当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

岡山陸軍兵器補給廠

岡山県岡山市に所在する岡山大学津島キャンパスに岡山陸軍兵器補給廠がありました。
岡山陸軍兵器補給廠 H 炊事場(左)・G(右) 北東から (3)(岡山)
▲岡山大学に遺る炊事場

【探索日時】
平成20年7月27日、平成24年3月21日、4月20日






第十七師團関連諸施設配置
第十七師團司令部 岡山 中心 現在①~⑩(岡山)
▲師團司令部周辺と遺構の配置
※緑文字が当記事の紹介施設
①a 岡山聯隊區司令部 (旧第十七師團司令部)
①b 歩兵第百五十四聯隊 (旧歩兵第三十三旅團司令部)
①c     〃         (岡山聯隊區司令部 元位置)
②      〃         (旧歩兵第五十四・十聯隊)
③  工兵第五十四聯隊 (旧輜重兵第十七大隊・工兵第十聯隊)
④d 岡山陸軍兵器補給廠 (旧岡山陸軍兵器支廠)
④e 岡山陸軍兵器補給廠 南倉庫 (旧岡山陸軍兵器支廠火藥庫)
⑤    〃            〃   (旧工兵第十七大隊・同第十聯隊)
⑥  岡山陸軍兵器補給廠 北倉庫 (旧山砲兵第二聯隊)
⑦     〃           〃   (旧野砲兵第二十三聯隊)
⑧     〃          倉庫   (旧騎兵第二十一聯隊)
⑨  旧岡山午砲臺
⑩  真備高等女學校 (旧岡山衛戍監獄)
※名称は昭和16年頃


遺構について※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
④d 岡山陸軍兵器補給廠 (旧岡山陸軍兵器支廠)
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定し、用地を寄付・買収により取得します。

第十七師團の新設に伴い隣接地に兵器支廠の設置が決定、11月10日、岡山陸軍兵器支廠は安禅寺(岡山市富田町:戦災消失)を間借りして仮庁舎とし、明治41(1908)年2月10日、新事務所が竣工、8月20日、移転します。

大正7(1918)年6月1日、岡山陸軍兵器支廠は第十七師團兵器部に改編されます。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)により第十七師團が復帰したのに伴い、6月1日、第十七師團兵器部は陸軍兵器本廠 岡山出張所に改編され、第十七師團管下にあった騎兵、輜重兵、山砲兵、野砲兵各兵営を移管されます。

昭和2(1927)年5月10日、旧輜重兵第十七大隊の兵営と工兵第十大隊(旧工兵第十七大隊)の兵営を交換します。
昭和7(1932)年8月8日、陸軍兵器本廠 岡山出張所は岡山陸軍兵器支廠に改編されます。
昭和9(1934)年、法界院駅から支廠内に側線が敷設されます。
昭和15(1940)年3月30日、岡山陸軍兵器補給廠に改称します。
昭和20(1945)年4月18日、岡山陸軍兵器補給廠から基幹要員を転出し香川県仲多度津郡善通寺町に善通寺陸軍兵器補給廠を新設、29日、岡山陸軍兵器補給廠は廣島陸軍兵器補給廠岡山分廠に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月23日、岡山に進駐して来た米第6軍第24師団に接収され、昭和21(1946)年4月、米軍に代わり英軍が駐留、昭和22(1947)年3月、英軍は呉に移駐しますが、施設は引き続き連合軍管理下に置かれます(以降の経緯から昭和24年頃に接収解除されたと思われます)。
昭和24(1949)年5月31日、国立岡山大学の設立に伴い旧兵器補給廠(本部)は教育部用地になりましたが、現在は学生会館、一般教育棟、体育館等になっています。

遺構は何も遺されていない様です。


④e 岡山陸軍兵器補給廠 南倉庫 (旧岡山陸軍兵器支廠火藥庫)
第十七師團の新設に伴い岡山陸軍兵器支廠 火藥庫が設置され、北東端に土塁に囲まれた火薬庫が並んでいました。
大正14(1925)年5月1日、第十七師團の復帰に伴い陸軍兵器本廠 岡山出張所に移管されます。

昭和24(1949)年5月31日、国立岡山大学の設立に伴い運動場、野球場、陸上競技場、テニスコートになり現在に至ります。

遺構は何も遺されていない様です。


⑤  岡山陸軍兵器補給廠 南倉庫 (旧工兵第十七大隊・同第十聯隊)
第十七師團の新設に伴い、明治41(1908)年1月18日、工兵営が竣工、9月17日、工兵第十七大隊が広島から転営してきます。
大正4(1915)年3月16日から大正6(1917)年5月10日、工兵第十七大隊の滿洲駐箚に伴い同大隊留守隊が編成されます。
大正14(1925)年5月1日、第十七師團とともに工兵第十七大隊も復帰、3日、京都(福知山)から工兵第十大隊が転営してきます。
昭和2(1927)年5月10日、旧工兵第十七大隊の兵営が狭隘で兵員、器材の収容に不便な事から工兵第十大隊は旧輜重兵第十七大隊の兵営に転営、旧工兵営は陸軍兵器本廠 岡山出張所に移管されます。

昭和24(1949)年5月31日、国立岡山大学の設立に伴い岡山大学用地になりますが、旧工兵営のうち南側の大半を農学部の一部を間借りしていた岡山市立岡北中学校に売却、残り北側を岡山市に売却、昭和26年3月、岡北中学校が移転、4月、市営住宅が建設され、現在に至ります。

チ 井戸跡
岡北中学内の剣道場東側に内部が埋められた直径2.4mの円形石組(石材幅27cm)が遺ります。
「軍馬用井戸」と言われていますが、昭和2(1927)年の陸軍省軍務局の公文書・肆第五〇五号『工兵第十大隊轉營ノ件』付図ではこの辺りには下士官集会所及酒保の厠があり、軍馬に関する物は何もありません。
岡山陸軍兵器補給廠 チ 井戸跡(岡山)

※学校の許可を得て立ち入っています。


コ 境界石標
岡北中学南側の用水路にかかる橋の下に遺ります。
上部は欠損し下部の「用地」しか遺っていませんが、滅失部分は「陸軍」か「陸軍省」と思われます。
岡山陸軍兵器補給廠 カ 「用地」石標(岡山)

岡山陸軍兵器補給廠 ⑤西端の溝(岡山)
▲旧工兵営と旧師團兵器部との境には当時の物と思しき石組の側溝が遺ります。


⑥  岡山陸軍兵器補給廠 北倉庫 (旧山砲兵第二聯隊)
第十七師團の新設に伴い、明治41(1908)年2月10日、山砲兵営が竣工、9月19日、山砲兵第二大隊が善通寺から転営してきます。
大正4(1915)年3月16日から大正6(1917)年5月10日、山砲兵第二大隊の滿洲駐箚に伴い同大隊留守隊が編成され、12月1日、山砲兵第二大隊は聯隊に改編されます。
大正11(1922)年7月28日、「陸軍平時編制」が改正され、8月15日、山砲兵第二聯隊は復帰し、兵営は第十七師團管理下に置かれますが、大正14(1925)年5月1日、第十七師團の復帰に伴い陸軍兵器本廠 岡山出張所に移管されます。

昭和24(1949)年5月31日、国立岡山大学の設立に伴い野砲兵第二十三聯隊の一部とともに一般教養学部になり、現在は理学部、工学部になっています。

F 倉庫
岡山大学内に遺り、工学部教室として使用されています。
本来は東側に5倍ほどの長さがありましたが、大幅に減築されてしまっています。
岡山陸軍兵器補給廠 F 倉庫 南西から(岡山)
▲切断されている為、非常に不格好です。

岡山陸軍兵器補給廠 F 倉庫 北東から(岡山)
▲切断された側(写真左側)はトタン波板で塞がれています。


キ 営門門柱
岡山大学内に遺り、現在も通用門として使用されています。
山砲兵第二聯隊の営門です。
岡山陸軍兵器補給廠 キ 旧山砲兵第二大隊営門 南から(岡山)
▲状態は非常に良好で、両脇の土留も遺ります。

岡山陸軍兵器補給廠 キ 旧山砲兵第二大隊営門 西側 南から(岡山)
▲西側門柱の近影

岡山陸軍兵器補給廠 キ 旧山砲兵第二大隊営門 東側の金具(岡山)
▲東側門柱には門札を架けた金具も遺ります。


⑦  岡山陸軍兵器補給廠 北倉庫 (旧野砲兵第二十三聯隊)
第十七師團の新設に伴い、明治41(1908)年2月10日、野砲兵営が竣工、9月14日、野砲兵第二十三聯隊が広島から転営してきます。
大正4(1915)年3月16日から大正6(1917)年5月10日、野砲兵第二十三聯隊の滿洲駐箚に伴い同聯隊留守隊が編成されます。
大正14(1925)年5月1日、第十七師團の復帰に伴い陸軍兵器本廠 岡山出張所に移管されます。
移管後、旧野砲兵第二十三聯隊兵営一帯に弾藥科が所在し、前線から還送されてくる打殻薬莢の締直作業を実施していました。

昭和24(1949)年5月31日、国立岡山大学の設立に伴い理学部になり、現在は環境理工学部、教育学部になっています。

G 煉瓦造建物
岡山大学内に遺り、工学部教室として使用されています。
岡山大学埋蔵文化財研究所発効の資料では「衛兵所」となっていますが、入口でも無い場所に衛兵所があるのも疑問です。
建築時期は不明ですが、煉瓦造と言う事から兵営設置時期に建設されたと思われます。
岡山陸軍兵器補給廠 G 北東から(岡山)
▲北東から

岡山陸軍兵器補給廠 G 北から(岡山)
▲平成20年7月に訪問した時は写真の様に屋根が傷んで
  いましたが、その後修理、耐震補強がなされ上掲写真の様
  に綺麗になりました。

岡山陸軍兵器補給廠 G 東から(岡山)
▲東側
 よく見ると窓を塞ぎ、入口を小さくした跡が見えます。

岡山陸軍兵器補給廠 G 南東から(岡山)
▲北側の窓

岡山陸軍兵器補給廠 G 西から(岡山)
▲西側
 こちらも窓を塞ぎ、入口を小さくした跡が見えます。


H 炊事場
岡山大学内に遺り、地域総合研究センターとして使用されています。
建築時期は不明ですが、煉瓦造と言う事から兵営設置時期に建設されたと思われます。
岡山陸軍兵器補給廠 H 炊事場 南西から(岡山)
▲南西から
 駐輪場が邪魔で見通せません。

岡山陸軍兵器補給廠 H 炊事場 南東から(岡山)
▲南東から
  こちらの建物も修理と耐震化がされました。

岡山陸軍兵器補給廠 H 炊事場 南側から(岡山)
▲南側の窓

岡山陸軍兵器補給廠 H 炊事場 北西から(岡山)
▲北側には調理所と思われる小部屋が出ています。
  左側に見えるのは上記Gの建物

岡山陸軍兵器補給廠 H 炊事場北側突出部 北から(岡山)
▲調理所と思われる小部屋


I 木造建物
岡山大学内に遺り、馬術部厩舎として使用されています。
岡山大学埋蔵文化財研究所発効の資料では「兵舎」となっていますが、敷地端に兵舎があるのも疑問です。
岡山陸軍兵器補給廠 I 兵舎 南西から(岡山)
▲南西から
  兵舎では無く倉庫と思われます。

岡山陸軍兵器補給廠 I 兵舎 北西から(岡山)
▲北西から

岡山陸軍兵器補給廠 I 兵舎 北から(岡山)
▲北側には大きな開口部がありますが、元々あったものかは不明です。

岡山陸軍兵器補給廠 I 兵舎 内部(岡山)
▲内部は洋小屋組が見られます。

岡山陸軍兵器補給廠 I 兵舎 内部 (2)(岡山)
▲馬がいてるのでフラッシュ撮影は厳禁です!

※馬術部の方の許可を得て立ち入っています。


J 建物
岡山大学内に遺ります。
コンクリート製で縦長の窓を改造した跡が遺りますが、当時の物か不明です。
岡山陸軍兵器補給廠 J 南西から(岡山)


ク 軍人勅諭下賜五十周年記念碑
岡山大学内に遺ります。
昭和7(1932)年7月24日、聖訓五箇条(所謂、軍人勅諭)下賜50周年を記念して建立されました。
時期からして陸軍兵器本廠岡山出張所職員により建立されたと思われます。
岡山陸軍兵器補給廠 ク 軍人勅諭下賜五十周年記念碑 (3)(岡山)

岡山陸軍兵器補給廠 ク 軍人勅諭下賜五十周年記念碑 (2)(岡山)
▲砲身を模した上部の石材部分には「勅論御下賜五十周年記念」と刻字されています。

岡山陸軍兵器補給廠 ク 軍人勅諭下賜五十周年記念碑(岡山)
▲正面には軍人が守るべき忠節・礼儀・武勇・信義・質素の石版が嵌めこまれています。


ケ 北倉庫第一通用門
片方だけですが岡山大学内に遺ります。
野砲兵第二十三聯隊兵営時代もこの辺りに門があった様ですが、門札が「北倉庫」となっている事から陸軍兵器本廠岡山出張所時代以降の物の様です。
岡山陸軍兵器補給廠 ケ 北倉庫第一通用門門柱 南から(岡山)
▲残念ながら片方の門柱しか遺されていません。

岡山陸軍兵器補給廠 ケ 北倉庫第一通用門門柱 南から (2)(岡山)
▲門札「北倉庫第一通用門」の近影

岡山陸軍兵器補給廠 ケ 北倉庫第一通用門門柱 北西から(岡山)
▲敷地内から見た門柱

岡山陸軍兵器補給廠 ケ 北倉庫第一通用門のコンクリート製橋(岡山)
▲門柱南側には当時の物と思しきコンクリート橋も遺ります。


コ コンクリート塀
岡山大学内の弓道場付近に遺ります。
南側の「くの字」部分と北側の直線部分は微妙に材質が異なることから、北側は戦後の物かも知れません。
目隠し用とも言われていますが、この辺りは弾藥科が所在し、前線から還送されてくる打殻薬莢の締直作業を実施していたため、防爆用の塀と思われます。
岡山陸軍兵器補給廠 コ 塀 南から(岡山)
▲外側(南東)から

岡山陸軍兵器補給廠 コ 塀 西から(岡山)
▲内側(西)から
  この辺りは弓道の射場になっているので、見学の際は射られない様に注意して下さい。


サ 煉瓦基礎
岡山大学内の弓道場付近に遺ります。
元々何があったのか不明です。
岡山陸軍兵器補給廠 サ 建物基礎?(岡山)


⑧  岡山陸軍兵器補給廠  倉庫   (旧騎兵第二十一聯隊)
第十七師團の新設に伴い、明治40(1907)年12月10日、騎兵営が竣工、9月24日、騎兵第二十一聯隊が習志野から転営してきます。
大正4(1915)年3月16日から大正6(1917)年5月10日、騎兵第二十一聯隊の滿洲駐箚に伴い同聯隊留守隊が編成されます。
大正14(1925)年5月1日、第十七師團の復帰に伴い陸軍兵器本廠 岡山出張所に移管されます。

昭和24(1949)年5月31日、国立岡山大学の設立に伴い西側が農学部付属実習場、東側が岡山地方気象台になり、現在は西側が実習場、東側が岡山合同宿舎になっています。

旧騎兵営内に遺構は何も遺されていない様です。

岡山陸軍兵器補給廠 ⑧ 西側の溝(岡山)
▲敷地西側には当時の物と思しき石組の側溝が遺ります。


衛戍部隊
岡山陸軍兵器補給廠
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、第十八師團(久留米)とともに第十七師團の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定します。
第十七師團の新設に伴い隣接地に兵器支廠の設置が決定、10月23日、廣島陸軍兵器支廠に岡山陸軍兵器支廠の新設準備を下令、11月10日、岡山陸軍兵器支廠は安禅寺(岡山市富田町:戦災消失)を間借りして仮庁舎とし、廣島陸軍兵器支廠より事務を継承(荒木事吉少佐)、明治41(1908)年2月10日、新事務所が竣工、8月20日、移転します。
兵器支廠は銃火器、砲具、弾薬、通信・架橋資材、輜重用資材の保管・手入・受発送を実施、砲兵工廠・火薬製造所で製造された兵器、弾薬、火具類を受入保管し、平時は各部隊の演習用、戦時は動員用兵器弾薬を支給しました。

大正7(1918)年5月30日、勅令第百七十五號『陸軍兵器廠條例』改正、同百七十六號『陸軍兵器部令』により、6月1日、岡山陸軍兵器支廠は第十七師團兵器部に改編されます。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)により第十七師團が復帰したのに伴い、6月1日、岡山陸軍兵器支廠は陸軍兵器本廠 岡山出張所に改編され、第十七師團管下にあった師團兵器部、騎兵第二十一聯隊、輜重兵第十七大隊、山砲兵第二聯隊、野砲兵第二十三聯隊各兵営を移管されます。

昭和2(1927)年5月10日、旧輜重兵第十七大隊の兵営と工兵第十大隊(旧工兵第十七大隊)の兵営を交換します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、昭和7(1932)年7月26日、業務拡張、内容の充実に伴い勅令第百七十九號『陸軍兵器廠令』改正により、8月8日、陸軍兵器本廠 岡山出張所は岡山陸軍兵器支廠に改編されます。

昭和9(1934)年9月21日、室戸台風により岡山市街は甚大な水害を受け、支廠でも倉庫3棟が倒壊、倉庫保管品の下段が浸水汚損してしまいます。
同年、法界院駅から支廠内に側線が敷設され鉄道輸送が容易になります。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、砲弾調整作業、出征部隊への兵器・弾薬交付作業が繁忙となったため、岡山市國防婦人會、各青年團、及び各中學校生徒の勤労奉仕隊に応援を依頼します。

昭和15(1940)年3月30日、勅令第二百九號『陸軍造兵廠令』改正により陸軍兵器廠と陸軍造兵廠が統合され陸軍兵器廠に改編された事から、兵器支廠は兵器補給廠に改称、岡山陸軍兵器支廠も岡山陸軍兵器補給廠に改称します。

昭和16(1941)年12月、岡山東陸軍射撃場に接した三軒屋に新設備が一部完成したため、昭和17(1942)年2月、弾藥科が移転します。
当初、補給廠は弾薬類の発送に宇品港(広島)、大阪港を利用していましたが、輸送が増大し不便な事から、昭和17年1月10日、近隣の宇野港田井を改修し宇野港出張所を開設、事務所、火薬庫、桟橋、側線を建設します。

昭和17(1942)年3月、弾藥科設備を移転、岡山陸軍兵器補給廠 三軒屋分廠(通称:三軒屋部隊)を開設(10月9日、勅令第六百七十七號『陸軍兵器補給廠令』施行に伴い10月15日、「三軒屋填藥所」に改称)します。

昭和19(1944)年7月7日、我が国はサイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、B29による本土空襲が迫る中、陸軍兵器行政本部は比較的軍需工場が少なく、空襲の危険性が低いと思われる岡山陸軍兵器補給廠に各兵器補給廠の保管品の疎開を開始します。
岡山陸軍兵器補給廠は疎開品の格納に対応し、また空襲に備えるべく県下の不要休眠施設(農業倉庫、公会堂、米蔵、酒蔵、い草蔵、学校講堂など)を借受、また和気郡本庄村、久米郡福渡町、御津郡上建部村、吉備郡總社町、淺口郡六条院村、児島郡八濱町、岡山市東山峠に横穴格納壕を掘削し兵器、弾薬、燃料などを格納、各地域に常駐班を設置し管理しました。
岡山陸軍兵器補給廠の各班は以下のとおり
・玉島班・・・玉島を管理
・笠岡班・・・笠岡、六条院〃
・備中班・・・総社、常盤、服部、阿会、三須、美袋、高梁〃
・美作班・・・久世、勝山、落合、川東〃
・津山班・・・津山、高野、芳野、田邑〃
・福渡班・・・福渡、神目、建部、金川、宇垣〃
・早島班・・・早島、妹尾、茶屋町〃
・和気班・・・本庄〃
・赤磐班・・・瀬戸、下市、西山〃
保管品は軽戦車、装甲車、輜重車、車輪、各種燃料、潤滑油、小銃、馬具、防毒面、毛布、工兵器材、操舟・機舟、火薬、地雷部品、薬莢、導火索、迫撃砲弾、擲弾筒、擬製弾、瓦斯填実機などでした。

昭和20(1945)年4月18日、岡山陸軍兵器補給廠から基幹要員を転出し香川県仲多度津郡善通寺町に善通寺陸軍兵器補給廠が新設、29日、岡山陸軍兵器補給廠は廣島陸軍兵器補給廠岡山分廠に改編されます。

6月29日0243、B29爆撃機138機が岡山市に来襲、市街地は甚大な被害を受けますが、岡山分廠は旧騎兵営の倉庫3棟が焼失しただけでした。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の職員は職員72名、工員820名、兵135名でした。

10月12日、米第6軍第24師団先遣隊が岡山に進駐、23日、本隊が進駐を開始し、同日、補給廠は接収され、保管品のうち危険でない物は官公庁、公共団体、民間会社に払い下げられ、兵器・危険物は宇野港に配送され大槌島付近に海中投棄され処分されます。
11月10日、勅令第六百三十一號『臨時陸軍殘務整理部令』により『陸軍兵器補給廠令』は廃止され各兵器補給廠は復帰、第一復員省陸軍兵器行政本部殘務整理部が新編され、岡山分廠は同部廣島出張所岡山事務所に改編、復員官数名が残務処理に当たり、昭和21(1946)年2月、残務整理が完了し岡山事務所は閉鎖されます。


工兵第十七大隊
※拙ブログ 工兵第十聯隊 (旧輜重兵第十七大隊) 参照

山砲兵第二聯隊
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、第十八師團(久留米)とともに第十七師團の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定します。
9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第十七師團の新設、及び編合を定めます。
明治40年10月22日、山砲兵第十一聯隊(伴正雅中佐、善通寺)において山砲兵第二大隊の編成下令、31日、編成完結(新妻豪佐中佐)、11月10日、第十七師團各幹部は岡山市内各寺院を間借りして仮庁舎とし、第五師團から事務を継承します。
明治41(1908)年2月10日、新兵営が竣工、9月19日、大隊は善通寺から転営します。

明治43(1910)年11月13~17日、吉備平野で行われた陸軍特別大演習に参加の後、17日、岡山陸軍練兵場で挙行された観兵式に参加します。
大正4(1915)年3月11日、第十七師團の滿洲に駐箚が決定、24日、大隊は宇野港を出航、25日、大連に上陸、6月4日、奉天付近に移駐し警備にあたり、大正6(1917)年6月1日、岡山に帰還します。

大正6(1917)年12月1日、山砲兵第二大隊は聯隊に改編(藤井清水中佐)されます。

大正9(1920)年1月29日、ロシア国北部沿海州ニコライエフスク(邦人700を含む17,000名が居住/石川正雄少佐以下2個中隊280名が守備)を共匪(赤衛軍:パルチザン)4,000が包囲しロシア兵(白衛軍)、資産家、ユダヤ人2,500名を虐殺し尼港事件が発生します。
我が政府は在留邦人保護、及び権益確保のため2月、第七師團において救援隊を編成(多門二郎大佐)、続いて4月、北部沿海州派遣隊(津野一輔少将)を尼港に派遣します。
4月30日、聯隊に派遣隊山砲兵大隊の編成下令、5月4日、大隊の編成完結(向野守彦少佐、第一中隊・三浦彦蔵大尉、第二中隊・奥市彦大尉)、16日、岡山を出発、18日、宇品において樺太丸に乗船、日本海を北上し、23日、小樽港を経由しデカストリーに入港、6月3日、黒竜江河口右岸のフージに上陸、先に進撃していた救援隊と尼港を挟撃する大勢を取りましたが、共匪は我軍接近に捕縛していた守備隊生存者、邦人全員を虐殺、6月3日、市街地に放火し遁走したため、大隊は虐殺された邦人遺体を収容、整理します。
7月29日、北部沿海州派遣隊を基幹に薩吟嗹(サハレン)派遣軍が編成され、8月21日、尼港を出航し亜港に移駐、大正10(1921)年7月12日、亜港を出航し、青森を経由、22日、岡山に帰還し聯隊に復帰します。

大正11(1922)年7月28日、軍令陸乙第十二號『陸軍平時編制』改正により、山砲兵第二聯隊(林政次郎中佐)の復帰が決定、8月15日、山砲兵第二聯隊は復帰します。


野砲兵第二十三聯隊
※拙ブログ 野砲兵第十聯隊 参照


騎兵第二十一聯隊
※拙ブログ 騎兵第十聯隊 参照


主要参考文献
『岡山県郷土部隊史』 (昭和41年 岡山県郷土部隊史刊行会)

『岡山市史 第6巻』 (昭和50年:昭和13年復刻 岡山市役所)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『官報』

アジア歴史資料センター 各種史料

『岡山大学埋蔵文化財調査研究センター紀要 「津島岡大遺跡の調査研究」』 (平成19年 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター)

『岡山大学 埋蔵文化財研究センター報 NO36 兵どもが夢の跡』(平成18年10月 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
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