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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

工兵第四聯隊

大阪府高槻市の高槻城祉に工兵第四聯隊がありました。
兵営では後に工兵第百四聯隊同第三十四聯隊同第四十四聯隊第二百二十五師團工兵隊が編成されます。

また隣接して大阪陸軍病院 高槻分院高槻陸軍練兵場、北側に高槻陸軍射撃場、北西の芥川沿いに高槻工兵作業場、東側の淀川に高槻工兵演習場・架橋材料庫がありました。
工兵第四聯隊 ア 営門 北西から(高槻)
▲営門と歩哨舎

【探索日時】
平成21年1月11日、平成24年1月6日、平成25年9月27日

【更新情報】
平成25年10月1日:大幅改訂(地図訂正、加筆訂正)





工兵第四聯隊周辺の陸軍施設配置
工兵第四聯隊 高槻(大正11測図・昭和4鉄道)部分(着色)(高槻)
▲昭和4年頃の地図(大正11測図・昭和4年鉄道書込 大日本帝國陸地測量部)

工兵第四聯隊 工兵第四聯隊(23331)兵営(高槻)
▲昭和23年3月31日の工兵第四聯隊兵営周辺の空撮(国土地理院 NI-53-14-7)
 ※空撮は加工しています。

工兵第四聯隊 工兵第四聯隊(現在)1(高槻)
▲現在の地図に施設を転写

※緑文字が当記事の紹介施設
工兵第四聯隊 兵営
大阪陸軍病院 高槻分院
高槻陸軍練兵場

④旧大高槻憲兵分遣隊
⑤高槻憲兵分遣隊(昭和11年12月23日移転)
⑥高槻陸軍墓地
高槻陸軍射撃場
高槻工兵作業場
高槻工兵演習場・架橋材料庫



遺構について
※青字の遺構は地図とリンクしています。
① 工兵第四聯隊 兵営
明治40(1907)年9月、師團増設による師管區の改正により工兵第四大隊の京都からの移転が決定、大阪府三島郡高槻町(現、高槻市)が同じく誘致運動を行っていた和歌山市を制し、工兵第四大隊の誘致に成功、高槻町は工兵營・衛戍病院・練兵場用地を住民の寄付により準備、陸軍省に献納します。

8月7日、臨時陸軍建築部大阪支部高槻出張所を高槻町に設置、明治41(1908)年初旬、兵営の新築が開始され、明治42(1909)年3月22日、新兵営が竣工し、伏見から工兵第四大隊が転営してきます。

昭和11(1936)年5月30日、平時編成が改定され工兵第四大隊は工兵第四聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年4月26、第四師團の滿洲駐箚に伴い工兵第四聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和17(1942)年6月12日、工兵第四聯隊・同補充隊に復員下令、7月20日、聯隊は高槻の兵営に凱旋します。

昭和18(1943)年10月5日、工兵第四聯隊のスマトラ島出征後、工兵第四聯隊補充隊が編成、昭和19(1944)年4月6日、工兵第四聯隊補充隊は工兵第四十四聯隊に改編、7月6日、工兵第四十四聯隊が動員されたため、再び工兵第四聯隊補充隊が編成されます。
昭和20(1945)年2月28日、工兵第四聯隊補充隊に復員下令、大阪師管區工兵補充隊が編成され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月22日、大阪師管區工兵補充隊は復員完結します。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営、陸軍病院、練兵場、射撃場は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます。

昭和21(1946)年、兵営は戦災により校舎を失った大阪外事専門学校(後、大阪外国語大学、現、大阪大学外国語学部)が使用しますが、昭和32(1957)年4月、天王寺区の新校舎に移転します。
その後、高槻市の払下げ要求により、兵営跡は高槻市に払下げられ高槻市立第一中学校、教育研究所、母子寮、公園に、練兵場は府立島上高校(現、槻の木高校)、市民運動場、市民会館(現、現代劇場)になり現在に至ります。

工兵第四聯隊 工四 写真~北北西から(高槻)
▲戦後の兵営航空写真(北北西上空から)


ア 営門門柱・歩哨舎・「陸軍」境界石標
  轉營記念・在營記念・退營記念、工兵第四聯隊跡
高槻第一中学校南西、高槻城跡公園の入口に遺されています。
工兵第四聯隊 ア 営門 西から(高槻)
▲営門門柱
 門扉は後年の物です。

工兵第四聯隊 ア 歩哨舎 北から(高槻)
▲歩哨舎

工兵第四聯隊 ア 歩哨舎 床 (2)(高槻)
▲歩哨舎の歩哨立ち位置には足を開く角度が刻まれています。

工兵第四聯隊 ア 「陸軍」 営門横に移設(高槻)
▲営門脇には境界石標が遺されています。
 頂部の境界方向を示す矢印から、移設された物の様です。

工兵第四聯隊 ア 「工兵第四聯隊」碑・営門・歩哨舎(高槻)
▲工兵第四聯隊跡
 昭和57年3月に建立されました。
 碑の背後に営門、歩哨舎があります。

工兵第四聯隊 ア 「工兵第四聯隊」碑の裏の記念石(高槻)
▲轉營記念・在營記念・退營記念(左から)
 工兵第四聯隊跡碑の裏に並んでいます。


イ 東門門柱
高槻第一中学校東門に北側の門柱のみが遺されています。
工兵第四聯隊 イ 東門 門柱 東から(高槻)
▲学校敷地外から

工兵第四聯隊 イ 東門 門柱 南東から(高槻)
▲学校敷地内から
 兵営周辺にあった土堤の土留めも遺っています。
※東門門柱は中学校敷地内にあるため、近くでの撮影は許可が必要です。

昭和30年代初期には鉄道公園(現在の城跡公園)に建物基礎など当時の遺構が多数残されていたようですが、現在は完全に整備され何もありません。


② 大阪陸軍病院 高槻分院
明治40(1907)年9月、師團増設による師管區の改正により工兵第四大隊の京都からの移転が決定、大阪府三島郡高槻町(現、高槻市)が同じく誘致運動を行っていた和歌山市を制し、工兵第四大隊の誘致に成功、高槻町は工兵營・衛戍病院・練兵場用地を住民の寄付により準備、陸軍省に献納します。

8月7日、臨時陸軍建築部大阪支部高槻出張所を高槻町に設置、明治41(1908)年初旬、兵営・衛戍病院の新築が開始され、明治42(1909)年3月、病舎が竣工し、3月22日、伏見から工兵第四大隊が移転、23日、大阪衛戍病院高槻分院が開院します。

昭和12(1937)年10月16日、大阪陸軍病院高槻分院と改称され、昭和20(1945)年5月10日、大阪第二陸軍病院(金岡)の設置に伴い、大阪第一陸軍病院高槻分院と改称、8月15日、停戦を迎えます。
職員は医務室と兼務で、停戦時のベッド数は40床でした。

現在は高槻城跡公園になっており、遺構は何も遺されていません


③ 高槻陸軍練兵場
明治42(1909)年3月、新兵営とともに竣工、現在は府立槻の木高校、野球場、高槻現代劇場になっており、遺構は何も遺されていません。


⑦ 高槻陸軍射撃場
明治42(1909)年3月、新兵営とともに竣工、現在は公務員合同宿舎になっており、遺構は何も遺されていません。
工兵第四聯隊 工兵第四聯隊(23331)射撃場(高槻)
▲昭和23年3月31日の高槻陸軍射撃場周辺の空撮(国土地理院 NI-53-14-7)

工兵第四聯隊 ⑦ 高槻陸軍射撃場 的場付近から東側(高槻)
▲的場付近から東側(道路左側が射撃場)


⑧ 高槻工兵作業場
明治42(1909)年3月、新兵営とともに竣工、現在は高槻第二中学校、住宅地になっており、遺構は何も遺されていません。
工兵第四聯隊 工兵第四聯隊(現在) 工兵作業場(高槻)
▲境界は昭和4年頃の地図(大日本帝國陸地測量部)を参考に推定

その他
オ 演習橋
桧尾川と淀川が合流する辺りに架かっています。
当時はこの辺りが工兵第四聯隊の架橋演習場で、橋を渡った辺りに架橋材料庫がありました(遺構無し)。
工兵第四聯隊 オ 演習橋(高槻)
▲橋自体は昭和60年2月に架けられた物で、名称だけが遺ります。

カ 演習橋
同じく桧尾川上流にあります。
当時、この先に高槻陸軍射撃場がありました。
工兵第四聯隊 カ 演習橋 (2)(高槻)
▲こちらの橋も昭和43年10月に架けられた物で、名称だけが遺ります。
 漢字表記は割れてしまっています。

工兵第四聯隊 カ 演習橋(高槻)
▲平仮名表記

キ 陸軍工兵北野小一郎殉難之碑
高槻市清福寺町の芥川右岸にあります。
工兵第四聯隊 キ 陸軍工兵北野小一郎殉難之碑(高槻)
▲揮毫は第14代聯隊長・中島九平大佐(在任昭和9年8月1日~昭和12年10月31日)です。
 裏面には上等兵の人物、殉職時の様子、碑建立の理由等が刻字されています。

北野小一郎上等兵は昭和10(1935)年6月29日、芥川の増水に際し堤防防御に出動、木流し工法により決壊を防ぎますが作業中に濁流に転落し殉職してしまいました。


衛戍・編成部隊
工兵第四聯隊(淀四〇七九、中部第二十九部隊)
慶応3(1867)年10月14日、大政奉還が行われ明治政府が発足、近代国家として軍制改革が開始されます。
明治2(1869)年7月8日、官制改革により兵部省が新設、各地に出張所が置かれ、11月13日、『徴兵規則』制定により各藩より兵卒が召集され各出張所に配置されました。

明治3(1870)年4月、大阪兵學寮(後の士官学校)に建築科が新設されます。

明治4(1871)年4月23日、東山道鎭臺(本営:石巻、分営:盛岡、福島)、西海道鎭臺(本営:小倉、分営:博多、日田)が設置されますが、8月20日、 両鎭臺は廃止され、東北(仙台)・東京・大阪・鎭西(熊本)の4鎭臺が新設され、10~12月にかけ編成完結、各鎭臺所属造築隊(120名づつ)が編成されます。

明治5(1872)年3月12日、『鎭臺条例』が制定され、各鎭臺所属造築隊を合わせ大隊編制に改編、5月、教導團(下士官養成所、東京)隷下に入り工兵第一大隊と改称(明治6年8月、東京鎭臺隷下に)します。

明治6(1873)年1月10日、『徴兵令」が制定され、各鎭臺の兵力は暫時充足されていきました。

明治8(1875)年8月、大阪において工兵第四小隊が編成(諫早清春大尉)、大阪鎭臺隷下に入り大坂城二之丸桜門前の兵営に入ります。

明治9(1876)年12月、工兵第二大隊(村井寛温少佐、2個小隊)に改編されます。

明治10(1877)年2月10日、西郷隆盛により西南の役が勃発、20日、大隊は大阪鎭臺隷下の歩兵第八、第九、第十聯隊、後備歩兵第一大隊、砲兵第四大隊、輜重兵第四小隊、豫備砲兵第二大隊とともに大阪を出発、神戸から海路、23日、博多に上陸、各地を転戦、9月24日、西郷隆盛が鹿児島県城山において自刃し、戦役は終結し、10月1日、大阪に凱旋します。

明治19(1886)年5月20日、京都府紀伊郡伏見町(現、京都市伏見区)の歩兵第九聯隊第三大隊兵営跡(伏見奉行所跡)に転営します。

明治21(1888)年5月14日、大阪鎭臺は第四師團に改編、工兵第二大隊は工兵第四大隊に改称します。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、第四師團は征清大總督府(小松宮彰仁親王大将)に編入され、大隊は明治28(1895)年3月下旬、伏見を出発し大連湾に上陸しますが、仮条約締結のため戦闘に加わる事無く遼東半島各地の警備に就き、11月、伏見に帰還します。

明治29(1896)年、台湾北部の土匪蜂起に際し、第四師團隷下の歩兵第八、第九、山砲1個中隊とともに大隊から1個中隊が抽出され混成旅團(大久保春野少将)を編成、山猪窟、椎渓において匪賊を討伐、7~11月に凱旋します。

明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発すると、3月6日、第四師團に動員下令、3月15日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され遼東半島の貔子窩付近に上陸、大隊は僚隊に小隊単位で配属され、金州の戦いを始め、南山の戦い、得利寺の戦い、熊岳、蓋平、大石橋、海城の戦い、遼陽、沙河、奉天の各會戰に参加、障害物の爆破・除去、架橋、道路建設、陣地構築にあたり、明治38(1905)年10月、凱旋します。

明治42(1909)年3月22日、高槻町の新兵営が竣工し、伏見から転営します。

大正6(1917)年10月1日早朝、台風による連日の豪雨により芥川の堤防が番田、芝生で決壊、0840、淀川本流の右岸堤防が大塚付近で約470mに渡り決壊(大塚切れ)、兵営も水没しますが、大隊は鉄舟による住民の救助、災害復旧に出動します。

大正7(1918)年8月14日、暴徒化した米騒動の鎮撫に兵庫県・清野長太郎知事の要請を受け、尼崎に出動、治安維持、警備に当たります。

昭和3(1928)年6月、高槻町の依頼を受け第三中隊が重架橋作業演習の一環として、高槻尋常小學校のプールを建設、8月、竣工します。

昭和7(1938)年1月28、上海事變が勃発、工兵第四大隊では夜戰電信第十四中隊が編成され派遣されます。

昭和9(1934)年9月21日、室戸台風の暴風により芥川・如是尋常小學校の校舎が倒壊、大隊は罹災者の救援・救護、食糧配給、被災地の復旧に出動します。

昭和10(1935)年6月29日、前日からの豪雨で芥川が増水、高槻町・磯村彌右衛町長の要請により第三中隊が芥川の堤防防御に出動し木流し工法により決壊を防ぎますが、作業にあたっていた北野小一郎上等兵が鉄線巻き付け中に濁流に転落し殉職してしまいます。

昭和11(1936)年5月、平時編成が改定され工兵第四大隊は工兵第四聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年2月、第四師團は第九師團(蓮沼蕃中将、金沢)に変わり滿洲駐箚が決定、4月20日、師團は關東軍司令部(植田謙吉大将)戦闘序列編入と滿洲駐箚が決定、4月29日、聯隊は師團とともに渡滿し、先遣隊の1個小隊は聯隊に復帰、三江省佳木斯付近の国境警備、匪族討伐にあたるなか、7月7日、支那事變が勃発します。

昭和14(1939)年8月29日、同年5月13日にソ連軍の越境により勃発したノモンハン事件の増援として第四師團は応急派兵の命を受けますが、到着前の9月15日、停戦協定成立により帰還します。

昭和15(1940)年6月26日、中支那派遣のため第四師團に臨時動員下令、第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入され、7月11日、聯隊は佳木斯を出発、列車と船舶輸送により、中支湖北省雲夢地区に移駐し、同地の警備・治安維持に当たり、11月25日、第十一軍の漢水作戰に参加、国府軍を退散させます。

昭和16(1941)年1月26日、豫南作戰、4月9日、大洪山作戰、5月5日、江北作戰、8月27日、第二次長沙作戰に参加します。
11月8日、第四師團は第十一軍戦闘序列を外れ大本営直轄となり、聯隊は応城地区から上海付近に移動集結し上陸戦闘訓練に従事します。

昭和17(1942)年2月10日、第四師團は比島(フィリピン)攻略に第十四軍(本間雅晴中将)隷下となり、2月21日、4梯団に別れ呉淞沖を出航、3月6日、ルソン島リンガエン湾マビラオに上陸、4月3日、第二次バターン半島攻略戦、5月5日、コレヒドール島攻略戦には攻撃主力として参加し、多大な損害を出しながらも6日正午、マッカーサーの後任ウェインライト中将を降伏させ、6月12日、第四師團に復員が下令されたため、7月20日、高槻に凱旋します。

昭和18(1943)年9月22日、『軍令陸甲第九十一號』により第四師團に臨時動員下令、10月2日、動員完結(平松順一中佐以下909名)、第四師團は第二十五軍(田辺盛武中将)隷下となり、10月8日、聯隊は一〇五船團に分乗し宇品を出航、11月3日、昭南島(シンガポール)に入港、5日、昭南島を出航、8日、スマトラ島東海岸ベラワンに上陸、19日、聯隊主力は西岸のソロックに、第二中隊はタバヌリ州フタノパンに集結、中部スマトラの海岸地帯に陣地を構築し英印軍の侵攻に備えます。

昭和20(1945)年1月、緬甸方面の戦局悪化に伴い第四師團の第三十九軍(中村明人中将)隷下編入が決定、1月15日、聯隊は第三中隊をスマトラ防衞隊の指揮下に中部スマトラのソロック付近の警備に残置し、主力(第二・第三中隊欠)は泰国転進の準備を開始、25日、リオ州パカンバルを出航、26日、昭南島に上陸、28日、昭南島を出航、29日、馬来-泰国国境を通過、31日、バンコクに到着、2月5日、聯隊主力を追及中の第二中隊がバンコクに到着、10日、中隊は獨立混成第七十旅團(小田正人少将)指揮下に入り明號作戰(仏印軍の武装解除)参加のためバンコクを出発、11日、聯隊主力はバンコクを出発し、泰国アユチャ州ナコーンナーヨックに集結し泰国中部への英印軍の侵攻に備え陣地構築にあたります。

3月1日、明號作戰増援のため、第一中隊から抽出された2個小隊がナコーンナーヨックを出発、16日、それぞれウボン警備隊、ウドン警備隊の指揮下に入り明號作戰に参加、ラオス州バンビアン付近の戦闘において兵1名が散華、下士官1名が負傷してしまい、5月8日、作戦終了により聯隊に復帰します。
8日、第二中隊はツドモの仏印軍兵営攻撃中に下士官1名散華、タイニン省ロゴーにおいて兵1名散華、サイゴンにおいて兵1名が散華、作戦終了に伴い南方軍(寺内寿一大将、サイゴン)の指揮下に入り仏印南部の警備にあたります。

4月11日、第三中隊が聯隊に復帰します。

5月14日、聯隊はナコーンナーヨックを出発、泰国北部ランバン付近に移駐、陣地構築にあたります。

8月9日、泰国-ビルマ国境を通過、ビルマ南部シャン州ヴァンロームに移駐、陣地構築にあたるなか、16日、停戦を迎えます。

9月、ナコンサワン、次いでナコーンナーヨックに集結、英軍により武装解除、収容所兵舎・道路建設に使役され、収容所に収容、昭和21(1946)年3月、第八十九兵站地區隊、陸上勤務第百三十中隊が現地復員により聯隊に編入され、6月、メナム川河口において復員船に乗船、6月下旬、鹿児島港に上陸し復員完結します。


工兵第百四聯隊(鳳八九六九)
昭和13(1938)年6月16日、年次動員計画により工兵第四聯隊留守隊に動員下令、20日、編成完結、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)隷下となります。

7月9日、大阪を出発し、10日、大連に上陸集結、教育訓練に任じるなか、7月11日、張鼓峰事件が勃発したため不測の事態に備え、8月11日、師團とともに大連から琿春(東部ソ滿国境)付近に出動しますが、同日、停戦となり大連に帰還します。

9月23日、第百四師團は新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戰闘序列となり、10月初旬、大連を出港、南支に向かい、10月12日0400、海軍の艦砲射撃の援護下、第十八師團(牛島貞雄中将、久留米)とともにバイアス湾に奇襲上陸、稔山壚-平山壚を進撃、15日、惠州、17日、惠州を出発、第五師團に続いて、博羅を通過、19日、増城に進出、第二十一軍先遣隊により広東は攻略され敗敵を追撃し、石橋頭を経て、21日、太平場にて敵を撃破、聯隊は師團とともに流渓水左岸地区を進撃し敵を撃破、24日、従化を攻略、28日、広東に帰還、周辺の警備にあたります。

11月9日、師團とともに従北作戰に参加、従北付近に屯営し、広東奪還を目論む支那第四戰區軍を撃退しつつ警備と治安維持にあたります。

昭和14(1939)年9月下旬、第二十一軍の粤漢線打通、支那第四戰區軍の先制撃破を企図した第十一軍(岡村寧次中将)の翁英作戰に参加、師團とともに北江左岸地区に進出、11月下旬、滬江口に進撃、師團主力の北江敵前渡河を実施、北江沿いに横石の敵種陣地を攻略、敵を撃破しつつ、12月30日、英徳を攻略、次期南寧作戰の発動が迫ったため、昭和15(1940)年1月4日、軍命令により広東北方地区に転進、警備と治安維持にあたります。

昭和15(1940)年2月9日、第二十一軍が廃止され、第百四師團は南支那方面軍(安藤利吉中将)戰闘序列に編入、5月26日、師團とともに第十一軍の宜昌作戰の牽制のための良口作戰に参加、第三十六師團と連携し流渓水左岸地区を北進、青龍岡北方高地・良口南方高地の敵陣を撃破、6月12日、第十一軍が宜昌を攻略したため作戦は終了し、7月10日、広東に帰還、警備と治安維持にあたります。

昭和16(1941)年9月8日、中支那方面軍の長沙方面の作戦を容易にするため第二十三軍(今村均中将、6月28日、南支那方面軍を改編)の四邑北江作戰に師團から工兵第百四聯隊、歩兵第百八聯隊が参加、粤漢線に沿って北上、珠江デルタ地帯の鶴山、単水口付近の敵拠点を攻略、重慶軍を牽制し、10月2日、広東に帰還、警備と治安維持にあたります。

昭和17(1942)年5月27日、浙贛作戰の支作戦、第二十三軍の従源作戰(敵の拒止)に師團とともに参加、源潭壚付近の支那百五十四師を撃破、6月3日、琵江に進撃し北上を欺瞞、清遠付近の支那百五十九師を牽制します。

8月1日、第百四師團長に軍隊教育の権威・鈴木貞次中将が親補されると、師團の錬成に心血を注ぎ、僅か2年程で精強な師團となります。
鈴木師團長の意見具申により兵の徴募管区が大阪から名古屋師管に変更、工兵第百四聯隊も高槻から豊橋に変更されます。

昭和18(1943)年2月、獨立混成第二十三旅團の広州湾進駐作戰に呼応し、第百四師團は白泥苞に進撃し支那軍の移動を封じます。

12月、廣九作戰に参加します。

昭和19(1944)年4月、一號作戰(大陸打通作戰)に備え警備を他部隊と交替し、6月27日、第百四師團は第二段湘桂作戰第一期に第二十三軍の主力として参加、第六方面軍の南下に連動し、粤漢線打通を欺瞞し支那第七戰區軍を牽制のため北江沿いに北上、7月3日、清遠を攻略し、同地北方高地の支那百五十六師、百五十九師の一部を撃破、高田壚、松岡を経て、10日、連江河畔に陣地を占領、支那獨立第九旅團、第百五十四師、百五十六師、百五十九師を牽制、7月下旬、清遠北方に集結し戦力の回復にあたります。

8月上旬、第二段湘桂作戰第二期に参加、鶏崗水を出撃、鉄杭四会道を南下、少数の支那軍を撃破しつつ、9月11日、綏江に進出、聯隊は萩野部隊(工百四聯隊長・萩野中佐、工百四主力、歩百六十一第二大隊)となり、23日、封川を攻略、23日、梧州付近に集結し師團に復帰、支那軍の丹竹飛行場攻略のため、道路構築にあたり、28日、師團は支那第百三十五師第四百五團を撃破し、丹竹飛行場を攻略し平南平地に集結し、支那第九十五師の反撃を撃退しつつ戦力の回復にあたります。

10月23日、師團は西進を開始、江口壚で支那第百三十五師を撃破、30日、新壚に進撃、31日、軍命令により師團は潯州付近で獨立混成第二十三旅團を包囲する支那軍を捕捉するため、武宣東方地区に進撃しますが、険峻な地形、天嶮による敵陣に進撃は遅滞、11月1日、潯州付近の敵は撤退を開始、6日、聯隊は雨で増水した象江の渡河作戦を実施、師團主力は武宣西方地区に進撃、6日、象県を攻略占領します。
7日、軍命令により支那軍の柳州飛行場攻略のため、進撃を開始、聯隊は武江の渡河作戦を実施しますが、渡河資材が不足し苦戦、9日、師團主力を対岸に進出させ、1620、飛行場を攻略、12日、柳州西方に集結、さらに16日、忻城を攻略、馬泗において支那第百三十五師を捕捉殲滅します。
19日、師團は大塘壚において丹竹に反転命令を受領、20日、反転を開始、拉堡街、来賓、潯州、平南を経て丹竹に反転、12月中旬、次いで梧州に、昭和20(1945)年初旬、四会に反転集結します。

1月19日、第二段湘桂作戰第三期(粤漢作戰)に参加、第二十軍の南下に連動し粤漢線打通、富国炭田攻略を企図し、聯隊から抽出し劔部隊(長門口中佐、輜重百四聯隊基幹)に配属、主力は師團とともに四会、清遠、下歩坪を北上、少数の支那軍を撃破しつつ、24日、英徳に入城(26日、円支隊:歩百六十一基幹が韶関、富国炭田を攻略)、1月末、師團は第二十三軍命令のセ號戦備(米軍の支那南部上陸に呼応する重慶軍の反撃に備えた戦備)のため反転を開始、北江に沿って南下、鉄道により樟木頭、惠州を経て、2月中旬、海豊、陸豊地区に集結、警備にあたるとともに情報収集を実施、自発的に沿岸防御陣地構築を開始します。

4月1日、『第二十三軍作戰準備要項』策定により海豊、陸豊地区に上陸する敵を水際において撃破するとともに、敵の神鋼を水際において拒止、軍主力の集結を援護する為、地下陣地の構築を本格化、陣地構築がほぼ完成したのに伴い、教育訓練に移行します。

7月下旬、全般情勢の変化により米軍の広東方面への接近は無くなったため、第二十三軍隷下2個師團の中支方面転用にともなう戦線縮小により第百四師團は広東省恵州に移駐、8月16日、停戦を迎えます。

10月下旬、支那第七戦区軍(余漢謀上将)により武装解除、昭和21(1946)年4月、浦賀に上陸し復員完結します。


工兵第三十四聯隊(椿六八四七)
第三十四師團工兵隊(椿六八四七)
昭和14(1939)年3月11日、『軍令陸甲第六號』において工兵第四聯隊留守隊に編成下令、20日、編成完結、3月1日、乙編成師團として編成完結した第三十四師團(關亀治中将、大阪)に隷属、4月、師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。

4月3日、高槻を出発、師團主力と合流、10日、中支湖北省陽暹に上陸し、湖北省黄坡の警備に従事、11月31日、第三十四師團は第三十九師團(村上啓作中将、広島)に任務を引継ぎ、漢口に集結し、11月17日、江西省南昌県南昌に移駐、国府軍第九戰區軍第十九集團軍と対峙しつつ同地の警備に従事、26日、冬季攻勢撃滅戦、22日、沙古岺付近の戦闘に参加します。

昭和15(1940)年4月5日、南昌南方敵戦力破砕作戰、25日、師團の六號作戰、29日、同七號作戰、6月7日、同九號作戰、10月12日、同十號作戰に参加します。

昭和16(1941)年1月7日、師團の十二號作戰、2月17日、同十三號作戰、3月13日、同第一次錦江作戰、8月20日、第一次長沙作戰、9月27日、奉新攻略戦、10月3日、市叉街攻略戦、12月23日、第二次錦江作戰に参加します。

昭和17(1942)年4月28日、ドーリットルの本土空襲機が着陸した浙江省方面の敵飛行場、軍事施設を覆滅するため、第十一軍の浙贛作戰に師團とともに参加、南昌から東進し、5月31日、謝埠市付近撫河の渡河作戦を実施、6月14日、鄧埠・華村清河の渡河作戦に参加、敵飛行場、軍事施設、鉄道施設の破壊を実施し転進します。

昭和18(1943)年5月、第十一軍の江北・江南殲滅作戰に参加、6月22日、『軍令陸甲第四十一號』により工兵第三十四聯隊は第三十四師團工兵隊に改編され、10月18日、常徳殲滅作戰に参加、昭和19(1944)年1月10日、作戦終了とともに南昌の警備にあたります。

昭和19(1944)年4月29日、一號作戰(大陸打通作戦)では師團は第十一軍の湘桂作戰に参加、南昌を出撃し、安義-新市東方地区を西進南下、6月18日、長沙攻略の要所・岳麓山を攻略、7月下旬、醴陵-萍御を経て南下、第三師團に続行し軍左縦隊となり、敵の攻勢を撃退しつつ茶陵-安仁-耒陽に進撃し軍主力の衝陽攻撃を容易にし、常寧を経て、10月上旬、広西省全県に到着し同地の守備に就き戦力を回復します。

昭和20(1945)年4月、師團は第二十軍(坂西一良中将)の芷江作戰に連動し、全県を出撃、新寧-武岡方面に進撃するも、軍命令により反転、4月18日、支那派遣軍直轄部隊となり、6月11日、中支方面の防衛強化のため湖南省宝慶を出発、敵中を突破し、易俗河-渕陽-萬載-上高を経て8月上旬、安義に進出、8月9日、江西省九江に到着、師團とともに長江北岸を浦口に移動中、停戦を迎えました。


工兵第四十四聯隊(橘一四一五八)
昭和19(1944)年4月6日、『軍令陸甲第三十七號』において工兵第四聯隊補充隊は工兵第四十四聯隊に改編、4月4日に留守第四師團から改編された第四十四師團(關原六中将、大阪)に編入され、教育訓練を実施します。

7月6日、『軍令陸甲第七十五號』により臨時動員下令、同日、動員完結、新たに工兵第四聯隊補充隊が編成されます。
第四十四師團(川並密中将)は動員完結とともに信太山陸軍演習廠舎に移駐、主力を大阪府南部に、一部を和歌山に配置、聯隊は陣地構築を実施し本土防衛にあたります。

昭和20(1945)年1月20日、『帝國陸海軍作戰計畫大網』の策定により決號作戰(本土決戦)の準備として、3月、師團主力とともに第十二方面軍戦闘序列に編入され、列車により作戦地である関東平野に進出します。

4月8日、師團は新設された第五十一軍(野田謙吾中将)戦闘序列に編入、機動打撃師團として司令部を石岡(のち小川に前進)に、聯隊は各拠点の主力となる歩兵聯隊に分属、鹿島灘への上陸が予測される米軍迎撃の陣地構築中、8月15日、停戦を迎えました。
9月1日、『軍令陸甲第百十六號』により復員下令、20日、鉾田において復員完結します。


第二百二十五師團工兵隊(金剛二八二六二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、6月20日、大阪師管區工兵補充隊において編成され、6月19日、第十五方面軍戦闘序列に編入された第二百二十五師團(落合鼎五中将)に隷属します。

工兵隊は師團の作戦地である青野原陸軍演習場に移動、作戦準備中の8月15日、停戦を迎え、9月8日、同地において復員完結します。


補充部隊
獨立工兵第二十三聯隊(昭和15年7月2日、編成)

獨立工兵第十九聯隊(昭和15年7月7日)

工兵第二十五聯隊(昭和16年7月16日)

第十六野戰郵便隊(昭和16年10月8日)

第六十八師團工兵隊(昭和17年2月2日)

獨立混成第二十五旅團工兵隊(昭和18年11月16日)

獨立混成第三十七旅團工兵隊(昭和19年2月10日)

獨立混成第四十七旅團工兵隊(昭和19年5月22日)

第五十七野戰道路隊(昭和19年6月24日)

工兵第八十四聯隊(昭和19年7月6日)

獨立工兵第六十五大隊(昭和19年7月21日)

獨立混成第七十三旅團工兵隊(昭和19年10月11日)

獨立混成第八十旅團工兵隊(昭和20年1月16日)

第百三十二師團工兵隊(昭和20年2月1日)

獨立混成第二旅團工兵隊(昭和20年2月1日)

獨立混成第八十三旅團工兵隊(昭和20年2月1日)

獨立工兵第七十一大隊(昭和20年2月2日)

獨立工兵第百十二大隊(昭和20年6月12日)

獨立混成第百二十三旅團工兵隊(昭和20年7月10日)

獨立工兵第百十三大隊(昭和20年7月10日)


主要参考文献
『高槻市史』(昭和59年 高槻市史編さん委員会)

『日本陸軍兵科連隊』(平成6年11月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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