奈良行宮(予定) 地下壕
奈良県天理市豊田町には大東亜戦争末期に 天皇陛下を奉迎するための行宮地下壕があります。

▲天理市の小山に遺る奈良行宮地下壕の内部
【探索日時】
平成25年1月25日

<奈良行宮(予定) 地下壕 概要>
昭和20(1945)年、戦局は愈々逼迫、敵の本土上陸が迫る中、1月20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大網』を策定し、決號作戰(本土決戦)の準備が推進されていきます。
決號作戰に際し陸軍は設定の進む松代倉庫(所謂、松代大本營)に 天皇陛下を始め政府中枢、大本營ともに遷都する計画でしたが、海軍は九州、四国に指向するであろう米上陸部隊を航空攻撃にて破砕すべく、設営の進む大和海軍航空基地に海軍總隊司令部、作戦の中核となる第三航空艦隊司令部を推進、さらに 陛下を奉じ大本營海軍部とともに西遷給い、作戦終了後に然るべき場所に転進を計画します。
陛下を奉迎するにあたり行宮(あんぐう:仮宮)として、5月、奈良縣山邉郡丹波市町(現、天理市)所在の奈良海軍航空隊(清宮善高大佐)の格納壕として設営されていた字豐田一本松山の地下壕を転用、奈良海軍航空隊の豫科練生2,000名により拡張、強化が開始され、完成を急ぐ中8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時、行宮地下壕は9割程完成しており、上下2層構造、上段10ヶ所、下段2ヶ所に壕口があり、内部は坑道も含め総檜張りで、電灯が引かれ、下段中央に20畳ほどの御座所があった様です。
檜の内装材、高島屋に発注した調度品類なども搬入されていましたが、程なくして全て近隣住民に持ち去られてしまいました。
当地下壕は一般的に「天理御座所」と呼ばれている様ですが、未完成のため正式名称は無く、また当時「天理」と言う地名も無く、また「御座所」も主に部屋を表す際に用いられる事が多い様なので、拙ブログでは近隣の豫科練航空隊が「奈良」である事、当地はあくまで一時の仮御所である事から、「奈良行宮 地下壕」とさせて頂きました。

▲奈良行宮地下壕が遺る一本松山
<地下壕までの行き方>※青字は地図にリンクしています。

▲地下壕周辺図
1、農道が交差しているこの辺りから、この農道を山を目指して進む。

▲この道路標識のある手前の農道に入って行きます。
2、用水路があるので、左側にある橋を渡り斜面を上る。

3、荒れた樹園?に出るので、その樹園を進み山際まで行くと斜面を右側に上がる小道がある。

▲荒れた樹園を抜ける

▲この小道を上る
4、しばらく細い山道を登ると広場の様な場所に出る。

▲この山道を暫く進みます

▲広場に出ます
5、広場には直径30cm程の謎の穴があちこちに開いているので注意。

▲あちこちにこの様な孔が開いています。
6、広場の斜面に左から崩落した壕口2ヶ所、3ヶ所目に進入可能な壕口がある。
7、壕口はかなり小さくなっているので、万が一崩れても当方は一切責任を持ちません。
入る際は自己責任で入って下さい。外から見るだけが無難です。
<遺構について>
現在、壕口1ヶ所、350m程の坑道が遺されています。

▲奈良行宮の地下壕配置図
以下の番号・遺構配置は上掲地図参照
① 壕口 (崩落)

▲1ッ目の壕口は崩落しています。
② 壕口 (崩落)

▲2ッ目の壕口も崩落しています。
③ 壕口

▲3番目の壕口は開口していますが、かなり埋まっています。

▲③の壕口付近はやや浸水しています。

▲③の壕口のすぐ左側には崩落した横坑があります。

▲A 坑(左)・a坑(右)分岐部

▲A 坑

▲a 坑

▲B 坑の壕口(正面)は崩落、b坑(左)付近もやや崩落しています。

▲b 坑からc坑
この辺りは他の坑道と地質が異なります。

▲C 坑 切羽側

▲C 坑の切羽にはダイナマイトを差し込むロッド孔が遺ります。

▲C 坑 壕口側
かなり砂が流入しており、匍匐前進すれば抜けれそうですが、湿っていたので辞めました。

▲d 坑

▲D 坑の壕口は崩落しており、②の壕口に繋がっていると思われます。

▲D 坑内に転がる堰板?

▲E 坑

▲e 坑
分かり難いですが、奥にはハクビシンの群れが・・・
地下壕あるあるです(^_^;)

▲f 坑

▲f 坑のH坑付近には朽ち果てた支保工が遺ります。

▲F 坑・h坑(右)

▲h 坑

▲g 坑
比較的安定した坑道です。

▲g 坑の切羽にはロッド孔、十字鍬の痕跡が遺ります。

▲G 坑

▲I 坑
①②③壕口のある広場を過ぎて斜面を移動すると崩落したと思われる壕口跡が溝状に点々と並びます。

▲⑦の壕口

▲⑧の壕口
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▲天理市の小山に遺る奈良行宮地下壕の内部
【探索日時】
平成25年1月25日


<奈良行宮(予定) 地下壕 概要>
昭和20(1945)年、戦局は愈々逼迫、敵の本土上陸が迫る中、1月20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大網』を策定し、決號作戰(本土決戦)の準備が推進されていきます。
決號作戰に際し陸軍は設定の進む松代倉庫(所謂、松代大本營)に 天皇陛下を始め政府中枢、大本營ともに遷都する計画でしたが、海軍は九州、四国に指向するであろう米上陸部隊を航空攻撃にて破砕すべく、設営の進む大和海軍航空基地に海軍總隊司令部、作戦の中核となる第三航空艦隊司令部を推進、さらに 陛下を奉じ大本營海軍部とともに西遷給い、作戦終了後に然るべき場所に転進を計画します。
陛下を奉迎するにあたり行宮(あんぐう:仮宮)として、5月、奈良縣山邉郡丹波市町(現、天理市)所在の奈良海軍航空隊(清宮善高大佐)の格納壕として設営されていた字豐田一本松山の地下壕を転用、奈良海軍航空隊の豫科練生2,000名により拡張、強化が開始され、完成を急ぐ中8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時、行宮地下壕は9割程完成しており、上下2層構造、上段10ヶ所、下段2ヶ所に壕口があり、内部は坑道も含め総檜張りで、電灯が引かれ、下段中央に20畳ほどの御座所があった様です。
檜の内装材、高島屋に発注した調度品類なども搬入されていましたが、程なくして全て近隣住民に持ち去られてしまいました。
当地下壕は一般的に「天理御座所」と呼ばれている様ですが、未完成のため正式名称は無く、また当時「天理」と言う地名も無く、また「御座所」も主に部屋を表す際に用いられる事が多い様なので、拙ブログでは近隣の豫科練航空隊が「奈良」である事、当地はあくまで一時の仮御所である事から、「奈良行宮 地下壕」とさせて頂きました。

▲奈良行宮地下壕が遺る一本松山
<地下壕までの行き方>※青字は地図にリンクしています。

▲地下壕周辺図
1、農道が交差しているこの辺りから、この農道を山を目指して進む。

▲この道路標識のある手前の農道に入って行きます。
2、用水路があるので、左側にある橋を渡り斜面を上る。

3、荒れた樹園?に出るので、その樹園を進み山際まで行くと斜面を右側に上がる小道がある。

▲荒れた樹園を抜ける

▲この小道を上る
4、しばらく細い山道を登ると広場の様な場所に出る。

▲この山道を暫く進みます

▲広場に出ます
5、広場には直径30cm程の謎の穴があちこちに開いているので注意。

▲あちこちにこの様な孔が開いています。
6、広場の斜面に左から崩落した壕口2ヶ所、3ヶ所目に進入可能な壕口がある。
7、壕口はかなり小さくなっているので、万が一崩れても当方は一切責任を持ちません。
入る際は自己責任で入って下さい。外から見るだけが無難です。
<遺構について>
現在、壕口1ヶ所、350m程の坑道が遺されています。

▲奈良行宮の地下壕配置図
以下の番号・遺構配置は上掲地図参照
① 壕口 (崩落)

▲1ッ目の壕口は崩落しています。
② 壕口 (崩落)

▲2ッ目の壕口も崩落しています。
③ 壕口

▲3番目の壕口は開口していますが、かなり埋まっています。

▲③の壕口付近はやや浸水しています。

▲③の壕口のすぐ左側には崩落した横坑があります。

▲A 坑(左)・a坑(右)分岐部

▲A 坑

▲a 坑

▲B 坑の壕口(正面)は崩落、b坑(左)付近もやや崩落しています。

▲b 坑からc坑
この辺りは他の坑道と地質が異なります。

▲C 坑 切羽側

▲C 坑の切羽にはダイナマイトを差し込むロッド孔が遺ります。

▲C 坑 壕口側
かなり砂が流入しており、匍匐前進すれば抜けれそうですが、湿っていたので辞めました。

▲d 坑

▲D 坑の壕口は崩落しており、②の壕口に繋がっていると思われます。

▲D 坑内に転がる堰板?

▲E 坑

▲e 坑
分かり難いですが、奥にはハクビシンの群れが・・・
地下壕あるあるです(^_^;)

▲f 坑

▲f 坑のH坑付近には朽ち果てた支保工が遺ります。

▲F 坑・h坑(右)

▲h 坑

▲g 坑
比較的安定した坑道です。

▲g 坑の切羽にはロッド孔、十字鍬の痕跡が遺ります。

▲G 坑

▲I 坑
①②③壕口のある広場を過ぎて斜面を移動すると崩落したと思われる壕口跡が溝状に点々と並びます。

▲⑦の壕口

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