当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第百六聯隊 (のち陸軍航空通信學校 神野教育隊)

兵庫県加古川市山手には歩兵第百六聯隊の兵営がありました。
兵営は後に陸軍航空通信學校 神野教育隊になります。
歩兵第百六聯隊 ア 営門 西から(兵庫)
▲甲南加古川病院駐車場に遺る歩兵第百六聯隊営門門柱(袖門)

【探索日時】
平成25年2月1日、3日






歩兵第百六聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
歩兵第百六聯隊 (陸軍通信學校神野教育隊)(兵庫)
▲現在の地図に施設を転写

※緑文字が当記事の紹介施設
歩兵第百六聯隊 兵営
②加古川第二陸軍病院
③加古川陸軍練兵場(範囲は推定)


遺構について※青字は地図にリンクしています
① 歩兵第百六聯隊 兵営
昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編するとともに獨立歩兵團の新設を決定します。
10月13日、第十師團経理部は新設歩兵聯隊の衛戍地を兵庫縣加古郡神野村(現、加古川市)に選定し同役場に伝達、16日、西条公会堂において師團経理部長・瀧川保之助主計大佐が関係地権者に兵営設置の経緯を説明し、用地売渡契約が締結されます。
聯隊兵営、陸軍病院、練兵場用地は中西条焼山ノ岡・切池・土取、西条南山・北山・焼山、神野経塚の349,425坪、買収価格は田1反510円、畑300円、山林220円、原野180円でした。
昭和16(1941)年2月、兵営の地均工事を開始、3月13日、地鎮祭斎行の後、兵舎他の建設を開始、8月、兵営が竣工し、10日、兵営において歩兵第百六聯隊が新編されます。

昭和19(1944)年1月30日、聯隊は旧歩兵第七十八聯隊兵営(朝鮮龍山)に移駐のため加古川を出発、4月27日、加古川の旧歩兵第百六聯隊兵営において陸軍航空通信學校神野教育隊が開隊されます。
昭和20(1945)年5月3日、陸軍航空通信學校が廃校され、加古川教導航空通信團が新設、神野教育隊は同團第三教育隊に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦後の経緯は不明ですが、兵舎は大阪逓信局講習所を経て加古川市立つつじ園(現、知的障害者総合支援センター)、市営住宅、一般住宅、農地に、営庭には昭和22(1947)年 9月13日、山手中学校が建設され、練兵場は住宅地、史跡公園になり現在に至ります。

A 兵舎
近所で農作業をされている方から御教示頂きました。
あかり保育園内に一部が移設され、園舎として使用されています。
歩兵第百六聯隊 A 兵舎?(移築?) 東から(兵庫)
▲かなり改築されていますが、何となく面影があります。

歩兵第百六聯隊 A 兵舎?(移築?) 南東から(兵庫)
▲正面側


ア 営門門柱
袖門の門柱が甲南加古川病院(旧加古川第二陸軍病院)の駐車場入口に遺されています。
歩兵第百六聯隊 ア 営門 西から (兵庫)
▲元々は内側にもう1本ずつ、一回り大きい正門の門柱があった様ですが、残念ながら撤去されてしまっています。

歩兵第百六聯隊 ア 営門 南側 北西から(兵庫)
▲南側(上掲写真右側)の門柱 表側近影
 看板がベタベタ張られてせっかくの遺構が台無しです。

歩兵第百六聯隊 ア 営門 北側 南東から(兵庫)
▲北側(上掲写真左側)の門柱 裏側近影
 両方の門柱とも裏側に門扉の吊金具が遺っています。


イ 土堤
兵営外周に巡らされていた土堤の北西部分が遺されています。
歩兵第百六聯隊 イ ア営門からウ土留(兵庫)


ウ 裏門土留
本来は内側に木戸があった様です。
歩兵第百六聯隊 ウ 土留 南から(兵庫)
▲裏門門柱両側にあった土留が遺ります。
※病院敷地内は関係者の許可をとって立ち入っています。

歩兵第百六聯隊 ウ 土留 西側 門扉留(兵庫)
▲土留内側に遺るあおり止め(鍵型の掛けがね)

歩兵第百六聯隊 ウ 南東の基礎 (兵庫)
▲“ウ”土留の南西にコンクリート製の基礎が遺りますが、詳細は不明です。


エ 「陸軍」 境界石標
畑の隅にあり、用水路の小橋として境界石標2本が転用されています。
歩兵第百六聯隊 エ 東から(兵庫)
▲材質はコンクリートで、小橋の両側に境界石標が使われています。

歩兵第百六聯隊 エ 西から(兵庫)
▲実に贅沢な使い方です。


オ 排水溝・石垣
南東隅の排水溝、石垣が遺ります。
兵営用地は当初計画から追加買収により拡張されており、石垣の形状から当初の敷地は西からここまでで、東側の畑になっている場所が拡張された部分の様です。
歩兵第百六聯隊 オ 石組み 南東から(兵庫)


あ 歩兵第百六連隊之碑
昭和52年8月15日に建立されまいた。
歩兵第百六聯隊 あ 歩兵第百六連隊之碑(兵庫)
▲聯隊の簡単な事蹟が書かれていますが、聯隊が死闘を繰り広げたビルマ戦線については余り書かれていません。

歩兵第百六聯隊 当時の桜(山手公民館)(兵庫)
▲営庭南端にあたる山手公園の桜は、当時からこの場所にあった桜です。


衛戍部隊
歩兵第百六聯隊(中部第六十六部隊、狼一八七〇二)
昭和15(1940)年7月10日、『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』により新設が決定、大阪、姫路、篠山、和歌山、奈良、鯖江、岡山、鳥取の各聯隊、補充隊より基幹要員を抽出し、8月10日、編成完結(十時和彦大佐)、昭和16(1941)年9月10日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第百六聯隊 軍旗(兵庫)
▲歩兵第百六聯隊 軍旗

聯隊は1個大隊基幹の低定員編制で、同じく後に師團化を想定した第六十四獨立歩兵團(松山祐三少将、奈良)隷下に編入され、加古川において幹部現地教育、初年兵教育、不発弾処理班教育、部外団体教育、耐寒演習、実践演習に加え、南方派遣要員の特別教育等を実施します。

昭和17(1942)年2月、熱田島(アッツ島)に一部を転属、昭和18(1943)年2月、第十五獨立守備隊、獨立歩兵第五十六大隊(ともにスマトラ島)に第一次転属、7月、南海派遣第四守備隊に1個大隊転属、8月、南海派遣第四守備隊に一部転属(ラバウル到着後、獨立混成第十四聯隊に転属)、9月、スマトラ島第二次、10月、同第三次転属により夫々要員を抽出します。

昭和19(1944)年1月6日、『軍令陸甲第二號』により臨時編成下令、30日、聯隊は兵営を出発、加古川駅から列車により、31日、博多駅に到着後、博多港を出港、同日、釜山港に上陸、2月1日、列車により龍山の旧歩兵第七十八聯隊兵営に移駐し、南方での戦闘を想定した教育訓練を実施します。

5月27日、『軍令陸甲第五十九號』により編成改正下令、6月13日、第一次編成完結、1月6日に留守第二十師團司令部、第六十四獨立歩兵團を基幹に編成された第四十九師團(竹原三郎中将、龍山)隷下に編入され、15日、第二次編成を完結します。
聯隊の第一大隊は近畿地方出身者を中心に編成、第二大隊は第一・第三大隊からの要員で編成、第三大隊は朝鮮衛戍部隊を中心に編成されました。
なお、『戦史叢書』を始め各種資料、ウィキペディア等に「当師團は朝鮮出身者が20%を占める」と記載されていますが、これは“朝鮮在住の日本人も含めた数字”で、実際に生粋の朝鮮人は4~5%(当聯隊で編成定員3,252名中、朝鮮人志願者は132名で4.1%)であり誤りです。

5月31日、第四十九師團は南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列の緬甸方面軍(木村兵太郎中将、ラングーン)戦闘序列に編入され、6月28日、聯隊は兵営を出発、29日、龍山駅から列車に乗車、30日、釜山港に集結、7月3日、吉野丸に乗船し、4日、門司港を経由し、7月7日、呉港に入港、吉野丸より聯隊本部、第一大隊は戦艦「大和」へ、第二・第三大隊は同「武藏」に移乗し、8日、呉を出港、10日、沖縄中城湾において小艦艇の給油を行い、17日、リンガ泊地に入泊、聯隊は真成丸に移乗、19日、昭南島セレター港に入港、22日、大発により西埠頭に上陸します。
28日、平安丸に乗船し昭南島を出港、8月2日、サイゴンに入港、6日、蒸気船に分乗しメコン川を遡上、10日、プノンペンに上陸し、12日、プノンペン駅から列車に乗車、15日、バンコク駅に到着し、競馬場宿舎に入ります。
9月2日、第四十九師團は方面軍予備隊に位置付けられ、軍需品輸送兼先遣隊として第三機關銃中隊(大谷正男少尉)を先発させ、ノンプラドックから泰緬聯接鐵道によりタンビザヤに、14日、ペグー駅に到着しキャウタンの兵舎に入ります。
17日、聯隊主力はバンコクを出発、26日、キャウタンに集結し、陣地構築、戦闘訓練にあたります。

昭和20(1945)年2月14日、イラワジ川左岸において英第14軍の攻勢を拒止している第十五軍(片岡四八中将)の退路を遮断し殲滅を企図した英第4軍団がニャウング、パガン付近でイラワジ川を渡河、第三十三師團(田中信男中将)左翼戦線を突破し、要地・メイクテーラに侵攻してきたため、26日、第四十九師團は方面軍命令によりメイクテーラ救援、及び英第4軍団撃滅のためペグーを出発、3月1日、聯隊は第一大隊を先遣隊としてキャウタンを出発し、列車(3日、エラ駅付近で列車故障により自動貨車に移乗)により北上を開始します。

3日、メイクテーラが陥落、6・7日、聯隊はメイクテーラ南東のニヤンウエに聯隊本部、第一大隊をコンタに、第二大隊をキニー、第三大隊をニヤンウエ後方付近に、第一中隊をウエトレットに、第二小隊をサダン北側高地に配置し陣地構築し英軍の侵攻に備え、師團主力は後方のピヨウベエに集結しメイクテーラ奪還作戦を準備します。
7日、英軍は航空偵察に続き我軍の前進阻止射撃を実施、8日、敵戦車、装甲車がキニー、ウエトレットに侵攻してきますが、聯隊砲により戦車6両を撃破、11両を擱座させる戦果を挙げるも、68名が散華してしまいます。
10日、師團の集結が完了、11日、聯隊主力は左縦隊、第二大隊は師團直轄右縦隊として各陣地よりメイクテーラに進撃を開始、13日、聯隊主力は火砲・鉄条網を擁するインドウの敵陣を攻略しミヤに、第二大隊はクエンゲに進撃、さらに第三大隊はミヤからカンダンの敵陣に夜襲を敢行しますが、鉄条網を構え強力な銃砲火を擁する敵陣地に阻まれたため、転進しレタコンに陣地を構築します。
14日、土質が硬く、且つ遮蔽物の無いレタコンは戦車6両を伴う英軍の急襲を受け、第一線火砲陣地が突破され聯隊砲は全損、対戦車装備を持たない第二大隊陣地は次々に破壊され安藤大隊長以下178名が散華、第三大隊は玉砕してしまいます(一部はクエンゲに侵攻してくるも暫く交戦の後、撤退)。
同日、ミヤに敵機来週、銃爆撃の波状攻撃を受け陣地が破壊されてしまい、方面軍命令により攻略目標を聯隊主力、第二大隊は師團とともにメイクテーラ市街地から物資補給拠点の東飛行場攻略に、第一大隊はカンダン攻略に変更されます。

16日、第二大隊はクエンゲを出発しキンルを通過、17日、シュエンダ付近で遭遇した敵戦車を擲弾筒の集中射撃により撃退し、19日、トーマに前進、聯隊主力は1日遅れで第二大隊を追求し、19日、トーマに集結します。
16日、カンダンの英軍は北から第十八師團(中永太郎中将)、南から第四十九師團の攻撃を受け戦力を損耗しており、第一大隊はほぼ無傷でカンダンを攻略、17日、英軍の航空機、戦車を伴う逆襲を受けますが、大隊砲の集中射撃により撃退、後続の歩兵第百六十八聯隊(吉田四郎大佐)に守備を交替し、キンルに進撃します。

18日、第四十九師團はキンルにおいて第三十三軍(本多政材中将、「決勝軍」と命名)の指揮下に編入され、攻撃目標を東飛行場からメイクテーラ湖東陣地に変更され、第一大隊はキンルよりマンダレー街道の要所・七六九高地に進撃しますが、敵戦車と遭遇戦となり、106名が散華、大損害を受けキンルに復帰します。
同日、第二大隊守備のトーマに火砲射撃の後、戦車を伴う英軍が侵攻してくるも、山砲、速射砲により撃退します。
20日、聯隊主力は第二大隊を残置しトーマを出発、シュエンダ、キンルを経て再びカンダンに反転し、第一大隊を掌握、22日、カンギーに進撃しメイクテーラ湖南の要所八八四高地の敵陣に攻撃を開始しますが、頑強な鉄条網、機関銃射撃を受け進撃は遅滞、強襲を敢行するも128名が散華してしまい、十時聯隊長は遂に攻撃を中止し、カンギーに復帰します。
続いて追撃してきた敵戦車10両中6両を山砲により擱座させますが、48名が散華してしまい、23日、ミヤに復帰し陣地構築、砲弾を改造した急造地雷を埋設し、戦力回復に務めます。

28日、兵力の損耗、対戦車兵器の欠乏からメイクテーラ奪還作戦は中止され、師團はミヤ、インドウに拠り敵の南下侵攻を拒止し、第十五軍の転進援護にあたります。
29日、第二大隊はトーマ守備を第十八師團に交替、シュエンダ、キンルを経てミヤ東方のココゴンに第二機關銃中隊、ワチに第五中隊、チャトウィンカラに大隊主力を配置し陣地を構築します。

4月4日、ミヤ北方のカンダンが戦車21両を伴う英軍に攻略され、聯隊は29日以来陣地を堅守していた騎兵第四十九聯隊(田中和一郎大佐)を収容、ミヤに侵攻して来た英軍の拒止につとめますが、火砲、航空機による砲爆撃に続く敵戦車の攻撃に、我が火砲6門中5門が破壊、陣地は次々に突破、さらに後方に迂回され敵中に孤立、165名が散華してしまいます。
5日、ココゴンに侵攻してきた英軍を斬込みにより撃退しますが、6日、チャトウィンカラに迫撃砲を伴う英軍が侵攻、第二大隊長・筧三郎大尉以下12名が散華してしまい、大隊は師團命令によりサダンに転進し、同じく聯隊主力はインドウへ転進を開始するも、タビエン付近で南方のココゴン、及び北方のクエンゲから侵攻して来た英軍に挟撃され、対戦車兵器、肉迫攻撃用の爆薬を持たない聯隊は有効な反撃ができず248名が散華、安全な捧持が困難になったことから乱戦の中、遂に軍旗が奉焼されます。

同日夕刻、敵戦車が後退したため、聯隊はタビエンを脱するも、すでにインドウは陥落しており、8日、サダンにおいて追撃してきた敵戦車と交戦、聯隊長・十時大佐以下96名が散華(4月9日、斎藤敏雄少佐が代理に)、パゴタに避難していた重傷者も相次いで自決、9日、師團司令部、第二大隊は第十八師團が守備するピヨウベ、聯隊主力は同南東のワジに転進集結します。
歩兵第百六聯隊長・十時和彦大佐(兵庫)
▲歩兵第百六聯隊長・十時和彦大佐
 大佐は戦国時代末期、朝鮮出兵に際し碧蹄館の戦いにおいて立花宗茂隊の先鋒
 として明軍撃破のきっかけを作った「生摩利支天」の異名を持つ猛将・十時聯久の
 子孫で、清廉潔白、責任感が強く卓越した識見と厳格な中に部下思いで尊敬を
 集めた人格者でした。

10日、第三十三軍命令により聯隊は師團(師團兵力は山砲1門、総兵力1,600名、聯隊兵力300名)とともに英軍機甲部隊の侵攻を拒止すべくピヨウベ南方のヤメセンに進撃し第十八、第五十三師團の転進援護(克作戰)にあたり、11日、侵攻して来た英軍を拒止するも85名が散華、13日、軍命令によりトングーに向い100名程づつ3梯団に分かれ南下転進を開始しますが、敵中突破を図らねばならず、歩行困難な重傷者の多くが自決していきます。

4月22日、英軍の急侵にトングーが陥落、29日、聯隊は師團司令部と別れ、英軍の追撃に加え、背叛した緬甸國民軍に指揮された匪賊の襲撃を撃退しつつ、トングー東方を抜け東進、5月11日、匪賊の襲撃を受け第一大隊長・寺島甚八郎大尉が散華、15日、シャン高原を横断しモチ鉱山に到着、18日、モチを出発、パーソン、ケマピュー、コールド、パブンを南下しますが、疲労、マラリア、赤痢等の罹患により落伍者が続出、29日、パブン、6月2日、ビリンを経て、11日、タトンに集結(師團主力は4月29日、トングー、5月5日、シュエジンを経て、12日、シッタン到着、第二大隊は4月15日、ピンメドウ出発、29日、トングー付近、5月1日、シッタン、31日、モチ、6月30日、ケマピューを経て、24日、タトン到着)します。

緬甸方面軍は雨季開けの英軍侵攻を拒止し、インドシナ半島の西方防御を確立すべくシッタン河畔に強力な攻勢拠点を構築するとともに、タイ国方面の転用に備え転進路を調査すべく聯隊から機關銃中隊長・柳川隆少尉以下51名を抽出し偵察隊を編成し、6月25日、隊はタトンを出発(8月15日、パンダーソンヤンを通過、モールメンニに達し、31日、タトンに帰還)します。

第四十九師團は英軍の上陸に備えタトンを中心にマルタバン沿岸の警備に任ぜられ(堅作戰)、聯隊はタトンにおいて追及者、退院者を加え戦力を回復(950名)、3個集成中隊に改編(第一・二・三中隊→集成第一、第四・五・六→同第二、第七・八・九→同第三中隊、各機關銃中隊→集成機關銃中隊、各大隊砲・速射砲中隊→集成砲兵中隊)、聯隊主力はタトン市東北部に、パブンにパブン警備隊(第一大隊長・渡邉忠夫少佐)、ドンタミ川上流域に國生警備隊(國生基志大尉)を配置し、警備、匪賊討伐にあたるなか、8月18日、第四十九師團参謀長・緒方捨次郎大佐より、停戦が伝達され、25日、師團長・竹原三郎中将が『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝読、26日、聯隊旗手・鈴木敏少尉が捧持していた軍旗旗頭の菊の御紋が奉焼されます。

9月初旬、タトン西方で英軍により武装解除の後、ドンゼイクの小屋に収容されますが食料配給は無く、劣悪な環境に栄養失調に加え悪疫により病没者が発生、自活体制に入り、11月2日、インビレットで砕石作業に使役されます。
昭和21(1946)年2月8日、ゼマトエに移駐後、ドン、モパリンを経てシッタン川を渡河、3月12日、ラングーン北方のプローム収容所に集められ、荷役作業に使役されます。
昭和22(1947)年5月30日、西方のミンガラドン収容所に移送され使役の後、7月17日、アーロン収容所に移駐、7月27日、ラングーンに集結、同港を出港、8月1日、シンガポールに入港し、セレター軍港で輝山丸に乗船、9月6日、佐世保に上陸し、師團長・竹原三郎中将臨席のもと復員式が挙行され、復員完結しました。


陸軍航空通信學校 神野教育隊
※「陸軍航空通信學校 尾上教育隊」の記事参照


主要参考文献
『歩兵第百六連隊史 』(昭和54年 森本義一)

『加古川市史 第三巻 本編 III』(平成12年3月 加古川市史編さん専門委員)
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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