当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

高射砲第三聯隊 (のち陸軍航空通信學校 加古川教育隊)

兵庫県加古川市野口町には高射砲第三聯隊の兵営がありました。
兵営は後に陸軍航空通信學校 加古川教育隊が入り、さらに加古川教導航空通信團司令部が設置され、加古川教育隊は同團第一教育隊に改編されます。
高射砲第三聯隊 タ 営門 南西から(兵庫)
▲ハリマ化成㈱の正門として遺る高射砲第三聯隊営門

【探索日時】
平成25年1月31日、2月1日





高射砲第三聯隊/陸軍航空通信學校 加古川教育隊 現況
現在は西側一帯がハリマ化成㈱加古川製造所、東側一帯が商業施設、学校、住宅地になっています。
高射砲第三聯隊 高射砲第三聯隊(陸軍通信學校加古川教育隊)(兵庫)
高射砲第三聯隊陸軍航空通信學校 加古川教育隊
演習場
神野側線
※以下の遺構配置は上掲地図参照


遺構について
⑥ 高射砲第三聯隊/陸軍航空通信學校 加古川教育隊
昭和10(1935)年3月30日、陸軍省は高射砲第三聯隊の新設を計画、兵庫縣加古郡野口村水足(現、加古川市野口町野口)に兵営用地を選定します。
昭和11(1936)年6月、用地買収を実施、昭和13(1938)年1月19日、地鎮祭を挙行し、兵営建設が開始されます。
5月21日、高射砲第三聯隊が高岡陸軍演習廠舎(青野ヶ原陸軍演習場)から、竣工した加古川の新兵営に移転してきます。
昭和16(1941)年5月、兵営東側に隣接する水田15,000坪(現、県営団地一帯)を買収し拡張します。

7月7日、高射砲第三聯隊は復帰し、同日、高射砲第三聯隊補充隊が動員され、19日、高射砲第三聯隊補充隊において臨時編成された大阪防空隊高射砲第一、同第二聯隊(11月22日、夫々防空第十一、同第十二聯隊に改編)の補充業務を担当します。
昭和17(1942)年4月27日、失火により兵営が殆ど全焼してしまいます。
昭和18(1943)年8月7日、高射砲第三聯隊補充隊に動員下令、防空第十三聯隊に改編され神戸地区に展開します。

9月17日、空いた兵営において陸軍航空通信學校加古川教育隊が開隊され、昭和20(1945)年4月28日、加古川教育隊内に加古川教導航空通信團が新設され、加古川教育隊は同團第一教育隊に改称され、教育にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置、10月1日から兵庫県各地に進駐を開始します。

2日、加古川教育隊は米軍により接収後、大蔵省に移管され、生徒舎は解体、敷地北西隅の一角が引揚者住宅に、営門南側の1棟が澱粉工場に、南東隅の一角が開拓農業協同組合に、中央付近が平岡・野口両村立中部中学校に、その他の敷地全域は農協の開拓地に転用されます。
昭和34(1954)3月、兵営跡西側全域をハリマ化成㈱が買収、野口工場(後に加古川製造所に改称)を建設、東側は大日繊維工業㈱を経て陵南中学、商業施設、住宅地に、北東側は大庫輸送機㈱のゴルフ練習場を経て市営住宅になり現在に至ります。

A 木工・鍛工場
ハリマ化成㈱構内に遺り、現在は事務所として使用されています。
『高射砲第三聯隊 回想地図』によると「木工・鍛工場」で、陸軍航空通信學校加古川教育隊時代は何に使用されていたか不明です(以下建物名は同図による)。
停戦後、澱粉工場に改造され、さらにハリマ化成㈱の事務所として改造され、余り原型を留めていません。
高射砲第三聯隊 A 南東から(兵庫)


※ハリマ化成㈱は事前連絡のうえ毎週水曜日に工場見学を受け付けています(現在は団体のみ?)が、構内は撮影禁止のため、今回掲載の構内写真(A・B・C・D・ヒ・フ)は撮影禁止以前に見学した方にご提供頂きました。
お忙しい中、ご案内頂いた総務部の方、写真を提供して頂いた○○様、この場を借りてお礼申し上げます。

見学に付いての詳細はハリマ化成㈱総務部にお問い合わせください。


ヒ 貯水槽
ハリマ化成㈱構内に遺り、現在は防火水槽として使用されています。
高射砲第三聯隊 ヒ 貯水槽 東から(兵庫)


フ 「加古桜」碑
ハリマ化成㈱構内に陸軍航空通信學校 加古川、同尾上、同神野教育隊を記念し建てられています。
高射砲第三聯隊 フ 加古桜(兵庫)


B 車両修理工場
ハリマ化成㈱構内に遺り、現在は工場の一部として使用されています。
高射砲第三聯隊 B 西から (2)(兵庫)
▲西面南側の入り口

高射砲第三聯隊 B 西から(兵庫)
▲西面北側の入り口


C 車庫
ハリマ化成㈱構内に遺り、往時の半分の長さに減築され、現在は倉庫として使用されています。
高射砲第三聯隊 C 建物 南東から(兵庫)
▲南門から見た車庫

高射砲第三聯隊 C 北西から(兵庫)
▲西側の入り口


D 高射砲廠
聯隊の建物で唯一遺る鉄筋コンクリート製の建物です。
ハリマ化成㈱構内に遺り、現在は使用されていない様です。
東側の道路からも見える建物です。
高射砲第三聯隊 D 南西から(兵庫)
▲西から見た高射砲廠
 改装され本来の入り口がどこにあったのか不明です。

高射砲第三聯隊 D 高射砲庫 南東から(兵庫)
▲東(道路)から見た高射砲廠


タ 営門
現在はハリマ化成㈱の正門として転用されています。
高射砲第三聯隊 営門(兵庫)
▲高射砲第三聯隊時代の営門

高射砲第三聯隊 タ 営門 南西から (3)(兵庫)
▲現在の営門

写真では分かり難いですが左右の袖門門柱は意匠が異なります。
上掲の高射砲聯隊当時の写真を見ると、右側に袖門が無い様に見える事から、陸軍航空通信學校 加古川教育隊になった際に増設されたのでしょうか?
高射砲第三聯隊 タ 営門 北側 東から(兵庫)
▲右側の正門・袖門(裏側から)ともに非常に凝った意匠です。


チ 
営門北側に塀のコンクリート基礎と思われる構造物が遺ります。
高射砲第三聯隊 チ 塀(兵庫)


ツ 南門
現在はハリマ化成㈱の南門として転用されています。
同社訪問時はこの門から入ります。
高射砲第三聯隊 ツ 北門 南から(兵庫)
▲営門を小さくした感じです。

高射砲第三聯隊 ツ 北門 東側 南西から(兵庫)
▲南門近影
 営門同様の凝った意匠です。


テ 「陸軍」境界石標
敷地東側を示す境界石標で、民家のブロック塀に埋まっています。
何故か敷地内の方向を向いて立っています。
高射砲第三聯隊 テ「陸軍」 西から(兵庫)
▲写真では分かりませんが、頂部の境界方向表示の切り込みが辛うじて見えます。


ト 「陸軍」境界石標
敷地東側を示す境界石標で、畑のあぜ道に遺ります。
こちらも何故か敷地内の方向を向いて立っています。
高射砲第三聯隊 ト「陸軍」 西から(兵庫)
▲辛うじて「陸軍」の刻字が読めます。

高射砲第三聯隊 ト「陸軍」(二十一?) 北から(兵庫)
▲頂部に境界方向表示の切り込みと側面の石標番号「二十一」が読めます。


ナ 「陸軍」境界石標
敷地東側を示す境界石標で、マンション横の側溝付近に遺ります。
これまた何故か敷地内の方向を向いて立っています。
高射砲第三聯隊 ナ「陸軍」 西から(兵庫)
▲この辺りは昭和16(1941)年5月の兵営拡張部分のため、先の境界石標2本と材質、字体等が異なります。

高射砲第三聯隊 ナ「陸軍」 北から(兵庫)
▲刻字の彫り込みが浅く、頂部の方向表示、側面の石標番号があるのですが、後者は判読できませんでした。

高射砲第三聯隊 ナ 南側の側溝(兵庫)
▲“ナ”境界石標の周辺に遺る側溝も当時の物と思われます。


② 演習場
昭和11(1936)年6月、用地買収を実施、高射砲兵営とともに開設されます。
大東亜戦争停戦後は農地に戻された後、現在は工業地になっており区画も遺されていません。
高射砲第三聯隊 ⑦練兵場(兵庫)
▲演習場の現状

ニ くんれんばし
2 t を超える高射砲が行き来するため頑丈に造られています。
高射砲第三聯隊 ニ くんれんばし 南西から(兵庫)
▲欄干に「くんれんばし」の表記があります。
 東西ともにひらがなの表記です。

高射砲第三聯隊 ニ くんれんばし ガーター(兵庫)
▲橋の裏側には鉄製の桁が通されています。


ヌ 聯隊橋
昭和13(1938)年6月に架橋されました。
高射砲第三聯隊 ヌ 聯隊橋 北東から(兵庫)
▲東側欄干に「聯隊橋」の表記があります。

高射砲第三聯隊 ヌ 聯隊橋 南西から(兵庫)
▲西側の橋脚銘は剥落しています。


⑨ 神野(かんの)側線
高射砲第三聯隊の兵営設置時に鐡道省線から兵営まで敷設され、さらに各務原陸軍航空支廠神野出張所まで延長されました。

ハ 鉄橋
神野側線は停戦後もかなり長期間放置されていた様ですが、現在は舗装され道路として区画が完存しています。
高射砲第三聯隊 ハ ガーター橋 南から(兵庫)
▲神野側線跡に遺る鉄橋

高射砲第三聯隊 ハ ガーター橋 下部(兵庫)
▲裏側は鉄製の桁で補強されています。


高射砲第三聯隊/陸軍航空通信學校 加古川教育隊 兵営略歴
昭和10(1935)年3月30日、陸軍省は高射砲第三聯隊の新設を計画、第十師團経理部(秋澤穂一主正、姫路)は高射砲部隊と緊密な関係を要する防空飛行部隊が展開予定の加古川陸軍飛行場に近接しており、地政学的に設定が容易で国道に近く、且つ予定用地が1ヶ村のため行政処理が容易な事から兵庫縣加古郡野口村水足(現、加古川市野口町野口)の耕地80,000坪に兵営用地を選定します。

昭和11(1936)年6月、第十師團経理部・村上主計中佐は小山慶太郎・野口村助役に用地買収を伝達するとともに氏を伴い、橘虎一郎・同村惣代宅を訪ね、聯隊兵営設置、及び敷地選定理由を説明し、地権者80名、小作人40名と数度の交渉の後、水田1反:上田750円、中田650円、下田550円、畑:300円(補償料含)にて円満妥結し、用地売買承諾書を締結、7月頃より地均しを開始、11月、鐡道省線から兵営までの側線の杭打ちを開始、12月18日、第十師團経理部野口出張所を開所、昭和13(1938)年1月19日、地鎮祭を挙行し、兵営建設が開始されます。

5月21日、高射砲第三聯隊が高岡陸軍演習廠舎(青野ヶ原陸軍演習場)から、竣工した加古川の新兵舎に移転し、8月12日、開隊式が挙行されます。
昭和16(1941)年5月、兵営東側に隣接する水田15,000坪(現、県営団地一帯)を買収し、拡張します。
高射砲第三聯隊 八八式野戰高射砲(兵庫)
▲高射砲第三聯隊の八八式野戰高射砲による対空戦闘演習

高射砲第三聯隊 ホ式十三粍高射機関砲(兵庫)
▲高射砲第三聯隊のホ式十三粍高射機關砲による対空戦闘演習

7月7日、『特臨編第一號(第百一次動員)』により動員下令(關東軍特種演習第一次動員)、高射砲第三聯隊は復帰し、同日、高射砲第三聯隊補充隊が動員され、19日、高射砲第三聯隊補充隊において大阪防空隊高射砲第一、同第二聯隊(11月22日、夫々防空第十一、同第十二聯隊に改編)が臨時編成され夫々大阪南部、同北部地区に展開します。
高射砲第三聯隊 九〇式小空中聴音機(兵庫)
▲高射砲第三聯隊営庭において九〇式小空中聴音機による対空戦闘演習

高射砲第三聯隊 九三式二米測高機(兵庫)
▲高射砲第三聯隊演習場において九三式二米測高機による対空戦闘演習

高射砲第三聯隊 九三式百五十糎照燈(兵庫)
▲高射砲第三聯隊営庭において九三式百五十糎照燈による夜間対空戦闘演習

昭和17(1942)年4月27日1315、失火により兵営は軽油庫、弾薬庫、砲車庫、将校宿舎を除き殆ど全焼、火災は折からの強風に煽られ周辺の民家にも飛び火し34戸が全焼(2戸半焼、2名軽傷)してしまい、陸軍省、中部軍、留守第十師團、陸軍航空本部、姫路憲兵隊は各罹災者を個別に訪問し失火を深謝し見舞金を進呈するとともに、兵営の復旧と並行して被害金98,000円を支払い、また復興資材のセメント、材木等を補償しました。

昭和18(1943)年8月7日、高射砲第三聯隊補充隊に動員下令、防空第十三聯隊に改編され神戸地区に展開します。

9月17日、空いた兵営において陸軍航空通信學校 加古川教育隊が開隊され、昭和20(1945)年4月28日、加古川教育隊内に加古川教導航空通信團が新設され、加古川教育隊は同團第一教育隊に改称され、教育にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置、10月1日から兵庫県各地に進駐を開始します。

10月2日、加古川教育隊は米第33歩兵師団により接収後、生徒舎は解体され(戦災復興住宅用資材として転用か?)、北西隅の一角(教育隊本部(旧聯隊本部)・衛兵詰所・営倉・面会所・将校集会所・演武場)が引揚者住宅(後に失火により将校集会所を除き全焼)に、営門南側の木工・鍛工場が加古郡農業協同組合連合会の澱粉工場に、南東隅の一角(厩舎・照空灯格納庫・酒保・印刷工場・油脂庫・小銃弾庫・砲弾庫・馬場・狭窄射撃場)が水南開拓農業協同組合(昭和31年解散)に、昭和23(1948)年、西側の一角(車両修理工場・車庫)は平岡・野口両村立中部中学校(昭和25年、加古川市立に改称、昭和34年3月6日、移転)に、その他の敷地全域は農協の開拓地に転用されます。
昭和34(1954)3月、兵営跡西側全域(澱粉工場跡、中学校跡)をハリマ化成㈱が買収、野口工場(後に加古川製造所に改称)を建設、東側は大日繊維工業㈱を経て陵南中学、商業施設、住宅地に、北東側は大庫輸送機㈱のゴルフ練習場を経て市営住宅になり現在に至ります。


衛戍部隊 略歴
高射砲第三聯隊
高射砲第三聯隊補充隊
(中部第七十三)
防空第十三聯隊( 〃 )
高射砲第百二十三聯隊(炸四一六八)

大阪防空隊高射砲第一聯隊
防空第十一聯隊

高射砲第百二十八聯隊(炸七六五〇)
高射砲第百二十一聯隊(炸七六五〇)

大阪防空隊高射砲第二聯隊
防空第十二聯隊
高射砲第百二十二聯隊
(炸七六五一)
大正2(1913)年、 陸軍は陸軍野戰砲兵射撃學校(河北榮太郎大佐、千葉)において高射砲隊用法の研究を開始し、大正3(1914)年10月31日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)に際し、三八式野砲を応用した臨時高射砲2門を運用し独軍航空機に対空射撃を実施します。
大正7(1918)年、臨時高射砲が正式採用され、大正10(1921)年、仏軍・リッカー大尉を招聘し高射砲兵の戦技、戦法要地防空の運用などを受講するとともに七糎高射砲2門(自走、牽引)を購入します。
大正14(1925)年3月27日、高射砲第一聯隊の編成を開始、5月1日、野戰砲兵學校内に新設(刈谷和郎大佐)され、7日、豊橋に移転、昭和3(1928)年3月28日、浜松に移駐します。

昭和10(1935)年3月30日、陸軍省は軍令陸乙第三號『昭和十年軍備改變要領』、陸密第二〇五號『同細則』により、3個高射砲聯隊、1個高射砲大隊の編成を計画、昭和12(1937)年、陸軍平時編制中改正により昭和16年秋までに7個高射砲聯隊の編成が計画されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生します。

8月15日、『昭和十一年軍備改變要領細則』第二條により留守第十師團(森田宣中将、姫路)の担当で、高射砲第三聯隊(竹田政一中佐、高射2個大隊、照空2個大隊、機関砲1個中隊、材料廠)が野砲兵第四聯隊兵営(信太山)において編成され、中部防衛司令部(蓮沼蕃中将)隷下に編入、12月、青野原陸軍演習場に付属する高岡陸軍演習廠舎(滋賀県)に移駐します。
(『高射戦史』及び同書を参考にしたと思われる『日本陸軍兵科連隊』では高射砲第三聯隊の編成地を「大津」としていますが、誤りです)

昭和13(1938)年5月21日、加古川の新兵営竣工に伴い高岡陸軍演習廠舎から移駐し、8月12日、地元住民を招待し開隊式が挙行され、模擬対空戦闘を実施します。

昭和15(1940)年8月1日、高射砲第三聯隊は中部防衛司令部を基幹として新編された中部軍司令部隷下に編入されます。

昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、隠密裏に対ソ武力行使準備を整え、独ソ戦の推移が有利に進展した際は武力を行使して北方問題を解決し、北方の安全を確保する方針を決定し、7日、關東軍特種演習の動員下令、高射砲第三聯隊は復帰し、同日、高射砲第三聯隊補充隊が動員され、19日、高射砲第三聯隊補充隊において大阪防空隊高射砲第一(築山博一中佐)、同第二聯隊(樋口易信中佐)が臨時編成され、8月12日に臨時編成された大阪防空隊司令部(金岡嶠少将)に編入され、夫々大阪南部、同北部地区に展開し教育にあたります。

11月8日、軍令陸甲第八十號により、22日、大阪防空隊司令部は復帰、要員により中部防空旅團司令部(金岡嶠少将)が動員され大阪市立美術館に司令部を設置、同日、隷下部隊も復帰、大阪防空隊高射砲第一聯隊要員により防空第十一聯隊(樋口易信大佐)、同第二聯隊により防空第十二聯隊(土屋善輝中佐)が動員され、中部・近畿地区の防空にあたります。
中部防空旅團の戦力は防空第十一、十二、十五聯隊、獨立防空第十一、十二、十三大隊、第十一防空通信隊、同監視隊で、名古屋地区16、阪神地区56、京都地区8、宇治山田地区4、福井地区4、和歌山地区4門(配置場所の詳細は不明)の高射砲を擁していました。

我が国は外交交渉による対米戦争回避を図りますが、26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月1日、御前会議において米・英国との開戦を決定、3日、大本營は大陸命第五百七十六號(昭和十六年十二月二日)において防衛總司令官・山田乙三大将(東部軍・中部軍・西部軍・北部軍・朝鮮軍・臺灣軍管區の防空戦を指揮)に対し北部、朝鮮軍管區以外の要地防空を下達、12月8日0130、大東亜戦争が開戦し、0600、各防空部隊に要地防空が下令されます。

昭和17(1942)年4月18日、米B25爆撃機、16機が空母ホーネットから発艦し本土に来襲、関西地区に来襲した1機に対し中部防空旅團は対空射撃を実施しますが、戦果はありませんでした(ドーリットル空襲)。
被害は僅少だったものの内地が空襲を受けた衝撃は大きく、大本營は要地地上防空兵力強化のため、8月15日、中部防空旅團司令部は中部防空集團司令部(伊藤範治少将、天王寺)に改編されます。

昭和18(1943)年8月7日、高射砲第三聯隊補充隊は復帰、補充隊要員により防空第十三聯隊(山岡重孝中佐)が動員され神戸地区に展開し、以降の補充業務は中部軍司令部(後宮淳大将、大阪)が担当します。

昭和19(1944)年4月19日、防空第十一聯隊は高射砲第百二十八聯隊(樋口易信大佐)に改称され、大阪府立住吉中學校(現、大阪府立住吉高等学校)に聯隊本部を設置、各中隊を大阪南部一帯に配置して防空にあたります。

同日、防空第十二聯隊は高射砲第百二十二聯隊(五峯作一大佐)に改称され、攝南高等専門學校(現、大阪工業大学)に聯隊本部を設置、各中隊を大阪北部一帯に配置して防空にあたります。

同日、防空第十三聯隊は高射砲第百二十三聯隊に改称され、湊川公園に聯隊本部を設置、各中隊を神戸地区一帯に配置して防空にあたります。

10月14日、軍令陸甲第百三十七號『昭和十九年度第二次要地高射砲諸部隊臨時編成(編制改正)要領』により高射砲第百二十八聯隊は高射砲第百二十一聯隊に改称されます。

昭和20(1945)年1月19日、B29爆撃機7個梯団80機が川崎航空機工業㈱明石工場に来襲、聯隊は対空射撃を実施しますが戦果は挙がりませんでした。
以降、近畿・中国・四国地区は停戦まで連日、大型・小型機により大小の空襲を受け、高射砲第百二十一、百二十二、百二十三聯隊は連日防空戦闘を実施します。

4月28日、軍令陸甲第七十一號『高射第二師團司令部等臨時動員(編制改正)、第三百三十九次復帰要領』により中部防空集團司令部は高射第三師團司令部(河合潔少将、天王寺)に改編され、大阪・神戸を中心に近畿、山陰、山陽、四国地区の防空を担当します。

7月、第十五方面軍司令部(内山英太郎中将、大阪)は高射第三師團司令部に対し、殆ど無傷で且つ配備数の少ない京都への進出を下令、高射砲第百二十二、百二十三聯隊は高射砲3個中隊、照空2個中隊を京都に派遣、高射砲第百二十二聯隊第一大隊(山野廣治少佐)指揮下に編入、さらに滿洲方面からの物資が入港する山陰方面防空のため仙崎、萩に3個中隊を派遣します。

7月下旬、無傷の広島に対する敵機の偵察が活発化し空襲が切迫して来たため、山陰方面の高射砲6個中隊(仙崎、萩から2個、加古川、下津、大阪南部の各1個)、照空2個中隊(大阪南部・北部から各1個)の広島派遣を決定、各中隊は獨立高射砲第二十二大隊(加藤恒太少佐)の指揮下に編入され、8月初旬、移動を開始しますが、8月6日、原子爆弾が投下され広島市は壊滅してしまいます。

高射第三師團は近畿、四国、中国地方の要地防空を担当しますが、首都圏を擁する関東、重工業地帯の中部、九州地区に優先的に高射砲部隊が配備されたため、少ない部隊で広範な防空を強いられ苦戦するなか8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
巷間では「我軍の高射砲はB29に届かず無力だった」と良く言われますが、B29の爆撃高度は昼間4,000~5,000m、夜間2,000mのため、我軍の主力高射砲である八八式七糎野戰高射砲(最大射程13,800m、最大射高 9,100m)でも充分対応できました。
にも関わらず苦戦したのは早期警戒装置の不備、電波標定機、高射算定具の性能不足、砲弾の補給等の他、最大の要因は高射砲の絶対数不足による有効な火網形成が出来なかったためでした。


陸軍航空通信學校 加古川教育隊
加古川教導航空通信團 第一教育隊

※「陸軍航空通信學校 尾上教育隊」の記事参照


加古川教導航空通信團司令部(加古川陸軍航空通信部隊)
※「陸軍航空通信學校 尾上教育隊」の記事参照


主要参考文献
『高射戦史』(昭和53年12月 下志津(高射学校)修親会)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『日本陸軍兵科連隊』(平成6年11月 新人物往来社)

高射砲第三聯隊関連史料(アジア歴史資料センター)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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