当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

山砲兵第十一聯隊

陸上自衛隊・第14旅団司令部が所在する善通寺駐屯地は山砲兵第十一聯隊の跡地にあります。
兵営では後に山砲兵第四十聯隊山砲兵第五十五聯隊獨立山砲兵第六聯隊第百五十五師團砲兵隊が編成されます。
山砲兵第十一聯隊 E 将校集会所 南西から(善通寺)
▲善通寺駐屯地内に遺る将校集会所

【探索日時】
平成20年1月2日、4月19日、平成24年4月20~22日





第十一師團関連諸施設配置
第十一師團 大正期(善通寺)
▲『最新善通寺市街圖』(大正末年頃)

第十一師團 大正11年11月『善通寺全景』 空撮(善通寺)
▲『善通寺全景』(大正11年11月空撮)

第十一師團 善通寺 昭和16頃(善通寺)
▲現在の地図に転写
※緑文字が当記事の紹介施設
① 第十一師團司令部
② 歩兵第十旅團司令部
③ 旧善通寺聯隊區司令部
④ 第十一師團経理部 被服庫
⑤ 第十一師團兵器部
⑥ 第十一師團 善通寺倉庫
⑦ 第十一師團 善通寺倉庫
⑧ 山砲兵第十一聯隊
⑨ 砲兵 露天馬場
⑩ 工兵第十一聯隊
⑪ 善通寺工兵作業場
⑫ 第十一師團経理部 糧秣倉庫
⑬ 騎兵第十一聯隊
⑭ 輜重兵第十一聯隊
⑮ 善通寺偕行社
⑯ 第十一師團長官舎
⑰ 善通寺陸軍練兵場
⑱ 第十一師團兵器部 火薬庫
⑲ 吉原陸軍射撃場
⑳ 善通寺陸軍病院
㉑ 善通寺陸軍病院 臨時第一分院
㉒ 善通寺憲兵隊
㉓ 善通寺憲兵分隊
㉔ 善通寺陸軍墓地
㉕ 善通寺歩兵作業場
㉖ 乃木神社
㉗ 香川縣護國神社
※名称は昭和12(1937)年頃


遺構について ※青字は地図にリンクしています
⑧ 山砲兵第十一聯隊
明治29(1896)年5月14日、香川県仲多度郡善通寺村(現、善通寺市)に第十一師團の設置が決定、6月9日、用地買収及び営舎建設工事が開始されます。
明治30(1897)年10月6日、野戰砲兵第十一聯隊第一中隊(北川繁次郎大尉)が広島から善通寺に転営、明治31(1898)年12月4日、編成完結します。
山砲兵第十一聯隊 山砲兵第十一聯隊営門(善通寺)
▲野戰砲兵第十一聯隊営門

山砲兵第十一聯隊 営門付近(善通寺)
▲現在の営門付近(現在は門ではなくなっています)

明治37(1904)年5月21日から明治39(1906)年1月12日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に際し同聯隊補充中隊、明治42(1909)年9月7日から明治44(1911)年5月27日、滿洲駐箚、昭和7(1932)年2月23日から昭和8(1933)年4月4日、第一次上海事變に際し同聯隊留守隊、昭和12(1937)年8月19日から昭和13(1938)年4月12日、第二次上海事變に際し同聯隊補充隊、10月6日からの滿洲駐箚に際し同聯隊留守隊が動員されます。

明治40(1907)年10月9日、野戰砲兵第十一聯隊は野砲兵第十一聯隊に改編、大正11(1922)年8月15日、山砲兵第十一聯隊に改編されます。

昭和6(1931)年4月12日、兵営内に歩砲兵無線電信教習所が開設されます。

昭和14(1939)年8月7日、山砲兵第十一聯隊留守隊において山砲兵第四十聯隊が編成され中支に出征、昭和15(1940)年7月1日、留守隊は補充隊に改称、8月2日、山砲兵第十一聯隊留守隊は山砲兵第五十五聯隊に改編されます。
昭和16(1941)年10月12日、山砲兵第五十五聯隊の泰国出征に伴い、山砲兵第五十五聯隊補充隊が動員され、昭和20(1945)年4月1日、山砲兵第五十五聯隊補充隊は善通寺師管區砲兵補充隊に改編され、5月1日、獨立山砲兵第六聯隊を編成、6月20日、善通寺師管區司令部の四國軍管區司令部改編に伴い四國軍管區砲兵補充隊に改編、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
22日、御真影を奉還し、重要書類を焼却、10月30日、善通寺町、同警察署等の協力を得て自動貨車により兵器・弾薬・被服・糧秣・軍馬・陣営具他軍需品を工兵営に移送するとともに、町民の経歴で兵舎の清掃を行います。

27日、米第24歩兵師団情報視察団7名に続き、11月1・2日、師団の一部1,200名が善通寺に進駐し旧砲兵営に入り香川県下の軍事施設に分駐し、兵器、弾薬、糧食、被服等を接収します。
12月8日、米軍は少数を残置し高知に移駐、同師団対戦車隊が新たに進駐、12月末、米軍と交代し英第5旅団が旧騎兵営に進駐して来ます。

昭和22(1947)年12月24日、旧砲兵営は接収解除され大蔵省に移管、1/5が四国鉄道局(教習所)に、残りが善通寺町(授産所、昭和24年7月25日、善通寺農業会に)に転用されます。
昭和25(1950)年9月6日、善通寺町の誘致により、旧砲兵営に警察予備隊・善通寺駐屯地の設置が決定、15日、全域が警察予備隊に移管され、16日、旧砲兵営に善通寺訓練所先発隊16名に続き、20日、本隊1,000名、12月5~8日、本隊3,600名が到着、善通寺駐屯地が発足します。
昭和27(1952)年10月15日、警察予備隊は保安隊に、昭和29(1954)年7月1日、保安隊は自衛隊に改編され現在は第14旅団司令部が所在し、日夜我が国の平和を護っています。

駐屯地記念行事のブログを見ていると以前は聯隊本部庁舎、兵舎や砲廠も遺っていた様ですが、第14旅団の新設にともない多くの建物が建て替えられてしまいました。
下記の遺構は全て善通寺駐屯地内に遺ります。
見学については毎年4月末に開催される駐屯地開設行事の際、旧山砲兵営(現、1キャンプ)が会場となるのですが、残念ながら行ったことが無いのでどの程度開放されているのか不明です。
見学の際に「この辺りは開放区域外」と仰っていた様な気が・・・?
詳しくは駐屯地広報班までお問い合わせ下さい。

山砲兵第十一聯隊 善通寺 現在③(善通寺)
▲遺構の配置

D 木造建物
用途不明の建物です。
煉瓦基礎、瓦葺で当時の姿を良く遺していると思われます。
山砲兵第十一聯隊 D 南西から(善通寺)
▲正面(駐屯地内)から

山砲兵第十一聯隊 D 北東から(善通寺)
▲裏側(道路側)から
 裏側には仮設の小屋が建てられており、見通しが悪いです。

山砲兵第十一聯隊 D 東側(善通寺)
▲裏側の窓


E 将校集会所
明治31(1898)年11月に建てられました。
現在は倉庫として使用されている様です。
山砲兵第十一聯隊 E 将校集会所 南から(善通寺)
▲正面から
 植栽が茂り過ぎて見通せません。

上掲写真左端に切り株と石柱が見えますが、何時もお世話になっている神埼様の『kanレポート』によると以前はここに「梨本宮殿下御手植」(守正王大将)の石碑とともに松の木があった様ですが、僕が訪ねた時は切り倒され石碑も撤去、外周の石柵も上部が破壊されていました。

山砲兵第十一聯隊 E 将校集会所 南側(善通寺)
▲入口と正面の窓
  入口、窓とも控え目の軒飾りがあるだけで、非常に簡素な造りです。

山砲兵第十一聯隊 E 将校集会所 東から(善通寺)
▲東側

山砲兵第十一聯隊 E 将校集会所 西から(善通寺)
▲西側
  戦後に?窓(背の低い窓4枚)が増やされています。

山砲兵第十一聯隊 E 将校集会所 北側の出口(善通寺)
▲裏側には渡り廊下の痕跡が遺ります。

山砲兵第十一聯隊 E 将校集会所 基礎のガラリ(善通寺)
▲お約束の星章を象ったガラリ


F 演武場
建築時期は不明ですが、大正10年6月に新築物件22棟を受領している記録があるので、その時期に建てられた物かも知れません。
山砲兵第十一聯隊 忠魂社と演武場(善通寺)
▲忠魂社(昭和5年4月4日、将校集会所庭園南西隅に竣工)参拝の写真
  左奥に演武場が写っています。

各地の兵営に遺る演武場と同じ造りです。
山砲兵第十一聯隊 F 南西から(善通寺)
▲表側
  周辺が駐車場になっており、これが一番きれいな写真です。

山砲兵第十一聯隊 F 北東から(善通寺)
▲裏側

山砲兵第十一聯隊 F 東から(善通寺)
▲側面


ケ 日露戦役三十周年記念
   馬功碑

山砲兵第十一聯隊 ケ 日露戦役三十周年記念(善通寺)
▲日露戦役三十周年記念碑
  正面の碑文は何とか読めますが、裏面は摩滅が酷く全く読めません。

山砲兵第十一聯隊 ケ 馬功碑(台座)(善通寺)
▲馬功碑(台座)
  元々はこの上に何かあった様ですが、元々の姿は不明です。
  裏に銘板の貼ってあった様な痕跡がありますが、こちらも剥がされており詳細不明です。


い 砲兵聯隊碑
昭和44年4月、善砲会により建立されました。
裏面には山砲兵第十一』聯隊の略歴が刻字されています。
山砲兵第十一聯隊 い 砲兵聯隊碑(善通寺)


ト 歩哨舎
駐屯地裏門にあります。
この歩哨舎も敷地内部にあります。
この付近には弾薬庫があったので、その歩哨舎を移設した物かも知れません。
山砲兵第十一聯隊 ト 歩哨舎(善通寺)


⑨ 砲兵 露天馬場
明治29(1896)年5月14日、香川県仲多度郡善通寺村(現、善通寺市)に第十一師團の設置が決定、6月9日、用地買収及び営舎建設工事が開始されます。
明治30(1897)年10月6日、野戰砲兵第十一聯隊が広島から善通寺に転営、露天馬場の使用が開始されます。
昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、11月1・2日、米第24歩兵師団により接収されます。
昭和21(1946)年4月12日、善通寺農業会に払下げられ農耕地に、昭和22(1947)年3月10日、善通寺町に払下げられ、全域が住宅地に転換され現在に至ります。

コ 境界石標
寸法、長さ、外見から境界石標と思われますが、正面側にブロック塀が建てられており確認できません。
山砲兵第十一聯隊 コ 石標 北東から(善通寺)


ネ 殊勲馬 佐野號之墓(軍馬佐野號忠勇碑)
農機具小屋の裏にあり、非常に見にくい位置に建立されています。
佐野號は陸中の出身で明治二十七八年戰役(日清戦争)に近衞野砲兵聯隊とともに出征、明治32(1899)年12月、野砲兵第十一聯隊に転営、明治三十七八年戰役(日露戦争)の旅順攻城戦で活躍します。
大正8年8月、佐野號の生前の偉勲を称えるべく、同碑が建立されました。
ネ 殊勲馬 佐野號之墓(善通寺)


●善通寺衛戍監獄
砲兵露天馬場の北側にありました。
明治33(1900)年4月1日、善通寺衛戍監獄が開庁、大正12(1923)年3月23日、勅令第四十七號『陸軍監獄官制』改正の公布により、4月1日、善通寺衛戍拘禁所と改称し司令部構内に移転、跡地は善通寺町に払下げられます。
昭和15(1940)年7月31日、勅令第五百十一號『陸軍監獄官制』改正の公布により善通寺衛戍拘禁所は善通寺陸軍拘禁所に改称、昭和20(1945)年2月28日、善通寺師管區拘禁所、6月20日、四國軍管區拘禁所に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


衛戍・編成部隊
山砲兵第十一聯隊(錦二四六五、滿洲第二百五十一部隊)
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため軍備増強を決定します。
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成を決定します。

11月17日、野戰砲兵第五聯隊より人員を抽出、廣島陸軍豫備病院内に仮事務所を設置、野戰砲兵第十一聯隊第一中隊(北川繁次郎大尉)が新設されます。
明治30(1897)年10月2日、第一中隊は広島の仮兵営を出発、3日、善通寺に転営、11日、初代聯隊長・出石猷彦大佐が補職され、11月1日、着任、12月1日、第一中隊の人馬を基幹とし同日入営の新兵を加え、2・3日、馬匹105頭を加え第二・第四中隊を編成し大隊編成が完結します。
明治31(1898)年12月1日、第七中隊が編成、明治32(1899)年12月1日、第七中隊を第六中隊に改称し第三中隊を新設、三十一年式野砲から三十一年式山砲に改編、4日、近衞師團、第一師團から馬匹90頭受領し聯隊の編成(2個大隊)を完結します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月19日、聯隊(足立愛蔵大佐)に動員下令、4月29日、動員完結、5月21・.22日、師團とともに輸送船6隻に分乗し詫間港を出航、25~29日、清國盛京省張家屯に上陸、第二中隊を先頭に関家店に集結、6月6日、第十一師團は第一師團(松本務本中将、東京)とともに第三軍(乃木希典大将)戦闘序列に編入され、第一師團南方の南泡子崖に師團司令部を設置します。

25日、軍は師團に旅順要塞(松樹山、二龍山、東鶏冠山北の3永久堡塁)攻略の要地・歪頭山、剣山攻略を下令、26日、聯隊は師團主力に第一大隊、右縦隊(歩四十四)に第二大隊、中央縦隊(歩四十三、歩二十二)に第四中隊、左縦隊(歩十二)に第二中隊を編入、剣山の敵陣を砲撃、歩四十三による剣山攻略を容易にします。

7月2日、露軍は砲兵の支援射撃のもと逆襲を開始、聯隊は歩二十二、歩四十三を支援し剣山を堅守し敵を撃退します。
26日、聯隊は師團主力の攻撃を支援、老左山、次いで激戦ののち28日、大白山を攻略し追撃射を実施、8月6日、聯隊主力は左翼隊(歩二十二旅團長・神尾光臣少将、歩十二、歩四十三)として、第二大隊(伊藤弦少佐)は右翼隊(歩十旅團長・山中信儀少将、歩二十二、歩四十四)に配属され歩兵の前進に合わせ砲撃を実施、旅順要塞・及び旅順港の敵艦艇からの砲撃に損害を受けますが、8日、我軍の配置を見渡せる大狐山を、9日、小狐山を攻略します。

8月17日、師團は旅順要塞(東鶏冠山北堡塁)攻撃の配置として聯隊主力を砲兵隊に部署し、18日、築城を開始、第一大隊は大狐山、第二大隊は王家屯北方、第三中隊は小狐山に布陣、19日、攻城砲兵司令部(豐島陽蔵少将)の準備射撃に続いて、20日、聯隊は掩蓋付の敵散兵壕に砲撃を開始、21日、第二大隊が支援した歩四十四が東鶏冠山北堡塁を攻撃し、一時東鶏冠山第二堡塁を攻略しますが、露軍の逆襲により堡塁を奪還され、次いで歩二十二は東側から、第一大隊が支援した歩十二は歩四十四の後続として突撃するも敵の激烈な機関銃掃射により大損害を受け攻撃は頓挫、22日、軍命令により師團は東鶏冠山の攻撃を中断し、23日、望台砲台方面に攻撃を変更、歩四十四、歩二十二に続き、24日、歩十二が突撃するも露軍の防御は堅牢でまたも損害が増加、さらに弾薬の欠乏により軍命令により攻撃は中止されます。

9月2日、師團は敵の銃砲火を避けるべく対壕作業(交通塹壕掘削)を開始、聯隊は砲弾が欠乏するなか、対壕作業を妨害する敵兵を狙撃射撃、10月1日、本土から輸送された二十八糎榴弾砲が砲撃を開始、聯隊は敵探照灯・要塞に対し砲撃を実施、9日、歩十二は第三中隊の支援を受け、奇襲により前進拠点を攻略、16日、聯隊指揮下に野戰重砲兵第十八聯隊の1個大隊が編入されます。
26日、榴弾砲の支援を受け、第一師團は松樹山堡塁前方散兵壕、第九師團(大島久直中将、金沢)は盤龍山東堡塁を攻略、、続いて夫々松樹山、二龍山永久堡塁を攻撃、聯隊は東鶏冠山北堡塁への砲撃を開始、30日、第十一師團主力は北堡塁への攻撃を再開しますが露軍の銃火は凄まじく損害が増加、堡塁攻略には至らず、11月1日、聯隊の支援射撃のもと歩二十二第二大隊が北堡塁に突撃、工兵小隊爆破隊の爆破により防壁内に突入しますが敵の逆襲を受け第五・第八中隊が玉砕、攻撃は中止されます。

26日、二十八糎榴弾砲、続いて聯隊の支援のもと、師團は北側から東鶏冠山北堡塁攻撃を開始、またも露軍の激烈な反撃により甚大な損害を受け、師團長・土屋中将も頭部に重傷をおい後送(12月1日、鮫島重雄中将着任)、第一・第九師團の突撃も頓挫し攻撃は一時中止されます。
同日、第三軍は戦局を打開すべく歩十二第一大隊(児玉少佐以下332名)を含む特別豫備隊(歩兵第二旅團長・中村覚少将)を特別支隊(白襷隊、3,083名)に改編し、松樹山第四砲台を奇襲しますが、地雷源、及び敵の照射射撃により大損害を受け、27日、遂に攻撃は中止されます。
27日、軍は大本營の意見を入れ第一師團、22日に戦場に到着した第七師團(大迫尚敏中将、旭川)に二百三高地攻略を下命、12月5日、第一、第七師團により二百三高地が攻略されます。
11月27日、聯隊は東鶏冠山北堡塁への砲撃を開始、18日、坑道掘削を行っていた師團は北堡塁への攻撃を開始、工十一が坑道に装填した爆薬を爆破し正面胸墻、備砲を爆砕し歩二十二、次いで後備歩三十八の突撃により、遂に堡塁を攻略、続いて29日、聯隊は二龍山堡塁を砲撃し第九師團は同堡塁を攻略、31日、松樹山堡塁を砲撃し第一師團が同堡塁を攻略、明治38(1905)年1月1日、旅順要塞司令官ステッセル中将が我軍に降伏を申し入れ、旅順要塞は陥落、13日、旅順入城式が挙行され、聯隊は建制順に工十一に続いて入城します。
3度に及ぶ旅順要塞攻撃による聯隊の損害は27名散華、161名負傷でした。

12日、師團は新編された鴨緑江軍(川村景明大将)戦闘序列に編入され、1月20日、第三軍の進路偽装のため旅順から北上を開始、降雪に苦闘しながら、2月7~15日、鳳凰城に集結、17日、第一大隊は先行し出発、22日、聯隊は師團左翼(歩四十四)に第五中隊を、右翼(歩四十三)に第一大隊を、予備隊に聯隊主力を分散配備し滿洲軍(大山巌大将)の奉天攻撃の陽動作戦である清河城攻略戦に参加、24日、第一大隊は敵砲兵を牽制、第二大隊は積雪の中、六〇高地に山砲を分解臂力搬送で運搬し敵兵を瞰射、歩十二、歩四十四の鉢巻山攻略を支援し、次いで師團は清河城を攻略、露軍は鴨緑江軍を過大評価し兵力を移動させます。

26日、師團は馬郡鄲に進撃し優勢な露軍と交戦、聯隊は砲撃により敵砲兵陣地を破砕し、敵の逆襲を撃退、3月8日、露軍が撤退を始めたため、第一大隊は追撃隊に編入され撫順に追撃しますが、地形を利用した優勢な敵の逆襲により損害を受けるも、敵は奉天方面に続いて全線で退却を開始、10日、滿洲軍により奉天城が攻略され、18日、師團は范河左岸に沿って露軍を追撃し、4月19日、営盤付近に移駐し戦力を回復、5月8日、八家子付近に移駐、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結します。
16日、両国軍は休戦に入り、12月29日、聯隊は八家子を出発し、明治39(1906)1月3日、奉天に集結、1日、第一大隊が萬龍丸に乗船、5日、多度津港に上陸、郷土の歓迎を受け善通寺に凱旋、15日、聯隊全部が凱旋、8日、師團に復員下令、18日、復員完結します。

明治40(1907)年10月9日、軍令陸乙第三號『陸軍平時編制』改正に伴い野戰砲兵第十一聯隊は野砲兵第十一聯隊に改称、明治41(1908)年、山砲から三八式野砲に装備変更します。

明治42(1909)年8月9日、第十一師團に滿洲駐箚が下命、15日、先発隊に続き9月6日、第二大隊は師團とともに御吉野丸に乗船し詫間港を出航、7日、聯隊主力は仁川丸に乗船し詫間港を出航、10日、第二大隊、11日、聯隊主力は大連に上陸、10日、師團は關東都督府(大島義昌大将)隷下に隷属転移、遼陽に師團司令部を設置、聯隊は海城に屯営し鉄道沿線の警備にあたります。
明治44(1911)年2月13日、『野戰砲兵操典』、『同射撃教範』が改正されたため、聯隊長・庄司鋠四郎中佐は下志津野戰射撃學校に召集されます。
3月7日、第十一師團に代って第五師團の滿洲駐箚が決定、4月20日、聯隊は海城を出発し大連に到着、5月12日、大連を出航し、28日、詫間港に上陸、善通寺に帰還します。

大正9(1920)年9月17日、シベリア出兵のため聯隊に臨時編成下令、24日、編成完結(岡野耕一大佐)、27日、聯隊は第三・第六中隊を留守部隊として残置し聯隊本部・第一中隊は善通寺を出発し師團司令部とともに新高丸に乗船し、29日、第一大隊が、第二大隊が夫々詫間港を出航、10月4日、聯隊本部はウラジオストクに上陸、同地に本部、二番川に第二大隊、シコトワに第一大隊を設置し治安・交通の維持にあたります。

大正10(1910)年5月中旬、第十三師團が警備していたラズドリノーエ、グロデコーウオに南部旅團(歩十旅團)を、スバスカヤに北部旅團(歩二十二旅團)配置し警備にあたります。
4月12日、聯隊は各屯営を出発、13日、第二大隊はスバスカヤ、26日、聯隊本部、10日、第一大隊はニコリスクに移駐します。
7月14日、2個小隊、8月5・11日、第二中隊が南部旅團に編入され馬賊の討伐を実施します。

大正11(1911)年4月4日、聯隊はスバスカヤに集結し、左縦隊(歩二十二旅團長・安芸晉少将、旅團主力、騎十一)に編入され、ズローズドフ駅、アレキサンロフカにおいて日露協約を無視してブッセフカに侵入してきた赤軍装甲車、重火器、歩兵を撃破し赤軍を敗走させ、8日、第一大隊はズボーフツカヤに追撃し敵装甲車を撃破、24日、原駐地に復帰しました。
10日、師團に内地帰還が下命、5月12~28日、第九師團と交代、19日、第二大隊はスバスカヤ、第四中隊はニコリスクを、21日、聯隊主力はニコリスクを出発しウラジオストクに集結、25日、第一大隊、26日、聯隊主力はウラジオストクを出航、5月30日、第一大隊、31日、聯隊主力が詫間湾に上陸し善通寺に帰還、6月4日、復員完結しました。

8月15日、軍令陸乙第十三號『陸軍平時編制』改正(第一次軍備整理)に伴い野砲兵第十一聯隊は山砲兵第十一聯隊に改称、復帰した山砲兵第二聯隊(岡山)の人員・馬匹・資材の一部を編入し、2個大隊9個中隊から3個大隊6個中隊に改編され、三八式野砲から四一式山砲に改編されます。

昭和7(1932)年、支那における排外思想は先鋭化、特に南支地域では国民党の扇動もあり排日・侮日行為は日々深刻化していきました。
1月18日、上海郊外において支那人により日本人僧侶が殺害され、28日、共同租界の警備にあたっていた我が上海海軍特別陸戰隊に支那国府十九路軍が発砲した事から上海事變が勃発します。

2月23日、第十一師團の応急派兵が決定し聯隊に動員下令、24日、動員1日目、第十一師團は第九、第十四師團とともに上海派遣軍(白川義則大将)戦闘序列に編入され、26日、第三大隊の動員完結、同日、大隊は師團先発隊(師團司令部、歩十二、歩四十三)に属し、27日小松島港に到着、第二艦隊「妙高」以下5隻に乗艦し小松島港を出航、28日、聯隊の動員完結、29日、聯隊主力は善通寺を出発し、歩十旅團司令部とともに詫間港を出航、3月1日0525、歩四十三は師團第一陣として長江七了口に敵前上陸を敢行、1100、師團主力の上陸が完了、第三大隊は縦横にのクリークに苦戦しながら臂力搬送で歩四十三を追求、1個中隊が歩四十三を支援し茜涇営において支那軍を撃破、2日、師團主力は瀏河鎮を攻略、3日、婁塘鎮で支那軍を撃破、同日、嘉定城を攻略し追撃の準備中、4日1100、停戦命令を受領したため、同城の警備にあたります。
6日、聯隊主力は七了口に上陸、7日、瀏河鎮に移駐し警備にあたり、12日、第三大隊は嘉定城より羅店鎮に移駐、3月14日、師團に復員下令、19日、聯隊(第一大隊)は呉淞に集結、21日、聯隊主力は呉淞を出航、26日、高松に上陸し善通寺に凱旋、第二大隊は21日、上海集結、23日、呉淞出航、28日、高松上陸、4月2日、復員完結、第三大隊は1日遅れ同経路を辿り、4月4日、復員完結します。

昭和10(1935)年12月21日、四一式山砲から九四式山砲に改編されます(正式受領は昭和11年1月4日、24門充足は5月2日)。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発します。

8月7日、支那国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事挑発行動は日増しに激化、13日、支那軍が我が陸戦隊に攻撃を開始、第二次上海事變が勃発します。
14日、第十一師團に動員下令、上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入され、16日、動員完結(山内保大佐)します。

19日、善通寺を出発、20日、聯隊主力は第一梯団(歩四十三第三大隊、歩四十四)として多度津港から重巡「妙高」以下10隻に分乗し出航、21日、第一梯団は長江川口馬鞍群島に進入し仮泊します。
22日、第一大隊(都村宗一少佐)は大本營直轄となった天谷支隊(歩十旅團長・天谷直次郎少将、歩十二)に編入され多度津港を出航、青島の在留邦人保護に向かいます。

23日0515、第一梯団は海軍の艦砲射撃のもと川沙口沖に敵前上陸を敢行、第八中隊は右翼隊(歩四十三第三大隊)に編入され劉家鎮へ、24日、聯隊主力は左翼隊(歩二十二旅團、歩四十四)に加わり師團先頭として、長江右岸に縦横に巡るクリーク地帯のため山砲を臂力搬送しつつ猛暑に苦闘しながら上海北方の敵陣に進撃、25日、第二大隊は支那軍要地・羅店鎮北側の敵陣に、第三大隊は同東方の敵陣に効力射準備・制圧射撃を開始し、支那軍の逆襲を阻止します。
26日、馬匹が揚陸され弾薬の補充が進展、28日、海軍機の爆撃とともに突撃支援射撃を実施、歩二十二、歩四十四が羅店鎮を攻略、29日、第二大隊正面に逆襲してきた支那軍を聯隊全力の直射により撃退、30日、北支那海に待機中の天谷支隊は上海派遣軍戦闘序列に隷属転移し呉淞に上陸、31日、歩四十三が劉家鎮、同浦鎮、孟家宅、9月1日、聯隊は左翼隊に協力し敵砲兵を金家宅、陶家宅において撃破、5日、師團右翼端の騎十一正面に支那軍1,000が侵攻、6日、第七中隊は騎十一と協力して撃破します。

6日、第一大隊は天谷支隊歩十二の宝山城を攻略を支援、9日、大隊は引き続き支隊を支援し唐家屯、浦夾橋、10日、顧家屯、王家屯、真家屯、11日、北曹屯、12日、月浦鎮を攻略、同日、重藤支隊(臺灣守備司令部・重藤千秋少将、臺灣歩一、同二)が師團指揮下に編入され、13日、天谷支隊が師團に復帰し師團左翼に展開します。
18日、聯隊は馬路塘に進出し制圧射撃を実施、21日、聯隊主力は右翼隊、第一大隊は左翼隊を支援し、師團は羅店鎮南側の支那軍を攻撃、頑強な陣地に拠る支那第一一師第三三旅第六五営軍に苦戦しますが逐次前進、10月7日、王家宅を攻略、9日、北覧溝以南地区の支那軍を攻撃、13日、聯隊の支援射撃のもと歩四十四が揚涇クリークの渡河に成功し新宅を攻略しますが、敵の逆襲に阻まれて進撃は遅滞、17日、軍命令により師團は歩二十二を残置し現陣地を確保しつつ羅店鎮東方に集結します。

26日、第三大隊は歩四十三に編入され軍右翼方向の側背援護のため田宅に進撃、聯隊は永津支隊(歩二十二聯隊長・永津佐比重大佐)に第一大隊、中央隊(歩十旅團長・天谷少将)第五中隊、左翼隊(歩二十二旅團長・黒岩義勝少将)に第二大隊を配属し南翔作戰に参加、聯隊は敵砲兵及び陣地に砲撃を実施、11月5日、歩二十二旅團(歩四十三、歩四十四)は南翔方面より南下し軍右翼に迫った支那軍を牽制すべく江橋鎮に進撃、10日、第三大隊の効力射準備射撃のもと歩四十四が江橋鎮を攻略します。
11月8日、上海派遣飛行第一中隊(有田直滿少佐)の爆撃に続き、聯隊は攻城重砲第一聯隊(湯淺榮治郎大佐)とともに敵陣に砲撃を実施し敵砲兵の制圧及び敵の逆襲を阻止、12日、師團は南翔を攻略、上海周辺の支那軍が潰走し始めたため聯隊は第三大隊を追撃隊(歩二十二旅團長・黒岩少将、歩四十三)に編入し追撃を開始、14日、太倉を攻略、追撃隊は歩十旅團(歩十二)・歩四十三に交代、第三大隊は聯隊に復帰し、第二大隊が追撃隊に編入、15日、師團主力は追撃隊を追求、17日、第二大隊は聯隊に復帰、18日、聯隊は張家基において第十六師團を支援し常熱付近、石墩-湯圧間の掩蓋機関銃陣地を砲撃、19日、第三大隊は歩十旅團に編入され無錫城に進撃し紅葉山の敵陣を砲撃、26日、歩十二が無錫城を攻略、第七中隊は歩十二とともに追撃を開始、29日、歩十九とともに常州を攻略します。
27日、聯隊主力は西宅を出発し、28日、無錫に移駐、29日、第一・第二大隊が集結(第七中隊欠)、警備にあたります。

12月4日、歩十旅團は軍直轄(天谷支隊)となり、5日、無錫を出発し上海に集結、6日、長江の要地・鎮江に進撃、7日、鎮江を攻略(攻略が早かったため南京の様な敗残兵による略奪、強姦は殆ど無し)、11日、対岸の焦山砲台を海軍機の支援のもと攻略、14日、揚州城を攻略し警備にあたります。

12月3日、師團主力は南支方面の作戦に転用が決定、第五軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に隷属転移、8日、聯隊は師團とともに無錫を出発、蘇州、昆山、南翔を経て、12日、上海に集結、15日、高千穂丸に乗船し上海を出航し東シナ海を南下中、23日、作戦は中止されたため、29~31日、台湾高雄州坊寮に上陸し新埠に集結、昭和13(1938)年1月2日、第三大隊は新東勢、3日、聯隊本部、第一大隊は新北勢に、第二大隊は下浮州に移駐し広東上陸作戦に備えますが、2月28日、師團に復員下令、3月6日、高雄を出航、23~27日、師團主力は坂出港に入港し、各衛戍地に凱旋、4月12日、復員完結します。

昭和13(1938)年1月8日、天谷支隊は揚州警備を第三師團と交代し、16日、第十六師團と交代し南京の警備にあたり、3月19日、南京下関馬石唐を出航、30日、天谷支隊は坂出港に入港し、4月12日、復員完結します。

9月22日、軍令陸甲第六十五號『滿洲派遣臨時編成』により第十一師團の滿洲駐箚が決定し、臨時編成下令、10月5日、編成完結、7日、坂出港を出航、9日、釜山に上陸、12日、師團は關東軍(植田謙吉大将)戦闘序列に編入、13日、聯隊は海城に集結し訓練を実施しつつ北満移駐の準備にあたり、12月15日、密山付近に移駐のため海城を出発、18日、本部を密山に設置、虎密地区(虎林・密山地区)防衛任務にあたります。

昭和14(1939)年6月15日、大陸命第三〇二號により第十一師團は新編された第五軍(土肥原賢二中将)に隷属転移、担任地区は虎林、密山に加え饒河(饒穆区)に更改、警備・訓練にあたります。

5月11日、ソ連の意を受けた外蒙軍がノモンハン付近で滿洲國に越境して来た事からノモンハン事件が発生、16日1900、關東軍司令部は全滿防衛・防空を下令、聯隊は1個中隊を派遣し第十二野戰高射砲隊とともに東安の防空にあたります(9月25日、解除)。

11月13日、師團は東安省虎林縣虎林への移駐を下命され、12月8日、第一大隊、16日、聯隊主力の移駐が完了、饒河虎林県(饒虎区新設)の防衛、匪賊討伐にあたります。

昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令、第一・第八・第九・第十・第十一・第十二・第十四・第十六師團は満州永久駐屯師團に指定されます。

昭和16(1941)年7月7日、關東軍特種演習動員下令(特臨編第一號(第百一次動員))、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第十一師團に臨時動員下令、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、8月13日、聯隊の編成完結、聯隊は8月2日に新編された第十一砲兵團司令部(河野省三大佐)指揮下に編入され、12日、師團は渡河材料を前線に輸送、防衛地区内の道路改修、偵察班を国境に配備、国境河川の気象観測、糧秣の集積をするなど対ソ連戦を見越した作戦準備を完了しますが、準備中の8月9日、ソ連軍の欧州方面移駐は予測以下な事から対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

9月9日、聯隊は兵要地誌調査隊を編成し、饒河公司に派遣し第五軍司令官指揮下に編入、兵要地誌調査を実施します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和19(1944)年2月18日、中部太平洋方面の防衛のため第三十一軍(小畑英良中将)が新設、22日、『陸亞密第百號』により第十一師團に第六派遣隊の編成下令、聯隊からは第三大隊(加藤三夫大尉以下367名)が抽出され、編成完結(第十一歩兵團長・重松潔少将)、26日、虎林を出発、3月20日、大宮島(グアム島)に上陸します
山砲兵第十一聯隊 加藤三夫大尉(善通寺)
▲第三大隊長・加藤三夫大尉
  大隊は大宮島において獨立混成第四十八旅團砲兵隊に改編、
  7月25日、米上陸部隊と交戦、兵勤高地において敵戦車6両を
  撃破、軍司令官より感状が授与されますが、加藤大尉以下
  砲兵隊は玉砕しました。
※第六派遣隊については「歩兵第四十三聯隊 (旧歩兵第六十二聯隊)」の記事参照

4月9日、聯隊は獨立臨時高射砲隊を編成(赤誠隊)し、防空に配置します。

8月5日、陸亞密第百號(第六派遣隊)により欠如した各第三大隊を在営者により補填(第四・第八・第十二中隊欠)します。

昭和20(1945)年4月1日、陸亞機密第百五十號により第十一師團の内地移駐が下令、虎林の防衛・警備を獨立混成第七十七旅團に移譲し、8日、師團は大陸命第千二百九十七號により発令された第五十五軍(原田熊吉中将)戦闘序列に編入されます。
聯隊は2~4日、第一梯団に第三大隊、6~10日、第二梯団に第二大隊、11~16日、第三梯団に第一大隊に別れ釜山に集結、13~30日、釜山港を出航、第一梯団は西舞鶴、第二梯団は博多、第三梯団は敦賀に上陸、16日、師團は軍の作戦計画に従い一部は高知平野、主力は徳島平野に集結します。
5月2日、作戦計画の変更に伴い師團は逐次高知平野に集結、師團司令部を鉢伏山に設置、聯隊は砲兵隊に部署され長岡に聯隊本部を設置、後免南方高地帯に布陣し、敵の上陸に際し浦戸湾から物部川河口の海岸線に布陣した左地區隊(歩四十三)に協力し敵を拒止、師團の攻勢転移に際し主力により浜改田付近から物部川間に火力を集中するべく築城を開始、6月1日、築城と並行し訓練を開始、7月末より野戦陣地設営を開始します。

敵上陸部隊を破砕すべく陣地構築、訓練を実施中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、火砲、弾薬等を中隊ごとに集積しますが、16日、「米機動部隊が上陸を企図し土佐湾沖を侵攻中」との報に接し、再び戦闘配備に付きますが、誤報と判明し、17日2200、停戦を迎えました。
第十一師團は第五十五軍の中核を担い、古豪師團として士気・練度も高く装備も充実、敵上陸部隊撃砕に邁進していましたが、その真価を一度も発揮する事無く停戦を迎えました。

25日、師團創立以来の英霊12,488柱の合同慰霊祭を高知市下知昭和國民學校において挙行、31日、軍令陸甲第百十六號により復員下令、9月7日、師團司令部の所在する鉢伏山に隷下部隊中隊長以上を招集、第五十五軍司令官・原田中将臨場のもと復員式を挙行、10日、復員完結します。


山砲兵第百十一聯隊
昭和13(1936)年9月19日、山砲兵第十一聯隊に編成下令、23日、編成完結(朝山親大佐)します。
編制は3個大隊9個中隊、聯隊段列です。
19日、聯隊は大陸命第二百號により第二十一軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に編入、第十八師團(久納誠一中将、久留米)に配属され、30日、坂出港を出航、10月11日、白耶士湾に進入し敵前上陸を敢行、聯隊主力は恵州に進撃し、酷暑のなか増城を経て、支那軍陣地を突破しつつ敗走する敵を追撃し、21日、広東攻略を支援します。
第一大隊は師團左翼隊とともに淡水に進撃し、軍命令により第五師團(安藤利吉中将、広島)指揮下に編入され反転、白耶士湾より武装舟艇隊を編成し、珠江を掃海し、11月3日、広東に入城し聯隊に復帰、聯隊は沙河、一部を黄塔墟に配置し警備にあたります。
昭和14(1939)年2月7日、聯隊主力は臺灣混成旅團(塩田定市少将)に編入され、10日、海南島・澄邁湾に無血上陸、支那軍を撃破しつつ首都・瓊山、海口を攻略し、瓊山の警備にあたります。

昭和14(1936)年4月1日、復員を下令され、聯隊は海南島を出航し広東に集結、逐次広東を出発し、18日、坂出港に上陸、28日、善通寺に凱旋し、復員完結します。

聯隊は南支方面の作戦において運用した軍馬の殆どが牝馬であったため、流産、分娩馬が多く多くの軍馬を失ってしまいました。


山砲兵第四十聯隊(鯨六八八六)
山砲兵第三十一聯隊(烈一〇七〇三)
昭和14(1939)年6月30日、軍令陸甲第二十一號により、留守第十一師團に第四十師團の編成下令、8月2日、山砲兵第十一聯隊留守隊に山砲兵第四十聯隊の編成下令、7日、編成完結(赤松友次郎大佐)、第四十師團(天谷直次郎中将、10月7日編成完結)隷下に編入され、9月17日、青野原陸軍演習場で訓練にあたります(28日帰還)。
聯隊の編制は第一・第二大隊:山砲6個中隊(九四式山砲24門)、第三大隊:九一式十糎榴弾砲3個中隊(12門)、観測1個中隊でした。

10月9日、師團とともに坂出港を出港、19日、中華民國湖北省武昌に上陸、師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、聯隊は師團司令部とともに咸寧に主力、通山(歩二百三十四)、大冶(歩二百三十六)、鄂城(騎四十)に一部を配置し治安維持にあたります。

11月30日、重慶に撤退した蒋介石は我が占領地に冬季反攻を開始、12月10日、支那第八軍(2個師)・第三〇集団軍(3個師)70,000が歩二百三十四第十中隊が守備する芭蕉嶺に侵攻、12日、師團は石本支隊(第四十歩兵團長・石本貞直少将、歩二百三十四、歩二百三十五)、龜川支隊(歩二百三十六聯隊長・龜川良夫大佐、聯隊主力、山砲四十第一大隊)を編成し、師團主力、騎四十(佐伯靜夫中佐)とともに4縦隊となって進撃、13日、石本支隊は西坑塘を出発、夏舗周辺で夜襲により撃破し宝石河に進撃、14日、騎四十は漆州を出撃、石盤山の険峻を踏破し龍港を攻略、龜川支隊は富水を敵前渡河、龍港にて騎四十と合流、15日、騎四十は高家を攻略、支隊は横石潭に進撃、支那軍を九官山以南に潰走させ、第二大隊は歩二百三十四に配属され楠林橋南方に侵攻してきた敵を芭蕉嶺付近で撃破します(第一次九官山作戰)。

24日、支那第三師、第一九七師の残敵が黄家章、藕塘付近に集結して来たため、歩二百三十五・騎四十は楊芳林、新豊市、藕塘に進撃し殲滅します(第二次九官山作戰)。

12月中旬、隣接する第六師團が支那第九戦区軍100,000に急襲され苦戦、20日、石本支隊(第二・第三大隊配属)し輜重四十の車両により陸水右岸の支那軍を撃破しつつ大沙坪まで進撃、24日、歩二百三十六(第一大隊配属)が支隊を追求し通城北方において支那第七〇軍(6個師)を撃破します(第一次陸水作戰)。

昭和15(1940)年4月15日、第十一軍は増大する支那軍の反攻により我が第一線が擾乱、損害を受け、且つ敵に戦勝感を持たせるのは得策では無いため、雨季までに支那軍を撃滅する宜昌作戰を企図、聯隊は石本支隊(歩二百三十五第一・第二大隊、歩二百三十六第三大隊、騎四十の一部、工四十〃)に山砲隊を抽出、21日、二十里橋に集結を完了します。

軍は漢水左岸・襄東地区の支那軍を補足撃滅すべく、30日、支隊は遊河付近に進撃、5月1日、武漢北西地区の小林店において支那第五戦区軍を攻撃、敵は有効な火網を形成、迫撃砲の集中射撃により支隊は思わぬ損害を受けたため、2日、支隊は攻撃重点を左翼(歩二百三十五第二大隊)に移し山砲隊の準備射撃ののち攻撃を再開、4日、激戦ののち小林店を攻略、6日、桐泊、7日、西新集の敵陣を攻略、8日、湖陽鎮を攻略、支那第一七三師を包囲殲滅しますが、13日、湖陽鎮南方高地において設定中の敵陣を攻撃に向かった歩二百三十四第三大隊(軍豫備隊、3日石本支隊に増援)が湖陽鎮東方の陳庄において敵に包囲され、大隊長・野条少佐が狙撃され散華、大隊は脱出に成功するも配属されていた山砲四十の1個中隊は山砲2門を敵に鹵獲されてしまい、聯隊長・赤松中佐は更迭、新たに白石久康中佐が着任します。

4月21日、師團は九官山に集結しつつある支那軍を殲滅すべく3縦隊となって進撃、聯隊は集成中隊(第四中隊基幹)を中央隊(佐伯支隊:騎四十聯隊長・佐伯静夫中佐)に配属、25日、中央隊は山頂の第一四師第三団3,000の拠る陣地に急進するも敵の銃砲、迫撃砲に進撃は遅滞、第六中隊は臂力搬送にて山砲1門を展開、砲撃を開始し敵陣地を破砕、騎四十は攻勢に転移し九官山を攻略、26日、九官山を出発、29日、大畈鎮において中隊は聯隊に復帰します(第三次九官山作戰)。

5月16日、随棗公路兵站線に対する敵の遊撃行動が活発化してきたため、師團長指揮の2個大隊が19日、広水に到着、萬福店以東の兵站警備にあたります。
24日、聯隊から1個中隊が加川支隊(歩二百三十六第一大隊長・加川勝永中佐、大隊主力、歩二百三十四第二大隊)に加わり随県に進出、25日、芽茨畈-資山道の掃討にあたります。

28日、支隊は老山城付近において支那第五戦区軍と遭遇戦となり、僅か2門の山砲で支隊の援護にあたりますが、弾薬の欠乏から敵の重迫撃砲射撃に苦戦、次第に包囲されるも、29日、友軍の空中補給により形勢を盛り返し、31日、敵を撃破し老山城を攻略します。
31日、師團は宜昌攻略にあたる軍の側背援護、支那第五戦区軍牽制にあたり、6月11日、随県を出発、連日40℃を超える酷暑のなか大洪山付近に進撃、客店披高地の支那第二九集団主力を3日間に渡る激戦ののち撃破、12日、第十一軍により宜昌が攻略され、6月26日、師團は咸寧に復帰します。

昭和16(1941)年1月25日、第十一軍は正月攻勢を策動する支那第三一集団(第一三・八五軍)を撃破すべく豫南作戰を発動、師團は信陽地区に集結しますが、敵の鉄道爆破により集結が27日に遅れてしまったため、師團は佐伯支隊(騎四十聯隊長・佐伯静夫中佐、歩二百三十六第一大隊、騎四十、山砲四十、工四十各1個中隊)を先行させ、師團作戦地の汝南を偵察させます。
支隊は汝南の支那軍が2,000程である事を知り奇襲により攻略、30日、師團主力は汝南に入城、2月1日、北進し支那第八五軍の拠点・項城を攻略します。

9月1日、師團は軍が關特演前に支那第五戦区軍を撃破し、事変解決を有利に進めるべく企図した長沙作戰に参加のため咸寧を出発、10日、桃林に集結、長沙攻略を目指す軍主力の側背援護のため、11日、第二大隊は重松支隊(歩二百三十四聯隊長・重松潔大佐、同聯隊、歩二百三十五第二大隊)に配属され、支隊は先遣隊として沙港河畔に向け進撃を開始、第六師團の掃討から漏れた支那軍4個師と甘田付近で交戦、大隊は頑強な敵陣に支援射撃を実施、14日、敵の退却に伴い前進、17日、団城攻略を支援、18日、師團は軍左翼として南下を開始、聯隊は師團の沙港河の渡河支援を実施し、支那第六〇師、第二六師を撃破、26日、金井に進出し軍の左翼援護にあたり、27日、第三・第四師團が長沙を攻略したため、30日、師團は反転、10月14日、逐次咸寧に復帰します。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。

17日、第十一軍(阿南惟幾中将)は第二十三軍(酒井隆中将)のC作戰(香港攻略作戦)援護、支那軍の牽制のため第二次長沙作戰を発動、師團は咸寧を出発し、24日、師團先頭の歩二百三十四、歩二百三十五が新牆河北岸の支那第一三四師(2個団)を撃破し、攻撃準備を完了、歩二百三十五を左側背援護、歩二百三十六を右翼、歩二百三十四を左翼として新牆河を渡河、支那第一三四師主力を撃破、支那軍と交戦しつつ、27日、汨水(長楽街付近)に集結、28日、歩二百三十五が強行渡河を敢行し援護のなか、工四十(鴨澤恒二郎中佐)により仮設橋を開設、師團主力は渡河に成功、聯隊は敵陣の状況から正面からの砲撃が不可能なため、側方からの支援射撃を実施、30日、歩二百三十五は天荊廟を攻略、長楽街南方高地の支那軍陣地を攻略します。

12月29日、第十一軍はさらに長沙への進攻を企図、師團は金井への進撃を下命され、歩二百三十四第二大隊を鳥石尖に残置し、31日、歩二百三十六を前衛として進撃を開始、昭和17(1942)1月1日、金井に到着、長沙進撃中の第三・第六師團の側背援護のため歩二百三十五、歩二百三十六を蒲塘に進撃させ、甕江方面から進攻してきた支那第三七軍を迎撃、2日、歩二百三十六は官家橋付近で支那軍を迎撃、地の利を活かした敵の攻撃に損害が増加、3日、軍は長沙攻撃中の第三・第六師團が重砲を伴う支那軍の逆襲により損害が増加している事に鑑み、両師團の転進援護のため第四十師團に長沙方面への進撃を下命、4日、師團は春華山北方に進撃、第三・第六師團の転進援護にあたり、9日、転進した第十一軍を包囲殲滅すべく追撃してきた支那第九戦区軍(7個軍、31個師)、第六戦区軍(3個軍)を麻峯嘴、検市廠において撃破、古華山付近で包囲された第六師團を救援し、12日、長楽街に集結、15日、沙港河を渡河し、23日、咸寧に復帰します。

4月18日、本土が米空母を発艦した米陸軍機により初空襲を受けたため、内地防空を図るべく大本營は浙江・江西両省付近の米軍飛行場覆滅を企図し浙贛作戰を発動、聯隊から第一大隊が河野混成旅團(第四十歩兵團長・河野毅少将、歩二百三十四第三大隊、歩二百三十五第二大隊、第三師團歩三十四第三大隊、同工三1個中隊)に配属、旅團は第十三軍指揮下に編入され杭州から西進、第二大隊が今井支隊(歩二百三十六聯隊長・今井龜次郎大佐。同聯隊、歩二百三十四第一大隊、工四十1個小隊)に配属され、支隊は第十一軍直轄として南昌東方から東進します。
5月15日、河野旅團は軍中央兵團として紹興を出発、西南下し、27日、衢州付近に集結、6月3日、軍主力とともに衢州攻撃を開始、樟樹潭南方高地の強固な前進陣地を攻略、4~6日、敵の砲撃により舟艇が殆ど破壊されたため爆破された鉄道橋を工兵が修理し烏渓江を渡河、衢州城に突入、7日、衢州城を攻略、12日、江山東側地区に進撃、8月19日まで前線から後送されてくる鹵獲軍需品を輸送する浙贛鉄道の警備にあたり、南京を経由し、9月30日、師團に復帰します。

5月31日、今井支隊は万舎街付近から南進、炎熱酷暑のなか三江口を経て、6月3日、集賀峯から撫州に進撃、支隊右翼の歩二百三十六第三大隊は同源墟において支那第七九軍主力と遭遇戦となり交戦、支隊主力は展坪墟西方高地において進行中の支那軍を側撃し撃破した後、支那第七九軍背後から攻撃し撃破します。
6月中旬、撫州侵入に失敗した支那軍は撫州奪還を企図し、西方から第五八軍、宜黄水東岸より第四軍が侵攻、支隊は牽制のため宜黄に進撃しますが、豪雨のため河川が氾濫し平地は悉く水没、戦闘は生起せず、支隊は建昌付近に移駐、警備にあたり、9月30日、師團に復帰します。

12月18日、第十一軍司令官・塚田攻中将、同高級参謀・藤原武大佐は南京で開催された軍司令官会同に出席した帰途、搭乗機が大別山系で遭難したため、軍は捜索のため大別山作戰を発動、第一大隊が戸田支隊(歩二百三十四、歩二百三十五第二大隊、歩二百三十六第三大隊、工四十1個中隊)に配属され、20日、蘄水、英山地区を捜索、遭難機は英山南東30kmの彌陀寺付近で第三師團の捜索隊により発見(司令官、参謀ともに殉職)され、昭和18(1943)年1月5日、支隊は復帰します。

3月23日、第三十一師團(佐藤幸徳中将)の編成下令、4月30日、山砲兵第三十一聯隊の編成下令、5月1日、軍令陸甲第三十六號により師團は編制改正され、山砲兵第四十聯隊は山砲兵第三十一聯隊に改編され、同日、聯隊は咸寧を出発、10日、上海に集結、6月10日、上海を出航、22日、サイゴンに上陸、28日、泰國-仏印の国境を通過、29日、バンコクに到着、8月16日、バンコクを出発、19日、泰國-馬來の国境を通過、9月6日、プライ港を出航、11日、ラングーンに上陸、11月18日、北部ビルマのピーペンに集結、師團隷下に入ります。

昭和19(1944)年3月15日、師團はウ號作戰(インパール作戦)に参加し、チンドウィン河の渡河を開始、先行の師團司令部、工兵第三十一聯隊(鈴木孝中佐)の牛馬渡河が遅れたため、聯隊の渡河は10日遅れてしまいます。
聯隊は3,000m級の山岳に苦闘しながら輓馬にて火砲を牽引、4月5日、師團はインパール攻略の要所・コヒマの一角に突入、英軍を急襲しますが、英軍の激烈な抵抗に攻撃は遅滞、糧食も僅少になります。
17日、師團はインパール方面への戦力抽出を下命されたため、師團は防勢に転移、敵の増援部隊のインパール方面への侵攻拒止にあたります。
25日、聯隊はコヒマ付近に進出、聯隊長・白石中佐は先行していた歩兵2個大隊を指揮下に編入し中地區隊として部署され、第二大隊(藤井少佐)を左地區隊(歩五十八)、第一大隊(高嶋祐雄少佐)を右地區隊(歩百三十八)に配属します。
5月4日、英軍の反攻は激化、戦車を伴う敵の侵攻に中地區の要地・五一二〇高地が陥落、白石中佐は予備隊を率い激戦ののち、高地を奪還します。
24日、高地に航空機、火砲の支援を受けた英軍1個師団が侵攻してきますが、26日、地區隊は激戦ののち、敵に大損害を与え撃退します。
29日、再度英軍は高地に火砲の砲撃に続き戦車、火炎放射器を伴い侵攻、地區隊は敵の拒止にあたりますが、31日、弾薬の欠乏から第一線陣地は次第に敵に浸透されます。
左、右両地區隊配属の第一・第二大隊も弾薬が欠乏、鹵獲迫撃砲で歩兵を支援します。
6月2日、弾薬、糧食の途絶からこれ以上の継戦は不可能と判断した佐藤中将は転進を下命、逐次各地區隊は正面の敵から離脱、転進を開始します。
聯隊は輓馬の大半を失っていたため山砲、榴弾砲を分解し臂力搬送、戦闘による疲労、糧食の欠乏に加え雨季による河川の氾濫、泥濘化した山道に多くの落伍者が発生するなか、8月中旬、チンドウィン河に達し、9月初旬、師團はシッタン付近に集結、チンドウィン河を渡河します。
緬甸方面軍(木村兵太郎中将)は侵攻してくる英軍をイラワジ河畔において拒止すべくイラワジ會戰を立案、師團は作戦計画に沿ってマンダレー西方のシュエボ付近に集結、昭和20(1945)年1月初旬、シュエボ北方カンバルに歩五十八、シュエボに歩百二十四、サゲインに歩百三十八と山砲三十一が布陣、陣地を構築します。
12月26日、英印第19師団がカンバルにに侵攻、歩五十八はカンバル北方の縦深陣地において敵の侵攻を拒止しますが、英印軍は包囲態勢に入ったため、昭和20(1945)年1月1日、師團命令により転進南下、1月7・8日、歩五十八を追撃してきた英印軍がシュエボに侵攻、歩百二十四は敵の激烈な砲撃により損害が増加、各陣地に浸透され敵が退路遮断に入ったため敵中を突破しイラワジ湖畔に転進します。
2月中旬、師團主力を追撃してきた戦車を伴う英印軍がサゲインに侵攻、聯隊は直接照準射撃により戦車を撃破し侵攻を拒止しますが、制空権、機動力を持つ敵は次第に浸透、3月下旬、聯隊の第一線陣地が突破されてしまいます。
師團はマンダレー南方50kmのキャウセに転進、敵の進行拒止にあたりますが、5月1日、ラングーンが陥落したため、さらにモールメン地区に転進し海岸からの敵上陸に備えるべく、5月初旬、聯隊は南下を開始、6月下旬、マルタパンに集結、陣地構築中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

聯隊は英軍により武装解除の後、労役に従事、昭和21(1946)年6月27日、聯隊主力はモールメンにて乗船、7月14日、大竹港に上陸、15日、復員完結します。
昭和22(1947)年3月8日、第一・第三中隊がラングーンより乗船、3月23日、宇品港に上陸、復員完結します。
4月14日、第一大隊主力、がラングーンより乗船、4月29日、宇品港に上陸、復員完結します。


山砲兵第五十五聯隊(楯→壮八四二〇、西部第三十六→中部第八十六→四國第百五十六部隊)
昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令、第一・第八・第九・第十・第十一・第十二・第十四・第十六師團は満州永久駐屯師團に指定されます。
同日、軍令陸乙二十二號により、山砲兵第十一聯隊補充隊に編成下令、8月2日、山砲兵第十一聯隊補充隊は山砲兵第五十五聯隊(宇賀武大佐)に改編され編成完結します。
編制は3個大隊9個中隊でした。

編成完結後、師團は営庭に設置された仮装船舶により舟艇移乗、吉野川での上陸演習を実施します。

昭和16(1941)年9月26日、第五十五師團隷下部隊に動員下令、27日、師團に南海支隊の編成下令、10月2日、聯隊の動員完結、4日、南海支隊の編成完結(堀井富太郎少将)、支隊は大本營直轄となり、8日、師團の動員完結、11月6日、師團はビルマ攻略担当の第十五軍(飯田祥二郎中将)戦闘序列に編入、歩百四十三(宇野節大佐)は宇野支隊として軍直轄になります。
聯隊は南海支隊に第一大隊(穂積鎭雄中佐)、宇野支隊に第四中隊(松田武男大尉)、川島支隊(騎五十五聯隊長・川島吉蔵大佐)に第八中隊(河村勇中尉)を配属します。
します。
山砲兵第十一聯隊 穂積鎭雄中佐(善通寺)
▲山砲兵第五十五聯隊第一大隊長・穂積鎭雄中佐
  ギルワ転進に際し部下の負担になる事を恐れ担送を拒否、
  昭和18(1943)年2月11日、自決。

13日から師團隷下部隊は逐次坂出、多度津、18日、宇野支隊は詫間港を出航、26日、師團主力はハイフォンに、29日、川島支隊はカムラン湾に上陸、12月5日、宇野支隊はサンジャック沖を経て、8日、大東亜戦争開戦に伴い、0400、支隊は泰国のチュンポンに主力(山砲五十五第四中隊)、プラチャラプに第二大隊、バンドンに第三中隊、ナコンに第一大隊が上陸、攻勢前進を開始しますが、1200、日泰間に平和進駐協定が成立し停戦、11日、自動車でチュンポンを出発、ビルマ国境のクラ河畔に進出、14日、緬甸のビクトリアポイントを攻略し、馬来攻略にあたる第二十五軍(山下奉文中将)の後方安定を確保します。

11月22~24日、南海支隊は輸送船9隻に分乗し坂出港を出航します。
※南海支隊については「第十一師團司令部」の記事参照

12月11日、師團主力はハイフォンから南下、27日、バンコクに到着、支隊は師團に復帰、第二十五軍の側背援護にあたります。
21日、『日泰同盟条約』、昭和17(1942)年1月3日、『日泰共同作戰二關スル協定』が締結され、泰國軍4個師団が北方からの連合軍侵攻にあたる事になったため、第十五軍は第二十五軍の側背援護の任を解かれ、師團はモールメン、タポイ攻略を下命されます。
師團は泰國-ビルマ間の峻険なダウ山系踏破のため車両から駄馬、駄牛編成に改編、聯隊も携行弾数を増やすため各中隊は山砲1門の編成とし、残置した山砲はモールメン攻略後に追送する事になります。

1月下旬、師團主力は国境のメソードに集結、20日、3縦隊となりシャン高地を踏破しつつ進撃を開始、23日、コーカレー南方に集結、30日、アタラン河を渡河し、騎五十五が南からモールメンに突入、師團主力はモールメン東側のパゴタ高地の英軍を撃破、31日、モールメンを攻略、2月20日、モールメン対岸マルタバンの英軍を撃破します。

25日、川島支隊はダイクに進撃し師團主力の側背援護にあたり、3月3日、師團主力はシッタン河を渡河、4日、ザヤトの英軍を撃破し、バヤギを攻略、敵戦車隊の逆襲に苦戦しながらも前進、第三十三師團(櫻井省三中将、仙台)がラングーンに進撃(8日、攻略)し、敵の退路遮断に入ったため、英軍は退却を開始、7日、ペグーを攻略します。

14日、右翼(歩百十二、山砲五十五第二大隊(柿原功少佐))、左翼(歩百四十三、山砲五十五本部・第三大隊(濱岡實佐人大尉))、正面(騎五十五)の3縦隊となって緬甸援蒋ルート遮断のためさらに進撃、20日、歩百四十三がニャングチドウク付近で戦車を伴う支那軍を撃破、26日、支那第二〇〇師3,000の籠るトングーを三方から包囲しますが、聯隊本部(第七・第九中隊、第三大隊段列)、歩百四十三聯隊本部がトングー北方のギンザンにおいて戦車を伴う支那軍に包囲され、両聯隊は大損害を受けながらも山砲2門の零距離射撃により敵戦車を撃破、大隊段列は肉迫攻撃により敵装甲車4両を擱座させ撃退するも、第九中隊長・菊川小代次中尉が散華してしまいます。

28日、第八中隊は侵攻してきた敵300をトングー北方において撃破、師團は重砲兵、航空機の支援を受け、さらに30日、ラングーンに上陸した第五十六師團(渡邉正夫中将、久留米)が来援、歩百四十三が北方に迂回し退路遮断に入ったため支那軍は退却を開始、同日トングーを攻略します。

4月5日、師團は追撃を開始し北上、エダッセで支那軍を4,000撃破、10日、聯隊(山砲18)は野戰重砲兵第三聯隊(十糎榴弾砲8)とともにスワ河北岸の敵陣を砲撃、支那軍は撤退し始めたたため、さらにマンダレー街道を追撃、12日、サガヤ、16日、ミヨラ、17日、タワジ、19日、ピンマナを攻略、戦力の損耗していた第五十五師團を追求してきた第十八師團と会同し、マンダレーに対し並進進撃を下命されます。

22日、師團は師團先頭として歩百十二第二大隊を自動車追撃隊に部署、追撃隊、第十八師團に続いて主力はピンマナを出発、25日、ヤナウンにおいて支那軍を、26日、カンダン付近で戦車10両、火砲を伴う英印軍を撃破、5月1日、第十八師團がマンダレーを攻略、4日、マンダレー西方で第三十三師團に攻撃され敗走する英印軍を補足するため師團主力はミンギャンに進撃しますが、英印軍は師團の間隙を突いて撤退してしまったため、再度東進し、マンダレーに集結、アバ及び対岸のザゲインを攻略します。

同日、第十五軍は隷下師團に英印軍をビルマより駆逐し主要拠点の確保を下命、聯隊は第二大隊を歩百四十三に配属、12日、カーサ、14日、バーモ、17日、モーニン、6月12日、トーゴ地区、16日、ワローバン、17日、サンプラハムに夫々北上進撃し掃討を実施、英軍・支那軍を駆逐、同聯隊第三大隊(第八中隊配属)はモンロン付近において支那軍1個団を撃破、団旗を鹵獲します。

12月1日、師團は緬甸南西沿岸アキャブの防衛を下命され、昭和18(1943)年1月9日、聯隊はマンダレーを出発、アキャブへの移動を開始します。

11月末、第14英印軍が宮脇支隊(第三十三師團歩二百十三・宮脇幸助大佐)が守備するアキャブ方面で反攻に転じ、野砲20門、戦車30両を伴う英軍が侵攻、支隊はプチドン、モンドウの前進陣地を徹し防衛戦を縮小、昭和18(1943)年1月6日、ラテドン、11日、ドンペイグ(両地ともアキャブ北方のマユ河左右岸)に侵攻してきたため、支隊は肉迫攻撃、夜襲により敵を拒止します。

昭和18(1943)年2月~3月初旬、師團主力がアラカン山脈を踏破しダンカップより舟艇機動によりアキャブに到着、2月29日、宮脇支隊に替わり宇野支隊(歩百四十三)が英印軍の侵攻を拒止、師團は攻勢に転移(三十一號作戰:第一次アキャブ作戦)、3月8日、宮脇支隊がカラダン河を渡河しアポーカを攻略、14日、第三大隊は棚橋支隊(歩百十二聯隊長・棚橋真作大佐)に編入されラテドンを出発、チズエの英印軍補給所を奇襲しマユ河畔に進撃、25日0030、英印軍の間隙を突いて工五十五(外賀猶一中佐)により渡河します。
4月3日、密林と湿地に苦闘しつつベンガル湾に達し英軍の退路を遮断、4日、第三大隊はインデン北方キャクバンドゼデイワに布陣、支隊主力は海岸道から、歩百十二第一大隊はインデン東方山地から進撃、6日、インデンに突入、英軍第6旅団司令部を急襲し、歩百十二第四中隊(黒田中尉)が旅団長・キャベンディッシュ准将以下英軍幹部を捕らえます。
8日、退路を絶たれた英印軍は撤退を開始、退路を啓開しようとする英軍の砲撃を受け支隊本部は大損害を受け、准将も爆死してしまいます。
13日、宇野支隊はランチャン、ドンペイグから北上を開始しますが、英第6旅団の逆襲を受けます(英軍主力は攻勢の態勢を維持しているため包囲殲滅できる態勢)。
14日、棚橋支隊が攻撃を開始、両支隊は英第6・47旅団を包囲、19日、師團直轄の柿原支隊(第二大隊、歩百十三2個中隊)はギンドウ北側高地に進撃、聯隊主力は宇賀支隊となりアングバル、第三大隊はキャクバンドゼデイワにおいて英軍砲兵1個大隊(10cm榴弾砲)を撃滅、両支隊は敗走する英軍を包囲し大損害を与え、戦車・装甲車40両、自動車73両を鹵獲、5月8日、プチドン、14日、モンドウを攻略し英軍を撃退、作戦終了後、聯隊は本部をタウングーに、第三大隊は棚橋支隊に編入しマユ高地に、久保支隊(歩百四十三、聯隊長・久保元武大佐)をカラダン河谷に、第二大隊は土井部隊(歩二百十三第一大隊基幹、聯隊主力は6月、第三十三師團に復帰)に編入しプチドン、モンドウに、第八中隊は伊藤部隊(歩二百十三第二大隊基幹)に編入しポロンガ島に配置し守備にあたります。

11月23日、南海支隊に配属されていた第一大隊(福島清少佐)が聯隊に復帰し、1月下旬、マユ半島西岸地区に配置されます。

昭和18(1943)年11月頃から英第15軍団(英印第5・第7個師団)が再びコックスバザー付近からモンドウ-プチドンの線に南下、昭和19(1944)年1月9日、歩百四十三第一大隊(辻本正文少佐)に火砲・爆撃機に支援され、戦車を伴う英印第5師団が侵攻してきますが、大隊は大損害を受けながらも引き付けて攻撃する至近距離戦法により拒止します。

1月11日、第五十五師團は第十五軍が準備中のウ號作戰(インパール作戦)を容易にし、且つアキャブを防衛すべく英印軍牽制・誘引のため、ハ號作戦(第二次アキャブ作戦)を準備、30日、聯隊主力は櫻兵團(歩五十五歩兵團長・櫻井徳太郎少将、歩百十二、歩百四十三第二大隊、第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊、工五十五)、第一大隊は歩百四十四に編入されます。

2月3日、櫻兵團はプチドン東方地区から進撃を開始、第七飛行師團の援護のもと、マユ河に沿って北上し、4日、マユ河上流のカラバンジン河で渡河、0400、英印軍150名を奇襲しトングバザーを攻略、英印軍の背後に周り、南西進し歩百十二第一大隊がシンゼイワ西方マユ高地の道路を遮断、第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊(久保正雄少佐)は西進し、6日、ヌガンギャンを攻略し英印第5師団の後方連絡線を遮断し英第15軍団司令部を急襲するとともに、英軍の増援を阻止、7日、歩百十二主力は三一六高地の英印第7師団司令部を急襲し激戦ののち攻略、プチドンを守備していた歩百四十三第二・第三大隊も攻勢に転移し英印第7師団をシンゼイワ盆地に包囲します。

7日、、歩百十二は一気に包囲環の圧縮にかかりますが、昼間は盆地周辺の山地脚に分散、夜間は戦車・火砲を外周に配した円筒陣地に籠り頑強に抵抗する英印軍に攻撃は遅滞、さらに8日、英印軍の空中補給が開始されます。
10日、歩百十二は英印第7師団を2ヶ所の円筒陣地に圧縮包囲に成功しますが、密林に射界が妨げられ、また頑強な円筒陣地に次第に損害が増加、11日、夜間攻撃を開始しますが敵の持久戦に損害が増加、敵戦車破壊のため特別攻撃隊3班を投入するも奏功せず、次第に弾薬・糧食が欠乏、13日、第五飛行師團の戦爆連合75機が敵陣地を空襲するも、直協連絡が無く戦機を失してしまいます。

16日、シンゼイワ北方より英印第26師団が、カラダン河谷から英西阿第81師団が侵攻、川島支隊が拒止にあたりますが損害を受け兵團後方連絡線のアポークワまで転進します。

19日、櫻井少将は円筒陣地攻略のため英印第7師団を盆地外に誘引すべく包囲環を開き、敵を追い出すため歩百十二に総攻撃を下命しますが、歩百十二聯隊長・棚橋真作大佐は戦力の低下から総攻撃を22日に延期したうえ、最終的に攻撃を中止してしまいます。
26日、櫻井少将は戦線の維持が困難になった事から櫻兵團の転進を開始、28日、多数の重傷者を伴いながら英印軍の陣地を突破、追撃を撃退しつつプチドン東方地区に集結、3月3日、歩二百十三第一大隊が敵中60kmを突破しオーラビンに到着します。

3月上旬、師團前衛であるモンドウ-プチドン北側の全陣地に爆撃機・火砲に支援され戦車を伴う英第15軍団(英印第5・第7師団・第254戦車旅団)が侵攻、8日、歩百十二が守備するプチドン北方25kmの一二一高地、10日、プチドンが奪取され、12日、プチドン南方3kmのバグナに浸透、18日、歩百四十三、歩百四十四が守備するマユ山系以西の一三〇一、七〇一高地が包囲され、要地・トンネル東方高地が奪取されます。

師團は敵の浸透を受けながらも各陣地を堅守し敵の侵攻を拒止、2月20日~4月3日、マユ半島海岸方面守備の歩百四十四は、艦砲射撃を伴いインデン付近から上陸を企図した英印軍を3度に渡り撃退します。
3月8日、ウ號作戰の開始に伴い師團前面の英印軍機甲部隊がインパール方面に移動、英印軍がシンゼイワ以北に後退したため、師團は英軍をアキャブ方面に抑止すべくトングバザー-ポリパザーの線に追撃を下命しますが、師團戦力は著しく低下しており、英印第25・第26・英第36師団の逆襲を受け、4月6日、山砲五十五聯隊長・小林五一中佐、17日、歩百十二聯隊長・棚橋大佐が相次いで病気により後送されるなど進撃は頓挫、師團は逐次陣地整理を実施、少数精鋭による挺進奇襲攻撃により英軍の擾乱にあたります。

5月5日、師團は英印軍により奪取されたプチドン-モンドウの要線を奪還すべく櫻兵團(歩百十二、歩百四十三第三大隊、歩二百十三第一大隊、山砲五十五)を編成、兵團は南北より攻勢に転移、同日、プチドン西方高地において歩百四十三聯隊長・土井元武大佐が散華するなど大損害を受けますが、英印第26師団を北西に撃滅し要線の奪取に成功します。

7月2日、ウ號作戰の中止に伴い英軍は中部ビルマ方面に侵攻してきたため、師團はアキャブを徹する事が決定、8月中旬、聯隊は第一・第四・第七中隊を支隊砲兵隊(第二大隊長・山口芳男少佐)として櫻支隊(櫻井徳太郎少将、隷下歩兵聯隊の1個大隊、騎五十五、工五十五集成1個中隊)に編入し、支隊は第二十八軍(櫻井省三中将)直轄となり、モドーク山脈に布陣し師團主力の転進を援護、第五十四師團で編成された松支隊(第五十四歩兵團長・木庭知時少将)とともに侵攻してきた英軍を陽動により拒止、師團はベンガル湾沿いで英軍を拒止すべく、雨季で泥濘化した山道を南下、9月上旬~下旬、イラワジ河下流三角州(イラワジデルタ)地帯に集結、陣地構築を開始します。

昭和20(1945)年1月25日、師團は軍の立案したイラワジ會戰に策応すべく干城兵團(歩百十二聯隊長・古谷朔郎大佐、同聯隊基幹)を編成しメイクテーラ北方50kmのポパ山付近に配置、第一大隊(福島清少佐)は神威部隊(騎五十五聯隊長・杉本泰雄大佐、騎五十五基幹)に編入され英軍に策応し背叛、我軍の作戦の妨害にあたるビルマ国民軍の討伐にあたります。

3月中旬、イラワジ會戰の各戦線は逼迫、緬甸方面軍は敵の侵攻をトングー付近で拒止すべく隷下部隊の転進集結の援護を第二十八軍に下命、第五十五師團は方面軍直轄となり聯隊主力は振武兵團(第五十五歩兵團長・長澤貫一大佐、歩百四十三基幹)としてイラワジデルタの守備に、第二大隊(山口芳男少佐)は忠兵團(師團主力歩百四十四基幹)に編入され、吉田先遣隊(歩百四十四第一・第二大隊、騎五十五第三中隊、工五十五第三中隊、獨立速射砲第十四大隊)を先頭に3縦隊となりトングーに前進を開始します。

-忠兵團- 師團長・花谷中将指揮→転任により参謀長・小尾哲三大佐→〃副官・栗田嘉重中佐
師團司令部、歩百四十四、歩百十二第三大隊、騎五十五第三中隊、山砲五十五第二大隊、工五十五、輜重五十五
第三十三軍(本多政材中将)指揮下
4月1日、吉田先遣隊はトングーに到着、周辺の匪賊討伐を開始、7日、1個小隊をモーチ鉱山に分遣し付近の警備にあたります。
8日、第五十三師團守備のヤナウン、10日、第十八師團守備のピヨベ、11日、第四十九師團守備のヤメセン(トングー北方200km)が英第5・第17師団軍機甲部隊に突破され、第三十三軍方面の戦況が急速に悪化したため、方面軍は忠兵團にピンマナ(トングー北方100km)への急進を下命、先遣隊は部隊の集結を待たずして北進しピンマナ北方シンテ河橋梁付近に第一線陣地(歩百四十四第三大隊・永見安治少佐)、テゴンに第二線陣地を構築し布陣、師團参謀・中川七良大佐が到着、築城の指導を行います。

13日、英印第20師団がザエコン-イワマンを突破しトントンジーに迫ったため、第二十八軍は忠兵團左縦隊(歩百四十四第九中隊、山砲五十五第一中隊(鎌田要大尉)、工兵1個小隊)を神威部隊指揮下に編入、敵の拒止を下命します。

14日、シンテ河に戦車10両を伴う英印軍が侵攻、歩百四十四第三大隊は激戦の後、撃退しますが師團参謀・中川大佐が散華してしまいます。
15日、先遣隊は転進してきた第三十三軍司令部、第十八師團司令部を収容、第十八師團長・中永太郎中将の指揮下に入り、軍の転進援護にあたるべくシンテ河の陣地を徹しグエビン、パークピンタ南方高地(シンテ河南方)に転進、16日、侵攻してきた戦車6両を伴う英印軍100を撃退し、第三十三軍の後衛援護にあたりつつ、17日、カンデに集結、18日、師團復帰を下命されカンデを出発します。
19日、第三十三軍はピンマナ付近で英印軍侵攻拒止を企図、トングーを経由し忠兵團は17日から逐次ピンマナに到着し第三十三軍隷下部隊と合流しますが、移動距離が長大な事から19日時点で兵團戦力は未だ歩兵・砲兵ともに2個中隊程のため陣地編成はままならず、侵攻してきた英軍機甲部隊に突破されてしまいピンマナを失陥、第三十三軍はシッタン河左岸地区に転進します。

20日、先遣隊はピンマナ北方に転進しますが、ピンマナが陥落した事を知り、師團命令により敵中を突破しシッタン河を渡河、24日、キャウコに集結し、第五十五師團に復帰、南下する英印軍を拒止すべく山砲五十五第二大隊(山口少佐、第五中隊(田村剛大尉)のみ)を配属されトングーに前進し、所在の部隊を集成しトングー防衛隊が編成、第二大隊はトングー城壁東北角に布陣し本道・支道を封鎖します。
22日早朝、英印軍機甲部隊がトングーに侵攻、第二大隊は敵戦車を砲撃し支道を封鎖、敵の侵攻を拒止しますが、敵戦車は大隊の背後に迂回、なおも大隊は零距離射撃により1両を撃破するも敵戦車の砲撃を受け山砲は全損し包囲されるに至り、転進命令を受領したため敵中を突破しシッタン河を渡河、モーチ街道において敵の侵攻を遅滞させるべく持久戦闘を実施します。
23日、大隊追求中の第八中隊(庄子榮大尉)はピュー北方において英印軍と交戦、同日夜半、シッタン河を渡河し北上中、第三十三軍司令部により友軍の渡河援護を下命され、5月中旬、シッタン橋梁渡河点東方のモバリンに集結、チャイトに砲列を敷き渡河援護にあたります(8月上旬、モールメンに転進し第二大隊に合流)。

南方軍はプノンペン付近に兵力を結集し、ラオスのパクセ付近に複郭陣地の築城を策定、兵團は南方軍総予備戦力に部署され、6月初旬、はインドシナ方面への転進を開始(師團長・花谷中将、モールメンに先行)、7月初旬、モールメンに移駐、18日、モールメンを出発、23日、バンコクに到着、27日、バンコクを出発、29日、プノンペンに集結(師團長・佐久間亮三中将着任)、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
6月23日、歩百四十四は転進を開始、豪雨の中、8月4日、パブンを経由、ピリン河谷を通過し、18日、モールメンに集結、停戦を迎えます。

第二大隊は25日、モールメンを出発、30日、南部仏印プルサットに到着、第一大隊と合流し英軍により抑留、11月17日、ロメヤスにおいて武装解除されますが、越南革命軍が独立のため蜂起、各地でフランス軍と戦闘になったため治安維持の観点から5名に1丁小銃を貸与されます。
12月9日、ロメヤスを出発、昭和21(1946)年1月3日、サンジャック近郊のロンハイに移駐、仏人別荘、ニッパハウスに分宿し自活態勢に入り、労役に使役、第五中隊(田村大尉)は仏軍の命でハッチェン作戦に従事し越南革命軍を討伐、5月10日、米艦ジョー、エイ、カスターに分乗しサイゴン港を出航、20日、大竹港に上陸、21日、復員完結します。

-振武兵團- 歩兵團長・長澤貫一大佐指揮
第五十五歩兵團司令部、歩百四十三、歩百四十四第二中隊、山砲五十五(聯隊本部、第六中隊、第三大隊(第八中隊欠)、輜重五十五第一中隊
第二十八軍指揮下
5月3日、ラングーンが陥落、第二十八軍は緬甸方面軍との連絡線が遮断され敵中に孤立、軍司令官・櫻井中将は隷下・指揮下兵團にペグー山系に集結後、シッタン平地次いでシッタン河を渡河しシャン高原西麓を突破、モールメンへ転進を下命されたため、兵團はイラワジデルタ地帯を出発します。

11日、ニヤンピン東方に集結、第五十四師團の集結を待ち、6月下旬、兵團はペグー山系南側に向け転進を開始、7月20日、兵團は3縦隊になり東進を開始(邁作戰)、広大な湿地。池沼地帯のため行軍が遅れ30日、右縦隊、8月4日、中縦隊、5日、左縦隊は濁流と化したシッタン河を渡河、8月15日、キャウキー付近に集結、停戦を迎えます。

聯隊は24日、キャウキーを出発、27日、シュエジン河を渡河、行軍中に軍命により山砲を山中に埋設、9月1日、チャイト、5日、ジイジャインに到着し英軍により武装解除され、デビュゴンに移駐、昭和21(1946)年1月26日、歩百四十三とともにプロームに移駐、労役に使役され、昭和22(1947)年4月20日、ラングーン港より大安丸に乗船し、5月12日、佐世保に上陸、17日、復員完結します。

-神威部隊- 騎五十五聯隊長・杉本泰雄大佐(のち大谷虎熊少佐)
騎五十五、歩百十三第一大隊、山砲五十五第一大隊、工五十五1個小隊
【最終配属部隊】
歩百四十三第一大隊、渡河作業隊、西南憲兵隊、交通作業隊
神威部隊、獨立第五百四十二歩兵砲大隊、同五百四十三、獨立重砲兵第五聯隊第二大隊、歩百四十四第九中隊、第二十八軍司令部第一梯團、同第二梯團
第二十八軍指揮下
1月25日、第五十五師團において編成され、3月中旬、プローム、アランミョウに進出し英軍に策応し背叛、我軍の作戦の妨害にあたるビルマ国民軍の討伐にあたります。
4月中旬、メイクテーラ西方のエナンジョン油田に英印第20師団が侵攻、第二十八軍は英軍を拒止し軍右側背の安全を確保すべく、ピンマナ集結中の忠兵團左縦隊(歩百四十四第九中隊、山砲五十五第一中隊、工兵1個小隊)を神威部隊指揮下に編入し、エナンジョンの確保を下命、部隊は北上を開始し夜襲によってトントンジーを攻略、17日、サットワに前進しますが、エナンジョンが既に陥落していたため、軍命令によりアランミョウに転進、19日、部隊は転進中の第五十四師團(宮崎繁三郎中将、姫路)指揮下に編入されます(当時第五十四師團はアラカン山脈を東進中のため軍が直接指揮)。

北部ビルマからの転進道でもあり、アラカン山脈以西からプローム方面へ転進中の第五十四師團の転進を容易にするためにも確保すべき要地・アランミョウを防衛すべく、部隊はアランミョウ-パローの縦深陣地に移動します。
27・28日、部隊を追撃してきた戦車を伴う英印軍がアランミョウに侵攻、野山砲、肉迫攻撃により戦車7両を撃破、3両を炎上させますが、部隊も野砲2、速射砲2門が破壊されたため、28日、杉本大佐はベッテキクリーク南方高地(アランミョウ南10km)において反撃を企図し、パロー陣地に転進集結します。
同日、第五十四師團先遣隊(師團参謀長・倉澤勘三郎大佐)がイラワジ河畔に到達、軍はベッテキクリーク南方-バロー要線を防衛のため急遽第二十八軍指揮下部隊を集成し先遣隊と神威部隊を合わせパロー支隊を編成(倉澤大佐指揮)、29日、ベッテキクリーク南方高地に英印軍(戦車を伴う1個旅団)が侵攻、第三中隊は敵戦車5両を撃破しますが山砲は全損、肉攻班も玉砕、対戦車兵器を失った部隊の各陣地は分断され、敵はパローに浸透、5月1日、遂にパローが突破されてしまい、部隊はパロー南側隘路まで転進します。

3日、ラングーンが陥落、ラングーン-プローム街道に英軍が浸透したため、第二十八軍は緬甸方面軍との連絡線が遮断され敵中に孤立、軍司令官・櫻井中将は隷下・指揮下兵團にペグー山系に集結後、シッタン平地次いでシッタン河を渡河しシャン高原西麓を突破、モールメンへ転進を下命します。
5月中旬~6月下旬、神威部隊はペグー山系西麓に集結、神威部隊長・杉本大佐は左突破縦隊指揮官を命ぜられ、7月初旬、ペグー山系北側に向け転進を開始、7月20日、ペグー山を下山し邁作戰を開始、22日、増水したクン河を渡河、英第7、第19師団の浸透しつつある中を突破し、23日、オキシーキンに集結しますが、追撃してきた英軍を拒止すべく指揮にあたっていた杉本大佐が敵弾を受け散華してしまいます(大谷虎熊少佐代理)。
24日、部隊は夜陰に乗じてマンダレー街道を突破し、雨季により浸水したシッタン平地を踏破、28日、濁流と化したシッタン河を渡河、8月初旬、シャン高原西麓に集結中、停戦を迎えます。

28日、第一大隊はモールメンにおいて神威部隊の編組を解かれ、30日、プルサットに移駐、第二大隊と合流します。


獨立山砲兵第六聯隊(偕六四八一)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編制改正、称號変更並第三百二十八次復員要領』により山砲兵第五十五聯隊補充隊は臨時動員(小笠原六男中佐)され、4月8日、大陸命第千二百九十七號により発令された第五十五軍(原田熊吉中将)戦闘序列に編入されます。
聯隊の編制は山砲2個大隊24門、十糎榴弾砲1個大隊12門でした。

聯隊は軍の作戦計画により高知平野に進出、第百五十五師團(岩永汪中将)指揮下に編入され物部川左岸より安芸市に渡る一帯に進出、作戦準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月16日、復員完結しました。


獨立山砲兵第十六聯隊(楠二八二九〇)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、6月1日、善通寺師管區砲兵補充隊(旧山砲兵第五十五聯隊補充隊)に臨時動員下令、同日、聯隊長・米澤俊雄中佐が着任、聯隊は第十五方面軍(内山英太郎中将、大阪)隷下に編入され、動員完結を待たずして高知県大方町(現、黒潮町)に進出、第三百四十四師團(横田豐一郎中将)とともに敵上陸部隊を撃破すべく編成中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月5日、復員完結しました。


編成(大隊以下)、補充を担当した部隊
獨立山砲兵第十二大隊 昭和10年2月8日

山砲兵第五十一聯隊 本部・第一大隊 昭和13年7月12日

山砲兵第二十七聯隊 第三・第六・第九中隊 昭和13年7月10日

建築勤務第第六十一中隊 昭和16年10月8日

高射砲第二十六聯隊 昭和17年4月14日

第百十一師團砲兵隊 昭和19年7月12日
※「第十一師團司令部」の記事参照

海上挺進基地第二十八大隊 昭和19年8月9日

第百二十師團砲兵隊 昭和19年11月21日
※「第十一師團司令部」の記事参照

重砲兵第十二聯隊 昭和20年1月4日

野砲兵第百二十一聯隊 昭和20年1月16日
※「第十一師團司令部」の記事参照

第百五十一停車場司令部 昭和20年1月30日

第百五十二停車場司令部 昭和20年1月30日

第百五十五師團砲兵隊 昭和20年2月28日
※「第十一師團司令部」の記事参照

迫撃砲第三十七大隊 昭和20年2月28日


主要参考文献
『善通寺市史 第二巻』 (昭和63年10月 善通寺市立図書館 善通寺市)

『善通寺市史 第三巻』 (平成6年12月 善通寺市教育委員会市史編さん室 善通寺市)

『山砲兵第十一聯隊史』 (平成3年5月 山砲兵第十一聯隊史編集事務局)

『火砲と共に 山砲兵第五十五聯隊戦史』 (昭和59年5月 山砲兵第五十五聯隊戦史編纂委員会)

『四国師団史』 (昭和47年4月 陸上自衛隊第13師団司令部四国師団史編さん委員会)

『第十一師團歴史の概要』 (昭和36年 大野廣一)

『土佐湾本土決戦史』 (平成18年11月 山崎善啓 高知新聞企業)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

アジア歴史資料センター 各種史料
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カテゴリ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カウンター
最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。


●Facebookやってますので本名ご存知の方はぜひ。
目印は水木しげる先生風の自画像です(笑)

検索フォーム
リンク
地図・史資料
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
ライオンズニュース
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる