当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

模造 東鶏冠山北堡塁

香川県高松市の観光名所・栗林公園に隣接する石清尾(いわせお)山に模造 東鶏冠山北堡塁があります。
模造 東鶏冠山北堡塁 A 側防窖室 上から (2)(高松)
▲石清尾山中に遺る模造 東鶏冠山北堡塁

【探索日時】
平成24年4月22日






遺構について ※青字は地図にリンクしています
模造 東鶏冠山北堡塁
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月19日、香川県善通寺市(当時、善通寺町)に衛戍する第十一師團に動員下令、24日、清國盛京省張家屯に上陸、6月6日、師團は第三軍(乃木希典大将)戦闘序列に編入され、25日から戦闘に参戦、8月21日、東鶏冠山北堡塁の攻撃を開始します。
しかし、難攻不落の要塞に拠る露軍の激烈な抵抗に遭い大損害を受け攻撃は頓挫、11月23日、第二回総攻撃も頓挫しますが、12月18日、遂に東鶏冠山北堡塁攻略に成功します。
3度に及ぶ旅順要塞攻撃による師團の損害は4,072名散華、師團長・土屋中将以下10,259名負傷と言う甚大なものでした。
旅順要塞突撃の様子は映画『二百三高地』(映画では二龍山堡塁を攻撃した歩兵第七聯隊(金沢)が主役)に良く描かれています。

日露戦役停戦後、明治38(1905)年12月、田中定吉(衆議院議員)、牛窪求馬(実業家)、遠藤繁太郎(東植田村長)、平野秋平(赤十字社特別社員)各氏を発起人として戦役における我が国軍の偉勲を顕彰し、忠君報国の意識を涵養すべく模造東鶏冠山北堡塁と紀念陳列館の建設を決定、海南彰忠紀念會が結成され工事が開始されます。
※現地説明板では牛窪求馬翁のみの記載になっているので、主に資金を拠出し指揮を採ったのが翁なのかも知れません。

明治43(1910)年、難工事に伴う資金難から記念館建設は中止され、鹵獲ロシア製大砲3門を備えた模造東鶏冠山北堡塁が竣工します。
模造 東鶏冠山北堡塁 模造堡塁 説明 (2)(高松)
▲竣工当時の写真(明治43年)
  現地説明板の表示は「模造東鶏冠山“砲台”」となっていますが、
  東鶏冠山砲台は東鶏冠山北堡塁とは別物です(下図参照)。

竣工後は一般公開された他、第十一師團の演習にも使われた様ですが大東亜戦争停戦後は放置され、平成16(2004)年、郷土史家が発掘し、平成17(2005)年12月、日露戦役100周年を記念し有志により再整備されました。

因みに旅順要塞とは第十一師團が攻略した東鶏冠山北堡塁、第九師團が攻略した二龍山堡塁、第一師團が攻略した松樹山堡塁の3永久堡塁を中心とした堡塁・砲台群の総称です。
模造 東鶏冠山北堡塁 旅順要塞一般(高松)
▲旅順要塞一般図
  赤が東鶏冠山北堡塁紫が二龍山堡塁緑が松樹山堡塁

模造 東鶏冠山北堡塁 東鶏冠山北堡塁 要図(高松)
▲東鶏冠山北堡塁図
  対壕作業により堡塁東側に無数の交通壕が描かれています。

模造 東鶏冠山北堡塁 模造 東鶏冠山北堡塁(高松)
▲模造 東鶏冠山北堡塁縄張図
  上記『東鶏冠山北堡塁図』と比べるとよく似ています。

模造堡塁への行き方ですが、自動車道を登り西方寺に許可を得たうえで駐車(紫線:現在改修され登りやすくなっています)し、南側にある妙覚神社の西側にある山道をひたすら登る(緑線)と10分程で到着します。
よく分からない場合は西方寺の方に伺えば教えて頂けます。

A 側防窖室
煉瓦と石材で築造されています。
模造 東鶏冠山北堡塁 A 側防窖室(高松)
▲実際は外濠に沿って伸びるので実物よりかなり小さいですが、
  雰囲気はよく出ています。

模造 東鶏冠山北堡塁 A 側防窖室 (4)(高松)
▲胸墻から見た側防窖室

模造 東鶏冠山北堡塁 A 側防窖室 (2)(高松)
▲側防窖室 近影

模造 東鶏冠山北堡塁 A 側防窖室 (3)(高松)
▲上から見た側防窖室

模造 東鶏冠山北堡塁 A 側防窖室 上から(高松)
▲側面にある入口

模造 東鶏冠山北堡塁 A 側防窖室 内部(高松)
▲側防窖室 内部

模造 東鶏冠山北堡塁 A 側防窖室から堀Dを見る(高松)
▲側防窖室から見た外濠


B 弾薬庫
模造 東鶏冠山北堡塁 B 弾薬庫 (2)(高松)
▲入口付近はかなり破壊されています。

模造 東鶏冠山北堡塁 B 弾薬庫(高松)
▲内部は人が一人入れるくらいの広さです。


D 外濠
幅10m×長さ50mあります。
外濠の取り回し方は実際とはやや異なっている様です。
模造 東鶏冠山北堡塁 D外濠からA側防窖室(高松)
▲外濠から見た側防窖室

模造 東鶏冠山北堡塁 映画『二百三高地』(高松)
▲映画『二百三高地』の一場面
  歩兵第二十二聯隊が東鶏冠山北堡塁に突撃した場面
  映画とは言え先人達が撃ち倒される場面はかなり辛いです。


E 外濠
幅10m×長さ50mあります。
模造 東鶏冠山北堡塁 E 外濠(高松)

模造 東鶏冠山北堡塁 EF 外濠北端(高松)
▲E・F外濠の北端


F 外濠
幅10m×長さ50mあります。
実際の堡塁はこの外濠が台形状に屈曲していた様ですが、地形の制約で直線になった様です。
模造 東鶏冠山北堡塁 F 外濠(高松)


G 坑道
上掲の『模造東鶏冠山北堡塁縄張図』を入手(写真撮影)したのが2日前で精査できず、しかも時期が悪く僕が最も苦手とするケムシ類が発生していたため、深く踏査できなかったので帰宅後に気付いたのですが、模造堡塁正面(F外濠側)に2条の通路がある様です。
位置、形状から工兵第十一大隊が2,000㎏の爆薬を用いて胸墻・備砲を爆砕、第十一師團が突入した攻路と思われます。


C 慰霊塔
裏面に模造堡塁の趣旨が刻字されています。
模造 東鶏冠山北堡塁 C 慰霊塔(高松)

建立年は不明ですが(新字体で刻字されている事から戦後か?)、当模造堡塁建設の趣旨は「第十一師團の高松地区出身部隊の英霊に捧げるため」となっています。
またすぐ横に平成17(2005)年12月に設置された説明板では「我が軍だけでなく犠牲となった?露軍も追悼し平和を願うため」となっています。
しかし、明治38(1905)年12月6日付『香川新報』によると「我軍が東洋の禍根(ロシア)を断った戦役を表彰し、忠君報国の正気を養うため」(要約)となっています。
当初の築造目的を後世に勝手に変えるのはどうかと思います。

以下該当記事の全文

王師一たび動ひて威武六合を曄(かがやか)し、永く東洋の禍根を絶つて億兆聖徳を謳歌す。
鳴呼千載の一時吾人如何にしてか能く斯の絶大なる戰績を表彰すべき。
東鶏冠山は天下の険要、實に海南健兒が生血を賤ひて攻略したるところ須(すべから)く。
之れが砲臺を模して高松付近に築造し、新たに紀念陳列館を経營し萬古仰て以て忠君報國の正気を養はんとす。夫れ然り吾人の微衷や國民教育の上に存す豈に徒らに世の形影を趁ふ者ならんや。



主要参考文献
『四国師団史』 (昭和47年4月 陸上自衛隊第13師団司令部四国師団史編さん委員会)

陸上自衛隊・善通寺駐屯地資料館の展示

『二百三高地』(昭和55年 東映)

『朝日大学教職課程センター研究報告 第15号 歴史教育における記憶の取り扱いについて(3)-戦没者の記憶と「追悼のかたち 」-』 (平成19年 高橋健司)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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