隊首部、及び大津町憲兵屯所が移転、明治44(1911)年8月22日、滋賀憲兵分隊は大津憲兵分隊に改編、大津町憲兵屯所は廃止されます。
大正14(1925)年5月6日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い大津憲兵分隊は大津憲兵分遣隊に縮小、昭和9(1934)年3月20日、歩兵第九聯隊の滿洲駐箚に伴い閉鎖されます。
昭和13(1938)年12月1日、大津憲兵分遣隊が京都憲兵隊伏見憲兵分隊管下に再開、昭和20(1945)年3月30日、中部憲兵隊司令部 大津地區憲兵隊と改称し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦後の経緯は不明ですが、現在は大津公共職業安定所(大津ハローワーク)になっており、遺構は何も遺されていません


歩兵第九聯隊兵営大津陸軍少年飛行兵學校の変遷
明治6(1873)年1月9日、歩兵第九聯隊の編成と滋賀縣滋賀郡別所村(現、大津市)への設置が決定、8月、陸軍省は滋賀縣に対し園城寺の旧境内の移管を要請、9月20日、太政官から滋賀縣に対し、関連用地29,600坪の陸軍省への移管が指示(12月23日、2,200坪追加、明治7年8月15日、別所村の23,504坪が練兵場用地に、明治9年6月9日、別所村官山の内五別所の1,095坪が弾薬庫と附属道路用地に、11月6日、大津町字大谷北川の官山、真直谷・弥勒谷の計11,100坪が射的場用地として移管、買収)され、施設の建設が開始されます。
明治7(1874)年6月1日、歩兵第九聯隊本部を大坂城北側の備前島に設置、大阪鎮薹第五大隊を基幹に歩兵第九聯隊の編成着手、明治8(1875)年1月19日、別所村に新兵営が竣工、3月8日、歩兵第九聯隊が大阪から移駐、明治9(1876)年4月1日、編成完結します。
明治28(1895)年3月28日から12月27日、明治二十七八年戰役(日清戦争)に出征、明治29(1896)年1月4日から7月6日、台湾土匪討伐に出征、明治37(1904)年4月14日から明治38(1905)年12月21日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に出征、大正8年4月6日から大正10年4月9日、シベリア出兵に出征、聯隊出征中は補充大隊(明治期)、留守隊(大正・昭和期)が編成されます。
大正14(1925)年5月6日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い聯隊は第三大隊を大津に残置し、京都に移駐、昭和4(1929)年4月22日、聯隊の滿洲駐箚に伴い、第三大隊は留守隊として京都の兵営に移駐、昭和6(1931)年5月1日、聯隊の帰還に伴い、大津に帰還、昭和9(1934)年4月11日、聯隊の滿洲駐箚に伴い大津を出発、その後は聯隊と行動を伴にしたため大津には帰還しませんでした。

昭和13(1938)年2月10日、旧歩兵第九聯隊兵営に臨時大津陸軍病院が開設されます。

昭和17(1942)年10月2日、東京陸軍航空學校大津教育隊が臨時大津陸軍病院に設置、臨時大津陸軍病院は閉鎖、昭和18(1943)年4月20日、旧大津衛戍病院(兵営北側)に京都陸軍病院大津分院が開設されます。
昭和18(1943)年4月1日、東京陸軍航空學校大津教育隊は大津陸軍少年飛行兵學校として独立、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


配置部隊
歩兵第九聯隊
※拙ブログ「歩兵第九聯隊/第十九旅團司令部」 参照


大津陸軍少年飛行兵學校
大正8(1919)年4月15日、『軍令陸第八號「陸軍航空學校条例」が制定され陸軍航空學校(有川鷹一 少将、所沢)が開校、陸軍航空兵の教育が開始されます。
高度な技術を要する航空兵科、特に実戦において中核を成す下士官養成は徴兵により充当するのが困難な事から、10代の志願者を募集、教育する事を決定、昭和9(1934)年9月、陸軍飛行學校(大正13年5月17日、陸軍航空學校から改編)に志願者から選抜された操縦生徒70名、技術生徒100名が入校します(通称「少年航空兵」第一期生)。
しかし、従来下士官教育を実施していた陸軍飛行學校では少年航空兵の受入が手狭で困難な事から、昭和10(1935)年8月1日、
陸軍航空技術學校(所沢)が開校し技術生徒(機関・電気・金属/3年)、12月1日、熊谷陸軍飛行學校(熊谷)が開校し操縦生徒(戦闘・偵察・爆撃/2年)の教育を担当しました。
昭和12(1937)年6月1日、陸軍は航空軍備の拡張・整備のため『軍令陸乙第十號「昭和十二年軍備改変要領」』を発令、12月1日、東京陸軍航空學校(山口直人少将、熊谷)が開校、少年航空兵の基本教育を担当しました。
昭和15(1940)年4月24日、『陸軍志願兵令』 ( 昭和十五年四月二十四日 勅令第二百九十一號)、『陸軍補充令 改正』 (同 勅令第二百九十三號)等により通称「少年航空兵」は正式に「少年飛行兵」と称されます。

昭和17(1942)年10月2日、陸軍少年飛行兵第十五期生2,949名(操縦588、技術・整備560、通信500)が入校、激増する少年飛行兵に対応するため、滋賀県大津市別所町(現、大津市御陵町)の臨時大津陸軍病院(旧歩兵第九聯隊兵営)に東京陸軍航空學校大津教育隊(三木吉之助大佐)が開隊され、第十五期生のうち1,150名が転校(昭和18年4月、卒業)します。

教育隊は本部・5個中隊(50名で1班、2班で1個區隊、4個區隊で1個中隊)で編成され、「至誠・純真・元気・周到」の校訓のもと、0530起床、午前の学科(普通学:国語、理科、歴史、英語、図画/軍学:兵器、地形、作戦要務令、航空兵操典)、午後の術科(軍事教練、剣道、体育:航空体操、フープ、鉄棒)に励みました。

昭和18(1943)年4月1日、東京陸軍航空學校大津教育隊は大津陸軍少年飛行兵學校(定員3,000名)として独立します。
14日、少飛第十六期生1,200名が入校(昭和19年3月、卒業)、6個中隊編成に改編、10月23日、少飛第十七期生1,400名が入校(昭和19年9月、卒業)します。
歩九・大津少飛 大津陸軍少年飛行兵學校 校門(大津)
▲大津陸軍少年飛行兵學校 校門

歩九・大津少飛 営門・校門跡(大津)
▲現在の大津陸軍少年飛行兵學校校門(歩兵第九聯隊営門)付近(現、大津商業高校校門)

昭和19(1944)年4月12日、少飛第十八期生1,500名が入校、8個中隊編成に改編、10月13日、少飛第十九期生1,600名が入校、昭和20(1945)年3月24日、少飛第十八期生は卒業しますが、操縦分科少年飛行兵は上級校の練習機不足から大津に在校し訓練にあたります。
8月8日、少飛第二十期生800名が入校、基礎教育にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、27日、復員完結しました。
歩九・大津少飛 歩九・大津少飛(211002)NI-53-14-2(大津)
▲昭和21(1946)年10月2日の大津陸軍少年飛行兵學校 周辺空撮(国土地理院 NI-53-14-2)

歩九・大津少飛 大津陸軍少年飛行兵學校 配置図(大津)
▲大津陸軍少年飛行兵學校 配置図


京都陸軍病院 大津分院
明治18(1885)年4月24日、歩兵第九聯隊重病室を継承し大津衛戍病院として開院、明治30(1900)年夏、兵営拡張・増築に伴い兵営北隣に移転します。
明治37(1904)年12月1日から明治38(1905)年12月31日、大津衛戍病院は閉鎖され大阪豫備病院大津分院が開設、大正14(1925)年5月6日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い聯隊が第三大隊を大津に残置し、京都に移駐したのに伴い、大津衛戍病院は閉鎖され京都衛戍病院大津分院が開設されます。
昭和4(1929)年4月22日、聯隊は滿洲に駐箚、第三大隊が京都の兵営に移駐したのに伴い、京都衛戍病院大津分院は閉鎖、昭和6(1931)年5月1日、聯隊の大津帰還により開院しますが、昭和9(1934)年4月11日、聯隊とともに第三大隊が滿洲駐箚に出発したため、京都衛戍病院大津分院は閉鎖されました。

昭和12(1937)年10月、旧歩兵第九聯隊兵営に臨時大津陸軍病院が開設、昭和17(1942)年10月、東京陸軍航空學校大津教育隊が旧歩兵第九聯隊兵営に開隊し、臨時大津陸軍病院は閉鎖、昭和18(1943)年4月20日、旧大津衛戍病院(兵営北側)に京都陸軍病院大津分院が開設され、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


大津聯隊區司令部
明治6(1873)年1月10日、『徴兵令』(太政官布告)が施行、明治7(1874)年、大阪鎭臺管區において徴兵検査が実施されます。
施行当初は徴兵使(正使:陸軍中佐、少佐/副使:尉官)が軍医、書記とともに管區内を巡回、各町村戸長が「免役概則」に照合し選抜し、引率してきた徴兵検査受検者を検査場において検査していましたが、感情に左右されムラが発生したため、 明治12(1879)年10月27日、『徴兵令 改正』が公布、自治体責任者を戸長の上級職である郡区長に変更、郡區徴兵事務官(郡区長)は府縣徴兵事務官(府県職員)、陸軍から派遣された徴兵事務官(後備軍府縣駐在官)とともに徴兵下検査を実施、徴兵適齢者を選抜して各種名簿を作成、 徴兵使巡行を迎えました。
しかし、戸主・嗣子と言う戸籍上の名義による免役制度が設けられていたため充分な人数が確保できなかったため、明治16(1883)年12月28日、『徴兵令 改正』が公布、免役条項を縮少、徴兵下検査と徴兵使巡行は廃止され、府県側には兵事課が、 軍側には府県駐在官に加え郡區駐在官が設置されます。
徴兵検査は郡区長と郡區駐在官が各種名簿を作成・点検し、兵事課長と府県駐在官が検査実施を行う事になり徴兵人数は飛躍的に増加改善されました。

明治21(1888)年5月12日、『大隊區司令部条例』(明治二十一年勅令第二十九號)が公布、5月26日、滋賀縣駐在官は廃止され、大津大隊區司令部(小林勝彬騎兵少佐)が大津町船頭(現、大津市長等町)の旧滋賀駐在所に開設されます。
大津大隊區司令部は管下に大津、彦根、上野各監視區事務所を開設、6月9日、大津大隊區司令部は観念寺に移転します。
明治29(1896)年4月1日、『聯隊區司令部条例』(明治二十九年勅令第五十六號)が公布、大津大隊區司令部は大津聯隊區司令部に改編され、管下の各監視區事務所は閉鎖されます。
明治32(1899)年10月1日、下大門町に移転、大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い大津聯隊區司令部は廃止されます。
昭和15(1940)年7月24日、『軍令陸第二十號「陸軍管区表改正」』(昭和15年8月1日、施行)により大津聯隊區司令部の設置が決定、昭和16(1941)年4月1日、滋賀縣物産陳列館2階に仮庁舎を開設、5月3日、隣接した新庁舎が開庁されます。
昭和20(1945)年3月24日、決號作戰(本土決戦)に備え大津聯隊區司令部内に大津地區司令部が開設、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


大津憲兵分遣隊
明治29(1896)年5月25日、『憲兵条例 改正』(勅令第二百三十一號)により第四憲兵隊(大阪)京都分隊分遣大津町屯所が開設、9月1日、滋賀分隊の発足に伴い滋賀憲兵分隊大津町屯所に改称します。
明治30(1897)年7月、上平蔵町(現、大津市)の旧裁判所跡に滋賀憲兵分隊首部、及び大津町憲兵屯所が移転、10月、大津町憲兵屯所は上榮町に移転、明治44(1911)年8月22日、滋賀憲兵分隊は大津憲兵分隊に改編、大津町憲兵屯所は廃止されます。
大正14(1925)年5月6日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い大津憲兵分隊は大津憲兵分遣隊に縮小、昭和4(1929)年4月22日、聯隊の滿洲駐箚に伴い、大津の第三大隊が留守隊として京都の兵営に移駐したため、昭和5(1930)年4月12日、大津憲兵分遣隊は閉鎖、昭和6(1931)年5月1日、第三大隊の帰還に伴い再開、昭和9(1934)年3月20日、聯隊の滿洲駐箚に伴い閉鎖されます。
昭和13(1938)年12月1日、大津憲兵分遣隊が京都憲兵隊伏見憲兵分隊管下に再開、昭和20(1945)年3月30日、『憲兵令 改正』により中部憲兵隊司令部 大津地區憲兵隊(佐野富士雄少佐)と改称し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『官報』 各種

『憲兵司令部日報 明治廿九年九月八日』 他アジア歴史資料センター資料

『日本憲兵正史』(昭和51年10月 全国憲友会連合会編纂委員会)

陸上自衛隊・大津駐屯地資料館 各種資料

『戦争と市民 湖国から平和へのメッセージ』(平成21年 大津市歴史博物館)

『軍都・大津』(平成12年 中島峰夫)

『続軍都・大津』(平成14年1月 中島峰夫)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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