当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

相浦海兵團

長崎県佐世保市大潟町に所在する陸上自衛隊・相浦(あいのうら)駐屯地は相浦海兵團の跡地にあります。
相浦海兵團 エ ボートダビット基礎 南東から(長崎)
▲相浦駐屯地内に遺る短艇ダビットの基礎

【探索日時】
平成24年11月29日





相浦海兵團の概要
相浦海兵團
海兵團とは各鎭守府、警備府、要港部に属し、下士官、兵の補欠員収容、艦船部隊へ定員の補充、及び練習部を設置し海軍新兵の教育訓練を行いました。
志願、兵役による入団者は海兵團において徴兵は4ヶ月半、志願兵は5ヶ月半、海軍軍人としての基礎を学びました。

昭和9(1934)年3月27日、米国は所謂ヴィンソン・トランメル法を成立させ海軍軍備の拡張を計画、昭和11(1936)年1月15日、我が国はロンドン海軍軍縮会議を脱退し再び軍備拡張期に入ります。
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発、我が国の早期解決の方針は支那国民党政府の度重なる不法行為により尽く反故にされ、事変は長期化していきます。
海軍は事変の完遂、第三国の干渉を防ぐため戦備の強化を急ぎ、募兵を強化・拡大したため、予備役招集、部隊訓練に加え練習部において新兵教育を管掌していた横須賀、呉、佐世保、舞鶴各海兵團では充分な受入れ、教育が不可能な事から各海兵團の増設と、新兵教育の移管が決定します。

佐世保海軍建築部は幕末の慶応年間に干拓された相浦川河口の大潟新田に新海兵團用地を決定し、用地を買収、昭和16(1941)年11月20日、佐世保第二海兵團(板垣盛さかん大佐)が開團、21日、開團式を挙行し(他の3海兵團もそれぞれ第二海兵團を開團)、水兵科、機関科、工作科、看護科、主計科、整備科の教育を開始します。
相浦海兵團本部庁舎(長崎)
▲相浦海兵團本部庁舎(昭和50年6月、解体)

海兵團入團者は二等水兵に任命(昭和17年10月31日まで四等水兵)され、各兵科の教班15名程(長は下士官)に別れ教育を受けました。
教育期間は志願は6月入団で5ヶ月半以内、徴兵は1月入団で4ヶ月半以内でしたが、昭和15(1940)年入団者から4ヶ月、さらに昭和18(1943)年からは3ヶ月半で終業し、実施部隊へ配属されました。
また軍学校進学者は1ヶ月早く終業し、各種学校に配属されました。

昭和17(1942)年9月1日、優秀な下士官養成を目的とした、第一期海軍練習生(所謂、海軍特別年少兵)が入團してきます。

昭和19(1944)年1月4日、佐世保第一海兵團は佐世保海兵團、佐世保第二海兵團は相浦海兵團に改称(他の第二海兵團も改称)します。

昭和20(1945)年4月1日、海軍省は各海兵團を決號作戰(本土決戦)に向け戦力化するべく、在団被教育者を警備隊として編成を下令、相浦海兵團は新兵教育と並行し相浦海軍警備隊(海兵團長・須知幸太郎大佐兼務)として相浦を中心とした北九州の防衛、施設防護、対敵上陸部隊訓練を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月22日、米第5海兵師団が佐世保海軍水上機基地から上陸、相浦海兵團は接収されキャンプ・アイノウラと改称、海兵師団司令部が設置され、占領政策が開始されますが、12月8日、長崎、諫早を占領していた海兵第2師団に指揮権を移譲し、19日、離日、相浦海兵團跡は米歩兵隊第34連隊が進駐しキャンプ・モウアーと改称されます。
昭和30(1955)年8月、相浦海兵團跡は我が国に返還され、10月21日、陸上自衛隊・針尾駐屯地から第8新隊員教育隊が移駐し、陸上自衛隊・相浦駐屯地が開設され、現在、は西部方面混成団、及び陸自最強と言われる西部方面普通科連隊が駐屯し、我が国の平和を護っています。

因みに僕の知人の御父様は昭和20(1945)年2月1日、志願兵として相浦海兵團に入団、第三十一突撃隊(矢岳)に配属され、停戦を迎えました。
履歴原票
▲知人の御父様の履歴原票

相浦海兵團 相浦海兵團(長崎)
▲『施設及附属機器目録(8月31日現在)相浦海兵團』所収配置図(以下「配置図」)

相浦海兵團 相浦海兵團(NI-52-17-5 230407)(長崎)
▲昭和23年4月7日の相浦海兵團跡空撮(国土地理院 NI-52-17-5)

相浦海兵團 相浦海兵團(現在)(長崎)
▲遺構の配置


遺構について※青字は地図にリンクしています
記号は上掲地図参照
カタカナ・・・海軍関連(確実)
アルファベット・・・建物(不確実)
ひらがな・・・それ以外

ア 庭園
樹木は海軍時代の物で、藤棚、池は戦後のものです。
相浦海兵團 ア 庭園(長崎)


イ 大潟神社跡
昭和18(1943)年1月3日、海兵團内神社として英霊をお祀りするため鎮座しました。
停戦に伴い英霊が涜されるのを防ぐため、遷座され社殿は荒れてしまいますが、佐世保海友会により復旧され、昭和46年3月8日、落成式が挙行されました。
相浦海兵團 イ 隊内神社「大潟神社」跡(長崎)
▲御神体は無く、灯籠の上部もなくなっています。

「大潟神社」の揮毫をした時の相浦海兵團長・秋山輝男少将(第3代團長)は半年後の7月5日、第三水雷戦隊司令官としてクラ湾夜戦において散華してしまいました・


ウ 海軍特年兵顕彰之碑
昭和54年9月1日、佐鎮第一期特年会により建立されました。
相浦海兵團 ウ 海軍特年兵顕彰之碑(長崎)
▲背後には閉鎖された地下壕の入口が見えます。

海軍省は優秀な下士官候補生を育成するため、昭和16(1941)年7月5日、『海軍大臣官房機密第五九二一號令達』により、昭和12(1937)年から、特例として15~16歳を対象に採用していた水中測的兵、電信兵を水兵、整備兵、機関兵、工作兵、看護兵、主計兵に拡大し、採用年齢下限を15歳以上と改定、さらに昭和17(1942)年8月26日、追加条文により「年齢十四以上十六年未滿」と1年引き下げました。
9月1日、第一期海軍練習生(所謂、海軍特別年少兵)3,500名が各海兵團に入團、以降大東亜戦争停戦まで4期約18,000名が教育を受け、約5,000名が散華しました。


Bからウにかけての斜面に地下壕の入口があります。
現在は全て塞がれていますが、昭和52年の調査では壕口は25ヶ所あり、内部で連結されているそうです。
相浦海兵團 Cからウ付近の北側にある地下壕入口(長崎)
▲入口は漏れ無くブロックで閉鎖されています。

相浦海兵團 Cからウ付近の北側にある地下壕入口 (2)(長崎)

相浦海兵團 Cからウ付近の北側にある地下壕入口 (3)(長崎)


エ 短艇ダビット基礎
駐屯地南西端の海岸にそって30対の基礎が遺されています。
現在、ダビットは撤去されてしまっていますが、当時の写真を見るとラジアルダビットだった様です。
相浦海兵團 エ ボートダビット 写真(長崎)
▲相浦海兵團時代の短艇ダビット

相浦海兵團 エ ボートダビット基礎 北西から(長崎)
▲雨で視界が悪く写真も分かり難いですが、護岸に添って基礎が60個(30対)並んでいます。

相浦海兵團 エ ボートダビット基礎 北西から (2)(長崎)
▲短艇ダビット 近影

相浦海兵團 エ ボートダビット基礎 南東から(長崎)
▲上から見る
 相浦海兵團の確実な遺構の一つです。


オ 游泳池 水門
自然の地形を利用し、先端にコンクリート製の堰を設置して海水を堰き止めた游泳池の跡が遺ります。
相浦海兵團 オ 水練所 水門 北から(長崎)
▲海面に見えている黒い部分が堰です。
 中央の堰に堰板を入れ、干潮時でも泳げる様になっていました。


以下は建物ですが海軍時代の可能性が低く、米軍時代の物かも知れません。

A 軽質油庫 ?
「配置図」にはこの場所に軽質油庫が記載されていますが、構造が「煉瓦壁」となっており、海軍時代の建物では無い可能性が高いです。
相浦海兵團 A 北東から(長崎)


B 車庫 ?
「配置図」には記載がありません(車庫は上記Aの南側にあった)が、広報の方の話では海軍時代の車庫だそうです。
相浦海兵團 B 消防車庫 南東から(長崎)
▲正面側

相浦海兵團 B 消防車庫 北から(長崎)
▲裏側

広大な敷地に大小58棟の建物があった相浦海兵團ですが、現在は皆無と言って良い程何も遺されていません。
近年まで鉄筋コンクリート造の兵舎2棟(平成初期に解体)、格納庫2棟、病舎1棟(ともに平成24年頃解体)が遺されていましたが、残念ながらいずれも解体されてしまいました。


以下は駐屯地内に遺る海軍以外の史跡です。
あ 大潟干拓記念碑
   龍神宮跡

記念碑は大正15年9月18日、建立されました。
相浦海兵團 あ 大潟干拓記念碑(長崎)

龍神宮は草刈太一左衛門が大潟新田干拓工事の無事を祈念して水門付近に建立されました。
昭和47年、埋もれていた扁額を掘り出し、現在地に安置した様です。
相浦海兵團 あ 付近の龍神宮跡(長崎)


い 亀の甲羅石
相浦海兵團 い 亀の甲羅石(長崎)


う 大潟新田水門
炭鉱事業により財を成した草刈太一左衛門(文化12・1815~明治17・1884)が私財を投じ安政4(1857)年12月から慶応元年(1865)年4月9日にかけて大潟新田の干拓のため築いた堤防の跡です。
相浦海兵團 う 大潟新田水門(長崎)


主要参考文献
『駐屯地んこと知っとうや? 源蔵さんから140年』(平成7年7月 陸上自衛隊相浦駐屯地)

-webサイト-
佐世保地方隊
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カテゴリ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カウンター
最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。


●Facebookやってますので本名ご存知の方はぜひ。
目印は水木しげる先生風の自画像です(笑)

検索フォーム
リンク
地図・史資料
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
ライオンズニュース
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる