当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

高松陸軍飛行場

香川県高松市林町の一帯には高松陸軍飛行場がありました。
高松陸軍飛行場 d前からa方向(香川)
▲高松陸軍飛行場跡に隣接する由良山に遺る地下壕

【探索日時】
平成24年4月22日





高松陸軍飛行場の概要
高松陸軍飛行場は空中勤務者の急速大量養成のため明野教導飛行師團の分飛行場として設定を開始し、未完成ながら運用を開始しますが、戦局の悪化に伴い作戦飛行場に転用され、設定中に停戦を迎えます。

高松陸軍飛行場は現在、一般的に所在地から林飛行場と呼ばれています。
高松陸軍飛行場 高松飛行場(220908)(香川)
▲昭和22年9月8日の高松陸軍飛行場跡周辺(国土地理院 USA-M450-18)

高松陸軍飛行場 要目
・用地:2,700,000㎡
・滑走路:1,200×60m(砕石敷転圧)、滑走地区:2,000×800m(転圧)
・居住施設:300名収容
・誘導路:不明
・掩体壕:不明


遺構について※青字は地図にリンクしています
高松陸軍飛行場 高松飛行場(現在)(香川)
▲高松陸軍飛行場の範囲を現在の地図に転写

① 高松陸軍飛行場
② 滑走路
③ 滑走路地区

戦後の農地化と空港化により高松陸軍飛行場の遺構は皆無です。
辛うじて区画が道路や用水路として遺されており、外周一周する事ができます。

また滑走路地区は高松空港を経て大学や図書館になっており、こちらも区画が辛うじて遺る程度です。
高松陸軍飛行場 滑走路 東端付近から(香川)
▲滑走路跡 東端付近から


④ 居住区
本部庁舎、兵舎等11、整備場等15、格納庫2棟程があった様です。
昭和20(1945)年7月24日の米軍艦載機108機による空襲を受け壊滅、戦後の農地化に伴い遺構は何も遺されていません。


⑤ 由良山
飛行場に南東端にある由良山は誘導路が設定され、偽装掩体壕や格納壕、対空陣地がありました。

戦後の砕石場化に伴い北側を中心に山容が大きく変わってしまい、また南側には地下壕がかなりあった?様ですが、住宅が建て込んでおり踏査できませんでした。
資料によると「由良山南側隧道」に航空燃料、弾薬を格納、また第六対空無戦隊の一部が入っていたとあります。

現在、登山道沿いに地下壕が数本遺されていますが、用途は不明です。
高松陸軍飛行場 高松飛行場 由良山(現在)(香川)
▲由良山の地下壕配置

ア 地下壕
L型をしており、幅2×奥行10×高さ2m、8mの地点で左側に曲がり、1m程で切羽になります。
高松陸軍飛行場 ア 壕口(香川)
▲ア 壕口

高松陸軍飛行場 ア 内部(香川)
▲ア 内部


イ 地下壕
アの4m程離れた位置にあり、同じくL型をしてます。
幅2×奥行8×高さ2m、6.5mの地点で右側に曲がり、3m程で切羽になります。
形状からしてアとイは最終的にコ型に繋ぐ予定だったと思われます。
高松陸軍飛行場 イ 壕口(香川)
▲イ 壕口

高松陸軍飛行場 イ 内部(香川)
▲イ 内部


ウ 地下壕
奥行2m程で地蔵の祠に転用されています。
高松陸軍飛行場 ウ 壕口(香川)


エ 地下壕
変形コ型をしており、横坑部分に部屋の様な区画が2ヶ所あります。
場所からして横穴式通信所の様に思います。
高松陸軍飛行場 地下壕(香川)
▲見取り図(数字はm)

高松陸軍飛行場 a 壕口(香川)
▲a 壕口

高松陸軍飛行場 c 切羽(香川)
▲c 小部屋

高松陸軍飛行場 c 前からd方向(香川)
▲cの前からd方向

高松陸軍飛行場 d c前から(香川)
▲dの小部屋

高松陸軍飛行場 b 壕口付近から内部(香川)
▲b 壕口付近から内部

高松陸軍飛行場 b 壕口(香川)
▲b 壕口

高松陸軍飛行場 エの前から滑走路方向(中央の白い) パノラマ写真(香川)
▲エ 地下壕前から見た高松陸軍飛行場跡(白抜き部分が滑走路跡)


⑥ 日山
飛行場南側にある日山には飛行場から偽装誘導路が設定され、麓の畑に築造された偽装掩体壕に近隣国民学校のに依頼した模擬飛行機が並べられ、また麓には弾薬が格納されていた様です。
遺構は不明です。


⑦ 倉敷飛行機㈱ 高松工場
昭和18(1943)年、倉敷紡績㈱は東京飛行機㈱の経営を援助、12月4日、高松工場を東京飛行機㈱高松製作所として貸与します。
昭和19(1944)年10月、高松製作所は倉敷飛行機㈱(昭和18年1月に発足した倉敷紡績㈱航空機部が前身)高松工場に改編、昭和20(1945)年3月、軍需省より生産設備、倉庫等の分散疎開が示達され、牟礼村(現、高松市牟礼町原)に半地下工場を築造中の7月4日、B29爆撃機の高松空襲により高松工場は全焼してしまい、生産を停止しました。

現在は香川県警察機動隊になり、唯一飛行所から伸びた誘導路跡が駐車場の中に農道として遺る程度です。


高松陸軍飛行場 略歴
昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦、戦域の拡大に伴い航空戦力の重要性が高まる中、昭和18(1943)年4月、我が陸軍は航空要員の急速且つ大量養成が急務となり、既存の飛行場の拡張とともに30ヶ所の飛行場新設を開始します。

陸軍航空本部(以下、陸航本)は香川縣木太郡林村を中心に、川島村、三谷村、多肥村にまたがる2,700,000㎡に滑走路2本を備えた新設飛行場の設定を決定、昭和19(1944)年1月23日、香川縣庁を通じ各村に飛行場設定を連絡するとともに、陸航本嘱託・山田東男技師を派遣し詳細を伝達します。

1月28日、陸航本は関係者400名を林國民少學校に招集、陸航本第三部第十課長・村田保三主計大尉は当地への飛行場設定の必要性を説明し、用地売却を懇請します。
真鍋龜太郎農会会長は国の大事に用地売却に承諾する一方、移転に関する援助を要請、村田主計大尉は県とともに移転補償、資材の配給を確約し、売却承諾書を受領します。

中部軍経理部は普通上田1反歩を1,440円(甘土料:耕作権700円含)で買収し、2月、住宅移転・改築用の材木150屯、セメント2,000袋、釘100樽等を搬入、該当家屋、墓地、神社の移転が始まり、3月、移転支援のため周辺市町村から勤労奉仕隊の受入れが開始されます。
続いて工事請負業者の高野組が正大寺東側に事務所、飯場を、その南側に経理部が高松施設事務所を開設し、測量を実施、4月中旬、労務者、勤労奉仕隊、學校報國隊、囚人等により東西方向の滑走路設定を開始、8月、800mの転圧滑走路1本が完成、試験着陸が実施されます。
※買収、飛行場設定を行ったのは資料には単に「当局」、「軍」と記載されていますが、飛行場設定の通例から四国を管轄した中部軍経理部と思われます。

7月25日、第百飛行團司令部が高松陸軍飛行場において編成され、北伊勢陸軍飛行場に移駐します。
8月20日、飛行場管理にあたる第百七十六飛行場大隊が高松陸軍飛行場において編成されます。

10月5日、飛行場北側に居住区、格納庫など飛行場機能が完成、明野教導飛行師團管下の高松分飛行場が開設されます。
10月中旬、佐野陸軍飛行場(大阪)にあった明野教導飛行師團第四飛行隊の第二次乙種學生(転科航空士官の五十七期57名)、ビルマ派遣留学生10名、他兵科・他飛行分科からの佐尉官學生約30名が高松に進出、第四飛行隊高松隊(森下清次郎少佐)として戦技訓練を開始、11月中旬、35名が佐野に移動します。

昭和20(1945)年3月初旬、教官・檜與平大尉の提案により、県庁を通じ周辺國民學校に品評会を兼ねて模擬飛行機の製作を依頼します。

3月18日、九州方面への米機動部隊の来襲(22日まで「九州沖航空戰」)を受け、3月20日、大本營は陸海軍に天一號作戰(沖縄・台湾など沖縄以南の東シナ海周辺海域の敵勢力に対し、航空攻撃を主として航空・艦艇全兵力を投入する総力戦)を下令、26日、聯合艦隊司令長官・豐田副武大将により発動され、高松陸軍飛行場は作戦飛行場としての運用が決定し、3月30日、第二次乙種學生過程の修了転隊をもって空中勤務者教育は中止され、高松隊の教官、助教による戦技訓練が開始されます。

3月下旬、高松陸軍飛行場の作戦飛行場化に伴い、第七航空通信聯隊1個中隊(第一中隊?長尾実中尉、三重)が進出、高善寺(勅使町)に中隊本部を設置、高松隊本部が設置された鷺田公民館-飛行場間の通信線を架設します。

4月8日、決號作戰(本土決戦)準備として航空作戦・教育面で隷・指揮下航空戦力を一元化運用・統率する航空總軍(河邊正三大将)が新設され、明野教導飛行師團も航空總軍隷下となります。
航空總軍司令部は決號作戰に向け『航空總軍作戰計畫ノ大綱』を策定、作戦の主戦力を「決と號部隊」(特攻機)と位置付け、作戦開始まで分散秘匿及び戦力向上を示達します。

第四飛行隊高松隊においても學校報國隊、勤労奉仕隊の協力を得て飛行場南東の由良山に地下壕を掘削、さらに飛行場周辺の神社、河原、森林に設けた飛行機掩蔽地から誘導路を、由良山及び南西の日山周辺に偽装掩体壕の設定を開始します。
続いて飛行機掩蔽地から高松陸軍飛行場まで飛行機を運搬、発進するのには時間がかかるため、飛行機掩蔽地付近の屋島(屋島神社参道西側)、國分(讃岐国分寺跡南側)、丸亀(飯野山南側)の道路を拡張・転用し秘匿飛行場の設定を開始します。
高松陸軍飛行場 屋島陸軍飛行場 西から(香川)
▲屋島陸軍飛行場 現況
 道路を拡張して設定されたため、戦後は再び道路に戻されました。

高松陸軍飛行場 國分陸軍飛行場 西から(香川)
▲國分陸軍飛行場 現況

高松陸軍飛行場 丸亀陸軍飛行場 西から(香川)
▲丸亀陸軍飛行場 現況

6月10日、獨立機關砲第五十九中隊、同六十中隊が高松陸軍飛行場に進出、飛行場を始め周辺の由良山、日山、畑、寺院、大池の堤防上等に機関砲陣地を構築します。
15日、高松陸軍飛行場において第六十航空地區司令部が編成され、第百七十六飛行場大隊を、20日、新編された第二百五十一飛行場大隊を隷下に編入します。

7月4日0156、B29爆撃機116機が高松市に来襲しますが、高松隊は師團命令により戦力温存のため断腸の思いで邀撃を回避します。
『紅の翼 ああ、ただ一機檜戦闘機隊』(昭和32年 檜與平 東京ライフ社)には空襲に際し、檜少佐に何度も出撃許可を求める隊員、自らも出撃を懇請するも作戦上、師團命令により回避せざるを得ない高松隊の無念さが記載されています。

10日、明野教導飛行師團は復帰、第一教導飛行隊に改編、明野・常陸両教導飛行師團から要員を抽出し第二十戰鬭飛行集團司令部が編成され高松陸軍飛行場に進出、司令部を鷺田公民館に設置します。

22日、米軍艦載機が来襲、爆弾が数発投弾されますが被害は軽微でした。
24日、米軍艦載機108機が飛行場、24機が由良山に来襲、機銃掃射を受け14名が散華、負傷者多数が発生し居住区が大損害を受けてしまいます。

25日、第六対空無線隊が高松陸軍飛行場において編成され、淺野村立國民學校(現、浅野小学校)に本部を設置、通信隊、無線隊を鷺田公民館、由良山の隧道において通信にあたります。
31日、第百飛行團司令部が成増陸軍飛行場から移駐、第二十戰鬭飛行集團司令部は小牧陸軍飛行場に移駐します。

8月8日、米軍艦載機10機が来襲、周辺住民に被害が発生してしまいます。
12日、飛行第百一戰隊(四式戦30機)が成増陸軍飛行場から移駐してきます。
15日、飛行場設定を進めるなか、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

17日、「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、飛行第百一戰隊全12機が爆装し出撃しますが、会敵できずに帰還、直後に誤報と判明し出撃中止が下令されます(土佐湾沖海戦)。

10月21日、米第6軍第24歩兵師団(ウッドルフ少将、12,000名)が三津浜港に入港、22日、将兵の上陸、26日、物資の揚陸が完了、愛媛県立図書館を接収し司令部を開設します。
10月27日、同師団情報視察団のE・N・コスキ大尉以下7名が善通寺に、オスターマン少佐以下15名が高松に先遣され軍需品の集積状況、宿舎等を視察、高松市の日本徴兵館を事務所として、琴平町の虎屋旅館を宿舎として接収(視察団は11月5日、撤収)、11月1・2日、師団の一部(ストーバル少佐、1,200名)が善通寺に進駐し旧砲兵営に入り、4日から丸亀、観音寺、詫間、高松、豊浜、坂出、土庄の軍事施設に分駐し、兵器、弾薬、糧食、被服等の接収を開始します。

4日、高松駅に米停車場司令部5名、高松陸軍飛行場に25名(9日、高松地方海軍人事部に移駐)が進駐し飛行場は接収、11月9日、残存飛行機61機が滑走路において焼却、航空兵器類500tが格納庫4棟に収納され格納庫ごと爆破処分されます。

10月3日、旧高松陸軍飛行場の農地転換の内示を得て関係4村は官有地開梱委員會(委員長・三宅信夫林村村長)を組織、11月3日、連合国軍最高司令官総司令部は各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』により、各陸軍飛行場、海軍航空基地の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。
第8軍は四国軍政部に、連絡用として使用中の滑走路地区を除く旧高松陸軍飛行場の大半を農地として開放する事を下達、昭和21(1946)年7月26日、北側滑走路地区470,000㎡を除く全域が農地として払い下げられ、11月5日、開梱式が挙行され、元地権者、戦災者、外地引揚者により開拓が開始されます。

11月18日、『附連合国軍最高司令官総司令部覚書第301号』により、我が国は12月31日から一切の航空活動を禁止されますが、連合国軍の行っていた連絡用の定期飛行(連合軍飛行機、乗員による東京-名古屋-大阪-高松-岩国-大分-福岡間の路線)の管制のため、12月、廃止された航空局を逓信院電波局内に移行し航空保安部を新設、旧高松陸軍飛行場に出張所として電波局航空保安部高松飛行場が設置されます。
昭和22(1947)年5月12日、電波局航空保安部高松飛行場は高松航空保安事務所と改称、昭和25(1950)年12月12日、同事務所は運輸省の外局、航空庁の所管となります。

昭和26(1951)年8月15日、香川県土木部は滑走路地区使用について林村に意見を照会、村から滑走路地区の全面払下げが答申され、滑走路地区開放運動が起きます。
昭和27(1952)年8月5日、連合国軍から滑走路地区は全面返還されますが、『日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約』に基づき不時着飛行場として継続使用が許可(後、完全返還)されたため、滑走路地区の利用を巡り国と村の間で度々折衝が持たれ、昭和29(1954)年12月7日、高松飛行場の設置と、余剰地の払下げが決定します。

昭和30(1955)年5月、極東航空(現、全日本空輸)により高松-伊丹間1往復が就航し、昭和31(1956)年4月、『空港整備法』による第二種空港に指定され、高松空港と呼称します。
平成元(1989)年12月16日、香南町(現、高松市)に新高松空港(滑走路2,500m)が開港し、高松空港は廃止され、現在は香川大学工学部、香川県立図書館、郵便局、研究所等になっています。


所在部隊
第二次乙種學生
※『佐野陸軍飛行場/明野陸軍飛行學校 佐野分教所』の記事中「陸軍航空士官學校 第五十七期」参照


第二十戰鬭飛行集團司令部(帥三四二二〇)
※『明野陸軍飛行場/明野陸軍飛行學校』の記事参照


第百飛行團司令部(靖一八九一九)
昭和19(1944)年7月25日、『軍令陸甲第九十三號「第百飛行團司令部等航空部隊一部の臨時編成(編制改正)、第二百九十三次復歸要領」』により陸軍航空總監部(菅原道大中将)に臨時編成下令、『陸亞機密第九三〇號「同細則」』により東部軍(藤江恵輔大将)より基幹要員を抽出し、10月10日、高松陸軍飛行場において編成完結(土井直人中佐)、同日、『同軍令』、『同細則』により、北伊勢陸軍飛行場において臨時編成された飛行第百一(代永兵衛少佐、11月10日、編成完結)、第百二(垣見馨少佐)、第百三戰隊(東條道明少佐)を隷下に編入、飛行團司令部は北伊勢に移駐します。

隷下飛行戰隊は四式戦装備の予定でしたが機材が揃わず、また操縦者も航士五十六期、特操が主体で練度が低かったため九七戦、一式戦で訓練を開始、11月頃、四式戰に機種変更しますが故障が続発し可動率は低下します。

12月中旬、飛百一は大正陸軍飛行場、11日、飛百三は伊丹陸軍飛行場に移駐し第十一飛行師團の指揮下に編入、昭和20(1945)年1月の比島進出を目指しますが錬成が進まず、また整備能力も低く事故多発のため比島進出は中止され、12月26日、第六航空軍(菅原道大中将、東京(昭和20年3月10日から福岡に前進)に編入され沖縄作戦に出動する事になります。

12月以降、B29爆撃機の中部・近畿地区来襲に対し邀撃、昭和20(1945)年1月19日、明石市に来襲したB29を飛百三が追撃、加藤利祐少尉指揮の編隊が被弾離脱するB29を潮岬南方海上において捕捉、撃墜します。

2月6日、『大陸命第千二百四十四號』により、飛行團は第六航空軍戦闘序列に編入されます。

3月10日、飛行團は飛百一(四式戦20機)とともに都城東、飛百二(四式戦40機)は都城西、飛百三(四式戦30機)は隈庄各陸軍飛行場に前進します。

14、15日、第六航空軍司令部(福岡(福岡高等女學校))において行われた兵棋演習において、特攻機援護のための戦闘機隊を各飛行場に分散配備を求める航空軍司令部に対し、飛百一・代永戦隊長は集結使用を主張、強硬に反対したため更迭、飛行隊長・末永正夫大尉が戦隊長に昇格します。
20日、天一號作戰の陸海軍中央協定に基づき第六航空軍は聯合艦隊指揮下に入ります。
23日、米機動部隊が南西諸島に来攻、沖縄本島、及び周辺島が銃爆撃、慶良間諸島が艦砲射撃にさらされます。

26日、聯合艦隊は天一號作戰発動を下令、第一次航空總攻撃(海軍側:菊水一號作戰)を4月6日に策定します。
同日、飛行團は飛百一、百二により第一攻撃集團を編成(同日、飛行團長・牟田弘國少佐着任)、飛百三は第六飛行團(今津正光大佐)指揮下に入り1個中隊(飛行隊長・小川倶治郎大尉)を徳之島陸軍飛行場に前進させ、28日、31日、4月1日、2日、飛六十五、飛六十六の敵船団攻撃の援護にあたりますが、敵艦載機の空襲を受け可動機が3機に低下、2日、戦隊長・東條少佐以下4機が徳之島に前進しますが、またも敵艦載機の空襲を受け全機破壊されてしまいます。

4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始、6日、第一次航空總攻撃に第一攻撃集團は飛百二の第三中隊を徳之島に前進させ、主力48機(援護機総数146機)で特攻機237機を援護、奄美大島付近まで進出し制空にあたりますが、敵艦載機の来襲に飛百二第三中隊、飛百三は出撃できず、特攻機援護任務は充分に果たせませんでした。

12日、第二次航空總攻撃に第一攻撃集團は15機(援護機総数98機)で特攻機192機を援護、沖永良部島付近まで進出し制空にあたります。

15日、飛百三は特攻機を直掩し沖縄まで前進しますが、森本一馬准尉、杉山林少尉が散華してしまいます。
15日夜、翌日の第三次航空總攻撃を控え集團選抜機11機により、敵制圧下の沖縄本島北・中陸軍飛行場にタ弾攻撃を実施しますが、敵対空砲火により飛百一・児玉正美中尉以下8機が未帰還(児玉中尉は飛行場に不時着後、地上部隊に合流、停戦間際まで戦闘を継続していたと言われます)になってしまいます。
16日、飛百三は特攻機を直掩し沖縄まで前進します。
17日、海軍による敵機動部隊攻撃に四式戰11・三式戰11機で協力しましたが、奄美大島付近でF6F戦闘機約20機と交戦、飛百一・末永戦隊長を含む8機が未帰還(後任戦隊長・坂元秀岳少佐)となり、集團の可動機は10機に減じてしまいます。
17日夜、タ弾攻撃を実施しますが、飛百二・永倉寛二中尉、太田政義少尉、野口裕文少尉、本多正一曹長以下5名が散華してしまいます。

第一攻撃集團・飛百三は22日、第四次航空總攻撃(特攻機164機、援護機62機に)、5月4日、第五次航空總攻撃(特攻機149機、援護機84機)に30機で特攻機を援護、11日、14日、特攻機を援護、25日、義號作戰(義烈空挺隊の沖縄突入)に呼応した第八次航空總攻撃に11機で出撃しますが10機が未帰還となり、戦力が払底、6月下旬、飛行團は沖縄戦の終結とともに隈庄陸軍飛行場(熊本)を経由し成増陸軍飛行場(東京)に移駐、戦力回復にあたります。

7月10日、飛百二は復帰、人員・機材を飛百一、飛百三に分属し戦力回復、錬成にあたります。
25日、『大陸命第千三百六十六號』により第百飛行團司令部は編成を解かれ、飛行第百一、同百三戰隊は第六航空軍の直轄になりますが、作戦に関しては引き続き第百飛行團司令部の指揮を受けます。

7月末、飛百三は由良陸軍飛行場(淡路島)に、31日、第百飛行團司令部(7月24日、秋山紋次郎大佐着任)は高松陸軍飛行場(鷺田公民館に司令部設置)に、8月2日、飛百一は高萩陸軍飛行場(埼玉)、次いで12日、高松に前進し、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝します。

16日夕、高知沿岸の海軍監視哨から「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、秋山大佐は牟田弘國、瀧山和両参謀と協議の結果、出撃を決し、17日未明、特別攻撃隊を編成(飛百一・木村少尉)、12機が爆装し出撃しますが、目標を発見できず帰投(土佐湾沖海戦)し、停戦を迎えました。


飛行第百一戰隊(靖一八九二〇)
※『大正陸軍飛行場』の記事参照


第六十航空地區司令部(靖一九三五九)
航空地區司令部は管轄地区内所在の飛行場大隊、飛行場中隊を指揮し、飛行部隊に対する支援業務を実施しました。

昭和20(1945)年6月15日、高松陸軍飛行場において第三、第六、第七航空教育隊の人員・資材を基幹として高松陸軍飛行場において第六十航空地區司令部が臨時編成(中川三十七大佐)されます。
23日、所在の第百七十六飛行場大隊、6月15日に新編された第二百五十一飛行場大隊を隷下に編入し、高松陸軍飛行場の管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第百七十六飛行場大隊(燕一八九四八)
昭和19(1944)年以降の飛行場大隊は決號作戰(本土決戦)に向け、従来の整備中隊を飛行戦隊と獨立整備中隊に転属させ、警備中隊と補給中隊の2個中隊編制(約400名)に改編され、所在部隊の給養、衛生業務と飛行場の中間整備能力を併せ持ち、且つ対空、対地の警備、飛行場内の有線通信配備を実施しました。

昭和19(1944)年8月20日、高松陸軍飛行場において第百七十六飛行場大隊が編成(太田稔少佐)、第四十六航空地區司令部隷下に編入され、高松陸軍飛行場の管理にあたります。
昭和20(1945)年6月23日、第六十航空地區司令部に隷属転移、第二百五十一飛行場大隊とともに高松陸軍飛行場の管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第二百五十一飛行場大隊(靖一九三六三)
昭和20(1945)年6月15日、高松陸軍飛行場において臨時編成(高松輝雄少佐)されます。
23日、第六十航空地區司令部隷下に編入され、第百七十六飛行場大隊とともに高松陸軍飛行場の管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第百四十一野戰飛行場設定隊(翼一八四〇五)
昭和19(1944)年7月30日、伊丹陸軍飛行場において編成(前田勢大尉)、高松陸軍飛行場に進出し完成している滑走路の砕石敷転圧、由良山周辺の偽装掩体壕築造、誘導路敷設など飛行場設定にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
8月31日、伊丹陸軍飛行場に帰還し、復員完結しました。


第七航空通信聯隊(帥五五〇)
※『第七航空通信聯隊』の記事参照


第六対空無線隊(靖一八九五四)
昭和19(1944)年7月25日、高松陸軍飛行場において編成(佐々木左馬太少佐)、本部を淺野村立國民學校に設置、通信隊、無線隊を鷺田公民館、由良山南側の隧道に配置、さらに各中隊を岡山、倉敷、松山東、高知、大刀洗、福岡、雁ノ巣に配置し通信網を形成しました。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え福岡に集結、復員完結しました。


獨立機關砲第五十九中隊(燕二八二二三)
昭和20(1945)年4月28日、『軍令陸甲第七十一號「高射第二師團司令部等臨時動員(編制改正)、第三百三十九次復歸要項」』により迫撃第三聯隊補充隊(旧歩兵第三十六聯隊、鯖江)において編成(奏晃靖中尉)、5月6日、第一航空軍隷下に編入され、6月10日、高松陸軍飛行場に進出し、獨立機關砲第六十中隊とともに飛行場を始め周辺の由良山、日山、畑、寺院、大池の堤防上等に機関砲陣地を構築します。
7月4日0156、B29爆撃機116機が高松市に来襲、中隊は陣地構築中でしたが長専寺の仮設機関砲で対空射撃を実施(第六十中隊の可能性あり)しますが、戦果は挙がりませんでした。

8月15日、陣地構築中に『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月12日、復員完結しました。


獨立機關砲第六十中隊(燕二八二二四)
昭和20(1945)年4月28日、『軍令陸甲第七十一號「高射第二師團司令部等臨時動員(編制改正)、第三百三十九次復歸要項」』により迫撃第三聯隊補充隊(旧歩兵第三十六聯隊、鯖江)において編成(奏晃靖中尉)、5月6日、第一航空軍隷下に編入され、6月10日、高松陸軍飛行場に進出し、獨立機關砲第五十九中隊とともに飛行場を始め周辺の由良山、日山、畑、寺院、大池の堤防上等に機関砲陣地を構築します。
7月4日0156、B29爆撃機116機が高松市に来襲、中隊は陣地構築中でしたが長専寺の仮設機関砲で対空射撃を実施(第五十九中隊の可能性あり)しますが、戦果は挙がりませんでした。

8月15日、陣地構築中に『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月12日、復員完結しました。


※『高松空襲戦災誌』には他に“独立第28飛行隊”(第二十八獨立飛行隊の間違い?)が記載されていますが、編成地、隊長等に疑問があり、特定できないため掲載しません。


主要参考文献
『林村史』(昭和33年3月 林村史編集委員会)

『本土航空作戦記録』(昭和21年12月 第一復員局)

『紅の翼 ああ、ただ一機檜戦闘機隊』(昭和32年 檜與平 東京ライフ社)

『高松空襲戦災誌』(昭和58年 高松空襲戦災誌編集室 高松市役所)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)
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No Title

近場に住んでいた祖父曰く國分陸軍飛行場(端岡陸軍飛行場)は北は妙見さん(神社)南は線路近くの田んぼまでで旧道11号道路を拡張して作られたのは確かですが、工事中も道路にトラックが行き来してたそうで道路はあまり手を付けられてなかったそうです。
南の田んぼあたりにはモッコやシャベルで慣らされてたとか何とか…
因みに学校には北九州の部隊が来ており上級生と作業していて、道具類は現マルヨシセンター本部北に倉庫がありそこから取り出して作業にかかっていたらしいです。
週1、2程度の間隔で米軍双発機が偵察に来てたみたいで作業を秘匿しきれておらず、米兵の顔が見えたくらい低高度で偵察しにきたそう
余談ですが偵察の度に「作業止めー!」の号令があり、米軍機が飛び去るまで休憩できたので作業に当たっていた兵はやや嬉しそうだったらしいですwww

Re: No Title

暇人マツボー 様、はじめまして。

貴重な情報ありがとう御座います!
戦前からある飛行場はともかく、戦時中に設定された飛行場、特に國分の様な秘匿飛行場は資料がほとんど無く、証言が頼りです。
特に当事者の方の証言は貴重なのでありがたいです!

なるほど、「道路を拡張」と言うより、「道路を利用」した飛行場だったと言う事ですね。
当飛行場の戦時中の資料は確か米軍偵察機の空撮しか無かった様に記憶しているので、御祖父様のお話とも合致しますね。

飛行場建設の痕跡について

はじめまして。勝瑞アキラと申します。
旧高松陸軍飛行場のあった林町に住んでいます。
私の祖父が飛行場建設に従事していたそうで、建設に際してトロッコ軌道が敷設されたそうです。(土の運搬目的でしょうか?)
後に、軌道跡は道路として県道147号に上書きされたと言っていました。春日川の土手が軌道の起点らしく、そこから西へ延びる道路がそのようです。
春日川の向かい側には飛行場建設に伴って移築された民家が今でも現存しています。
拙き長文失礼しました。

Re: 飛行場建設の痕跡について

勝瑞アキラ様

初めまして、こんにちは。
拙ブログを読んで頂きましてありがとうございます。

貴重な情報、ありがとうございます。
飛行場の設定に際し度々、トロッコは出てくるのですが、実際の資料が無く殆ど不明です。
当時は今のようにトラックも余り無く、資材の運搬は軽便軌条やトロッコ、人力が主だった様です。
高松ではその軌条が道路に転用され遺っているのですね!
驚きです!
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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