当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第十七師團長官舎

岡山市北区広瀬町に所在する市立旭公民館は第十七師團長官舎の跡地にあります。

また、弓之町に岡山憲兵分隊、中島の旭川沿いに北方工兵架橋場、宿に岡山東陸軍射撃場、及び半田山歩兵作業場同工兵作業場、富原に岡山西陸軍射撃場がありました。
第十七師團長官舎ヌ 通用口 南から(岡山)
▲旭公民館に遺る第十七師團長官舎 通用口

【探索日時】
平成24年3月21日





第十七師團関連諸施設配置
岡山市明細地圖(明治42・1909)大久保翠琴堂(岡山)
▲『岡山市明細地圖』より

岡山 全体(17D)(岡山)
▲師團司令部周辺と遺構の配置
※緑文字が当記事の紹介施設
①a 第十七師團司令部
①b 歩兵第三十三旅團司令部
①c 岡山聯隊區司令部
②  歩兵第五十四聯隊
③  輜重兵第十七大隊
④d 岡山陸軍兵器支廠
④e 第十七師團兵器部
⑤  工兵第十七大隊
⑥  山砲兵第二大隊
⑦  野砲兵第二十三聯隊
⑧  騎兵第二十一聯隊
⑨  岡山號砲臺
⑩  岡山衛戍監獄
⑪  岡山衛戍病院
⑫  岡山陸軍練兵場
⑬  岡山偕行社
⑭  第十七師團長官舎
⑮  岡山憲兵分隊
⑯  北方工兵架橋場
⑰  岡山東陸軍射撃場
⑱  岡山西陸軍射撃場
⑲  半田山歩兵・工兵作業場
 ※詳細な範囲不明
⑳  岡山陸軍埋葬地
※名称は明治42年頃

岡山 中心 最終(岡山)
▲第十七師團長官舎、岡山憲兵分隊の周辺詳細図


遺構について※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑭  第十七師團長官舎
明治41(1908)年3月10日、第十七師團司令部が開庁し、明治44(1911)年10月6日、師團長官舎用地140坪の買収を実施、官舎の建設を開始します。
大正14(1925)年5月1日、第十七師團司令部の復帰に伴い、歩兵第三十三旅團長官舎に転用(旭公民館掲載の資料には“歩兵第十聯隊長官舎に転用”とある)され、昭和15(1940)年8月1日、歩兵第三十三旅團司令部の復帰に伴い、岡山聯隊區司令官官舎に転用され、8月16日、停戦を迎えました。

10月23日、官舎は進駐してきた米第6軍第24師団により接収され、進駐軍司令官官舎として使用されます。
昭和25(1950)年、接収解除に伴い大蔵省に移管され、官舎は解体され民間に払い下げられ(行方不明)、昭和35(1960)年2月10日、敷地に国家公務員共済組合連合会の宿泊施設「広瀬荘」が建設され、平成9(1997)年6月30日、広瀬荘の閉鎖に伴い、12月11日、岡山市が貸借し、市立旭公民館として開館、現在に至ります。

ヌ 通用口
旭公民館の裏に遺ります。
コンクリート製で簡単な装飾が施されていますが、現在は閉鎖されており使われていません。
第十七師團長官舎ヌ 通用口 南から (2)(岡山)
▲通用口と西側に続くコンクリート塀

第十七師團長官舎ヌ・ネ 南西隅 南西から(岡山)
▲通用口と南側に続くコンクリート塀


ネ 板塀
旭公民館の南側、東側に遺ります。
道路から見える塀は格調高い板塀が設えてあります。
第十七師團長官舎ネ・ノ 南西隅塀接続部 南西から(岡山)
▲南側の板塀

第十七師團長官舎ネ 東側木塀 北東から(岡山)
▲東側(正面)の板塀

第十七師團長官舎ネ 南側木塀控柱 内部から(岡山)
▲板塀の裏には石製の控柱があります。

ノ コンクリート塀
旭公民館の西側、北側に遺ります。
西側は裏路地、北側は民有地に接する事から、景観が関係ない事から丈夫なコンクリート塀にした様です。
第十七師團長官舎ノ 西側コンクリート塀 南西から(岡山)
▲所々塀が建て替えられている理由は不明です。

第十七師團長官舎ノ 西側コンクリート塀 内部から(岡山)
▲コンクリート塀の裏側

第十七師團長官舎 敷地南側庭園跡(岡山)
旭公民館の庭には古い灯籠が遺ります。
 師團長官舎時代の物かどうか不明です。

第十七師團長官舎建物正面玄関と円形道路(岡山)
▲公民館正面の車回しは官舎時代からあったと思われます。


⑮  岡山憲兵分隊
明治30(1897)年3月1日、富田町(詳細位置不明)に第四憲兵分隊岡山分隊首部、同岡山憲兵警察區岡山屯所が開設されます。
明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定し、用地を寄付・買収により取得、8月、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮・監督のもと兵営建設を開始します。
10月7日、『勅令第三百二十二號』により『憲兵条例』別表が改正され、12月1日、弓之町に岡山憲兵隊本部(林田幹夫少佐)庁舎、明治41(1908)年3月1日、同地に岡山憲兵分隊庁舎が竣工、5月4日、富田町から移転します。

大正14(1925)年5月1日、第十七師團司令部の復帰に伴い岡山憲兵隊本部も復帰、岡山憲兵分隊は姫路憲兵隊管下に移管され、昭和20(1945)年3月30日、『勅令第百六十二號』により『憲兵令』が改正され、岡山憲兵分隊は中國憲兵隊司令部(長濱彰大佐、広島)管下に移管され、岡山地區隊(西江陽雄少佐)に昇格、津山、玉野両分隊を管下に置きます。
6月29日、岡山大空襲に際し憲兵隊は周辺住民ととともに消火に挺身したため、弓之町周辺が焼失を逃れたと言われます。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えますが、岡山地區隊は臨時憲兵隊を編成し旧工兵第十聯隊兵営に移駐、軍事施設、岡山市内の治安維持にあたります。
10月23日、岡山に進駐して来た米第6軍第24師団に業務を引き継ぎ、10月5日に示達された『陸普第千九百六十三號「憲兵ノ復員等ニ關スル件」』に基づき、11月1日、復員完結します。

岡山地區隊庁舎は米軍に接収された後、空襲により東中山下の庁舎が焼失した岡山税務署が移転、昭和34(1959)年、岡山税務署は転出、現在は隣接する就実高等学校の第一体育館が建設され、遺構は何も遺されていません


⑯  北方工兵架橋場
明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定、明治42(1909)年2月25日、旭川左岸の中島に工兵第十七大隊用の架橋演習場用地2,779坪を買収し(5月20日、第十七師團に引渡し)、使用を開始します。
大東亜戦争停戦後の経緯は不明ですが、現在は少年野球の練習場になっています。

遺構ですが、探索しようにも明確な範囲が不明なため未踏査です。


⑰  岡山東陸軍射撃場
明治42(1909)年9月11日、牧石村の半田山東麓に射撃場(37,050坪)を開設します。
昭和15(1940)年11月、岡山東陸軍射撃場を含む牧石村三軒屋(現、北区宿)一帯に岡山陸軍兵器補給廠の弾藥科設備の設定を開始、昭和17(1942)年3月、岡山陸軍兵器補給廠三軒屋分廠が大凡竣工します(10月15日、『陸軍兵器補給廠令』施行に伴い「三軒屋填藥所」に改称されたと思われます)。
昭和20(1945)年4月29日、岡山陸軍兵器補給廠が廣島陸軍兵器補給廠岡山分廠に改編され、三軒屋填藥所も廣島陸軍兵器補給廠に移管され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月23日、岡山に進駐してきた米第6軍第24師団により保管品のうち兵器・危険物は海中投棄され処分されますが、施設は放置されます。
昭和21(1946)年4月、米軍に代わり英軍が岡山に進駐し旧三軒屋填藥所は接収され、昭和22(1947)年3月、英軍は呉に移駐しますが、施設は引き続き連合軍管理下に置かれます(以降の経緯から昭和24年頃、接収解除され大蔵省に移管、岡山県に払い下げられたと思われます)。

昭和23(1948)年4月、御津郡牧石中學校が旧三軒屋填藥所の南側(池より南側)に、昭和24(1949)年11月、『岡山縣畜産経済指導農場建設案』(昭和20年11月3日、作成)に基づき岡山県岡山種畜場が旧三軒屋填藥所の北側一帯(池から北側)に移転してきます。
昭和28(1953)4月1日、牧石中学校は市立岡北中学校に統合され廃校になります。
昭和29(1954)年頃、岡山市は保安隊(現、自衛隊)の誘致を開始、昭和30(1955)年、防衛庁は岡山県に弾薬格納施設が遺る旧三軒屋填藥所の買収を打診、県議会による売却承認を経て1億9,000万円で購入、隣接する旧半田山歩兵・工兵作業場が大蔵省より移管され、4月5日、水島駐屯地三軒屋分屯地が開設されます。
15日、三軒屋分屯地において関西地区補給処三軒屋弾薬支処が編成完結、昭和32(1957)年9月5日、三軒屋分屯地は軒屋駐屯地に昇格、現在も我が国の安全保障に重要な施設となっています。

岡山東陸軍射撃場の遺構については三軒屋填藥所に包含されてしまい、殆ど何も遺されていないと思われますが、ヤフー地図やグーグルマップの空撮を見ると、射垜と思しき小山、監的壕と思しき池が見えます。
ただ、現在は陸上自衛隊・三軒屋駐屯地の立入禁止区域にあり、一般人は元より、隊員の方も簡単に入れないため探索不能です。


⑱  岡山西陸軍射撃場
明治42(1909)年3月15日、横井村(現、北区富原)に射撃場(101,710坪)を開設します。
停戦後の経緯は不明ですが、他の陸軍用地と同様に連合軍に接収の後、大蔵省に移管されたと思われます。
自衛隊の誘致が行われたとも言われますが詳細は不明です。
近年までJA全農岡山講習所が設置されていましたが、現在は閉鎖されています。
岡山西陸軍射撃場 南東端から(岡山)
▲岡山西陸軍射撃場の現況(南端の射場付近から)
 農協講習所となっていたため殆ど手付かずのまま遺り、ある意味完存とも言える状態です。


⑲  半田山歩兵・工兵作業場 
半田山歩兵作業場(平津村各隊作業場:183,785坪)は明治41(1908)年11月、同工兵作業場(御野村工兵基本作業場:7,008坪)は明治42(1909)年2月26日、買収が完了し使用を開始(前者は明治42年5月25日、後者は同年2月26日、第十七師團に引渡し)します。

昭和15(1940)年11月、陸軍省は牧石村三軒屋(現、北区宿)一帯を買収、歩兵・工兵作業場の東麓に横穴式格納壕を掘削し、岡山陸軍兵器補給廠の弾藥科設備の設定を開始、昭和17(1942)年3月、岡山陸軍兵器補給廠三軒屋填藥所が大凡竣工します。
昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い作業場は大蔵省に移管、昭和30(1955)年、保安隊・水島駐屯地三軒屋分屯地(現、駐屯地)設置に際し、大蔵省から防衛庁に移管され、分屯地用地となり、現在に至ります。


主要参考文献
『第十七師團司令部歴史 明治四十年九月十七日~大正十四年六月十日』(アジ歴 C14060947100)

『岡山市史 戦災復興編』 (昭和40年 岡山市役所)

『岡山県郷土部隊史』 (昭和41年 岡山県郷土部隊史刊行会)

『岡山市史 第6巻』 (昭和50年:昭和13年復刻 岡山市役所)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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