当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第五十四聯隊 ・ 歩兵第十聯隊

岡山県岡山市に所在する岡山大学津島キャンパスに歩兵第五十四聯隊、及び歩兵第十聯隊の兵営がありました。
兵営では後に歩兵第百十聯隊歩兵第百五十四聯隊歩兵第四百四十七聯隊歩兵第四百四十八聯隊歩兵第五百九聯隊歩兵第三百四十二聯隊が編成されます。
歩兵第五十四・十聯隊 イ 営門門柱 南から (2)(岡山)
▲岡山大学職員宿舎に遺る営門門柱

【探索日時】
平成20年7月27日、平成24年3月21日、4月20日






第十七師團関連諸施設配置
岡山市明細地圖(明治42・1909)大久保翠琴堂(岡山)
▲『岡山市明細地圖』 明治42(1909)年

第十七師團司令部 岡山 中心 現在①~⑩(岡山)
▲師團司令部周辺と遺構の配置
※緑文字が当記事の紹介施設
①a 第十七師團司令部
①b 歩兵第三十三旅團司令部
①c 岡山聯隊區司令部
②  歩兵第五十四聯隊
③  輜重兵第十七大隊
④d 岡山陸軍兵器支廠
④e 岡山陸軍兵器支廠 火藥庫
⑤  工兵第十七大隊
⑥  山砲兵第二聯隊
⑦  野砲兵第二十三聯隊
⑧  騎兵第二十一聯隊
⑨  岡山號砲臺
⑩  岡山衛戍監獄
※名称は大正10(1921)年頃


遺構について※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
② 歩兵第五十四聯隊 兵営
明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定、用地を岡山市からの寄付、及び買収により取得、12月10日、騎兵営、明治41(1908)年1月18日、工兵営、2月10日、その他兵営、3月4日、師團司令部庁舎に続き、4月30日、歩兵営が竣工、11月9日、歩兵第五十四聯隊が鳥取の仮兵営から転営して来ます。
大正4(1915)年3月16日から大正6(1917)年5月10日、歩兵第五十四聯隊の滿洲駐箚に伴い同聯隊留守隊が編成されます。
大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)に伴い第十七師團司令部とともに歩兵第五十四聯隊も復帰、5月3日、兵営に歩兵第十聯隊が姫路から岡山に転営して来ます。

大正14(1925)年6月9日から昭和2(1927)年4月26日、歩兵第十聯隊の滿洲駐箚、昭和12(1937)年7月27日から昭和14(1939)年11月2日、支那事變出征に伴い同聯隊留守隊が編成されます。

昭和10(1935)年頃、岡山聯隊區司令部跡地にあった第十師團経理部岡山派出所が廃止され、跡地は歩兵営に移管され聯隊砲大隊兵舎・砲廠が新築されます。

昭和13(1938)年6月16日、歩兵第十聯隊留守隊において歩兵第百十聯隊が動員され、支那事變に出征します。

昭和15(1940)年8月1日、歩兵第十聯隊の滿洲移駐に伴い、歩兵第百五十四聯隊が編成され、歩兵第三十三旅團司令部の復帰に伴い岡山聯隊區司令部は旧師團司令部庁舎に移転、敷地は歩兵営に移管され庁舎は解体、兵舎が新築されます。

昭和18(1943)年4月3日、歩兵第百五十四聯隊のビルマ出征に伴い、同聯隊補充隊が編成され、昭和20(1945)年2月28日、歩兵第百五十四聯隊補充隊は歩兵第四百四十七聯隊に改編され、新たに歩兵第百五十四聯隊補充隊が動員され、同日、同補充隊において歩兵第四百四十八聯隊が編成されます。
4月1日、歩兵第百五十四聯隊補充隊は廣島師管區歩兵第五補充隊に改編され、4月23日、同補充隊において歩兵第五百九聯隊が編成、6月1日、歩兵第三百四十二聯隊の編成に着手、20日、同補充隊は中國軍管區歩兵第五補充隊に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月23日、岡山に進駐して来た米第6軍第24師団により兵営は接収され、米軍兵舎に転用されます。
昭和21(1946)年4月、米軍に代わり英軍が駐留、昭和22(1947)年3月、英軍は呉に移駐しますが、施設は引き続き連合軍管理下に置かれます(以降の経緯から昭和24年頃に接収解除されたと思われます)。
昭和24(1949)年5月31日、国立岡山大学の設立に伴い旧歩兵営は農学部用地になり、現在は南側に大学職員宿舎、宿泊所、北東側に薬学部が建設されています。

輝かしい戦歴を誇る歩兵第五十四聯隊と古豪・歩兵第十聯隊ですが、遺構は非常に少ないです。

ア 将校集会所 庭園
将校集会所のあった場所は現在、岡山大学津島宿泊所になり建物等は遺されていませんが、庭園は当時のままの姿で遺ります。
歩兵第五十四・十聯隊 ア 築山(岡山)
▲庭園

歩兵第五十四・十聯隊 ア 築山の灯籠(岡山)
▲庭園築山にある石灯籠

庭園脇には昭和9(1934)年8月に時の聯隊長・人見順士大佐により建立された石碑が遺ります。
文字は浅学のため読めませんが、昭和7(1932)年4月11日から昭和9(1934)年5月14日まで歩兵第十聯隊が滿洲事変に出征した際の訓言を刻字した記念碑です。
歩兵第五十四・十聯隊 ア 石碑(岡山)

庭園南側の塀沿いに当時のものと思しき側溝が遺ります。
歩兵第五十四・十聯隊 ア 将校集会所南側の側溝(岡山)

また、宿泊所の外階段は将校集会所にあった階段を転用しています。
歩兵第五十四・十聯隊 ア 将校集会所の階段を転用(岡山)

※岡山大学宿泊所管理人の許可を得て見学しています。


イ 営門門柱
歩兵第十聯隊の営門門柱が岡山大学職員宿舎の入口に遺ります。
歩兵第十聯隊 営門(岡山)
▲歩兵第十聯隊営門(撮影時期不明)

歩兵第五十四・十聯隊 イ 営門門柱 南から(岡山)
▲現在の営門跡
 正門門柱と袖門門柱が1本づつ遺ります。
 当時門柱は3本ありましたが、中央の正門門柱は撤去(アコーディオン門扉のある場所)されてしまっています。

歩兵第五十四・十聯隊 イ 営門門柱 東側 南西から(岡山)
▲正門門柱(東側)の近影

歩兵第五十四・十聯隊 イ 営門門柱 東側の土留 北から(岡山)
▲正門脇には土留が遺ります。

歩兵第五十四・十聯隊 イ 営門門柱 西側 南から(岡山)
▲袖門門柱(西側)の近影

因みに歩兵第五十四聯隊時代の営門は煉瓦造だった様ですが、いつ頃コンクリートに造り替えられたかは不明です。
歩兵第五十四聯隊 営門(岡山)
▲歩兵第五十四聯隊(大正14年まで)の営門


ウ 西門門柱
現在も使用されています。
歩兵第五十四・十聯隊 ウ 西門 西から(岡山)

歩兵第五十四・十聯隊 ウ 西門門柱 南側 西から(岡山)
▲西門(北側)近影
 門柱は内部がレンガ、表面はモルタル仕上げになっています。

歩兵第五十四・十聯隊 ウ 西門門柱 北側 西から(岡山)
▲西門(南側)近影


K 岡山歩兵聯隊史跡碑
なぜか兵営から離れた新野公会堂に建立されています。
歩兵第五十四・十聯隊 K 岡山歩兵聯隊史跡碑(岡山)
▲しかも柵いっぱいの場所にあり、見づらいです。

歩兵第五十四・十聯隊 K 岡山歩兵聯隊史跡碑 由来碑(岡山)
▲史跡碑の下には「由来碑」がありますが、こちらも柵いっぱいの場所にあり、非常に見づらいです。


衛戍・編成・動員部隊
歩兵第五十四聯隊(月七三八五)
明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、内地の常備師團全てが出征してしまったため、戦役の進展に伴い戦力を増強すべく、明治38(1905)年3月末、第十三、第十四師團、7月、第十五、第十六師團の4個師團の臨時動員が決定します。
明治38(1905)年4月17日、歩兵第五十四聯隊の臨時動員が下令、歩兵第十、第三十九(ともに姫路)、第二十(福知山)、第四十三(善通寺)、第十二(丸亀)、第二十二(松山)、第四十四聯隊(高知)の各後備聯隊において編成、歩兵第十二聯隊兵営に集結して編成完結(増田通中佐)します。
7月6日、臨時編成された第十四師團(土屋光春中将)隷下の第二十七旅團(藤本太郎少将)に編入され、6月13日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第五十四聯隊 軍旗(岡山)
▲歩兵第五十四聯隊 軍旗

7月14日、聯隊に渡滿が下令され、30日、兵営を出発し多度津港を出港、大連に上陸し第十四師團は第三軍(乃木希典大将)戦闘序列に編入され、聯隊は清國盛京省康平縣四家子付近に移駐し、警備、敵情地形の偵察にあたりますが、大勢は我が国の勝利に帰しつつあったため戦列に加わること無く、9月5日、講和条約が締結されます。
10月18日、師團は關東總督(大島義昌大将)の隷下に編入され聯隊は、明治39(1906)年1月、奉天付近の警備に、明治40(1907)年3月、聯隊本部、第一・第二大隊は柳樹屯に、第三大隊は大石橋に移駐し警備にあたり、11月2日、歩兵第二十聯隊と警備を交替し、11・12日、歩兵第四十聯隊(鳥取)兵営に入ります。
明治41(1908)年4月30日、岡山縣御津(みつ)郡伊島村に新築兵営が竣工、10月22日、秋季演習に参加、11月9日、岡山に移駐、第十七師團隷下の歩兵第三十三旅團に編入されます。

明治43(1910)年11月13~17日、吉備平野で行われた陸軍特別大演習に西軍第二軍として参加の後、17日、岡山陸軍練兵場で挙行された観兵式に参加します。

大正4(1915)年3月11日、第十七師團に第十三師團と交替して滿洲駐箚が下令され、16・18日、聯隊は岡山を出発し宇野港を出航、2日後、大連に上陸、24日、奉天に到着、第三大隊は奉天、聯隊主力は遼陽に移駐し歩兵第五十八聯隊と後退し警備にあたります。
大正6(1917)年5月3日、聯隊は歩兵第二十六聯隊と警備を交替し、朝鮮を経由し宇品に上陸、10・11日、岡山に帰還します。

大正7(1918)年5月7日、第八中隊が青島守備隊として岡山を出発、山東省済南に駐箚、8月7日、済南を出発、9月29日、岡山に帰還します。
大正9(1920)年9月3日、第十中隊は青島守備のため岡山を出発、晋州守備にあたり、大正10(1921)年9月19日、岡山に帰還します。

大正11(1922)年8月15日、軍備整理に伴い第三・第八・第十中隊を廃止し、第四を第三に、第十二を第十中隊に中隊号を変更、機關銃隊を新設します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)による第十七師團の復帰が公布され、4月14日、岡山陸軍練兵場において解団式を挙行、5月1日、第十七師團司令部は復帰します。
3日、歩兵第十聯隊が姫路より旧歩兵第五十四聯隊兵営に移転して来、准士官以下715名、馬匹10頭が同聯隊に、一部は歩兵第三十九、第四十聯隊等に転属、21日、宮中において軍旗を奉還します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、8月13日、国府軍(蒋介石軍、以下「蒋軍」)の度重なる違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と国府軍の全面戦闘に発展します。
支那事變の拡大、長期化、及びソ連への備えのため、7月27日、新設5個師團の編成が下令され、8月7日、留守第十師團の担当で第十七師團の編成が完結します。

昭和13(1938)年4月4日、『軍令陸甲第二十一號「新設師團編成要綱」』により隷下聯隊が定められ、20日、歩兵第五十四聯隊の編成下令、第一大隊が歩四十留守隊(鳥取)、第二大隊が歩十〃(岡山)、第三大隊が歩六十三〃(松江)、歩兵砲・通信隊が歩三十九〃(姫路)において編成され、25日、編成完結(高橋政雄大佐)し第十七師團隷下に編入され、7月14日、宮中において軍旗を再拝受し、15日、高岡陸軍演習廠舎(青野ヶ原陸軍演習場)に集結します。

7月15日、師團は中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され、24日、動員下令、26日、聯隊は高岡を出発、30日、師團は宇品に集結後出航、8月2日、上海にに上陸、7日、第九師團(金沢)から警備を引き継ぎ蘇州に屯営、聯隊は本部を蘇州に設置、第一大隊は望亭、呉江付近の、第二大隊は崑山付近の、第三大隊は嘉定付近の警備にあたります。

10月5日、聯隊は鈴木支隊(第十七歩兵團長・鈴木春松少将)の基幹となり、11日、中支那派遣軍の漢口作戰に参加、南京を経て九江に上陸、10月12日、若渓付近に進撃し蒋軍1,000を撃破し軍の後方連絡線を確保、18日、雷鳴鼓劉で有力な蒋軍に包囲された第百六師團(松浦淳六郎中将、熊本)と連絡、20日、王家山を攻略し蒋軍の背後を付き第百六師團とともに蒋軍を包囲殲滅、11月1日、慈口鎮の敵堅陣を攻略(10月27日、漢口攻略)、3日、半頭山で敗敵を撃滅、12月4日、蘇州に帰還します。

昭和14(1939)年5月2日、蒋軍が歩五十三の警備する宜興城に侵攻してきたため、23日、師團は蒋軍を殲滅すべく第一次湟里鎮作戰を発動、6月1日、第二大隊は隔湖西方で蒋軍を撃破し、6月7日、崑山付近に帰還します。
6月12日、師團は高瑞鎮作戰を発動し、16日、第三大隊は張前村付近で有力な蒋軍と交戦、大隊長・後藤宏四郎少佐が散華するも蒋軍を撃破、6月29日、嘉定付近に帰還します。
9月23日、師團は新設の第十三軍(西尾壽造大将)戦闘序列に編入されます。

10月20日、師團は再び侵攻してきた蒋軍を殲滅すべく第二次湟里鎮作戰を発動、聯隊は師團主力、歩兵團主力に分属し東安鎮において蒋軍を挟撃、撃破します。

12月17日、第百十六師團(篠原誠一郎中将、京都)の江南作戰に、聯隊は島田支隊(聯隊附、島田恵之介中佐)を編成し蘇州を出発、南京から舟艇輸送により大通に上陸、歩百三十八(小松茂久萬大佐、奈良)の指揮下に編入され、歩嶺、杉木嶺の敵陣を攻略、昭和15(1940)年1月1日、師團指揮下に編入され前江口に上陸、同地南方の蒋軍を撃破し、11日、蘇州に帰還します。

2月10日、師團は銭塘江南岸作戰を発動、聯隊から第三大隊(武藤少佐)が抽出され歩五十三(片倉衷大佐、鳥取)指揮下に編入、同日、蘇州を出発し銭塘江を渡河、14日、聯隊主力を助攻すべく、浦陽江東岸地区・大湾山、虎山、七賢山付近で蒋軍に攻撃を開始しますが、実際は敵の主力が展開しており包囲されるも、勇戦し聯隊主力の攻撃を進展させ敵陣を撃破、24日、蘇州に帰還します。
3月、聯隊は無錫に移駐、第一大隊を江陰、第三大隊を常熟に配置し警備にあたります。
4月24日、師團は聯隊から第一大隊(村山少佐)を抽出し、田中支隊(第十七歩兵團長・田中勤少将)に加え、第十三軍の春季皖南作戰に参加、4月20日、無錫を出発し、23月から5月1日まで蕪湖-青陽間の江南一帯の山地に作戦し、4日、帰還します。
6月4日、聯隊主力(第二大隊欠)は松井支隊に編入され漢口に上陸、西進し、7日、安陸に集結、石橋駅に移駐、13日、朱家埠に移駐し、18日、河溶に進撃し付近の警備にあたります。
7月1日、王家湾を出発、2日、黒土坡に進撃し南下して来た蒋軍第九四軍第一八五師第五五三団1,000名(楊涛伯)と遭遇戦になり殲滅を図りますが、軍命令により転進、4日、白石阻に進撃し、双連寺を攻略、9日、蒋軍の逆襲を撃退し、8月31日、第十三師團と警備を交代し、無錫に帰還します。
10月4日、支那第三戦区軍を撃滅すべく第十三軍の十一號作戰(江南作戰)に参加のため杭州に、7日、黄胡鎮に前進、撤退する蒋軍を追撃し、10月12日、敵の本拠・広徳を攻略し、同北方飛行場において蒋軍を撃破し、周辺の残敵を掃討、18日、無錫に帰還します。
師團は第十一軍に配属され11月1日、漢水作戰に参加、5日、漢口に上陸、23日、朱家埠に集結、24日、聯隊は第三飛行團の直協を受け石牛山、古物寺、妙帽山を攻略、で支那第五戦区軍を撃破、残敵を掃討し、12月6日、漢口に帰還し付近の警備にあたります。

昭和16(1941)年1月18日、師團とともに第十一軍の和號作戰(予南作戰)に参加、信陽北方に集結し、京漢線に沿って進撃し、26日、毛棲で敵300、28日、洪溝届で敵200、尤李で敵300を撃破し、30日、上蔡城内を掃討、2月4日、趙庄で敵3,000、5日、羊柵城で敵3,000を撃破、17日、武昌を経て、3月11日、無錫に帰還します。

11月1日、第十二軍の第二次魯南掃共作戰に師團とともに参加、聯隊は師團右縦隊として湯頭方面に北進しますが、共匪(八路軍:毛沢東)は間隙を突いて侵攻、徐州-海州間の鉄道を破壊したため、軍は治安地区と容共地区を区分して対応しますが、12月8日、大東亜戰争が開戦したため、作戦は中止されます。

昭和17(1942)年11月4日、第十三軍の洪沢作戰に師團とともに参加、聯隊は淮安から、歩八十一は固鎮から進撃し、張家楼において新四軍(共産軍)を挟撃し激戦を展開、敵を敗走させるも我が方も損害が出ます。

昭和18(1943)年2月1日、洪沢湖西方の新四軍を再度討伐すべく師團は蘇淮作戰を発動しますが、敵は早期に撤退したため、敵陣地を破壊し、3月15日、無錫に帰還します。

3月16日、警備地区内の新四軍を掃討すべく師團は六塘河作戰を発動、共産軍200を殲滅、4月23日、山東に向かう支那第九十二軍を補足撃滅すべく碭南作戰を発動、支那軍に大打撃を与えます。

5月5日、師團は江蘇省付近に移駐し警備にあたります。

昭和18年2月7日、我が軍はガダルカナル島を失陥、6月30日、レンドバ島に米軍が上陸し本格的な反攻が開始されます。
7月、陸海軍はブーゲンビル島の線で米軍の反攻を拒止すべく、8月15日、参謀本部において行われた陸海軍合同兵棋演習の結果、第十七師團の南太平洋方面への増派が決定します。
18日、第十七師團は大本營予備隊となり、9月11日、第八方面軍(今村均中将、ラバウル)戦闘序列に編入、師團は徐州周辺から逐次上海付近に集結、3梯団に別れ9月24日、10月20・21日に上海を出港、ラバウルを目指します。

22日、第二梯団輸送中の特設巡洋艦「粟田丸」が久米島付近において米潜グレイバックの雷撃を受け沈没、歩八十一第一大隊、野砲二十三聯隊本部、師團通信隊698名を失う悲運に見舞われます。

10月5日、師團司令部はラバウル到着、第八方面軍の作戰計画に従い師團司令部をニューブリテン島西部のガブブに設置、ガブブ、ガスマタ以西の防衛にあたります。
聯隊主力は野砲二十三第二大隊を配属されガスマタに布陣しますが、海上輸送が困難になった事から後続はガブブから陸路追及中、歩五十四第七中隊、野砲二十三第六中隊はガブブ残置後、師團直轄としてタラセアに布陣、11月中旬、第一大隊は師團司令部とともにガブブに布陣します。

11月1日、ブーゲンビル島タロキナに米軍が上陸を開始、今村中将は在島の第十七軍隷下の歩二十三(浜之上俊秋大佐)の攻撃に策応すべく、11月5日、歩五十四第二大隊を主力とする第二機動決戰隊(第二劍部隊、三輪光廣少佐、877名)を編成しブーゲンビル島タロキナ岬に逆上陸を実施します(第一次タロキナ攻撃)。
第二劍部隊は米軍主陣地に攻撃を開始、戦闘は優位に進展しますが、8日、米軍が戦車を投入してきた事で次第に損害が増加、11日、遂に攻撃は頓挫し同日連絡のついた歩二十三と合流し、エレベンタを経由しタリナ北岸地区に移駐し警備にあたります。

11月15日0530、米1個連隊がマーカス岬に上陸、12月26日、米第一海兵師團がグロスター岬の東岸ナタモ、西岸タワレに上陸を開始、昭和19(1944)年2月上旬より中旬にかけ、ラバウル及び周辺要地に対する米軍の爆撃は増加、第十七師團への補給が困難な状況になったため、2月23日、方面軍は師團のラバウル後退(カ號作戰)を決定します。
師團隷下部隊は米軍の追撃を受けつつ食料の欠乏するなか、未開の密林を泥濘に悩まされながら踏破、4月16日~5月末、シナップの方面軍収容地に到着します。

ラバウル到着後、師團はラバウル西部海岸の防衛を担当、ヨーク島・ワトム島に来攻する敵を迎撃すべく連日の空襲、及びマラリア患者が続発し戦力が低下するも、地下陣地を構築、訓練を行うと共に密林を伐開し開梱、自活体制を採るなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
25日1800、ラバウルの聯隊長室前において軍旗を奉焼、昭和21(1946)年4月下旬、ラバウルを出航、5月5日、大竹港に上陸し、6日、復員完結しました。


歩兵第十聯隊(鐵五四四八)
明治2(1869)年7月8日、官制改革により兵部省が新設され、各地に出張所が開設、11月13日、『徴兵規則』制定により各藩より兵卒が召集され各出張所に配置されました。
明治4(1871)年7月14日、廃藩置県が実施され全国一律の兵制が可能となったことから、8月2日、大阪には東京、仙台、熊本と並び大阪鎭臺が創設されます(10月、兵部省大阪出張所、廃止)。
明治6(1873)年1月10日、『徴兵令』が施行され、各鎭臺は暫時充足されていきました。

明治7(1874)年5月4日、歩兵第十聯隊の編成が下令され、6月1日、大阪鎭臺歩兵第四大隊(壯兵:旧士族からなる元藩兵)を第一大隊に、第三徴兵(『徴兵令』施行に伴い明治7年4月に第一次徴募兵として入営)を第二大隊に改称し大坂城内において編成(茨木惟昭少佐)され、明治8(1975)年4月、第一大隊の兵卒を解散し、伍長以上に同年入営の徴兵を加え第一大隊を改編します。

4月7日、『六軍管鎭臺表』が改正され、各部隊の屯営位置が確定し聯隊は姫路城内に衛戍することが決定、10月11日、第一中隊が姫路の仮兵営に分駐し、11月8日、姫路城内に新兵営(明治8年2月、起工)が竣工し移駐、12月18日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第十聯隊 軍旗(岡山)
▲歩兵第十聯隊 軍旗

明治9(1876)年3月27日、第一・第二大隊から下士を抽出、4月入営の徴兵を加え第三大隊を編成し編成完結、大阪鎭臺(三好重臣少将)の隷下に編入され、4月4日、第三大隊を大阪の第二分営に残置(明治15年以降に姫路集結)し、聯隊本部、第一・第二大隊は大阪を出発、6日、姫路の新兵営に移駐します。

10月28日、山口県において萩の乱が発生、11月5日、第三大隊から抽出された集成1個中隊により歩兵第十聯隊大阪枝隊が編成され大阪を出発、6日、明倫館の総攻撃に加わり、乱平定後は萩市内の警備にあたり、12月15日、大阪に凱旋します。

明治10(1877)年2月15日、西郷隆盛が鹿児島において挙兵し西南の役が勃発、26日、第三大隊が別働第一旅團に編入(3月10日、第三旅團に)され山鹿口に出撃、3月10日、第三大隊は田原坂に、15日、聯隊主力は宮の原口に夫々出撃し各地を転戦、9月24日、鹿児島城山の総攻撃に参加、役を鎮定し10月2日、凱旋します。

明治18(1885)年6月11日、歩兵第八旅團(岡澤精少将)が姫路に新設され、聯隊は歩兵第二十聯隊とともに隷下に編入されます。
明治21(1888)年5月14日、大阪鎭臺は第四師團(高島鞆之助中将)に改編されます。

明治23(1890)年3月31日から4月2日、名古屋付近で行われた陸海軍聯合大演習に師團は西軍として参加します。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、明治28(1895)年1月28日、聯隊は動員下令され、3月24日、第四師團は征清大總督府(小松宮彰仁親王大将)隷下の第二軍に編入され、4月1日、姫路、大阪を出発し広島に集結、12日、宇品を出航し、14日、大連湾に入港しますが、17日、仮条約締結のため貔子窩北方の紀家屯に屯営、21日、講和条約締結に伴い戦闘に加わる事無く、5月17日、師團は占領地總督部の指揮下に編入され、19日、威海衛方面の守備を下命、5月25日、第一大隊は復州、6月8日、聯隊本部・第三大隊は海城、第二大隊は水鴨屯の警備にあたり、12月1日から25日にかけ大連湾を出航、逐次宇品港に上陸、12月18日から明治29(1896)年1月1日にかけて各兵営に凱旋し、2日、復員完結します。

講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月4日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月14日、『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成を決定、明治31(1898)年10月1日、第十師團が編成完結(伏見宮貞愛親王中将)し姫路に衛戍、聯隊は旅團とともに第十師團隷下に隷属転移します。

明治30(1897)年8月30日、第一大隊は台湾守備に派遣され、明治31(1898)年7月3日、姫路に帰還します。
以降、10月2日、明治32年6月26日、明治33年6月4日、明治34年7月3日、明治35年8月30日、聯隊から台湾守備部隊が派遣されます。

明治34(1901)年6月15日、聯隊は清國駐屯軍歩兵第五大隊第一中隊(津島滿大尉)を編成、26日、姫路を出発します。

明治36(1903)年11月13~15日、兵庫県下において行われた特別大演習に師團は東軍として参加、16日、姫路城北陸軍練兵場において挙行された観兵式に参加します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、師團に動員下令、26日、動員完結し、5月9日、姫路を出発、10日、兵庫に集結、18~23日、輸送船5隻に分乗し兵庫を出航、24~29日、南尖澳に上陸し、大狐山街に集結し師團に合流、師團は獨立第十師團として第一・第二軍の中間に位置し、両軍に策応体制を採るべく、6月4日、聯隊は第二大隊を残置し師團とともに北進を開始、5日、千家屯において露軍騎兵を撃破、15日、新開嶺を攻略しますが、第二大隊長・青木敏行少佐が散華、27日、聯隊は東條支隊(歩兵第八旅團長・東條英機少将)右縦隊として仙家峪西方高地を攻略、師團の分水嶺攻略を援護します。
7月16日、師團は滿洲軍(大山巌大将)隷下の第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に入り、7月30日、聯隊は師團中央隊として太平嶺に進撃、激戦ののち太平嶺一帯を攻略、8月25日、遼陽會戰では師團右翼隊として30日、南大頂、9月1日、饅頭山を攻略、撤退しつつある露軍を玉皇廟付近に追撃、頑強な堡塁陣地を突破し攻略(野津大将より感状授与)、歩二十が遼陽城を攻略、10月7日、沙河會戰に参加し、1日、後英城子に布陣し警戒、11日、全家堡子に集結し、三塊石山の夜襲戦を敢行し山頂を攻略、第四軍の作戦を進捗させ、虎盤山に布陣します。

明治38(1905)年3月1日、師團は奉天會戰に第四軍右翼隊として部署され、聯隊は師團右翼隊として侵攻してきた露軍を房身で撃破、2日、柳匠屯に攻撃を開始、8日、激戦ののち柳匠屯の堅陣を攻略、さらに聯隊は師團前衛として潰走する露軍を追撃し、9日、大深井子で露軍を撃破し下馬家湾下に進撃、滿洲軍命令により奉天西方に向け進撃中、一家勾付近で露軍の逆襲により大損害を受けますがこれを撃破、11日、奉天城陥落を受け、19日、敗走する露軍を追撃しつつ鉄嶺に進撃します。
6月、聯隊は茶棚庵付近に陣地を構築、9月1日、講和条約が締結され、明治39(1906)年1月18日、聯隊は茶棚庵を出発、2月6日、姫路に凱旋します。

明治40(1907)年10月、第十師團は第十六師團(山中信儀中将、京都)に代わり滿洲駐箚が決定、10月8日、聯隊は姫路を出発、広島に終結後、11日、宇品港を出航、14日、大連に到着、17日、鉄道により大連を出発、18日、鉄嶺に到着し、警備にあたり、明治42(1909)年9月17日、鉄嶺を出発、9月25日、姫路に帰還します。

明治43(1910)年11月13~16日、岡山県下において行われた特別大演習に師團は東軍として参加、17日、岡山陸軍練兵場において挙行された観兵式に参加します。

大正2(1913)年9月21日、第二中隊(大津山直大尉)は北支那派遣歩兵第一大隊に、第八中隊(村岡俊太郎大尉)は支那駐屯歩兵隊に派遣され、夫々大正3(1914)年7月30日、11月25日、姫路に帰還します。

大正3(1914)年11月15~17日、大阪府下において行われた特別大演習に師團は北軍として参加します。

大正4(1915)年3月、青島守備交代のため、師團において歩兵第八旅團を基幹として混成第八旅團(宇宿行輔少将)が編成され、3月15日、姫路を出発し列車にて神戸に移動、16日、豊富丸、御吉野丸に分乗し神戸を出航、21日、青島に上陸し聯隊本部、第二大隊は青島守備軍(神尾光臣中将)直轄となり第一大隊は聯隊長隷下に編入され、龍口-高密間の電線守備にあたり、第二大隊は旅團長指揮下に編入され、白沙河以北南流間の鉄道守備にあたります。
10月31日、第一大隊は守備軍の軍備整理に伴い、姫路に帰還します。
大正5(1916)年9月7日、大港に集結、10日、色丹丸に乗船し出航、13日、宇品に上陸、14~19日、姫路に帰還します。

大正7(1918)年8月13日、暴徒化した米騒動鎮圧のため兵庫県知事の要請を受け暴動鎮圧に出動します。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)に伴い第十七師團が復帰、隷下の歩兵第五十四聯隊も復帰したため、歩兵第十聯隊の岡山移駐が決定され、5月3日、聯隊は姫路より岡山に転営します。

6月9日、滿洲駐箚のため第三十三旅團とともに岡山を出発、15日、関東州柳樹屯に到着、12月、奉郭戦乱の勃発に伴い遼陽、奉天の警備にあたり、昭和2(1927)年4月26日、岡山に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、張学良による反日侮日政策、及び滿鐡の権益収奪政策が実施されるなか柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、12月17日、臨時派遣部隊として混成第八旅團(村井清規少将)の編成下令、第二大隊が混成旅團編入され、22日、宇品を出航、27日、大連に到着し、第二十師團の指揮下に入り打穴山付近の警備にあたり、次いで第二師團の指揮下に入り、泰山線・哈爾浜の警備にあたり、黒山・新民方面の討伐にあたります。

昭和7(1932)年4月7日、關東軍増強のため第十師團の滿洲派遣が決定し臨時編成下令、4月11日、聯隊は第三大隊を残置し岡山を出発、11日、宇品を出航、15日、大連に上陸、18日、哈爾浜に到着したため、第二大隊は聯隊に復帰し、周辺の警備にあたります。
4月24日、關東軍は松花江作戰を発動、26日、聯隊は哈爾浜を出発し、28日、南天門船着場付近で反吉林軍(反日反滿の張学良系兵匪)の馮占海軍の一部を撃破し、29日、南天門を、5月6日、通化を攻撃、蟠蟻河において馮占海軍を撃破、7日、方正を攻撃し刑占清軍を撃破、12日、馮莫立を攻撃し丁超軍を撃破、三姓から湯原にに進撃し、5月17日、依蘭に入城、26日、哈爾浜に帰還、27日、第二大隊は肇州に進撃し李海清軍を撃破します。
10月下旬、哈爾浜北方の巴彦城付近の才鴻猷軍を第二大隊が歩六十三第一大隊とともに撃破、11月8~14日、阿城から拉林河付近において李福配下の史澤芬軍の騎兵を撃破、同賓作戰、正黄旗五屯付近、長嶺子付近の戦闘において反吉林軍を撃破、東境作戰において丁超、李社、王徳林、劉方魁各軍を平陽鎮、密山、楊木林で撃破し、丁超はウスリー川を渡河し敗走するもソ連軍に捕縛、李社は降伏、劉方魁は逃亡し、壊滅させます。

昭和8(1933)年2月5日、師團は第六師團と交代し南下、聯隊は敦化・吉磐線の警備にあたります。
21日、聯隊は敦化を出発し奉天に集結し綏中に移動、26日、師團は混成第三十三旅團(中村馨少将)を編成、張学良に寝返った湯玉麟を討伐し熱河地方の治安回復のため關東軍の熱河作戰に参加、3月5日、第三大隊が岡山から到着、聯隊は2縦隊に分かれ綏中を出発し、12日、界嶺口に集結、16日、旅團とともに界嶺口付近第一回、24日、第二回、4月10~13日、第三回総攻撃を実施し、抬頭営に入城、16日、撫寗城に、25日、山海関に進撃し、29日、敦化に帰還し警備にあたり、6月25日、間島に移駐し、共匪の討伐にあたり、滿洲内の治安を推進し、昭和9(1934)年5月5日、第一大隊が旅團とともに、6日、聯隊主力は師團とともに間島を出発、14日、岡山に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二十九軍の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は攻撃を開始、北京・天津を平定します。
7月、蒋介石軍(以下「蒋軍」)の北上に伴い、7月27日、聯隊に動員下令、8月8・9日、岡山を出発、10・11日、神戸を出航、15・16日、大沽に上陸後、豪雨の中を行軍し、17・18日、天津に集結します。

8月13日、蒋軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。

21日、聯隊第一大隊は畢生子、徐庄子、23日、苦戦の後、東辺庄、第二大隊が西辺庄を攻略、逆襲してきた第二十九軍を撃破、津浦線に沿って南下していた聯隊主力は敵の列車砲、堅固な陣地に苦戦しながらも、24日、静海県を攻略、29日、聯隊は南下を開始します。
31日、北支那方面軍(寺内壽一大将)が編成され、第十師團は方面軍隷下第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入されます。
9月1日、旅團先頭となった第一大隊は柳官屯を攻略、11日、激戦の後、馬廠を攻略、9月25日、複数のトーチカが連続する堅陣を突破し滄州県城を攻略、敗敵を追撃しつつ進撃し、10月4日、第八旅團が徳州を攻略、聯隊は敵の退路遮断、残敵掃討にあたり、11月12日、晏城に進撃、12月23日、師團最左翼として黄河の敵前渡河に成功、不意を突かれた蒋軍は敗走、25日、第四中隊が済南城一番乗りを果たし、敗敵を追撃、昭和13(1938)年1月1日、固定、2日、泰安、3日、大紋口に進撃、追及してきた師團主力とともに付近の警備にあたります。

3月14日、聯隊は旅團右縦隊として唐村を出発、三山において蒋軍を撃破、古木山を攻略、15日、房嶺付近に集結、18日、滕県城を攻略し支那一二四師長・王銘章以下3,000の損害を与えます。
24日、第二大隊は第五師團坂本支隊に協力すべく郭里集に集結、敵俘虜から得た情報に伴い、第三小隊(石井直好少尉)が紀官荘の敵陣に夜襲を決行しますが、敵増援のため玉砕してしまいますが、大隊正面に逆襲してきた敵5,000は激戦の後撃破します。
28日、聯隊は寺院高地に進撃し土門北方高地において蒋軍を撃破します。
30日、対庄、閻家口、范口を攻略、馬蘭屯を攻撃し頓庄閘を攻略、支那第五・六・三〇師の先遣部隊を撃破、4月1日、低石橋、2日、劉庄を攻略、3日、南部辺庄、黄林庄を攻略、8日、高皇廟付近で敵退路を遮断し敗敵を殲滅しますが、支那第三〇軍は次第に台児荘に集結、10日、聯隊は獐山に陣地を構築、連日の敵襲を撃退、19日、山東南部李庄、郭庄、趙庄の第三〇軍正面に攻撃を実施しますが、強力な火砲を擁する敵に損害が増加、持久に転じ、5月14日、歩百十五に交代し、3月25日より韓庄を守備していた第三大隊とともに微山湖を渡り施家楼に転進します。

4月7日、集結した蒋軍50個師を包囲殲滅すべく北支那方面軍、中支那派遣軍は徐州會戰を実施しますが、蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、師團は敗敵を追撃すべく魯西作戰を発動、棗荘から微山湖を迂回し南下進出、14日、聯隊は徐州西方を南下、永城南方で敵3,000を撃破、30日、毫県城、鹿邑を、6月8日、安平集を攻略し、25日、睢県に集結、7月10日、曹県の曹福林の本拠を攻撃し、13日、帰徳に帰還します。

第十師團は第二軍の漢口作戰に参加、8月17~20日、聯隊は帰徳を出発、徐州を経由し19~22日、列車で蚌埠に移駐、21~22日、蚌埠を出発、27~30日、瀘州に移駐、9月17日、光州城を攻略、30日、羅山付近から大別山系に迂回し、羅山(歩兵第八旅團守備)攻囲中の敵の背後を突いて蒋軍を撤退させ、10月11日、信陽城を攻略、19日、漢口北方の要地・平靖関の攻撃を開始、10月18日、激戦の後、五四一高地、24日、五九五高地を攻略、26日、第六師團により漢口は攻略されたため敵は撤退、19日、聯隊は応山に移駐、10月29日、第十師團は北支那方面軍の戦闘序列に編入され北支移駐が決定、11月8日、聯隊は徳安に移駐、29日、漢口に移駐し、12月5日、南京に到着、浦口から徐州を経由し、11日、石家荘に移駐し警備にあたり、昭和14(1939)年1月17日から7月31日まで北支粛正作戰(第一期、第二期)に参加し、8月11日、師團に復員下令、9日下旬、石家荘に集結、10月初旬、青島を出航、中旬、岡山に帰還します。

昭和15(1940)年8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が決定し聯隊に編成下令、7日、編成完結し、10日、岡山を出発し、12日、宇品を出航、16日、羅津に上陸、20日、佳木斯(チャムス)に屯営し、対ソ連戦車戦闘訓練(關東軍佳木斯演習)、架橋訓練、匪賊討伐、警備にあたります。

昭和16(1941)年6月10日、關東軍特種演習動員下令、7月1日、対ソ連戦を見越した關東軍特種演習が開始され、10日から防空、渡河、湿地通過、対戦車攻撃演習を実施します。
対ソ連開戦に際して第十師團は他の13個師團とともに、東正面(沿海州)に進撃しウオロシーロフ北方を制圧する計画でしたが、8月9日、対ソ連開戦は中止され『帝國陸軍作戰要綱』に基づき三江省の警備、対ソ連戦に備えた訓練、演習、研究を実施します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和19(1944)年1月、ソ滿国境の富錦東方ウルコリー山地に陣地構築を開始します。
2月21日、關東軍はロ號演習部隊(中部太平洋方面への転進部隊)の編成を開始、24日、『軍令陸甲第五十四號』により第十師團にロ號作命が下令され、聯隊から第三大隊が抽出され、26日、第一派遣隊(第二十五歩兵團司令部、歩四十・歩十四・歩八十九・歩十・野砲十各第三大隊、工二十五第三中隊、獨山砲三)が編成完結します。
同日、大隊は佳木斯を出発、釜山港に集結、横浜港を経由、3月12日、歩十第三大隊以外はサイパンに上陸、派遣隊は第三十一軍(小畑英良中将、サイパン)に隷属転移、5月30日、第三大隊はヤップに入港、上陸します。
5月22日、『軍令陸甲第五十七號』により大隊は獨立歩兵第三百十八大隊に改編され、米軍の上陸に備え水際陣地構築を開始します。
米軍の爆撃下、大隊は島民を内陸部へ疎開させ、陣地構築を開始、ヤップ島は米軍の上陸が無かったものの、アメーバ赤痢、フランベシア、デング熱が発生、兵員の殆どが罹患、陣地構築作業に支障が出るなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

一方、聯隊主力は陣地構築中の7月26日、第十師團の臺灣軍(安藤利吉大将)編入が決定し、聯隊に編成下令(秘匿名「ウ號演習」)、陣地構築を中止し佳木斯に帰還、30日、編成完結、8月5・6日、第一梯団が佳木斯を出発、釜山で輸送船に乗船し、9月18日、最後の第三梯団が台湾基隆に入港、上陸します。
聯隊主力は師團司令部とともに台中に屯営し陣地構築、作戦準備、挺進攻撃訓練、第二大隊は彰化に屯営し後方作戦準備を実施し、10月下旬、第一期作業計画に基く築城を完了し、第二期築城拡充を開始します。

11月10日、第十師團は第十四方面軍(山下奉文大将、マニラ)に編入されルソン島への転進が決定、11日、『十號演習』(比島転進)を開始、高雄に集結し、14日、聯隊主力は「江の島丸」に、第二大隊は「乾瑞丸」に乗船し高雄を出航、21日、「江の島丸」は船団を離れルソン島北端のアパリに向かい、23日、アパリが米軍機の来襲で破壊されたため、東方のパトリナ岬に上陸、29日、ガッタラン付近に集結し第百三師團(村岡豐中将)の指揮下に編入され、陣地構築を開始します。
23日、師團司令部、歩六十三主力の乗船した「大成丸」は北サンフェルナンドに入港、上陸しましたが、輜重十、歩十第二大隊、歩三十九第一大隊、歩六十三第三大隊、野砲十第三中隊、獨速二十一の一部が乗船した「乾瑞丸」が上陸地点の北サンフェルナンド目前で敵潜水艦の雷撃を受け轟沈、船員37名・兵員1,502名、兵器、馬匹、資材の大部分を失ってしまいます(歩十の損害は藤井大尉以下250名散華。北サンフェルナンドにおいて第三十師團、第百二師團より抽出し再編、昭和20年1月10日、サンホセに集結)。
昭和19(1944)年12月31日、聯隊は第七中隊から1個小隊を抽出し、師團司令部指揮下に編入するため先発させます。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始します。

1月7日、第十四方面軍命令により聯隊はバガバック移駐が下命され、9日、ガッタランを出発、下旬、バガバックに集結し第百五師團(津田美武中将)の指揮下に入り、ツゲガラオ-ボンドック-バギオ間の兵站道路周辺の匪賊討伐、敵空挺部隊警戒にあたります。

一方、北サンフェルナンドに上陸した第十師團主力はサンニコラスに移駐し、歩六十三、野砲十、工十、輜十をサンホセ、捜十をサラクサク第二峠西南のサンニコラスに配置し陣地構築、軍需品集積を実施、1月10日、方面軍の食糧補給源地帯であるカガヤン渓谷、及びバンバン平地への米軍侵攻を拒止すべく、15日、バレテ峠地区へ北上、サンホセ-プンカンに前進陣地、サラクサク峠道に主陣地右地区隊(捜十基幹)、バレテ峠道に主陣地左地区隊(歩六十三基幹)、バレテ峠北のサンタフェに野砲十、輜十、鈴鹿峠道に指揮下にあった津田支隊(第二十六師團隷下獨歩十一)を配置します。

19日、カガヤン渓谷に転進中の第百五師團(津田美武中将)から井上集成第二大隊(井上恵少佐)が第十師團の指揮下に編入され、歩十第二大隊、歩三十九第一中隊、歩六十三第五中隊、野砲第十第一大隊等を配属し米軍の北侵を拒止するためプンカンに配置します。
30日、米第6、25師団がサンホセに侵攻を開始し、2月4日、米第6師団の攻撃にサンホセ守備の歩三十九第一大隊第一中隊が玉砕、13日、米第25師団が歩十第二大隊陣地に侵攻、連日白兵戦により拒止に務めますが損害は増加、25日、大隊長・内藤大尉は残存兵力を率い斬込みを敢行し散華、第二大隊が玉砕、さらに米第25師団はプンカンに侵攻し、3月13日、井上集成第二大隊が玉砕してしまいます。

3月5日、バレテ峠以西の防御を固めるべく、聯隊は師團復帰の軍命令を受領、7日、バガバックを出発、10~20日、バレテに集結、21日、師團に復帰し聯隊本部をバレテ峠東側の南山、第一大隊を胄山一帯、第三大隊を同峠西側の秋風山に拠る歩六十三指揮下に編入し金剛山に布陣します。

15日、米第25師団は航空・火砲支援のもとバレテ峠に侵攻、18日、バレテ峠入口のミヌリを守備していた歩六十三第三大隊第九中隊(林原中尉)が玉砕、米軍はミヌリからバレテ峠にかけ迂回道路を開設しつつ侵攻、聯隊主陣地南方の禿山に火砲陣地を推進し支援射撃を開始したため、聯隊は連日斬込みを実施し、3月末、禿山の第一線敵陣地を突破、4月6日、敵砲兵をミヌリ後方まで撃退し、弾薬集積所を破壊、敵火砲支援を中断させます。

3月26日、第三大隊は歩六十三の秋風山南方、カシ、キリ両高地の奪還に参加、連日斬込みを敢行し野営地、弾薬・糧秣集積所を破壊しますが、航空・火砲支援、戦車を伴う逆襲を受け攻撃は頓挫、4月下旬、米第25師団は第十師團の主陣地全線に渡り航空・火砲支援のもと浸透、4月14日、秋風山の歩六十三陣地が突破され、29日、聯隊主陣地・南山西方の妙高山が陥落(輜十第二大隊玉砕)、聯隊は帰山(南山北方)に転進、5月9日、米軍にバレテ峠侵入を許してしまいます。

12日、歩六十三、歩十第三大隊が転進した金剛山も突破されてしまい、13日、大隊は帰山に転進し聯隊に一時復帰し陣地を構築、24日、獨歩十一指揮下に入り黒川に転進、聯隊は帰山から要山-四方山に北進し、師團はサンタフェ-龍山において米軍の侵攻拒止に努めます。

5月下旬、米軍がサンタフェに東西から、6月4日、アリタオ、バンバンにも侵攻してきた事により師團の後方連絡線が遮断され、方面軍との連絡も途絶したため、6月10~17日、師團は歩十第一大隊を先遣隊としてキャジガン方面の米軍を牽制しつつ、バンバン付近の方面軍主力を支援すべくカシブに転進を開始、7月中~下旬、カシブに集結しますが、糧食は欠乏、バンバン、ドバックスから米軍が侵攻してきたため、さらにピナバガンに転進を開始します。
師團は密林地帯を伐開しつつ転進しますが、補給が途絶え疲労に加えマラリア患者が発生、落伍者が続出し戦力は急速に低下、8月上旬、ピナバガンに集結し、追撃して来た米軍、匪賊に対し挺身切込、肉薄攻撃を実施するなか、9月10日、停戦を迎えます。
16日、聯隊はバランガッグにおいて軍旗を奉焼、ルソン島決戦を3,126名で迎えた聯隊の生還者は220名でした。


歩兵第百十聯隊(鷺三九一一)
昭和13(1938)年6月16日、歩兵第十聯隊留守隊に動員下令、23日、宮中において軍旗を拝受、29日、動員完結(永幡寮一大佐)、第百十師團(桑木崇明中将)隷下に編入されます。
歩兵第百十聯隊 軍旗(岡山)
▲歩兵第百十聯隊 軍旗

7月1~4日、日本原陸軍演習場において訓練を実施、5日、先遣隊は岡山を出発、9日、主力は岡山を出発し、10日、宇品港を出航、11日、先遣隊に続き、14日、主力は河北省塘沽に上陸し、聯隊本部は保定、第二大隊(武信純一中佐)は京漢線沿いの高碑店に移駐し徐州會戰に敗れ治安を乱す蒋軍敗残兵の粛清にあたり、18日、第一(川原健太郎中佐)・第三大隊(時末寛少佐)は津浦線沿いの徳県に移駐し魯北作戰に参加、8月23日、第四中隊は徳県南方の四女寺で匪賊・三義成を撃滅、9月6日、共匪の本拠・良巣を攻撃し共匪2,000を撃破します。

9月8日、第一大隊は滄県を出発し保定に、13日、第三大隊は留守部隊として徳県を出発し碑店に移駐、京漢線の警備にあたり、18日、聯隊主力は保定に集結し、冀西作戰に参加、19日、保定を出撃し、第一大隊は十家鎮を、第二大隊は新城を攻略、21日、凌雲仙で敵300を撃破、23日、易県、紫荊関を通過、流井馬頭で高鴻飛軍350を撃破、10月9日、淶源に進撃しますが、共匪(共産軍)はすでに遁走しており、10日、李家河を攻略、21日、第二大隊を警備に残置し、23日、聯隊は淶源を出発、27日、保定に帰還します。
第二大隊は共匪殲滅のため淶源作戰を発動、糧秣補給路を度々共匪に襲撃され、11月17日、蔚県から自動貨車42台をもって糧秣輸送中、共匪の誘引謀略により明舗村において輸送隊長・三宅少尉以下42名(自動貨車22台)が玉砕してしまうなど苦戦しながらも、12月3日、淶源に侵攻してきた共匪6,000を第六・第七中隊が撃破、昭和14(1939)年2月22日、第五中隊は挿箭嶺の共匪500を撃破敗敵を追撃し長城線を攻略、3月1日、第七中隊は弁子会の共匪を包囲殲滅、残敵を降伏させ、6月11日、五節崖の共匪を包囲、降伏させ、8月21日、淶源を出発、河北省南部の邯鄲に移駐し、獨立混成第一旅團の指揮下に編入され警備にあたります。

聯隊主力は保定に帰還後、警備にあたり、第一大隊は11月11日、京津地方秋季討伐を実施、12日、張登で共匪前衛60を撃破、18日、唐県城が共匪1,000超の逆襲を受けるも撃退、12月2日、京津地方第二期粛清作戰を実施、新城で、12月5日、辛橋鎮で、6日、小庄東南で、7日、拒馬河で共匪を撃破し、雄県を攻略、8日、白溝河鎮、9日、容城を攻略、昭和14年1月25日、粛寧の蒋軍・品正操軍を殲滅、27日、師團の蒋軍・石友三軍殲滅作戰に参加、聯隊は蠢県から出撃し、高陽で、29日、任邱で、2月23日、張登で蒋軍を撃滅し河北省より蒋軍を駆逐し保定に帰還しますが、代わって共匪が浸透してきてしまいます。

3月9日、大行山脈沿いの湯城-定県の共匪(独立一師・同二師)討伐を実施、15日、完県で激戦となります。

7月7日、聯隊は狼子山付近の共匪(楊成武)討伐のため晋察冀邊區作戰を発動し、保定を出発しますが、狼牙山の楊軍は撤退しており、同山の谷間において地の利を活かした共匪の攻撃を受け進撃は地帯、金坡鎮から歩百六十三が援軍に到着し窮地を脱し、8月1日、保定に帰還します。
7日、保定を出発し、第一大隊は金波鎮、第二大隊は紫荊関に移駐、11月、方面軍の黄土嶺作戰に師團とともに参加、染岡から黄土嶺へ進撃、混成第二旅團に大損害を与えた共匪(賀龍)を追撃しますが、一部を捕捉できただけで、保定に帰還し付近の粛清にあたります。

昭和15(1940)年1月7日、第一大隊は姥村付近の討伐、第二大隊は大名、次いで新城の討伐にあたります。
10月1日、紫荊関付近の共匪討伐、12月16日、易県付近の警備にあたります。

昭和16(1941)年5月7日、垣曲新郷作戰に参加、第三大隊を基幹として新郷に前進、18日、易県東方馬頭付近で共匪を撃破します。
7月8日、聯隊は石門に移駐し粛清にあたり、18日、井経付近の粛清にあたり、31日、石門に帰還し粛清にあたります。
8月15日、晋察冀邊區作戰に参加し、京漢線沿いに進撃し、第一大隊は北大悲において共匪2個団2,000を撃破します。
10月15日、第一大隊は易県付近に、第二大隊は容城付近に移駐し、粛清にあたります。
12月25日、第三大隊は共匪(朱占魁)殲滅作戰に参加、紫荊関付近の粛清にあたります。

昭和17(1942)年4月9日、冀中作戰に参加、21日、白洋淀付近に進撃、8月20日、河北省任邱県の粛清作戰を実施します。

昭和18(1943)年6月22日、聯隊は師團とともに易県を出発、26日、聯隊本部を順徳、第一大隊を寧晋、第二大隊を内邱、第三大隊を鋸鹿に配置し、7月、各大隊から抽出した混成大隊により大行作戰、8月、内邱西方山地作戰、9月20日、秋季冀西作戰を実施し粛清にあたります。

昭和19(1944)年3月3日、北支那方面軍(岡村寧次大将)は一號作戰(大陸打通作戦)前段、南部京漢線打通のため京漢作戰(コ號作戰)を発動、5日、聯隊は師團とともに順徳を出発し、20日、覇王城付近に集結、師團は第十二軍(内山英太郎中将)により第一線兵団・軍右翼隊として部署され、4月18日、進撃を開始、棗陽を、21日、栄陽を攻略し、23日、師團は塔山から密県に渡る要線を確保、鄭州平原における軍の後方連絡線を援護、24日、密県を攻略、第六十二師團(本郷義夫中将)とともに敗走する蒋軍第七八・八五軍を追撃します。
第十二軍は南下し5月1日、許昌を攻略、次いで北上し洛陽に進撃、師團は蒋軍を拘束すべく1日、密県を出撃、蒋軍を撃破しつつ西進し、登封、段村で蒋軍を撃破、洛寧に進撃します。
25日、第十二軍は洛陽を攻略し、6月30日まで蒋軍第一戦区軍(湯恩泊)を追撃し大打撃を与えます。

洛陽攻略後、6月30日、聯隊は本部を孫旗屯、第一大隊を洛寧、第二大隊を鉄門鎮、第三大隊を段村に配置、洛陽-鄭州道を確保し、警備にあたるとともに北支那方面軍が布告した「三悪(焼くな、殺すな、犯すな)追放指令」を徹底し民心を掌握し、鎮村自衛組織の育成強化し治安維持、民心の安定に努めます。

9月20日から10月20日まで秋季予西粛清作戰、10月21日から昭和20(1945)年1月30日、豫西戡定作戰に参加、3月18日、予鄂作戰参加のため洛陽に集結、洛寧県西方地区に進撃し、第六中隊は長水嶺を攻略、師團主力の進撃に策応すべく故県に進撃中、8月21日、洛寧県柳沟において停戦を迎えます。
同日1500、柳沟西南の戦闘指揮所において軍旗を奉焼、25日、洛陽に集結、9月7日、洛陽西宮に収容され、昭和21(1946)年3月18日、洛陽を出発し、鄭州-開封-徐州-漢口を経由し、21日、上海に集結、30・31日、上海を出航、4月1・2日、博多に上陸し、5月8日、復員完結します。


歩兵第百五十四聯隊(中部第四十八、中國第四十八、兵一〇一一四)
昭和15(1940)年8月1日、歩兵第十聯隊の滿洲移駐が決定、歩兵第十聯隊に歩兵第百五十四聯隊の編成下令、7日、編成完結(山村兵衛大佐)し、第五十四師團(秋山義允中将、姫路)隷下の第五十四歩兵團(林義秀少将、姫路)に編入され、9月27日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第百五十四聯隊 軍旗(岡山)
▲歩兵第百五十四聯隊 軍旗

10月10~20日、蒜山原陸軍演習場において師團演習に参加、昭和16(1941)年5月4~6日、9月28日~10月5日、青野原陸軍演習場において諸兵連合演習に参加、11月1~11日、津山市及び日本原陸軍演習場における師團演習に参加、12月8日、大東亜戦争開戦に伴い、玉造船所は常時、岡山周辺地区は警戒警報発令と同時に対空部隊を派遣します。

昭和17(1942)年10月6・7日、日本原における諸兵連合演習、20~28日、倉敷、吉備平野における師團演習に参加します。

昭和18(1943)年2月17日、第五十四師團(片村四八 中将、姫路)に動員下令、3月25日、聯隊に編成下令、4月3日、編成完結(山村兵衛大佐)し、主力は蒜山原、第二大隊は日本原に野営し、教育訓練にあたり、5月6日、蒜山原において出陣式を挙行、12日、「たこま丸」、「福洋丸」、「長門丸」に宇品港を出航、6月1日、9日、13日、逐次、昭南島に上陸し、聯隊本部はクアラルンプール、第一大隊はセレンバン、第二大隊はイポー、第三大隊はタンジョンマリムに移駐し、訓練、警備、匪賊討伐にあたります。

8月、聯隊はペナンを出航、9月3~13日、ラグーンに上陸、聯隊本部・第三大隊はペグー、第一大隊はニューアンレビン、第二大隊はタラワジーに集結します。
9月、師團はビルマ西南海岸防衛を命ぜられ聯隊はパズンベイからグワ、パゴタポイント、イラワジ河口までの防衛にあたります。

昭和19(1944)年1月、聯隊は防衛地区が変更され、サンドウェー以南を第二師團(岡崎清三郎中将、仙台)に移譲し、チェドバ島に移駐し警備にあたります。
5月1日、第二大隊(岩崎勝治大尉)は第十五軍(牟田口廉也中将)の指揮下に編入され、3日、2梯団に分かれ、第二梯団はダンカップ-プローム-ラグーン-アマナプラ-サガイン-イエウ-カレワ-カレミョ-テイデムを経て、19日、インパール南方38km地点に前進、第一梯団は同日、イエウ付近を追求中でしたが、大隊は輜重兵第三十三聯隊(松木熊吉中佐)指揮下に編入され、20日、後方補給線を遮断され敵中に孤立する第三十三師團(田中信男少将、仙台)の補給路開設のため逐次進撃を開始、トルボン隘路口の敵陣を3方向より攻撃し激戦の後、隘路口を攻略し補給路を啓開、26日、戦車支援のもとロクダ湖西南三叉路陣地を夜襲し攻略、28日、モイラン、プバロー、29日、シンゲルを攻略します。
6月7日、ポッサムバンに攻撃を開始しますが、戦車を伴う頑強な敵陣に攻撃は遅滞、大隊は大損害を受け、ニンソーコン南方への転進を命ぜられます。
12日、戦車支援を受けニンソーコンを攻撃しますが、航空機、戦車支援を受けた英印軍第5師団の逆襲を受け攻撃は頓挫、18日、戰車第十四聯隊(井瀬清助大佐)と交代し、18日、カイモールに迂回進撃、27日、敵のインドからの補給線シルチア道遮断の要地・裸山、三角山に進撃し敵の猛攻を拒止しつつ、同地守備の歩二百十四(佐久間高宜大佐、宇都宮)を収容、7月4日、戰車十四の転進援護にあたり、5日、カイモールに集結、6日、ニーソコンに移駐し、追撃してくる英印軍を拒止しつつ南下転進を開始、13日、三叉路、8月10日、トンザン、9月30日、ケネデピーク、11月5日、インタンガレで第三十三師團を包囲した英軍東アフリカ11師団を肉攻により突破し師團を救出、23日、インタンガレを出発、27日、カレワに転進し、12月30日、メークテーラに移駐、昭和20(1945)年2月4日、セルに集結、3月10日、歩兵第百二十一聯隊予備隊となります。

昭和19(1944)年8月29日、聯隊先遣隊が、9月8日、主力が歩百二十一と警備を交代し、チェドバ島を出発しカンゴー地区に移駐、11月29日、聯隊は松支隊(第五十四歩兵團長・木庭知時少将)にボンザーにあった第九中隊(荒武直康中尉)を派遣、12月2日、中隊はミヨホンにおいて松支隊指揮下に編入され、12月4日、サニタビンにおいて歩百十一第三大隊指揮下に編入され、カラダン河西岸において捜索五十五、櫻支隊(第五十五歩兵團長・櫻井徳太郎少将)の転進援護にあたり、レムロ河東岸に移駐し英印軍の侵攻に備えます。

昭和20(1945)年1月1日、第三大隊(畑欽二中佐)はカンゴー地区を出発、5日、マユウにおいて松支隊に編入され、レムロ河東岸に進撃、南侵して来た英軍西アフリカ第81・82師団の侵攻を拒止します。
12日、空海支援のもと戦車を伴い英印第25師団がミエボン半島(捜索五十四守備)に上陸を開始、聯隊は第二中隊(諏訪政次中尉)を派遣、斬込みで英印軍の侵攻を拒止しますが、航空爆撃、艦砲射撃、火砲射撃を受け中隊長・諏訪中尉が散華、大損害を受け、19日、英印軍がカンゴー地区に指向するに至り聯隊に復帰します。

22日、英印軍は空海支援のもと戦車を伴いカンゴー地区西側のダイボン河よりノロ高地西南地区に上陸を開始、24日、第九中隊、27日、第三大隊が聯隊に復帰、聯隊は各陣地に拠って英印軍の侵攻を拒止しますが、各陣地は次第に陥落、陣地奪還も奏功せず、2月1日、第一大隊長・田中正次大尉が散華するなど損害は増加、松支隊を追撃して来た英西阿81・82師団がカンゴーに侵攻して来ます。

師團は英軍をカンゴー以南のダレ河にわたる縦深陣地において撃破すべく、16日、聯隊は転進を開始、20日、アレナヤンに布陣、捜索第五十四聯隊を指揮下に編入され、侵攻してきた英西阿82師団の一部を度々撃退、3月12日、ダレ付近に反撃し英阿軍を撃破しオンデ付近まで追撃、24日、コーランにおいても英阿軍を撃破し一時敵の侵攻を頓挫させ、師團長より賞詞を賜ります。

2月26日、第二十八軍(櫻井省三中将)の完二號作戰に第一大隊(陶山大岡大尉)が抽出され、パガン付近で英軍渡河点を遮断すべく木庭部隊(第五十四歩兵團長・木庭知時少将)としてにアラカン山脈を踏破、3月13日、部隊はサリンに集結し独立混成第七十二旅團(山本募少将)指揮下に編入され、17日、イロンゲット南方で英軍を牽制、22日、タマジャンにおいて第二大隊が木庭部隊に編入され、26月、レジーに進出、3月17日、イラワジット、4月4日、グエチャンギーで英軍と交戦、16日、トウタリン、5月1日、チャンビユウ、4日、パダン付近で英軍と交戦し侵攻を拒止します。

3月25日、師團は戦力を整理し英軍を一挙に撃破すべく聯隊は師團命令によりシンダイクワに転進し、英印第25、英西阿81・82師団を拒止しつつ、4月5日、アテクドに集結し西進を開始、8日、シンチァンの敵陣を突破、10日、激戦の後、レモー、15日、シャッコンを攻略、敗敵を撃破しますが、ビルマ方面の戦局悪化に鑑み師團のアラカン山脈以東への転進が決定、聯隊は追撃を中止し、アンを経由しシンコンダインに移駐します。

19日、聯隊は師團先頭として転進を開始、22日、アラカン山脈を踏破しゴロにおいて糧秣補給を受け、パダン-カンドーク-エナマ-タエトミューを経由、28日、アランミヨーに到着、渡河直後にパロー付近で戦車を伴い侵攻してきた英軍を拒止、5月4日、師團主力は3梯団(輜五十四、歩百十一、木庭部隊)に分かれパダンを出発、6~26日、師團主力の渡河援護にあたり、27日、プローム街道及び五三三高地の敵陣を攻撃し転進路を啓開、バウカン平地に進出、聯隊は右地區隊となりバウカン北側に布陣します。

6月5日、火砲支援のもと英軍が侵攻、師團は敵補給路を妨害し英軍の攻撃度々撃退しますが、次第にマラリアの罹患者が増加、16日、増強される英軍、及び悪環境から離脱すべくペグー山系に転進を開始、22日、豪雨による悪路に加え過労、糧食欠乏、悪疫により自決者、落伍者が続出、コビユテに集結しますが、聯隊兵力は997名まで減少してしまいます。

7月1日、聯隊は木庭支隊に編入され、師團と分かれコビユテを出発し、6日、セニエンに到着、16日、セニエンを出発し、マンダレー街道を踏破、22日、ウエジーにおいて戦車を伴う英軍と交戦しつつ、23日、シッタン河を渡河、25日、ラングエに到着、28日、ラングエを出発しますが、進路を誤り師團との連絡が途絶、8月16日、師團と連絡し、20日、キャドウインに集結しますが、兵力は391名に減少してしまいます。
19日、師團は機動を開始、聯隊は師團を追求しイワガレ、チャンギーを経て、27日、ミンランタゼイクに到着し、1700、停戦の報に接し、同夜、雨のなか付近の山中において軍旗が奉焼されます。
9月5日、レパンに集結、昭和21(1946)年7月31日、先発隊、昭和22(1947)年6月10日、聯隊主力がラグーンを出航、7月1日、宇品に上陸、復員完結します。


歩兵第四百四十七聯隊(護路二二七〇五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、『軍令陸甲第三十四號「在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領」』に基づき、歩兵第百五十四聯隊補充隊を臨時動員(佐々木高一中佐)、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、『軍令陸甲第三十四號』に基づき、留守第五十四師團司令部を臨時動員した沿岸配備師團である第百五十四師團(毛利末廣中将/第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列)に隷属します。

聯隊は4月25日、岡山を出発、26日、鹿児島県川内市に移駐、6月25日、師團の作戦地である宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋町に進出、陣地構築中に停戦を迎え、9月20日、復員完結します。


歩兵第四百四十八聯隊(護路二二七〇六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、『軍令陸甲第三十四號「在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領」』に基づき、歩兵第百五十四聯隊補充隊により臨時動員(永松亨一中佐)、6月7日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、『軍令陸甲第三十四號』に基づき、留守第五十四師團司令部を臨時動員した沿岸配備師團である第百五十四師團(毛利末廣中将/第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列)に隷属します。

聯隊は5月23日、岡山を出発、25日、師團の作戦地である宮崎県児湯郡富田村、新田原村、高鍋町に進出、陣地構築中に停戦を迎え、9月20日、復員完結します。


歩兵第五百九聯隊(安芸一五〇五七)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月23日、『軍令陸甲第六十一號「第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領」』に基づき、廣島米師管區歩兵第五補充隊(旧歩兵第百五十四聯隊補充隊)に臨時動員下令、6月10日、動員完結(足立謙三中佐)され、6月11日、宮中において軍旗を拝受します。

4月23日、『軍令陸甲第六十一號』に基づき、廣島師團管區司令部により臨時動員された機動打撃師團である第二百五師團(唐川安夫中将/第五十五軍(原田熊吉中将)戦闘序列)に隷属します。

聯隊は師團の作戦地である高知県香美郡に進出、陣地構築中に停戦を迎え、9月21日、復員完結します。


歩兵第三百四十二聯隊(赤穂二八三三二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、『軍令陸甲第八十四號「師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領」』に基づき、6月1日、廣島師管區歩兵第五補充隊(旧歩兵第百五十四聯隊補充隊)に臨時動員下令、12日、『軍令陸甲第九十五號「第五十軍、中國、四國軍管區司令部、東京防衛軍司令部臨時編成、東京師管區司編制改正、第三百五十次復員要領」』により廣島師管區歩兵第五補充隊は中國軍管區歩兵第五補充隊に改称、8月3日、第一期動員完結(磯塚健二中佐、定員3,334名中、充足627名)、第二百二十四師團(河村参郎中将/第五十四軍(小林信男中将)戦闘序列)に隷属、師團の作戦地である静岡県沿岸に進出予定でしたが、編成中に停戦を迎え、9月5日、復員完結します。


編成(歩兵以外、大隊以下)、補充を担当した部隊
第十師團 第一陸上輸卒隊(昭和12年8月15日)

兵站電信第十二中隊(昭和12年8月20日)

第十師團 第二陸上輸卒隊(昭和12年8月25日)

第十師團 架橋材料中隊(昭和12年9月21日)

獨立機關銃第八大隊(昭和12年10月12日)

獨立歩兵第八大隊(昭和13年3月27日、編成)

獨立歩兵第百四大隊(昭和13年5月10日)

第十師團 第二・第三水上輸卒隊(昭和13年7月4日)

   〃   第一水上輸卒隊(昭和13年7月7日)

建築勤務第五十五中隊(昭和15年10月21日)

第三十七軍司令部(昭和16年9月17日)

獨立歩兵第四百三十二大隊(昭和16年9月20日)

獨立歩兵第五百五十三大隊(昭和16年9月20日)

獨立歩兵第五百五十四大隊(昭和16年9月20日)

獨立歩兵第三百六十六大隊(昭和19年7月27日)

獨立歩兵第三百六十九大隊(昭和19年7月27日)

獨立歩兵第三百七十大隊(昭和19年7月27日)

海上挺進基地第二十七大隊(昭和19年8月31日)

平壌師管區第百五十三警備大隊(昭和20年3月6日)

平壌師管區第百五十四警備大隊(昭和20年3月6日)


主要参考文献
『歩兵第十聯隊史 : 下士優遇及其志願心得 』(大正9年 帝國聯隊史刊行會)

『岡山県郷土部隊史』 (昭和41年 岡山県郷土部隊史刊行会)

『歩兵第百五十四聯隊戦史略』(アジア歴史資料センター)

『岡山聯隊写真集 精鋭二十万、栄枯七十四年の光芒史』(昭和63年10月 国書刊行会)

『岡山市史 第6巻』 (昭和50年:昭和13年復刻 岡山市役所)

『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』(昭和53年10月 ノーベル書房)

『日本陸軍連隊総覧』(平成2年9月 新人物往来社)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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