当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第四十六聯隊

長崎県大村市には歩兵第四十六聯隊の兵営がありました。
兵営では後に歩兵第五十五聯隊歩兵第百四十六聯隊歩兵第百八十八聯隊歩兵第二百二十七聯隊歩兵第二百九十三聯隊歩兵第二百九十四聯隊歩兵第三百六十聯隊歩兵第四百五十四聯隊歩兵第五百十八聯隊が編成されます。
歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 南東から (2)(長崎)
▲陸上自衛隊・大村駐屯地内に遺る聯隊本部庁舎





歩兵第四十六聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
歩兵第四十六聯隊 大村(大正15) 陸地測量部(長崎)
▲大正15年頃の地図(大正15年測量 大日本帝國陸地測量部地形図64 大村近傍)
 ※地図は施設に色付け加工しています。

歩兵第四十六聯隊 歩四十六 国土地理院 NI-52-17(22117)(長崎)
▲昭和22(1947)年1月17日の大村市周辺の空撮(国土地理院 NI-52-17)
 ※空撮は加工しています。

歩兵第四十六聯隊(現在)(長崎)
▲現在の地図に施設を転写
※緑文字が当記事の紹介施設
歩兵第四十六聯隊 兵営
②大村陸軍病院
③歩兵第二十三旅團司令部
④放虎原陸軍練兵場
⑤池田陸軍射撃場
⑥大村憲兵分隊
⑦大村聯隊區司令部
⑧大村陸軍墓地
名称については一般的な昭和11(1936)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
① 歩兵第四十六聯隊 兵営
明治28(1895)年4月17日、明治二十七八年戰役(日清戦争)の講和条約が締結され、我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため陸軍省は、明治29(1896)年3月31日、陸軍平時編制を改正し、第七から第十二師團の編成を決定します。
陸軍経理局(監督長・野田豁通男爵)は四方が開け高燥で且つ水質が良好で水量が多く、強風を避ける松林が広がる長崎県東彼杵(ひがしそのぎ)郡西大村町(現、大村市)に新設聯隊の兵営設置を決定し、用地買収交渉を開始します。

西大村町は他の地域に比べ兵営誘致が熱心では無かったため、用地買収交渉は停滞しますが、各郡村長等の尽力により円満に解決し、内務省用地、寄進用地と合わせ関連用地の取得が完了、8月、測量を開始し、順次施設の建設が開始されます。

明治30(1897)年6月、兵営が凡そ竣工、10日、地域住民の歓呼の声に迎えられて熊本から歩兵第四十六聯隊が移駐してきます。

明治37(1904)年2月16日、歩兵第四十六聯隊は明治三十七八年戰役(日露戦争)に出征、兵営では後備歩兵第四十六聯隊が編成され、12月11日、聯隊の大村凱旋に伴い、後備聯隊は復帰します。
大正3(1914)年7月30日、聯隊は大正三四年戰役(第一次世界大戦)に出征、兵営では歩兵第四十六聯隊留守隊が編成され、12月8・9日、聯隊の大村凱旋に伴い、留守隊は復帰します。
歩兵第四十六聯隊 営門(長崎)
▲大正11(1922)年頃の兵営営門
  写真右端付近に写っている小さな木が・・・

歩兵第四十六聯隊 営門跡(長崎)
▲現在の営門付近(大村駐屯地正門)
 100年経ってこんな大木になりました。

昭和11(1936)年4月16日、聯隊は滿洲駐箚のため大村を出発、兵営では歩兵第四十六聯隊留守隊が編成され、昭和12(1937)年9月9日、歩兵第五十五聯隊が動員され、昭和14(1939)年3月19日、歩兵第二百二十七聯隊が臨時編成されともに支那事変に出征します。
昭和15(1940)年7月1日、留守隊は補充隊に改称、8月1日、滿洲駐箚中の歩兵第四十六聯隊の滿洲衛戍が決定、歩兵第四十六聯隊補充隊は歩兵第百四十六聯隊に改編されます。
昭和16(1941)年10月1日、歩兵第百四十六聯隊、同補充隊に編成下令、11月17日、歩兵第百四十六聯隊はジャワ島攻略に出征、昭和20(1945)年2月28日、歩兵第百四十六聯隊補充隊は久留米師管區歩兵第三補充隊に改称、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、11月1日、残務整理を終え復員完結しました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は大蔵省に移管、10月14日、兵営跡に原爆により校舎が全壊した長崎師範學校男子部が移転してきますが、21日、米第2海兵団第三大隊(8月19日に大村海軍航空基地に進駐)の一部により接収(男子部は退去させられる)、昭和21(1946)年12月17日、米軍の退去に伴い、男子部が再移転してきます。

昭和24(1949)年5月31日、新制 長崎大学学芸学部の発足に伴い、男子部は同部教育部に改制(7月1日、長崎師範学校は長崎大学長崎師範学校に改称、昭和26年3月、長崎大学長崎師範学校は最後の卒業生をもって廃止)、昭和27(1952)年6月13日、警察予備隊新設のため教育部は西大村中学に一次移転後、昭和28(1953)年3月31日、長崎市内に移転します。

昭和27(1952)年7月1日、大村市の誘致により警察予備隊大村駐屯地が開設、7日、第10普通科連隊が針尾から移駐し、3日、開隊式が挙行され、昭和29(1954)年7月1日、警察予備隊が自衛隊に改編されたのに伴い、8月10日、第10普通科連隊を基幹として第16普通科連隊が編成(19日、第10普連は東千歳、真駒内に移駐)され、現在も日夜我が国の平和を護っています。

下記のアルファベット、番号は上掲「現在地図」を参照
A 聯隊本部 庁舎
木造2階建てで162坪あります。
現在は史料館「鎮西精武館」として帝國陸軍、自衛隊の史料が展示されています。
歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 南東から(長崎)
▲南東から
 外壁は戦後にモルタル塗りにされたのかと思いましたが、当時の写真を見ると元々この様な外観だった様に見えます。

歩兵第四十六聯隊 昭和11年4月 北満に向かう前に御真影遥拝 歩四十六(長崎)
▲ 昭和11(1936)年4月の聯隊本部
 滿洲駐箚の前に聯隊本部に奉安された御真影を遥拝する聯隊将兵

歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 東から パノラマ写真(長崎)
▲正面から
 写真2枚を合成したので歪んでしまいました。

歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 南西から(長崎)
▲側面側

歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 南西から (3)(長崎)
▲裏側

歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館)裏の渡廊下(長崎)
▲庁舎裏側には渡り廊下の一部が遺ります

歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 北側入り口(長崎)
▲庁舎入口

歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 階段(長崎)
▲庁舎内部はかなり改装されていますが、手すりは当時のままの様です。

歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 1階廊下(長崎)
▲内部廊下
 殆ど面影がありません。

歩兵第四十六聯隊 A 聯隊本部庁舎(現、資料館) 2北東隅の聯隊長室(長崎)
▲比較的当時の面影が遺る部屋
 史料館内の「銃器展示室」が床、壁、天井とも殆ど当時のままの様ですが、残念ながら撮影禁止でした。

歩兵第四十六聯隊 史料館 鬼瓦(長崎)
▲機関銃中隊兵舎(現、16普連本部隊舎付近)の鬼瓦

歩兵第四十六聯隊 史料館 将校集会所の机(長崎)
▲将校集会所の机

歩兵第四十六聯隊 史料館 強兵坂(長崎)
▲「強兵坂」石標
 千綿の龍頭泉渓谷道から太ノ浦を経て大野原陸軍演習廠舎に
 向かう坂は第8代聯隊長・鶴見虎太大佐により「強兵坂」と命名されました。


B 将校集会所
木造平屋建てで107坪あります。
現在は外来宿舎として使用されています。
歩兵第四十六聯隊 B 将校集会所 北東から(長崎)
▲将校集会所 正面

歩兵第四十六聯隊 B 将校集会所 入り口(長崎)
▲将校集会所 正面入口

歩兵第四十六聯隊 B 将校集会所 北から(長崎)
▲将校集会所 裏側


C 将校集会所付属屋
木造平屋建てで24坪あります。
歩兵第四十六聯隊 C 建物 南西から(長崎)
▲将校集会所(写真右端)、後述の演武場と渡り廊下で連結されていますが、何に使用されていた建物か不明です。
 煉瓦基礎に木造建てで当時の姿を留めています。

歩兵第四十六聯隊 C 建物 北から(長崎)
▲左側の白い建物が将校集会所、奥の木造建物が演武場です。

歩兵第四十六聯隊 C 建物 南東から(長崎)
▲演武場側から見た付属屋
 3棟の建物が渡り廊下で連結されています。


D 演武場
木造平屋建てで50坪ありました。
Yahoo!地図には写っていますが、グーグルマップには写っておらず、最近解体されてしまったようです
歩兵第四十六聯隊 D 演武場 南東から(長崎)
▲ほぼ当時のままの姿を留めていただけに残念です。

歩兵第四十六聯隊 D 演武場 北東から(長崎)
▲将校集会所側から


E 講堂
木造平屋建てで150坪ありました。
Yahoo!地図には写っていますが、グーグルマップには写っておらず、最近解体されてしまったようです
当初は駐屯地内から撮影予定でしたが、時間が押してしまい撮影が打ち切られてしまたため、外周から撮影しましたが、こんな写真しかありません。
歩兵第四十六聯隊 E 建物 南東から(長崎)
▲西側の端
 外壁、屋根ともに補修されており、余り面影は遺っていませんでした。

歩兵第四十六聯隊 E 建物 南西から(長崎)
▲東側の端
 西側に比べ東側は窓等に当時の面影を感じられました。


F 病馬舎・装蹄場
木造平屋建てで62坪ありました。
Yahoo!地図には写っていますが、グーグルマップには写っておらず、最近解体されてしまったようです
当初は駐屯地内から撮影予定でしたが、時間が押してしまい撮影が打ち切られてしまたため、外周から撮影しましたが、こんな写真しかありません。
歩兵第四十六聯隊 F 建物 南東から(長崎)
▲南東から
 外壁、屋根ともに補修されており、余り面影は遺っていませんでした。

歩兵第四十六聯隊 F 建物 南西から(長崎)
▲南西から

"F”病馬舎・装蹄場の南側にコンクリート製の門柱があります。
兵営見取り図には記載がありませんが、古そうなので参考までに掲載します。
歩兵第四十六聯隊 南門? 西側(長崎)
▲西側の門柱

歩兵第四十六聯隊 南門? 東側(長崎)
▲東側の門柱


G 一號兵器庫
木造平屋建てで90坪あります。
Yahoo!地図、グーグルマップともに写っており、形状から当時の建物と思われますが、見学地域から大きく外れており、また外周からも見えず確認できませんでした。


H 三號兵器庫
木造平屋建てで108坪あります。
Yahoo!地図、グーグルマップともに写っており、形状から当時の建物と思われますが、見学地域から大きく外れており、また外周からも見えず確認できませんでした。


あ 歩兵第四十六聯隊跡 碑
昭和34(1959)年3月24日、軍旗拝受日を記念誌て建立されました。
周辺には歩兵第四十六聯隊、歩兵第五十五聯隊、歩兵第二百二十七聯隊の事績が告示された石碑が建立されています。
歩兵第四十六聯隊跡 碑(長崎)

以上は陸上自衛隊・大村駐屯地内に遺ります。
見学については事前連絡による見学、毎年4月末の創立記念行事の際に可能です。
詳細については大村駐屯地広報室までお訪ね下さい。


衛戍・編成・補充部隊
歩兵第四十六聯隊(劍八六〇五、滿洲第一〇八部隊)
明治28(1895)年4月17日、明治二十七八年戰役(日清戦争)の講和条約が締結され、我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月31日、陸軍平時編制を改正し、第七から第十二師團の編成を決定します。

5月1日、近衞師團(東京)、第六師團(熊本)、歩兵第二十三聯隊(熊本)から基幹要員を抽出、旧熊本衛戌病院豫備病院(藤崎台)において聯隊本部、第一大隊が、明治30(1897)年、第二大隊が編成、6月10日、東彼杵(ひがしそのぎ)郡西大村(現、大村市)に新兵営が凡そ竣工したのに伴い移駐します。
明治31(1898)年3月24日、宮中において軍旗を拝受、12月1日、第三大隊が編成され、歩兵第四十六聯隊の編成が完結(河野通好大佐)、第六師團(茨木惟昭中将)隷下歩兵第二十三旅團(内藤正明少将、大村)に編入されます。
歩兵第四十六聯隊 軍旗(長崎)
▲歩兵第四十六聯隊 軍旗

明治36(1903)年、歩兵第二十三旅團は第十二師團(井上光中将、小倉)に隷属転移します。

明治37(1904)年2月4日、我が国はロシアの強硬な南下政策から安全保障を確保すべくロシアとの国交を断絶、5日、開戦を決断、同日、第十二師團に臨時韓國派遣隊(歩兵第二十三旅團長・木越安綱少将)の編成、及び動員下令、聯隊から第二大隊(橘七三郎少佐)が抽出され、派遣隊は兵営を出発、6日、佐世保港を出港し、8日、仁川港に上陸、10日、我が国はロシアに宣戦布告、明治三十七八年戰役(日露戦争)が開戦します。

13日、聯隊は動員完結、16日、兵営を出発、22日、仁川港に上陸、23日、京城において第二大隊が復帰、24日、聯隊は第一軍先遣隊として要地・平壌に進出、28日、侵攻して来た敵騎兵を平壌北側の七星門外において撃破、15日、師團主力が平壌に到着、第十二師團は第一軍(黒木為楨大将)戦闘序列に編入されます。
師團は軍右翼として4月4日、定州に進撃、15日、鴨緑江河畔の昌元洞に集結、27日、軍主力の渡河支援のため水口鎮から鴨緑江を渡河、虎山背後に進出し敵の退路を遮断し撃破します(鴨緑江会戦)。
5月1日、聯隊は木越支隊として師團先遣隊となり九聯城、6月7日、賽馬集、7月19日、橋頭、31日、棆樹林子、8月25日、紅沙嶺・八盤嶺と北上しつつ敵を撃破、30日、聯刀湾から太子河を渡河し遼陽を迂回、3日、遼陽會戰に参加しますが、敵は既に退却を始めていました。
10月7日、沙河會戰においては師團とともに軍右翼隊として家堡子を守備、9日、敵の攻勢防御のため木越支隊として銀匠堡南方高地を守備、11日、師團は大損害を出すも敵の攻撃を撃退、15日以降、3ヶ月の対陣となります。
2月25日、聯隊は師團中央隊として進撃、3月2日、沙河の敵陣に攻撃を開始、5日、辺牛泉堡子北高地を攻略、7日、敵は退却を開始したため、聯隊は渾河を渡河し追撃、10日、興隆付近で敵を撃破、同日、我が軍は奉天城に入城しました。
5月27日、聯合艦隊が日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊を殲滅します。
9月1日、日露両国が休戦協定書に調印、14日、日露講和条約(ポーツマス条約)が締結、12月11日、聯隊は大村に凱旋します。

明治39(1906)年3月31日、聯隊において天津派遣歩兵隊(梶原景憲大尉、146名)が編成され、天津に駐箚、6月18日、帰還します。

明治40(1907)年9月18日、管区改正により聯隊は歩兵第二十三旅團司令部とともに第十八師團(木村有恒中将、久留米)に隷属転移します。

明治42(1909)年5月22日、聯隊において臨時韓國派遣歩兵第九中隊(折津時吉大尉、156名)が編成され、30日、韓国に駐箚、明治43(1910)年4月24日、帰還します。

大正3(1914)年7月28日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発、8月23日、同盟国イギリスの要請に従い、我が国はドイツに宣戦布告、同日、第十八師團に動員が下令されます。
30日、聯隊は旅團とともに大村を出発、輸送船4隻に分乗し長崎港を出港、9月5日、龍口に入泊し、18日、労山湾に上陸、堀内支隊を編成(旅團長・堀内文次郎少将)、19日、柳樹台で、23日、北家で独軍を撃破、25日、即隅に進出、28日、師團命令により第四中隊(佐藤嘉平次大尉)は青島北西の要地・浮山に進撃、佐藤大尉以下33名散華の大損害を受けるも攻略に成功します。
10月31日、師團主力は青島要塞の攻撃を開始、11月7日、独軍は降伏します。
青島攻略後、聯隊は鹵獲品、俘虜の輸送にあたり、12月4日、第一大隊は山東鉄道の警備(大正4年5月30日、凱旋)にあたり、5・6日、聯隊主力は青島を出発、12月8・9日、大村に凱旋します。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い第十八師團司令部、第二十三旅團司令部が復帰したため、聯隊は第二十四旅團司令部に編入され、再び第十二師團隷下に転移します。
12月15日、聯隊から大竹中佐以下52名が抽出され、滿洲派遣混成第一旅團に加わり、下関を出発、18日、釜山港に上陸、12月20日、奉天に到着し警備にあたります。

昭和3(1928)年5月3日、第五中隊に支那駐屯軍歩兵隊の編成下令、16日、一瀬壽大尉以下144名が抽出され、昭和4(1929)年6月22日、帰還します。

昭和7(1932)年1月18日、上海郊外において日本人僧侶が支那人により虐殺されるなど中華民国において排日・侮日事件が続発、28日、支那第十九路軍が我が上海海軍特別陸戰隊を攻撃するに至り、上海事變が勃発します。

2月2日、第十二師團に混成旅團の編成下令、聯隊から第三大隊(森田徹少佐)が抽出され、混成第二十四旅團(下元熊彌少将)に加わり、5日、大村を出発、6日、佐世保港を出港、7日、呉淞湾口に投錨、駆逐艦に移乗し、呉淞南方1kmの鉄道桟橋に上陸、14日、下元旅團は第九師團(植田謙吉中将、金沢)の指揮下に入ります。
18日、植田中将は十九路軍・蔡廷鍇に上海共同租界の20km外に軍を撤退させる事を要求するも、黙殺されたため聯隊は旅團左翼として進撃を開始、22日、客家屯を攻略しますが、右翼の歩四十八第一大隊の進撃が遅滞したため敵中に孤立するなど苦戦、23日、右翼の攻撃が進展し猛家屯を攻略、大隊は猛家屯に移動し、3月1日、旅團は敵の激烈な銃砲火を受けながら前進、廟巷鎮を攻略、さらに大隊は西進し胡家湾を攻略します。
2日、潰走する敵を追撃、感屯、李家棲、沈家溝、銭屯を攻略、敵野戦倉庫にて大量の戦利品を得、3日、旅團とともに南翔を攻略し、25日、大村に凱旋します(5月5日、上海停戦協定が成立)。

昭和11(1936)年4月1日、第十二師團に満州駐箚が下令され、關東軍司令部隷下の第三軍に隷属転移、16日、聯隊(田尻利雄大佐以下1,893名)は大村を出発し長崎港を出港、20日、大連に上陸、23日、聯隊は滿洲國三江省勃利縣勃利に到着、聯隊本部・第二大隊・歩兵砲隊・通信隊を勃利、第一大隊を依蘭、第三大隊を佳木斯に配置(師團司令部は滿洲國牡丹江省東寧県付近)、各大隊が配置された三角地帯の治安維持、匪賊討伐、国境警備にあたります。
10月初旬、第七中隊(小田五雄大尉)は歩五十一の軍旗を奪った匪賊を討伐し軍旗を奪還し、歩五十一から感状を授与され、10月末~11月22日、穆陵、勃利県境付近の討伐を行います。
歩兵第四十六聯隊 昭和11年4月 北満に向かう歩四十六(長崎)
▲昭和11(1936)年4月16日、滿洲駐箚のため軍旗を先頭に長崎港に向かう歩兵第四十六聯隊

昭和12(1937)年4月29日、第四師團(松井命中将、大阪)が佳木斯に進出、聯隊は警備地区が変更され林口縣に移駐、虎林、安梨鎮、梨樹鎮の警備にあたります。
昭和13(1938)年4月、第八師團(前田利為中将、弘前)が穆陵方面に進出、6月7日、聯隊はさらに滿ソ国境付近の石門子に移駐、聯隊本部・第二大隊・歩兵砲隊・通信隊を石門子、第一大隊を小鳥蛇溝上流河岸、第三大隊を石門子北方3kmの谷地に、さらに石門子南方10kmにある高地(展望山)に監視所を造り偵察班を配置し、日々増強されるソ連陣地を監視しつつ、対ソ戦を想定し演習場に仮設トーチカを造り陣地攻略の研究・訓練にあたります。
11月13日、第六中隊が石門子西方の老黒山に派遣、昭和14(1939)年2月28日、聯隊に復帰します。

昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、隠密裏に対ソ武力行使準備を整え、独ソ戦の推移が有利に進展した際は武力を行使して北方問題を解決し、北方の安全を確保する方針を決定し、7日、特臨編第一號(第百一次動員)により内地部隊に動員下令(關東軍特種演習第一次動員)、13日、動員着手、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第十二師團を始め在滿州・朝鮮部隊14個師團に動員が下令(第二次動員として)され、28日/、動員に着手します。
対ソ連開戦に際して第十二師團は關東軍最精鋭部隊として他の13個師團とともに、東正面(沿海州)に進撃しウオロシーロフ北方を制圧する計画でしたが、8月9日、対ソ連開戦は中止され『帝國陸軍作戰要綱』に基づき、再び石門子の警備、監視、訓練に復帰します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和18(1943)年9月30日、政府は御前会議において「絶對國防圏」を策定、中部太平洋方面の防衛強化のため關東軍隷下・指揮下部隊の転進が開始されます。

昭和19(1944)年2月21日、關東軍はロ號演習部隊(中部太平洋方面への転進部隊)の編成を開始、24日、『軍令陸甲第五十四號』により第十二師團にロ號作命が下令され、聯隊から第三大隊(岡本武市大尉)が抽出され、29日、第四派遣隊(第十二歩兵團司令部、歩二十四・歩四十六・歩四十八・野砲二十四各第三大隊、工十八第三中隊)が編成完結します。
同日、大隊は石門子を出発、3月6日、釜山港に集結、7日、「はんぶるく丸」に乗船し釜山港を出港、8日、門司港を経由、10日、派遣隊は第三十一軍(小畑英良中将、サイパン)に隷属転移、15日、高雄に上陸、4月1日、高雄を出港、10日、ダバオ沖に停泊の後、24日、ヤップ港に入港、上陸します。
5月22日、『軍令陸甲第五十七號』により第十二歩兵團司令部は獨立混成第四十九旅團に、大隊は獨立歩兵第三百二十五大隊に改編され、米軍の上陸に備え水際陣地構築を開始します。
米軍の爆撃下、大隊は島民を内陸部へ疎開させ、食糧難克服のため島民の協力を得てタロイモを増産しますが、五島、島原出身者によりサツマイモの栽培が開始され、最終的には芋焼酎も醸造しました。
ヤップ島は米軍の上陸が無かったものの、アメーバ赤痢、フランベシア、デング熱が発生、兵員の殆どが罹患、陣地構築作業に支障が出るなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

昭和19(1944)年11月22日、第十二師團は第十方面軍(安藤利吉大将、台北)戦闘序列編入され、12月11日、聯隊は石門子を出発、24日、列車で旅順港に到着、上陸訓練を実施した後、釜山に移動、昭和20(1945)年1月7日、釜山港を出港、8日、門司港に入港、10日、聯隊は輸送船3隻に分乗を開始、18日、第三大隊主力・第六中隊・歩四十八通信隊計890名は他部隊1,165名、馬匹113頭、自動貨車23両、舟艇10隻とともに「馬來丸」に乗船し鹿児島に向け出港しますが、25日1330、久志湾沖に差し掛かった際、米潜水艦シルバーサイズの放った魚雷2本を右舷二番船倉付近、船橋直下に被雷、1353、馬來丸は2つに折れて沈没、直ちに久志湾より漁船、大発が出港し救助作業を開始しますが、折からの降雨により視界が悪く救助は難航、1,612名(聯隊将兵677名)が散華してしまいます。

20日、聯隊本部・第一大隊主力乗船の「明秀丸」は鹿児島に向け出港しますが、24日、「明秀丸」が機関故障のため博多港に寄港、修理の後、29日、博多港を出港、2月6日、基隆港に入港します。

1月22日、第二大隊主力、第二機關銃中隊、第二大隊砲小隊、歩兵砲中隊、速射砲中隊、通信中隊は第十二師團司令部、歩四十八、野砲二十四第一大隊、同第二中隊、工十八、輜重十八第一・第二中隊、船舶工兵三十、同通信隊、仮編十三機關砲隊、第百八十八飛行場大隊とともに「くらいど丸」に乗船(計1,497名)し僚船7隻とともに門司港を出港しますが、29日0630、台湾基隆沖において米潜ピクーダの放った魚雷2本を被雷し沈没、生存者は海防艦に救助されますが、1,107名が散華してしまいます。
聯隊は転進中に戦わずして2個大隊の兵力を失う悲運に見舞われてしまいます。

空路、基隆に先行していた聯隊長・山根五郎大佐は第二大隊の生存者を掌握、第一大隊の到着を待って聯隊を再編成、2月11日、基隆を出発、臺南州嘉義に到着、聯隊は師團右地区隊として陣地構築、訓練を開始、3月10日、補充兵が到着し、聯隊は戦力を回復します。

5月29日、高雄州岡山に移駐、陣地構築、敵上陸部隊に備えた訓練を実施中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
22日、岡山神社において軍旗決別式が挙行され、軍旗は第十方面軍隷下第九師團歩兵第七(金沢)、第十九(敦賀)、第三十五(富山)、第十二師團歩兵第二十四(福岡)、第四十八(久留米)、第五十師團歩兵第三百一(台北)、第三百二(台南)、第三百三、第六十師團歩兵第二百四十九(台湾)、第三百四(台湾)、第三百五、第七十一師團歩兵第八十七(旭川)、第八十八(旭川)、第百四十(鳥取)各聯隊の軍旗14旒とともに台北の軍司令部に集結、軍司令官・安藤大将、各師團長、聯隊長、聯隊旗手、軍旗衛兵の見守る中、奉焼されました。

9月3日、軍需品管理のため憲兵隊を編成、12月、連合軍への引渡しが開始され、昭和21(1946)年1月末、復員を開始、4月13日、復員業務の終了を見届けた、第十二師團長・人見秀三中将は拳銃で自決、19日、聯隊は復員完結しました。


歩兵第五十五聯隊(菊八九〇二)
昭和12(1937)年9月9日、歩兵第四十六聯隊留守隊(野副昌徳大佐)に動員下令、9月16日、宮中において軍旗を拝受、聯隊は第十八師團(牛島貞雄中将)隷下歩兵第二十三旅團(上野龜甫少将)に所属します。
歩兵第五十五聯隊 軍旗(長崎)
▲歩兵第五十五聯隊 軍旗

10月、兵舎を船に見立てた上陸戦闘訓練を開始、10月7、8日、聯隊は兵営を出発、9日、「高千穂丸」に乗船し門司港を出港、10日、富江湾に投錨、湾内において上陸戦闘訓練を実施します。
12月20日、師團は第十軍(柳川平助中将)戦闘序列に編入され、11月2日、富江湾を出港、5日、聯隊は旅團とともに杭州湾南沙から北沙に敵前上陸し、11日、楓経鎮、15日、嘉善を攻略、25日、国民党政府の首都・南京に進撃を開始、下泗安を突破、広東東方十里店付近で支那軍3,000を撃破、30日、広徳に進出、12月4日、師團は敗残兵の退路遮断を下命され、十字舗に進撃し支那軍を撃破、6日、洪林橋、龍頭山の支那軍2,000と交戦、10日、夕蕪湖を攻略します。

12日、南京城が第六、第九、第十六、第百五十四各師團により攻略されたため、師團は南方からの脅威を排除するため杭州攻略を下命され転進、20日、聯隊は師團右翼隊として旅團とともに広徳に集結、進撃を開始、24日、杭州を攻略、警備にあたります。

昭和13(1938)年2月18日、第十八師團は中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され、聯隊は支那軍20個師と対峙しつつ、杭州から上海にかけて掃討戦を実施、8月2日、支那軍及び匪賊の根拠地・海塩を攻撃し敵3,000を撃破します。

9月19日、師團は第二十一軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に編入され澎湖島に集結、10日、出港、11日、バイアス湾に進入、12日、無血上陸に成功します。
13日、聯隊は北上を開始、敵の複郭陣地第一線を迂回し淡塘付近で牛江を渡河、14日、支那軍1個師の守備する第二線陣地の恵州を攻略、19日、五子洞付近で支那軍を撃破し追撃、増城に進出、20日、火砲を擁する支那軍の攻勢を撃破、21日、新庄付近で支那軍4,000を撃破、22日、龍村に進撃し師團の広東攻略を援護、同日、師團は広東を攻略します。
11月18日、広東南部の支那軍を撃滅するため、師團の東江南方地区掃討戦に参加、支那軍2,000を撃破します。

昭和14(1939)年10月16日、師團は広東北方の支那軍主力を翁源南方で捕捉撃滅するため、第二十一軍の翁英作戰に参加、増城に集結し北進、19日、永漢墟に、23日、左潭墟に進撃、標高600mを超える山岳地帯を踏破、25日、画眉堂、28日、茶子園を攻略し支那軍5,000を撃破、28日、羅江を渡河、29日、翁源を攻略しますが、31日、広東地区に敵の策動が予期されたため、南寧方面防衛のため反転、昭和15(1940)年1月7日、広東に帰還します。

13日、師團は軍の賓陽作戰に参加、聯隊は旅團ともに師團第二梯団として黄河から乗船、17日、欽州に上陸、27日、南寧南方に集結し、28日、旅團は師團先遣隊として永淳の敵陣に向け前進を開始、29日、永淳の支那軍500を攻撃しつつ西江を渡河、30日、永淳救援に来襲した支那軍を包囲撃滅、2月7日、聯隊は逆襲してきた支那軍を王雪付近で撃退、8日、援軍に現れた新手を激戦の後、新歩において撃破します。

昭和15(1940)年2月9日、第二十一軍戦闘序列が解かれ、南支那方面軍(安藤利吉大将)戦闘序列が発令、14日、第十八師團が編入され、22日、蚊虫村にて乗船、25日、黄浦に上陸し、広東に復帰、3月1日、聯隊は海南場に転進し匪賊を討伐します。
12月16日、聯隊は来るべき南方作戦に備え敵地上陸訓練を開始します。

昭和16(1941)年1月16日、我軍の北部仏印進駐に伴い援蒋ルートが海上輸送に変更されたため、『對支長期作戰指導』が確立され、援蒋ルート遮断、敵地封鎖が実施されます。
2月4日、歩兵第三十五旅團の韶路遮断作戰、歩四十七の電州遮断作戰に続き、4月19日から9月4日、聯隊第三大隊は旅團(侘美支隊)とともに福州南方に上陸し敵の退路を遮断、援蒋物資多数を押収(C四號作戰)、5月5日、聯隊主力は東江作戰に参加します。

昭和16(1941)年11月15日、第十八師團はマレー攻略担当の第二十五軍(山下奉文中将)に隷属転移、12月8日、大東亜戦争が開戦します。
12月20日、聯隊は師團のマレー上陸を容易にすべく先遣隊として広東東広を出港、28日、マレー半島のコタバル北方に上陸、昭和17(1942)年1月11日、クワンタンに集結後逐次南下を開始し、パハン河を渡河、14日、テラガパパンに進撃、15日、砂浜を通り、椰子林を踏破、17日、カンポンジャワ、18日、エンドウ、21日、エンドウ河を渡河、22日、エンドウの英軍陣地跡、23日、メルシンに進撃しますが、英軍5個大隊が守備する堅陣に遭遇したため、聯隊長・木庭大佐は迂回攻撃を企図、26日、メルシン市街地に突入した時は既に敵は退却していました。

27日、ゼマラン北方に進撃、英軍と遭遇戦になり、激戦の後撃破、28日、ゼマラン北方で聯隊の支援のため追求中の第五師團隷下の歩五十六と連絡、聯隊はクルアンに転進し、2月1日、師團に復帰します。
1月31日、師團はシンガポール攻撃準備に関する軍命令を受領、隷下部隊にクライ南方地区への前進、集結に関する部署を命じます。
2月4日、聯隊はセナイ付近の野営地を出発、ホナンエステートに集結、8日1215、山砲兵第十八聯隊が攻撃準備射撃を開始、0000、聯隊は英軍の散発的な銃砲火を受けつつ、左第一線として舟艇によりジョホール水道を渡り、0100、上陸に成功し進撃を開始、夜明けとともに戦車を伴う英軍の逆襲を受けたため、聯隊は一六九高地を占領し撃退しますが、50名の損害が出てしまいます。

2月13日、聯隊はシンガポール西海岸要塞攻略にあたるの第十八師團予備隊となり一一〇高地南側に集結、師團左翼隊として14日、ケッペルハーバーの英軍兵営を攻撃しますが、英軍の強固な家屋を利用した強力な機関銃陣地に阻まれ前進は遅滞、15日2200、英軍司令官・アーサー・パーシバル中将の降伏が伝えられたため、戦闘行動を停止します。
16日、入城式が挙行され、シンガポールは昭南島と改称されます。
シンガポール攻略に際し聯隊は350名が散華、330名が負傷してしまいました。
聯隊はジョホール州に移駐、治安の回復、英軍に協力して破壊工作に従事する敵性華僑の粛清にあたります。

4月2日、師團はビルマ攻略担当の第十五軍(飯田祥二郎中将)に隷属転移し昭南島を出港、7日、ラングールに上陸、16日、タガヤ、スワ南方に集結し、21日、聯隊は師團前衛としてイエジンを経てシャニワに進撃、六四二高地を迂回攻撃し英軍を撃破します。
22日、聯隊は師團第一梯団を構成し、27日、第二大隊がメイクテーラ飛行場方面の残敵掃討に分派され、28日、第一梯団はセドウに到着、29日、キュウセ付近で英軍を撃退、5月1日、マンダレーを攻略、3日、師團はマンダレー-ラシオ間の残敵掃討にあたり、18日、聯隊はケシマンサイに、7月、カローに、9月4日、カレワに、昭和18(1943)年1月、カーサ地区移駐し警備にあたります。

2月中旬、北部ビルマに英第77インド歩兵旅団(ウィンゲート空挺団)が侵入、3月5日、聯隊はインドウ南西で空挺団を捕捉、13日、テイギャン付近でイラワジ河渡河中の空挺団を撃破します。

4月、第三十一師團(佐藤幸徳中将)のビルマ進出に伴い、師團はミイトキーナ、フーコン谷地の警備にあたります。

8月上旬、第五十六師團(松山祐三中将、久留米)が怒江以西に侵攻中の支那軍の撃滅、第十八師團は第五十六師團の支援を下命され、9月下旬、聯隊から第二大隊が第百十四聯隊(丸山房安大佐、福岡)の指揮下に入り、20日、ミイトキーナを出発しサンド東方国境に、10月上旬、第一大隊は永野挺進隊としてカーサを出発、豪雨の中3,000m級の高梁貢山を踏破、六庫南方において支那軍野営地を撃破、10月下旬、猛古渡し付近で残敵300を掃討します(怒江作戰)。

昭和18(1943)年10月13日、師團は北部ビルマの確保、特にマイン、ミイトキーナの絶対確保を下命され、隷下部隊の配置転換中、フーコン谷地北端から米軍に支援された支那新編第一軍が侵攻、第三十一師團創設など相次ぐ将兵の転出による戦力の低下と、不利な状況下で即応体制が取れず最悪の状況でフーコン作戰を迎えます。

31日、要地・タルン河畔を防衛の聯隊第一大隊・歩五十六主力、要地・タローを防衛の第三大隊ともに米支軍に包囲され苦戦、統一指揮のためタローに急進中の聯隊長・山崎大佐以下本部・直轄部隊もタガック付近で強力な敵陣地に遭遇し進撃は遅滞します。
12月10日、タルン河北側のユパンガを防衛の第二大隊は火砲を擁する米支軍4個大隊侵攻を拒止ていましたが、28月、敵の総攻撃を受け、陣地の一部が奪取されてしまい、31日、師團命令により要地・タイバガ防衛のため転進を開始、聯隊は糧食補給が悪路に阻まれ遅れ、さらにマラリアが発生するなど損害が増加するなか、タルン河~タナイ河~タローに沿った防衛戦で米支軍の侵攻を拒止します。

12月23日、米支軍がカンタウ正面から侵攻を開始したため、聯隊主力は師團命令によりカンタウに転進、師團はマインカンで敵の侵攻拒止を決し、2月20日、隷下部隊はマインカンに集結、タローは遂に敵に奪取されてしまいます。

28日、第二大隊は米支軍に攻撃を開始しますが、強力な弾幕阻止射撃を受け頓挫、3月1日、米支軍が師團後方のワローバンに侵攻してきたため、師團はさらに、7日、ジャンプ-キンタンに転進、聯隊は師團の転進援護にあたります。
15日、戦車を伴う米支軍の侵攻に聯隊は主陣地右隊として肉迫攻撃で反撃し拒止に努めますが、サズップの師團司令部に敵が侵攻するに至り、26日、師團はさらにチングリン-ナムサイ河に転進を開始します。
28日、ラバン付近に米支軍が侵攻、カマイン道が遮断され、師團は包囲される危機的状況になりますが、先遣隊として先行していた聯隊第三大隊が敵を撃破し、師團との連絡に成功します。

昭和19(1944)年4月上旬、補給の遅滞、疫病の蔓延、栄養失調により著しく戦力の低下した第十八師團に対し、敵は新編支那軍5個師、米軍1個旅団、1個戦車軍、さらに背後に英空挺4個旅団を投入してきます。

4月7日、第三十三軍(本多政材中将)が新編され、11日、緬甸方面軍戦闘序列に編入、師團は第三十三軍に隷属します。

13日、チングリン-ナムサイ河の防衛戦も左右両翼からの敵の侵攻に混戦状態となり、師團はさらに10km後方のバクペンパム北端に転進、聯隊は右地区隊としてワラ高地に布陣します。
19日、米支軍がワラ高地に侵攻を開始、25日、歩百四十六、5月20日、歩四が援軍として到着、敵の侵攻を拒止しますが、5月28日、ミイトキーナ北埔に侵攻した英空挺部隊により後方連絡線を遮断されたため、師團命令によりワラ高地の放棄、カマインへの転進が下命されます。
6月2日、聯隊は左地区隊の歩五十六と連絡、豪雨の中転進を開始、13日、両聯隊収容のためインドウジ河畔に布陣していた山砲十八第三大隊が敵の急襲を受け、大隊長・長立川武久大尉以下60名が玉砕、16日、インドウジ河を渡河、22日、筑紫峠の輜重兵十二第二中隊の陣地に収容され、27日、サモワへ転進しますが、兵力は200名に激減、師團戦力は10個小隊程に低下していました。
師團はナンカンに転進、陣地構築、戦力回復につとめ、11月中旬、マンダレー防衛のため聯隊をナンカンに残置しモンミットに前進します。

30日、聯隊は米支軍に包囲されたバーモ守備隊(捜索二・原好三大佐、1,180名)の救出のためナンカンを出発、12月9日、ナミュ高地の敵陣を突破、敵はバーモから兵力を抽出し聯隊の包囲にかかったため、聯隊の進撃は遅滞しますが、敵のバーモ包囲環が破綻し、捜索二は脱出に成功、16日、聯隊は戦場を離脱し、ナンカンに帰還します。

昭和20(1945)年1月18日、聯隊は第五十六師團の指揮下に入り、米支軍のレド公路(援蒋ルート)開設阻止のため、ナンカンを放棄し、20日、ナンバッカ攻撃中の敵を撃破しナンバッカに入りますが、ナンカン、ワンチン、ナンバッカに米支軍が侵攻、第五十六師團に余力は無く、逐次ナンバッカ以南に転進、遂にレド公路が開通するも、米軍が目論む支那大陸からの我が本土空襲は実現しませんでした。

2月28日、第十五軍(片岡四八中将)はメイクテーラ奪還を企図、師團は東飛行場攻略のためメイミュー東方に集結し、3月6日、マンダレー南方のクメに進撃、12日、聯隊は湖東台を攻略、16日、東飛行場を攻略しますが、戦車を伴う敵の逆襲を受け後退、21日、再度攻撃を開始し飛行場を制圧しますが、敵の逆襲を受けた第四十九師團(竹原三郎中将、京城)の攻撃が遅滞、第十八師團も次第に守勢に転じ損害が増加、28日、メイクテーラ攻略は中止されます。

3月27日、我が国が育成したビルマ國民軍が英軍の工作により叛乱、4月23日、ラングーンが危機的状況になったため、緬甸方面軍司令部(木村兵太郎大将)はモールメンに転進します。

28日、兵力が1/3程度に低下した第十八師團はサジに転進を開始、聯隊は師團の転進援護にあたり、29日、完了、3月7日、さらにピヨペに転進し、聯隊は右第一線として水源地に布陣し、英印軍の侵攻に備え陣地を構築します。

4月9日、戦車を伴う英印軍の侵攻に聯隊陣地は破壊され、10日、軍命令により敵の包囲を突破しシンテ河畔に転進(聯隊兵力554名、師團総員3,100名)、4月19日、さらにピンナマに転進しますが、追撃してきた英印軍と交戦し大損害を受けながらも、シッタン河を渡河、26日、トングーに到着(師團総員2,000名)します。
28日、師團は軍先頭として前進を開始、師團先頭として前進していた聯隊はシュエジン河北岸において背反したビルマ國民軍の攻撃を受けますが、山砲十八の山砲1門(師團唯一の火砲)の協力を得て撃破、5日、敵の砲撃下、師團は渡河に成功し、シッタン東岸河口付近に布陣します。

7月3日、ウ號作戰(インパール作戦)に参加していた第二十八軍(櫻井省三中将)の転進援護のため、シッタン河西岸に渡河、聯隊は師團右翼隊として、サドワジョンの敵陣地攻略を目指しますが、4日、敵の激烈な迫撃砲・機関銃射撃に阻まれ攻撃は遅滞、7日、再攻撃も阻まれ損害は増加、8日、師團命令によりシッタン河東岸の旧陣地に復帰、シッタン河を渡河してくる第二十八軍の収容にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

聯隊は軍旗奉焼後、9月、チャイトにおいて武装解除、英軍に収容、昭和21(1946)年7月、ラングーン港を出港、27日、宇品港に上陸し、復員完結しました。


歩兵第二百二十七聯隊(冬三五四五)
昭和14(1939)年3月19日、『軍令陸甲第六號』により歩兵第四十六聯隊留守隊に臨時編成下令、23日、宮中において軍旗を拝受、25日、編成完結(荒木正二大佐、3,103名)します。
歩兵第二百二十七聯隊 軍旗(長崎)
▲歩兵第二百二十七聯隊 軍旗と初代聯隊長・荒木正二大佐(左)

聯隊は2月7日、留守第十二師團司令部において第六師團(熊本)と第十二師團(久留米)両司令部から抽出され、臨時編成された第三十七師團(平田健吉中将、久留米)隷下第三十七歩兵團(森本伊市少将、久留米)に所属します。

4月1日、師團は北支那方面軍(杉山元大将、北京)戦闘序列に編入され、第一軍(篠塚義男中将、太原)隷下に配属、5月5日、10隻の輸送船に分乗し博多港を出港、中華民國河北省塘沽に上陸、鉄道により山西省南部の晋南に移駐し、聯隊は「あ」地区隊として横水鎮付近85ヶ所に分駐し、支那軍9個師90,000と対峙し警備にあたります。
12月1日、軍の東作戰(夏縣東方中條山脈剿滅作戰)に参加、強固な敵陣に阻まれますが、夏県東方中條山脈の敵陣地を撃滅します。

昭和15(1940)年4月16日、晋南作戰に参加、支那軍の春季攻勢の機先を制して進撃、敵4個師に包囲されながらも敵の退却を誘い、敵縦深陣地を撃破します。
5月10日、手薄になった師團屯営に支那山西軍が侵攻してきますが、15日、師團は敵後方の郷寧を攻略し敵の退路を断ち山西軍5,000を捕捉撃滅します。

昭和16(1941)年3月10日、聯隊は百號作戰(中原會戰)の準備として要地・ラマ塔高地、横嶺関東方高地を攻略、5月7日、方面軍の百號作戰に参加、聯隊は師團右翼隊として進撃、10日、白狼渡、師家灘の敵渡河点を攻略し退路を遮断、軍の支那第一戦区軍第一五軍撃滅を支援します。
會戰で晋南一帯の支那軍を駆逐、聯隊の警備地区は黄河北岸全域の東西200kmに拡大します。
歩兵第二百二十七聯隊 昭和16年5月 中原會戰 中条山脈を突破(長崎)
▲昭和16年5月、中原會戰において中条山脈を踏破する歩兵第二百二十七聯隊

歩兵第二百二十七聯隊 昭和16年5月 中原會戰(長崎)
▲同じく中原會戰において簡易橋を渡る聯隊

昭和18(1943)年4月20日、軍の太行作戰に参加、聯隊は附城鎮を出発、22日、横水村西方高地の敵陣を突破し東進、支那二七軍を掃討します。

昭和19(1944)年1月4日、大本營陸軍部は『一號作戰計畫大綱案』を策定、師團は作戦に備え改編、3月15日、第六十九師團(三浦忠次郎中将)に晋南警備を引き継ぎ、3梯団に別れ列車にて南下し開封東方に集結、31日、師團は第十二軍(内山英太郎中将)戦闘序列に隷属転移、4月18日、京漢作戰に参加、聯隊は鄭州挺進隊に部署され、黄河を渡河し中牟に進出、20日、鄭州を攻略し、許昌に進撃します。

18日、師團予備隊に部署された第二大隊は王庄付近から黄河を渡河、黄河対岸、五里庄、新庄、孟庄の敵を撃破しつつ南下し、許昌に進撃します。
4月30日、許昌城の攻撃を開始、5月1日、許昌城を攻略し潰走する支那軍を捕捉撃滅、聯隊はさらに南下し、郾城付近で支那騎兵第三師500騎を撃破、3日、聯隊は第二十七師團(竹下義晴中條)の指揮下に入り、5日、郾城県城を攻略し、14日、南庄で師團に復帰します。

14日、聯隊は洛寧挺進隊として南庄を出発、峻険な山岳地帯を踏破し、15日、木柵関で、16日、洛寧南側、草荘頭、谷圭付近で支那軍1,000を撃破、17日、東王村に進出し、さらに南西に進撃、19日、上辺高地、周家岑で支那軍を撃破、20日、新庄に進撃し残敵を掃討し、作戰を終了します。

6月17日、聯隊は師團本隊として郾城から南進、27日、信陽から列車で南下し、7月15日、武昌に集結、17日、第十一軍(横山勇中将)戦闘序列に隷属転移、戦力の回復にあたります。

8月3日、師團は軍の在支米軍飛行場を破壊、大陸打通を完成させるべく衝陽作戰に参加、15日、長沙に集結、24日、聯隊は師團先遣隊として衝陽に前進、27日、永豊に進撃、10月3日、宝慶城を攻略、10月1日、宝慶を出発し南進、12日、零陵付近に集結し、31日、聯隊は桂林攻略に際し敵の退路遮断のため、11月7日、桂林南方の老甫里、岩山高地付近に展開、10日、桂林城は師團により攻略され、聯隊は敗残兵を捕捉撃滅し、聯隊は官橋村周辺の警備にあたります。

12月2日、柳州に移駐、3日、聯隊は師團先遣隊として南下、19日、第三十七師團は印度支那駐屯軍(土橋勇逸中将、ハノイ)戦闘序列に隷属転移、仏印への転進が正式に決定します。

昭和20(1945)年1月7日、聯隊は南寧に進出、17日、馮祥、25日、中華民国-仏印国境の鎮南関を越え、2月1日、バクニンに到着、2月上旬、聯隊は本部・第二大隊主力をハイフォン、第三大隊をセッパゴート、第十一中隊をハイドン、第一大隊は獨立混成第七十旅団指揮下にサイゴンに移駐し、警備にあたります。

3月9日、聯隊は軍の「明號作戰」に参加、仏印軍が連合軍と呼応して蜂起するのを防ぐべく、各警備地において仏印軍を急襲し武装解除、以降、4月4日まで逃亡した仏印軍を追撃します。
3月下旬、聯隊は米軍の上陸に備え、聯隊主力をハイフォン、第三大隊をホンゲイ、第九中隊をカンファー、第十一中隊をカクバ島、第十二中隊をパッチャーに配置し、陣地構築を開始します。

5月上旬、第三十七師團は北部仏印から泰國ナコンナヨックへの転進が決定、逐次原駐地を出発、6月中旬、師團は第三十九軍(中村明人中将、バンコク)指揮下に入り 、21日、聯隊はバンコク駅に到着、曳舟によりメナム河を遡上し、25日、主力はナコンナヨック、第一大隊はバンコクに到着し、陣地構築を開始します。

7月13日、ナコンナヨック集結中の第三十七師團は南方軍司令部(寺内壽一大将)より、さらにマレー半島転進を下命され、24日、第一大隊、30日、聯隊主力は曳舟により西進しバンボンを経由し南下、ラチャブリーより列車で南下を開始します。

8月10日、我が国のポツダム宣言受諾方針を傍受した泰國政府は動揺、泰国内の騒乱状態を防止すべく、12日、南方軍司令部は馬来半島南下中の第三十七師團に反転を下命、13日、聯隊は第一大隊をプケットマタジャブに残置しプラチャップキリカン付近で反転北上を開始、8月15日ラチャブリー付近で、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

聯隊はナコンナヨックに集結、軍旗を奉焼、英軍に収容の後、昭和21(1946)年5月、バンコク港を出港、6月、浦賀港に上陸し、復員完結しました。
聯隊は中華民國山西省運城縣を昭和19(1944)年4月8日に出発、延べ495日、10,400kmを踏破、「最も歩いた聯隊」と言われています。


歩兵第百四十六聯隊(龍六七三五、西部第四十七部隊)
昭和15(1940)年8月1日、滿洲駐箚中の第十二師團の滿洲衛戍が決定したため、歩兵第四十六聯隊補充隊は歩兵第百六十八聯隊に改編(山本恭平大佐)され、留守第十二師團を改編した第五十六師團(渡邉正夫中将、久留米)隷下の第五十六歩兵團司令部(坂口靜夫少将、久留米)に配属され、9月27日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第百四十六聯隊 軍旗(長崎)
▲歩兵第百四十六聯隊 軍旗

昭和16(1941)年10月1日、第五十六師團に坂口支隊の編成下令、30日、編成完結(第五十六歩兵團長・坂口少将、第五十六歩兵團司令部、歩兵第百四十六聯隊、第五十六師團装甲車隊第四中隊、野砲兵第五十六聯隊第一大隊、工兵第五十六聯隊第一中隊、輜重兵第五十六聯隊第二中隊、第五十六師團衛生隊第三中隊、第五十六師團第一野戰病院、人員5,200、馬匹1,200、自動車100)します。
11月6日、『大陸命第五百五十五號』により第十六軍(今村均中将)戦闘序列が下令、坂口支隊は第十六軍に隷属転移(その間、10日、『軍令陸甲第八十五號』により師團に臨時動員下令、12月22日、動員完結)します。
11月17日、聯隊は大村を出発し門司に移動、19日、門司港を出港、28日、パラオ島コロール港に入港、ガラオマオ島において上陸訓練にあたります。

我が国は外交交渉による戦争回避を図りますが、26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月8日、大東亜戦争が開戦します。

同日、米比軍の退路遮断、海軍の進出支援、「H作戰(蘭印攻略作戦)」準備のため支隊にダバオ、ホロ島の攻略が下令され、16日、支隊はパラオにおいて三浦支隊(第十六師團隷下歩兵第三十三聯隊第一大隊長・三浦俊雄中佐)を編入、17日、輸送船8隻に分乗しパラオを出航します。
20日、第四航空戰隊(角田覚治少将:龍驤)の直掩により、三浦支隊がダバオに上陸しますが、直後に海軍機の誤爆により三浦支隊の50名が散華してしまったため坂口支隊歩百四十六第三大隊(松本治中佐)が支援上陸、同日中にダバオを攻略し監禁されていた在留邦人300名を救出、23日、第三大隊はダバオを出発し、24日、クリスマスの酒宴に浮かれる米比軍を奇襲、25日、ホロ島を攻略します。

ダバオ攻略後、三浦支隊は歩三十三に復帰、支隊は第二大隊を残置し呉第二特別陸戰隊とともに出港、昭和17(1942)年1月10日、タラカン島東海岸に2手に分かれて上陸、11日、タラカン島を攻略し蘭印軍1,400を降伏させ、蘭人住民の保護監視にあたり、15日、第三大隊がホロ島から追求、聯隊に復帰します。

1月20日、南方軍總司令部より第十六軍に「H作戰」下令、22日、支隊はタラカン島を出港、24日、聯隊は強襲隊(聯隊主力)、飛行場攻略隊(第一大隊:久米本三中佐)が南から、迂回した急襲隊(第二大隊:金氏堅一少佐)が北からバリクパパンに上陸を開始しますが、直後に米英蘭豪連合艦隊の襲撃を受け、第三大隊主力乗船の呉竹丸が沈没、武器弾薬の多数が海没するも、25日、バリクパパン市街を攻略、急襲隊は撤退中の敵守備隊と遭遇し撃破、飛行場攻略隊はサンガサンガ付近の油田地帯を攻略、第一大隊はサマリンダの残敵掃討にあたり、続いて聯隊は陸海2路より南下し、進撃するに従い自転車、車両、食料支援など次第に現地人の協力が増加、2月10日、コタバル、11日、バンジェルマシン及びマルタブラ飛行場を攻略します。

15日、第十六軍から支隊にジャワ島転進が下命され、支隊は第一大隊を残置しバリクパパン付近に集結、22日、バリクパパン南方海岸に投錨した第二次輸送船團に乗船し、第四十八師團(土橋勇逸中将、台湾)区処下に編入され南下、支隊は山本梯團(歩百六十八聯隊本部、金氏梯團(第二大隊基幹)、松本梯團(第三大隊基幹)を編成します。

3月1日0100、第二次輸送船團はクラガン泊地に投錨、0700、金氏梯團がクラガン東南6km地点に上陸しプロラを攻略、2日、1230、山本梯團、松本梯團が上陸しプロラに前進、金氏梯團を先頭に南下、山本梯團、松本梯團が自動車により続き、ンガエンで蘭印軍を撃破、3日、レンバン、プルワダチィ、ブゲル、チャブーを攻略、5日、スラカルタ北方で装甲車を伴う蘭印軍を撃破し、スラカルタ、ポヨラリ、ジョグジャカルタを攻略、プルワルジョ、クブメン、ゴムポンで蘭印軍を撃破、鹵獲貨物自動車に分乗し400kmを進撃、6日、マゲラン、マゲラン、スマラン、ブルオケルト、8日、目標のチラチャップを攻略、敵の退路を遮断します。

8日1600、カリジャティー飛行学校において今村司令官と蘭印総督チャルダ・V・スタルケンボルフ・スタックハウエル、蘭印軍総司令官ハイン・テル・ポールテン中将との間に停戦協議が持たれ、蘭印側はバンドン地区防衛兵団のみの降伏を主張しますが、我軍はジャワ所在全連合軍の降伏を要求、蘭印側はこれを受諾、9日午前、ラジオ放送で蘭印軍降伏がジャワ全島に放送されます。

9日、蘭印軍・コックス少将が山本聯隊長に降伏、10日、山本、金氏両梯團はタシクラマヤ付近、松本梯團はアジバラン付近においてワンゴン以北の蘭印軍を武装解除、開戦以来の坂口支隊の損害は49名散華、109名負傷、H作戰期間中では3名散華、46名負傷でした。

17世紀初頭から約350年に及ぶオランダによる東インドの植民地支配(典型的な愚民化、収奪型)は、第十六軍の進撃に僅か8日で終焉を迎えました。
我軍の快進撃は南方軍宣伝班がサイゴン進出後、第十六軍の蘭印攻略に先んじ実施していたラジオ放送を通じた宣撫工作が成功した事に加え、ジャワ島に古くから伝承された『ジョヨボヨ王の予言』に我軍を仮託した住民が、第十六軍の上陸、進撃を日の丸と紅白旗(Sang Merah Putih:現在のインドネシア共和国国旗)を振って歓呼で迎え、各地で食料提供、荷物運び、蘭印軍の設置した障害物の除去等を率先して支援してくれた事が要因でした。

3月31日、坂口支隊はチラチャップ港を、ボルネオ島サンガサンガ警備中の第一大隊はバリクパパンを出港、昭南島(シンガポール)に集結後、4月13日、昭南島を出港し、20日、ラングーンに上陸、22日、ラングーンを出発し北上、30日、ラシオにおいて第五十六師團に復帰します。
師團長・渡邉中将は坂口支隊の編成が独立任務に適している事から、滇緬(てんめん)公路(援蒋ルート:ビルマルート)を進撃中の松本部隊(歩百四十八:聯隊長松本喜六大佐)をミイトキーナ攻略に転進させ、坂口支隊に滇緬公路進撃を下命、支隊は北上し松本部隊が攻略した畹町(ワンチン)を通過、芒市、龍陵東方において支那軍を撃破、5月5日、怒江(サルウィン河)を渡河し東岸高地、騰越を攻略、10日、支那軍の退路を遮断し残敵を掃討、17日、第一大隊はセンウイ付近、23日、モンユで支那軍を撃破、以降、坂口支隊は解隊され聯隊は師團とともにイラワジ河上流の掃討にあたります。
10月、聯隊主力は畹町、第一大隊は平戞、第三大隊はナンカンの警備、住民の宣撫にあたります。

昭和18(1943)年2月初旬、聯隊は怒江西岸を北上し支那軍の掃討にあたり、10月13日、ウ號作戰(インパール作戦)の準備として怒江西岸に侵攻している支那軍拠点を撃滅し支那軍を東岸地域に封じ込めるべく、師團は第十五軍(牟田口廉也中将)の怒江作戰に参加、15日、橋頭街を攻略、19日、空査河南方等で支那軍を撃破、25日、作戦は終了しました。
11月16日、聯隊は師團の平戞地区討伐作戦に参加、怒江東岸に渡河し支那軍陣地多数を破壊、支那雲南遠征軍の初動を封じます。

昭和19(1944)年4月7日、師團は新設された第三十三軍(本田政材中将)隷下に配属されます。
16日、聯隊は北部ビルマに侵攻する英第77インド歩兵旅団(ウィンゲート空挺団)討伐中の第二・第三大隊を招集、第一大隊(安部和信少佐)を平戞防衛に残置し、ミイトキーナ、モガウンを経て、25日、米支軍の南下を阻止している第十八師團(田中新一中将、久留米)の指揮下に入り、フーコン谷地に進出します。
聯隊主力は歩五十五が守備するワラ高地の後方に侵攻する米支軍を拒止すべくマンピンを攻略しますが、5月28日、ミイトキーナ北方に侵攻した英空挺部隊、セトンへの米支軍の急速な浸透により、師團は後方連絡線を遮断されたため、補給路確保のため、第二大隊はナムクイン周辺の空挺部隊討伐に向かうも捕捉できませんでした。
引き続き第二大隊はマカイン道打通のためセトンの敵陣を攻撃しますが、補給が途絶し弾薬、糧食が欠乏しているうえ、頑強な銃砲火に阻まれ頓挫、師團命令によりワラ高地の放棄、カマインへの転進が下命され、聯隊主力はラワ、ラガウンに転進します。

5月11日、支那第二〇集団軍(雲南遠征第五三・五四軍(各2個師基幹))が怒江を渡河し侵攻を開始、12日、平戞に侵攻して来た支那遠征軍を第一大隊は師團から派遣された歩百十三第二大隊とともに再三撃破しますが、支那軍は逐次兵力を増援し、遂に平戞は攻囲され連絡が途絶えてしまいます。

7月2日、ウ號作戰は中止され、フーコン谷地の第十八師團も大損害を受けてモガウン南西のサモワに転進、2月に及ぶ支那第二〇集団軍の攻撃に第五十六師團は損害が増加、拉孟、騰越、平戞の守備隊は敵中に孤立してしまいます。
11日、木康北方地区から帰還した歩百十三聯隊が芒市より進撃を開始、悪天候、悪路に苦戦しながらも平戞攻囲中の支那軍を突破し、第一大隊と連絡、軍需品を補給し傷病者を収容し、芒市に帰還します(第一次平戞救出作戰)。

7月下旬から8月下旬、フーコン谷地に派遣されていた歩百四十六聯隊主力は大損害を受けながらも、芒市に到着し第五十六師團に復帰、8月26日、軍司令官・本田政材中将は孤立した拉孟、騰越、平戞守備隊救援を下命します。
聯隊は歩百十三とともに滇緬(てんめん)公路両側地区から北上、木康北方地区の敵に攻撃を開始するも、地の利を活かした頑強な敵陣地に攻撃は遅滞、27日、公路西側に迂回し、31日、双坡西方に進撃、敵陣を撃破しつつ雲龍山、9月5日、龍陵河南側高地、11日、老戸山を攻略しつつ、敵の逆襲を撃破、龍陵突破(龍陵會戰)を図るなか、9月7日、20倍の支那軍に包囲されていた拉孟守備隊(野砲兵第五十六聯隊第三大隊長・金光恵次郎少佐以下1,270名)が玉砕、14日、同じく騰越守備隊(歩兵第百四十八聯隊長・蔵重康美大佐以下2,025名)が玉砕してしまい、14日、本田中将は「この年齢にになるまで嘗て味わった事のない悲痛な思い」と消沈、同日、進撃中の両聯隊に作戰中止を下達します。

17日、両聯隊は芒市に集結、続いて平戞に向け進撃を開始、歩百十三が勲山一帯を攻略、聯隊は法印、回施、太平子、良子寨、大硝河道を突破、胡寨付近で支那軍を撃破し第一中隊を救出、24日、平戞に突入し安部少佐以下第一大隊を救出、23日、平戞西方8kmにおいて追撃してきた支那軍を撃破、25日、芒市に帰還します(第二次平戞救出作戰)。

26日、聯隊は龍陵方面に布陣する第二師團(岡崎清三郎中将、仙台)と逐次交代し陣地構築を開始しますが広範囲の陣地、築城資材不足により、工事は進捗せず、10月29日、支那軍の火砲、航空機に支援された攻勢が開始されると、聯隊の損害は増加、11月3日、師團命令により龍陵を放棄し転進を開始、5日、芒市北地区の防衛にあたります。
同日、支那軍は芒市に侵攻、聯隊は防戦に努め、敵の攻勢を拒止しますが、支那軍はさらに芒市後方の遮方に侵攻する企図を見せたため、19日、師團は芒市を徹し、20日、芒市南方8kmの法怕河以南に転進、11月30日、さらに畹町(ワンチン)に転進し布陣、支那軍の拒止につとめます。
師團は連日、戦車、航空機を擁する支那軍の攻勢を食料、弾薬の補給が途絶え、寡兵ながら畹町、ムセ、モンユにおいて拒止しますが、昭和20(1945)年1月5日、後方のナンバッカが英空挺部隊に攻撃されるに及び、1月27日、師團は聯隊第二大隊に退路確保のためナンバッカに急進させ、畹町地区を徹し、2月10日、センウイ(ラシオ北方)、さらにラシオに転進、遂にレド公路の開通を許してしまいます。

3月7日、米支軍の急侵にラシオが陥落、聯隊は師團の転進援護のためシボウ南方高地に布陣し、北方高地の歩百十三の側面援護にあたり、追撃してきた米支軍を撃破、多数の軍需品を鹵獲、師團はシボウ東方において米支軍の侵攻を拒止します。
しかし、体勢を立て直した米支軍、及び英印軍の攻撃にシボウが陥落、3月中旬、ラシオ-シボウ-マンダレーが打通されたため、4月中旬、師團はシボウ南方のワンコンタン、モンナウン、ケシマンサン、ナリップ、ナンウオ、キャウネの北西に布陣し支那軍の侵攻を拒止するとともに、援蒋ルートの阻害にあたります。

続いて、師團は北方の支那軍を拒止し、トングーに転進中の第十五軍の援護のためシャン高原に転進、聯隊はロイコー街道を遮断しつつ、ホーポンに築城、支那軍の侵攻は停まりますが、破壊工作、連合軍の謀略による現地人の離反しより治安が悪化します。
6月上旬、英印軍がホーポンに侵攻を開始、聯隊陣地全線に渡り戰車を伴う攻撃に晒され損害が増加、8月8日、師團は第十八方面軍(中村明人中将、バンコク)、次いで9日、第十五軍(片村四八中将、ランバン)隷下に編入され、英印軍の侵攻を拒止すべく、怒江(サルウィン河)以東に転進し、チェンマイ地区の防衛を下令され転進中、8月15日、聯隊は菊平橋付近で停戦に関する電令を受信、16日、停戦を迎えました。
聯隊長・今岡宗四朗大佐は軍旗奉焼を下命されますが、怒江渡河点のケマピュにおいて軍旗を裁断、全将校に分配します。
歩兵第百四十六聯隊 軍旗 (2)(長崎)
▲大村駐屯地に展示されている歩兵第百四十六聯隊 軍旗の一部

10月、チェンマイに集結、11月、チェンマイを出発しナコンナヨックに到着、英軍に収容され、昭和21(1946)年5月、ナコンナヨックを出発、バンコクから出港し、大竹港に上陸、復員完結しました。


歩兵第百八十八聯隊(積一五一〇三)
昭和19(1944)年4月6日、歩兵第百四十六聯隊補充隊を改編し、歩兵第百八十八聯隊が編成(石井元良大佐)され、留守第五十六師團を改編した第八十六師團(伊佐一男中将、久留米)隷下の第八十六歩兵團司令部に配属され、26日、宮中において軍旗を拝受します。
師團は昭和20(1945)年4月8日、西部軍(下村定中将、小倉)から新設された第五十七軍(西原貫治中将、財部)戦闘序列に隷属転移します。
7月6日、臨時動員下令、12日、動員完結し、師團とともに鹿児島県大隅半島以南の防衛のため志布志に移駐、8月12日、聯隊を基幹として『捷號作戰ニ伴フ海上機動反撃準備要項』に基づき、沖縄逆上陸部隊(攻撃部隊)が編成(聯隊、野砲兵1個大隊、機関銃1個中隊、工兵1個中隊、師團通信隊の一部、師團衛生隊1/3)され、8月下旬、指宿付近に集結し、機動輸送中隊、船舶工兵聯隊等から舟艇を供与され、教育訓練を実施します。

昭和20(1945)年1月下旬、攻撃部隊は作業隊を編成し、簡易洞窟陣地の構築を開始しますが、3月下旬、沖縄までの距離、舟艇の準備、敵制空権下での逆上陸等が困難な事から作戦は中止され、聯隊は師團に復帰し鹿屋地区隊の基幹部隊として波見、高山、大塚山、崎園に陣地構築、対空挺、対敵上陸部隊の訓練中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

27日、聯隊は連合軍が設定した限界線(加治木-末吉-油津)以北に転進を開始、30日、第八十六師團隷下の歩兵第百八十七(可西清二大佐、福岡)、歩兵第百八十八、歩兵第百八十九(山方知光大佐、久留米)、歩兵第三百六十四(竹之内繁男大佐、敦賀)各聯隊の軍旗4旒は師團司令部のある松山城二之丸跡において、師團長・芳仲和太郎中将、各聯隊長立ち会いのもと奉焼、9月4日、復員事務を開始、9月28日、復員完結しました。
現在、松山城二之丸には軍旗奉焼後直後に建立された「神州不滅の碑」が建立されています。


歩兵第二百九十三聯隊(玄二二〇〇四)
昭和20(1945)年2月6日、『軍令陸甲第二十一號「在内地、朝鮮師團及獨立混成旅團、警備旅團等臨時動員編成改正、並第三百二十三次復歸(復員)要領」』により歩兵第百四十六聯隊補充隊により、歩兵第二百九十四聯隊とともに臨時動員(越智鶴吉大佐)されます。

聯隊は留守第五十六師團司令部において臨時動員された第九十六師團(飯沼守中将/第五十八軍(永津佐比重中将)戦闘序列)に配属され、28日、宮中において軍旗を拝受、大村を出発し師團作戦地の朝鮮済州島に進出し、陣地構築中に停戦を迎え、11月5日、復員完結します。


歩兵第二百九十四聯隊(玄二二〇〇五)
昭和20(1945)年2月6日、『軍令陸甲第二十一號「在内地、朝鮮師團及獨立混成旅團、警備旅團等臨時動員編成改正、並第三二三次復歸(復員)要領」』により歩兵第百四十六聯隊補充隊により、歩兵第二百九十三聯隊とともに臨時動員(菊地安一大佐)されます。

聯隊は留守第五十六師團司令部において臨時動員された第九十六師團(飯沼守中将/第五十八軍(永津佐比重中将)戦闘序列)に配属され、28日、宮中において軍旗を拝受、大村を出発し師團作戦地の朝鮮済州島に進出し、陣地構築中に停戦を迎え、11月5日、復員完結します。


歩兵第四百五十四聯隊(護西二二八〇四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、『軍令陸甲第三十四號「在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領」』に基づき、歩兵第百四十六聯隊補充隊により臨時動員(秋富勝次郎大佐)され、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、『軍令陸甲第三十四號』に基づき、留守第五十六師團司令部により臨時動員された沿岸配備師團である第百五十六師團(樋口敬七郎中将/第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列)に隷属します。

聯隊は師團の作戦地である宮崎県本庄に進出、陣地構築中に停戦を迎え、9月28日、復員完結します。


歩兵第五百十八聯隊(菊池三二六〇五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月23日、『軍令陸甲第六十一號「第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領」』に基づき、久留米師管區歩兵第三補充隊(旧歩兵第百四十六聯隊補充隊)により臨時動員(松倉民雄中佐)され、6月11日、宮中において軍旗を拝受します。

4月23日、『軍令陸甲第六十一號』に基づき、久留米師管區司令部により臨時動員された機動打撃師團である第二百十二師團(櫻井徳太郎少将/第十六方面軍(横山勇中将)戦闘序列)に隷属します。

聯隊は師團の作戦地である宮崎県都農(つの)に進出、兵力の1/3は陣地構築、2/3は阿蘇山麓付近において訓練中に停戦を迎え、9月28日、復員完結します。


歩兵第三百六十聯隊(千歳三二六二四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、『軍令陸甲第八十四號「師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領」』に基づき、久留米師管區歩兵第三補充隊(旧歩兵第百四十六聯隊補充隊)により臨時動員(大塚正博中佐)され、7月23日、宮中において軍旗を拝受します。

5月23日、『軍令陸甲第八十四號』に基づき、久留米師管區司令部により臨時動員された沿岸配備師團である第三百十二師團(多田保中将/第五十六軍(七田一郎中将)戦闘序列)に隷属します。

7月20日、聯隊は師團の作戦地である佐賀県唐津、呼子に進出、8月1日、築城作業にあたるなか停戦を迎え、9月21日、復員完結します。


編成(歩兵以外、大隊以下)、補充を担当した部隊
歩兵第七十二聯隊 第三大隊(昭和13年4月23日)

獨立歩兵第百大隊(昭和15年11月30日)

建築勤務第六十四中隊(昭和16年7月13日)

機動第二大隊(昭和18年11月16日)

獨立歩兵第百七十九大隊(昭和18年12月9日)

獨立歩兵第二百二十七大隊(昭和18年12月10日)

獨立歩兵第二百三十大隊(昭和18年12月10日)

兵站勤務第二百六十六中隊(昭和19年2月28日)

第八十五兵站警備隊(昭和19年3月14日)

要塞建築第七中隊(昭和19年3月14日)

要塞建築第八中隊(昭和19年3月14日)

大東島支隊(昭和19年5月3日、第八十五兵站警備隊を改編)

獨立歩兵第百一大隊(昭和19年8月19日)

陸上勤務第百二十八中隊(昭和19年11月14日)

陸上勤務第百二十九中隊(昭和19年11月14日)

獨立歩兵第五百六十九大隊(昭和20年1月16日)

獨立歩兵第五百七十大隊(昭和20年1月16日)

獨立混成第八十八旅團司令部(昭和20年2月1日)

獨立歩兵第五百七十九大隊(昭和20年2月1日)

獨立歩兵第六百三十四大隊(昭和20年2月1日)

獨立歩兵第六百三十五大隊(昭和20年2月1日)

獨立警備歩兵第三十九大隊(昭和20年2月1日)

獨立警備歩兵第四十大隊(昭和20年2月1日)

獨立警備歩兵第四十一大隊(昭和20年2月1日)

陸上勤務第百三十一~百三十六中隊(昭和20年2月17日)

獨立歩兵第六百三十九大隊(昭和20年3月16日)

獨立歩兵第六百四十大隊(昭和20年3月16日)

獨立歩兵第六百四十一大隊(昭和20年3月16日)

第五十九獨立通信作業隊(昭和20年5月23日)

第六十獨立通信作業隊(昭和20年5月23日)

第六十六獨立通信作業隊(昭和20年5月23日)

第六十七獨立通信作業隊(昭和20年5月23日)

建築勤務第五百十七中隊(昭和20年6月14日)

特設陸上勤務第五十一中隊(昭和20年2月1日)


主要参考文献
『大村陸軍 : 郷土部隊五十年の足跡』(昭和58年8月 村井敏郎)

『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』(昭和53年10月 ノーベル書房)

『日本陸軍連隊総覧』(平成2年9月 新人物往来社)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

陸上自衛隊 大村駐屯地 資料館
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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