岡山陸軍病院
岡山県生涯学習センター「三学ぱる岡山」は岡山陸軍病院の跡地にあります。

▲三学ぱる岡山に遺る岡山陸軍病院の病舎
【探索日時】
平成24年3月21日

<第十七師團関連諸施設配置>

▲『大日本帝國陸軍陸地測量部測図』

▲師團司令部周辺と遺構の配置
※緑文字が当記事の紹介施設
⑪ 岡山陸軍病院
⑫ 岡山陸軍練兵場・岡山陸軍病院津島分院
⑬ 岡山偕行社
⑭ 岡山聯隊區司令官官舎
⑮ 岡山憲兵分隊
㉑ 呉海軍軍需部 岡山作業所 (昭和16年4月、片倉紡績㈱岡山工場を買収、増改築)
※名称は昭和16年頃
<遺構について>※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑪ 岡山陸軍病院
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定し、用地を寄付、買収により取得し、8月、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮・監督のもと兵営建設を開始します。
11月6日、岡山衛戍病院(矢島柳三郎二等軍医正)は薬師院を仮庁舎とし、第十七師團の編成を担当した第五師團から事務を継承し、明治41(1908)年8月21日、上伊福に庁舎が一部竣工し、移転します(竣工は10月30日)。
昭和11(1936)年11月2日、『勅令第三百八十七號「衛戍病院令」中改正』に伴い、11日、岡山衛戍病院は岡山陸軍病院と改称します。
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、岡山衛戍部隊が出征し、還送されてくる傷病兵が増加したため、岡山陸軍練兵場の南西隅に岡山陸軍病院 津島分院を開院します。
昭和20(1945)年6月29日0243、B29爆撃機138機が岡山市に来襲、市街地は甚大な被害を受け、岡山陸軍病院津島分院も全焼してしまいますが、患者は全員退避しており人的損害は皆無でした。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
停戦時の職員は病院長・三浦政義少将以下将校40、下士官36、兵92名、病床数1,462、分類は三等甲病院でした。
病院規模の割に病床数が多いのは湯郷、苫田、奥津、津山各臨時分院(いずれも設置時期、場所不明)が含まれているためと思われます。
昭和20(1945)年12月1日、陸軍省が第一復員省に改編されたのに伴い、岡山陸軍病院は厚生省に移管され、国立岡山病院に改編されます。
昭和21(1946)年6月10日、英印軍により接収され(昭和22年12月、接収解除)た後、昭和36(1961)年5月22日、岡山市南方に新病棟が竣工し移転、昭和38(1963)年4月、陸軍病院跡地に岡山県生涯学習センター、県立児童会館が開館し現在に至ります。
L 病舎
人と科学の未来館サイピア(旧県立児童会館)西側の高台にありました。
この記事を執筆するにあたりネットの地図(グーグルマップ、ヤフー地図)を見てみたところ、どちらの空撮にも写っておらず、最近破壊されてしまった様です。
名古屋陸軍病院の病舎の様に明治村に移築され保存される物もあれば、岡山の様に人知れず破壊される物もあり、非常に残念です。
前者はかなり特殊な例ですが・・・

▲病舎正面側(東側)
木造平屋、一部2階建てです。

▲南東から
病舎は高台にあり、余り見通しが効きません。

▲正面側の壁面
窓の形状から大正から昭和期に建設された様です。

▲裏側(北西から)
裏側には搬入口の様な大型の出入り口があります。

▲2階建て部分

▲大型の入口

▲裏側の壁面

▲内部
陸軍病院壕
岡山陸軍病院の近隣には同病院の地下壕が遺されています。
掘削時期は不明ですが、医薬品が格納されていたそうです。
壕口全てが住宅敷地内にあり、進入を許可して下さった方も市から入らない様に言われているそうなので、場所は伏せさせて頂きます。
地下壕は全長が約100m、壕口が3ヶ所あり、うち2ヶ所はコンクリート巻立てが施工されています。

▲陸軍病院壕 見取図
a 壕口
3ヶ所ある壕口のうち、唯一素堀のままで、現在は住民の方が物置として使用しています。
※この壕口から許可を得て進入しました。

▲右側の石積みは住民の方が積んだそうです。
高さがかなりある事から単なる医薬品の格納壕では無く、最終的には入院患者も収容する予定だったのかも知れません。
b 壕口
壕口から10m程コンクリート巻立て及び舗装が施工されており、壁面の補強は煉瓦状の石材で施工されています。
こちらも住民が資材置き場に使用していた様ですが、現在は殆ど片付けられています。

▲壕口はコンクリート巻立てが施工されています。
住民の方により軽く閉鎖されています。

▲内部から見たコンクリート巻立て
壕口の補強程度の巻立てです。

▲コンクリート巻立て部分の壁面部
煉瓦の様で煉瓦でない、謎の素材でできています。

▲入口には蝶番を外した痕跡が残ります。

▲壕床は突き当りまでコンクリート舗装がされています。

▲突き当りから壕口
大きなガラクタも無く、綺麗な状態です。
c 壕口
b 壕口と同様に壕口から10m程コンクリート巻立て及び舗装が施工されており、壁面の補強は煉瓦状の石材で施工されています。
a の突き当りからc壕口にかけてはガラクタが大量に投棄されており、しかも劣化している為、足が取られ通過が非常に困難です。

▲コンクリート巻立てが施工されており、壕口付近は物置に使用されています。

▲壕口上部

▲壕口両側には蝶番が遺り、当時は扉が付いていた様です。

▲ b と同じく煉瓦の様で煉瓦でない、謎の素材で壁面が施工されています。

▲雨風が当たるとボロボロになっていく様です。

▲こちらも壕床はコンクリート舗装されており、舗装は壕の外側一帯まで続きます。

▲内部から見たコンクリート巻立て

▲ a に出るにはこのガラクタを突破しなくてはなりません・・・

▲壕 内部
左側が a 、正面が c です。
d 切羽
b の突き当りからdにかけては壕床が高く、またズリも多く掘削中だった様です。

▲ a 最深部から d 方向
内部は崩落しているのでは無く掘削途中だった様で、ズリが遺ります。

▲ b 最深部から d 方向
b から d にかけたは一段上がっており、掘り始めたところだった様です。

▲ d に向かう部分は掘削中のため天井が低くなって(実際は床が高い)います。

▲ d 切羽
一応切羽の様ですが、右下に掘りかけの様な穴があります。

▲ d 一段高くなった場所から b (左)と c (奥)
<主要参考文献>
『岡山県郷土部隊史』 (昭和41年 岡山県郷土部隊史刊行会)
『岡山市史 第6巻』 (昭和50年:昭和13年復刻 岡山市役所)
『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)
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▲三学ぱる岡山に遺る岡山陸軍病院の病舎
【探索日時】
平成24年3月21日


<第十七師團関連諸施設配置>

▲『大日本帝國陸軍陸地測量部測図』

▲師團司令部周辺と遺構の配置
※緑文字が当記事の紹介施設
⑪ 岡山陸軍病院
⑫ 岡山陸軍練兵場・岡山陸軍病院津島分院
⑬ 岡山偕行社
⑭ 岡山聯隊區司令官官舎
⑮ 岡山憲兵分隊
㉑ 呉海軍軍需部 岡山作業所 (昭和16年4月、片倉紡績㈱岡山工場を買収、増改築)
※名称は昭和16年頃
<遺構について>※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑪ 岡山陸軍病院
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定し、用地を寄付、買収により取得し、8月、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮・監督のもと兵営建設を開始します。
11月6日、岡山衛戍病院(矢島柳三郎二等軍医正)は薬師院を仮庁舎とし、第十七師團の編成を担当した第五師團から事務を継承し、明治41(1908)年8月21日、上伊福に庁舎が一部竣工し、移転します(竣工は10月30日)。
昭和11(1936)年11月2日、『勅令第三百八十七號「衛戍病院令」中改正』に伴い、11日、岡山衛戍病院は岡山陸軍病院と改称します。
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、岡山衛戍部隊が出征し、還送されてくる傷病兵が増加したため、岡山陸軍練兵場の南西隅に岡山陸軍病院 津島分院を開院します。
昭和20(1945)年6月29日0243、B29爆撃機138機が岡山市に来襲、市街地は甚大な被害を受け、岡山陸軍病院津島分院も全焼してしまいますが、患者は全員退避しており人的損害は皆無でした。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
停戦時の職員は病院長・三浦政義少将以下将校40、下士官36、兵92名、病床数1,462、分類は三等甲病院でした。
病院規模の割に病床数が多いのは湯郷、苫田、奥津、津山各臨時分院(いずれも設置時期、場所不明)が含まれているためと思われます。
昭和20(1945)年12月1日、陸軍省が第一復員省に改編されたのに伴い、岡山陸軍病院は厚生省に移管され、国立岡山病院に改編されます。
昭和21(1946)年6月10日、英印軍により接収され(昭和22年12月、接収解除)た後、昭和36(1961)年5月22日、岡山市南方に新病棟が竣工し移転、昭和38(1963)年4月、陸軍病院跡地に岡山県生涯学習センター、県立児童会館が開館し現在に至ります。
L 病舎
人と科学の未来館サイピア(旧県立児童会館)西側の高台にありました。
この記事を執筆するにあたりネットの地図(グーグルマップ、ヤフー地図)を見てみたところ、どちらの空撮にも写っておらず、最近破壊されてしまった様です。
名古屋陸軍病院の病舎の様に明治村に移築され保存される物もあれば、岡山の様に人知れず破壊される物もあり、非常に残念です。
前者はかなり特殊な例ですが・・・

▲病舎正面側(東側)
木造平屋、一部2階建てです。

▲南東から
病舎は高台にあり、余り見通しが効きません。

▲正面側の壁面
窓の形状から大正から昭和期に建設された様です。

▲裏側(北西から)
裏側には搬入口の様な大型の出入り口があります。

▲2階建て部分

▲大型の入口

▲裏側の壁面

▲内部
陸軍病院壕
岡山陸軍病院の近隣には同病院の地下壕が遺されています。
掘削時期は不明ですが、医薬品が格納されていたそうです。
壕口全てが住宅敷地内にあり、進入を許可して下さった方も市から入らない様に言われているそうなので、場所は伏せさせて頂きます。
地下壕は全長が約100m、壕口が3ヶ所あり、うち2ヶ所はコンクリート巻立てが施工されています。

▲陸軍病院壕 見取図
a 壕口
3ヶ所ある壕口のうち、唯一素堀のままで、現在は住民の方が物置として使用しています。
※この壕口から許可を得て進入しました。

▲右側の石積みは住民の方が積んだそうです。
高さがかなりある事から単なる医薬品の格納壕では無く、最終的には入院患者も収容する予定だったのかも知れません。
b 壕口
壕口から10m程コンクリート巻立て及び舗装が施工されており、壁面の補強は煉瓦状の石材で施工されています。
こちらも住民が資材置き場に使用していた様ですが、現在は殆ど片付けられています。

▲壕口はコンクリート巻立てが施工されています。
住民の方により軽く閉鎖されています。

▲内部から見たコンクリート巻立て
壕口の補強程度の巻立てです。

▲コンクリート巻立て部分の壁面部
煉瓦の様で煉瓦でない、謎の素材でできています。

▲入口には蝶番を外した痕跡が残ります。

▲壕床は突き当りまでコンクリート舗装がされています。

▲突き当りから壕口
大きなガラクタも無く、綺麗な状態です。
c 壕口
b 壕口と同様に壕口から10m程コンクリート巻立て及び舗装が施工されており、壁面の補強は煉瓦状の石材で施工されています。
a の突き当りからc壕口にかけてはガラクタが大量に投棄されており、しかも劣化している為、足が取られ通過が非常に困難です。

▲コンクリート巻立てが施工されており、壕口付近は物置に使用されています。

▲壕口上部

▲壕口両側には蝶番が遺り、当時は扉が付いていた様です。

▲ b と同じく煉瓦の様で煉瓦でない、謎の素材で壁面が施工されています。

▲雨風が当たるとボロボロになっていく様です。

▲こちらも壕床はコンクリート舗装されており、舗装は壕の外側一帯まで続きます。

▲内部から見たコンクリート巻立て

▲ a に出るにはこのガラクタを突破しなくてはなりません・・・

▲壕 内部
左側が a 、正面が c です。
d 切羽
b の突き当りからdにかけては壕床が高く、またズリも多く掘削中だった様です。

▲ a 最深部から d 方向
内部は崩落しているのでは無く掘削途中だった様で、ズリが遺ります。

▲ b 最深部から d 方向
b から d にかけたは一段上がっており、掘り始めたところだった様です。

▲ d に向かう部分は掘削中のため天井が低くなって(実際は床が高い)います。

▲ d 切羽
一応切羽の様ですが、右下に掘りかけの様な穴があります。

▲ d 一段高くなった場所から b (左)と c (奥)
<主要参考文献>
『岡山県郷土部隊史』 (昭和41年 岡山県郷土部隊史刊行会)
『岡山市史 第6巻』 (昭和50年:昭和13年復刻 岡山市役所)
『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)
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