当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

川西航空機㈱ 寳塚製作所

兵庫県宝塚市に所在する新明和工業㈱本社、同宝塚工場、及び阪神競馬場は川西航空機㈱ 寳塚製作所の跡地にあります。
川西航空機㈱宝塚製作所 北西から (2)(兵庫)
▲川西航空機㈱寳塚製作所跡地に遺る隧道式試射場附属屋

【探索日時】
平成25年1月8日






川西航空機㈱ 寳塚製作所 概略
敷地面積:1,217,000㎡
建物・272,000㎡
機械:3,936台

-所在部門・製造品目-
機械部の一部
 工作機械、成形金具、強度金具

補機部
 ・燃料噴射ポンプ(12L)
 ・   〃     (14気筒用)
 ・   〃     (18気筒用)
 ・高圧油ポンプ
 ・火星発動機用油ポンプ
 ・真空ポンプ(自動操縦装置用)
 ・油圧モーター(プロペラ用)
 ・機体用機能部品(フラップ総合弁、燃料切替弁等

兵器部
 ・一式大型動力銃架二一型(二式飛行艇 中央上部用)
 ・      〃    三一型(  〃     尾部用)
 ・      〃    二二型(一式陸攻 中央上部用)
 ・      〃    二三型(聯山 中央上部用)
 ・遠隔管制動力銃架(月光 上部用)


遺構について※青字は地図にリンクしています。
川西航空機㈱ 寳塚製作所
昭和3(1928)年11月5日、神戸市に川西航空機㈱が設立、12月、海軍指定工場に指定され、昭和5(1930)年12月、兵庫縣鳴尾村(現、西宮市高須)に竣工した鳴尾工場に移転し、本格的に海軍機の製造を開始します。

昭和12(1937)年7月7日、支那事変が発生、川西航空機㈱は海軍航空本部からの生産力拡張示達を受け、昭和14(1939)年6月、鳴尾工場の拡張、及び甲南製作所(神戸市)の新設に続き、昭和15(1940)年12月、兵庫縣良元村(現、宝塚市)に寳塚製作所の新設を決定します。
昭和16(1941)年1月、用地を買収、5月、工場建設を開始し、12月、鳴尾から機械部の一部が移転、操業を開始、続いて補機部(後に航機部に改称)、兵器部が移転し、各々操業を開始します。

昭和20(1945)年2月、寳塚製作所の補機部が篠山、兵器部が三田、他小林(おばやし)、生瀬、甲子園に各分工場を開設し生産設備、人員を分散疎開させます。
3月、川西航空機㈱は防諜上の見地から「神武秋津社」と改称、7月9日、川西航空機㈱は全事業を第二軍需工廠に譲渡し国営化、寳塚製作所の補機部は第六製造廠、兵器部は第七製造廠と改称されます。
7月24日、B29爆撃機77機の空襲を受け、製作所は大部分が破壊されてしまいますが、各地の分散疎開工場において生産を継続中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
川西航空機㈱寳塚製作所の最期(兵庫)
▲空襲により破壊された寳塚製作所

昭和21(1946)年5月、寳塚製作所は賠償工場に指定され、大蔵省財務局の管理下に入り(昭和17年5月22日、『兵器等製造事業特別助成法』が適用され、海軍省が川西航空機㈱から敷地を購入し国有地化されたため)ます。
昭和24(1949)年3月、『戦時補償特別措置法』の適用を受け、寳塚製作所は明和興業㈱(川西航空機㈱から改称)に払い下げられ、西側の大半を(社)西日本競馬振興会に売却、昭和36(1961)年8月、東側に新明和興業㈱宝塚工場(昭和24年11月、明和興業㈱から改称)が竣工し、単車のエンジンを製造、現在は新明和工業㈱(昭和35年5月、新明和興業㈱から改称)の本社、及び宝塚工場が所在します。
※川西航空機㈱については鳴尾海軍航空基地/川西航空機㈱鳴尾工場・製作所の記事参照

川西航空機㈱宝塚製作所(兵庫)
▲『Japanese Air Target Analyses』所収の空襲前の寳塚製作所

川西航空機㈱宝塚製作所 戦略爆撃調査団報告書(兵庫)
▲『United States Strategic Bombing Survey』所収の寳塚製作所配置図

川西航空機㈱宝塚製作所 国土地理院23319(NI-53-14-12)(兵庫)
▲空襲により破壊された寳塚製作所(昭和23年3月19日 国土地理院NI-53-14-12)
 寳塚製作所の北側には多数の社宅がありますが、
 現在は殆ど建て替えられて数棟しか遺されていません。

広大な敷地に大小75棟の建物があった川西航空機㈱ 寳塚製作所ですが、空襲と戦後の競馬場化に伴う造成のため、以下に紹介する隧道式試射場附属屋以外の遺構は遺されていません。

隧道式試射場附属屋
現在は民家に転用されています。
川西航空機㈱宝塚製作所 北西から(兵庫)
▲附属屋(右側の白い3階建)から写真の道路に沿って奥の和建築方向に鉄筋コンクリート製の隧道式試射場がありました。

寳塚製作所にあった川西航空機㈱兵器部では生産した動力銃架に機銃を装備し、この隧道式試射場において実弾試射を行い、性能検査をしていました。
昭和19(1944)年秋以降は耐弾倉庫として転用されていました。
この現存建物の用途は不明ですが、試射場に隣接している事から、動力銃架検査に関係する建物と思われます。

川西航空機㈱宝塚製作所 北から(兵庫)
▲附属屋 北から
 余談ですが前職の部下がこの家の方と同級生で、過去に中に入った事があるそうで、
 「普通の家だった」との事です。

川西航空機㈱宝塚製作所 北東から(兵庫)
▲附属屋 北東から
 この方向にコンクリート製試射場が連結していた様ですが、壁に痕跡が無い事から隧道式試射場は離れて建てられていた様です。

川西航空機㈱宝塚製作所 北側の孔(兵庫)
▲建物北側にある謎の孔


主要参考文献
『新明和工業株式会社 社史1』 (昭和54年10月 新明和工業株式会社社史編集委員会)

『Japanese Air Target Analyses』米軍戦略爆撃調査団空襲目標計画

『United States Strategic Bombing Survey』戦略爆撃調査団報告書
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明けまして おめでとうございます。
ご無沙汰をしております。
仁川の川西の工場の空襲で離れた所に住んでおり防空壕を庭に掘り 防空壕の中でお婆さんが1トン爆弾のショックで亡くなりました。 この空襲の前に米軍から空襲の予告のビラを撒いていたと聞いておりました。
川西の工場より川上にある宝塚大劇場やダンスホール等が建物をタールで黒く塗られカモフラージュされていた様ですね。 この空襲は川西だけを狙ったピンポイント爆撃ではと思います。 がしかし1トン爆弾の影響は酷かった様です。

追記
昔々 川西に勤労学生で働いてた方の話では小林にトンネルを掘り格納したと聞いた記憶が有りました。

Re: タイトルなし

奥山様、こんばんは。

遠征に出ており、返信が遅くなってすみません。
今年は喪中でして、新年のご挨拶を控えさせて頂いていました。
情報、ありがとうございます。
寶塚製作所は広大な工場でしたが、残念ながら遺構はほとんど遺されていません。
そのような状況なので、伝聞資料もまた貴重な情報だと思います。

今年も宜しくお願いいたします。

喪中とは知らずに失礼をしました。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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