当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

觀音寺海軍航空基地 (觀音寺海軍航空隊)

戦国時代、西讃岐守護代・香川信景に四国統一を目指す長宗我部元親との和議を進言した事で知られる、信景の弟・観音寺景全の居城があった香川県観音寺(かんおんじ)市に觀音寺海軍航空基地、及び觀音寺海軍航空隊がありました。
観音寺海軍航空基地 オ・カ(観音寺)
▲母神山に遺る格納隧道入口

【探索日時】
平成24年4月21日、平成26年1月5日





現在、觀音寺海軍航空基地は飛行場を偲ぶ痕跡すらありませんが、地元では地名から「柞田(くにた)飛行場」とも呼ばれている様です。

觀音寺海軍航空基地 要目
敷地    2,151,534 ㎡
滑走路  80~150×1,500(花崗土転圧) 1本
       40×1,500(コンクリート舗装) 1本(未完)
居住施設 木造8棟 5,000 ㎡
飛行機運搬路 不明
防空砲台 八八式七糎野戰高射砲 × 5
        二十五粍聯装機銃 × 9
         〃  単装機銃 × 12
観音寺海軍航空基地 観音寺航空基地(観音寺)
▲『観音寺航空基地位置圖』

観音寺海軍航空基地 観音寺航空基地(現在)(観音寺)
▲現在の地図の転写
※緑文字が当記事の紹介施設
① 第一滑走路(コンクリート舗装)
② 第二滑走路(花崗土転圧)
③ 滑走路地区・・・緑線
④ 觀音寺海軍航空基地・・・
紫線
⑤ 庁舎地区
⑥ 兵舎地区
⑦ 工場地区
⑧ 病舎地区

⑨ 呉海軍施設部 觀音寺地方施設事務所
⑩     〃               倉庫
 防空高角砲台


遺構について※青字は地図にリンクしています
④ 觀音寺海軍航空基地
海軍省は急増する海軍飛行豫科練習生(豫科練)に対応すべく、甲実施航空隊(内地航空基地)整備を決定、第八十一回帝國議會(昭和17(1942)年12月26日~昭和18(1943)年3月25日)において「水陸諸施設急速整備ニ要スル経費」が承認され、觀音寺海軍航空基地ほか50ヶ所に及ぶ航空・水上機基地の新設・整備を計画します。

海軍航空本部は香川縣三豐郡常盤村、粟井村、豐田村、紀伊村、柞田(くにた)村(現、観音寺市)にまたがる農地を飛行術練習生教程(飛練教程:豫科練の次期教程)用の新設航空基地用地として選定し基本計画を策定、海軍施設本部により具体計画が立案され、昭和18(1943)年4月、呉海軍施設部は測量を開始します(10月、終了)。

昭和19(1944)年1月、海軍航空本部は地権者を柞田國民學校に招集、時局の推移から該当用地235町歩の必要性を説明し売却を懇請、地権者も国のためと承諾します。
買収価格は田圃1反:自作農2,000、地主1,800、小作800円、畑地:同1,800、同1800、同700円、家屋移転費用:20,000~2,000円でした。

4月、呉海軍施設部觀音寺地方施設事務所が開設され、同事務所の指揮のもと労務者が中心となり近隣町村の青年団、婦人会、隣組の協力を得て航空隊・航空基地の設営が開始され、6月、麦の収穫が終わるのを待ち、該当用地の350戸が移転を開始します。
昭和20(1945)年2月23日、第三一一三海軍設營隊が観音寺に進出、3月、第一滑走路(幅80~150×長さ1,500、花崗土転圧)1本が完成、1日、國分海軍航空隊が鹿児島より移駐し觀音寺海軍航空隊に改称・開隊、4月3日、飛練生71名が九三式中間練習機とともに人吉海軍航空基地より移駐、特攻訓練を開始します。
6月末(20日頃?)、第五一一二海軍設營隊が進出し設営に加わり、7月19日、神風特別攻撃隊「乾龍隊」は第一國分、「坤龍隊」は大分両海軍航空基地に前進、觀音寺海軍航空基地は決號作戰(本土決戦)に向け作戦航空基地として設営・強化を急ぐ中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、未成のまま停戦を迎えました。

昭和20(1945)年10月21日、米第6軍第24歩兵師団が三津浜港に入港、11月1・2日、師団の一部が善通寺に進駐し、4日、香川県下の軍事施設の接収を開始、7・8日、ミラー中尉以下35名が觀音寺海軍航空基地を接収、兵器、弾薬、糧食、被服等の処分を行い、12月8日、善通寺に復帰します。

11月3日、連合国軍最高司令官総司令部は各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』により、各陸軍飛行場、海軍航空基地の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。
11月9日、政府は『緊急開拓事業実施要領』を閣議決定、旧觀音寺海軍航空基地は食糧難解消のため海外引揚者、復員軍人、戦災者より入植希望者を募集し払下げる事が決定します。

昭和21(1946)年2月、旧觀音寺海軍航空基地は緊急開拓農地開発事業地区に指定、3月5日、接収解除され大蔵省四国財務局に移管、全域が香川県農業会に貸付けられ建物は住宅営団高松支所避病舎、本山村青年学校、紀伊村青年学校、同農業会、運輸省高松地方建設部、県農業界病院、四国鉄道局病院、香川県庁、高松市避病舎、緊急開拓団事業所(のち柞田村他外四ヶ村開拓農業協同組合)事業所として転用、昭和22(1947)年10月、旧海軍航空基地は農林省に移管され敷地の大部分は同開拓農業協同組合の折衝により9割が元地権者に払下げられ、現在は全域が農地、住宅地になっています。

航空基地の遺構はほぼ壊滅していますが、基地西側の母神山山麓に横穴式格納壕の僅かな痕跡が遺ります。

ア・イ 電話交換室
溜池の北側の林の中に崩落跡があります。
位置的に『引渡し目録』にある電話交換室と思われます。
本来はこの北側にも3本の隧道があった様ですが、運動公園造成により滅失しています。
観音寺海軍航空基地 ア(観音寺)
▲ア 崩落跡
  長さ10m程で、途中で右側に屈曲していた様です。

観音寺海軍航空基地 イ(観音寺)
▲イ 崩落跡
  同じく長さ10m程で、途中で左側に屈折していた様です。


ウ・エ 母神隧道
溜池の南側にあった様ですが、崩落してしまっています。
崩落した穴上の窪地があったのですが、撮影し忘れた様です(゜Д゜;)


オ・カ・キ 母神隧道
畑の奥にあり、道路からも見えます。
觀音寺海軍航空基地の横穴式格納壕は一部の入口にコンクリートの補強(内部は素掘り)がされていましたが、残念ながら全てが過剰なくらいガチガチに閉鎖(コンクリート閉鎖のうえ鉄格子)されてしまっています。
状態を見るとほとんどが崩落している様ですが、一部は内部が遺っている様です。
オとカは入口にコンクリート製の補強がされており、キは素掘りだった様です。
観音寺海軍航空基地 オ(観音寺)
▲オ 壕口の補強
  当記事「扉写真」左側の物です。

観音寺海軍航空基地 オ 上部崩落跡(観音寺)
▲オの上部は溝状になり崩落しています。

観音寺海軍航空基地 カ(観音寺)
▲カ 壕口の補強
  当記事「扉写真」右側の物です。

観音寺海軍航空基地 キ 上部崩落跡(観音寺)
▲キ 崩落跡
  分かり難いですが斜面に溝状の谷があります。


ク・ケ・コ・サ 防空電信室
クは畑の端、ケ~サは林の中にあります。
クとコがコンクリート補強、ケとサは素掘りだった様です。
観音寺海軍航空基地 ク(観音寺)
▲ク 壕口の補強
  当記事「扉写真」の壕口と並んで畑の右端にあります。

観音寺海軍航空基地 ケ(観音寺)
▲ケ 崩落跡
  分かり難いですが斜面が溝状になっています。

観音寺海軍航空基地 コ(観音寺)
▲コ 壕口の補強
  壕口は埋まっていますが、本体も崩落して溝状になっています。

観音寺海軍航空基地 サ(観音寺)
▲崩落跡
  溝状になっています。


シ 崩落跡
寺の裏の茂みに崩落跡があり、北側(南側?)は造成により滅失しています。
観音寺海軍航空基地 シ(観音寺)
▲シ 崩落跡


ス・セ・ソ・タ 隧道跡
スは物置小屋の裏、セは畑の奥の茂み、ソとタは空地の茂みの中にあります。
ス、セ、タはコンクリート補強がされていますが、スは崩落、セとタはまたもやガチガチに閉鎖されています。
観音寺海軍航空基地 ス(観音寺)
▲ス 壕口の補強
  壕口は埋まっていますが、本体も崩落して溝状になっています。
  大きな民家の西側の道路から回りこんだ民家裏の物置の奥にあります。

観音寺海軍航空基地 セ (2)(観音寺)
▲セ 壕口の補強
  畑の奥の茂みにあり、本体は崩落して溝状になっています。

観音寺海軍航空基地 ソ(観音寺)
▲ソ 崩落跡
  空地の奥の茂みにあり、崩落して溝状になっています。
  痕跡が判然としません。

観音寺海軍航空基地 タ(観音寺)
▲タ 壕口の補強
  空地の奥の茂みにあり、本体は崩落して溝状になっています。

当時はス壕口の西側にもコ型の壕が2ヶ所あった様ですが、住宅地造成により完全に滅失しています。


チ・ツ 隧道跡
神社参道の入口にありコンクリート補強されたチは道路から見えます。
もちろんこれもガチガチに閉鎖されています。
観音寺海軍航空基地 チ(観音寺)
▲チ 壕口の補強
  神社参道の入口にあり、背後の斜面が溝状になっておらず、本体は一部残存している様です。

観音寺海軍航空基地 ツ(観音寺)
▲ツ 崩落跡
  ツは民家の裏にあり崩落しています。


ト・ナ 崩落跡
神社の参道にあり全て崩落しています。
この参道に沿って点々と地下壕の崩落跡がありますが、『引渡目録』には載っていません。
観音寺海軍航空基地 ト(観音寺)
▲ト 崩落跡
  溝状になっています。

観音寺海軍航空基地 ナ(観音寺)
▲ナ 崩落跡
  溝状になっています。
 

ニ・ヌ 無蓋掩体壕
大戦末期の航空基地によく見られる斜面を掘削した無蓋掩体壕が2基ならんでいます。
1次史料では当航空基地に掩体壕は確認できませんが、『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (七)』によると当航空基地の掩体壕は「有蓋小型22、無蓋小型40」とある(予定?)ので、飛行機運搬路(誘導路)が外周を廻っていたこの母神山麓を探せばまだまだ掩体壕があるかも知れません。
観音寺海軍航空基地 ニ 掩体壕? 南から(観音寺)
▲ニ 掩体壕 (右奥)
  祈祷所の様になっておりよく見渡せます。

観音寺海軍航空基地 ヌ 掩体壕? 南西から(観音寺)
▲ヌ 掩体壕 (左奥)
  正面に見えているのが掩体壕左側の土堤


① 第一滑走路(コンクリート舗装)
幅40×長1,500mのコンクリート製滑走路を予定していましたが、停戦時は未完成でした。
戦後、開墾の際に破壊され土留や建物基礎として転用、現在は一部が民家の敷地に遺ります。
観音寺海軍航空基地 滑走路 舗装(観音寺)
民家敷地に遺る滑走路コンクリート舗装
  ※最近知ったので取り敢えずストリートビューのキャプチャで代用しておきます。


② 第二滑走路(花崗土転圧)
当航空基地の滑走路は2本がきっちり並んで設営されていました。
しかも第二滑走路は1,000mから幅が狭くなる歪な形状をしていました。
停戦時は幅80~150×長1,500、花崗土散布転圧の滑走路が完成していました。
戦後、開墾の際に破壊され跡形もありません。


③ 滑走路地区  ⑤ 庁舎地区  ⑥ 兵舎地区  ⑦ 工場地区  ⑧ 病舎地区
戦後の開墾により跡形も無く区割りされ、跡形もありません。


 防空高角砲台
八八式七糎野戰高射砲が5門備砲されていましたが、運動公園建設により、跡形もありません。


展開部隊
觀音寺海軍航空隊
昭和19(1944)年8月15日、出水海軍航空隊國分分遣隊を改編し國分海軍航空基地において國分海軍航空隊が開隊(安田収藏中佐)、第十二聯合航空隊(練習聯合航空總隊・呉鎭守府部隊)に編入されます。
隊は呉鎭守府部隊第十二聯合航空隊に部署、練習航空隊に指定され、陸上練習機の操縦教育を担当、飛行術練習生教程の教育にあたります。
10月15日、司令兼教官・安田大佐(同日進級)は横須賀海軍航空隊教官に転出、第一〇二三海軍航空隊司令兼副長から菅原正雄大佐が司令兼副長として着任します。
昭和20(1945)年2月16日、第十二聯合航空隊司令官・藤吉直四郎少将は練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降の教育訓練の中止と特攻要員100名の選抜、及び4月末までに特攻要員の訓練修了を下令されます。
隊は飛行術練習生から71名を選抜、特攻要員は人吉海軍航空基地に移駐、錬成にあたりますが、3月18日、同航空基地は敵艦載機23機の空襲を受け地上施設が破壊され訓練機能が低下してしまいます。

3月1日、國分海軍航空隊は觀音寺海軍航空基地に移転、觀音寺海軍航空隊に改称、第十二聯合航空隊は新編の第十航空艦隊(前田稔中将、練習聯合航空總隊から改編)麾下に編入されるとともに、呉鎭守府部隊から除かれ第八基地航空部隊(第十航空艦隊司令長官指揮)第十二聯合航空隊に部署され特攻訓練にあたります。
3月17日、天一號作戰要領が発令され第八基地航空部隊指揮官は指揮下の作戦可能全力を鈴鹿山脈以西の戦力は第一機動基地航空部隊指揮官(第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将)の作戦指揮官に編入する様に下令され、第一機動基地航空部隊指揮官は編入部隊と指揮下の戦力の整頓を下令されます。
21日、第八基地航空部隊は第一機動基地航空部隊指揮官の作戦指揮下に入りますが、隊は当面待機訓練を下令されます。
26日、天一號作戰が発動されます。
4月3日、飛練生71名が九三式中間練習機とともに人吉海軍航空基地より移駐、特攻訓練にあたります。
5月5日、第十二聯合航空隊は復帰、第十二航空戰隊に改編され、隊は第一機動基地航空部隊第十二航空戰隊に部署され特攻訓練にあたります。
隊は練習航空隊の指定を解かれ練習機特攻隊に指定され、神風特別攻撃隊「乾龍隊」、「坤龍隊」を編成、決號作戰(本土決戦)に向け戦力温存を図ります。
7月19日、「乾龍隊」は第一國分、「坤龍隊」は大分両海軍航空基地に夫々前進、待命中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
17日、戦闘行動を停止、逐次復員を開始します。


内海海軍航空隊 觀音寺分遣隊
昭和20(1945)年5月10日、呉鎭守府所管の乙航空隊として松山海軍航空基地において開隊(森敏吉少将)、隊は第五航空艦隊に編入され、第一機動基地航空部隊(第五航空艦隊司令長官指揮)内海空部隊に部署されます。
隊は本部を松山海軍航空基地に設置、瀬戸内海西部の海軍航空基地の管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第三一一三海軍設營隊
昭和20(1945)年2月15日、呉鎭守府の所管で呉海軍施設部において編成(奥山忠七技中佐)、呉鎭守府に所属します。
隊は呉鎭守府部隊に部署され、編制整備、派遣準備を開始します。
2月23日、観音寺町の三豊中學校を事務所として資材の運搬を開始、27日、航空基地設営を開始、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第五一一二海軍設営隊
昭和20(1945)年6月15日、呉鎭守府の所管で呉海軍施設部において編成(木村成博技大尉)、呉鎭守府に所属します。
隊は呉鎭守府部隊に部署され、編制整備、派遣準備を開始します。
6月20日頃、觀音寺海軍航空基地に前進、航空基地の設営を急ぐ中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第三一七海軍設営隊
昭和19(1944)年8月15日、呉鎭守府の所管で呉海軍施設部において編成(信岡龍二技大尉)、呉鎭守府に所属します。
隊は呉鎭守府部隊に部署され、編制整備、派遣準備を開始します。
9月16日、高知海軍航空基地に前進、滑走路(1,500×60m)のコンクリート舗装、掩体壕(小型26、大型25基)他署施設の設営にあたります。
昭和20(1945)年1月20日、主力は觀音寺海軍航空基地に移駐、滑走路の舗装、掩体壕、魚雷格納庫の設営に、一部を高知沿岸の特攻基地設営(後に觀音寺に移駐)に派遣し航空基地の設営を急ぐ中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『観音寺市史 通史編』 (昭和60年1月 香川県観音寺市)

『観音寺海軍航空隊「柞田飛行場」』 (平成27年8月 みとよの戦世を伝える会)

『新編丸亀市史3 近代・現代編』 (平成8年2月 丸亀市)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (四)』(平成21年6月 渡辺博史)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (七)』(平成24年1月 渡辺博史)

『内海観音寺分遣隊』 (アジ歴史料)

『自昭和二十年二月二十八日 至昭和二十年三月三十一日 第三一一三設營隊戰時日誌』 (アジ歴史料)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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