当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

騎兵第十一聯隊

香川県善通寺市に所在する四国学院大学は騎兵第十一聯隊の跡地にあります。
兵営では後に騎兵第四十聯隊騎兵第五十五聯隊が編成されます。
騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 南側 (3)(善通寺)
▲四国学院大学構内に遺る二號兵舎

【探索日時】
平成20年4月19日、平成24年4月21日





<第十一師團関連諸施設配置>
第十一師團 大正期(善通寺)
▲『最新善通寺市街圖』(大正末年頃)

第十一師團 大正11年11月『善通寺全景』 空撮(善通寺)
▲『善通寺全景』(大正11年11月空撮)

第十一師團 善通寺 昭和16頃(善通寺)
▲現在の地図に転写
※緑文字が当記事の紹介施設
① 第十一師團司令部
② 歩兵第十旅團司令部
③ 旧善通寺聯隊區司令部
④ 第十一師團経理部 被服庫
⑤ 第十一師團兵器部
⑥ 第十一師團 善通寺倉庫
⑦ 第十一師團 善通寺倉庫
⑧ 山砲兵第十一聯隊
⑨ 砲兵 露天馬場
⑩ 工兵第十一聯隊
⑪ 善通寺工兵作業場
⑫ 第十一師團経理部 糧秣倉庫
⑬ 騎兵第十一聯隊
⑭ 輜重兵第十一聯隊
⑮ 善通寺偕行社
⑯ 第十一師團長官舎
⑰ 善通寺陸軍練兵場
⑱ 第十一師團兵器部 火薬庫
⑲ 吉原陸軍射撃場
⑳ 善通寺陸軍病院
㉑ 善通寺陸軍病院 臨時第一分院
㉒ 善通寺憲兵隊
㉓ 善通寺憲兵分隊
㉔ 善通寺陸軍墓地
㉕ 善通寺歩兵作業場
㉖ 乃木神社
㉗ 香川縣護國神社
※名称は昭和12(1937)年頃


遺構について ※青字は地図にリンクしています
⑬ 騎兵第十一聯隊
明治29(1896)年5月14日、香川県仲多度郡善通寺村(現、善通寺市)に第十一師團の設置が決定、6月9日、用地買収及び営舎建設工事が開始されます。

明治30(1897)年7月10日、騎兵第十一聯隊第一中隊(吉良秀識大尉)が広島から善通寺に転営、明治31(1898)年12月1日、編成完結(3個中隊)、明治33(1900)年3月、騎兵営が竣工します。
騎兵第十一聯隊 営門(大正年間)(善通寺)
▲騎兵第十一聯隊 営門(大正年間)

騎兵第十一聯隊 営門跡(遺構なし)(善通寺)
▲現在の営門付近
  門柱はありますが、戦後建て替えられた物です。

明治37(1904)年5月21日から明治39(1906)年1月12日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に際し同聯隊補充中隊、明治42(1909)年9月7日から明治44(1911)年5月27日、滿洲駐箚、昭和7(1932)年2月23日から昭和8(1933)年4月4日、第一次上海事變に際し同聯隊留守隊、昭和12(1937)年8月19日から昭和13(1938)年4月12日、第二次上海事變に際し同聯隊補充隊、10月6日からの滿洲駐箚においてに際し同聯隊留守隊が動員されます。

昭和14(1939)年8月7日、騎兵第十一聯隊留守隊において騎兵第四十聯隊が編成され中支に出征、昭和15(1940)年7月1日、留守隊は補充隊に改称、8月10日、騎兵第十一聯隊補充隊は騎兵第五十五聯隊に改編されます。
昭和16(1941)年10月19日、騎兵第五十五聯隊は泰国に出征、騎兵第五十五聯隊補充隊が動員されます。
昭和20(1945)年4月1日、全国の補充隊は師管區補充隊に改編されますが、騎兵第五十五聯隊補充隊は改編されず復帰、爾後の補充は隣接する善通寺師管區輜重兵補充隊(旧輜重兵第五十五聯隊補充隊)が担当します。
騎兵第五十五聯隊補充隊が復帰した後の騎兵営の用途は不明ですが、岡山(第十七師團)を例にとると復帰、転営した後の兵営は師團兵器部(兵器補給廠)倉庫や臨時応召者の仮兵舎に転用されています。

昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』が煥発され、16日、停戦を迎えました。

27日、米第24歩兵師団情報視察団7名に続き、11月1・2日、師団の一部1,200名が善通寺に進駐し旧砲兵営に入り香川県下の軍事施設に分駐し、兵器、弾薬、糧食、被服等を接収します。
12月8日、米軍は少数を残置し高知に移駐、同師団対戦車隊が新たに進駐、12月末、米軍と交代し英第5旅団が旧騎兵営に進駐して来ます。
昭和23(1948)年4月4日、同旅団の撤退に伴い旧騎兵営は大蔵省に仮返還され、一角に大蔵省四国財務局善通寺出張所が開所され、騎兵営の管理を行います。
7月、宣教師L・W・モーアがキリスト教系学校の設立を善通寺町に申請、昭和25(1950)年3月31日、騎兵営の25,315坪が四国基督教学院(4月25日開校、昭和37年、四国学院大学に改称)に、4月1日、368坪が四国鉄道管理局に、7月、285坪が高松検察庁に、11月、352坪が高松裁判所に、昭和26(1951)年3月31日、は善通寺町に払下げられ現在に至ります。
騎兵第十一聯隊 善通寺現在⑤(善通寺)
▲遺構の配置

M 建物
四国学院大学構内に遺り、現在はホワイトハウスの名称で使用されています。
騎兵聯隊本部庁舎と言われていますが、上掲大正11(1922)年の空撮、及び昭和14(1936)年の配置図には無く、昭和22(1947)年の空撮には似た様な大きさの建物が建物1個分西側にあり、移築されたのかも知れませんが詳細は不明です。
因みに騎兵第十一聯隊の聯隊本部はココ(第一中隊兵舎と同一建物)にありました。
騎兵第十一聯隊 M 聯隊本部 北東から(善通寺)
▲正面側から見た聯隊本部庁舎と言われる建物
 下掲の聯隊本部庁舎(一號兵舎)の古写真を見ると形状が似ている
  ので、元々の建物を減築・移築したのかも知れません。

騎兵第十一聯隊 M 聯隊本部 北西から(善通寺)
▲側面
  窓の形状が当時のものより幅広(2枚分)になっています。

騎兵第十一聯隊 M 聯隊本部 西側の扉(善通寺)
▲側面の入口
  古い形状ですが???

騎兵第十一聯隊 M 聯隊本部 内部 (2)(善通寺)
▲入口を入ってすぐの玄関周り
  当時の雰囲気はあるのですが・・・

騎兵第十一聯隊 M 聯隊本部 内部(善通寺)
▲同じく玄関周り

騎兵第十一聯隊 M 聯隊本部 内部 (3)(善通寺)
▲奥の部屋

※学校関係者の許可を得て立ち入っています。


N 二號 兵舎
四国学院大学構内に遺り、教室に転用されています。
騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 南側 (2)(善通寺)
▲正面側
  現存兵舎は大きいうえ周囲に建物が建て込んでおり撮影に苦労します。

騎兵第十一聯隊 聯隊本部・兵舎(善通寺)
▲騎兵聯隊時代の現存二號兵舎(左側)と聯隊本部兼一號兵舎

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 南側(善通寺)
▲現在の入口付近
  正面のペディメント(三角の屋根飾り)は当然、戦後に付けられたものです。

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 南側 (4)(善通寺)
▲正面から

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 南側の窓(善通寺)
▲窓の拡大
  上掲古写真を見ると窓の数が増やされていいる(真ん中の2枚)様です。

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 北側(善通寺)
▲裏側
  この面が最も当時のまま遺ります。

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 北側 ガラリ(善通寺)
▲お約束の床下にある星章を象ったガラリ

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 南東から(善通寺)
▲側面
  樹木が茂っており見通せません。

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 1階廊下(善通寺)
▲1階廊下
  1階は昭和7(1931)年、食堂に改築されました。

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 階段(善通寺)
▲2階に上がる廊下
  内部は改装されているものの、比較的当時の形状を良く遺しています。

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 2階廊下(善通寺)
▲2階廊下

騎兵第十一聯隊 N 二號兵舎 裏口付近(善通寺)
▲1階裏口
  殆ど当時のままと思われます。

※四國学院大学の見学については特に許可は要らない様ですが、念のため守衛所で許可を得て立ち入っています。


う 騎兵聯隊跡 碑
善通寺市民会館にあります。
昭和49年8月、善通寺騎兵聯隊関係生存者により建立されました。
騎兵第十一聯隊 う 「騎兵聯隊跡」碑(善通寺)
▲裏側に騎兵第十一聯隊の簡単な説明があります。


陣没軍馬記念碑
乃木神社境内に移設されています。
明治40年3月、兵営内の忠魂祠に建立されました。
騎兵第十一聯隊 陣没軍馬記念碑(善通寺)
▲台座裏の碑文が全く関係無い事から、上下が別物の様です。


衛戍・編成部隊
騎兵第十一聯隊(錦二四五五、滿洲第五十二部隊)
第十一師團挺進聯隊(錦二四五五)
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため軍備増強を決定します。
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成を決定します。

11月21日、騎兵第五聯隊(広島)から基幹要員を抽出し、同聯隊内に仮事務所を設置、騎兵第十一聯第一中隊1/3が編成(吉良秀識大尉)されます。
明治30(1897)年7月9日、第一中隊は宇品港を出航、10日、詫間港に上陸し善通寺に転営します。
12月1日、第二中隊が編成、明治31(1898)年10月3日、初代聯隊長・木村重大佐が着任、12月1日、第三中隊が編成され聯隊編成完結、明治32(1899)年12月27日、宮中において軍旗を拝受します。
騎兵第十一聯隊 軍旗(明治)(善通寺)
▲拝受当時の騎兵第十一聯隊軍旗

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月19日、聯隊(河村秀一中佐)に動員下令、5月1日、動員完結、5月22日、第一中隊の1個小隊・第三中隊は榮城丸に、23日、聯隊本部・第一中隊はろひら丸、第二中隊は吉林丸に乗船し詫間港を出航、26日、第三中隊、29日、聯隊主力は張家屯に上陸、金州に集結します。
6月6日、第十一師團は第一師團(松本務本中将、東京)とともに第三軍(乃木希典大将)戦闘序列に編入され、第一師團南方の南泡子崖に師團司令部を設置、聯隊主力は師團豫備隊となり香炉焦に移駐し鉄道・電信の援護、青泥窪の守備に、第二中隊(小崎正滿大尉)は玉家屯に移駐し歩兵第十旅團(山中信義少将、歩二十二、歩四十四)に編入、第三中隊(寺中猪介大尉)は歩兵第二十二旅團(神尾光臣少将、歩十二、歩四十三)に編入され夫々敵情捜索、連絡にあたります。
26日、師團は猪圏支溝-黄泥川付近の露軍を撃破、乱泥橋東方一帯の高地より大下屯西方高地に進撃、聯隊は南沙河口に前進します。
7月4日、敵3個連隊が師團中央陣地前面に侵攻、聯隊は左翼隊・歩十二聯隊長・新山良和大佐指揮下に師團左翼警戒中、敵艦隊の砲撃を受けてしまいます。
23日、第九師團(大島久直中将、金沢)が旅順要塞攻囲に加入、聯隊主力(第一中隊)は師團とともに老左山、大白山の攻撃に参加、第二中隊は第九師團指揮下に編入され安子嶺、干太山の攻撃に参加、夫々捜索、通信、後方連絡線の防衛にあたります。
同日、第三中隊は大連を出発、31日、蓋平南東の左側家子に前進、滿洲軍總司令部(大山巌大将、6月30日編成)の護衛にあたり、8月4日、第二軍指揮下に編入され騎兵第一旅團(秋山好古少将)指揮下に配属、騎六聯隊長・長江虎臣少佐、騎三聯隊長・中山民三郎少佐の指揮下に鞍山站及びその以西地区の捜索警戒、糧秣輸送の援護、大湾方面の敵情捜索にあたります。

26日、師團は老左山、28日、大白山を攻略します。
8月7日、師團の要塞戦の特性上、騎兵は行動が制約されるため、騎十一は第二中隊を師團直轄として残置し第二軍(奥保鞏大将)の指揮下に編入され、8日、毛道溝を出発、19日、孟湖泡に集結、第三中隊を掌握し騎兵第一旅團(秋山好古少将)に配属されます。

露軍は当初、一部をもって韓国占領を企図しますが、第一軍(黒木為楨大将)の進撃により滿洲に敗走、遼東半島方面においては旅順要塞を築城し且つ旅順-奉天間の鉄道沿線に部隊を配備し南滿洲一帯の占領を企図するも、第二軍の金州南山攻略により連絡を遮断され旅順は孤立します。
露軍は旅順救援に侵攻してきますが、第二軍は得利寺で露軍を撃破、さらに獨立第十師團(黒澤源三郎中将、姫路)の進撃により露軍は我軍各個撃破の戦機を喪失したため、露滿洲軍総司令官・A・クロパトキン大将は遼陽付近に全軍を集結させ我軍を迎撃せんとします。
8月19日、聯隊は秋山支隊(騎兵第一旅團、騎三、騎六、騎砲兵中隊、歩三十八(第三大隊欠)、野戰砲四第二大隊、工四第三中隊)に編入され聯隊主力は蛇龍塞、武将台、板橋子方面の敵情捜索、22日、第一中隊は蛇龍塞の威力偵察にあたり、25日、第三中隊は第四師團前面に将校斥候を派遣し敵情捜索します。

26日、第一軍は太子河右岸から遼陽東方へ、第四軍は遼陽-海城東側地区(鞍山)へ、第二軍は同以西地区(騰鰲堡)に進撃を開始、として軍最左翼を太子河右岸に進撃、露ミスチェンコ騎兵団と対峙、聯隊は恥火庄子攻撃に参加、続いて四方台方面の捜索、第一中隊は鴨子泡、南京溝、第三中隊は玉墻方面の捜索にあたり、南京溝-玉墻の線を攻略、27日、聯隊は大王鉄屯の敵を撃破、次いで激戦ののち騰鰲堡を攻略、28日、聯隊は騎三、歩三十八第一大隊、機關砲隊とともに秋山支隊の前衛として沿子溝付近に前進し遼陽方面の警戒にあたります。
29日、聯隊は第一中隊を先頭にランジャーツンに進撃、敵を撃破し同地を攻略、30日、チャウジャンフーズイを攻略、31日、騎三とともに敵騎兵の逆襲を受け白兵戦ののち韓家台に転進、9月3日、聯隊は支隊前衛として敵を追撃しガイロズイに進撃、4日、東千河子に進撃します(遼陽會戰)。

9月5日、聯隊は東千河子において太子河の、8日、黄泥窪、三家子において敵情捜索にあたり、16日、支隊前衛となり韮葉台に前進、17日、北部長灘より敵の逆襲を受けますが撃退、18日、黒溝台の、22日、蘇麻堡に前進し、孟達堡、大小韓台、南部長灘、運河右岸地区の捜索、威力偵察にあたります。
10月5日、騎九とともに三台子に前進し支隊の左側背警戒にあたり、3度に渡り敵の襲撃を受けますが撃退、15日、歩九(岩田正吉中佐、大津)とともに李大人屯を激戦ののち攻略、三家子、青涯子に前進、黒林台方面の威力偵察にあたります(沙河會戰)。
20日、聯隊は韓三台に位置し三台家、大小韓台、長灘、運河右岸の捜索、威力偵察にあたります。
12月17日、寺中猪介大尉以下4名は奉天鉄嶺付近、23日、光田藤三郎特務曹長以下5名は奉天付近、明治38(1905)年1月8日、成松恕夫中尉以下5名は奉天・撫順、28日、吉岡豐輔中尉以下6名は通化付近に進出し、夫々将校斥候として敵情捜索にあたります。

8月8日、第十一師團は我軍の配置を見渡せる大狐山、9日、小狐山を攻略、第二中隊は中吉小隊(2個分隊欠)を左翼隊(歩十旅團長・山中信義少将)に、阿部小隊(2個分隊欠)を右翼隊(歩二十二旅團長・神尾少将)に編入し師團と第九師團の連絡にあたります。

8月17日、師團は旅順要塞(東鶏冠山北堡塁)攻撃を右翼隊(山中少将、歩十二、歩二十二、騎十一半個小隊、機關砲第五・第六・第八小隊、工十一第一中隊第三小隊・第二・第三中隊)、左翼隊(神尾少将、歩四十三、騎十一半個小隊、野戰砲兵十一第一中隊、機關砲第五小隊第十分隊、工十一第一中隊第二小隊)、砲兵隊(足立愛蔵大佐、聯隊主力)、豫備隊(歩二十二第三大隊、騎十一第二中隊主力、工十一第一中隊第一小隊)として部署、19日、攻城砲兵司令部(豐島陽蔵少将)の準備射撃に続いて、20日、砲兵隊が射撃を開始、21日、東鶏冠山北堡塁に歩四十四第二大隊が突撃し、一時東鶏冠山第二堡塁を攻略しますが、露軍の逆襲により堡塁を奪還され大損害を受けてしまいます。
次いで歩二十二第三大隊が東側から突撃しますが鉄条網に阻まれ前進は遅滞、さらに歩十二第二大隊が歩四十四の突撃路を通り突撃するも敵の機関銃掃射を受け攻撃は遅滞、22日、軍命令により師團は東鶏冠山の攻撃を中断し、23日、望台砲台に攻撃を変更、歩四十四、歩二十二に続き、24日、歩十二が突撃するも露軍の防御は堅牢でまたも損害が増加、さらに弾薬の欠乏により軍命令により攻撃は中止されます。

同日、中隊は師團司令部所在の姜家屯南方高地北麓に前進し、第三軍司令部所在の団子山東方高地との間に逓騎哨を設置し連絡にあたるとともに、一部を海魚嶋の海岸警戒にあたります。

9月2日、師團は敵の銃砲火を避けるべく交通塹壕掘削を開始、10月26日、本土から輸送された二十八糎榴弾砲の支援を受け、第一師團は松樹山堡塁前方散兵壕、第九師團(大島久直中将、金沢)は盤龍山東堡塁を攻略、、続いて夫々松樹山、二龍山永久堡塁を攻撃、10月30日、中隊は左翼地區隊に部署され、第十一師團は東鶏冠山北堡塁への攻撃を再開しますが露軍の銃火は凄まじく損害が増加、11月1日、砲兵隊の支援射撃のもと歩二十二第二大隊が北堡塁に突撃、工兵小隊爆破隊の爆破により防壁内に突入しますが敵の逆襲を受け第五・第八中隊が玉砕、攻撃は中止されます。

26日、二十八糎榴弾砲の支援のもと、師團は北側から東鶏冠山北堡塁攻撃を開始、またも露軍の激烈な反撃により甚大な損害を受け、師團長・土屋中将も頭部に重傷をおい後送(12月1日、鮫島重雄中将着任)、第一・第九師團の突撃も頓挫し攻撃は一時中止されます。

12月18日、師團は東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始、工十一は坑道に装填した爆薬を爆破し正面胸墻、備砲を爆砕し歩二十二、次いで後備歩三十八の突撃により、遂に堡塁を攻略、29日、第九師團が二龍山堡塁、31日、第一師團が松樹山堡塁を攻略、明治38(1905)年1月1日、旅順要塞司令官ステッセル中将が我軍に降伏を申し入れ、旅順要塞は陥落、13日、旅順入城式が挙行されます。

12日、師團は新編された鴨緑江軍(川村景明大将)戦闘序列に編入され、1月20日、第三軍の進路偽装のため旅順から北上を開始、22日、聯隊は騎兵第一旅團指揮下を脱し韓三台を出発、31日、草河城に到着、2月8日、第十一師團に復帰、9日、聯隊は後備第一師團(坂井重季中将)指揮下に編入され、後歩十三第一大隊を指揮し草盆溝に位置し師團右翼を警戒しつつ敵情捜索にあたり、19日、第三中隊、歩兵1個小隊を残置し河村支隊(本部、第一・第三中隊の1個小隊、後歩十三第一大隊)を編成、20日、後歩第六旅團(草場彦輔大佐)の金斗嶺攻撃に連携し千合嶺を攻略し、葦子峡に前進します。
28日、河村支隊は編成解除、聯隊は葦子峡を出発、3月1日、三龍峡において第二中隊を掌握、歩十二第十一中隊、歩四十三第二中隊、砲十一1個小隊を編入され河村支隊を編成、エルリンダー北方高地を守備し師の左側背援護、第一軍との連絡にあたり、5日、歩十五旅團(小原芳次郎少将、歩十六、歩三十)と連携し高地西北の露軍を撃破します。

2月22日、師團は滿洲軍(大山巌大将)の奉天攻撃の陽動作戦である清河城攻略戦に参加、24日、歩十二、歩四十四が鉢巻山、次いで清河城を攻略、露軍は鴨緑江軍を過大評価し兵力を移動させます。
26日、師團は馬郡鄲に進撃、3月8日、露軍が撤退を始めたため、9日、聯隊は歩十三第三大隊、歩四十三第二大隊とともに追撃隊となり、新堡北方において露騎兵1個連隊を撃破、撫順南方運河に追撃、奉天方面の露軍も相次いで退却、3月10日、滿洲軍により奉天城が攻略、聯隊は田水窪子、21日、高麗営に移駐、4月14日、八家子を攻略、5月4日、長山子に移駐、敵と接触しつつ敵情捜索にあたるなか、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結します。
16日、両国軍は休戦に入り、11月7日、聯隊は長山子を出発、11日、龍鳳坎に到着、12月29日、龍鳳坎を出発し、30日、奉天西方の御花園に到着、明治39(1906)1月1日、第一中隊、2日、聯隊主力、3日、第三中隊は奉天を出発、8日、師團に復員下令、奉天駅より大連駅に列車で移動、5日、第一中隊は第一乾坤丸、6日、聯隊主力は因幡丸、7日、第三中隊は彰化丸に乗船し、8・10・11日、多度津港、詫間港に上陸、郷土の歓迎を受け善通寺に凱旋、13日、復員完結します。
戦役における聯隊の損害は6名散華でした。

明治42(1909)年8月9日、第十一師團に滿洲駐箚が下命、9月5日、聯隊は詫間港を出航、6日、師團司令部が詫間港を出航、、9日、聯隊は大連に上陸、12日、公主嶺に到着し騎十と交代し守備にあたります。
明治44(1911)年3月7日、第十一師團に代って第五師團の滿洲駐箚が決定、5月8日、騎五に守備を移譲、9日、公主嶺を出発、10・11日、大連港を出航、14・15日、似島において検疫の後、15・16日、詫間港に上陸、善通寺に帰還します。

大正9(1920)年9月17日、聯隊(野崎準一中佐)に臨時編成下令、24日、編成完結、聯隊は第三中隊(長谷川鉦吉少佐)を留守部隊として残置し、第十一師團とともにシベリア出兵参加のため、25日、聯隊主力は善通寺を出発し筑前丸に乗船、26日、第一中隊は萬世丸に乗船し詫間湾を出航、28日、ウラジオストクに上陸、師團は浦塩派遣軍司令官(大井成元大将)指揮下に編入され、ウラジオストクに師團司令部を設置します。
10月1日、聯隊主力は東部守備隊(歩十旅團長・黒田善治少将)に編入されシコトワ、スーチャンに、3日、第一中隊の宮脇小隊(宮脇侃藏中尉)は西部守備隊(歩二十二旅團長・原為五郎少将)に編入され南部ウスリーの示威・偵察にあたります。

10月、間島事件鎮圧のため歩四十三第一大隊、歩十二聯隊を南部烏蘇里守備隊に編入、10月15日、宮脇小隊はシコトワを出発し支那領土門子付近に出動、第一中隊は南部ウスリー左地區守備隊(歩四十四聯隊長・堀内龍明大佐)の指揮下に入り琿春河谷一帯の掃討を実施します。

12月16日、第一中隊加藤小隊(加藤吉郎大尉)をウラジオストクに残置し、主力はシコトワに集結、示威・偵察にあたります。
大正10(1910)年5月中旬、第十二師團の内地帰還に伴い、師團は第九師團に警備区域を移譲し、5月5日、聯隊はシコトワを出発、6日、スバスカヤに到着し加藤小隊を掌握、北部旅團(歩二十二旅團)に編入、第二中隊岩田小隊(岩田邑三郎少尉)はニコリスクに到着し南部旅團(歩十旅團)に編入され示威・偵察、匪賊討伐にあたります。

7月13日、ボクロフカに馬賊500が侵攻、岩田小隊は狙撃砲隊を率い急行、馬賊を撃退しますが岩田少尉が散華してしまいます。

大正11(1911)年3月19日、聯隊は歩四十四指揮下に編入され、スバスカヤ駅において白軍の武装解除を実施、28日、聯隊はスイヤギノに前進し赤軍を偵察、4月2日、赤軍は日露協約を無視してブッセフカに侵入してきたため、4日、師團はスバスカヤに集結、ズローズドフ駅、アレキサンロフカにおいて赤軍を撃破し敗走させました。
10日、師團に内地帰還が下命、5月19日、聯隊は騎九と交代、29日、スバスカヤを出発しウラジオストクに集結、6月7日、第一中隊は明石丸に乗船、8日、聯隊主力は東郷丸に乗船ししウラジオストクを出航、12・13日、詫間湾に上陸、善通寺に帰還しました。

8月15日、軍令陸乙第十三號『陸軍平時編制』改正(第一次軍備整理)に伴い、聯隊は第一中隊を分割し第二・第三中隊に分属させ、第三中隊を第一中隊に改称し2個中隊編制に改編されます。
騎兵第十一聯隊 軍旗(大正)(善通寺)
▲大正期の騎兵第十一聯隊軍旗

昭和7(1932)年、支那における排外思想は先鋭化、特に南支地域では国民党の扇動もあり排日・侮日行為は日々深刻化していきました。
1月18日、上海郊外において支那人により日本人僧侶が殺害され、28日、共同租界の警備にあたっていた我が上海海軍特別陸戰隊に支那国府十九路軍が発砲した事から上海事變が勃発します。

2月23日、第十一師團の応急派兵が決定し師團に動員下令、24日、動員1日目、第十一師團は第九(2月9日、先発)、第十四師團とともに上海派遣軍(白川義則大将)戦闘序列に編入され、27日、第一中隊(岡元孝一大尉)の動員完結、28日、中隊は歩十旅團(稲垣孝照少将)の指揮下に編入され善通寺を出発、神隆丸に乗船し詫間港を出航、3月5日、呉淞桟橋に上陸、瀏河鎮に進出し師團に合流、同地の守備にあたりつつ敵情捜索にあたります。

3月4日1100、師團は停戦命令を受領、14日、復員下令、21日、中隊は瀏河鎮を出発し上海に集結、23日、ふらんす丸に上陸し上海を出航、28日、高松港に上陸、善通寺に凱旋、4月3日、復員完結します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が勃発します。
8月7日、支那国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事挑発行動は日増しに激化、13日、支那軍が我が陸戦隊に攻撃を開始、第二次上海事變が勃発します。
14日、聯隊(田邊勇中佐)に動員下令、第十一師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入され、16日、動員完結します。

20日、師團司令部は第一梯団(歩四十三第三大隊、歩四十四、山砲十一)として多度津港から重巡「妙高」以下10隻に分乗し出航、21日、第二梯団の歩二十二は戦艦「陸奥」に乗艦し三津浜港から、歩四十三は同「長門」に乗艦し小松島港から出航、同日、第一梯団は長江川口馬鞍群島に進入し仮泊します。

22日、第一中隊(坂田六郎大尉)は善通寺を出発、詫間港を出航、27日、聯隊主力は善通寺を出発、28日、詫間港を出航します。

23日0515、第一梯団は海軍の艦砲射撃のもと川沙口沖に敵前上陸を敢行、歩四十三は劉家鎮へ、師團は歩四十四を先頭に長江右岸のクリークと猛暑に苦闘しながら上海北方の敵陣に進撃、24日、第二梯団が上陸します。

28日、師團は支那軍要地・羅店鎮周辺の強力な支那軍陣地に苦戦しながらも攻略に成功、同日、第一中隊は貴腰湾に上陸、楊家村に前進、29日、長坂小隊(長坂炳紀中尉)は米屯付近で支那軍80を撃破、劉家鎮攻撃中の歩四十三と連絡、中隊主力は矢野小隊(矢野禮次郎見士官)を楊家村警備に残置し師團司令部と連絡後、歩四十三に師團命令を伝達、30日、中隊は歩四十四第二大隊(田中少佐)指揮下に編入され、師團豫備隊として蘇家屯の守備にあたります。
9月1日、師團第二次輸送部隊(工十一主力、各歩兵聯隊第四・第八・第十二中隊)として聯隊主力が貴腰湾に到着(2・3日、上陸完了)、中隊は田中少佐の指揮下を解かれ、陳宅において師團第三野戰病院の援護にあたるとともに、4日、徐家角に前進してきた聯隊に復帰、聯隊は徐家角付近に布陣し師團の右側背援護にあたり、5・6日、西塘湾付近、徐家角南方に侵攻してきた支那第五八師1,000を歩兵と共同で、次いで山砲十一第七中隊を指揮し撃破します。

12日、聯隊は師團指揮下に編入された重藤支隊(臺灣守備司令部・重藤千秋少将、臺灣歩一、同二)に編入、劉家鎮方面の警戒にあたり、19日、師團左翼援護のため南下する歩二十二と交代し羅店鎮北方陣地を守備ます。

10月5日、師團は支那軍陣地を攻略しつつ羅店鎮南西側の第二次進出線(楊家宅、北周宅-王家湾、蘇家宅まで進撃、9日、北覧溝以南地区の支那軍を攻撃しますが揚涇クリークに阻まれて進撃は遅滞してしまいます。
17日、軍命令により師團は歩二十二を残置し現陣地を確保しつつ羅店鎮東方に集結、26日、南翔作戰に参加、南翔東側に前進し軍の右側背援護にあたりつつ南翔東側の支那軍陣地を攻撃、11月3日、聯隊は師團に復帰、9日、歩十旅團(天谷直次郎少将)指揮下に編入され、歩十二第四(11日まで)・第十二中隊(10日まで)を、11日、師團後備歩兵第三大隊を指揮し右翼隊の歩四十三と交代し陳家行-王家寺の線を確保します。

11月12日、師團は南翔を攻略、上海周辺の支那軍が潰走し始めたため、聯隊は師團追撃隊(歩二十二旅團長・黒岩少将、歩四十三、山砲十一第三大隊、工十一)とともに追撃を開始、14日、太倉に進撃、15日、師團主力は追撃隊を追求、16日、聯隊は白茆市東側において民船を収集、歩四十三の水上機動を援護の後、無錫に集結し警備、戦力回復にあたります。

12月3日、師團主力は南支方面の作戦に転用が決定、第五軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に隷属転移、8日、聯隊は無錫を出発、蘇州、昆山、南翔を経て、12日、上海に集結、18日、玉津丸、あさか丸に乗船し上海を出航し東シナ海を南下中、23日、作戦は中止されたため台湾高雄州坊寮に上陸、屏東以南地区に集結し広東上陸作戦に備えますが、昭和13(1938)年2月28日、師團に復員下令、3月6日、聯隊は高雄を出航、12日、聯隊主力、15日、残りが坂出港に入港し善通寺に凱旋、4月12日、復員完結します。

9月22日、軍令陸甲第六十五號『滿洲派遣臨時編成』により師團の滿洲駐箚が決定し、聯隊(伊藤説中佐)に臨時編成下令、25日、編成第1日目、10月2日、編成完結、善通寺を出発し坂出港を出航、8日、釜山に上陸、9日、釜山を出発、11日遼陽に到着します。
12日、師團は關東軍(植田謙吉大将)戦闘序列に編入、16日、師團司令部、及び聯隊は遼陽に集結し訓練を実施しつつ北満移駐の準備にあたり、12月2日、聯隊先発隊(聯隊附・村尾庄市中尉以下42名)、13日、聯隊主力、14日、後発隊(鏡原八尺男少尉以下76名)が遼陽を出発、17日、密山に集結し警備、訓練、敵情偵察にあたります。

昭和14(1939)年6月15日、大陸命第三〇二號により第十一師團は新編された第五軍(土肥原賢二中将)に隷属転移します。

5月11日、ソ連の意を受けた外蒙軍がノモンハン付近で滿洲國に越境して来た事からノモンハン事件が発生します。
7月16日、聯隊に応急派兵下令、18日、出戦準備を完了、歩四十四第三中隊を編入され興凱湖西地区の警戒のため地形偵察、密山方面1.5kmに築城を実施します。
9月25日、停戦協定成立に伴い、応急派兵は解除されます。

11月13日、師團は東安省虎林縣虎林への移駐を下命され、12月8日、聯隊は列車により密山を出発、19日、寳東に移駐し、警備、訓練、敵情偵察にあたります。

昭和16(1941)年5月28日、騎兵第十一聯隊の軍旗は聯隊附・田中稲雄少尉に捧持され、椎野菊太郎中尉以下6名の護衛のもと寳東を出発、6月2日、東京に到着、7日、宮中に奉還されます。
騎兵第十一聯隊 軍旗(昭和)(善通寺)
▲奉還された騎兵第十一聯隊軍旗

22日、ドイツが『獨蘇不可侵条約』を破棄しソ連に進攻します。
7月7日、關東軍特種演習動員下令(特臨編第一號(第百一次動員))、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第十一師團に臨時動員下令、25日、聯隊(西岡三次中佐)に臨時編成下令、28日、編成第1日目、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、8月2日、編成完結、9月16日、聯隊は糧秣の集積作業、築城を実施するなど対ソ連戦を見越した作戦準備を完了しますが、準備中の8月9日、ソ連軍の欧州方面移駐は予測以下な事から対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年10月7日、軍令陸甲第八十五號『在滿師團ノ編合中一部缺除第二百九次復帰要領』により騎兵第十一聯隊に復帰下令、11月5日、復員第1日目、聯隊は第三中隊の編制を解き過剰人員は輜重兵第十一聯隊、騎兵第五十五聯隊補充隊に転属します。

昭和19(1944)年3月13日、聯隊は歩兵2個中隊、機関銃2個小隊、速射砲1個小隊を編入され金剛隊を編成、19日、寳東を出発、20日、光岡(永発屯)に到着、歩四十四、第二十四師團歩二十二各1個大隊と守備を交代、聯隊本部・第一中隊を光岡(永発屯)、第二中隊を穆稜河畔水左橋、機關銃中隊を中央に配置し国境守備にあたるとともに作戦道路、陣地築城を行います。

昭和20(1945)年3月17日、特臨編第四十八號により第十一師團に臨時編成(甲)下令、4月1日、聯隊(長谷川詮次中佐)は編成着手、第三中隊(小松年一中尉)を編成(整備人員無しのため基幹要員のみ)、11日、編成完結します。

4月1日、陸亞機密第百五十號により第十一師團の内地移駐が下令、虎林の防衛・警備を獨立混成第七十七旅團に移譲し、8日、師團は大陸命第千二百九十七號により発令された第五十五軍(原田熊吉中将)戦闘序列に編入されます。
11日、聯隊は光岡を出発、15日、寳東に到着、16日、残留隊(神岡優中尉以下10名)及び馬匹全頭を残置し徒歩編制となり、歩十二第三大隊、輜重十一の1個小隊、師團防疫給水部の一部とともに師團第四梯団として寳東を出発、列車により、19日、釜山に集結、30日、多聞丸に乗船し釜山港を出航、5月2日、敦賀に上陸、7日、敦賀を出発、列車により、8日、高知市久礼町に到着します。
9日、久礼國民學校において第一・第二中隊・機關銃中隊の人員から第三中隊を整備します。

5月1日、師團の作戦計画に則り聯隊は工十一第一中隊三宅小隊(三宅馨少尉以下46名)、第二工事隊、特設警備第二百二十九中隊を編入され中村支隊を編成、中村付近防衛のため、11日、久礼町を出発、12日、主力は中村町(現、中村市)、13日、一部は周辺地域に前進し敵上陸の阻止、敵海空基地設定妨害のため作戦準備を開始します。
聯隊は中村町西南高地に主力、宿毛湾防備のため松田川河口高地に第一中隊・機關銃中隊1個小隊(平畠清水中尉)、入野海岸防備のため入野西側高地に第二中隊の相場小隊(相場和雄中尉)、下田港防備のため四万十川河口高地に第三中隊の谷岡小隊(谷岡二郎准尉)に布陣、27日、師團参謀長・西原征夫大佐の指導により、6月中旬、下田港防備強化のため四万十川河口高地に第三中隊主力(小松年一中尉)、第一中隊配属の機關銃中隊1個小隊を、入野海岸防備強化のため蠣瀬川右岸に速射砲小隊(矢野喜美雄中尉)を増派、7月上旬、入野海岸防備強化のため入野西側高地に第二中隊主力(高橋二郎中尉)、機關銃中隊主力(田村産次中尉)を増派します。

6月24日、高知南西部を作戦地とする第三百四十四師團(横田豐一郎中将)が中村町(現、中村市)に前進、聯隊は同師團指揮下に編入されます。

6月下旬、騎兵第十一聯隊に挺進聯隊への仮改編下令、7月3日、編成第1日目、5日、編成完結(2個大隊夫々3個中隊、1個機關銃中隊)します。
編成充足要員は、6月28日、中部軍管區(京都)より18名、〃(大阪)より60名、7月1日、中國軍管區(岡山)より37名、4日、歩四十四より2名、5日、四國軍管區(高知、丸亀)より764名、山砲十一より6名、18日、中國軍管區より2名が高知市旭、同朝倉國民學校に集結、25日、聯隊は第十一師團に復帰、26日、中村町を出発、29・30日、高知に集結、編成充足要員を加え、8月10日、五台山周辺に布陣を完了します。

聯隊は前衛に布陣する歩兵第四十三聯隊に呼応し敵上陸部隊を破砕すべく陣地構築、訓練を実施中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、兵器・弾薬を中隊ごとに集積しますが、16日、「米機動部隊が上陸を企図し土佐湾沖を侵攻中」との報に接し、再び戦闘配備に付くも、誤報と判明し、17日2200、停戦を迎えました。
第十一師團は第五十五軍の中核を担い、古豪師團として士気・練度も高く装備も充実、敵上陸部隊撃砕に邁進していましたが、その真価を一度も発揮する事無く停戦を迎えました。

19日、五台山竹林寺において将校・下士官全員参列のうえ、聯隊戦病没者の追悼慰霊法要を執行、20日、高知護國神社において聯隊訣別式を挙行します。

25日、第十一師團創立以来の英霊12,488柱の合同慰霊祭を高知市下知昭和國民學校において挙行、31日、軍令陸甲第百十六號により復員下令、9月7日、師團司令部の所在する鉢伏山に隷下部隊中隊長以上を招集、第五十五軍司令官・原田中将臨場のもと復員式を挙行、10日、復員完結します。


騎兵第四十聯隊(鯨六八八五)
第四十師團騎兵隊(鯨六八八五)
昭和14(1939)年6月30日、軍令陸甲第二十一號により、留守第十一師團に第四十師團の編成下令、8月1日、騎兵第十一聯隊留守隊(西岡三次少佐)に騎兵第四十聯隊の編成下令、6日、編成完結(佐伯靜夫中佐)、第四十師團(天谷直次郎中将、10月7日編成完結)隷下に編入され、9月17日、青野原陸軍演習場で訓練にあたります(28日帰還)。
聯隊に軍旗は親授されず、編制は第一中隊(山崎丈太郎中尉)・第二中隊(久保賢四郎大尉):乗馬(各中隊は指揮班と4個小隊、軽機関銃2・擲弾筒2、馬匹140)、機關銃隊(村上義男大尉、3個小隊、彈藥小隊)でした。

10月4日、池上博通少尉、田坂章軍曹が宿営地設営のため出発します。

8日、聯隊は善通寺を出発、東福丸に聯隊主力、新夕張丸に第一中隊が分乗し坂出港を出港、17日、第一中隊は中華民國湖北省武昌に上陸、18日、聯隊主力は武昌に上陸し第一中隊を掌握、19日、師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、咸寧に司令部を設置、28日、聯隊は兵站自動車第七十四中隊の1個分隊、獨立輜重兵第二聯隊第二中隊の1個分隊を編入され、鄂城に移駐し捜索第三十三聯隊より警備を引き継ぎ、鄂城に聯隊主力、第二中隊を鉄山舗、第一中隊の1個小隊を碧石渡に配置し大冶鉱山を含む漢口東方長江南岸地区の治安維持にあたります。

11月18日、聯隊主力は夜間舟艇機動により長江を下り燕磯に上陸、鄂城東方16kmの葛家湾を急襲し支那軍特務大隊長以下10名を捕縛します。

30日、主力は鉄山舗に集結、歩二百三十六の1個小隊の配属を受け、12月1日、鉄山舗を出撃、大岩県劉仁八付近の支那軍を掃討し、6日、原駐地に復帰します。

11月30日、重慶に撤退した蒋介石は我が占領地に冬季反攻を開始、12月10日、支那第八軍(2個師)・第三〇集団軍(3個師)70,000が歩二百三十四第十中隊が守備する芭蕉嶺に侵攻、12日、師團は石本支隊(第四十歩兵團長・石本貞直少将、歩二百三十四、歩二百三十五)、龜川支隊(歩二百三十六聯隊長・龜川良夫大佐、聯隊主力、山砲四十第一大隊)を編成し、13日、石本支隊は西坑塘を出発、夏舗周辺で夜襲により撃破し宝石河に進撃します。
12日、聯隊は輜重四十第二中隊に警備を委任し、鄂城を出発、13日、漆州に集結、佐伯支隊として富水を渡河、14日、支那軍を撃破しつつ進撃し、石盤山の険峻を徒歩となり踏破、隣接する龜川支隊と策応し敵の退路を遮断すべく龍港南側高地に進出しますが、支隊が未到着のため奇襲により龍港を攻略、進撃してきた龜川支隊と合流、支隊に先発し風樹下北方山岳地帯において敵を撃破します。

15日、聯隊は高家において支那第第一九七師第一三九団を強襲し撃破、同地を攻略しますが、敵1個師以上の夜襲を受け包囲殲滅される危機に瀕したため、催涙弾により撃退します。
16日、師團は支那軍を九官山以南に潰走させます(第一次九官山作戰)。

17日、宝石河に進撃し敵の退路を遮断、21日、楠林橋に集結、24日、黄家章、藕塘付近に集結して来た支那第三師、第一九七師の残敵を歩二百三十五(梨岡壽男大佐、徳島)とともに楊芳林、新豊市、藕塘に進撃し殲滅、30日、原駐地に帰還します(第二次九官山作戰)。

昭和15(1940)年1月17日、各中隊から1個小隊を抽出し集成中隊を編成(第一中隊長・山崎中尉)、12日、鄂城を出発、輜重四十(角和善助大佐)指揮下に編入され高橋、双渓橋付近の掃討を行い、25日、帰還します。

3月28日、獨立輜重兵第二聯隊第二中隊の1個分隊は原隊に復帰します。

4月11日、第十一軍は増大する支那軍の反攻により我が第一線が擾乱、損害を受け、且つ敵に戦勝感を持たせるのは得策では無いため、雨季までに支那軍を撃滅する宜昌作戰を企図、聯隊は第一中隊から川島小隊(川島清喜少尉)を石本支隊(歩二百三十五第一・第二大隊、歩二百三十六第三大隊、山砲四十〃、工四十〃)に編入(7月13日、聯隊に復帰)、14日、鄂城を出発、21日、二十里橋に集結を完了します。

14日、聯隊主力は歩二百三十五第十中隊、同聯隊第三大隊及び獨立山砲兵第三聯隊の残置部隊を編入され、金牛鎮に本部を設置し咸寧、葛店鎮両地区130kmの範囲の警備にあたります。
16日、聯隊は金牛鎮を出発、同地南方地区の高橋、朱家山付近において匪賊(孔荷竉)を討伐し、18日、帰還します。

21日、師團は九官山に集結しつつある支那軍の殲滅を企図、聯隊は一部を警備に残置し金牛鎮を出発、23日、通山に集結し山砲四十集成第四中隊、歩兵二百三十五第三大隊(大塚少佐)を編入し佐伯支隊を編成、25日、師團は3縦隊となって進撃、支隊は中央隊として1,600m級の山岳地帯踏破のため徒歩で進撃、宝石河南方において支那第一九七師の一部500を撃破します。
夕刻、九官山北麓に達しますが歩兵は道に迷い到着が遅れたため佐伯大佐は騎兵独力での敵陣地攻略を決断、夜半、騎兵2個中隊、機関銃1個小隊、山砲1門、迫撃砲1門人員350名は登坂を開始、山頂の第一四師第三団3,000の拠る陣地に急進、敵の銃砲、迫撃砲に進撃は遅滞しますが、山砲の進出により攻勢に転移し九官山を攻略、26日、反転し、29日、大畈鎮において山砲四十集成第四中隊、5月1日、港背陳において歩兵第三大隊の編入を解除、2日、金牛鎮に帰還します(第三次九官山作戰)。

軍は漢水左岸・襄東地区の支那軍を補足撃滅すべく、4月30日、石本支隊は遊河付近に進撃、5月1日、武漢北西地区の小林店において支那第五戦区軍を攻撃、敵は有効な火網を形成、迫撃砲の集中射撃により支隊は思わぬ損害を受けたため、2日、支隊は攻撃重点を左翼(歩二百三十五第二大隊)に移し、4日、激戦ののち小林店を攻略、6日、桐泊、7日、西新集の敵陣を攻略、8日、湖陽鎮を攻略、5月16日、随棗公路兵站線に対する敵の遊撃行動が活発化してきたため、第一中隊の2個分隊、無線1個分隊を師團長指揮下に編入歩兵2個大隊とともに19日、広水に到着、萬福店以東の兵站警備にあたります。
24日、加川支隊(歩二百三十六第一大隊、歩二百三十四第二大隊・山砲四十1個中隊)が随県に進出、25日、芽茨畈-資山道の掃討にあたります。
28日、支隊は老山城付近において支那第五戦区軍と遭遇戦となり、弾薬の欠乏から敵の重迫撃砲射撃に苦戦、次第に包囲されますが、29日、友軍の空中補給により形勢を盛り返し、31日、敵を撃破し老山城を攻略します。
31日、師團は宜昌攻略にあたる軍の側背援護、支那第五戦区軍牽制にあたり、6月11日、随県を出発、連日40℃を超える酷暑のなか大洪山付近に進撃、客店披高地の支那第二九集団主力を3日間に渡る激戦ののち撃破、12日、第十一軍により宜昌が攻略され、6月26日、師團は咸寧に復帰します。

5月25日、聯隊主力は金牛鎮を出発、楊橋、黄志付近の匪賊を奇襲殲滅、西野山の匪賊を掃討し、26日、帰還します。

6月14日、支那軍が大冶鉱山破壊を企図し侵攻、第二中隊、続いて聯隊主力は急進し支那軍を撃破、鉄山舗南方まで敵を追撃し潰走させます。

25日、宜昌作戰出動中の師團の留守に乗じ支那第九九軍主力が師團警備地区に侵攻、聯隊は第二中隊主力、第一中隊の1個小隊、機関銃1個小隊を抽出(機關銃中隊長・村上義男少佐指揮)、村上隊は官埠橋に進撃し輜重四十指揮下に入り激戦の後、支那軍を撃退します。

6月30日、師團は支那第九九軍主力を包囲殲滅すべく重松支隊(歩二百三十四聯隊長・重松潔大佐、同聯隊主力)、龜川支隊(歩二百三十六)、佐伯支隊(歩二百三十五第三大隊、山砲四十集成中隊を配属)を編成、31日、各支隊は進撃を開始、7月3日、楊家畈付近を掃討、4日、狭山口付近で支那軍400を撃破、5日、各警備地に帰還します。

9月6日、軍令陸甲第四十四號『第四十師團騎兵隊臨時編成並騎兵第四十聯隊復歸要領』により、10月1日、騎兵第四十聯隊は編成、復帰業務を開始、5日、第四十師團騎兵隊(佐伯大佐)の編成完結、騎兵第四十聯隊は復帰完結します。
余剰人員、馬匹は歩二百三十四、歩二百三十六、山砲四十、師團経理部、同兵器勤務隊、同第一野戰病院、同衛生隊、騎兵第五十五聯隊(善通寺)に転属し、編制は乗馬中隊(山崎丈太郎中尉)、機關銃隊(楠本八重八中尉)になり、引き続き鄂城の守備にあたります。

11月13日、東港上流三又川付近一帯の匪賊を掃討します。

昭和16(1941)年1月6日、日鐵會社が鉄山舗大冶鉱山の採掘を開始するにあたり、1個小隊を分遣し警備にあたります。

19日、第十一軍は正月攻勢を策動する支那第三一集団(第一三・八五軍)を撃破すべく豫南作戰を発動、聯隊は本部・1個小隊(乗馬・徒歩2区分)・機関銃1個小隊(佐伯大佐以下141名)を編成し鄂城を出発、20日、武昌に到着、21日、長江を渡河し揚子(漢口下流12km)に集結、24日、京漢鉄道により師團集結地の信陽に到着します。
25日、師團は集結地の信陽地区に前進しますが、敵の鉄道爆破により師團主力の行軍が2日程遅れてしまったため、師團長・天谷中将は聯隊を佐伯支隊として歩二百三十六第一大隊、山砲四十、工四十各1個中隊を編入し先行させ、師團作戦地の汝南一帯を敵情捜索にあたらせます。
25日、騎兵隊は信陽を出発し徒溝付近の淮河において頑強な陣地に拠る支那軍を撃破、28日、汝南に急進、佐伯大佐は支那軍が2,000程(第八五軍第二二団3,000名)である事を知り、おりからの砂嵐に紛れ奇襲により攻略、汝南奪還を企図し侵攻して来た支那大二三師1,000を撃破、30日、師團主力は汝南に入城、騎兵隊は師團とともに東北方に進撃し営湾城の敵を撃破、2月1日、北進し支那第八五軍の拠点・項城を攻略し、3日、汝南の守備にあたり、6日、確山に集結、8日、信陽に移駐、作戰終了により、15日、鄂城に帰還します。

5月19日、師團警備地区の一部変更に伴い騎兵隊は鉄山舗付近の警備を歩二百三十六に移譲、長江左岸地区河蘭渓鎮の警備にあたります。

9月1日、師團は軍が關特演前に支那第五戦区軍を撃破し、事変解決を有利に進めるべく企図した長沙作戰に参加のため咸寧を出発、2日、聯隊は主力を徒歩編成として鄂城を出発、9日、師團集結地の桃林に到着します。
10日、師團主力は桃林に集結、長沙攻略を目指す軍主力の側背援護のため、11日、重松支隊(歩二百三十四聯隊長・重松潔大佐、同聯隊、歩二百三十五第二大隊、山砲四十第二大隊)を先遣隊として沙港河畔に向け進撃を開始、13日、騎兵隊は師團司令部前衛として桃林を出発、第六師團の掃討から漏れた支那軍を黄泥塘付近高地で撃破、14日、南部黄泥塘に進出し同地守備の歩二百三十五第三大隊と交代し師團左側背の援護にあたります。
18日、騎兵隊は師團前衛として沙河港を渡河し栗塘冲東側高地の敵500を撃破、歩二百三十五第三大隊、山砲四十1個中隊を配属され陳士文、歩仙橋付近の堅陣に拠る敵を撃破、19日、両隊の配属を解除され、21日、棗橋付近高地一帯の敵陣を攻略、23日、師團・軍主力の甕江方面の転進を援護、26日、石湾に前進、27日、同地北側高地の敵を撃破、同日、金井に前進し、同地警備の歩二百三十六第二大隊を指揮下に編入し、軍主力の側背を援護、30日、金井の攻囲を企図する支那軍を奇襲し撃破します。
27日、第三・第四師團が長沙を攻略、10月1日、騎兵隊は歩八より長楽街-金井間の交通警備を継承し敵の逆襲を撃退、3日、師團の反転に伴い、7日、桃林に到着、10月16日、鄂城に帰還します。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。

12月13日、第十一軍(阿南惟幾中将)は第二十三軍(酒井隆中将)のC作戰(香港攻略作戦)援護、支那軍の牽制のため第二次長沙作戰を企図し聯隊に出動下令、聯隊は徒歩編制(1個小隊のみ乗馬)となり、15日、鄂城を出発し咸寧において師團に合流、22日、牝県に前進、23日、師團後衛として同地を出発します。
24日、師團先頭の歩二百三十四、歩二百三十五が新牆河北岸の支那第一三四師(2個団)を撃破し、攻撃準備を完了、歩二百三十五を左側背援護、歩二百三十六を右翼、歩二百三十四を左翼として新牆河を渡河、支那第一三四師主力を撃破、支那軍と交戦しつつ、27日、汨水(長楽街付近)に集結、28日、騎兵隊は汨水に到着します。
29日、山砲四十1個中隊を配属され師團主力の汨水渡河を援護、30日、寫石尖高地に布陣し師團の左側背援護にあたり、31日、師團主力の金井方面進撃に際し主力と別れ検市廠東北高地に布陣し師團の側背を援護、昭和17(1942)年1月12日、師團の反転北上に伴い援護にあたり、師團の後衛として、16日、桃林に到着し作戦を終了、24日、鄂城に帰還します。

2月13日、第十一軍は師團警備地から長江を挟んだ対岸の支那軍・王勁哉(第一一八、第一二八師)に続けていた懐柔工作を打ち切り、江北殲滅作戰を発動、師團は仁科支隊(歩二百三十五)を軍直轄とし、2縦隊となり長江を渡河、騎兵隊は朱家で師團とともに支那軍を挟撃し撃破、続いて師團に先行し敵情捜索にあたりながら西北進し、弓八の敵を包囲殲滅し渡河点を確保、東進する師團と別れ洪湖南岸を迂回し峰口の敵側背を急襲します。

19日、仁科支隊が赤壁山付近から長江を渡河、25日、秘河口に入城、敗敵は峰口付近で師團包囲下に入り殲滅、25日、歩二百三十四は戴市を攻略、東進中の同聯隊第一大隊は便衣兵と交戦、敵兵・軍需品多数を鹵獲します。
潰走した便衣兵の中に王勁哉が含まれていたため、騎兵隊は周辺を捜索、六家湾付近の村で第三小隊第一分隊長・安芸武伍長が王を捕縛、28日、師團は反転、華容地区に進撃し、掃討にあたり歩二百三十四を警備に残置し、3月26日、咸寧に帰還、4月29日、騎兵隊に第十一軍司令官・横山勇中将より感状が授与されます。

4月18日、本土が米空母を発艦した米陸軍機により初空襲を受けたため、内地防空を図るべく大本營は浙江・江西両省付近の米軍飛行場覆滅を企図し浙贛作戰を発動、師團からは河野混成旅團(第四十歩兵團長・河野毅少将、歩二百三十四第三大隊、歩二百三十五第二大隊、騎兵隊の一部(米田要少尉以下20騎、10月1日復帰)、山砲四十第一大隊、第三師團歩三十四第三大隊、同工三1個中隊)が第十三軍指揮下に編入され杭州から西進、今井支隊(歩二百三十六聯隊長・今井龜次郎大佐、同聯隊、歩二百三十四第一大隊、山砲四十第二大隊、工四十1個小隊)が第十一軍直轄として南昌東方から東進します。

5月15日、河野旅團は軍中央兵團として紹興を出発、西南下し、27日、衢州付近に集結、6月3日、軍主力とともに衢州攻撃を開始、樟樹潭南方高地の強固な前進陣地を攻略、4~6日、敵の砲撃により舟艇が殆ど破壊されたため爆破された鉄道橋を工兵が修理し烏渓江を渡河、衢州城に突入、7日、衢州城を攻略、12日、江山東側地区に進撃、8月19日まで前線から後送されてくる鹵獲軍需品を輸送する浙贛鉄道の警備にあたり、南京を経由し、9月30日、師團に復帰します。

5月24日、第六師團の浙贛作戰出動に際し留守支援のため、師團では太田支隊(騎兵隊長・太田壽男中佐、歩二百三十五第三大隊)が編成され、鄂城を出発、武昌を経由、27日、岳州に到着し、歩十三(友成敏大佐)指揮下に入り、29日、新檣河右岸青崗興に布陣し守備にあたります。
6月26日、騎兵隊は岳州に集結、18日、岳州東南方地区の匪賊討伐にあたり、7月1日、岳州に帰還、2日、岳州警備の任務を解除され、同地を出発、4日、鄂城に帰還します。

25日」、鄂城の警備を歩兵第五十八旅團に移譲、26日、鄂城を出発し、29日、賀勝橋に移駐、8月1日、賀勝橋に騎兵隊主力、湖泗橋に乗馬中隊の1個小隊(清家貞雄中尉以下20名)、高家河に機關銃隊の1個分隊(坂本正治軍曹以下10名)を配置し警備にあたります。

8月6日、師團警備地区内に支那軍が侵攻、騎兵隊は歩二百三十五聯隊(仁科馨大佐)指揮下に編入され、賀勝橋を出発、7日、敵の退路にあたる茶地舗に進撃し同地西側高地の敵600を撃退、歩二百三十五の攻撃を待ちますが、聯隊は会敵できず、23日、帰還します。

14日、第六師團警備の大冶地区に支那軍が侵攻、第六師團の攻勢に協力すべく聯隊は太田支隊(騎兵隊主力、歩二百三十五第一大隊)を編成、15日、騎兵隊は賀勝橋を出発、歩兵大隊の到着を待たず金牛鎮に急進、徐家舗、李容舗付近に進行してきた支那新編第十三師・挺進第八縦隊3,000を強襲、歩兵大隊の到着とともに続いて攻撃し、26日、敵を水筒山南方に撃退します。

11月24日、歩二百三十五第三大隊に賀勝橋の警備を移譲し、27日、武昌地区に移駐、同地の警備を第六師團より継承します。

昭和18(1943)年5月1日、軍令陸甲第三十六號により師團は編制改正され、第四十師團騎兵隊は復帰し各歩兵聯隊に乗馬小隊として配属されます。


騎兵第五十五聯隊(楯→壮八四一八、西部第三十五→中部第八十五、四國第百五十九部隊)
昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令、第一・第八・第九・第十・第十一・第十二・第十四・第十六師團は満州永久駐屯師團に指定されます。
同日、軍令陸乙二十二號により、騎兵第十一聯隊補充隊に編成下令、8月2日、騎兵第十一聯隊補充隊は騎兵第五十五聯隊(川島吉藏中佐)に改編され編成完結します。
聯隊は軍旗を親授されず、編制は乗馬3個中隊、機関銃1個中隊でした。

編成完結後、師團は営庭に設置された仮装船舶により舟艇移乗、吉野川での上陸演習を実施します。

昭和16(1941)年9月26日、第五十五師團隷下部隊に動員下令、27日、師團に南海支隊の編成下令、10月4日、南海支隊の編成完結(堀井富太郎少将)、支隊は大本營直轄となり、8日、師團の動員完結、11日、聯隊の動員完結、11月6日、師團はビルマ攻略担当の第十五軍(飯田祥二郎中将)戦闘序列に編入されます。
聯隊は南海支隊に第三中隊(川島清喜中尉)を配属、主力は山砲五十五第八中隊を編入され川島支隊を編成します。
※南海支隊については「第十一師團司令部」の記事参照

19日、聯隊は善通寺を出発、坂出港を出航、29日、支隊はカムラン湾に上陸、仏印サイゴン、プノンペンを経由し昭和17(1942)年1月2日、泰國の首都・バンコクに前進し師團に復帰します。

1月初旬、聯隊は師團先頭としてラーヘンを経て、14日、国境のメソードに集結、20日、3縦隊(聯隊は左縦隊)となり国境を越えダウ山系シャン高地を踏破しつつ進撃を開始、23日、コーカレー南方に集結、30日、聯隊はアタラン河を渡河、モールメン南側の一八三高地で英軍の小部隊を撃破、川島大佐は本道を急進しモールメン市街の一角に突入、師團主力はモールメン東側のパゴタ高地の英軍を撃破、31日、師團はモールメンを攻略、2月20日、歩百四十三第一大隊がモールメン対岸マルタバンの英軍を撃破します。

25日、聯隊はダイクに進撃し師團主力の側背援護にあたり、3月3日、師團主力はシッタン河を渡河、4日、ザヤトの英軍を撃破し、バヤギを攻略、敵戦車隊の逆襲に苦戦しながらも前進、第三十三師團(櫻井省三中将、仙台)がラングーンに進撃(8日、攻略)し、敵の退路遮断に入ったため、英軍は退却を開始、7日、ペグーを攻略します。

14日、聯隊は正面縦隊として右翼(歩百十二、山砲五十五第二大隊)、左翼(歩百四十三、山砲五十五本部・第三大隊)縦隊とともに緬甸援蒋ルート遮断のためさらに進撃、20日、歩百四十三はニャングチドウク付近で戦車を伴う支那ビルマ遠征第一路軍500を撃破、24日、同聯隊第二大隊がトングー飛行場を攻略、26日、支那第二〇〇師3,000の籠るトングーを三方から包囲、中央隊はタンタビン付近で敵300の激烈な逆襲を受け撃退したものの損害が出たため、28日、重砲兵、爆撃機6機の支援を受け、30日、ラングーンに上陸した第五十六師團(渡邉正夫中将、久留米)の捜索第五十六聯隊が来援、歩百四十三が北方に迂回し退路遮断に入ったため支那軍は退却を開始、同日トングーを攻略します。

4月5日、師團は追撃を開始し北上、エダッセで支那軍を4,000撃破、10日、山砲五十五(山砲18)が野戰重砲兵第三聯隊(十糎榴弾砲8)とともにスワ河北岸の敵陣を砲撃、支那軍は撤退し始めたたため、さらにマンダレー街道を追撃、12日、サガヤ、16日、ミヨラ、17日、タワジ、19日、ピンマナを攻略、戦力の損耗していた第五十五師團を追求してきた第十八師團と会同し、マンダレーに対し並進進撃を下命されます。

22日、師團は師團先頭として歩百十二第二大隊を自動車追撃隊に部署、追撃隊、第十八師團に続いて主力はピンマナを出発、25日、ヤナウンにおいて支那軍を、26日、カンダン付近で戦車10両、火砲を伴う英印軍を撃破、5月1日、第十八師團がマンダレーを攻略、4日、マンダレー西方で第三十三師團に攻撃され敗走する英印軍を補足するため師團主力はミンギャンに進撃しますが、英印軍は師團の間隙を突いて撤退してしまったため、再度東進し、マンダレーに集結、アバ及び対岸のザゲインを攻略します。

同日、第十五軍は隷下師團に英印軍をビルマより駆逐し主要拠点の確保を下命、師團は各自動車追撃隊を編成、聯隊はマダヤ、7日、シングーに、歩百十二は6日、シュエボ、キヌ、イエウに、歩百四十三は12日、カーサ、14日、バーモ、17日、モーニン、6月12日、トーゴ地区、16日、ワローバン、17日、サンプラハムに夫々北上進撃し掃討を実施、英軍・支那軍を駆逐します。

作戦終了後、師團は中管區に部署され、師團司令部をマンダレーに、聯隊はマダヤに、歩百十二主力をシュエボ、同第二大隊をマンダレー、歩百四十三主力をミイトキーナ、ワインモー地区、同第三大隊をバーモ地区、同第一大隊をモーニン地区、山砲五十五主力をミンゲ地区、第二大隊をミイトキーナ、輜重五十五をアマラプラに配置し警備・防衛にあたります。

マダヤ防衛中、聯隊は徒歩編制に改編されます。

12月1日、師團は緬甸南西沿岸アキャブの防衛を下命され、115日、聯隊はマダヤを出発、17日、ニュウンレビンに進出し警備にあたります。

11月末、第14英印軍が宮脇支隊(第三十三師團歩二百十三・宮脇幸助大佐)が守備するアキャブ方面で反攻に転じ、野砲20門、戦車30両を伴う英軍が侵攻、支隊はプチドン、モンドウの前進陣地を徹し防衛戦を縮小、昭和18(1943)年1月6日、ラテドン、11日、ドンペイグ(両地ともアキャブ北方のマユ河左右岸)に侵攻してきたため、支隊は肉迫攻撃、夜襲により敵を拒止します。

昭和18(1943)年1月24日、第五十五師團司令部がアキャブに到着、2月1日、聯隊はニュウンレビンを出発、アラカン山脈を踏破しダンカップより舟艇機動により、20日、アキャブに到着アキャブ-マユ河河口のファウル岬の海岸線の防衛・警戒にあたります。

2月29日、宮脇支隊に替わり宇野支隊(歩百四十三)が英印軍の侵攻を拒止、師團は攻勢に転移(三十一號作戰:第一次アキャブ作戦)、3月8日、宮脇支隊がカラダン河を渡河しアポーカを攻略、14日、棚橋支隊(歩百十二聯隊長・棚橋真作大佐)がラテドンを出発、チズエの英印軍補給所を奇襲しマユ河畔に進撃、25日0030、英印軍の間隙を突いて渡河します。
4月3日、密林と湿地に苦闘しつつベンガル湾に達し英軍の退路を遮断、4日、支隊主力は海岸道から、第一大隊はインデン東方山地から進撃、6日、インデンに突入、英軍第6旅団司令部を急襲し、旅団長・キャベンディッシュ准将以下英軍幹部を捕らえます。
8日、退路を絶たれた英印軍は撤退を開始、13日、宇野支隊はランチャン、ドンペイグから北上を開始しますが、英第6旅団の逆襲を受けます(英軍主力は攻勢の態勢を維持しているため包囲殲滅できる態勢)。
14日、棚橋支隊が攻撃を開始、両支隊は英第6・47旅団を包囲、追撃し大損害を与え、戦車・装甲車40両、自動車73両を鹵獲、5月8日、プチドン、14日、モンドウを攻略し英軍を撃破、作戦終了後、師團は棚橋支隊をマユ半島海岸地帯に、久保支隊(歩百四十三、聯隊長・久保元武大佐)をカラダン河谷に、土井部隊(歩二百十三第一大隊基幹、聯隊主力は6月、第三十三師團に復帰)をプチドン、モンドウに、伊藤部隊(歩二百十三第二大隊基幹)をポロンガ島に、川島支隊(騎五十五)をアキャブ島に配置し守備にあたります。

11月23日、南海支隊に配属されていた第三中隊(130名でポートモレスビー攻略に参加し130名散華、補充30名)が聯隊に復帰します。

昭和19(1944)年1月15日、大陸命第九百五十五號により第五十五師團は第二・第五十四師團とともに第二十八軍(櫻井省三中将)戦闘序列に編入されます。

昭和18(1943)年11月頃から英第15軍団(英印第5・第7個師団)が再びコックスバザー付近から歩百四十三が守備するモンドウ-プチドンの線に南下、英印第7個師団の侵攻を歩百四十三第三大隊が、英印第5師団の侵攻を同第一大隊が拒止します。

1月11日、第五十五師團は第十五軍が準備中のウ號作戰(インパール作戦)を容易にし、且つアキャブを防衛すべく英印軍牽制・誘引のためハ號作戦(第二次アキャブ作戦)を準備、アキャブの防衛は第五十四師團(片村四八中将、姫路)に移譲されたため聯隊は歩百十一(木庭知時大佐)に警備を移譲、カラダン河に沿って北上、アポークワ、キャクトウを経て印緬国境付近のカラダン河谷(第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊第一・第三中隊守備)に向かいます。

2月3日、櫻兵團(歩五十五歩兵團長・櫻井徳太郎少将、歩百十二、歩百四十三第二大隊、第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊、山砲五十五、工五十五)はプチドン東方地区から進撃を開始、マユ河に沿って北上し、4日、マユ河上流のカラバンジン河で渡河、0400、英印軍150名を奇襲しトングバザーを攻略、英印軍の背後に周ります。
5日、南西進し歩百十二第一大隊がシンゼイワ西方マユ高地の道路を遮断、第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊(久保正雄少佐、第二・第四・第一機關銃中隊)は西進し、6日、ヌガンギャンを攻略し英印第5師団の後方連絡線を遮断し英第15軍団司令部を急襲するとともに、英軍の増援を阻止、7日、歩百十二主力は三一六高地の英印第7師団司令部を急襲し激戦ののち攻略、プチドンを守備していた歩百四十三第二・第三大隊も攻勢に転移し英印第7師団をシンゼイワ盆地に包囲します。

7日、、歩百十二は一気に包囲環の圧縮にかかりますが戦車・火砲を外周に配した円筒陣地に籠り頑強に抵抗する英印軍に攻撃は遅滞、さらに8日、英印軍の空中補給が開始されます。
11日、夜間攻撃を開始しますが敵の持久戦に損害が増加、次第に弾薬・糧食が欠乏してきます。
16日、シンゼイワ北方より英印第26師団が侵攻、またパレトワから英西阿第81師団が侵攻、カラダンの歩二百十三聯隊第一大隊第一・第三中隊第一線陣地は敵5個大隊の包囲を受けます。
カラダンに逐次集結中の聯隊は集結を待つことなく要地を確保し敵の侵攻拒止にあたりますが、敵主力の侵攻により聯隊は決戦を避けるべく遅滞戦闘を実施しつつカラダン-アキャブ中間の兵團後方連絡線アポークワに転進し守備にあたります(歩二百十三聯隊第一大隊第一・第三中隊は大隊復帰のため西進)。

19日、櫻井少将は円筒陣地攻略のため英印第7師団を盆地外に誘引すべく包囲環を開き、敵を追い出すため歩百十二に総攻撃を下命しますが、歩百十二聯隊長・棚橋真作大佐は戦力の低下から総攻撃を22日に延期したうえ、最終的に攻撃を中止してしまいます。
26日、櫻井少将は戦線の維持が困難になった事から櫻兵團の転進を開始、28日、多数の重傷者を伴いながら英印軍の陣地を突破、追撃を撃退しつつプチドン東方地区に集結、3月3日、歩二百十三第一大隊が敵中60kmを突破しオーラビンに到着します。

3月19日、聯隊長・杉本泰雄大佐が発令されます。

3月上旬、師團前衛であるモンドウ-プチドン北側の全陣地に爆撃機・火砲に支援され戦車を伴う英第15軍団(英印第5・第7師団・第254戦車旅団)が侵攻、師團は敵の浸透を受けながらも各陣地を堅守し敵の侵攻を拒止、3月8日、ウ號作戰の開始に伴い師團前面の英印軍機甲部隊がインパール方面に移動、英印軍がシンゼイワ以北に後退したため、逐次陣地整理を実施、少数精鋭による挺進奇襲攻撃により英軍の擾乱にあたります。

第二十八軍はアキャブ島の木庭支隊(歩百十一)に第五十五師團の背後連絡線確保を下命、支隊はアキャブ北方のミヨホンに集結、カラダン渓谷に進撃しラマドウで英印軍を撃破、カラダン河を渡河しアポークワの英西阿第81師団の側背に迫ったため敵は動揺、聯隊は攻勢に転移し英西阿第81師団を撃退し北上、支隊はピー河(カラダン河上流)で渡河し敵の背後に進撃、インダイン付近で敗敵を挟撃、4月11日、敵はピー河を渡河し敗走したため聯隊は支隊とともにダレトメ付近まで追撃、聯隊は印緬甸国境のモンドーク山脈に進出、5月6日、支隊はスワイングを攻略します。

5月5日、師團は英印軍により奪取されたプチドン-モンドウの要線を奪還すべく櫻井兵團(歩百十二、歩百四十三第三大隊、歩二百十三第一大隊、山砲五十五)を編成、兵團は南北より攻勢に転移、英印第26師団を北西に撃滅し要線の奪取に成功します。

7月2日、ウ號作戰の中止に伴い英軍は中部ビルマ方面に侵攻してきたため、師團はアキャブを徹する事が決定、8月中旬、聯隊は櫻支隊(櫻井徳太郎少将、隷下歩兵聯隊の1個大隊、山砲五十五集成1個大隊、工五十五集成1個中隊)に編入され引き続きモドーク山脈に布陣し英軍の侵攻を拒止し、師團主力の転進を援護します。
10月初旬、英印軍は兵力を増強、聯隊陣地に急速に浸透してきたため、作戦通りパレル東西の線に転進、火砲を伴う敵の侵攻を拒止、下旬、カラダンに転進、昭和20(1945)年1月下旬、第二十八軍(櫻井省三中将)は櫻支隊の師團復帰を下命、支隊は逐次正面の敵と離脱しイラワシ川右岸のプロームに集結を開始します。

1月25日、聯隊は歩百十三第一大隊、山砲五十五第一大隊、工五十五1個小隊、師團衛生隊1個中隊、同防疫給水部1個小隊、同第二野戰病院を配属され神威部隊を編成、主力をレパダン付近、一部をプローム付近に配置し対空挺警戒にあたりますが、3月27日、英軍に策応し背叛、我軍の作戦の妨害にあたるビルマ国民軍の討伐にあたります。

4月中旬、メイクテーラ西方のエナンジョン油田に英印第20師団が侵攻、第二十八軍は英軍を拒止し軍右側背の安全を確保すべく、ピンマナ集結中の忠兵團左縦隊(歩百四十四第九中隊、山砲五十五第一中隊、工兵1個小隊)を神威部隊指揮下に編入し、エナンジョンの確保を下命、部隊は北上を開始し夜襲によってトントンジーを攻略、17日、サットワに前進しますが、エナンジョンが既に陥落していたため、軍命令によりアランミョウに転進、19日、部隊は転進中の第五十四師團(宮崎繁三郎中将、姫路)指揮下に編入され、獨立速射砲第十四大隊、野戰高射砲第七十一大隊の1個中隊、特別対戰車肉攻部隊を編入されます(当時第五十四師團はアラカン山脈を東進中のため軍が直接指揮)。

部隊は北部ビルマからの転進道でもあり、アラカン山脈以西からプローム方面へ転進中の第五十四師團の転進を容易にするためにも確保すべき要地・アランミョウを防衛すべく、アランミョウ-ベッテキクリーク-パローの縦深陣地に移動します。
27・28日、部隊を追撃してきた戦車を伴う英印軍がアランミョウに侵攻、野山砲、肉迫攻撃により戦車7両を撃破、3両を炎上させますが、部隊も野砲2、速射砲2門が破壊されたため、28日、杉本大佐はベッテキクリーク南方高地(アランミョウ南10km)において反撃を企図し、パロー陣地に転進集結します。
同日、第五十四師團先遣隊(師團参謀長・倉澤勘三郎大佐)がイラワジ河畔に到達、軍はベッテキクリーク南方-バロー要線を防衛のため急遽第二十八軍指揮下部隊を集成し先遣隊と神威部隊を合わせパロー支隊を編成(倉澤大佐指揮)、29日、ベッテキクリーク南方高地に英印軍(戦車を伴う1個旅団)が侵攻、山砲五十五第三中隊は敵戦車5両を撃破しますが山砲は全損、肉攻班も玉砕、対戦車兵器を失った部隊の各陣地は分断され、敵はパローに浸透、5月1日、遂にパローが突破されてしまい、部隊はパロー南側隘路まで転進します。

3日、ラングーンが陥落、ラングーン-プローム街道に英軍が浸透したため、第二十八軍は緬甸方面軍との連絡線が遮断され敵中に孤立、軍司令官・櫻井中将は隷下・指揮下兵團にペグー山系に集結後、シッタン平地次いでシッタン河を渡河しシャン高原西麓を突破、モールメンへ転進(邁作戰)を下命します。
5月中旬~6月下旬、神威部隊はペグー山系西麓に集結、軍指揮下部隊を編入され、各部隊を前衛(歩百四十三第一大隊、渡河作業隊、西南憲兵隊、交通作業隊)、本隊(神威部隊、山砲五十五第二大隊、獨立第五百四十二歩兵砲大隊、同五百四十三、獨立重砲兵第五聯隊第二大隊、歩百四十四第九中隊、第二十八軍司令部第一梯團、同第二梯團、第五十五師團衛生隊1/3、同防疫給水部の一部、西南通信隊、南方燃料廠の一部)に部署、神威部隊長・杉本大佐は左突破縦隊指揮官を命ぜられます。
7月初旬、ペグー山系北側に向け転進を開始、7月20日、ペグー山を下山し邁作戰を開始、22日、増水したクン河を渡河、英第7、第19師団の浸透しつつある中を突破し、23日、オキシーキンに集結しますが、追撃してきた英軍を拒止すべく戦闘指揮にあたっていた杉本大佐が敵弾を受け散華してしまいます(大谷虎熊少佐代理)。

24日、部隊は夜陰に乗じてマンダレー街道を突破し、雨季により浸水したシッタン平地を踏破、28日、川幅200m、流速3mの濁流と化したシッタン河を渡河、8月初旬、シャン高原西麓に集結中、停戦を迎えます。

23日、モールメンに集結し英印軍により武装解除され、9月2日、プノンペンに移駐、8日、プノンペン西方40kmのコンポンスピューに移駐、10月9日、プノンペン東方90kmのコンポンチャムに移駐、11月19日、タクマウに移駐、26日、フォックハイに移駐し労役に使役され、昭和21(1946)年5月~昭和22(1947)年5月にかけ、ラングーン港を出航、大竹港、佐世保に上陸、復員しました。


編成(大隊以下)、補充を担当した部隊
騎兵第四旅團 病馬廠 (昭和13年7月3日)

騎兵第七十五聯隊 (昭和15年8月19日)


主要参考文献
『善通寺市史 第二巻』 (昭和63年10月 善通寺市立図書館 善通寺市)

『善通寺市史 第三巻』 (平成6年12月 善通寺市教育委員会市史編さん室 善通寺市)

『騎兵第十一聯隊史』 (昭和45年8月 騎兵第十一聯隊会)

『騎兵第十一聯隊歴史』 (騎兵第十一聯隊)

『騎兵第四十聯隊歴史』 (騎兵第四十聯隊)

『四国師団史』 (昭和47年4月 陸上自衛隊第13師団司令部四国師団史編さん委員会)

『第十一師團歴史の概要』 (昭和36年 大野廣一)

『土佐湾本土決戦史』 (平成18年11月 山崎善啓 高知新聞企業)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

アジア歴史資料センター 各種史料
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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