当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

蒜山原陸軍演習場

岡山県真庭市北部一帯に広がり現在、観光地やジャージー牛の牧場で知られる蒜山(ひるぜん)高原は蒜山原陸軍演習場の跡地にあります。
蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 北から(岡山)
▲民家敷地に遺る監的所

【探索日時】
平成26年6月7日





遺構について※青字は地図にリンクしています
蒜山原陸軍演習場
明治29(1899)年5月9日、陸軍省に軍馬の育成・補充に当たる軍馬補充部が発足、5月11日、大山(鳥取)に青野支部(兵庫)の派出部が開設され(明治32年1月18日、青野支部は大山派出部に移転し、大山支部に改称)ます。
明治31(1900)年、軍馬補充部は岡山県真庭郡に軍馬放牧場の設置を計画、岡山県真庭郡徳田村(現、真庭市)の民有地919町歩(2,760,000坪)を買収します。
大山支部では保管馬匹が漸次増加、飼養の限界に達したため、明治35(1902)年7月23日、岡山県真庭郡に派出部の新設を決定、第十師團経理部は派出部用地として八束村(現、真庭市)の民有地10町9反4畝(33,000坪)を買収、明治36(1903)年4月1日、徳田村・八束村の用地と合わせ大山支部 旭川派出部が開設されます(以降、2,300町歩:6,900,000坪に拡張)。
大正10(1921)年4月1日、大山支部、及び旭川派出部は閉鎖され、用地は第十師團経理部に移管、昭和2(1927)年、大同合資會社に売却されます。

昭和10(1935)年、陸軍省は蒜山原に演習場の新設を決定、10月、旧軍馬養成場を含む八束村、徳田村一帯の村有・民有地を買収、11月27日、地鎮祭を斎行し、総面積5,400町歩(16,200,000坪:甲子園球場1,400個)、東西16km、南北4~8kmと我が国軍最大の蒜山原陸軍演習場が開設されます。

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争の停戦に伴い、大蔵省に移管され、昭和29(1949)年頃より岡山県(酪農など)、入植者(高原野菜栽培など)、鳥取大学(演習林)等に払い下げられ、現在はそれらに加え別荘地、キャンプ場等が広がり岡山県屈指の観光地となっています。

演習場なので原野が広がり、元々構築物は少ないですが、演習用の特火点(トーチカ)等が遺されています。

蒜山原演習場(大日本帝國陸地測量部地図)(岡山)
▲『蒜山原演習場』 (大日本帝國陸地測量部 昭和12年測図)
 地図上に境界等は記載されていないので、明確な範囲は不明です。

蒜山原陸軍演習場 蒜山原陸軍演習場 監的壕(岡山)
▲コンクリート構造物の配置

A 演習用特火点 (トーチカ)
蒜山高原の別荘地北側に広がる牧草地にある道路(車1台分)沿いに遺ります。
変形五角形をしており開口部が西側と南側に2ヶ所あり、全体が雑草・雑木に覆われています。
全体がかなり破損していますが、演習による破壊か戦後の破壊か、経年劣化か不明です。
蒜山原陸軍演習場 A 監的壕 南から(岡山)
▲この道路の右側にありますが、分かるでしょうか?

蒜山原陸軍演習場 A 監的壕 南西から(岡山)
▲苦手なケムシの恐怖と戦いながら、西側の雑草を伐採してみました。
 表面はボロボロです。

蒜山原陸軍演習場 A 監的壕 南西開口部(岡山)
▲西側の開口部
 開口部がかなり破壊され、鉄筋がむき出しなっています。

蒜山原陸軍演習場 A 監的壕 南西から (2)(岡山)
▲南側も同じく状態が悪いです。

蒜山原陸軍演習場 A 監的壕 南東開口部(岡山)
▲南側の開口部
 庇の様に見えるのが本来の表面です。

蒜山原陸軍演習場 A 監的壕内部 南東開口部(岡山)
▲南側の開口部を内部から
 
蒜山原陸軍演習場 A 監的壕内部 東側(岡山)
▲内部の状態は良好です。

蒜山原陸軍演習場 A 監的壕内部 北東側の孔(岡山)
▲実はこのトーチカには入口が無く、北側に破壊された様な穴?があるだけです。
 埋まっているのでしょうか?

蒜山原陸軍演習場 A 監的壕 南西から(掃除前)(岡山)
▲因みに掃除前はこの様な状態で、何だか分からない雑草の塊です・・・


B 監的所
民家敷地の一角にあります。
資料には「トーチカ」(この手の資料はコンクリート構造物を何でもかんでも“トーチカ”と記述)とありますが、形状からして砲兵の射撃演習に際し弾着を観測する監的所(いわゆる監的壕)と思われます。
長方形をしており、正面側の覘視口を形成していた十字の桟が破壊されている以外は良好な状態です。
蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 北西から(岡山)
▲正面側は台形をしており、雲辺寺原陸軍演習場(香川)に遺る監的所に酷似しています。

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 北東から (2)(岡山)
▲北東から

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 北東から(岡山)
▲近所の方が気味悪がるため、フタをしてあるそうです。
  今回は所有者のご厚意でフタを外して頂きました。

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 開口部上部庇 北東から(岡山)
▲表面はラスが張られモルタルで丁寧に仕上げられています。

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 開口部 北東から(岡山)
▲開口部近影
  当時は十字の桟があり、正面覘視口は4ヶ所に区切られていた様です。

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 内部 開口部から(岡山)
▲内部にある柱は崩壊しない様に所有者の方が建てた物です。

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 入口(岡山)
▲正面右側に小さい入口があります。

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 内部 西から(岡山)
▲内部に入ってみます。

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 内部 東から(岡山)
▲振り返って入口方向
 入口を入ると小さな部屋があります。

蒜山原陸軍演習場 B 監的壕 内部 南西から(岡山)
▲覘視口を内部から
 覘視口に桟を破壊した跡が遺ります。

この監的所ですが、土地購入の際に不動産業者が「破壊しましょうか?」と提案してきたそうですが、貴重な遺構なのでそのままにしたそうです。
ありがたい!


C 観測所 ?
Bの南側200m程の林の中にあり、東側の道路から畑のあぜ道を通り進入します。
資料には無く、上記Bの所有者の方にご案内頂きました。
変形六角形をしており、入口が2ヶ所、開口部が5ヶ所あり、入口と天井が破壊されています。
この中に火砲を据え付け、北に向かって射撃したとの事ですが流石に無理があり、砲兵の射撃演習に際し弾着観測、射撃指揮をした監的所か展望台と思われます。
蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 北から(岡山)
▲北から(清掃後)

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 北東から(掃除前)(岡山)
▲こちらも盛大に草で覆われていましたが、小一時間かけて掃除しました(清掃前)。

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 北東から(岡山)
▲北東側に破壊されて大きくなった入口があります。

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 内部から北西側開口部(岡山)
▲内部は天井が抜け、雑木で通れません。
  と言うよりケムシが怖くて入れませんでした・・・

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 北西から(岡山)
▲北西面から反時計回りに見ていきます。
 壁面の状態は良好です。

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 北側開口部 北東から(岡山)
▲上掲写真左側の開口部
 銃眼と言うより覘視口の様に思います。

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 北西側開口部 北西から(岡山)
▲同じく右側の開口部
 この開口部だけ他と違い窓状になっています。

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 西から(岡山)
▲西から

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 西側開口部 西から(岡山)
▲さらに西に回ると入口があります。
  この面が一番幅広です。

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 南西から(岡山)
▲南西から

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 南から(岡山)
▲南から
  写真の開口部は左右ともに同型です。

蒜山原陸軍演習場 C 監的壕 南側開口部 南から(岡山)
▲南側の開口部

Bの所有者の方によるとこれらの他に南側数kmの場所にも2基のコンクリート構造物があったそうで、記憶を頼りにご案内して頂きましたが、10年以上前の事なので残念ながら見付かりませんでした。
土地を分譲する際に破壊されたのかも知れないとの事です。

お忙しい中、突然訪ねた僕に長時間に渡り御丁寧にもあちこち御案内して頂いた所有者様に、この場を借りお礼申し上げます。


D 蒜山原陸軍演習場 碑
畑の一角に遺ります。
蒜山原陸軍演習場 蒜山原陸軍演習場 石碑(岡山)
▲周辺地図

蒜山原陸軍演習場 D 蒜山原陸軍演習場 碑 と周辺(岡山)
▲蒜山原陸軍演習場碑と演習場現況

蒜山原陸軍演習場 D 蒜山原陸軍演習場 碑 南から(岡山)
▲裏面に「昭和十年十一月二十七日於此地行地鎮祭 陸軍中将建川美次書」
 と刻字されています。
 建川美次中将は時の第十師團長で地鎮祭に出席した事が記録されています。

蒜山原陸軍演習場は開設当初、我が国最大の演習場だったため、これらの遺構以外にもまだまだ隠れた遺構が遺されていると思われます。

今回紹介した遺構は演習場時代の物ですが、軍馬補充部 大山支部 旭川派出部時代の土圍(総延長5.6km、現存4.6km)も遺されています。
今回は時間の関係で探索しませんでした。


軍馬補充部 略歴
慶応3(1868)年12月9日(1月3日)、王政復古の大号令が発せられ、明治政府が発足します。

慶応4(1868)年2月9日、旧幕府勢力討伐のため東征大總督府(有栖川宮熾仁親王)が編成、軍馬の補充を管掌する東征大總督府厩が新設され、民間より馬匹を購入し供給を開始します。
11月2日、戊辰の役が終結、東征大總督府は閉鎖され、總督府厩は閏4月21日に新設された軍務官に継承、明治2(1869)年7月8日、軍務官は兵部省に改編されます。

明治5(1872)年2月28日、兵部省は陸軍省に、兵部省厩は調馬厩に改編され、、引き続き軍馬の補充・購買、病馬の交換、保管、種馬の交付、払下を管掌しますが、軍馬の調達は民間からの購買に頼っていたため、極めて不安定でした。

明治6(1873)年6月、乗馬教官として仏人のカスヌープを招聘し、西洋式乗馬法の習得に努め、従前の購買・補充に加え、初めて馬匹の調教後の補充を開始します。
さらに軍馬購買地を拡張、種馬を産馬地に交付し、仔馬を購買する一馬交換法を制定し、次いで東北各地の馬産地を調査、多産馬の調査研究を実施、軍馬購買数は飛躍的に上昇します。

明治7(1874)年3月31日、調馬厩は軍馬局(白戸隆盛中佐)に改編され、第一厩(東京)・第二厩(仙台)において軍馬の調教を実施、明治17(1884)年1月15日、軍馬局に第一調馬隊(東京)、第二調馬隊(宮城県)、同三本木出張所が設置されます。

明治19(1886)年3月1日、軍馬局は廃止、騎兵局第三課が鍛冶谷澤(宮城)、三本木(青森)、福元(鹿児島)に管理厩を設置し購買幼馬の育成業務を開始します。

明治21(1888)年3月30日、各調馬隊は復帰、騎兵局管下に軍馬育成所本部(東京)、鍛冶谷澤、三本木、福元、新たに青野(兵庫)軍馬育成所(勅令第五十五號『軍馬育成所』管制)が設置され、純然たる軍馬の育成が開始されます。

明治26(1896)年5月3日、軍馬育成所は軍馬補充署に改称(勅令第二十七號『軍馬補充署条例』)され、陸軍大臣に直隷します。
同年、陸軍省、農商務省により馬疋調査會が設立され、馬匹改善のため種馬牧場、種馬所を設置、欧米より輸入した優良馬の繁殖を実施、馬匹の規格を規定するとともに、優良軍馬の安定生産を図るため、馬政機関の拡張・充実を計画します。

明治29(1899)年5月9日、軍馬補充署は軍馬補充部(大蔵平三 騎大佐)に改編(勅令第百九十三號『軍馬補充部条例』)、5月11日、鍛冶谷澤、三本木、福元、青野各軍馬育成所は支部に改編され、各軍馬育成所管下にあった各支所は派出部出張所に改編され、鍛冶谷澤支部管下に中山(岩手)、追原(福島)、福元支部に知覧(鹿児島)、青野支部に大山(鳥取)各派出部、鍛冶谷澤支部に冬師山(秋田)、三本木支部に倉内(青森)両出張所が配置されます。

明治30(1897)年12月、同白河出張所(福島)が開設されます。
明治31(1898)年1月20日、白河出張所は支部に昇格、5月15日、鍛冶谷澤支部に萩野派出部(山形)、11月15日、六原支部(岩手)が開設されます。
明治32(1899)年1月18日、青野支部は大山派出部に移転し大山支部に昇格、大山派出部は成實村に移転し赤崎派出部が開設、8月20日、白河支部に那須派出部が開設されます。
明治33(1900)年11月15日、釧路支部(北海道)が開設されます。
明治35(1902)年6月20日、福元支部は宮崎に移転し高原支部に改称、知覧出張所は閉鎖されます。
明治36(1903)年4月1日、大山支部に旭川派出部(岡山)が開設されます。
明治40(1907)年10月28日、川上支部(北海道)、七戸支部(青森)、同表館出張所(青森)、釧路支部に音別派出部(北海道)が開設されます。
明治41(1908)年8月1日、高原支部に川南派出部(宮崎)が開設されます。
明治43(1910)年2月2日時点で釧路支部に足寄太出張所、三本木支部の駒込、戸来両出張所、六原支部に田代、種山両出張所、鍛冶谷澤支部に及位出張所、白河支部に泉出、白石両出張所、高原支部に高原、加久藤両出張所が整備・開設され、3月10日、高原支部は上江村に移転し、12日、高鍋支部に改称、5月28日、鍛冶谷澤支部に山内出張所、11月26日、萩野出張部は支部に、鍛冶谷澤支部は派出部に改編されます。

大正2(1913)年9月1日、足寄太出張所は足寄派出部に改編、12月19日の時点で白河支部に羽鳥出張所、大山支部に御机出張所、高鍋支部に小林出張所、大正5(1616)年8月9日の時点で釧路支部に上利別出張所が開設されます。
大正6(1917)年、旭川派出部は閉鎖されます。
大正10(1921)年4月1日、大山支部・同赤崎派出部は閉鎖、雄基支部、豊海・慶興・慶源出張所(全て朝鮮)が開設されます。
大正11(1922)年4月25日、冬師山出張所、大正12(1923)年5月2日、白石・加久藤両出張所、10日、萩野支部が閉鎖されます。
大正14(1925)年12月1日、十勝支部が設置、12月20日、六原支部、那須派出部、21日、中山派出部が閉鎖されます。
大正15(1926)年10月7日、川上支部に弟子屈出張所、釧路支部に音別派出部が開設、12月1日、七戸支部は派出部に改編されます。

昭和12(1937)年8月2日、根室支部、昭和13(1938)年12月5日、根釧出張所が開設され、軍馬の育成、補充にあたるなか、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

12月1日、陸軍省の廃止に伴い軍馬補充部も復帰、各支部・派出部・出張所は大蔵省に移管されます。

※各支部、派出部、出張所の開設・閉鎖は公示された年月日のため、実際の開設時期とズレがあると思われます。


蒜山原陸軍演習場 略歴
明治21(1888)年3月30日、兵庫県河東郡河合村(現、小野市)に青野軍馬育成所(兵庫)が設置され、軍馬の育成が開始されます。
明治29(1899)年5月9日、軍馬補充部が発足、5月11日、青野軍馬育成所は同部青野支部に改編、大山派出部(鳥取)が開設され(明治32年1月18日、青野支部は大山派出部に移転し、大山支部に改称)ます。
明治31(1900)年、軍馬補充部は岡山県真庭郡に軍馬放牧場の設置を計画、第四師團監督部は岡山県真庭郡徳田村(現、真庭市)の民有地919町歩(2,760,000坪)を買収します。
大山支部では保管馬匹が漸次増加、飼養の限界に達したため、明治35(1902)年7月23日、軍馬補充部は岡山県真庭郡に派出部の新設を決定、第十師團経理部は派出部用地として八束村の民有地10町9反4畝(33,000坪)を買収、明治36(1903)年4月1日、徳田村・八束村の用地と合わせ大山支部 旭川派出部が開設されます(以降、2,300町歩:6,900,000坪に拡張)。
大正10(1921)年4月1日、大山支部、及び旭川派出部は閉鎖(旭川は大正6年閉鎖?)され、用地は第十師團経理部に移管、民間に払い下げるべく地価公示が行われますが、価格面で購入希望者が無く、昭和2(1927)年、漸く大阪の大同合資會社が用地の大半2,193町歩(6,600,000坪)を購入します。

昭和10(1935)年、火砲の進歩、長射程化に伴い、関西方面の各師團管下の演習場は狭隘で実弾射撃に不自由な事から、陸軍省は広範囲に集落が無く、且つ北満に地形の似た蒜山原に演習場の新設を決定、10月、第十師團経理部は先に売却した大同(資)を始め八束村、徳田村一帯の村有・民有地を買収、11月27日、地鎮祭を斎行し、総面積5,400町歩(16,200,000坪:甲子園球場1,400個)、東西16km、南北4~8kmと我が国軍最大の蒜山原陸軍演習場が開設されます。
昭和11(1936)8月、八束、川上両陸軍演習廠舎が建設、その後、昭和12(1937)年にかけて用地は逐次買収、整備され、姫路、加古川、岡山、広島、四国の各部隊、鳥取、松江、福山歩兵聯隊が利用(後、久留米戦車隊)します。
蒜山原演習場風景其ノ三絵葉書(岡山)
▲蒜山原演習場風景

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争の停戦に伴い、大蔵省に移管されます。


主要参考文献
『岡山県史 第13巻 現代1』 (平成元年 岡山県史編纂委員会 山陽新聞社)

『官報』

『岡山の戦跡』 (平成21年10月 岡山県教職員組合教育運動推進センター)
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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