当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

輜重兵第十一聯隊

香川県善通寺市に輜重兵第十一聯隊がありました。
兵営では後に輜重兵第四十聯隊輜重兵第五十五聯隊第百五十五師團輜重隊第三百四十四師團輜重兵中隊が編成されます。
輜重兵第十一聯隊 O 北東から (3)(善通寺)
▲善通寺駐屯地 自動車教習所内に遺る薪炭庫

【探索日時】
平成24年4月20日





第十一師團関連諸施設配置
第十一師團 大正期(善通寺)
▲『最新善通寺市街圖』(大正末年頃)

第十一師團 大正11年11月『善通寺全景』 空撮(善通寺)
▲『善通寺全景』(大正11年11月空撮)

第十一師團 善通寺 昭和16頃(善通寺)
▲現在の地図に転写
※緑文字が当記事の紹介施設
① 第十一師團司令部
② 歩兵第十旅團司令部
③ 旧善通寺聯隊區司令部
④ 第十一師團経理部 被服庫
⑤ 第十一師團兵器部
⑥ 第十一師團 善通寺倉庫
⑦ 第十一師團 善通寺倉庫
⑧ 山砲兵第十一聯隊
⑨ 砲兵 露天馬場
⑩ 工兵第十一聯隊
⑪ 善通寺工兵作業場
⑫ 第十一師團経理部 糧秣倉庫
⑬ 騎兵第十一聯隊
⑭ 輜重兵第十一聯隊
⑮ 善通寺偕行社
⑯ 第十一師團長官舎
⑰ 善通寺陸軍練兵場
⑱ 第十一師團兵器部 火薬庫
⑲ 吉原陸軍射撃場
⑳ 善通寺陸軍病院
㉑ 善通寺陸軍病院 臨時第一分院
㉒ 善通寺憲兵隊
㉓ 善通寺憲兵分隊
㉔ 善通寺陸軍墓地
㉕ 善通寺歩兵作業場
㉖ 乃木神社
㉗ 香川縣護國神社
※名称は昭和12(1937)年頃


遺構について ※青字は地図にリンクしています
⑭ 輜重兵第十一聯隊
明治29(1896)年5月14日、香川県仲多度郡善通寺村(現、善通寺市)に第十一師團の設置が決定、6月9日、用地買収及び営舎建設工事が開始されます。

明治31(1898)年8月27日、輜重兵第十一大隊(島崎正誠少佐)が広島から善通寺に転営してきます。
輜重兵第十一聯隊 営門
▲輜重兵第十一大隊 営門
  現在は駐車場になっており、痕跡すらありません。

明治37(1904)年5月21日から明治39(1906)年1月12日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に際し同大隊補充中隊、昭和12(1937)年8月19日から昭和13(1938)年4月12日、第二次上海事變に際し同聯隊補充隊、10月6日からの滿洲駐箚においてに際し同聯隊留守隊が動員されます。

昭和11(1936)年6月1日、輜重兵第十一大隊は輜重兵第十一聯隊に改編されます。

時期は不明(昭和14年以降)ですが兵営は南側は拡張されます。

昭和14(1939)年8月7日、輜重兵第十一聯隊留守隊において輜重兵第四十聯隊が編成され中支に出征、昭和15(1940)年7月1日、留守隊は補充隊に改称、8月1日、輜重兵第十一聯隊補充隊は輜重兵第五十五聯隊に改編されます。

昭和16(1941)年11月13日、輜重兵第五十五聯隊は泰国に出征、輜重兵第五十五聯隊補充隊が動員され、昭和20(1945)年4月1日、輜重兵第五十五聯隊補充隊は善通寺師管區輜重兵補充隊に改編され、6月20日、善通寺師管區司令部の四國軍管區司令部改編に伴い四國軍管區輜重兵補充隊に改編、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

27日、米第24歩兵師団情報視察団7名に続き、11月1・2日、師団の一部1,200名が善通寺に進駐し旧砲兵営に入り香川県下の軍事施設に分駐し、兵器、弾薬、糧食、被服等を接収します。
12月8日、米軍は少数を残置し高知に移駐、同師団対戦車隊が新たに進駐、12月末、米軍と交代し英第5旅団が旧騎兵営に進駐して来ます。

昭和21(1946)年1月10日、旧輜重兵営に空襲により校舎が焼失した高松経済専門学校が仮校舎として移転(12日、接収解除され大蔵省に移管)して来ますが、昭和23(1948)年3月31日、同校は高松市に再移転します。
4月30日、善通寺町の誘致により北側12,000坪に高松青年師範学校が移転、南側8,685坪は善通寺町が中学校用地として購入、6,577坪は大蔵省管理地になります。
昭和24(1949)年5月31日、香川大学の開校に伴い高松青年師範学校は同大学芸学部の基幹として包含され、善通寺町中学校用地と合わせ2年課程の学芸学部善通寺教室が、昭和25(1950)年10月1日、大蔵省管理地に四国鉄道管理局教習所が発足、昭和26(1951)年4月、2,580坪は払下げられます。
昭和27(1952)年3月31日、校地統合により香川大善通寺教室は廃止され、跡地は警察予備隊に移管、昭和30(1955)5月1日善通寺町中学校用地に町立善通寺東中学校が発足し現在に至ります。

輜重兵第十一聯隊 善通寺 現在6(善通寺)
▲遺構の配置

O 薪炭庫 ※建物名称は『善通寺軍用水道』(昭和14年4月製図)に依拠しています。
明治44(1911)年に竣工しました。
善通寺駐屯地 自動車教習所構内に遺り、現在は倉庫として使用されています。
輜重兵第十一聯隊 O 北か(善通寺)
▲正面(西側)から
  入口は4ヶ所ありますが、右側は高床、左側は土間になっています。
  右側が炭、左側が薪の倉庫かも知れません。

輜重兵第十一聯隊 O 北東から(善通寺)
▲北東から
  屋根の上には円形の明り取り窓があり、ほぼ当時のままの姿と思われます。

輜重兵第十一聯隊 O 南東から(善通寺)
▲南東から
  残念ながら大半の窓は閉鎖されており、内部から見ると窓枠もありません。

輜重兵第十一聯隊 O 南西から(善通寺)
▲裏側(道路側)の窓も殆ど閉鎖されています。

輜重兵第十一聯隊 O 東側入口①(善通寺)
▲正面右側の高床入口
  現在は倉庫として使用されています。

輜重兵第十一聯隊 O 内部① (4)(善通寺)
▲高床部屋の内部から
  床は板張りが完存、扉も当時のままの様です。素晴しい保存度です!

輜重兵第十一聯隊 O 内部① (3)(善通寺)
▲高床部屋同士は内部で連結されており、奥に小さな扉があります。
  この扉も当時のままと思われます!Excellent!!

輜重兵第十一聯隊 O 東側入口③(善通寺)
▲正面左側の土間入口

輜重兵第十一聯隊 O 内部① (2)(善通寺)
▲土間部屋の内部は石敷きになっており、非常に丁寧に仕上げられています。

輜重兵第十一聯隊 O 内部①(善通寺)
▲屋根を支える梁は洋小屋組です。


P 兵器庫
建築時期は不明ですが、上掲の大正11年の空撮には既に写ってます。
同じく善通寺駐屯地 自動車教習所構内に遺り、現在は事務所として使用されています。

巷間では聯隊本部庁舎と言われていますが、『善通寺軍用水道』(昭和14年4月製図)によると「兵器庫」となっています。
因みに大隊(聯隊)本部は兵舎と同じ建物内にあり、位置はこの辺りでした。
輜重兵第十一聯隊 P 東から (2)(善通寺)
▲正面(東側)から
  せっかく構内から見学させて頂いたのですが、時期が悪く見通せません・・・。

輜重兵第十一聯隊 P 東側 (2)(善通寺)
▲正面側を側面から
  本部庁舎の造りなのですが。

輜重兵第十一聯隊 P 東側(善通寺)
▲正面入口付近

輜重兵第十一聯隊 P 内部 (3)(善通寺)
▲正面の階段
  内部はほぼ当時のままで完存しています。

輜重兵第十一聯隊 P 内部(善通寺)
▲廊下
  写真は掲載していませんが、室内もほぼ当時のままです。

輜重兵第十一聯隊 P 南東から(善通寺)
▲南東から

輜重兵第十一聯隊 P 南西から(善通寺)
▲南西から

輜重兵第十一聯隊 P 西側(善通寺)
▲裏側
  素晴しい保存度です!

以上の遺構は事前連絡のうえ、部署が跨っている事からかなり調整して頂いて見学させて頂きました。
お忙しい中、部署の異なる各部隊の見学を調整して頂き、長時間に渡りご案内を頂きました善通寺駐屯地広報班の皆様にこの場を借りて熱く御礼申し上げます。
貴重な建物、遺構を可能な限り見学させて頂きまして本当に有難うございました。

上記建物については毎年4月の駐屯地記念行事の際に自動車教習所がシャトルバス乗り場になる様なので、比較的近くで見れる様です。
また、道路に隣接しているため裏側だけになりますが、外周の道路からも見学可能です。


ソ 歩哨舎
善通寺駐屯地 自動車教習所の入口にあり、善通寺に遺る歩哨舎の中で唯一門の外にあります。
ですが、この位置に元々入口はありませんでした。
兵営開設時には西側に通用門がありましたが、馬糧・馬糞なの搬入出にしか使用されず、厩舎が東端にあった事から営庭を横切り荒れるため廃止され、大正2年に通用門は南側に移設されました。
輜重兵第十一聯隊 ソ 廠舎(善通寺)


え 輜重隊跡 碑
善通寺郵便局の生け垣にあります。
昭和44年8月、輜友会により建立されました。
残念ながら聯隊略歴等は記載が無く、「輜重」という言葉の意味を知らなかったら何の碑か分かりません。
輜重兵第十一聯隊 え 「輜重隊跡」碑(善通寺)


衛戍・編成部隊
輜重兵第十一聯隊(錦二四八五、滿洲第九百三十部隊)
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため軍備増強を決定します。
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成を決定します。

11月9日、輜重兵第五大隊(木造昶少佐、広島)より基幹要員を抽出し、同大隊内に仮事務所を設置、輜重兵第十一大隊が編成されます。
明治30(1897)年8月27日、大隊は宇品港を出航、詫間港に上陸し善通寺に転営します。
明治31(1898)年10月11日、初代大隊長・島崎正誠少佐が着任します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月19日、大隊(小笠原建吉少佐)に動員下令、4月30日、動員完結、21日、第十一師團とともに詫間港を出航、24日、清國盛京省張家屯塩大墺に上陸、6月6日、師團は第一師團(松本務本中将、東京)とともに第三軍(乃木希典大将)戦闘序列に編入され、第一師團南方の南泡子崖に師團司令部を設置します。

26日、師團は旅順要塞(松樹山、二龍山、東鶏冠山北の3永久堡塁)の敵前進陣地・歪頭山、剣山を攻略、27日、大白山、28日、大鉄匠山、7月26日、老左山、8月8日、我軍の配置を見渡せる大狐山、9日、小狐山を攻略します。
8月19日、旅順要塞(東鶏冠山北堡塁)攻撃を開始しますが大損害を受け、24日、攻撃は中止されます。

9月2日、交通塹壕掘削を開始、10月30日、第十一師團は東鶏冠山北堡塁への攻撃を再開しますが露軍の銃火は凄まじく損害が増加、11月1日、攻撃は中止されます。

26日、本土から輸送された二十八糎榴弾砲の支援のもと、師團は東鶏冠山北堡塁攻撃を開始、またも露軍の激烈な反撃により甚大な損害を受け、攻撃は一時中止されます。
12月18日、東鶏冠山北堡塁への攻撃を再開始、工十一が坑道に装填した爆薬を爆破し北堡塁正面胸墻、備砲を爆砕、師團は遂に堡塁を攻略、29日、第九師團が二龍山堡塁、31日、第一師團が松樹山堡塁を攻略、明治38(1905)年1月1日、旅順要塞司令官ステッセル中将が我軍に降伏を申し入れ、旅順要塞は陥落、13日、旅順入城式が挙行されます。
3度に及ぶ旅順要塞攻撃による師團の損害は4,072名散華、師團長・土屋中将以下10,259名負傷でした。

大隊は輜重輸卒を指揮し大連に設置された集積地より輓馬、輜重車、第八車を改造した2輪輜重車により糧食、弾薬を輸送します。

明治38(1905)年1月12日、師團は新編された鴨緑江軍(川村景明大将)戦闘序列に編入され、1月20日、第三軍の進路偽装のため旅順から北上を開始、2月7~15日、鳳凰城に集結、22日、滿洲軍(大山巌大将)の奉天攻撃の陽動作戦である清河城攻略戦に参加、24日、鉢巻山、次いで清河城を攻略、露軍は鴨緑江軍を過大評価し兵力を移動させます。
大隊は引き続き補給にあたりますが降雪による悪路、登坂中の氷上蹄鉄非装備の輓馬の落伍など行軍長径が長大化し苦戦しますが、師團の補給を滞らせる事は無く続行、川村景明大将より明治三十七八年戰役(日露戦争)において唯一の輜重兵大隊への感状が授与されます。

26日、師團は馬郡鄲に進撃し優勢な露軍と交戦し大損害を受けますが、3月8日、露軍が撤退を始めたため、師團は撫順に追撃、奉天方面の露軍も相次いで退却、3月10日、滿洲軍により奉天城が攻略され、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結します。

16日、両国軍は休戦に入り、明治39(1906)1月6日、師團は奉天を出発、8日、復員下令、奉天駅より大連駅に列車で移動、9日、大連港を出航、12日、多度津港に上陸、郷土の歓迎を受け善通寺に凱旋、17日、復員完結します。

明治42(1909)年8月9日、第十一師團に滿洲駐箚が下命され、9月5日より逐次渡滿しますが、大隊は善通寺に残置されます(明治44(1911)年5月11日、第十一師團は善通寺に帰還)。

大正9(1920)年1月29日、ロシア国北部沿海州ニコライエフスク(邦人700を含む17,000名が居住/石川正雄少佐以下2個中隊280名が守備)を共匪(赤衛軍:パルチザン)4,000が包囲しロシア兵(白衛軍)、資産家、ユダヤ人2,500名を虐殺し尼港事件が発生します。

9月17日、大隊に臨時編成下令、24日、編成完結、第十一師團はシベリア出兵に参加のため、26~28日、善通寺を出発し詫間湾を出航、10月4日、師團はウラジオストクに上陸し浦塩派遣軍司令官(大井成元大将)指揮下に編入され、シコトワ、スーチャン、南部ウスリー周辺のの治安・交通の維持にあたります。
大正10(1910)年5月中旬、第十二師團の内地帰還に伴い、師團は第九師團に警備区域を移譲し、第十二師團が警備していたラズドリノーエ、グロデコーウオ、スバスカヤ周辺の警備にあたります。

大正11(1911)年4月4日、師團はスバスカヤに集結、日露協約を無視してブッセフカに侵入してきた赤軍をズローズドフ駅、アレキサンロフカにおいて撃破し赤軍を敗走させました。
10日、師團に内地帰還が下命、5月12~28日、第九師團と交代、6月7日、ウラジオストクを出航、12日、詫間湾に上陸、13日、善通寺に帰還しました。

昭和7(1932)年、支那における排外思想は先鋭化、特に南支地域では国民党の扇動もあり排日・侮日行為は日々深刻化していきました。
1月18日、上海郊外において支那人により日本人僧侶が殺害され、28日、共同租界の警備にあたっていた我が上海海軍特別陸戰隊に支那国府十九路軍が発砲した事から上海事變が勃発します。

2月23日、第十一師團の応急派兵が決定し動員下令、24日、動員1日目、第十一師團は上海派遣軍(白川義則大将)戦闘序列に編入され、26日、動員完結します。
大隊(菅原萬吉中佐)は派兵部隊として第一中隊を派遣します。
27日、師團主力は善通寺駅を出発、第二艦隊に乗艦し小松島港を出航、29日、輜重十一第一中隊は歩四十四、歩十二第三大隊、山砲十一とともに後発隊として歩四十四は須崎、他は詫間を出航、3月1日0525、歩四十三は師團第一陣として長江七了口に敵前上陸を敢行、1100、師團主力の上陸が完了、茜涇営、2日、瀏河鎮、3日、婁塘鎮で支那国府軍を撃破、歩四十四が呉淞桟橋に上陸、同日、師團主力が嘉定城を攻略、6日、後発隊(詫間出航部隊)が七了口に上陸します。

4日1100、停戦命令を受領、3月14日、師團に復員下令、21日、瀏河鎮を出発し上海に集結、24日、上海を出航、26日、似島検疫所に上陸、29日、高松港に上陸、善通寺に凱旋、4月3日、復員完結します。

昭和11(1936)年6月1日、軍令陸第四號、陸軍省令第十二號、陸達第二十號により輜重兵第十一大隊は輜重兵第十一聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発します。
8月7日、支那国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事挑発行動は日増しに激化、13日、支那軍が我が陸戦隊に攻撃を開始、第二次上海事變が勃発します。

14日、聯隊に動員下令、第十一師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入され、16日、動員完結します。
聯隊(大河原定大佐)の編制は駄馬7個中隊と馬廠でした。

20日、第一梯団(師團司令部、歩四十三第三大隊、歩四十四、山砲十一)は多度津港から重巡「妙高」以下10隻に分乗し出航、21日、第二梯団の歩二十二は戦艦「陸奥」に乗艦し三津浜港から、歩四十三は同「長門」に乗艦し小松島港から出航、同日、第一梯団は長江川口馬鞍群島に進入し仮泊します。

22日、大本營直轄となった天谷支隊(歩十旅團長・天谷直次郎少将、歩十二、山砲十一第一大隊、工兵1個中隊)は多度津港を出航、青島の在留邦人保護に向かいます。

23日0515、第一梯団は海軍の艦砲射撃のもと川沙口沖に敵前上陸を敢行、歩四十三は劉家鎮へ、師團は歩四十四を先頭に上海北方の敵陣に進撃、24日、第二梯団が上陸します。

28日、師團は支那軍要地・羅店鎮を攻略、31日、西進し劉家鎮、同浦鎮、孟家宅、9月1日、獅子林砲台を攻略します。

9月6日、歩十二は宝山城を攻略、9日、唐家屯、浦夾橋、10日、顧家屯、王家屯、真家屯、11日、北曹屯、12日、月浦鎮を攻略、21日、師團は羅店鎮南側の支那軍を攻撃、10月5日、支那軍陣地を攻略しつつ羅店鎮南西側の第二次進出線(楊家宅、北周宅-王家湾、蘇家宅まで進撃、9日、北覧溝以南地区の支那軍を攻撃しますが揚涇クリークに阻まれて進撃は遅滞してしまいます。

9月21日、輜重十一第一中隊、25日、第二・第三中隊主力・第四中隊の一部、26日、第三中隊の一部、第四中隊主力が坂出港を出航、逐次貴腰湾に上陸、縦横に流れるクリークに苦戦しながら補給を開始します。

17日、軍命令により師團は現陣地を確保しつつ羅店鎮東方に集結、26日、南翔東側に前進し軍の右側背援護にあたりつつ南翔東側の支那軍陣地を攻撃、11月12日南翔を攻略、上海周辺の支那軍が潰走し始めたため師團は追撃を開始、14日、太倉を攻略、26日、無錫城、29日、次いで常州を攻略、29日、無錫に集結します。

12月3日、師團主力は南支方面の作戦に転用が決定、第五軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に隷属転移、8日、無錫を出発、蘇州、昆山、南翔を経て、12日、上海に集結、15日、上海を出航し東シナ海を南下中、23日、作戦は中止されたため台湾高雄州坊寮に上陸、屏東以南地区に集結し広東上陸作戦に備えますが、昭和13(1938)年2月28日、師團に復員下令、3月6日、高雄を出航、23~27日、師團主力は坂出港に入港し、各衛戍地に凱旋、4月12日、復員完結します。

昭和13(1938)年9月22日、軍令陸甲第六十五號『滿洲派遣臨時編成』により師團の滿洲駐箚が決定し、聯隊に臨時編成下令、10月2日、第十一師團の編成完結、5日、聯隊の編成完結(駄馬2個中隊)、6日、師團主力とともに坂出港を出航、8日、釜山に上陸、12日、關東軍(植田謙吉大将)戦闘序列に編入、16日、師團司令部は遼陽、聯隊は歩十旅とともに錦州に集結し訓練を実施しつつ北満移駐の準備にあたり、12月2日、錦州を出発、5日、密山に本部を設置、虎密地区(虎林・密山地区)防衛にあたります。

昭和14(1939)年6月15日、大陸命第三〇二號により第十一師團は新編された第五軍(土肥原賢二中将)に隷属転移、担任地区は虎林、密山に加え饒河(饒穆区)に更改、聯隊は輓馬2個中隊を増加され警備・訓練にあたります。

5月11日、ソ連の意を受けた外蒙軍がノモンハン付近で滿洲國に越境して来た事からノモンハン事件が発生します。
7月16日、聯隊に応急派兵下令、18日、出戦準備を完了、9月25日、停戦協定成立に伴い、応急派兵は解除されます。

10月6日、軍令陸甲第十四號『在滿軍備改變要領』により、31日、第三中隊は新設の輜重兵第二十四聯隊に転属します。

11月13日、師團は東安省虎林縣虎林への移駐を下命され、12月13日、饒河虎林県(饒虎区新設)への移駐が完了、防衛にあたります。

昭和15(1940)年10月8日、各歩兵聯隊3個大隊、工兵1個中隊とともに1個中隊が秋季討伐を実施します(11月16日まで)。

7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令、第一・第八・第九・第十・第十一・第十二・第十四・第十六師團は満州永久駐屯師團に指定されます。

昭和16(1941)年6月22日、ドイツが『獨蘇不可侵条約』を破棄しソ連に進攻します。
7月7日、關東軍特種演習動員下令(特臨編第一號(第百一次動員))、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により聯隊に臨時動員下令、28日、第十一師團は動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、8月13日、聯隊の編成完結(駄馬、輓馬各1個大隊3個中隊づつ、自動車1個中隊の計9個中隊)、12日、糧秣の集積をするなど対ソ連戦を見越した作戦準備を完了しますが、準備中の8月9日、ソ連軍の欧州方面移駐は予測以下な事から対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

昭和19(1944)年7月9日、第二十四師團(雨宮巽中将)の沖縄移駐に伴い、歩四十四が東安の警備・防衛地区を引き継ぎ東安に移駐、聯隊は歩四十四の旧兵舎に入ります。

昭和20(1945)年4月1日、陸亞機密第百五十號により第十一師團の内地移駐が下令、虎林の防衛・警備を獨立混成第七十七旅團に移譲し、8日、師團は大陸命第千二百九十七號により発令された第五十五軍(原田熊吉中将)戦闘序列に編入されます。
2日、第三中隊は第一梯団、6日、第二中隊は第二梯団、11日、聯隊主力(中島秀次大佐)は第三梯団、15日、第二大隊は第四梯団として、4日、10日、16日、17日、釜山に集結、13~30日、釜山港を出航、第一梯団は西舞鶴、第二梯団は博多、第三・第四梯団は敦賀に上陸、16日、軍の作戦計画に従い一部は高知平野、主力は徳島平野に逐次集結します。

5月2日、作戦計画の変更に伴い師團は逐次高知平野に集結、師團司令部を鉢伏山、中村支隊(騎十一に工兵1個小隊・特設警備第二百二十九中隊配属)を中村(第三百四十四師團指揮下)、須崎支隊(歩十二第一大隊)を須崎に、右地區隊(歩四十四、山砲十一2個中隊)を仁淀川河口から浦戸湾の海岸線に、左地區隊(歩四十三)を浦戸湾から物部川河口の海岸線に、砲兵隊(山砲十一)を後免南方高地、豫備隊(歩十二、工十一)を後免付近、聯隊は仁淀川上流の八田・弘岡付近に布陣し、右地區隊の右側背援護を任務として築城、糧秣の集積を開始、6月1日、築城と並行し訓練を開始、7月末より野戦陣地設営を開始します。

第十一師團は第五十五軍の中核を担い、古豪師團として士気・練度も高く装備も充実、敵上陸部隊を破砕すべく陣地構築、訓練を実施中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、その真価を一度も発揮する事無く、17日2200、停戦を迎えました。
25日、師團創立以来の英霊12,488柱の合同慰霊祭を高知市下知昭和國民學校において挙行、31日、軍令陸甲第百十六號により復員下令、9月7日、師團司令部の所在する鉢伏山に隷下部隊中隊長以上を招集、第五十五軍司令官・原田中将臨場のもと復員式を挙行、15日、復員完結します。


輜重兵第四十聯隊(鯨六八八九)
第四十師團輜重隊(鯨六八八九)
昭和14(1939)年6月30日、軍令陸甲第二十一號により、輜重兵第十一聯隊留守隊に輜重兵第四十聯隊の編成下令、8月7日、編成完結(角和善助大佐)、第四十師團(大谷直次郎中将)隷下に編入され、青野原陸軍演習場等で訓練にあたります。
聯隊は2個駄馬・1個自動車の計3個中隊編制でした。

10月7日、聯隊は師團とともに坂出港を出港、15日、中華民國湖北省武昌に上陸、師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、聯隊は主力を官埠橋、第三中隊を師團司令部所在の咸寧に配置し治安維持にあたります。

11月12日、騎兵第四十聯隊(佐伯靜夫中佐)の第一次九官山作戰出動に伴い第二中隊は鄂城付近の警備を継承、12月30日、騎四十が帰還し鄂城警備を移譲します。

昭和15(1940)年6月25日、宜昌作戰出動中の師團の留守に乗じ支那第九九軍主力が師團警備地区に侵攻、聯隊は騎四十第二中隊主力、第一中隊の1個小隊、機関銃1個小隊の配属を受け激戦の後、支那軍を撃退します。

昭和16(1941)年1月19日、第十一軍は正月攻勢を策動する支那第三一集団(第一三・八五軍)を撃破すべく豫南作戰を発動、聯隊は官埠橋を出発、25日、師團各隊は集結地の信陽地区に前進しますが、敵の鉄道爆破により師團主力の行軍が2日程遅れてしまったため、師團長・天谷中将は佐伯支隊(師團騎兵隊、歩二百三十六第一大隊、山砲四十、工四十各1個中隊)を先行させ、師團作戦地の汝南一帯を敵情捜索にあたらせます。
25日、佐伯支隊は信陽を出発し、28日、汝南に急進し奇襲により攻略、30日、師團主力は汝南に入城、聯隊は汝南の守備にあたり、作戰終了により、15日、官埠橋に帰還します。

6月25日、兵站自動車第百六十六中隊を編入し、第四中隊を編成し咸寧に配置します。

9月1日、聯隊は師團とともに軍が關特演前に支那第五戦区軍を撃破し、事変解決を有利に進めるべく企図した長沙作戰に参加、10月14日、原駐地に帰還します。

12月17日、第十一軍(阿南惟幾中将)は第二十三軍(酒井隆中将)のC作戰(香港攻略作戦)援護、支那軍の牽制のため第二次長沙作戰を発動、聯隊は官埠橋を出発し、24日、師團先頭の歩二百三十四、歩二百三十五が新牆河北岸の支那第一三四師(2個団)を撃破し、攻撃準備を完了、歩二百三十五を左側背援護、歩二百三十六を右翼、歩二百三十四を左翼として新牆河を渡河、支那第一三四師主力を撃破、支那軍と交戦しつつ、27日、汨水(長楽街付近)に集結、28日、師團主力は渡河に成功、30日、歩二百三十五は天荊廟を攻略、長楽街南方高地の支那軍陣地を攻略します。
聯隊は作戦中、新檣の第十一軍兵站基地と大荊街の師團兵站基地を駄馬で往復し弾薬・糧食の補給にあたります。
29日、小雪の中、駄馬により新檣に向かっていた聯隊本部は長胡(軍通信隊所在)において聯隊長を休息させ、本部主力は新檣に向かい物資を受領します。
30日、本部主力は新檣を出発、直後長胡は支那軍の急襲を受けますが、聯隊は任務を優先し大荊街に到着、直ちに長胡に救援に向かいますが、聯隊長・森川啓宇中佐以下本部要員は散華してしまいます(後任、川崎吉次中佐)。

昭和18(1943)年2月13日、軍は師團警備地から長江を挟んだ対岸の支那軍・王勁哉(第一一八、第一二八師)に続けていた懐柔工作を打ち切り、江北殲滅作戰を発動、師團は2縦隊となり長江を渡河、25日、秘河口に入城、敗敵は峰口付近で師團包囲下に入り殲滅、25日、戴市を攻略、師團騎兵隊が六家湾付近の村で王勁哉を捕縛、28日、師團は反転、3月26日、原駐地に帰還します。

5月1日、軍令陸甲第三十六號により、7月1日、輜重兵第四十聯隊は師團輜重隊(3個中隊編制)に改編されます。

4日、師團の警備地区は湖南省岳陽県岳州に変更となり、聯隊は岳州に移駐します。

昭和19(1944)年4月29日、第十一軍は湘桂作戰を発動、師團は軍第一線に部署され、5月初旬、石首、華容に集結、27日、南下進撃を開始、6月1日、歩二百三十六は洞庭湖を渡湖し赤山半島に奇襲上陸、支那軍を撃破し、5日、沅江を攻略します。

11日、赤山半島西岸・月明湾において輜重隊(元吉猶朔中佐)は師團野戰病院(松山啓助少佐)を援護・協力し、負傷兵を後送中米軍機6機が来襲、敵機は赤十字の標識を無視し爆撃、さらに湖上の舟艇上の患者救援に向かった衛生兵に機銃掃射を開始、野戰病院は大混乱となり多数の傷病兵、衛生兵が散華してしまいます。

30日、師團は永豊に進撃、7月中旬、第十一軍が攻囲する衝陽救援のため支那軍は衝陽西方に援軍を集結、31日、師團は衝陽攻撃中の第五十八師團の側背援護にあたり、8月7日、第十一軍は衝陽を攻略します(第一次湘桂作戰)。

昭和20(1945)年3月1日、師團は第二十三軍(田中久一中将)戦闘序列に隷属転移、師團主力は広東省南岸への米軍上陸に備えるべく粤漢線に沿って南下、広東を経て江門に進出、珠江デルタ地帯に展開し陣地構築、敵上陸部隊迎撃訓練を実施します。

4月1日、米軍が沖縄に上陸した事から広東方面への可能性が低下した事から、6月1日、師團は支那派遣軍(岡村寧次大将)に隷属転移、軍予備隊に部署され南昌移駐のため支那第七戦区軍を撃破しつつ北上、7月初旬、贛県に進出、北上中の8月15日、鄱陽湖畔付近において『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

19日、師團は南昌付近を出発、九江を経て、11月22日、南京郊外馬鞍山周辺に集結、28日、支那軍により武装解除され、昭和21(1946)年2月9日から輜重隊主力は第四作業隊に部署され劣悪な宿営、悪質な支那兵の強盗に遭うなか南京市内の漢中路、莫愁路、広州路の溝掃除に従事、4月26日、作業を終了、5月1~9日、南京から上海に移駐、5月17日、支那住民の見送りを受け上海を出航、24日、鹿児島に上陸し復員完結しました。


輜重兵第五十五聯隊(楯→壮八四二三、西部第三十九→中部第八十九→四國第百五十九部隊)
昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令、第一・第八・第九・第十・第十一・第十二・第十四・第十六師團は満州永久駐屯師團に指定されます。
同日、軍令陸乙二十二號により、輜重兵第十一聯隊補充隊に編成下令、8月2日、輜重兵第十一聯隊補充隊は輜重兵第五十五聯隊(清治平大佐)に改編され編成完結します。
聯隊は第一中隊は輓馬、第二・第三中隊は自動車の3個中隊編制でした。

編成完結後、師團は営庭に設置された仮装船舶により舟艇移乗、上陸演習を実施します。

昭和16(1941)年9月26日、第五十五師團に動員下令、27日、師團に南海支隊の編成下令、10月4日、聯隊から第二中隊(崎川歳春中尉、自動車)が抽出され南海支隊に編入され編成完結(堀井富太郎少将)、支隊は大本營直轄となり、6日、聯隊の動員完結、8日、師團の動員完結、11月6日、師團はビルマ攻略担当の第十五軍(飯田祥二郎中将)戦闘序列に編入されます。

18日、詫間港を出航、26日、師團主力はハイフォンに上陸、12月11日、師團主力はハイフォンから南下、27日、バンコクに到着、第二十五軍の側背援護にあたります。
21日、『日泰同盟条約』、昭和17(1942)年1月3日、『日泰共同作戰二關スル協定』が締結され、泰國軍4個師団が北方からの連合軍侵攻にあたる事になったため、第十五軍は第二十五軍の側背援護の任を解かれ、モールメン攻略を下命されます。

1月下旬、師團は国境のメソードに集結、聯隊は泰緬国境の山岳地帯踏破にあたり第一中隊は輓馬から駄馬に改編、20日、3縦隊となりダウ山系シャン高地を踏破しつつ進撃を開始、23日、コーカレー南方に集結、30日、アタラン河を渡河し、騎五十五が南からモールメンに突入、師團主力はモールメン東側のパゴタ高地の英軍を撃破、31日、モールメンを攻略、ラーヘンに残置の第三中隊はメソードまでの自動車道路開通により師團を追求しモールメンに到着、聯隊は鹵獲自動車を加え物資輸送にあたります。

3月3日、師團はシッタン河を渡河、4日、ザヤトの英軍を撃破し、バヤギを攻略、敵戦車隊の逆襲に苦戦しながらも前進、第三十三師團(櫻井省三中将、仙台)がラングーンに進撃(8日、攻略)し、敵の退路遮断に入ったため、英軍は退却を開始、7日、ペグーを攻略します。

14日、師團は3縦隊となって緬甸援蒋ルート遮断のためさらに進撃、26日、支那第二〇〇師3,000の籠るトングーを三方から包囲、敵の激烈な逆襲を受け損害が出たため、28日、重砲兵、爆撃機6機の支援を受け、30日、ラングーンに上陸した第五十六師團(渡邉正夫中将、久留米)が来援、歩百四十三が北方に迂回し退路遮断に入ったため支那軍は退却を開始、同日トングーを攻略します。

4月5日、師團は追撃を開始し北上、マンダレー街道を追撃、12日、サガヤ、16日、ミヨラ、17日、タワジ、19日、ピンマナを攻略、第十八師團と会同し、25日、ヤナウンにおいて支那軍を、26日、カンダン付近で戦車10両、火砲を伴う英印軍を撃破、5月1日、第十八師團がマンダレーを攻略、4日、マンダレーに集結します。

同日、第十五軍は隷下師團に英印軍をビルマより駆逐し主要拠点の確保を下命、師團は夫々北上進撃し掃討を実施、英軍・支那軍を駆逐します。

作戦終了後、師團は中管區に部署され、6月11日、師團司令部をマンダレー、歩百十二主力をシュエボ、同第二大隊をマンダレー、歩百四十三主力をミイトキーナ、ワインモー地区、同第三大隊をバーモ地区、同第一大隊をモーニン地区、山砲五十五主力をミンゲ地区、第二大隊をミイトキーナ、騎五十五をマダヤ、輜重五十五をアマラプラに配置し、警備・防衛にあたります。

11月末、第14英印軍が宮脇支隊(第三十三師團歩二百十三・宮脇幸助大佐)が守備するアキャブ方面で反攻に転じ、昭和18(1943)年1月6日、ラテドン、11日、ドンペイグに侵攻してきます。

昭和18(1943)年2月~3月初旬、師團主力がアラカン山脈を踏破しダンカップより舟艇機動によりアキャブに到着、師團は攻勢に転移(三十一號作戰:第一次アキャブ作戦)、3月8日、宮脇支隊がカラダン河を渡河しアポーカを攻略、14日、棚橋支隊(歩百十二聯隊長・棚橋真作大佐)がラテドンを出発、25日0030、英印軍の間隙を突いて渡河します。
4月3日、棚橋支隊はベンガル湾に達し、4日、インデン東方山地から進撃、6日、インデンに突入し英印軍の退路を遮断、14日、棚橋支隊が攻撃を開始、英第6・47旅団を包囲、追撃し大損害を与えます。
聯隊主力アキャブの防衛にあたり、第一中隊がサウンダラ方面に出動します。
作戦終了後、師團は棚橋支隊をマユ半島海岸地帯に、久保支隊(歩百四十三、聯隊長・久保元武大佐)をカラダン河谷に、土井部隊(歩二百十三第一大隊基幹、聯隊主力は6月、第三十三師團に復帰)をプチドン、モンドウに、川島支隊(騎五十五)をアキャブ島に、伊藤部隊(歩二百十三第二大隊基幹)をポロンガ島に配置し守備にあたります。

昭和18(1943)年8月17日、南海支隊に配属の第二中隊は第五十五歩兵團長(歩百四十四聯隊長・吉田章雄大佐代理)の指揮下を脱し師團に復帰、12月20日、聯隊に復帰します。
第二中隊は145名で内地を出発しますが、140名が散華、30名の補充を加え35名が聯隊に復帰します。

昭和19(1944)年1月15日、大陸命第九百五十五號により第五十五師團は第二・第五十四師團とともに第二十八軍(櫻井省三中将)戦闘序列に編入されます。

昭和18(1943)年11月頃から英第15軍団(英印第5・第7個師団)が再びコックスバザー付近から歩百四十三が守備するモンドウ-プチドンの線に南下、英印第7個師団の侵攻を歩百四十三第三大隊が、英印第5師団の侵攻を同第一大隊が拒止します。

1月11日、第五十五師團は第十五軍が準備中のウ號作戰(インパール作戦)を容易にし、且つアキャブを防衛すべく英印軍牽制・誘引のため、ハ號作戦(第二次アキャブ作戦)を準備します。
2月3日、櫻兵團(歩五十五歩兵團長・櫻井徳太郎少将、歩百十二、歩百四十三第二大隊、第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊、山砲五十五、工五十五)はプチドン東方地区から進撃を開始、4日、マユ河上流のカラバンジン河で渡河しトングバザーを攻略、英印軍の背後に周り、5日、南西進し歩百十二第一大隊がシンゼイワ西方マユ高地の道路を遮断、第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊(久保正雄少佐)は西進し、6日、ヌガンギャンを攻略し英印第5師団の後方連絡線を遮断し英第15軍団司令部を急襲するとともに、英軍の増援を阻止、7日、歩百十二主力は三一六高地の英印第7師団司令部を急襲し激戦ののち攻略、プチドンを守備していた歩百四十三第二・第三大隊も攻勢に転移し英印第7師団をシンゼイワ盆地に包囲します。

2月5日、聯隊は支隊の作戦推移に伴い第一中隊をプチドンに派遣、前線に補給のためプチドン-レトウェレット-ナケドーク-シンゼイワ道を前進しますが、レトウェレット、クリーク、ト型高地付近で英印軍と遭遇、補給路が遮断されたため、聯隊は補給経路をプチドン-ポンコリ-ナケドーク道に変更し、12日、聯隊主力はオーラビンにおいて櫻井支隊後方補給線と連絡に成功します。

7日、歩百十二は一気に包囲環の圧縮にかかりますが円筒陣地に籠り頑強に抵抗する英印軍に攻撃は遅滞、さらに8日、英印軍の空中補給が開始されます。
11日、歩百十二は夜間攻撃を開始しますが敵の持久戦に損害が増加、次第に弾薬・糧食が欠乏、16日、シンゼイワ北方より英印第26師団が、カラダン河谷から英西阿第81師団が侵攻、川島支隊が拒止にあたりますが損害を受け兵團後方連絡線のアポークワまで転進します。

師團は輸送力強化のため聯隊に自動車収集を下命、聯隊は第三中隊主力(森少尉)を基幹として自動車蒐集班を編成します。

19日、櫻井少将は円筒陣地攻略のため英印第7師団を盆地外に誘引すべく包囲環を開き、敵を追い出すため歩百十二に総攻撃を下命しますが、歩百十二聯隊長・棚橋真作大佐は戦力の低下から総攻撃を22日に延期したうえ、最終的に攻撃を中止してしまいます。
26日、櫻井少将は戦線の維持が困難になった事から櫻兵團の転進を開始、聯隊はプチドン-ポンコリー-ナケドーク道をシンゼイワに向かい前進、補給完了後、支隊の戦病患者の後送にあたります。
28日、支隊主力は英印軍の陣地を突破、追撃を撃退しつつプチドン東方地区に集結、3月3日、歩二百十三第一大隊が敵中60kmを突破しオーラビンに到着します。

3月上旬、師團前衛であるモンドウ-プチドン北側の全陣地に爆撃機・火砲に支援され戦車を伴う英第15軍団(英印第5・第7師団・第254戦車旅団)が侵攻、5日、聯隊本部・第一中隊は師團司令部の所在するゼニンビアに前進し前線への補給を続行、第二中隊金本小隊はミヨンボン防衛、第三中隊は第二十八軍直轄となり師團後方兵站線のプローム-アラカン山脈-ダンカップの自動車輸送、第一中隊第一小隊(増田少尉)は第一線兵力増強のため歩百四十四第二大隊に編入され、プチドン-モンドウ間三四一高地北方1km高地の確保にあたります。

8日、歩百十二が守備するプチドン北方25kmの一二一高地、10日、プチドンが奪取され、12日、プチドン南方3kmのバグナに戦車を伴う敵が浸透、聯隊は第一中隊(第一小隊欠)、第二中隊を徒歩戰鬭隊として編成、15日、戰鬭隊はバグナに前進しカンビン西側高地-バグナのに布陣し敵の侵攻拒止にあたります。
18日、歩百四十三、歩百四十四が守備するマユ山系以西の一三〇一、七〇一高地が包囲され、要地・トンネル東方高地が奪取されてしまいます。

20日、最前線のシノーピンを防衛する歩百十二のため徒歩戰鬭隊第一中隊から第三小隊(眞鍋中尉)を抽出、キンダン方面に配置し補給にあたらせます。

師團は敵の浸透を受けながらも各陣地を堅守し敵の侵攻を拒止、3月8日、ウ號作戰の開始に伴い師團前面の英印軍機甲部隊がインパール方面に移動、英印軍主力がシンゼイワ以北に後退したため、5月5日、師團は英印軍により奪取されたプチドン-モンドウの要線を奪還すべく櫻井兵團(歩百十二、歩百四十三第三大隊、歩二百十三第一大隊、山砲五十五)を編成、兵團は南北より攻勢に転移、英印第26師団を北西に撃滅し要線の奪取に成功します。

10日、聯隊はゼニンビアに集結し第一中隊第一小隊を掌握、6月上旬、ムロチャンに移駐し警備・輸送にあたり、8月10日、第三中隊以外の集結を完了します。

7月2日、ウ號作戰の中止に伴い英軍は中部ビルマ方面に侵攻してきたため、師團はアキャブを徹する事が決定、8月中旬、櫻支隊(櫻井徳太郎少将、隷下歩兵聯隊の1個大隊、騎五十五、山砲五十五集成1個大隊、工五十五集成1個中隊)は第二十八軍(櫻井省三中将)直轄となり、モドーク山脈に布陣し師團主力の転進を援護、第五十四師團で編成された松支隊(第五十四歩兵團長・木庭知時少将)とともに侵攻してきた英軍を陽動により拒止、師團はベンガル湾沿いで英軍を拒止すべく、雨季で泥濘化した山道を南下、9月上旬~下旬、イラワジ河下流三角州(イラワジデルタ)地帯に集結、陣地構築を開始します。
聯隊は本部・第一中隊をバセイン、第二中隊を師團司令部所在地のヘンサダに配置し警備、水陸両路の輸送にあたり、第三中隊はサンドウェー県キヨタガに位置しパトン-ダンカップ間、30日、エナンジョンに移駐しエナンジョン-プローム間の輸送業務にあたります。

昭和20(1945)年1月25日、師團は軍の立案したイラワジ會戰に策応すべく干城兵團(歩百十二聯隊長・古谷朔郎大佐、同聯隊基幹)を編成しメイクテーラ北方50kmのポパ山付近に配置、神威部隊(騎五十五聯隊長・杉本泰雄大佐、騎五十五基幹)を英軍に策応し背叛、我軍の作戦の妨害にあたるビルマ国民軍の討伐にあたらせます。

3月中旬、イラワジ會戰の各戦線は逼迫、緬甸方面軍は敵の侵攻をトングー付近で拒止すべく隷下部隊の転進集結の援護を第二十八軍に下命、第五十五師團は方面軍直轄となり振武兵團(第五十五歩兵團長・長澤貫一大佐、歩百四十三基幹)をイラワジデルタに残置、聯隊主力は忠兵團(師團主力、歩百四十四基幹)に編入され、兵團は吉田先遣隊(吉田章雄大佐、歩百四十四第一・第二大隊、騎五十五第三中隊、工五十五第三中隊、獨立速射砲第十四大隊)を先頭に3縦隊となりトングーに前進を開始します。

3月15日、聯隊はイラワジデルタを出発するにあたり第一中隊を輜重戰鬭隊(篠原大尉、戰鬭第一・第二中隊、各3個小隊)、特設水上輸送隊(眞鍋中尉)、特設陸上輸送隊(松本獣中尉)、師團隷下部隊より自動車を配属され第二中隊を壮集成自動車第一(豐田大尉、2個小隊)・同第二中隊(金本中尉、2個小隊)に臨時改編、新たに輜重五十五自動車中隊(山田中尉)を編成し振武兵團に編入します。
27日、聯隊はイエジを出発、背叛したビルマ国民軍の襲撃を受けつつダンビュー-タイナ-ペグー道を通過し、28日、ニューアレンビン(トングー南方120km)に前進、両集成自動車中隊は師團の転進援護にあたり、4月上旬、さらに戰鬭第一中隊第三小隊(黒田曹長)をレパタン、同第二中隊第一小隊(三枝中尉)をレイゴンに派遣し師團の転進援護にあたります。

4月1日、吉田先遣隊はトングーに到着、周辺の匪賊討伐を開始、8日、ヤナウン、10日、ピヨベ、11日、ヤメセン(トングー北方200km)が英第5・第17師団軍機甲部隊に突破され、第三十三軍(本多政材中将)方面の戦況が急速に悪化したため、方面軍は忠兵團を第三十三軍指揮下に編入しピンマナ(トングー北方100km)への急進を下命、先遣隊は北進しピンマナ北方シンテ河橋梁付近に布陣します。

14日、シンテ河に戦車10両を伴う英印軍が侵攻、先遣隊は激戦の後撃退し、15日、転進してきた第三十三軍司令部、第十八師團司令部を収容、第十八師團長・中永太郎中将の指揮下に入り、軍の転進援護にあたるべくシンテ河の陣地を徹しグエビン、パークピンタ南方高地(シンテ河南方)に転進、16日、侵攻してきた戦車6両を伴う英印軍100を撃退し、第三十三軍の後衛援護にあたりつつ、17日、カンデに集結、18日、師團復帰を下命されカンデを出発します。

19日、第三十三軍はピンマナ付近で英印軍侵攻拒止を企図、トングーを経由し忠兵團は17日から逐次ピンマナに到着し第三十三軍隷下部隊と合流しますが、移動距離が長大な事から19日時点での兵團戦力は未だ砲兵、歩兵ともに2個中隊程のため陣地編成はままならず突破されてしまいピンマナを失陥、第三十三軍はシッタン河左岸地区に転進します。

20日、先遣隊はピンマナ北方に転進しますが、ピンマナが陥落した事を知り、師團命令により敵中を突破しシッタン河を渡河、24日、キャウコに集結し、第五十五師團に復帰、南下する英印軍を拒止すべくトングーに前進、所在の部隊を集成しトングー防衛隊が編成され本道・支道を封鎖します。
22日早朝、英印軍機甲部隊がトングーに侵攻、歩百四十四は山砲の支援を受け敵の侵攻を拒止しますが、敵は迂回包囲態勢に入り山砲は全損し転進命令を受け敵中を突破しシッタン河を渡河、モーチ街道において敵の侵攻を遅滞させるべく持久戦闘を実施します。

聯隊はピンマナ救援のため集結を待たずニューアレンビンを出発、キドウガン付近でピンマナ南方のビングへの転進を受命、20日、ビゾクで追求してきた戰鬭大隊を掌握、21日、同大隊第一中隊を山砲五十五第四中隊の援護としてミヨラトンに派遣、聯隊はビゾクで対戦車戦の準備にあたり、1430、侵攻して来た英印軍機甲部隊を迎撃しますが敵戦車の急速な浸透に陣地は破壊されたため、聯隊は遅滞戦闘を実施しつつモーチ街道を東進、集成自動車第二中隊を掌握、配属された工五十五1個中隊、歩兵1個小隊を兵團左地區隊として街道215哩付近に布陣した戰鬭大隊に編入し遅滞戦闘を実施、聯隊主力は糧秣の輸送・集積にあたります。

5月10日、南方軍はプノンペン付近に兵力を結集し、ラオスのパクセ付近に複郭陣地の築城を策定、兵團は南方軍総予備戦力に部署されモールメンへの転進を下命、聯隊は新たに戰鬭第一大隊(篠原大尉、戰鬭第一・第二・第三中隊)、戰鬭第二大隊(大西大尉、戰鬭第四・第五・第六中隊)に臨時改編(歩百十二第三大隊の重機関銃1個小隊、師團通信隊、同経理部、同病馬廠が配属)され、戰鬭第二大隊、同第二中隊を吉田支隊(歩百四十四主力)に配属しモーチ街道の防衛に残置、6月初旬、兵團主力とともにモーチ街道-カマノン-パプンを経て、7月14日、モールメンに到着、聯隊は臨時改編された各隊の編制を復帰させ、また配属の各隊は原隊に復帰します。

8月上旬、ピリン方面ににあった聯隊隊貨宰領隊(高橋大尉)、集成自動車第一・第二中隊の各1個小隊、特設水上輸送隊がモールメンに到着、聯隊に復帰、7月18日にモールメンを出発した師團主力を追求するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月下旬、仏印ロメヤスに到着、9月上旬、吉田支隊指揮下の戰鬭第二大隊、同第二中隊、エナンジョン方面にあった第三中隊がロメヤスに到着し聯隊に復帰します。

聯隊は英軍により抑留されロメヤスにおいて武装解除されますが、越南革命軍が独立のため蜂起、各地でフランス軍と戦闘になったため治安維持に出動させられます。
11月4日、ハッチェンに前進し警備、掃討にあたりプノンペン対岸地区に集結、聯隊は師團先発設營隊に部署されバナム-リワイレニ-トランバン-ホクモンに先行し宿営地設定、輸送、揚陸作業にあたり、ロンミーに集結し自活態勢に入り、労役に使役、昭和21(1946)年5月~昭和22(1947)年5月にかけ、ラングーン港を出航、大竹港に上陸、復員しました。


編成(大隊以下)、補充を担当した部隊
第百五十五師團輜重隊(護土二二七五九)
※「第十一師團司令部」の記事参照

第三百四十四師團輜重兵中隊(劔山二八二七八)
※「第十一師團司令部」の記事参照

騎兵第五十五聯隊 (昭和15年8月2日)
※「騎兵第十一聯隊」の記事参照

第十一師團挺進聯隊(旧騎兵第十一聯隊) (昭和20年7月5日)
※「騎兵第十一聯隊」の記事参照


獨立輜重兵第二聯隊 (昭和15年2月9日)

獨立自動車第五十六大隊 (昭和16年7月7日)

患者輸送第六十三小隊 (昭和16年7月16日)

患者輸送第六十四小隊 (昭和16年7月16日)

第六十五旅團野戰病院 (昭和17年10月8日)

獨立自動車第八十四大隊 (昭和18年7月15日)

患者輸送第九十五小隊 (昭和19年11月14日)

獨立混成第六十二旅團兵器勤務隊 (昭和20年2月1日)

海上輸送第二十五大隊 (昭和20年5月23日)


主要参考文献
『善通寺市史 第二巻』 (昭和63年10月 善通寺市立図書館 善通寺市)

『善通寺市史 第三巻』 (平成6年12月 善通寺市教育委員会市史編さん室 善通寺市)

『四国師団史』 (昭和47年4月 陸上自衛隊第13師団司令部四国師団史編さん委員会)

『第十一師團歴史の概要』 (昭和36年 大野廣一)

『土佐湾本土決戦史』 (平成18年11月 山崎善啓 高知新聞企業)

『日本陸軍兵科連隊』 (平成6年11月 新人物往来社)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

アジア歴史資料センター 各種史料
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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