丸龜陸軍射撃場
香川県丸亀市土器町東に丸龜陸軍射撃場がありました。

▲民家の庭に遺る境界石標
【探索日時】
平成25年3月29日

<歩兵第十二聯隊周辺の陸軍施設>

▲大正11(1922)年測図(『大日本帝国陸地測量部地形図57 丸龜近傍』)

▲丸龜陸軍射撃場を現在の地図に転写
<遺構について> ※青字は地図にリンクしています
⑫ 丸龜陸軍射撃場
明治6(1873)年4月、陸軍省は丸龜城郭内の旧武家屋敷地を御用地として指定し買収、明治7(1874)年9月、歩兵営が竣工します。
当初、射的場は丸亀城内東側に開設されますが、明治10(1877)年11月、鵜足郡土器村(現、土器町東)の青ノ山南麓に新設射的場の実地調査を実施、明治11(1878)年、民有地を買収し土器村射的場を開設します。
射的場の新設理由は不明ですが、他の射的場と同じく小銃の進歩により市街地にあるのは危険な為と思われます。
その後、明治19(1886)年頃まで周辺用地を買収し拡張、明治末年頃、丸龜陸軍射撃場に改称された様です。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』が煥発され、16日、停戦を迎えました。
11月4・5日、米第6軍第24歩兵師団のハーマン中尉以下40名が丸亀に進駐し旧歩兵第十二聯隊施設を接収、12月8日、善通寺の本隊に復帰します。
昭和21(1946)年1月12日、丸亀陸軍射撃場が接収解除され大蔵省四国財務局に移管、香川県農業会に貸付けられ農耕地に転用、昭和22(1947)年4月1日、大蔵省から農林省に移管、現在は畑地、鉄骨工場、住宅になっています。
エ 陸軍省所轄地 15
射撃場の射垜付近にある民家の庭先に境界石標があります。
側面に「15」の刻字があります。
住民の方の話では今でも庭いじりをしていると、弾丸が出てくるそうです。

※住民の方の許可をとって見学しています。
早朝から突然押しかけた怪しいおっさんに快く対応して頂き、ありがとうございました。
この境界石標は「kanレポート」の神崎伸介様に御教示頂きました。
なお、kanレポート内にある「対面にある石柱」は畑との境界で最近埋めた物だそうです。
やたらと吠える犬を左に見ながら、民家の先の山道を登って行くと射垜の上に出ますが、当時は東側の土堤と射垜の接する辺りに隧道があり、そこから監的壕に出入りしていたそうで、戦後しばらくその隧道に人が住んでいたとの事です。

▲竹で分かり難いですが崩落した隧道跡
オ 陸軍省所轄地 第六十四 19
社会福祉施設「丸亀さんさん荘」の裏にある自家発電機の横に転がっています。
「陸軍省所轄地」の下に「第六十四」、側面に「19」の刻字があります。
この数字が何を表しているのか不明ですが「六十四」が丸亀全体の通し番号、「19」が射撃場の通し番号では無いでしょうか?

▲正面側には「陸軍省所轄地」と、その下に「第六十四」が刻字

▲側面にはアラビア数字で「19」の刻字があります。
カ 土塁
東側の土塁と思われる土盛が遺ります。

▲この土塁の上も歩いてみましたが、何もありませんでした。
なお、丸龜陸軍射撃場のあった青ノ山付近に青野山陸軍演習場(284,063坪)、東側10kmの大平山西麓に國府臺陸軍演習場(403,491坪)がありましたが、境界が不明なため探索していません。
<主要参考文献>
アジ歴各種資料 (検索語句「射的場 丸亀」・「射撃場 丸亀」)
『香川県史 第七巻 通史編 現代』 (平成元年3月 香川県)
『土器村史』 (昭和29年 土器村史編集委員会)
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▲民家の庭に遺る境界石標
【探索日時】
平成25年3月29日


<歩兵第十二聯隊周辺の陸軍施設>

▲大正11(1922)年測図(『大日本帝国陸地測量部地形図57 丸龜近傍』)

▲丸龜陸軍射撃場を現在の地図に転写
<遺構について> ※青字は地図にリンクしています
⑫ 丸龜陸軍射撃場
明治6(1873)年4月、陸軍省は丸龜城郭内の旧武家屋敷地を御用地として指定し買収、明治7(1874)年9月、歩兵営が竣工します。
当初、射的場は丸亀城内東側に開設されますが、明治10(1877)年11月、鵜足郡土器村(現、土器町東)の青ノ山南麓に新設射的場の実地調査を実施、明治11(1878)年、民有地を買収し土器村射的場を開設します。
射的場の新設理由は不明ですが、他の射的場と同じく小銃の進歩により市街地にあるのは危険な為と思われます。
その後、明治19(1886)年頃まで周辺用地を買収し拡張、明治末年頃、丸龜陸軍射撃場に改称された様です。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』が煥発され、16日、停戦を迎えました。
11月4・5日、米第6軍第24歩兵師団のハーマン中尉以下40名が丸亀に進駐し旧歩兵第十二聯隊施設を接収、12月8日、善通寺の本隊に復帰します。
昭和21(1946)年1月12日、丸亀陸軍射撃場が接収解除され大蔵省四国財務局に移管、香川県農業会に貸付けられ農耕地に転用、昭和22(1947)年4月1日、大蔵省から農林省に移管、現在は畑地、鉄骨工場、住宅になっています。
エ 陸軍省所轄地 15
射撃場の射垜付近にある民家の庭先に境界石標があります。
側面に「15」の刻字があります。
住民の方の話では今でも庭いじりをしていると、弾丸が出てくるそうです。

※住民の方の許可をとって見学しています。
早朝から突然押しかけた怪しいおっさんに快く対応して頂き、ありがとうございました。
この境界石標は「kanレポート」の神崎伸介様に御教示頂きました。
なお、kanレポート内にある「対面にある石柱」は畑との境界で最近埋めた物だそうです。
やたらと吠える犬を左に見ながら、民家の先の山道を登って行くと射垜の上に出ますが、当時は東側の土堤と射垜の接する辺りに隧道があり、そこから監的壕に出入りしていたそうで、戦後しばらくその隧道に人が住んでいたとの事です。

▲竹で分かり難いですが崩落した隧道跡
オ 陸軍省所轄地 第六十四 19
社会福祉施設「丸亀さんさん荘」の裏にある自家発電機の横に転がっています。
「陸軍省所轄地」の下に「第六十四」、側面に「19」の刻字があります。
この数字が何を表しているのか不明ですが「六十四」が丸亀全体の通し番号、「19」が射撃場の通し番号では無いでしょうか?

▲正面側には「陸軍省所轄地」と、その下に「第六十四」が刻字

▲側面にはアラビア数字で「19」の刻字があります。
カ 土塁
東側の土塁と思われる土盛が遺ります。

▲この土塁の上も歩いてみましたが、何もありませんでした。
なお、丸龜陸軍射撃場のあった青ノ山付近に青野山陸軍演習場(284,063坪)、東側10kmの大平山西麓に國府臺陸軍演習場(403,491坪)がありましたが、境界が不明なため探索していません。
<主要参考文献>
アジ歴各種資料 (検索語句「射的場 丸亀」・「射撃場 丸亀」)
『香川県史 第七巻 通史編 現代』 (平成元年3月 香川県)
『土器村史』 (昭和29年 土器村史編集委員会)
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