当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

工兵第十聯隊 (旧輜重兵第十七大隊)

岡山県岡山市に所在する岡山大学津島キャンパスに工兵第十聯隊の兵営がありました。
兵営は先に輜重兵第十七大隊が衛戍、後に工兵第十七聯隊工兵第百十聯隊工兵第五十四聯隊が編成されます。
輜重十七・工兵第十 E 浴場・食堂 北西から(岡山)
▲岡山大学に遺る浴場・食堂

【探索日時】
平成20年7月27日、平成24年3月21日、4月20日






第十七師團関連諸施設配置
輜重十七・工兵第十 岡山新市街地圖(大正15・1926)駸々堂旅行案内部(岡山)
▲『岡山新市街地圖』 大正15(1926)年

第十七師團司令部 岡山 中心 現在①~⑩(岡山)
▲師團司令部周辺と遺構の配置
※緑文字が当記事の紹介施設
①a 歩兵第三十三旅團司令部
①b 岡山聯隊區司令部
①c 第十師團経理部 岡山派出所
②  歩兵第十聯隊
③  工兵第十聯隊
④d 岡山陸軍兵器支廠
④e 岡山陸軍兵器支廠 倉庫
⑤    〃          〃
⑥  岡山陸軍兵器支廠 倉庫
⑦     〃         〃
⑧     〃         〃
⑨  旧岡山號砲臺
⑩  真備高等女學校 (旧岡山衛戍監獄)
※名称は昭和10年頃


遺構について※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
② 工兵第十聯隊
明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定、用地を岡山市からの寄付、及び買収により取得、明治41(1908)年2月10日、輜重兵営が竣工、9月20日、輜重兵第十七大隊が姫路から転営して来ます。

大正4(1915)年3月16日から大正6(1917)年5月10日、輜重兵第十七大隊の滿洲駐箚に伴い同大隊留守隊が編成されます。
31日、兵営西側の民有地2,500坪を買収、大正7(1918)年11月、さらに西側の岡山県用地を管理換えにより収容し敷地を拡張します。
大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)に伴い第十七師團司令部とともに輜重兵第十七大隊も復帰、同日、兵営は陸軍兵器本廠に移管され、岡山出張所倉庫となります。

昭和2(1927)年5月10日、旧工兵第十七大隊の兵営が狭隘で兵員、器材の収容に不便な事から工兵第十大隊が陸軍兵器本廠岡山出張所倉庫になっていた旧輜重兵第十七大隊の兵営に転営します。

昭和11(1936)年6月1日、工兵第十大隊は聯隊に改編、昭和12(1937)年7月27日から昭和14(1939)年11月2日、工兵第十聯隊の支那事變出征に伴い同聯隊留守隊が編成されます。

昭和13(1938)年6月16日、工兵第十聯隊留守隊において工兵第百十聯隊が動員され、7月15日、工兵第十七聯隊が編成され、夫々支那事變に出征、昭和15(1940)年8月1日、工兵第十聯隊の滿洲移駐に伴い工兵第五十四聯隊が編成されます。

昭和18(1943)年3月8日、工兵第五十四聯隊のビルマ出征に伴い、同聯隊補充隊が編成され、昭和20(1945)年4月1日、工兵第五十四聯隊補充隊は新潟縣北魚沼郡小千谷町(現、小千谷市)に移転、長野師管區工兵補充隊(東部第五十二部隊)に改編されます。
旧工兵第五十四聯隊兵営は廣島師團管區(6月20日から中國軍管區)司令部に移管され、応召部隊の臨時兵舎に転用され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦に伴い中國軍管區司令部により臨時憲兵隊が編成され、旧工兵第五十四聯隊兵営に入り陸軍用地の管理・警備にあたり、10月23日、岡山に進駐して来た米第6軍第24師団に引き渡します。
昭和21(1946)年4月、米軍に代わり英軍が駐留、昭和22(1947)年3月、英軍は呉に移駐しますが、施設は引き続き連合軍管理下に置かれます(以降の経緯から昭和24年頃に接収解除されたと思われます)。
昭和24(1949)年5月31日、国立岡山大学の設立に伴い旧工兵営は法文学部用地になり現在に至ります。

D 演習機材庫
岡山大学構内にありました。
最近のグーグルマップ(航空写真)では写っていない事から、破壊されてしまった様です。
岡山大学埋蔵文化財研究所発効の資料では「事務所」や「兵舎」(なぜか同じ発行元の資料で名称が異なる)とされていますが、昭和2(1927)年の陸軍省軍務局の公文書・肆第五〇五号『工兵第十大隊轉營ノ件』付図によると輜重兵第十七大隊時代、工兵第十大隊移転時ともに「演習機材庫」となっています。
輜重十七・工兵第十 D 北東から(岡山)
▲東側、北側の1ヶ所目の窓は縦長な事から、当時のままと思われます。

同付図には入口が3ヶ所描かれており、西から通信術教場、通信器材庫、練習用具庫となっていますが、現状では入口が1ヶ所しかありません。
改装されたのでしょうか?
輜重十七・工兵第十 D 北西から(岡山)
▲北側の6ヶ所の窓は正方形に近く改修された跡?

輜重十七・工兵第十 D 西から(岡山)
▲南側の窓はまた縦長の当時の物と思しき形状です。


E 炊事場及浴室・調理所
岡山大学構内に遺ります。
現在は閉鎖されている様です。
総煉瓦造で平屋切妻屋根の建物と2階建の建物が東西に接続、北側に平屋の調理所が付属します。
東西どちらが炊事場か浴室か不明ですが、書き方からして東側平屋が炊事場、西側2階建が浴室では無いでしょうか?
輜重十七・工兵第十 E 浴場・食堂 南東から(岡山)
▲正面はヒバが茂っており冬季でも見通しが殆ど効きません。

輜重十七・工兵第十 E 浴場・食堂 北東から(岡山)
▲東側の平屋建
 窓が多く炊事場と思われます。

輜重十七・工兵第十 E 浴場・食堂 東から(岡山)
▲右側の飛び出た部分が調理所です。

輜重十七・工兵第十 E 浴場・食堂 北西から (3)(岡山)
▲北西(裏側)から見た建物
 右側の2階建が浴室(推定)、左側が調理所です。


エ 将校集会所庭園
岡山大学構内に遺ります。
庭園は荒れ放題ですが、辛うじて庭石と池、分解された灯籠が遺ります。
輜重十七・工兵第十 エ 将校集会所 築山(岡山)
▲下の黒い部分が池跡、奥に灯籠が見えます。

輜重十七・工兵第十 エ 将校集会所 灯篭 西から(岡山)
▲灯籠は頂部の宝珠が無いだけなので、ぜひとも復元して欲しいところです。

輜重十七・工兵第十 エ 将校集会所 灯篭 竿部上部「日支事変出征記念」(岡山)
▲見づらいですが灯籠の竿部分には「昭和十三年 日支事變出征記念」の
 刻字が遺る事から、工兵第十聯隊時代に建立された様です。

訪問した時は大学西側の境界を工事中でしたが、掘り出された門柱基礎と笠石が転がっていました。
将校集会所の西側にあった通用門の残骸と思われます。
輜重十七・工兵第十 エ 将校集会所 門柱笠石(岡山)

20年ほど前までは庭園北側に将校集会所が遺っていた様ですが、残念ながら破壊されてしまいました。


お 演習用橋梁
岡山大学構内に遺ります。
北側の橋台と中央の橋脚のみが遺り、南側の橋台は滅失しています。
残存部も倒壊、破損しており状態は非常に悪いです。
資料によっては「橋梁爆破演習用」と記載されていますが、兵営内で爆破などあり得ない(そもそも小さ過ぎる)ので教育用の模型と思われます。
輜重十七・工兵第十 オ 演習用橋梁  南東から(岡山)
▲演習用橋梁 全景

輜重十七・工兵第十 オ 演習用橋梁 橋台 南から(岡山)
▲北側の橋台

輜重十七・工兵第十 オ 演習用橋梁 橋脚(東) 北西から(岡山)
▲橋脚(東側)

輜重十七・工兵第十 オ 演習用橋梁 橋脚(西) 北東から(岡山)
▲橋脚(西側)

殆ど放置されており、いつ破壊されるか分からない状態です。


C 衛兵所 ?
岡山大学の守衛所として使用されています。
各種資料で「陸軍時代の衛兵所」と言われていますが、上記『工兵第十大隊轉營ノ件』付図にはこの場所には何の記載も無く、また昭和22年10月7日の米軍空撮(国土地理院 USA-R516-3-68)にも写ってい無い様なので、戦後の建物と思われます。
輜重十七・工兵第十 C 衛兵所 東から(岡山)
▲岡山大学守衛所
 衛兵所???

輜重十七・工兵第十 C 衛兵所 西側の物置(岡山)
▲守衛所の裏にあるコンクリート製物置

輜重十七・工兵第十 C 南西土塁の土留(岡山)
▲守衛所南西には階段を埋めた様な跡が遺ります。

輜重十七・工兵第十 兵営南側の溝(岡山)
▲兵営跡の南側には当時の物と思しき側溝が遺ります。


衛戍・編成・動員部隊
輜重兵第十七大隊
※拙ブログ「輜重兵第十聯隊・城北陸軍練兵場」参照


工兵第十聯隊(鐵五四五二)
明治29(1896)年12月1日、工兵第四大隊(伏見)からを基幹要員を抽出し第一中隊を編成、明治30(1897)年6月19日、京都府天田郡曽我井村(現、福知山市)に新兵営が竣工したため転営、10月11日、大隊長・杉浦鼎三中佐が着任に大隊本部が、12月1日、第二中隊が、明治31(1898)年12月1日、第三中隊が編成され大隊は編成完結し、第十師團(伏見宮貞愛親王中将、姫路)隷下に編入されます。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、師團に動員下令、19日、大隊は動員完結し、5月7日、京都を出発、10日、兵庫に集結、18~23日、輸送船5隻に分乗し神戸港を出航、24~29日、南尖澳に上陸、師團は獨立第十師團として第一・第二軍の中間に作戦し、両軍に策応体制を採ります。

6月9日、師團は岫巌を攻略、6月25日、遼陽に向かう要所・分水嶺を攻略、6月23日に編成された滿洲軍(大山巌大将)隷下の第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に入り、7月30日、析木城の戦い、8月25日、第四軍の右翼隊として遼陽會戰、10月7日、沙河會戰に参加し、10月11日、三塊石山の夜襲戦を敢行します。
明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に第四軍右翼隊として参加、胡老山、柳匠屯を攻略、さらに潰走する露軍を追撃し奉天北東の沙陀子に達し敵の退路を遮断、奉天城攻囲に参加します。
9月1日、講和条約が締結され、明治39(1906)年1月18日、趙家台を出発、2月6日、京都に凱旋し、12日、復員完結します。

明治40(1907)年、第十師團は第十六師團(山中信儀中将、京都)に代わり滿洲駐箚が決定、10月21日、大隊は京都を出発、師團とともに關東都督(大島義昌大将)の指揮下に入り遼陽の警備に就き、明治42(1909)年10月6日、京都に帰還します。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)により第十七師團が復帰、工兵第十大隊は福知山(大正7年4月1日、曽我井村は福知山町に編入)から第十七師團とともに復帰した工兵第十七大隊(岡山)兵営跡に移駐します。

6月9日、第一中隊は滿洲駐箚のため第三十三旅團、歩兵第十聯隊とともに岡山を出発、15日、関東州柳樹屯に到着、遼陽の警備にあたり、昭和2(1927)年4月26日、岡山に帰還します。

5月10日、旧工兵第十七大隊の兵営が狭隘で兵員、器材の収容に不便な事から北西の陸軍兵器本廠岡山出張所倉庫に転用されていた旧輜重兵第十七大隊兵営に移駐します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、12月17日、大隊から1個小隊(小杉中尉以下72名)を抽出し、歩兵第三十九聯隊第三大隊(小林操少佐)とともに臨時派遣部隊として混成第八旅團(村井清規少将)に編入され同旅團工兵小隊として、21日、岡山を出発、27日、大連に上陸、奉天に派遣、泰山線・哈爾浜の警備に就き、黒山・新民方面の討伐にあたります。

昭和7(1932)年4月7日、關東軍増強のため第十師團の滿洲派遣が決定し臨時編成下令、4月11日、大隊は第一中隊(小室大尉)を編成し岡山を出発し宇品を出航、15日、大連に上陸、29日、哈爾浜において混成第八旅團工兵小隊と合流し改編され、周辺の警備にあたります。

12月7日、大隊主力に滿洲派遣が下命され、昭和8(1933)年2月1日、岡山を出発、9日、哈爾浜に到着、18日、關東軍の熱河作戰に参加のため哈爾浜を出発、朝鮮平泉道で改修工事にあたり、5月8日、第六師團の指揮下に編入され張安平永、濼河等の架橋にあたり、6月8日、大隊は第六師團指揮下を解かれ、12日、唐山を出発、15日、哈爾浜に帰還します。
8月7日、第二中隊は松田支隊に編入され哈爾浜を出発、東部国境付近の密山、虎林において支隊を援護、9月17日、哈爾浜に帰還、10月9日、大隊は園部支隊の指揮下に入り、10月11日、哈爾浜を出発、吉林省内の匪賊を討伐し、11月28日、哈爾浜に帰還します。
昭和9(1934)年5月7日、哈爾浜を出発、16日、岡山に凱旋、昭和11(1936)年6月1日、工兵第十大隊は工兵第十聯隊(須磨學之大佐)に改編されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる蒋軍第二十九軍の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は攻撃を開始、北京・天津を平定します。
7月、蒋介石軍(以下「蒋軍」)の北上に伴い、7月27日、聯隊に動員下令、8月8・9日、第三十三旅團、歩兵第十聯隊とともに岡山を出発、10・11日、神戸を出航、15・16日、大沽に上陸後、豪雨の中を行軍し、17・18日、天津に集結します。

8月13日、蒋軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。
31日、北支那方面軍(寺内壽一大将)が編成され、第十師團は方面軍隷下第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入されます。

9月2日、第二軍とともに第十師團は津浦線に沿って南下、聯隊は蒋軍により破壊されて線路を修理しつつ南下、9月24日、滄県、10月、徳州の攻略を支援、12月23日、黄河の敵前渡河を成功させ、26日、済南攻略を支援します。

昭和13(1938)年1月7日、第二軍の山東平定作戰において、16日、済寧城攻略を支援、4月18日、第二軍の台児荘の戦いに参加し、4月下旬、集結した蒋軍50個師團を殲滅すべく中支那派遣軍、北支那方面軍の徐州會戰に参加、師團は棗荘から微山湖を迂回し南下進出しますが、蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、6月20日、さらに蒋軍は我軍の追撃を阻むため黄河の堤防を爆破・決壊させ自国民もろとも押し流し89万人が溺死してしまいます。
聯隊は直ちに救助活動を開始、多数の罹災民を救出し保護にあたります。
輜重十七・工兵第十 溺者を救助する工兵第十聯隊(黄河)(岡山)
▲住民の救助に当たる工兵第十聯隊

8月17~20日、師團とともに第二軍の漢口作戰に参加、六安、固始、光州の戦闘に参加、大別山を突破し、10月24日、応山に進出、26日、第六師團により漢口は攻略され、師團は26日、同心店に進撃し敗走する蒋軍の退路を遮断、29日、応城を攻略します。
10月29日、第十師團は北支那方面軍の戦闘序列に編入され北支移駐が決定(聯隊から1個中隊を抽出し南荘作戦に派遣)、11月21日、聯隊は南京に移動、津浦線を北上し彰徳地区の石家荘周辺の警備、匪賊討伐にあたり、北支那方面軍隷下各師團より抽出された工兵7個中隊を指揮下に編入し潞安作戦に参加、補給路の開設、警備にあたります。
昭和14(1939)年10月中旬、岡山に凱旋します。

昭和15(1940)年8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が決定し聯隊に編成下令、7日、編成完結し、10日、岡山を出発し、12日、宇品を出航、16日、羅津に上陸、20日、佳木斯(チャムス)に屯営し、対ソ連戦車戦闘訓練(關東軍佳木斯演習)、架橋訓練、匪賊討伐、警備にあたります。

昭和16(1941)年7月16日、特臨編第三號(第百二次動員)により師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結、10日から対ソ戦を見越した防空、渡河、湿地通過、対戦車攻撃演習を実施します。
対ソ連開戦に際して第十師團は他の13個師團とともに、東正面(沿海州)に進撃しウオロシーロフ北方を制圧する計画でしたが、8月9日、対ソ連開戦は中止され『帝國陸軍作戰要綱』に基づき三江省の警備、対ソ連戦に備えた訓練、演習、研究を実施します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和19(1944)年1月、ソ滿国境の富錦東方ウルコリー山地に陣地構築を開始します。

聯隊は陣地構築中の7月25日、聯隊に臨時編成下令(秘匿名「ウ號演習」)、26日、第十師團の臺灣軍(安藤利吉大将)編入が決定し陣地構築を中止し佳木斯に帰還、30日、編成完結、8月6日、佳木斯を出発、16日、釜山で輸送船に乗船し出航、9月16日、最後の第三梯団が台湾基隆に入港、上陸します。
聯隊主力は野砲十とともに豊原に屯営し陣地構築、作戦準備、挺進攻撃訓練を実施し、10月下旬、第一期作業計画に基く築城を完了し、第二期築城拡充を開始します。

11月10日、第十師團は第十四方面軍(山下奉文大将、マニラ)に編入されルソン島への転進が決定、11日、『十號演習』(比島転進)を開始、高雄に集結し、11月26日、高雄を出航、12月10日、北サンフェルナンドに上陸、サンホセに集結し、軍需品集積、陣地構築を開始します。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始します。

10日、師團は新たに方面軍の食糧補給源地帯であるカガヤン渓谷、及びバンバン平地への侵攻を阻止すべく、15日、バレテ峠地区へ北上、サンホセ-プンカンに前進陣地、サラクサク峠道に主陣地右地区隊(捜索第十聯隊基幹)、バレテ峠道に主陣地左地区隊(歩兵第六十三聯隊基幹)、バレテ峠最左翼の妙高山に工兵第十聯隊、バレテ峠北のサンタフェに野砲兵第十聯隊、輜重兵第十聯隊、鈴鹿峠道に津田支隊(第二十六師團獨立歩兵第十一聯隊)を配置します。

16日、サンホセ市街が空襲により焼失、19日、カガヤン渓谷に転進中の第百五師團(津田美武中将)から井上集成第二大隊(井上恵少佐)が第十師團の指揮下に入り、歩十第二大隊、歩三十九第一中隊、歩六十三第五中隊、野砲第十第一大隊等を配属し米軍の北進を拒止するためプンカンに配置します。

30日、米第6、25師団がサンホセに侵攻を開始、2月4日、米第6師団の攻撃にサンホセ守備の歩三十九第一大隊第一中隊(吉田勇中尉)が、13日、米第25師団の攻撃に歩十第二大隊(内藤大尉)が、さらにプンカンに侵攻してきた米第25師団の攻撃に、3月13日、井上集成第二大隊が玉砕してしまいます。

方面軍はバレテ峠以西の防御を固めるべく、歩兵第十聯隊主力を第十師團に復帰させ、第二挺身團(徳永大佐)、鐡道第八聯隊(柳中佐)、臨時第五野戰補充隊(松尾岩雄少佐)等を指揮下に編入し、工十北側の東山に布陣、妙高山に南方に輜重兵第十聯隊第二大隊が前進して来ます。

3月18日、米第25師団の攻撃にミヌリ守備の歩六十三第三大隊第九中隊(林原中尉)が玉砕、敵はミヌリ南方のデグデグからカングラン-禿山、及び直接妙高山へ侵攻道路を開設し火砲陣地を推進し支援射撃を開始したため、歩十は連日斬込みを実施し、3月末、禿山の第一線敵陣地を突破、4月6日、敵砲兵をミヌリ後方まで撃退し、弾薬集積所を破壊、敵火砲支援を中断させます。
しかし、火砲支援のもと再度妙高山に迫った米軍の攻撃に4月上旬、妙高山第一線陣地が突破され、4月29日、輜十第二大隊が玉砕、6月20日、歩十第六中隊が妙高山に配備され、工十とともに甚大な損害を受けながらも敵の侵攻を拒止、敵は妙高山突破を諦め同山西側の金剛山に侵攻を指向します。

12日、歩六十三、歩十第三大隊が守備する金剛山が突破されてしまい、師團はサンタフェ-龍山を第一線陣地として歩六十三、工十、野砲十、津田支隊を、ボネ南方隘路を第二線陣地として指揮下に入った戰車撃滅隊(第十四方面軍教育隊、臨時歩兵第二十五大隊、戰車第二師團)を配置し米軍の侵攻拒止に努めます。
5月25日、サンタフェが陥落、航空、火砲支援をともなう米第25師団の侵攻に第一線陣地が、6月4日、第二線陣地が突破され、アリタオ、バンバンに侵攻、師團の後方連絡線が遮断され、方面軍との連絡も途絶してしまいます。
6月10~17日、師團はキャジガン方面の米軍を牽制しつつ、バンバン付近の方面軍主力を支援すべくカシブに転進を開始、7月中~下旬、カシブに集結しますが、糧食は欠乏、バンバン、ドバックスから米軍が侵攻してきたため、さらにピナバガンに転進を開始します。
師團は密林地帯を伐開しつつ転進しますが、補給が途絶え疲労に加えマラリア患者が発生、落伍者が続出し戦力は急速に低下、8月上旬、ピナバガンに集結し、追撃して来た米軍、匪賊に対し挺身切込、肉薄攻撃を実施するなか、9月10日、停戦を迎えます。
ルソン島決戦を623名で迎えた聯隊の生還者は74名でした。


工兵第十七大隊
工兵第十七聯隊
(月七三八八)
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、第十八師團(久留米)とともに第十七師團の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定します。
9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第十七師團の新設、及び編合を定めます。
10月23日、第五師團司令部(木越安綱中将、広島)に第十七師團の新設準備を下令、11月1日、工兵第五大隊(土屋喜之助中佐、広島)において工兵第十七大隊(渡邉兼二中佐)が編成され、10日、第十七師團各幹部は岡山市内各寺院を間借りして仮庁舎とします。
明治41(1908)年1月18日、工兵営が竣工、9月17日、工兵第十七大隊主力は広島から転営します。

明治43(1910)年11月13~17日、吉備平野で行われた陸軍特別大演習に参加の後、17日、岡山陸軍練兵場で挙行された観兵式に参加します。
大正4(1915)年3月11日、第十七師團に第十三師團と交替して滿洲駐箚が下令され、16日、岡山を出発し宇野港を出航、20日、大連に上陸、24日、奉天に到着、遼陽、奉天、鉄嶺、旅順、柳樹屯、公主嶺、海城に分駐し警備にあたり、大正6(1917)年5月10日、師團とともに岡山に帰還します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)による第十七師團の復帰が公布され、4月14日、岡山陸軍練兵場において解団式を挙行、5月1日、工兵十七聯隊は復帰します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、8月13日、蒋介石軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。

支那事變の拡大、長期化、及びソ連への備えのため昭和13(1938)年4月4日、『軍令陸甲第二十一號「新設師團編成要綱」』により5個師団の新設が下令され、7月17日、留守第十師團の担当で第十七師團は編成完結します。
昭和13(1938)年4月20日、工兵第十聯隊留守隊に工兵第十七聯隊の編成下令、工十留守隊において聯隊本部、第一中隊(住本杢太郎大尉)、器材小隊、工兵第四聯隊留守隊(高槻)において第二中隊(土井芳雄大尉)が編成、7月15日、編成完結(平野省三大佐)し、第十七師團(廣野太吉中将、姫路)隷下に編入されます。
7月15日、師團は2月18日に編成された中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され、24日、動員が下令されます。

8月1日、聯隊本部、第一中隊は岡山を出発し神戸港を出航、3日、第二中隊は高槻を出発し大阪港を出航、5日、聯隊主力が上海に上陸し蘇州に、9日、第二中隊は塘沽に上陸し蘇州に移駐、聯隊は蘇州城内桃花鳩大街付近に屯営、一部は南通、無錫において警備にあたります。
10月5日、宜輿付近の討伐において第一中隊は太湖西方宜輿に進撃し、舟艇により散在するクリークを兵力輸送し、16日、聯隊に復帰します。
10月5日、第二中隊主力は鈴木支隊(第十七歩兵團長・鈴木春松少将:歩五十三、歩五十四、野砲二十三)に編入され、11日、中支那派遣軍の漢口作戰に参加、南京を経由し長江を遡上、九江に上陸し、18日、雷鳴鼓劉で有力な蒋軍に包囲された第一師團(岡部直三郎中将、東京)、第百六師團(松浦淳六郎中将、熊本)を救援、廬山西方甘木関、黄家領付近の戦闘では戦車隊に配属され、敵の銃砲火の下、大損害を受けながらも戦車進撃路の啓開、戦車随伴兵として敵陣攻略、中源付近の橋梁補修、地雷原啓開にあたり、九領・幕布山脈の山岳地帯から武昌南方・紙坊間の道路啓開にあたり、軍の漢口攻略を支援します。
26日、蘇州に帰還し、第一中隊は無錫、江陰県境地区の討伐にあたります。

昭和14(1938)年5月2日、蒋軍が歩五十三の警備する宜興城に侵攻し、4日、集成機工舟艇隊(長尾少尉以下1個小隊)を編成、太湖西北和橋鎮の討伐に参加、7日、聯隊に復帰します。
23日、師團は蒋軍を殲滅すべく第一次湟里鎮作戰を発動、聯隊主力は西部警備隊(隊長:鈴木春松少将、歩五十三基幹)に編入され、隔湖西方湟里鎮付近に進撃し周辺の蒋軍を撃破、同地警備部隊の陣地の構築を行い、6月7日、蘇州に帰還します。
6月12日、師團は高端鎮作戰を発動、西部警備隊は隔湖南端高端鎮に進撃、蒋軍中央軍と交戦、聯隊は西桃園において敵の激烈な銃放火の中、折畳船による敵前渡河を敢行しますが、神藤小隊(折畳舟5隻)は攻撃地点に移動中敵銃放火に阻まれ敵中に孤立、淺田―等兵は伝令として銃撃をかいくぐり聯隊本部に急報、20時間の銃撃戦ののち小隊は救出されます(淺田―等兵は師團長より賞詞)。
聯隊は交通路啓開、輸送作業にあたり軍の機動を容易にし、7月11日、蘇州に帰還します。

9月23日、第十七師團は中支那派遣軍のから支那派遣軍の戦闘序列にある第十三軍戦闘序列に隷属転移します。
10月15日、第一中隊は西唐鎮付近の討伐に参加します。
20日、師團は度々湟里鎮に侵攻する蒋軍を殲滅すべく第二次湟里鎮作戰を発動、聯隊は舟艇機動により敵退路を遮断し、成章鎮において蒋軍を撃破し、31日、蘇州に帰還します。
12月17日、第百十六師團(篠原誠一郎中将、京都)の江南作戰に、聯隊は1個小隊(斎藤少尉以下第一中隊抽出の40名)を島田支隊(歩五十四聯隊附、島田恵之介中佐)に編入し蘇州を出発、南京から舟艇輸送を実施し大通に上陸、支隊は歩百三十八(小松茂久萬大佐、奈良)の指揮下に編入され、蕪湖南西青陽、貴池付近の敵陣を攻略、昭和15(1940)年1月1日、師團指揮下に編入され前江口に上陸、同地南方の蒋軍を撃破し、11日、聯隊に復帰します。

1月13日、師團は江北の蒋軍を討伐すべく秦興作戰を発動、聯隊は舟艇機動により長江を渡河し天生港に敵前上陸、蒋軍側背を攻撃、秦興を攻略の後、雪中で同地警備部隊の陣地の構築を行い、31日、蘇州に帰還します。
2月8日、第二中隊は錢塘江南岸作戰に参加、片倉支隊(歩五十三聯隊長・片倉哀大佐)に編入され、杭州に集結、第二十二師團に協同し銭塘江南岸の各蒋軍拠点を撃破し進撃中、歩兵部隊が遭遇した蒋軍の追撃戦に入ったため、残置された後続の工兵、砲兵、輜重兵隊は別の蒋軍大部隊に包囲されてしまいますが、歩兵部隊の救援により包囲を脱し、15日、作戦終了とともに聯隊に復帰します。
27日、聯隊は常州を経由し寒村鎮に進撃、周辺の蒋軍を撃破し陣地構築、続いて漆橋、新建鎮付近の蒋軍を撃破し、3月9日、蘇州に帰還します。
4月20日、集成1個中隊を田中支隊(第十七歩兵團長・田中勉少将)に編入し、第十三軍の春期晥南作戦に参加、長江南岸燕湖に進撃し、第十五師團を支援し、繁昌南西において友軍艦船の長江航行を阻害する蒋軍を山岳機動戦により殲滅し、5月2日、聯隊に復帰します。
5月、第一中隊(神藤少尉以下50名)は常州において歩五十三(片倉衷大佐)の指揮下に編入され、同聯隊の第一線陣地である狼圩山中腹から山頂に特火点(トーチカ)、地雷原を含む陣地を構築、狼圩山東南4km、都山地区の蒋軍拠点を激戦ののち壊滅させ、9月、聯隊に復帰します。
5月29日、第十一軍は蒋軍第五戦区軍(湯恩伯:50個師)を撃滅すべく宜昌作戰を発動、聯隊は集成1個中隊(村田中尉)を松井支隊(松井少将:歩五十三、歩五十四第一・第三大隊)に編入、支隊は南京より長江を遡上し漢口に上陸、第十一軍の指揮下に編入され、孝感より湖北平野を西進し応城-刑門-当陽を進撃し蒋軍と各所で交戦し撃破、鵜雀嶺、双連寺において蒋軍陣地を攻略、沙一、沙洋を攻略の後、孝感に進撃し警備にあたり、8月25日、聯隊に復帰します。
10月4日、第十三軍は蒋軍第三戦区軍を撃滅すべく十一號作戰(江南作戰)を発動、聯隊は杭州に前進、鉄舟にて蒋軍の背後に迂回、大打撃を与え、25日、蘇州に帰還します。
11月1日、蒋軍第五戦区軍(李宗仁)を撃滅すべく、師團は第十一軍増援のため指揮下に編入され漢水作戰に参加、聯隊は第一中隊を残置し南京より長江を訴状し漢口に上陸、信陽より桐柏山脈をに至り蒋軍拠点を壊滅しつつ進撃、昼夜強行軍にて南陽方面に進撃し蒋軍を急襲、暗夜の急進により敗敵と各所で遭遇戦を展開、漢水、襄樊は第十一軍により攻略されたため、聯隊は安陸を経て、12月4日、漢口に帰還し付近の警備にあたります。

昭和16(1941)年1月10日、第―中隊長・住本大尉、神藤少尉以下10名は大湖西方作戰準備のため海軍の内火艇により、大湖西方の敵陣地を斥候し、20日、蘇州に帰還します。
23日、第十一軍(第三、第四十、及び第十七師團)は確山、逐平方面の蒋軍第五戦区軍を殲滅するため予南作戰を発動、聯隊主力は師團とともに漢口を出発、孝感を経由し武勝関を越え、信陽に進撃し北上、馬埠口付近の蒋軍拠点・確山を攻略します。
確山において第二中隊より抽出の1個小隊及び指揮班の1部は戰車第十三聯隊指揮下に編入され、連続する対戦車壕を敵銃放火のもと埋戻し、戦車の進撃路を啓開し、軍の遂平城攻囲を支援、戦車隊は城門を砲撃破壊し城内に進撃、敗敵を殲滅し、多数の軍需品を鹵獲します。 
続いて許昌、商水方面の蒋軍を掃討、2月28日、漢口に帰還し警備にあたり、3月13日、聯隊主力は蘇州に復帰します。
3月18日、第十三軍は師團の留守中に勢力を拡張した蒋軍第三戦区軍を撃滅するため太湖西方作戰を発動、聯隊は集成1個中隊(宮川中尉)を編成、無錫より太湖西方の敵陣地に進撃しますが、激烈な銃砲火を受け宮川中尉以下4名が散華してしまい、27日、聯隊に復帰します。
20日、第十三軍は蒋軍第三戦区軍を撃滅すべく十一號作戰を発動、第二中隊(二島中尉)は蘇州を出発し机州に進撃、天目山山系を踏破し山砲渡隊の渡河を実施、安吉、広徳に急進し蒋軍を奇襲、朗渓において蒋軍と交戦し撃破、漂水の蒋軍残党を掃討し北上、29日、南京に到着します。

昭和15(1940)年8月20日、共匪八路軍(朱徳)は百団大戦を発動、一〇三・一二九師・普察翼軍区の共匪主力、計105個団(連隊)250,000が我が警備地区に一斉に侵攻を開始、石大線(石家荘‐太原)・娘子関が陥落、さらに共匪100,000の擾乱により石大線・京漢線・北寧線の線路・橋梁・通信網・井陸鉱山設備等が爆破、破壊されてしまいます。
同地警備にあたっていた獨立混成第二・第四旅團他各部隊は甚大な損害を受けてしまいます。

昭和16(1941)年2月24日、支那派遣軍は北支方面の警備強化のため、第十七師團、第三十三師團の北支転進を発令、3月28日、第十七師團は蘇州を逐次出発、4月5日、第十三軍より第十二軍に隷属転移し、13日、師團司令部は徐州に移し、第二十一師團から警備を移管されます。
11日、聯隊設営隊、13日、主力が除州に移駐し東飛行場の兵舎に入り、1個小隊を海州に配置し警備にあたります。
6月、東飛行場より、聯隊本部、第一中隊は雲龍山の兵舎、第二中隊は開元寺の兵舎に移住します。
7月1~30日、蚌埠の兵站線警備にあたり、淮河において漕舟・架橋演習を実施します。
15日、海州警備の1個小隊は歩五十四指揮下に編入され塩城作戰に参加、龍口・藩庄の築堤作業にあたり、8月31日、海州に帰還します。
8月2日、第十二軍は共匪撃滅のため晋察冀辺區粛正作戰を発動、第二中隊(二嶋中尉)は石家荘・石門を出発、保定、満城を経て狼牙山北方の五台山脈山中、桑千河周辺部落の八路軍拠点を撃滅して陣地を構築、9月11日、石門に帰還します。
9月2日、第一中隊(新藤中尉以下機構小隊24名)は工兵第三十五聯隊の指揮下に編入され河南作戰(鄭州攻略戦)に参加、蚌埠において渡河訓練を実施し開封に集結、10月2日、黄河の敵前渡河を敢行、敵銃放火の下、琵琶鎮に上陸し橋頭堡を確保の後、鄭州に進撃、可魯川対岸の共匪陣地を攻略し、10月30日、聯隊に復帰します。

9月30日、石門の第二中隊は第五十三師團に編入され河南作戰(鄭州攻略戦)に参加、新郷の貨物廠において鉄舟・架橋器材を受領し、黄河北岸老田庵に進撃、10月2日、鄭州攻略に向かう師團、兵器・弾薬の黄河渡河を実施、北岸から南岸中洲まで全長2kmの黄河架橋作業にあたり、南岸に進撃し、敵銃砲火、覇王城の陣地構築を実施、11月21日、聯隊に復帰します。
10月、海州派遣小隊は、海州護國神社を造営、英霊を祭祀します。
9日、第一中隊より抽出の2個小隊(服部少尉以下50名)は歩五十三の指揮下に編入され、第三十二師團とともに禁南作戰に参加、新安鎮北西の八路軍を挟撃し、敵拠点を壊滅し、17日、聯隊に復帰します。
10月、第二中隊は師團の除州周辺地区の共匪掃討に参加、除州平野南西の共匪拠点を掃討進撃中、数ヶ所の部落を陣地とした共匪と遭遇し攻撃を開始しますが、敵は各部落間に構築した連絡壕を移動しつつ逆襲、中隊は激戦の後、共匪を撃破し、俘虜数名、兵器多数を鹵獲します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年1月7日、師團の渦河北岸地區討伐に集成1個中隊(川根中尉)が参加、渦河北岸の敵特火点を撃破し、14日、聯隊に復帰します。
30日、聯隊は師團の渦河作戰に参加、宿県を出発し蒙城対岸に進撃し、深夜、流氷の渦河の敵前渡河を敢行、払暁蒙城を攻略します。 
夕刻、物資揚陸中の聯隊、野砲十七、輜重十七のー部は共匪の急襲・包囲を受け敵中に孤立、歩兵が来援し敵背後を急襲したため、敵包囲環を突破、2月15日、宿県に基幹します。

20日、雲龍山、開元寺の兵舎に分散宿営していた聯隊は、再び東飛行場兵舎に移駐、徐州東部、鄖雲龍山東飛行場、貨物廠の警備、及び除州周辺地区の粛清にあたります。

3月1日、通称号「月第七三八八部隊」が付与されます。

4月30日、大本營は支那空軍の飛行場を覆滅すべく「せ」號作戰(浙贛作戰)を発動、支那派遣軍(畑俊六大将)は第十一・第十三軍、北支方面軍隷下の第十七師團のー部に出動を発令します。
聯隊は第一中隊(藤田少尉)を抽出、師團により原田混成旅團(第十七歩兵團長・原田次郎少将、3,424名)が編成、杭州に移駐し、第十三軍指揮下に編入されます。
旅團は銭塘江・富春江岸を南下、大洪水中の桐廬において蒋軍第三十二軍の攻撃を受けますが銃撃戦を展開し撃退、建徳-蘭谿-金華を進撃し蒋軍2個師を撃破、次いで遂昌・松陽・雲和の敵拠点を撃滅、麗水-玉山間をに蟠踞する顧祝軍に多大の損害を与え撃破し、重慶援蒋ルートの浙贛線の遮断及び米・蒋軍飛行場を破壊、10月14日、聯隊に復帰します。

7月1日、第二中隊は蚌溏兵站線に移駐、淮河に於いて漕舟架橋及び敵前渡河演習を実施、31日、徐州に復帰します。

11月12日、第十三軍は新四軍(共産軍)撃滅のため洪澤作戰を発動、聯隊は歩八十一とともに宿県を出発、泗県より東進し洪澤湖畔の新四軍拠点・半城を淮安より西進してきた歩五十四と挟撃し撃破、泗陽-清江間の洪澤湖周辺の新四軍を撃滅、聯隊は渡河・道路啓開作業ににあたり、海州に進撃、11月26日、徐州に帰還します。
12月4日、師團の豊碭銅作戰に第一中隊から抽出の集成1個小隊(庄司見習士官)が参加、豊碭銅周辺の共匪を撃滅し、26日、聯隊に復帰します。
28日、集成1個小隊(庄司見習士官)は金子支隊(歩八十一聯隊長・金子篤大佐)指揮下に編入され、師團の第二次皖中駐作戰に参加、浦口より長江を遡上し沈家巷付近に上陸、合肥東方に進撃し梁園鎮の蒋軍拠点に攻撃を開始しますが、堅陣に拠る敵の激烈な銃砲火に損害が増加、爆撃機2機の増援により敵特火点、城壁を爆砕、空陸の攻撃により敵を殲滅、11日、小隊は聯隊に復帰します。

昭和18(1943)年1月1日、師團は除州防衛大演習を実施します。
18日、朧海線に南下中の共匪攻撃のため、第二中隊は開封-商邱間に進撃し、共匪を攻撃、朧海線を防衛、25日、帰還します。
2月7日、師團は洪澤湖北東地区の新四軍撃滅のため蘇淮作戰を発動しますが、敵兵は早期に撤退したため敵拠点を撃破し、3月15日、徐州に帰還します。
16日、引き続き洪澤湖北西六塘河周辺地区の新四軍撃滅のため六塘河作戰を実施、陣地構築、交通路啓開にあたり、4月7日、帰還します。

5月、聯隊は編成改正、正定において復帰した工兵第百十、第百三十六聯隊より1個中隊(大島福徳中尉)が編成され、第三中隊要員として転入、第一中隊(岡勉少尉)、第二中隊(平松高知少尉)、第二中隊器材分隊(池野誠三伍長)、第三中隊の編制になります。

7月1日、師團は第十二軍より支那派遣軍戦闘序列に隷属転移します。

7月、陸海軍はブーゲンビル島の線で米軍の反攻を拒止すべく、8月15日、参謀本部において行われた陸海軍合同兵棋演習の結果、第十七師團の南太平洋方面への増派が決定します。
20日、第二中隊は上海への移動準備を開始、25日、設営隊が呉松に出発、29日、第二中隊は除州を出発し呉松に移駐し、宝山大場鎮、四馬路、揚樹甫等において耐暑行軍演習、呉松砲台において瓦斯演習、クリークにて水泳訓練等南方作戦の訓練を実施します。

8月18日、第十七師團は大本營豫備隊となります。

25日、第二中隊は呉松より黄浦江の昭和島兵舎(船舶工兵隊兵舎)に移駐、29日、聯隊本部・第一・第三中隊は除州を出発し、昭和島兵舎に移駐、輸送船から大発への移乗・上陸訓練、江湾競馬場において対空訓練を実施、夏用被服、器材の整備を実施します。

9月6日、第二中隊は「伊支隊」(第十七歩兵團長・木島袈裟雄少将)に編入され第八方面軍(今村均中将、ラバウル)戦闘序列に隷属転移しますが、11日、大本營命の変更により「伊支隊」の編制は解除され、同日、第十七師團は第八方面軍戦闘序列に隷属転移されます。

聯隊は編制改正され聯隊長(糸川儀一中佐)、第一中隊(服部省三中尉:4個小隊)、第二中隊(川根柳一中尉:四個小隊・器材1個分隊)、第三中隊(大島福徳中尉:四個小隊・含器材小隊)となります。

9月23日、第二中隊は師團第一梯団として上海昭和島兵舎を出発、呉松鉄道桟橋より特設潜水母艦「平安丸」5,640名、特設巡洋艦「護國丸」1,850名、同「清澄丸」1,300名、水上機母艦「秋津洲」500名、駆逐艦「山雲」他2隻130名に分乗、24日、上海を出航(海軍呼称「T二號輸送」します。
10月2日、トラック島を経由、5日1000、ラバウル港に入港し上陸、師團は第八方面軍直轄となり、工十七第二中隊は赤根岬に移駐しブーゲンビル島への渡航を待機します。

10月7日、第四小隊(平松小尉)は平島支隊(歩五十四聯隊長・平島周平大佐)に編入され、歩五十四第三大隊とともに駆逐艦に乗艦しガスマタ沖に上陸、小隊は折畳舟により大隊をリンデンに揚陸後、リンデン-ガスマタ地区の陣地構築、道路構築にあたり、舟艇隊(福島軍曹)は龍田河河口に布陣しスルミ湾周辺の海上物資輸送等にあたります(昭和19年2月24日「カ號作戰」発令後、ウバイに転進、第二中隊に復帰)。
12日、第二中隊はマーカス-ツルプ方面の戦況が逼迫してきたためブーゲンビル島進出は中止され、赤根岬よりラバウル港丸木桟橋東に移駐します。

10月12・21日、第二(軽巡「多摩」・「木曽」967名)・第三梯団が上海を出航(「T四號輸送」)、22日、第二梯団輸送中の特設巡洋艦「粟田丸」が久米島付近において米潜グレイバックの雷撃を受け沈没、歩八十一第一大隊、野砲二十三聯隊本部、師團通信隊698名(工十七の1個小隊50名乗船、49名散華)を失う悲運に見舞われます。
19日、「多摩」・「木曽」はトラック島経由、21日、夜敵機来襲により「木曽」被弾小破するもラバウルに入港、24日、第二中隊は駆逐艦3隻に分乗しガブブに前進するも、敵機来襲により駆逐艦1隻が被弾したためラバウルに引き返し、26日、再度出航、27日、ガブブに上陸し敵機来襲下、陣地構築、道路啓開にあたります。

27日、師團司令部がガブブに上陸、第二中隊は司令部の陣地構築にあたります。
11月1日、第八方面軍は第一次ビスマルク作戰を発動、8日、寺本小隊がタラセナ方面の斥候に出発、21日、ガブブに帰還、25日、道路偵察隊(川根中尉)はニューブリテン島横断道路偵察を終えガブブに帰還します。

4日、「護國丸」がラバウル入港、工兵第十七聯隊主力はラバウルに上陸し、田の浦に移駐しますが、5日、揚陸作業中に敵機来襲、聯隊長・糸川中佐は負傷しラバウル海軍病院に収容されます(11月29日、復帰)。
11月21日、聯隊主力は駆逐艦に乗艦しラバウルを出航、聯隊本部・第一中隊はガブブに、第三中隊はブーゲンビル島に上陸し、ガブブの第二中隊は聯隊に復帰、ガブブ周辺の陣地構築、道路構築作業にあたり、機工小隊(高嶋少尉)はクイムムに移駐し師團海上輸送隊として、資材他の海上輸送にあたります。
12月2日、カビユル川偵察隊(川根中尉以下20名)は折畳舟によりガブブからクイムムを経由、ウバイに進出、カビユル河を訴状し、同川周辺の調査偵察を実施、28日、ガブブに帰還します。
15日、1個小隊(柿内中尉:本部・第二中隊より抽出)はウバイの調査偵察を実施、20日、ガブに帰還します。

11月15日0530、米1個連隊がマーカス岬に上陸、12月26日、米第一海兵師團がグロスター岬の東岸ナタモ、西岸タワレに上陸を開始します。

28日、師團は敵の上陸が予想されるガスマタに対し、補給路整備を聯隊に下命、糸川聯隊長は第二中隊長・川根中尉を作業隊長に任命しガブブ-ガスマタ間の自動車道構築、第一中隊長・服部中尉にガブブ-タセア間の道路整備、藤原小隊にガブブ-タラセア間の機動路構築整備作業を下命します。 
30日、第二中隊はガブブを出発、31日、ニューブリテン島北岸のウバイ、昭和19(1944)年1月1日、ナカナイ山脈を踏破、南岸ガスマタに前進、100kmに及ぶ補給自動車道構築を開始します。 
4日、聯隊本部・第一中隊はウバイに到着、連日豪雨の中、道路開設にあたりますが、敵機の来襲により糧食補給が途絶え疲労により体力が消耗、熱発患者が続出するなか、2月、ナカナイ山頂に到る道路が完成(稲妻坂と呼称)、以降尾根筋に沿った道路開設にあたります。

2月上旬より中旬にかけ、ラバウル及び周辺要地に対する米軍の爆撃は増加、第十七師團への補給が困難な状況になったため、2月23日、方面軍は師團のラバウル転進(カ號作戰)を決定します。
米軍はガスマタ上陸を企図し、連日砲爆撃を実施します。 

24日、師團長・酒井康中将はマーカス岬防衛の小森大隊(歩八十一第一大隊・小森政光少佐)、ツルブ防衛の松田支隊(歩兵第六十五旅團長・松田巌少将)、ガスマタ防衛の平島支隊にラバウルへの転進を下命するとともに、工十七に転進機道路啓開を下命します。
聯隊は自動車道路構築作業を中止し平島支隊転進のため兵力機動路〈担送路〉を構築の後、聯隊はウバイに集結(平島支隊配属の平松小隊は第二中隊に復帰)、ウバイ-ラバウル間500kmに及ぶ坦送路啓開を行いつつ転進、師團の転進を察知した米軍の空海攻撃に加え匪賊の襲撃を受けつつ、糧食は欠乏し未開の密林を泥濘に悩まされながら河川に徒歩橋架橋、渡河設備構築を実施します。
4月25日から5月6日にかけ、聯隊は方面軍収容地のシナップに到着、患者はクラナクネイ第百三兵站病院他に収容、被服類の支給を受けラコトブに移駐、5月、ラバウル周辺の陣地構築、道路構築・補修作業にあたります。

7月、ラコトブより小坂(糸川谷)に移駐し、師團及び自隊、駿河台に砲兵陣地構築及び構築指導、作戦道路構築、富士見・小坂・坂本・岡本道等、各主要道路の補修作業にあたりつつ、対戦車攻撃訓練、自活のため密林の伐開農耕作業、製塩作業にあたります。

昭和20(1945)年5月、聯隊は北飛行場西方の朝日丘に移駐、ケラバットの歩五十三陣地強化のため、北飛行場付近の陣地、タロビ農場に製特火点陣地構築を開始します。
7月10日 第二中隊は、西崎・喜和岬付近に配置された海龍隊(元空母乗員で編成された海軍部隊)のため敵空襲下、魚雷射堡の構築を開始、14日、第一射堡が完成し、引き続き第二射堡の構築を開始するなか、8月16日、停戦を迎えました。

9月2日、第八方面軍司令官・今村均大将は英空母「グロリー」において豪州第1軍司令官・スターデイ中将との降伏調印式に臨みます。
9日、聯隊は軍命令により兵器・弾薬をラバウル港内南岬沖において処分作業にあたります。
10日、豪第11師団(イーサ少将)がラバウル上陸、聯隊は西貿易店ガンバライラに移され自活のため農耕を開始、豪軍により使役されます。
昭和21(1946)年4月16日、ココボに移送され、21日、海防艦「隠岐」に乗艦しラバウルを出航、グアム島を経由し、30日、浦賀に上陸、横須賀海軍砲術學校に宿営し、5月2日、復員完結します。


工兵第百十聯隊(鷺三九一五)
第百十師團工兵隊( 〃 )
昭和13(1938)年6月16日、工兵第十聯隊留守隊に動員下令、動員完結(原田長十郎大佐)、第百十師團(桑木崇明中将)隷下に編入されます。

編成完結後、第百十師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入され、7月、岡山を出発、塘沽に上陸し、20日、河北省北部を管轄とし冀東平津地区の警備、共匪討伐にあたります。
7月20日、大行山脈一帯の共産軍討伐のため師團の冀東作戰、9月19日、北部山西作戰に参加、昭和14(1939)年2月、北支那派遣軍の冀中作戰に師團とともに参加、5月、師團の固安作戰、6月14日、保定周辺の掃討戦、11月、大行山嶺粛正作戰に参加、淶源南方地区から阜平地区まで進撃し共匪に大損害を与えます。

8月25日、第十師團の姫路帰還に伴い警備地区を引き継ぎ、河北省南部に移駐します。
師團は第十二軍隷下となり、黄河河口付近の警備にあたります。
昭和15(1940)年10月、第十二軍の秋季魯南作戰に師團とともに参加、12月16日、冬季冀西作戰に参加するなど共匪粛清を実施します。
昭和18(1943)年6月18日、聯隊は第百十師團工兵隊に改編(願念仙一中尉)されます。

昭和19(1944)年4月、黄河北岸の輝県、修武付近に集結、20日、師團は第十二軍の京漢作戰に第一線兵団として参加、軍の右翼隊として敗走する蒋介石軍(以下、蒋軍)を追撃し、挺進隊として先行させた歩百三十九が22日、密県の敵堅陣を突破し、密県北方高地を攻略します。
23日、師團は塔山から密県に渡る要線を確保、鄭州平原における軍の後方連絡線を援護します。

第十二軍は南下し許昌を攻略、次いで北上し洛陽に進撃、師團は蒋軍を拘束すべく5月1日、密県を出撃、蒋軍を撃破しつつ西進し、登封、大金店を攻略します。
19日、歩百三十九第一大隊は第六十三師團の指揮下に入り、24日、第十二軍の洛陽城の攻撃に参加、25日、洛陽を攻略し、支那第一戦区軍(湯恩泊)に大打撃を与えます。
洛陽攻略後、師團は洛陽-鄭州道を確保するため洛陽南西の宜陽、臨汝地区に屯営し、警備にあたるとともに「三悪(焼くな、殺すな、犯すな)追放指令」を徹底し民心を把握、鎮村自衛組織を育成強化し治安維持、民心の安定に努めます。

昭和20(1945)年3月、我が補給線を脅かす米支連合空軍の拠点である老河口を攻略するため第十二軍の老河口作戰に参加、蒋軍を撃破しつつ南下、30日、西峡口城を攻略します。
4月5日、第十二軍は支那第一戦区軍(14個師団)に進撃を阻まれ、包囲にかかられたため、持久戦に転じるべく魁門関付近の要地を攻略し蒋軍と激戦を展開します。

4月29日、師團は戦勢の転換を図るため攻勢に転じますが、数に勝る蒋軍に阻まれ攻勢は遅滞、再び持久戦に転じます。
7月、第百十五師團と守備を交替し、洛陽に移駐し、8月15日、停戦を迎えます。


工兵第五十四聯隊(兵一〇一一八、中部第五十二部隊)
昭和15(1940)年8月1日、工兵第十聯隊の滿洲移駐が決定、工兵第十聯隊に工兵第五十四聯隊の編成下令、7日、編成完結(山村兵衛大佐)し、第五十四師團(秋山義允中将、姫路)隷下に編入され教育、訓練にあたります。

昭和18(1943)年2月17日、第五十四師團(片村四八 中将、姫路)に動員下令、3月8日、聯隊は動員完結(太田智中佐、以下913名)、同日、岡山を出発し宇品に移動、9日、宇品を出航、4月3日、昭南島(シンガポール)に上陸し、タイ国に移駐、泰麺聯接鐡道の建設にあたります。
10月25日、泰麺聯接鐡道が完成、11月25日、同鐡道によりビルマ国境を越え、26日、第五十四師團の防衛担当するビルマ西南海岸に集結、パズンベイからグワ、パゴタポイント、イラワジ河口までの陣地構築、指導、アラカン山脈の兵力機動路である第一軍道、第二軍道の構築にあたります。

昭和19(1944)年1月7日、第十五軍(牟田口廉也中将)はウ號作戰(インパール作戰)の実施を決定、2月3日、第五十五師團はインド国境付近の英印軍撃滅を目指したウ號作戰の支作戦であるハ號作戰(第二次アキャブ作戰)を開始します。
5日、第五十五師團はシンゼイワ盆地に進撃しますが英印軍の頑強な円筒陣地に阻まれ攻撃は遅滞、23日、大損害を受けプチドン-モンドウに転進します。

1月30日、第二十八軍は第五十四師團に第五十五師團の後方連絡線確保を下命、師團は木庭支隊(歩百十一聯隊長・木庭知時大佐)を編成、工兵第五十四聯隊は支隊に編入されアキャブ北方のミヨホンに集結、聯隊は進撃路を啓開しつつカラダン渓谷に進撃しラマドウ、カラダンの英印軍を激戦の末撃破、敗走する英印軍を追撃し、4月11日、ミザワ付近の英印軍を撃破、カデット、ダルトメを経て、5月6日、スワイングを攻略、第五十五師團の後方連絡線を確保し、5月31日、師團に復帰します。

6月3日、聯隊は師團が担当するアキャブ、ミエボン半島、カンゴー地区、ラムレ島に陣地を構築、英軍の侵攻に供えます。

昭和20(1945)年1月2日、英印軍第25師団がアキャブに上陸、英第15軍団がカラダン河谷、ミエボン半島、ラムレ島に上陸を開始、16日、カンゴーが突破され、2月16日、戦車を伴う英印軍がタマンドに侵攻、師團は各所で英軍の拒止にあたり昼夜激戦を展開します(完作戰)。

3月10日、第二十八軍は完二號作戰を発動、師團はアラカン山系以西のアキャブ-ダンカップ防衛と侵攻する敵の撃滅を下命され、師團は一挙に英印軍を撃破すべく主力をタマンド南東のアン高地に後退集結、4月8日、追撃して来た英印軍に攻撃を開始しレモーで英印軍を撃破しレモーを攻略、敗走する英印軍を追撃し、11日、シヤッコンで退路を絶った英印軍と激戦を展開、13日、英印軍はタマンドに撤退を開始しますが、日没となり補足殲滅には至らず、14日、隷下部隊をアンに集結します。

英アフリカ第81、82師団のイラワジ河畔南下を阻止すべく、師團はアラカン山脈以西の英印軍を拒止するためキャクパタン-ダンカップ付近に陣地を攻略し、南下してきた英アフリカ第82師団を地形を利用し拒止、主力は歩百五十四を先遣隊とし山脈東側のアランミヨに転進を開始、英印軍の南下に備えます。

5月6日、師團はアラカン山脈第一軍道東側(イラワジ川西岸)のカマ付近に集結、聯隊は渡河準備を開始、20日、英軍の砲撃下、イラワジ河を舟艇により渡河を開始、25日、渡河に成功、英印軍包囲の間隙を突破し、27日、3縦隊となって英軍の追撃を受けながら、29日、ペグー山系西側のプロームに集結します。
6月末、第二十八軍の転進援護である邁作戰準備のため、マグエ-パウガン西高地-六〇九高地を攻略し英印軍の攻撃を撃退しますが、マラリアの発生により多くの犠牲者が出てしまいます。

14日、師團は悪疫蔓延と英軍に包囲される危険が生じたため、3縦隊となりペグー山系に機動を開始、聯隊は過労、糧食欠乏、マラリヤ発生に加え豪雨による泥濘に苦闘しながら師團の転進路を啓開、多くの兵員を失いながら7月中旬、ペグー山系東端に到着します。
20日、師團主力はビユー、一部はトングーからそれぞれ出発、シッタン平地を突破し、23日、ウェイジーに集結、英軍の急襲を受けながら、聯隊はシッタン河渡河を実施します。
英軍に加え、背反したビルマ愛国軍(旧ビルマ独立義勇軍)の襲撃を受け、また濁流となったシッタン河渡河により多くの兵員を失いながらも師團隷下部隊は、8月9日頃、イワガレ付近に集結、シッタンに向け南下中、23日、シュウエジンにおいて停戦を迎えます。
9月、聯隊はマルタバン地区に集結、英軍により使役、11月、タドン県モバリンに移送され使役、昭和21(1946)年7月、ペグー県パヤジにおいて使役、9月、ラグーン郊外において使役され、昭和22(1947)年5月22日、ラグーンを出航、25日、宇品に入港、28日、上陸し復員完結します。


編成(歩兵以外、大隊以下)、補充を担当した部隊>
第十師團 架橋材料中隊(昭和12年9月21日)

野戰電信第三十一中隊(昭和12年7月15日)

野戰電信第三十二中隊(昭和12年7月18日)

第六號通信隊(昭和12年8月30日)

第二野戰築城部(昭和12年11月10日)

架橋材料第二十八中隊(昭和16年7月24日)

獨立工兵第十九聯隊(昭和16年8月2日)

獨立混成第四聯隊工兵中隊(昭和16年9月17日)

第三戰車團工兵隊(昭和16年9月29日)

渡河材料第十五中隊(昭和16年7月1日)

第二野戰築城隊(昭和19年7月18日)


主要参考文献
『工兵第十大隊轉營ノ件』(昭和2年4月20日 陸軍省軍務局 肆第五〇五号)

『岡山県郷土部隊史』 (昭和41年 岡山県郷土部隊史刊行会)

『岡山市史 第6巻』 (昭和50年:昭和13年復刻 岡山市役所)

『工兵第十七聯隊・戦士の記録』(平成6年11月 工兵第十七聯隊・戦士の記録編纂委員会編)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『岡山大学埋蔵文化財調査研究センター紀要 「津島岡大遺跡の調査研究」』 (平成19年 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター)

『岡山大学 埋蔵文化財研究センター報 NO36 兵どもが夢の跡』(平成18年10月 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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