当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

岩國陸軍燃料廠

戦国時代、関ヶ原の役において西軍でありながら東軍に内応し、西軍敗北の一端を担った事で知られる吉川広家の領国だった山口県岩国市、及び和木町に岩國陸軍燃料廠がありました。

同廠は陸軍燃料廠第一製造所として設立、後に陸軍燃料第一工廠岩國陸軍燃料廠廣島陸軍燃料廠岩國製造所に改称します。
岩國陸軍燃料廠 A 防弾壁 北東から(岩国) (2)
▲三井化学㈱岩国大竹工場に遺る油槽防弾壁

【探索日時】
平成28年3月14日
※本来であればかなり先の紹介予定でしたが、爾後の遺構紹介の都合上、先に掲載します。





遺構について※青字は地図にリンクしています
岩國陸軍燃料廠
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)、昭和12(1937)年7月7日、支那事變、8月13日、第二次上海事變が相次いで勃発、陸軍の燃料消費が年々増大するのに伴い、陸軍省は従前の民間企業からの燃料調達を改め、政府に働きかけ小規模だった我が国の燃料行政を改善するとともに、陸軍内の燃料管理体制を整備、一元化すべく、昭和14(1939)年7月31日、陸軍燃料廠を新設し、次いで燃料製造所建設を計画します。

昭和14年秋、燃料廠の開設準備と並行し陸軍省整備局は新設製油所の用地選定を開始、東洋商工石油㈱が取得、気候が温暖で地震・台風の頻度が少なく且つ外洋からの敵艦船の艦砲射撃射程外にあり大型油槽船の着桟が可能な山口縣玖珂郡麻里布町(現、和気町、岩国市)の藩政期の開拓地に着目し、陸軍航空本部の委託を受けた第五師團経理部により用地買収を開始、昭和15(1940)年1月、東洋商工石油㈱が取得した400,000坪の2/3の取得を内定、7月、東洋商工石油㈱から用地を買収し、280,000坪を確保、㈱臨海土木工業所(後、りんかい日産建設㈱)により造成、建設が開始されます。

昭和16(1941)年2月15日、陸軍燃料廠第一製造所が民家を間借りし事務を開始、昭和17(1942)年4月、操業を開始、昭和17(1942)年12月、第一製造所の竣工式が挙行され、製油設備が完成します。

昭和19(1944)年3月11日、陸軍燃料廠は陸軍燃料本部、陸軍燃料技術研究所、陸軍燃料第一工廠(第一製造所から改称)の総称に改編、昭和20(1945)年4月27日、陸軍燃料本部が発足、陸軍燃料廠(第一工廠を改編した岩國陸軍燃料廠、第二工廠を改編した四平陸軍燃料廠)、陸軍燃料部が発足し、組織強化が図られます。

5月10日0948、岩國陸軍燃料廠にB-29爆撃機112機が来襲、還送原油が途絶し製油装置の大半が停止していたため火災は殆ど無かったものの、322名が散華、製造設備の3割、貯油槽が破壊され15,900klの原油が焼失してしまいます。

7月1日、岩國陸軍燃料廠は廣島陸軍燃料廠に改称し各部署は分散疎開、岩國製造所は操業可能な製造設備により穀物、馬鈴薯を原料にエチルアルコールを製造するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により廣島陸軍燃料廠岩國製造所は大蔵省に移管、12月1日、広島財務局山口管財支所岩国出張所(後に2度名称変更されますが割愛)の管理下に入り、政府は食糧難対策として旧製造所を肥料工場に転用すべく連合国軍最高司令官総司令部に陳情しますが、昭和21(1946)年5月、旧製造所は賠償物件に指定され計画は頓挫します。

昭和23(1948)年、和木村に中学校用地として、他民間企業数社に旧製造所の土地転用が許可されます。
昭和24(1949)年7月13日、GHQは太平洋側の製油所の復旧を解禁、昭和25(1950)年6月15日、岩國製造所の貯油槽8基と付帯施設が隣接する興亜石油㈱麻里布製油所に一時(昭和28年7月、払下げ)使用が許可され、11月、潤滑油製造装置が同社に、甲十七號(汽罐)が大協石油㈱に移設されます。
昭和26(1951)年5月、旧製造所の賠償指定が解除されます。

昭和30(1950)年4月23日、通産省は岩国を含む四日市、徳山の旧燃料廠跡地の処理方針を決定、8月26日、閣議了解を受け岩國製造所跡地東側10,000坪を石油化学事業所として三井グループ(昭和31年5月25日、三井石油化学工業㈱岩国工場発足)に、西側90,000坪を河山鉱山の磁硫鉄鉱処理所として日本鉱業㈱に分割して払下げられ、昭和31(1956)年8月17日、日本鉱業㈱岩国工場が開設、昭和33(1958)年4月21日、三井石油化学工業㈱岩国工場(後に岩国大竹工場に改称)が操業を開始、昭和38年(1963)8月27日、三井石油化学工業㈱は隣接する日本鉱業㈱岩国工場を買収し工場用地を拡張、平成9(1997)年10月1日、三井石油化学工業㈱は三井化学㈱に改称し現在に至ります。

岩國陸軍燃料廠 岩国陸軍燃料廠(岩国)
▲遺構の配置

A 油槽防弾壁
三井化学㈱岩国大竹工場の敷地北端に遺り、内部の油槽は撤去され工業用水貯水槽として使用されています。
当時はこの辺に同型の油槽及び防弾壁が5基ありましたが、残念ながら完存はこの1基のみです。
直径40×高さ10m程あります。
岩國陸軍燃料廠 A 防弾壁 北東から(岩国)
▲外周道路から見たA油槽防弾壁
横島に遺る油槽防弾壁と若干形状が異なります。

岩國陸軍燃料廠 A 防弾壁 支壁(岩国)
▲防弾壁控壁の拡大


B 重油槽防弾壁
三井化学㈱岩国大竹工場の敷地北端に一部が遺り、厚生棟とテニスコートの隔壁として転用されています。
全体の3/8、上部2/3が破壊されてしまっています。
岩國陸軍燃料廠 B 防弾壁 北から(岩国)
▲見難いですが建物の後ろの黒い部分が防弾壁の一部です。


C 退避壕
有名な遺構で岩國陸軍燃料廠の遺構と言えばこの退避壕が出てきます(逆にこの退避壕しか出てこない)。
三井化学㈱岩国大竹工場の敷地外周にありますが、外周の土堤斜面下、水路の際にありどうやって運用していたのか不思議な場所に設定されています。
岩國陸軍燃料廠 C 退避壕 南西から(岩国)
▲形状は典型的なL字型の入口を持つ退避壕です。

岩國陸軍燃料廠 C 退避壕 北西から(岩国)
▲入り口は2ヶ所にありますが、残念ながら閉鎖されています。

岩國陸軍燃料廠 C 退避壕付近に散乱するコンクリート(岩国)
▲退避壕の斜面上にあるコンクリート支柱の残骸


D 正門門柱の一部
平成6(1994)年3月、岩国陸燃会により一部が移設されました。
3本とも・・・いやせめて1本だけでも完全な姿で移設して欲しかったです。
岩國陸軍燃料廠 D 正門門柱の一部(移築)(岩国)


E 中央研究所
三井化学㈱岩国大竹工場に遺ります。
昭和20(1945)年5月10日の空襲の際も被害を逃れ、昭和31(1956)年5月25日、三井石油化学工業㈱岩国工場の発足に伴い、改装され昭和32(1957)年9月、研究棟として再利用されます。
岩國陸軍燃料廠の現存する数少ない建物の一つですが、残念ながら同工場は撮影禁止のうえ手前に大型建物があり、また周囲に高層建物も無く、現時点で外周からも見る事すら不可能です。
毎年10月初旬に開催される同社秋祭りにおいて行われる工場見学ツアー(バス内からの見学。撮影不可)で見れる???
岩國陸軍燃料廠 E 隙間から見える中央研究所 西から(岩国)
▲建物の隙間から僅かに見える中央研究所(奥の白い建物)

岩國陸軍燃料廠 昭和30年8月(岩国)
▲昭和30(1955)年8月の構内
  左下のL型建物が中央研究所

岩國陸軍燃料廠 研究所(岩国)
▲改修直前の中央研究所


F 側線築堤
昭和19(1944)年5月8日、大竹駅から敷設された側線が完成し運用を開始、大東亜戦争停戦後は跡地を払下げられた三井石油化学工業㈱により運用され、平成12(2000)年に廃止されました。
現在も側線築堤が完存していますが、周辺に境界石標等はありませんでした。
岩國陸軍燃料廠 F 側線土堤(岩国)


G 側線コンクリート橋
側線から岩國陸軍燃料廠構内に入る直前の水路を跨ぐコンクリート橋が遺ります。
岩國陸軍燃料廠 G 側線石橋 北から(岩国)
▲雑草で分かり難いです。


H 側線跨道橋橋台
側線が国道2号線を跨ぐ位置にあった跨道橋は残念ながら撤去され、橋台のみが遺ります。
岩國陸軍燃料廠 H 跨道橋橋台東側 南西から(岩国)
▲道路の左右に橋台が遺ります。

岩國陸軍燃料廠 H 跨道橋橋台西側 東から(岩国)
▲西側の橋台

岩國陸軍燃料廠 H 跨道橋橋台東側 南西から(岩国) (2)
▲東側の橋台


I 側線鉄橋橋台
側線は鉄道省線(現、JR)に沿って小瀬川を渡り大竹駅に向かいます。
小瀬川に掛かっていた鉄橋は撤去されていますが、両岸に橋台が遺ります。
岩國陸軍燃料廠 I 側線鉄橋南側 西から(岩国)
▲南側の橋台

岩國陸軍燃料廠 I 側線鉄橋北側 南から(岩国)
▲北側の橋台


また、上記遺構以外に「陸軍燃料廠第一製造所竣工記念碑」が遺されている(三井化学㈱岩国大竹工場内か?)様です。
岩國陸軍燃料廠 陸軍燃料廠第一製造所竣工記念碑(岩国)
▲『陸軍燃料廠史 岩国編』から転載
  後ろの建物が先述した中央研究所と思われます。


陸軍燃料行政と岩國陸軍燃料廠※太字は岩國陸軍燃料廠関連記述

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、昭和8(1933)年5月31日、塘沽協定により事変は停戦しますが、昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、停戦交渉中も支那国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事挑発行動は激化、8月13日、支那軍が我が陸戦隊に攻撃を開始、第二次上海事變が勃発します。

大陸での戦闘が拡大・長期化し、陸軍の燃料(特に飛行機・自動車用燃料)消費が年々増大するのに伴い、陸軍省は従前の民間企業からの燃料調達を改め、また海軍主導(燃料技術の最先端設備を擁する燃料廠を持っていたため)で進められていた燃料行政に本格的に参画し強力に推進して行きます。
当時、我が国の石油行政は大正14(1925)年7月、商工省管下に燃料調査委員會、昭和8(1933)年、石油國策審議會が設置されていましたが関係局長、担当者の折衝程度で国策としては弱小なうえ、石油輸入の6割を外資系の2社(ライジングサン社、スタンバック社)が占め、残り4割を国内に乱立する30社が担っている状況でした。

昭和9(1934)年3月25日、陸軍は政府に働きかけ製油所の建設を免許制にする『石油業法』、さらに国内の石油精製業者を育成し、外資系企業の依存度を低下させるべく外資系精油所に相当量の石油備蓄を課す 『石油獨占販売法』を施行します。

昭和12(1937)年6月10日、わが国初の燃料行政を管掌する中央部局である燃料局(9日、官制制定)が商工省内に設置され、堀三也陸軍大佐が就任します。
昭和12(1937)3月31日、『アルコール専売法』、 8月10日、『人造石油製造事業法』、『帝國燃料興業株式會社法』の所謂「燃料国策三法」が施行され、同法に基づき昭和13(1938)年1月19日、人造石油産業を推進すべく帝國燃料興業㈱、11月10日、石油輸入を統合すべく日本石油㈱を中心として共同企業㈱、昭和14(1939)年7月5日、航空揮発油・潤滑油を製造すべく東亞燃料工業㈱が設立され、我が国の燃料行政は陸軍主導で急速に整備されていきます。
同時に商工省は米国からの原油輸入依存度を下げるべく、蘭印、中東、中南米の産油国との交渉を開始しますが米国の圧力もあり悉く頓挫してしまいます。

昭和13(1938)年11月3日、近衛文麿首相は『第二次近衛声明』を発表し東亜新秩序を提唱しますが、支那での権益拡張を目論む米国は反発、重慶政府(蒋介石)への支援を公然と開始、昭和14(1939)年7月26日、日米通商航海条約廃棄を通告し反日強行政策を強めて行きます。

昭和14(1939)年1月16日、陸軍省整備局(上月良夫少将)が発足、局内に資源課(石本五雄大佐)が設置され、陸軍の燃料行政が一元化されます。
5月10日、陸軍全体の燃料を扱う実施機関として軍令陸乙第十一號により臨時仮称陸軍燃料廠(長谷川基少将)が陸軍兵器本部(齋藤彌平太中将)隷下に編成され、陸軍省内で事務を開始します。

6月13日、資源課は『陸軍燃料廠諸施設處理要綱』を策定、共同企業㈱(石油系民間企業18社による国策会社)が輸入予定の燃料710,000kl(原油430,000kl、航空揮発油280,000kl)の全量購入を決定するとともに、これらの膨大な燃料を処理しうる製油所と貯蔵所、及び燃料の研究機関の設置を3ヶ年で計画、7月9日、陸相・畑俊六大将により決済されます。

31日、勅令第四百九十三號『陸軍燃料廠令』により、8月1日、東京府多摩郡府中町(現、府中市)に陸軍燃料廠(長谷川基少将)が開庁、廠長は陸軍大臣に隷し、航空燃料に関する事項は陸軍航空本部長の区処下、陸軍に必要な燃料、脂油及び副生品の製造、これらの製品の検査、原料の購買、貯蔵、並びに燃料及び脂油の製造に関する調査、研究を管掌する事が定められ、従前の自動車用燃料・潤滑油は兵器廠、航空揮発油・潤滑油は陸軍航空本部、原油は仮称燃料廠が管掌していた各燃料・油脂を一括管理する体勢が整備されます。

8月、陸海軍共同調査団は日本揮発油㈱の斡旋でUOP社(米)が保持する固定床接触分解法技術(オクタン価92の航空揮発油製造技術)の提供を求め交渉を重ねますが、12月20日、同社は「モラル・エンバーゴ」により、技術情報の提供を拒否します。

昭和14年秋、燃料廠の開設準備と並行し陸軍省整備局は新設製油所の用地選定を開始、東洋商工石油㈱(昭和16年5月20日に興亞石油㈱に改称)が取得、気候が温暖で地震・台風の頻度が少なく且つ外洋からの敵艦船の艦砲射撃射程外にあり大型油槽船の着桟が可能な山口縣玖珂郡麻里布町(現、和気町、岩国市)の藩政期の開拓地に着目し、陸軍航空本部より委託を受けた第五師團経理部は用地買収を開始、昭和15(1940)年1月、東洋商工石油㈱が取得した400,000坪の2/3の取得を内定、7月、東洋商工石油㈱から用地を買収し、280,000坪を確保、㈱臨海土木工業所(後、りんかい日産建設㈱)により造成、続いて施設建設(請負業者は後述)が開始されます。

陸軍燃料廠の発足に伴い燃料の貯蔵所として第一(横浜)、第二(川崎)、第三(尼崎)各貯蔵所が陸軍航空本廠から移管され、新たに横島、大三島両貯蔵所の設定を進めます(これら以外にも各地に貯蔵所があった様ですが、詳細は不明)。

昭和15(1940)年6月15日、米国は『国防強化促進法』、7月25日、『石油輸出許可制措置』、8月1日、『特定石油輸出許可制』を施行し対日石油輸出の一部禁輸を決定します。

昭和16(1941)年1月26日、滿洲國四平街の油化工業㈱内に陸軍燃料廠滿洲出張所(磯邊義正中佐)を開設、2月15日、岩國市装束の畠中邸に仮事務所をおいて陸軍燃料廠第一製造所(西照周二大佐)が事務を開始します。
岩國陸軍燃料廠 昭和17年12月 第一製造所幹部(岩国)
▲第一製造所幹部(昭和17年12月)
  中央が初代製造所長・西照周二大佐

3月、陸軍省は陸軍燃料廠に『南方資源要域占領時ノ燃料取得ニ關スル研究命令』を下令します。
3月頃から建設中の受配電設備、第一期工事(甲十七號(汽罐)・甲四號(常圧蒸留装置)・甲五號(熱分解装置)・甲二號(ガス分離装置)・甲六號(連続洗浄装置)・貯油槽)など製造所設備が逐次完成します。

4月1日、陸軍燃料廠は府中町に移転し、構内に技能者養成所が設立、同日、關東軍司令部は滿洲國の油化工業㈱を買収します。
同日、陸軍燃料廠第一製造所の地鎮祭が挙行され、一般工事(建物、港湾設備、工業・上水道、受電設備)は陸軍航空本部、精製装置は第一製造所の指揮のもと、㈱石井鐵工所、石川島芝浦タービン㈱、㈱新潟鐵工所、日本揮発油㈱、㈱臨海土木工業所、㈱大林組、㈱大阪鐵工所、巽工業㈱、高橋造船鐵工㈱、月島機械㈱、㈱藤永田造船所、㈱神戸製鋼所、(合)小久保製作所、汽車製造㈱、三井造船㈱、三菱化工業㈱、三菱電機㈱、㈱日立造船が施工を担当し製造所の建設を開始します。

7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、南方資源地帯への進出、油田地帯獲得への体制強化を図ります。

8月、製造所の本部、技能者養成所、資材倉庫、工員休憩所が完成します。

昭和16年(1941)8月1日、米国は対日石油輸出を全面禁止、資源の供給を絶たれた我が国は尚も米国との関係改善を模索し外交交渉を継続しますが、11月26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月1日、御前会議において米・英国との開戦を決定、12月8日、大東亜戦争が開戦します。

12月、第一製造所の甲四號(常圧蒸留装置:500kl/日)2基が試運転を実施、昭和17(1942)年4月、実運転を開始します。

昭和17(1942)年1月20日、南方軍總司令部(寺内壽一大将)より第十六軍(今村均中将)に『H作戰』(ジャワ攻略作戦)が下令、2月14日、第一挺進團挺進第二聯隊(甲村武雄少佐)260名が挺進飛行戰隊の機材に乗機、飛行第五十九・六十四戰隊の護衛を受けクルアン、カハン両飛行場を出撃、15日、パレンバンを攻略、コロニアル石油製油所(8割破壊)、バターフセ石油製油所(ほぼ無傷)を攻略、3月30日、軍令陸甲第二十五號により南方軍隷下に南方燃料廠(山田清一少将、昭南島(シンガポール))が開設します。
7月14日、御室山丸がパレンバンに到着、原油10,000klを積載し、8月5日、第一製造所に入港します。

12月、第一製造所の竣工式が挙行され、製油設備が完成します。

昭和18(1943)年7月27日、第一製造所長・西照大佐は予備役に編入、磯部義正大佐が着任します。
昭和18年度は第一製造所発足以来最大の航空機用揮発油:210kl(日産)、重油:195klを生産しました。

昭和19(1944)年1月、第一製造所に隣接する興亞石油㈱麻里布製油所が操業を開始します。
同年、第一製造所は隣接の興亞石油㈱麻里布製油所第四區(7,250坪)を借受け石蝋分解装置を建設します。


3月10日、陸達第十七號『陸軍燃料廠本部分掌規定』が改定され、陸軍燃料廠は陸軍燃料本部(小川團吉少将、総務・製造・技術・会計各部・技能者養成所、各出張所)、陸軍燃料技術研究所(飯島正義大佐)、陸軍燃料第一工廠(柳成利少将、陸軍燃料廠第一製造所から改称)に改編、8月9日、滿洲出張所が陸軍燃料第二工廠に昇格します。

昭和19年1月8日、『緊急學徒勤勞動員方策要項』が、3月7日、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』が閣議決定され、中等学校3年生以上の軍需工場などへの通年動員が開始されます。
4月上旬、安下庄中學校、岩國高等女學校、岩國女子青年學校、中洋國民學校高等科、秋田鉱業専門學校の學校報國隊が入所、生産に加わります。

5月8日、大竹駅から陸軍燃料第一工廠までの側線が完成、運用を開始、8月、大島海洋訓練所内に海員養成所(齋藤達技師)を創設、応徴士の海員養成を開始します。


10月20日、東京、大阪両陸軍航空補給廠が発足(10月10日、勅令第五百八十三號による)、航空に関する燃料の購買、貯蔵、保存及び補給を管掌する事になり、航空揮発油を貯蔵していた各貯蔵所は両陸軍航空補給廠に移管され出張所に改称します(これら以外に東京は8ヶ所、大阪は16ヶ所の航空燃料貯蔵出張所が管下にありましたが、新設か燃料廠からの移管か不明)。

昭和20(1945)年4月27日、勅令第二百四十三號『陸軍燃料本部令』が公布され、陸軍燃料本部(秋山徳三郎中将)が発足、管下に燃料の製造・原料貯蔵を管掌する陸軍燃料廠(第一工廠を改編した岩國陸軍燃料廠、第二工廠を改編した四平陸軍燃料廠、成品の貯蔵を管掌する陸軍燃料部(28ヶ所の出張所)が発足し、組織強化が図られますが戦局は益々逼迫、制海権の喪失から原油の還送量は減少の一途を辿り、2月の音羽山丸※を最後に原油還送は途絶、岩國陸軍燃料廠の生産量は日産5klまで低下、四平陸軍燃料廠は漸く製造設備が完成したところでした。

岩國陸軍燃料廠はアルコール原料、松根油収集のため管下に大三島出張所が移管(昭和18年11月に開設された大三島貯蔵所を改称)され、境、坂出、防府各出張所が開設されます。
※陸軍燃料廠関連の複数の資料に“昭和20年2月の音羽山丸の入港を最後に云々”と記載されていますが、陸軍応徴士船「音羽山丸」(三井物産㈱船籍)は昭和19年12月22日に撃沈されており、日時の間違いが船舶の間違いか不明です。

5月、岩國陸軍燃料廠管下に濱田、萩両出張所が開設されます。
5月1日、四平陸軍燃料廠は關東軍隷下に隷属転移します。

10日0948、岩國陸軍燃料廠に米第20航空軍第73航空団のB-29爆撃機112機が来襲、250kg爆弾549tが投弾され4割が構内に命中、還送原油が途絶し製油装置の大半が停止していたため火災は殆ど無かったものの、322名(直属254、陸航本3、協力業者65名)が散華、製造設備の3割(隣接の興亜石油㈱麻里布製油所は33名が爆死、製造装置の6.5割が破損し被害甚大)、貯油槽が破壊され15,900klの原油が焼失してしまいます。
岩國陸軍燃料廠 空襲にさらされる岩國陸軍燃料廠(岩国)
▲空襲に晒される岩國陸軍燃料廠

岩國陸軍燃料廠 空襲にさらされる岩國陸軍燃料廠 (2)(岩国)
▲爆炎に包まれる岩國陸軍燃料廠

15日、岩國陸軍燃料廠本部は室の木に移転、作業部は構内で施設の疎開、アルコール工場の復旧、ドラム缶製造工場の整備、松根油の処理、側線の警備にあたり、操業可能な製造設備により穀物、馬鈴薯を原料にエチルアルコール製造を続行します。

7月1日、岩國陸軍燃料廠は廣島陸軍燃料廠に改称、西部軍管區司令部(横山勇中将)に隷属転移、総務部(柳少将)、會計部(石西節夫中佐)は五日市駅前の広島製薬㈱内、輸送部(中山光忠中佐)は関戸に移転(岩國製造所(明石正水大佐)、建設部(押上昌喬大佐)は麻里布に残置)します。

8月14日1115、B-29爆撃機108機が岩国市に来襲、岩國製造所醫務科(荘子少佐)は軽傷者は室の木の地下医務室、重傷者は横山診療所(徴古館)に収容し治療を行います。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、廣島陸軍燃料廠の各部署は残務整理を開始、残存資材、揮発油等を公共団体、民間会社・工場に支給、9月1日、岩國製造所は残務記録整備班(明石大佐)を編成、製造所内の目録を作成するとともに、整備作業隊を編成し構内の警備にあたり、11月30日、米国戦略爆撃調査団に資料・装置の目録を引渡し残務整理を終え復員完結します。



主要参考文献
『陸軍燃料廠』 (平成15年5月 石井正紀 光人社)

『陸軍燃料廠史 岩国編』 (昭和54年6月 岩燃史編纂委員会)

『興亜石油四十年史』 (昭和48年6月 興亜石油株式会社)

『興亜石油60年史』 (平成8年12月 興亜石油株式会社)

『横島貯油基地の編年史』 (内海町文化財協会デジタルアーカイブ)

『駐留軍と県行政』 (広島県立文章館 所蔵文章の紹介)

アジ歴各種史料



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