当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

加古川陸軍飛行場

兵庫県加古川市には加古川陸軍飛行場がありました。
加古川陸軍飛行場 ア「陸軍」 南西から(兵庫)
▲畑の中に遺る加古川陸軍飛行場の境界石標

【探索日時】
平成25年1月31日

【改訂情報】
平成28年11月23日・・・遺構追加





加古川陸軍飛行場 概略
加古川陸軍飛行場
昭和10(1935)年3月15日、陸軍省は『防空四ヶ年計畫』を発表、陸軍航空本部は兵庫縣加古郡尾上村字今津(現、加古川市尾上町)の加古川河口東岸に1個飛行聯隊の設置を決定します。
昭和11(1936)年6月4日、第十師團経理部は用地買収を開始、11月12日、ほぼ修了します。

昭和12(1937)年1月7日、安藤組の下請け・森下組の人夫200名が地均しを開始、2月14日、地鎮祭を斎行、基礎工事を開始し、昭和12(1937)年12月1日、新設された加古川陸軍飛行場において飛行第十三聯隊が編成(7月10日、飛行第十三戰隊に改編)、昭和13(1938)年3月15日、近隣住民を招き開隊式が行われました。
7月1日、各務原陸軍航空支廠加古川分廠が設置(昭和16年8月1日、大阪陸軍航空支廠に移管)されます。

昭和16(1941)年9月、戰隊は大正(大阪)に移駐、12月7日、菊池(熊本)から第百六教育飛行聯隊が加古川に移駐、昭和17(1942)年4月、第百六教育飛行聯隊は台中に移駐、5月3日、加古川において第百三教育飛行聯隊が編成され菊池に移駐、8月10日、加古川において飛行第二百四十六戰隊が編成され、昭和18(1943)年4月、飛行第二百四十六戰隊は伊丹(大阪)に移駐、昭和19(1944)年3月31日、第一教育飛行隊が加古川において編成され、戦闘機基本戦技教育と並行して阪神地区の防空、哨戒にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

※加古川陸軍飛行場につての詳細は後述

10月2日、加古川陸軍飛行場は米第6軍飛行隊の一部30名により接収、11月3日、連合国軍最高司令官総司令部は各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』により、各陸軍飛行場、海軍航空基地の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。

その後(時期不明)、飛行場は大蔵省大阪財務局に移管され、昭和22(1948)年1月、居住区、格納庫、滑走路(60町歩)に日塩興業㈱加古川製塩所が進出、4月から操業を開始、昭和23年末、滑走路外の60町歩が農林省指導により元地権者、入植者に開放され農地として開墾(昭和24年8月、正式に払い下げ)が開始されます(後に大学誘致用地として確保していた80町歩も農地として開放)。

昭和26(1951)年3月28日、姫路駐屯地発足に伴い、滑走路の一部が自動車操縦訓練場(当初は航空基地の建設を予定)に使用されますが、兵庫県が策定した『播州工業地帯開発計画』により、昭和28(1953)年、撤退した日塩興業㈱の跡地に近江絹糸紡績㈱(現、オーミケンシ㈱)加古川工場の進出が決定したため、自動車操縦訓練場は姫路に移転、昭和29(1954)年4月、60町歩が大蔵省から近江絹糸紡績㈱に売却され(昭和31年11月、加古川工場竣工)ます。
その後、開梱された農地も臨海部は工業地、内陸部は商業地、住宅地として売却され、飛行場の面影は皆無となり現在に至ります。

当時は滑走路の形状から「三角飛行場」とも呼ばれており、現在では一般に地名から「尾上飛行場」と呼ばれている様です。


加古川陸軍飛行場 要目
敷地 : 1,330,000㎡
滑走路 : 500×110m 2本(コンクリート、アスファルト舗装)
収容人数 : 800名
誘導路 : 不明
掩体壕 : 20基


遺構について※青字は地図にリンクしています
関西では比較的有名な加古川陸軍飛行場ですが、遺構は皆無に近いです。
加古川陸軍飛行場 加古川飛行場平面圖(兵庫)
▲『加古川飛行場平面圖』

加古川陸軍飛行場 加古川飛行場3661(兵庫)
▲昭和36年6月1日の加古川陸軍飛行場跡
 滑走路上に近江絹糸紡績㈱(現、オーミケンシ㈱)加古川工場が建設され、
 また飛行場敷地の大半は農地化しています。

加古川陸軍飛行場(加古川)
▲加古川陸軍飛行場を現在の地図に転写

① 滑走路
昭和13(1938)年11月17日、陸軍航空本部より留守第十師團経理部に宛て、「当飛行場は海に面し且つ使頻度が多いため、芝の活着が不良」と言った内容の文書があるため、当初は芝張り滑走路だった物をコンクリート、アスファルト舗装に改修した様です。
滑走路は底辺900m、等辺500m(幅は110m)の三角形に配置され、うち7,200㎡がコンクリート、144,000㎡がアスファルト舗装でした。

現在は全ての舗装が剥がされ、滑走路の区画すら遺されていません
加古川陸軍飛行場 南北滑走路 北から(兵庫)
▲滑走路跡の一部は道路になっていますが、痕跡はありません。


② 格納庫地区
当時は格納庫6棟(飛行聯隊5、分廠1)建てられており、戦後も暫くは塩田の設備として使用されていました。
現在は全て破壊され、何も遺されていません。

格納庫地区と滑走路の間には舗装された駐機場がありましたが、現在は全ての舗装が剥がされ区画すら遺されていません


③ 飛行第十三聯隊 兵営
昭和12(1937)年12月1日、飛行第七聯隊を基幹として飛行第十三聯隊(神谷正男中佐)が、新設された加古川陸軍飛行場において編成完結、7月10日、飛行第十三戰隊に改編されます。
昭和16(1941)年9月、戰隊は新設された大正陸軍飛行場(大阪)に移駐、9月30日、菊池陸軍飛行場(熊本)から第百六教育飛行聯隊が加古川に移駐、昭和17(1942)年4月、第百六教育飛行聯隊は臺中陸軍飛行場(台湾)に移駐、5月3日、加古川において第百三教育飛行聯隊が編成され菊池に移駐、8月10日、加古川において飛行第二百四十六戰隊が編成され、昭和18(1943)年4月、飛行第二百四十六戰隊は伊丹陸軍飛行場(大阪)に移駐、昭和19(1944)年3月31日、第一教育飛行隊が加古川において編成され、停戦まで兵営を使用しました。

聯隊兵営は飛行場東縁に沿った細長い区画にあり、戦後の経緯は不明ですが早期に建物等は解体(戦災復興住宅用資材として?)され、現在は銭湯、老人ホーム、住宅地になり遺構は何も遺されていません
加古川陸軍飛行場 第一教育飛行隊 昭和19年8月(兵庫)
▲第一教育飛行隊時代の営門(昭和19年8月)

加古川陸軍飛行場 営門跡 北東から(兵庫)
▲現在の営門跡
 銭湯の駐車場入口になっており、遺構は何も遺されていません。


③ 各務原陸軍航空支廠加古川分廠
昭和12(1937)年7月1日、各務原陸軍航空支廠 加古川分廠として設置され、昭和14(1938)年8月1日、陸軍航空廠各務原支廠 加古川分廠と改称、昭和16(1941)年6月1日、各務原陸軍航空支廠 加古川分廠に復称、昭和16(1941)年8月1日、大阪陸軍航空支廠に移管され、昭和17(1942)年10月15日、大阪陸軍航空支廠は大阪陸軍航空廠に改編されます。

加古川分廠は営門から飛行場に続く東西道路を隔てた南側、現在のナフコ辺りにありましたが、こちらも遺構は何も遺されていません


カ 境界石標
民家の庭に遺ります。
住民の方が不在で詳細に確認できませんでしたが、頂部に「く」の字の方向表記、側面に「第三」?の刻字があります。
加古川陸軍飛行場 カ 境界石標(加古川)


ア 陸軍
畑の中に境界石標が遺ります。
加古川陸軍飛行場 ア「陸軍」 南西から(兵庫)
▲「陸軍」の刻字は敷地内側を向いています。

加古川陸軍飛行場 ア「陸軍」 上から(兵庫)
▲頂部の方向表示矢印は無く、十字の刻字です。


イ 境界石標?
オーミケンシ㈱社宅と道路の境にあります。
フェンス側に何かの刻字(数字?)がありますが、見えませんでした。
加古川陸軍飛行場 イ 石標?(兵庫)


ウ 境界石標?
畑の中に石柱が建っていますが、特に刻字はありません。
境界石標かどうかも不明です。
加古川陸軍飛行場 ウ 石標?(兵庫)


エ 門柱
オーミケンシ㈱加古川工場の敷地内に門柱が1本だけあります。
近所の方の話では「オーミケンシ㈱の裏門の門柱」との事で、確かに位置的に飛行場の内部にあり不自然なので、そうなのかも知れませんが、念のため。
加古川陸軍飛行場 エ 門柱 西から(兵庫)
▲企業の裏門にしてはいやに豪壮な造りです。

加古川陸軍飛行場 エ 門柱 東から(兵庫)
▲上掲の「第一教育飛行隊営門」の門柱と形状が似ており、
 どこかにあった門柱を移設転用した様にも思えます。


オ 境界石標
民家と駐車場の間の塀に埋もれています。
境界石標と思われますが、確認できません。
加古川陸軍飛行場 オ 石標?(兵庫)


加古川陸軍飛行場 略歴
昭和10(1935)年3月15日、陸軍省は進化が著しい飛行機を用いた航空攻撃に対処するため『防空四ヶ年計畫』を発表、陸軍航空本部は同計画の一環として商業の中心地でもある阪神地区の防空のため、1個飛行聯隊の関西配備を決定します。
計画当初は大阪市内に飛行場設定を予定しましたが市内は地価が高価なため断念、兵庫縣加古郡尾上村字今津(現、加古川市尾上町)の加古川河口東岸に広がる水田、畑、松林地帯に飛行場の新設と飛行聯隊の設置が決定します。

昭和11(1936)年6月4日、第十師團経理部(秋澤穂一主正)は飛行場予定地の半分以上の86町歩を所有する実業家・多木久米次郎氏(衆議院議員、多木化学創業者)、23町歩を所有する池澤前尾上村長と交渉を開始、14日、第十師團経理部は地主大会を開催し、秋澤一主正は飛行場用地の地権者、自作・小作農家225名に飛行場設定、飛行聯隊設置、及び敷地選定理由を説明します。
22日、飛行場、飛行聯隊の敷地が決定、23日、用地買収、移転補償料等の交渉を開始、11月12日、ほぼ用地買収が修了します。

昭和12(1937)年1月7日、安藤組の下請け・森下組の人夫200名により地均しが開始され、飛行場用地内の今津集落32戸が尾上松林に用意された移転先に移転を開始します。
2月14日、陸軍大臣代理陸軍省建設課員・池内主計正、第十師團長・松浦淳六郎中将、同参謀長・秋山義允大佐、同経理部長・前川敬悦主計大佐、姫路聯隊區司令官・奥村勲少将、兵庫縣知事代理・奥田學務部長、多木久米次郎氏、大久保兵庫縣會議長、他工事関係者、村民等来賓350名が参列するなか地鎮祭が斎行され、基礎工事が開始されます。

昭和12(1937)年12月1日、新設された加古川陸軍飛行場において飛行第十三聯隊(神谷正男中佐)が編成完結(7月10日、飛行第十三戰隊に改編)、昭和13(1938)年3月15日、近隣住民を招き開隊式が行われました。
7月1日、各務原陸軍航空支廠加古川分廠が設置(昭和16年8月1日、大阪陸軍航空支廠に移管)されます。

昭和16(1941)年9月、戰隊は新設された大正陸軍飛行場(大阪)に移駐、12月7日、菊池陸軍飛行場(熊本)から第百六教育飛行聯隊が加古川に移駐、昭和17(1942)年4月、第百六教育飛行聯隊は臺中陸軍飛行場に移駐、5月3日、加古川において第百三教育飛行聯隊が編成され菊池に移駐、8月10日、加古川において飛行第二百四十六戰隊が編成され、昭和18(1943)年4月、飛行第二百四十六戰隊は伊丹陸軍飛行場(大阪)に移駐、昭和19(1944)年3月31日、第一教育飛行隊が加古川において編成され、戦闘機基本戦技教育と並行して阪神地区の防空、哨戒にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


展開部隊
飛行第十三聯隊
飛行第十三戰隊
(誠一一七〇三)
※「伊丹陸軍飛行場」の記事参照


第百六教育飛行聯隊(西部第百八)
第六教育飛行隊(臺灣第三十六)
昭和16(1941)年9月30日、菊池陸軍飛行場において編成(中重長吉中佐、九七戦25機)され獨立第百四教育飛行團司令部(本田農少将)に編入、12月7日、加古川陸軍飛行場に移駐し戦闘機基本戦技教育及び阪神地区防空にあたります。
昭和17(1942)年4月、臺中陸軍飛行場(台湾)に移駐、引き続き教育を実施します。
昭和19(1944)年3月31日、第百六教育飛行聯隊は復帰、人員・機材をもって第六教育飛行隊(奥山清蔵少佐)、第二十、第二十一教育飛行隊が編成されます。
臺中において九七戦、一式戦、三式戦により戦闘機基本戦技教育、及び要地防空、哨戒警備にあたるなか、12月25日、復帰しました。


第百三教育飛行聯隊(中部第百十五)
第三教育飛行隊(西部第百十四、昭一五三一五)
昭和17(1942)年5月3日、加古川陸軍飛行場において編成(持田政二中佐)、第百三教育飛行團司令部(小澤武夫少将)に編入され、菊池陸軍飛行場に移駐し偵察基本操縦術の教育を実施します。
11月2日、飛行第二戰隊(今津正光中佐、各務原)より軍偵1個中隊を編入し編成改正します。
昭和18(1943)年4月、聯隊より基幹要員を抽出し獨立第八十五飛行場大隊を、6月、朝鮮軍直協飛行隊を編成、5月~9月、応召下士官、豫備下士官、少年飛行兵300名の操縦教育を実施します。

9月下旬、下関港を出港、10月、比島マニラに上陸し、パタンガス州リパ飛行場に進出し、10月~昭和19(1944)年1月、応召下士官、少年飛行兵90名の操縦教育を実施、昭和19(1944)年3月31日、『軍令陸甲第百二十號』(昭和十八年十二月二十七日)により第百三教育飛行聯隊はリパにおいて復帰、第三教育飛行隊(太田庄吉少佐)に改編され、獨立第百七教育飛行團司令部(二田原憲治郎大佐)に編入されます。
4月~7月、第一期特別操縦見習士官130名の基本戦技教育を実施します。
8月、サンマルセリノ飛行場に移駐、『軍令陸甲第九十四號』(昭和十九年七月二十五日)により軍偵教育飛行隊を襲撃教育飛行隊に改編します。
昭和19(1944)年6月24日~9月30日、第一次比島作戦に参加、10月18日、セ號機動によりマニラより馬来に向かう途次、2210、ルソン島南々西パラワン島沖の海上において敵潜水艦の雷撃により近藤大尉以下295名が散華してしまいます。
主力は馬来ベラ州タイピン飛行場に移駐、第二期特別操縦見習士官、少年飛行兵118名の基本操縦教育を実施、昭和20(1945)年6月、第二期特別操縦見習士官内から77名が南方軍第一航空教育隊に派遣されます。
7月、第三航空軍司令部(木下敏中将、昭南島)は第三教育飛行隊に特別攻撃隊の編成を下令、志願者から七生昭道隊を編成、25日、タイピンからアロルスター飛行場に前進、26日0700、第一次攻撃隊第一編隊4機(九九式襲撃機、南部少尉以下4機)、第二編隊3機(九九式襲撃機、徳永勇夫曹長以下3機)は夫々25番1発を懸吊し、戦果確認の1機を伴いアロルスター飛行場を発進、プーケット島上陸を企図する英機動部隊を目指しますが、悪天候により編隊は分離してしまい、第一編隊は会敵できずに帰還します。
第二編隊はプーケット沖において英機動部隊を捕捉、高度1,500mより突入を敢行するも編隊長・徳永機は突入角が浅く離脱、1030、二番機・大村俊郎伍長は対空砲火により被弾炎上しながらも護衛空母を目指しますが、艦尾付近の海面に自爆してしまいます。
1600、第二次攻撃隊5機(第一編隊2機、第二編隊3機)はアロルスター飛行場を発進、悪天候によりまたも編隊は分離、第一編隊は会敵できずに帰還しますが、第二編隊長・徳永曹長は積乱雲下に英機動部隊をを捕捉、密雲を利用し接敵し、1950、掃海艇ヴェスタルに突入し撃破(後、自軍砲撃処分)、二番機・山本玄治曹長は別の大型艦右舷に突入し撃沈し任務を完遂、徳永曹長、山本曹長、大村伍長は南方軍總司令官・寺内壽一大将より感状が授与されます。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
主力はレンパン島に抑留され、一部は馬来各地で作業隊として使役され、昭和21(1946)年7月1日、大竹港に上陸、復員完結しました。


飛行第二百四十六戰隊(天鷲一九一九六)
※「大正陸軍飛行場」の記事参照


第百十四教育飛行聯隊(隼一五三〇一)
第十四教育飛行隊(隼一五三〇一)
昭和18(1943)年8月31日、第百一教育飛行聯隊の1個中隊を基幹として加古川陸軍飛行場において編成(浦川八郎中佐)され、第百五教育飛行團司令部(近藤三郎大差)に編入、戦闘機戦技基本操縦教育を開始します。
9月3日、加古川を出発、5日、宇品港を出港、12日、上海に上陸、19日、南苑飛行場に移駐し、戦闘機戦技基本操縦教育にあたります。
昭和19(1944)年3月1日、『軍令陸甲第百二十號』により第百十四教育飛行聯隊は復帰、第十四教育飛行隊の編成下令、7日、第十四教育飛行隊の編成完結、獨立第百五教育飛行團司令部に編入され南苑、天津、唐山各飛行場において戦闘機戦技基本操縦教育にあたります。

昭和20(1945)年2月23日、第五航空軍司令部(下山琢磨中将、京城)に特別攻撃隊の編成準備下令、第十四教育飛行隊に編成下令(編成根拠は3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』による)、志願者から鈴木泰治(隊長)、和田英一、掛井義則各少尉、島田昌往、牛濱昭、渡里脩一、松林昭一、中山完行、若松藤夫、松浦孝義、木村賢次、近藤豐各伍長が選抜され第百十一振武隊が編成、僚隊である第十八教育隊(太原)において編成された第百十二振武隊(西崎重男少尉以下12名)、第二十八教育隊(南泉)において編成された第百二十三振武隊(高野正治少尉以下12名)とともに、第百十一振武隊が「隼 若櫻隊」、第百十二振武隊が「隼 必殺隊」、第百二十三振武隊が「隼 天劍隊」と命名されます。
加古川陸軍飛行場 第百二十一振武隊(兵庫)
▲隼 若櫻隊の部隊章(胸章)

3月18日、各隊員は第十八教育飛行隊(櫻井晴一少佐、南京)に転属し天津飛行場において九七式戦闘機を受領し、錬成にあたります。

5月3日(発令は5月1日)、3隊は第六航空軍に編入され、13日、地上勤務者、在留邦人による壮行出陣式の後、錦州、奉天、29日、菊池を経由し知覧陸軍飛行場に前進しますが、27日、和田少尉が鹿児島市沖に不時着、散華してしまいます。
加古川陸軍飛行場 第百二十一・百二十二・百二十三振武隊(兵庫)
▲隼 若櫻隊、隼 必殺隊、隼 天劍隊(手前から)の壮行出陣式

加古川陸軍飛行場 第百二十一振武隊 (2)(兵庫)
▲知覧における隼 若櫻隊隊員
 左から松浦、島田、近藤、中山、若松、牛濱各伍長、鈴木隊長、渡里伍長、右上松林伍長

6月3日、第六航空軍は第六次航空總攻撃を発動、16:30、隼 若櫻隊は隼 必殺隊とともに25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、島田後長は徳之島、牛濱、松林両伍長が奄美大島に不時着、隼 若櫻隊・鈴木隊長以下8名は沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂しました。

7月5日、松林、牛濱両伍長は後途を期して福岡に帰還、9日、再び菊池に前進、島田伍長は佐世保海軍病院に入院(原因不明)、10日、退院後、15日、大刀洗から菊池に前進中、熊本縣鹿本郡内田村に不時着、額部に軽傷を負うも飛行機が大破してしまいます(3名は待機中、停戦を迎えたと思われます)。

第十四教育飛行隊は引き続き戦闘機戦技基本操縦教育にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

11月15日、塘沽港を出港、20日、佐世保港に上陸、復員完結しました。


第一教育飛行隊(空五三〇、中部第百四)
昭和16(1941)年9月30日、原町陸軍飛行場(福島)において第百一教育飛行聯隊が編成(城寺朝一中佐)され、第百一教育飛行團司令部(吉田定男少将)に編入、戦闘機戦技基本操縦教育を開始します。

昭和18(1943)年8月31日、1個中隊を第百十四教育飛行聯隊に転出、昭和19(1944)年年3月31日、一部を第三十二教育飛行隊に転出し、聯隊は加古川陸軍飛行場において第一教育飛行隊(秋田熊雄中佐)に改編され、第百四教育飛行團司令部(星駒太郎少将)に編入、引き続き戦闘機戦技基本操縦教育、阪神地区の防空、及び哨戒を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第百五十一飛行場大隊(威九九二五)
昭和19(1944)年6月26日、加古川陸軍飛行場において編成(齋藤武雄少佐)、7月12日、南方派遣のため吉野丸に乗船し門司港を出航、21日、高雄(台湾)に入航、吉野丸はフィリピン方面への兵力増強を目的としたミ11船團(輸送船18隻、護衛「占守」、第五十五號駆潜艇等7隻)に加わり29日、高雄を出航しますが、31日0300、バリンタン海峡航行中、敵潜水艦パーチェ、スチールヘッド、ハンマーヘッドの雷撃を受け、光榮丸は3本被雷し轟沈、扶桑丸が1本被雷し転覆沈没、萬光丸が1本被雷し浸水沈没、吉野丸も2本被雷し沈没(他2隻損傷)、大隊は150名が散華してしまいます(船団総数4,000名超散華)。
8月2日、生存者はルソン島バンギに上陸、第三十六航空地區司令部(若月金丸大佐)に編入され、9月2日、ポーラック飛行場に展開し、假編成第十三機關砲隊の配属を受け、昭和20(1945)年1月8日まで第一次捷號作戰に参加、1月23日、クラーク飛行場群防衛を担当する「建武集團」(第一挺進集團長・塚田理喜智中将)江口支隊(第十航空地區司令部司令官・江口清助大佐)の指揮下に入り、航空路部大高隊、集成歩兵小山隊の配属を受け、敵上陸部隊と交戦しますが、兵員の85%を失う大損害を受けてしまい、9月15日、停戦を迎えました。


-特別攻撃隊-
第七十六振武隊
昭和20(1945)年2月23日、第一航空軍司令部(李王垠中将)に特別攻撃隊の編成準備下令、3月20日、『陸亞密第千六百七十二號』により、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)隷下第一教育飛行隊(山田武少佐)に編成下令、志願者から岡村博二中尉(隊長)、久富基作、木村廣秋両少尉、戸次政雄、境正両軍曹、垣尾幸男、長谷川武弘、山口慶喜、中川芳穂、本田保、鈴木啓之、小島英雄各伍長の12名(九七戦)が選抜され、4月3日、編成完結し第六航空軍に編入されます。
隊は加古川において錬成にあたりますが、18日、本田伍長が航空事故により殉職してしまうなか、知覧陸軍飛行場に前進します。
加古川陸軍飛行場 第七十六振武隊(兵庫)
▲加古川陸軍飛行場における第七十六振武隊隊員
 前列左から山口伍長、境軍曹、岡村隊長、木村少尉、垣尾伍長
 後列左から小島、中川、鈴木、長谷川各伍長、久富少尉、戸次軍曹(本田伍長を失った後の撮影)
 後方の九七戦の垂直尾翼には7と6を組み合わせ、爆弾型に図案化した部隊章が描かれています。

4月28日、第六航空軍は第五次航空總攻撃を発動、1650、岡村隊長、境軍曹、長谷川、山口、中川、鈴木各伍長は25番1発を懸吊し、第六十七(7機)、第七十七(7機)、第百六(4機)、第百七(2機)、第百八振武隊(1機)とともに、知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦船群に突入散華、5月11日、第六航空軍は第七次航空總攻撃を発動、1641、久富少尉、戸次軍曹、小島伍長は25番1発を懸吊し知覧を発進、嘉手納沖の敵船団に突入散華、任務を完遂しました。
加古川陸軍飛行場 第七十六振武隊2(兵庫)
▲4月27日、出撃前日、知覧において慰問品の人形を手にする第七十六振武隊隊員
 翌日、送られた人形とともに出撃しました。

岡村隊長辞世「捨生執義 尚名節重廉恥」
山口伍長辞世「大君の みことかしこみ 爆弾抱えて 散って護らむ 大和島根を」
長谷川伍長辞世「大君に 命捧げて 共に行く 死して護らん 大和島根を」 「敷島の 大和男の子と生まれ来て 櫻花と共に我は散るらむ」

5月14日、木村少尉、垣尾伍長(要因不明)は後途を期して第六航空軍司令部に帰還、6月1日、第一教育飛行隊に復帰、神鷲第二百十七飛行隊員に志願、待命中に停戦を迎えます。


第二百十三振武隊
昭和20(1945)年4月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、5月、第一教育飛行隊(山田武少佐)において志願者から小林信昭少尉(隊長)、松下貞義、蘆田愼一、日向登、佐藤壮子次、小椋忠正各伍長(九七戦)が選抜され編成完結、三木陸軍飛行場(兵庫)に移駐し錬成にあたり、5月14日、第六航空軍隷下に編入されます。
24日、第二百十四振武隊とともに加古川において出陣式の後、戦友の見送りを受け加古川を発進、菊池陸軍飛行場に向かいますが進撃の途次、日向、小椋両伍長機は発動機故障により大分海岸に不時着、菊池で着陸に失敗(両名は無事、どちらが不時着、着陸失敗か不明)、4機は菊池において50番用の爆弾架を25番用に換装の後、知覧に前進します。
加古川陸軍飛行場 第二百十三振武隊・第二百十四振武隊(兵庫)
▲5月24日、加古川陸軍飛行場における第二百十三振武隊・第二百十四振武隊の出陣式
 左から小林隊長、松下、蘆田、日向、佐藤、小椋各伍長、當山隊長、谷口、金井、深田、佐々木、橋正各伍長

5月28日、第六航空軍は第九次航空總攻撃を発動、0531、小林隊長、松下、蘆田、佐藤各伍長は25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、機材不調のため小林隊長は宝島に、佐藤伍長は徳之島に不時着、松下、蘆田両伍長は沖縄西方海上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂しました。

6月19日、佐藤伍長は後途を期して第六航空軍司令部に帰還、25日、明野教導飛行師團に転属、小林隊長、日向、小椋両伍長も原隊に復帰したと思われますが、資料が無く動向は不明です。
因みに小椋忠正伍長は知覧特攻平和会館の初代館長、板津忠正氏です。
また小林信昭少尉は隊が錬成にあたった三木陸軍飛行場にほど近い三木市立三木中学校の校長を務められました。


第二百十四振武隊
昭和20(1945)年4月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、5月、第一教育飛行隊(山田武少佐)において志願者から當山幸一少尉(隊長)、谷口積雄、金井良吉、深田末義、佐々木暹、橋正豐次各伍長(九七戦)が選抜され編成完結、三木陸軍飛行場(兵庫)に移駐し錬成にあたり、5月24日、第六航空軍隷下に編入されます。
24日、第二百十三振武隊とともに加古川において出陣式の後、戦友の見送りを受け加古川を発進、菊池陸軍飛行場において50番用の爆弾架を25番様に換装の後、知覧に前進します。

6月3日、第六航空軍は第十次航空總攻撃発動、1019、當山隊長、谷口、深田、佐々木、橋正各伍長は25番1発を懸吊し知覧を発進しますが、発動機不調のため當山隊長は沖永良部島に不時着大破、谷口伍長以下4名は沖縄西方海上の敵艦船群に突入散華、10日、0510、金井伍長は25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂しました。

金井伍長辞世「散る櫻 残る櫻も散る櫻 命中」
橋正伍長辞世「わだつみに 索めもとめし 敵艦を 砕きて散らん 山櫻花」 「大君の しこの御楯と散らん身の 心は常に たのしくありけり」
深田伍長辞世「大君に 捧げまつらん若櫻 空の御楯と散るぞ 嬉しき」
佐々木伍長辞世「人殺し やらうともつても 浮世ぢゃ出来ん 敵のやつなら何人でも」

當山隊長は後途を期して原隊に復帰したと思われますが、資料が無く動向は不明です。


-待機特別攻撃隊-
第二百十七振武隊
昭和20(1945)年6月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(稲葉弘伍長以下6名、九七戦)、7月26日、第六航空軍隷下となり加古川において錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第二百十八振武隊
昭和20(1945)年6月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(伊知地昭次伍長以下6名、九七戦)、7月26日、第六航空軍隷下となり加古川において錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百四十一振武隊
昭和20(1945)年6月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(中川幹少尉以下6名、九五練)、7月30日、第五十二航空師團隷下となり加古川において錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百四十二振武隊
昭和20(1945)年6月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(小川広孝兵長以下6名、九五練)、7月30日、第五十二航空師團隷下となり加古川において錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百四十三振武隊
昭和20(1945)年6月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(水谷少尉以下6名、九五練)、7月30日、第五十二航空師團隷下となり加古川において錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百四十四振武隊
昭和20(1945)年6月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(牛島少尉長以下6名、九五練)、7月30日、第五十二航空師團隷下となり加古川において錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百四十五振武隊
昭和20(1945)年6月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(吉村少尉長以下6名、九五練)、7月30日、第五十二航空師團隷下となり加古川において錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百四十六振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(國分幸夫少尉長以下6名、九五練)、7月30日、第五十二航空師團隷下となり加古川、北伊勢、加古川と移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百四十九振武隊
昭和20(1945)年5月15日、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(矢岡裕美少尉長以下6名、九五練)、7月26日、第六航空軍隷下となり加古川、雁巣と移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百五十振武隊
昭和20(1945)年5月15日、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(川野忠男少尉長以下6名、九五練)、7月26日、第六航空軍隷下となり加古川、雁巣と移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百五十一振武隊
昭和20(1945)年5月15日、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(金澤健一郎少尉長以下6名、九五練)、7月26日、第六航空軍隷下となり加古川、雁巣と移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百五十二振武隊
昭和20(1945)年5月15日、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(藤野久少尉長以下6名、九五練)、7月26日、第六航空軍隷下となり加古川、雁巣と移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百七十五振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(小澤登少尉長以下6名、九五練)、7月26日、第五十一航空師團直轄となり加古川、北伊勢と移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百七十六振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(澤田俊一少尉長以下6名、九五練)、7月26日、第五十一航空師團直轄となり加古川、北伊勢と移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


第三百七十七振武隊
昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團(松岡勝蔵中将、岐阜)に特別攻撃隊の編成準備下令、第一教育飛行隊(山田武少佐)において編成(乾隆少尉長以下6名、九五練)、7月26日、第五十一航空師團直轄となり加古川、北伊勢と移駐、錬成中の8月16日、停戦を迎えます。


主要参考文献
『加古川市史 第三巻 本編 III』(平成12年3月 加古川市史編さん専門委員)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『陸軍特別攻撃隊』(平成7年7月 モデルアート社)

「加古川飛行場展」 資料

-webサイト-
陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/index.htm
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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